2020年11月29日日曜日

随想 朝河貫一のこと

東電福島原発の大事故(2011.3.11) は起こるべくして起きた人災であった、と国会事故調査委員会の報告書は断定した。報告書の冒頭に置かれた「はじめに」に黒川清委員長は次のように書いた。

100 年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。

この報告書が公表されたとき、どれだけの人が朝河貫一の名を知っていただろうか。100年前の書物を読んだ人はもっと少ないだろう。かくいう私にしても、前回話題にした松本重治氏がエール大学入学当時に、大学内に居住していた朝河講師に親しく接してもらったこと、また、阿部善雄『最後の「日本人」』が発刊されてようやく日本人に知られるようになったとの話でその名を知ったのだった。

朝河貫一は日露戦争当時は31歳、すでにエール大学Ph.Dを取得している歴史学者で、ダートマス大学の講師を勤めていた。日露対立に至った事情と日本の立場を説明するべく、『日露衝突』(英文・1904)を英米において刊行し、更に数十回にわたる講演を行うなどして日本を弁護した。そこには満州では清国の主権を認め、列国の東洋での機会均等を目指すとの二大原則をもって条約締結にのぞむとあった。この姿勢が非キリスト教国の日本に必ずしも好意的でなかったアメリカを主とする列国の好感をよんだのであった。ところが戦後になると日本外交の姿勢は反転して大陸侵攻一辺倒になったのはいかにも世界正義に反することで、とくに清国に関心の強いアメリカといずれ敵対する結果をもたらしかねないと日本人に警告したのが『日本の禍機』(1909 実業之日本社)なのであった。結果は日中戦争、太平洋戦争につながり、日本の破滅に終わった。

朝河は日本人が自国を客観視する習性を身につける必要を説いている。原発事故調も、原子力安全委員会が「規制の虜」になっていて、人の安全を護るべきところが施設の安全を守ることを図るように働いていたと観測する。日本は変わることができるか、と問う黒川委員長は日本の通例として、一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造を挙げ、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」が「変われなかった」要因とする。これらのことが海外の人の目には奇妙に映ることを日本人は気が付かない。人間一生のうちには生きる上での考え方も変わりうるのに、なぜ出発点と同じ過ごし方でいられるのか不思議だと外国の人は思う。日本人も役所や会社の紐付きでなく個人として海外で暮らしてみれば、この不思議に気がつく。朝河も独り外国にあってこういう日本のシステムに気がついていた。『日本の禍機』の終わりに「日本人の愛国心」の章をもうけて、「余は欧米人と日本人とを多年比較観察したる結果、小児も成人も反省力において我が彼に秀ずること少なからざるを証し得たりと信ず。今や日本国民が要するところは、これを人民の性格のみならず、また国民的性格として極力増進せんことにあり」と述べて国の上下を挙げて教育の改革を実現せよ、と説いたのであった。

黒川氏はアメリカの大学のはじめ2年間は理系文系の関係なく、リベラル・アーツのクラスであり、プラトン、アリストテレス、マッキャベリ、マルクスなどをテキストにして前もって読んできたことを議論するマイケル・サンデル方式だと紹介する。阿部も朝河のクラスは事前に読んできたことを議論する形式で行っていたと書く。教育が上から下への方向に教えるのでなく、互いに話し合うことでなされるから正解は一つではないだろうし、まず疑ってかかることを覚える。朝河が東京大学ではなく、東京専門学校に進んだのは、賊藩の出身のためだったかと考えるが、かえってそのためにキリスト教に、そして自由思想に近づくことができたと考える。

二本松藩士だった父正澄は極貧の中で幼児から漢学を教え、息子もよくこたえて小学校・中学すべて首席を通す秀才であった。早くから語学に関心が強く、中学卒業に際し卒業生答辞を英語で演説して、その文章で英人教師ハリファックスを感動させたという。家庭の事情では到底望めない大学進学には自力で進む決心をして東京専門学校に進む。縁あって本郷教会の牧師、横井時雄を知り、文章力が評価されて『六合雑誌』に寄稿するようになった。やがて受洗してキリスト教徒になるが、このあたりから運が開けた。専門学校二年のとき、横井が友人のダートマス大学の学長タッカーに朝河の優秀さを話してその留学希望を伝えた結果、学費・滞在費の面倒を引き受けてくれた。さらにタッカーの手引きにより、ダートマス大学のあと、エール大学の大学院の給費生となって朝河の学問の道が決まる。

ダートマス大学の頃から日欧の社会と制度の比較を自分の使命だと自覚していた彼が、大学院の学位論文の課題に選んだのは大化改新の研究であった。この論文『六四五年の改革の研究』(A Study in the Reform of 645 A.D.) が完成したのは1902(明治35)年6月16日、貫一28歳、Ph.D (哲学博士)の学位授与が決定した。翌1903年5月、この論文は日本で英文346頁の単行本として出版された。アメリカの歴史科学の洗礼を受けて生まれた大化改新の研究は、ただちにアメリカの学会から高い評価を受け、彼は最も優れた東洋解釈者として迎えられた。朝河の論文は、当時の日本の学会の水準をはるかに越えたものであり、わが国の古代史に対する彼の自由で科学的な考察は、日本の一部の学者たちのひそかな羨望の的とさえなったと阿部は書く。

朝河が日本に帰ったのは二度だけである。その二度目の帰朝は東京大学史料編纂所への留学であった。このとき『薩藩旧記雑録』所収の『入来院文書』が日欧封建制比較研究の最適な素材であることを見抜いて、1919(大正8)年5月に鹿児島の入来村まで実見に赴いて原本調査し、自分で筆写したり滞在日数の制約から系図等の写し作成を依頼したりして米国に戻った。

『入来文書』("The Documents of Iriki")(1929(昭和4))は、日英両文(合冊)の形でエール大学とオックスフォード大学各出版会から一斉に刊行された。世界的に有名になった封建時代の記録研究である。古文書の原文を格調高い中世英語を用いて英訳しただけでなく、訳注のすべてが英語で記述されている。朝河が『入来文書』の本文のなかに繰りひろげた論証のもとに述べた結論の大意は、次のようなものであった(阿部154-5頁)

フランスで九世紀より十一世紀までの内乱の時代に発生した領主と民衆のあいだの相互的な封的契約は、イギリスに輸入され大憲章として花咲き、人民の合意による自由獲得の足場に発展していった。これに反して、日本では中国の伝統を引く官僚統治の遺制が、相互的な封的契約の成長を妨げ、さらに豊臣秀吉以後の専制政治がその機会を圧殺するにいたった。ヨーロッパにあっては、自由と正義と義務の観念がやがて近代社会を支配するようになるが、日本で近代を開いたのは、ほかでもなく、武士の忠義心と百姓の平均的な富裕さであった。

つぎに阿部が引用するわが国ヨーロッパ中世史専攻の堀米庸三氏の評価を引き写しておこう。

朝河氏は完全にヨーロッパ的な学問の方法を身につけた少数の日本人であったばかりでなく、完全にヨーロッパの中世専門家の言葉をもって思考し叙述し、しかも日本の封建制度関係の文書を日本の専門家と同様に理解し、かつこれを英訳できたまったく稀有の人物だった。氏の英文は簡潔澄明で、しかも緻密犀利な論理をそなえている。(中略)『入来文書』のコメント(訳註)は、アメリカのアンダー・グラデュエートの学生の能力をはるかにこえるものであり、それはまたわが国の日本史研究家の理解をこえたものであるばかりでなく、そのコメントを自由に使いうる人は、わが国西洋中世史家のあいだにも、けっして多くはないと思われる。(中略)朝河が十分に日本で理解されてこなかった責任の過半は、むしろ自分たち西洋中世史家が負うべきものであろう。(堀米庸三『歴史の意味』)

朝河は自由主義政体こそは、人類が到達した最高度のものであるとともに、最も困難な政体でもあると考えていた。そしてなぜ困難な政体であるかといえば、それはこの政体の地盤となっている個人個人の責任感が、すこぶる緩みやすいからであると説明し、民主政体は根本的に常に道義的であることが正しく、個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、公民的であるかを自省する必要があると強調する。さらに「自由憲法ヲ造レバ。ソレニテ能事ガ畢ルニアラズ。自由ハ毎日個人ノ責任犠牲ヲ以テノミ買イ得ベキ最高価ノ貨物也」といい、なお、こうした自由政体を妨げるもろもろの困難に打ち克つところにこそ、最も進歩した政治と文化が存在するのだと力説したのであった。この見識は、もはや朝河においては不抜のものであり、彼はこの考えに立って、世界各国の情勢と推移を判断し、ときには一国・一民族の運命をさえ予断したのである(阿部194頁、出所不明であるが、おそらくエール大学の図書館所収の書簡集他から得たものと推測する)。

こうして彼は1939年10月に友人への手紙でヒトラーの自殺を予言し得たのであった。ヒトラー自殺敢行の実に6年前である。その論考を阿部が提供してくれている(阿部188-192頁)が、長くなるのでここでは省略する。1940年9月日独伊三国同盟が調印された。なんと馬鹿げたことであったことか。

1905年、朝河貫一はアメリカ女性を伴侶としたが、わずか8年で死別、子はない。晩年はニューヘヴンのエール大学の大学院塔に宿舎をもっていたが、毎夏訪れる山のホテルで疾患のあった心臓の麻痺で急死した。生前に決められていたニューヘヴン市内の大学墓地に葬られた。彼は終生日本国籍であった。命日の1948年8月11日、伝えられるところでは、AP電もUPI電も、「現代日本がもった最も高名な世界的学者朝河貫一博士が」と打電しながらその死去を世界に伝えた。また日本占領のアメリカ軍の新聞『スターズ&ストライプ』は長い弔意記事を掲載し、横須賀基地では半旗をかかげた。これに反し、日本の新聞界は、右の訃報電文を新聞の片隅に三、四行をさいて載せたものの、その名前を「浅川」と誤っていた。

数々の文化財、建築・施設が空爆から護られたこと、占領行政で間接統治を選択させたこと、民主的に天皇制度が続いていることなど、米国内にあって米国政府に説明参画した貢献は忘れられてはならない。

(参考)

朝河貫一『日本の禍機』1987年 講談社学術文庫

阿部善雄『最後の「日本人」――朝河貫一の生涯』(岩波書店 1983、現在は岩波現代文庫)。

国会事故調査委員会報告書は次のサイトで読める。https://www.mhmjapan.com/content/files/00001736/naiic_honpen2_0.pdf

山内晴子、博士論文『朝河貫一論:その学問形成と実践』(2007)。単行本もあるが、早稲田大学リポジトリから博士論文、山内晴子を検索してダウンロードできる。

2018年には朝河貫一没後70年記念シンポジウムが国際文化会館主催で行われた。このときの記録が公開され、以下に示すサイトからダウンロードできる。

https://www.i-house.or.jp/pdf/symposium20181020/kouenroku_PDF.pdf

黒川氏はここにも出席されていて、ペンシルバニア・ロー・スクールでの関連スピーチに触れているが、それは次のサイトからダウンロードして読むことができる(英文)。ここには日本人以外には理解し難い「文化的背景」も語られている。https://scholarship.law.upenn.edu/alr/vol13/iss2/2/

(2020/11)














 

2020年11月6日金曜日

読後感想 『昭和史への一証言』松本重治

 買い置きの本の中に『昭和史への一証言』毎日新聞社昭和61年刊、というのがある。著者は松本重治となっているが、國弘正雄氏による聞き書きである。


『週刊エコノミスト』1985年4月2日号から12月10日号までの35回連載をまとめてある。松本氏には有名な『上海時代』という著書があるが、入手できなくて代わりに買い込んだのがこの本、末尾のページ隅に鉛筆で ’87-3-4と小さく書き付けてある。それを見るまではまったく初めて読むような気持ちで読んでいた。毎度のことながら記憶は頼りにならないものである。この本の中身は文章ではなく口頭による「はなし」であるから読みやすく、わかり易く、そして話題が広くて興味深い。

重治氏は祖父松本重太郎を終生敬愛している。丹後の間人(たいざ)村出身、十代で奉公に出て、若くして独立、関西財界で重きをなすに至った人物。南海電鉄の前身の阪堺鉄道は私鉄の創始であった。紡績業界の不況により百三十銀行が破綻したために身代限りで引退した。財界を応援するため、大阪朝日新聞に対抗する大阪毎日新聞に肩入れしたことで終生相談役であったのが、この対談につながっている。『週刊エコノミスト』は毎日新聞の雑誌である。本著の編集は同誌の記者河合達雄が担当し、末尾に一文を寄せている。

通信社『同盟』の上海支局長であった松本重治は蒋介石・汪兆銘・毛沢東の間の内戦と日中戦争の競合によって難渋する中国の国民を救うために日中の和平工作を画策する。何度も挫折を繰り返した挙げ句、ようやく蒋介石の気持ちを和平交渉に向けるまでいくが、日本軍部は和平案に「撤退」を盛り込むことを拒否し、交渉の前準備の停戦をすることにさえ応じなかったがために相手に信用されなかった。大本営の内部からも和平協力者が出ているのにこのざまなのだ。世によく言われる関東軍の横暴というのは、我が事だけにかまけて周囲の事情を判断する知能に欠けていたためであった。また、撤兵を説く人を暗殺しようとする右翼の隠然たる存在も無視できない。

日本敗戦の戦後になって占領軍GHQは松本を公職から追放した。本人は一切弁明をしなかったが、高木八尺教授など内実をよく知る周囲はGHQの判断は誤りとして追放解除を運動した。そのことを編集者の河合は特筆している。高木がマッカーサーに直接事情を説いた4ヶ月後に追放解除されたと書く。

中国国内の一致を図って国共合作で抗日戦を優先しようとして、国共戦優先を唱える蒋介石を張学良が西安で監禁した西安事件は松本の世界的スクープとしていまに有名であるが、この当時の全体状況はいかにもわかりにくい。南京政府の主席となった汪兆銘は日本の傀儡とされるのが定説になったが、それほど単純な話でないことが本書の談話でよく理解できる。どんどん逃げて奥地へ日本軍を誘いこむ冷徹な蒋介石の作戦に引きずられた結果の南京事件も、入城式で「お前たちは何ということをしてくれたのだ、皇軍の恥だ」と松井石根司令官が叱責しても、後の祭りでどうしようもなく日本軍の汚名が世界中に轟いた。当時の現地を知る松本の実見では、いわゆる虐殺の被害者数は3万人ほどだそうだ。

松本は戦前米欧に留学しているが、帰国後1929年に京都で開かれた太平洋問題調査会(IPR)の太平洋会議に参加したことが、松本の民間国際交流の原体験であると河合は書いている。国際会議での交流の表裏を間近に体験して驚いたのは後々に役に立った。余談だが、このIPRは後にマッカーシズムの嵐に遭い、エジプトで自死したカナダの外交官、A・H・ノーマンも深く関係していたのを思い出した。

戦後の松本の国内における最大の功績は国際文化会館の設立とその運営であり、その結果の及ぶところはおそらく世界的に裨益したことだろう。政界官界など多方面からの誘いには乗らず一民間人として徹底した生き方はその功績とともに見上げるべきものだと思う。

国際文化会館ができた翌年1956年に歴史家のアーノルド・トインビーを招聘した。前の年に松本がロンドンに行って直接招待した。このときトインビーは、大著『ア・スタディ・オブ・ヒストリー』の改訂版を考えているとの話があったそうだ。この著書は日本では『歴史の研究』とされたが、原題には不定冠詞の「A」がついているから『歴史の一研究』が本当だ、非常に控えめなタイトルでいて、内容は非常に豊富、つまり著者の謙虚さがここによく出ているので松本は日本式の書名を残念がっている。なおこの招聘した時の講演集は松本監訳で『歴史の教訓』(岩波書店 1957)であるが、いまでは古書になった。

現在は国際ジャーナリストとの肩書がもっぱらの松本は、大学を出るまで進路を特には定めていなかったというが、弁護士、新聞記者、大学講師などの自由職業を漠然と考えていたらしい。それがエール大学に行ってチャールズ・ビーアド教授に出会い、多くの人に紹介され、各所で講演したり雑誌に寄稿する経験をしたことでジャーナリズムへの興味が深まったという。そういうことを可能にしたのが英語力だろうが、そのことを、一高の畔柳芥舟先生に「英語を本当に習った」と表現している。畔柳先生は英語を叩き込むという流儀で、リーダーにディ・クインシーの『オピアム・イーター』を使って、一学期に3ページぐらいしか進まない授業をした。出てくる言葉の意味はどんな小さな言葉でも、全部知らなくてはいけないから予習には大きな辞書を使わなくてはならず図書館ではウエブスターの取り合いだったという。文脈が変わると言葉の意味も変わるということを徹底的に仕込まれた。このような授業方式ではクラス編成は小人数にならざるを得ないからクラスは二つに分けられた。学期末に1、2番と、びりっけの名前が発表され、二つのクラスの一番がそれぞれ松本氏と憲法学の宮沢俊義氏だったそうだ。『阿片吸引者の告白』は、調べてみると初出が 『ロンドン・マガジン』 (1821)だからなんとも古めかしい。さて、初めてアメリカに行って、最初に英語を使って、あぁ通じたなと思ったのは、グランド・キャニオンに着いた朝、ホテルの食堂でウエートレスに「ハム・アンド・エッグス・プリーズ」というと、「オーライ」と静かに応えてくれた。わかってくれたと本当に嬉しかったと書いてある。それからまもなくニューヨークで多くの人と交歓し、講演までして原稿を書き、読者と交流したなどと聞けば、舌はそれほど滑らかではなかったかもしれないが、立派なものだと感銘する。英語でも自分の考えを表現できるようになって書いた最初の原稿が『ザ・ネーション』に載ると、いろいろな人から熱心な手紙が来た。そのとき、ジャーナリストになりたい気持ちが胸にこびりついたそうだ。その同じ1925年3月25日号にビーアド教授の論文が載っていた。その要旨は、日米戦争が起こるなら、それは中国市場の取り合いからである。戦争の原因になるのは、結局中国の問題である、というものだった。その時以来日米関係は日中関係であると考えるようになった。それと前後して滅多にこない父親からの手紙が来て、それには中国人留学生と友人になるように努めよとあった。当時中国人留学生は義和団事件への清国の賠償金(団匪賠償金)でおおぜい送られてきていてエール大学だけで7、80人もいた、そのうち十数人と友人になったという。なかでも教授の気配りで東洋人同士だからと世話をしてくれた何廉(ホーリェン=1897-1975、財政学者)とは50年以上の交友が続いた。留学当時は、1915年に日本政府が出した「対華二十一か条要求」への中国人の反感が強く1919年には5・4運動が起きていた。松本が、アメリカ人より中国人と話すほうがボキャブラリーやスラングが少なくて聞きやすかったので、生地のままの自分を率直にぶつけていくと、中国人留学生はふだん日本留学生とは付き合わないのに自分には例外的に付き合ってくれたそうだ。リベラリズムが生地であったわけだろう。本書では、松本の主著『上海時代』の内容ははずすようにしたと國弘は説明しているから、中国問題はそちらに多く記述されているはずだ。筆者は未読である。

話題は豊富で、國弘氏がふる話題にこたえての談話は妙味が尽きない。一説には、上海時代の松本について、『同盟』が国策会社であるため経費の多くを国に負うていた、そのためキレイ事ばかりではないと伝える書物もあると聞くが、私はこの本が気にいっている。もちろん、『上海時代』も、開米潤著『松本重治伝』(2009年)も参照しなくてはと考えている。(2020/11)


2020年10月15日木曜日

感想 古くても面白い「ブラウン神父もの」

G・K・チェスタトン(1874-1936)の短編推理小説、ブラウン神父ものは広くわが国でも親しまれている。ビクトリア朝(1837-1901)の名残の色濃い時代だから当然作品もその風物を映している。ブラウン神父シリーズの原書は短篇集である。戦前の日本では一編ごとの訳文を雑誌に掲載して紹介するのが常であり、そののち、いくつかまとめて傑作集を編んだりした。原書に合わせた短篇集で発刊されたのは戦後のハヤカワ・ミステリ(1955)からであるらしい。

最近の筆者はたまに気晴らし的にブラウン神父に会いに行くが、ここではシリーズの第一集の "The Innocence of Father Brown" (1911) について感想を書いてみよう。

ここに邦題を使わずに原題を出したのにはわけがある。この原題を日本ではどのように訳しているか、これがちょっと面白いのだ。堀田善衛さんが邦訳の題に『ブラウン神父の無知』としたのがあるのは、ひどすぎるじゃないかとどこかに書いていたが、いずれも表題にうまい訳語を見つけられなくて "Innocence" を持て余している様子なのである。後述の青空文庫の作業中のものだけを見ても、童心、無知、純智、無垢なる事件簿、無心などとある。この表題のもとに12篇の物語が集められている。いずれも何らかの事件が起きて最後に神父が謎解きをするという運びであるが、たしかに無知な人では解決がおぼつかないこと間違いなし。さて、それでは神父の頭脳に何がひらめいたのか、それを日本語で表わせと言われても、じつは当方にもうまい表現が思いつかない。私が考えるに、無心がいちばん英語の心を言い得ているかと思うが、それはおそらく先入主を持たない状態のことであろう。日本語の無心には金を無心するような場合にも使うから、ここでは必ずしも適切と言えない。では先入主を持たない状態をなんというか、その語が思いつかない。純真とか天真爛漫でいいのかもしれない。

筆者はこの有名なブラウン神父ものという作品を最近まで全く読んだことがなかった。一度は手にとってみようとお金のかからない方法、つまりインターネットで読もうと考えた。となれば、日本では青空文庫、海外ではGutenberg projectである。どちらもすぐ見つかった。第一短編集の "The innocence of Father Brown" が1911年、それにおさめられた第一作、 "The Blue Cross"は1910年である。

Wikipediaには、"The Blue Cross"が最初1910年7月23日に  "Valentin Follows a Curious Trail" の題で the Saturday Evening Post, Philadelphiaで発表され、同年9月に現行の表題に改題されてロンドンの雑誌 "The Story-Teller"に掲載されたと記されている。このことはあまり知られていないのでないか。しかし、いまのところはどうでもよいことだ。

電子図書館の青空文庫には、チェスタトン作品の公開中が6点、作業中の作品27点があげられている。青空文庫は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した作品と、著作権者が「インターネットを通じて読んでもらってかまわない」と判断したもの、の二種類がおさめられている。ほとんどが古い時代の作品になってしまうが、たまに片岡義男など現在活躍中の著者の作品もある。

青空文庫では『The Innnocence of ~』に編纂されたそれぞれの物語はばらばらに採録されてるので、"Innocence" の訳語はない。ブラウン神父がデビューするのは『青玉の十字架』(原題:The Blue Cross)、訳者は直木三十五。底本は「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社 1930(昭和5)年3月10日発行とある。

さて、現在ではもっぱら『青い十字架』の表題が使われる第一作は『青玉の十字架』だ。「青玉」にサファイアとルビがついている。青空文庫では、現代表記に改めるという作業指針があるから、見慣れない漢字やその読み方などは出てこない。あわせて原文を読めば、日本語の語彙用法の新旧も確認できる。たとえば、直木版では神父でなく師父であり、一般語としては僧侶が使われたりしているのはご愛嬌だ。原作にはブラウン氏が Roman Cathoric priestとして登場するから、キリスト教の会派については明確である。作者のチェスタトンは結婚後に国教会からカトリックに改宗しているが、初期のブラウン神父執筆の頃はまだ改宗前のカトリック心情派ということになる。

このイラストは「青い十字架」に登場する3人の
特徴をうまく描いているので、ネットから拝借した

物語はパリ警察の腕利き刑事ヴァランタンが大泥棒のフランボウを追いかけてベルギーからオランダ経由でイギリスに渡って、ロンドンまで来る間に起きた奇妙な出来事と間抜けな田舎司祭にしか見えない風采のブラウン神父の活躍が語られる。

筆者はついに機会がなくて行けなかったが、ベルギーからイギリスというコースは憧れの一つであるので、欧州航路の船が早朝にHarwichに着く冒頭の描写から引き込まれてしまった。直木訳には、「三ヶ国(仏、白、英)の官憲」との表記があるが、このうち「白」がベルギーの旧式な漢字表記「白耳義」によることを知る読者はいまでは少ないだろうが、高齢の読者には郷愁に似た思いを誘う。名にし負う大泥棒のフランボウが当て込んだのではと作者が推量する聖晩餐大会(Eucharistic Congress)、 いまは聖体大会と訳されていて、4年毎に行われる国際的なカトリック教会の催しだ。初出が1910年の『青い十字架』に記されているのは、1908年9月5-11日のロンドン大会を擬しいるのであろう。ウエストミンスター寺院で盛大に行われた。ちなみに今年2020年は該当する年であったが、コロナ対策のため2021年9月ブダペストで催されることに変更された。

Harwichはハリッジと読むようだ。旅人にとっては港町というよりフェリーの発着港であり連絡鉄道の駅の所在地だが、英国民にとっては2つの大戦に栄えある海軍基地であり、造船の街であり、北海漁業の中心地でもある。

このように物語に登場するあれこれ、作品の背景時代の風物や人々の暮らしの痕跡をインターネットで探る楽しみ、これは物語以上に筆者が惹かれるところであるので、このことに随分時間を使った、ということはそれを楽しんだのであるが、なお資料を探しあぐねている部分も多い。原著の英語にboatとあってもいまのフェリーとは大違いであり、世紀の替わり目にはまだ外輪船が就航していたりする。ハリッジの停車場にしても街の歴史を読めば鉄道馬車の馭者が馬の調教に苦労した話をしていたりするから、蒸気機関車になったのはつい先ごろというほど近い昔なのだ。ヴァランタンがほぼ一日を費やしてたどり着くロンドンまでの距離が135キロで、現在の自動車専用道路A12なら1時間半あまりの行程であることなどがすぐに知れるとか雑学趣味にはきりがない。しかし、こんなに便利であったなら、途中の停車駅から田舎司祭風の神父が列車に乗ってくることもないわけだし、神父が宝物の十字架を茶色の紙に包んで大事に抱えているという物語の鍵もあり得なかったことになる。すべては第一次戦争以前のゆったりした時代の物語である。

ブラウン神父物はミステリーの傑作だと大御所江戸川乱歩なども称賛したそうだが、本作は果たしてこれがミステリー小説なのだろうかという疑問めいた気持ちも湧いてくる。全作品を読んだこともなくては発言する資格はないけれども、すくなくとも『青い十字架』で発生するのは、フランボウが狙いをつけた宝物を奪いそこなう結末に至る過程での小さな事件、それも殺伐な殺人や傷害事件ではない。カフェで砂糖と塩の容れ物の中身が入れ替わっていたり、果物屋でオレンジとクリの名札が付け違っていたり、レストランでガラスに大穴があけられたりしたのは、すべて黒い服の神父の二人連れが立ち寄った場所で起きたことだった。これらを辿ったヴァランタンがついにハムステッド・ヒースの林で二人に追いついて大団円をむかえる。つづめて言えばこれだけのこと、どこにミステリアスな出来事があるだろうか。追っかけっこだけ見ていれば、古き良き時代、弁士が語る活動大写真みたいだ、という感想にもなる。それでも読んでいれば楽しくなるものだ。上に記した旅程や土地の事情や歴史などとあわせて筆者は楽しんだ。

ここまで書いてみて、いろいろ思い返しては反省した。もとの英文にはなかなか凝った言い回しが多い。古いイギリス流かもしれないし、作者の知能の産物だからだ。英語そのものに親しんでいれば、味わい深いものなのだろうが、筆者ごときいい加減な読み方では言葉に含まれた味まではわからないと自覚している。直木氏の訳文は日本語には違いないが、すんなりとこちらの肚におちないところがある。はっきりいえば明確でない。たぶん原文の意図とずれているだろう箇所もかなりありそうだ。書き手がチェスタトンであることを考えれば、筋書きがわかればよいというのでは淋しいことだし失礼でもあろう。

思い直して、外出しないでも手に入るキンドル版で翻訳を読むことにした。『ブラウン神父の童心』中村保男訳、創元推理文庫(2017)。びっくりした。初版は1982年だから直木版より50年も新しい。訳者は2008年に亡くなっているから2017年の新版といっても中身は同じと考えられる。まったく別の物語を読むような感じがする。原作の皮肉っぽい言い回しの箇所はそれなりの日本語になっている。これならただの追いかけっこ物語ではない。何も知らなそうな神父が悪事の手口を悪者よりも熟知している話を書いたら面白いかも、との作者の発想が活かされた作品にちがいない。ヴァランタンに、犯人は創造的な芸術家だが刑事は批評家に過ぎない、と自虐的に嘆かせておいての、この書きぶりである。死体も殺人もでてこない推理小説でこれだけ楽しく読ませるとは、それこそ面白い。本編はブラウン神父、刑事ヴァランタン、大泥棒フランボウの三人を紹介する物語という位置づけなのだろう。この神父は53篇もの作品に登場するらしい。このうちいくつ読めるだろうか、楽しみでもあるし心許ないことでもある。

日本ではチェスタトンの作品は、ブラウン神父シリーズから紹介され始めたようだが、この作者には詩もあれば評論もあり哲学もあるというふうに、何をする人という枠がはめられない人物であるらしい。安楽椅子探偵という言葉があるけれども、写真でみるチェスタトンは安楽椅子にはおさまるまいと思えるほどの巨漢である。

G.K.Chesterton

じつは筆者の買いおきの書物の中に『正統とは何か(Orthodoxy)』という、これは思想書に分類されるのだろうが、一冊がある。原著は1908年、奇しくもブラウン神父が最初の事件に遭遇した年だ。邦訳は1995年の刊行だが、訳者は安西徹雄氏だから安心できても、序文を書いたのが、あの自死騒ぎの西部邁氏なので何やら怖気づいたままうっちゃってある。難しそうで手が出ない。ブラウン神父の生みの親はこんな文章をも書いた人なんだと、付箋みたいに付け加えてこの文を終わることにする。そうして後でゆっくり物語のあちらこちらに散りばめられた人間についての哲学を読み返すことにしよう。(2020/10) 

2020年10月1日木曜日

妄言 アイドルと仏像

朝刊下部の広告欄に「NHKテキスト アイドルと巡る 仏像の世界」というのがあった。なかなかうまいタイトルだと思った。仏像も英語のアイドルのうちに入るだろうと考えたからだ。

Eテレの番組「趣味どき!」のひとつ、「アイドルと巡る 仏像の世界」は大学教授を講師に、案内役が元アイドルの女性、ゲストが現役アイドル女性の三人が組んであちこちの仏像を見て回る番組だ。初回は奈良の新薬師寺。番組紹介のNHKサイトには、「十二神将がぐるりと薬師如来を取り囲むさまはまるで、アイドルのフォーメーション」とある。日頃アイドルのステージに縁のない私はちょっと考えて、ステージの舞台構成をさしているのだと気がついた。例えばアイドルが出演するときに背景でダンサーたちを踊らせる演出の位置取りなどのことだろう。初回のゲスト・アイドルは小林歌穂20歳、存じ上げないから調べたら、私立恵比寿中学のメンバーと出てきた。なんだい、この、中学のメンバーってのは?20歳だろ?私がバアサンなら知ってたかもしれないけれど、あいにくジイサンでアイドルの歌や踊りは見ていない。わかったことは、中学というのがアイドルグループの名前だそうで、略称「エビ中」、中学生は一人もいなくて、2009年からやってると。はは~んてなところで、ちょっと時代に追いついた。

NHKプラスの動画で30分を楽しませてもらった。後半に興福寺の宝物館をおとずれて阿修羅像を見る。仏像界のスーパー・アイドルと紹介される。両側に居並ぶ八部衆はインド神話の像が仏教にとりいれられたと説明される。仏教に神が一緒にいるのは日本独特なのか、神社がお寺を守っているのは日本のあちらこちらで見かけられる。何しろ八百万の神がいるのだから、いろいろあっても当たり前だ。神宮寺という姓もあるが、これは寺と神社の関係が逆に感じられる。それはどうでもよろしい。

興福寺の仏頭の前で小林は、「圧がすごい」「顔だけなのにこんなに圧が来るものなんだ」と驚く。「圧が…」という言葉遣いは今の若者のものなのだろうか、私には珍しかった。「~に圧倒される」という言い回しを分析すれば、モノ・ヒトなどから何かを受けて気持ちなどに強く感じる現象を言うのだろうが、その原因はモノ・ヒトから発せられる何かにある。つまりこれが圧なのだ。ふ~む、なかなか科学的、論理的な言葉遣いではあるな。むかしの人は、圧倒されっぱなしで、その原因まで考えなかった、つまり情緒的だったってことかな。分析力がついた日本人は進歩しているぞ。

それにしても仏像巡りに若い女性を組み合わせるとは。たぶん刀剣女子や歴史女子のように仏像女子の存在があるのかも。近頃のNHKは視聴者の標的を広げて若者に迎合しようとしているかに見える。本質がおっさんだからなかなかうまく行かないみたいだね。何をやっても軽やかさがない。

さて、英語のアイドル、"idol" は、たとえば大島かおり訳『モモ』では神々の像と訳されている。そうなんだ、英語の"idol" には「神としてあがめられる像」という意味のほかに、"someone or something admired or loved too much"との意味もある(ロングマン、現代英英辞典 1988)。だから日本語にいう、歌ったり踊ったりしている女の子を指すアイドルは英語そのままの意味に使われているわけだ。

この日本語のアイドルは、かなり以前からあり、たとえば1970年代にもたくさんいた。天地真理、河合奈保子、渡辺真知子、太田裕美…。でも荒井由実はアイドルとは呼ばれなかったな。この時代は流行歌ではなくニューミュージックといったかな。そのあとJポップがあって、いまどうなってるかは知らない。

アイドルと言っても若い女性とは限らない。毒蝮三太夫はすでに84歳だそうであるが、お年寄りのアイドルと呼ばれている。毒蝮がお年寄りだからなのではなくて、この人の贔屓筋がお年寄りなのである。だからアイドルには年齢性別などの区別はないのだ。ふと考えるのだが、犬や猫のペットはどうしてアイドルにはならないのかな。

ところでステージで跳んだりはねたり(ここも漢字を使うと「跳」になって変だねぇ)しながら歌うアイドル・グループ、ときに握手会などやっていた。コロナの時代には厳禁だろうな。どんな野郎が来るかもわからないのに、握手してあげよう、というのは勇気があるなぁ。興行としてこんなことで稼げるのは日本ぐらいではないのかな。いや隣の国でもありそうだな。欧米にはないだろう。タレントという商売やアイドルとして売る歌手、こういうのは芸に厳しい文化圏にはない。そうですよ、これは文化の問題です。いやまてまて、政治家の水準と同じで選ぶ方の問題です。ならば文化とは言わずに民度と言おうか。日本の寄席ではつまらない噺だと、寝そべったお客は起きてくれなかった。何でもかんでも笑う客が増えて噺家の芸が粗末になった。

どうも話が嘆き節になって来たからこのあたりでやめよう。というわけで、耳が壊れてから遠ざかっていた社会の最近の一端を知ることができた。

(2020/10)


 

2020年9月20日日曜日

随想 戦争判断と昭和天皇

 天皇が戦争を続けるか、やめるかを決める基準は何であったか。国民の死亡や被害の規模ではなく、皇統が絶えるか続くかにあった。先の大戦でサイパンが軍民ともに全滅し、沖縄も全島が戦場になって人間の居場所がなくなっても止めるとは言わなかった。米軍が伊勢湾に上陸したらとの仮定に思いを致したとき、伊勢神宮と熱田神宮の神器が失われる怖れを感じて戦の負けを悟っておののいた。

天皇が憲法に定められたように輔弼によって上奏された案件をそのまま認める形式的な手順を破って反対することはできないことではなかったはず。昭和天皇は頑なに憲法にとらわれた、これを遵守したというのであるが、嫌ならいやと意思をむき出しにして独裁者として振る舞えないこともなかったろう。憲法上は天皇主権だったのである。

1940(昭和16)年9月6日の御前会議、米国に対して外交交渉を続けて和平の道を探る案と開戦準備に取り掛かる案のいずれをとるかが主題であったが、永野・杉山両統帥部長の「帝国国策遂行要領案」について、天皇の意を汲む形で、枢密院議長原嘉道が戦争が主で外交が従であるかのようだが、と質問したのに対して両統帥部長は答えなかった。天皇は発言しないのが御前会議の決まったパターンだったと田原は書く。なおも天皇は説明を求めていたようだったが、両統帥部長は黙っていた。すると天皇は、それまでの慣例を破って、「両統帥部長が何ら答えないのは甚だ遺憾である」と発言し、明治天皇が日露戦争開戦を決めた御前会議で詠んだ歌、「四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」を詠み上げた。次いで「朕は常にこの御製を拝誦して大帝の平和愛好の精神を紹述せんと努めているのだ」と述べて日米開戦に反対の意思を示した。その結果、両統帥部長が詫びて、会議はあらためて允裁を仰ぐべしと決まった。会議の後、天皇は木戸を呼び、統帥部に外交工作に協力させよと求めた。

会議に同席していた近衛首相や木戸内大臣が、天皇の意志がわかっていながら、なぜ開戦に反対しなかったのか。

その理由について木戸内大臣は、天皇は憲法上は主権者であっても、「最高権力者」ではなく、御前会議とは統帥部が決めた筋書きを天皇の前で形式的に論議してみせる儀式に過ぎなかった。天皇は反対意思を表示できないのだと説明している。儀式に過ぎなかった御前会議の決定を天皇が覆した唯一の例外は「終戦の聖断」であった。木戸によれば、この聖断も天皇は「誤った」つまり「やり過ぎ」だったと後に捉えていたという。筆者はここに引っかかる。

この御前会議の時期にあっては、ワシントン在の日本大使あての電報はすべて米国に解読されていたが、米国はそしらぬフリで交渉破綻の時を待っていた。日本の開戦路線は変わらないままに、近衛に代わって東条が大命を受けて首相になる。その前に御前会議の結論を覆して平和路線に戻れるのは皇室関係者のほかなしとして東久邇宮を首相にする案が東条陸相から出されたが昭和天皇は拒否した。

木戸と天皇の言葉を辿ると、国の命運が懸かっているいわば非常(のとき)には皇族が直接責任を負う地位には就くべきでない、つまり国家の命運よりも「万世一系の皇室」を傷つけない方が大事だと考えていた。木戸や天皇は、日本が負ける場合のことを想定していて、敗戦の責任を負わされて皇室が崩壊することを何よりも恐れたということになる。

天皇の意思を絶対と受け止めて遂行できる人物は東条が最適だとして木戸が推したことになっているが、実は天皇の意志でなかったろうかと田原は疑う。東条を信頼することでは天皇以上の人はいなかったと後々判明する。

最終的に11月5日の御前会議で開戦路線は変わらず、12月8日の開戦をみることになる。この間、9月の会議の結論に反対した「聖慮」を活かす努力をしたが、対米交渉や陸海軍の意向、さらに国内世情の動静から東条はやむなく天皇に開戦を報告する。このとき天皇の面前で東条は大泣きに泣いたそうだ。天皇は報告に反対しなかった。

日米開戦に至った道筋は、戦後75年のあいだに検討された巷間多数の論考と田原の論述はほぼ同様であるが、田原は開戦に至るまでの時期における世論を要因として重要視している。戦時態勢下にあって日々困難を強いられる物資欠乏など生活の窮屈さをつうじて米英敵視と、皇紀2600年を寿ぐ皇室尊重は幕末の尊皇攘夷をも思わせるような世論の盛り上がりがあった。米英撃滅のスローガンも勇ましく日々の新聞も事態の切迫を報じていたことについては当時のメディアもおおいに責任がある。

1990年末、世上を賑わせた『昭和天皇独白録』は東京裁判で天皇を訴追させなくする目的があったが、そのなかでも開戦を決定した御前会議の運営に、天皇は敗戦を見越した場合、皇室が国民の怨嗟の的になると国体が危うくなることを考慮したとある。この国民の怨嗟の的という場合の国民、平たい言い方をすれば普段あまり物事を考えない一般庶民が暴動を起こし内乱状態になるということを空想し仮想し恐れるのは近衛公爵の言葉にも記録されているが、貴族や上層階層の通念でもあったようだ。上下の秩序を重視した戦前の教育勅語の主旨もここにあった。陸軍を抑えているはずの東條でさえ、開戦を抑えてしまえば主戦派の中堅将校連が反乱を起こし国内は手のつけられない内戦状態になると予想していた。

あとがきに田原はいう。「そして何より、あの戦争が始まった原因は軍部の暴走ではなく、世論迎合だった。なぜ、戦後われら日本人は戦争責任を曖昧にしてきたのか。この間、いろいろいわれてきたが、この作業をやってきて、わたしは、はっきりそれを理解した。」なるほど、国民のみんなに責任があるから、だれもが言い出せずに、万事進駐軍に任せておしまいにした。

筆者はこの最終場面の御前会議にいたるまでの間に密かに検討された日米間の物量比較に基づく戦争能力研究を復習した。かつての猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』 を思い出し、今回は「2020年新版」を中公文庫のキンドル版で読んだ。まことにあの戦争のバカバカしさが肚にしみる。

『日本の戦争』は『SAPIO』1998年7月22日号~2000年10月25日号連載が初出であるが、内容は今も新しい。明治維新の富国強兵から八紘一宇の大東亜戦争までを7章に分けて、それぞれに疑問を立て、おおよそ150年間の日本を簡略にまとめながら語ってくれている。近頃のテレビ出演での語り口はやや言語不明瞭のきらいがあるものの、文字の上では健在である。知らないことがたくさんある、ものごとは疑ってかかれ、ジャーナリストだという。田原氏は筆者と1歳違い、学年で1年の違い、物の見方考え方がよく似ている。同類の感じがして、ふだんはこの人の著作は読まないが、たまたま本棚の奥に眠っていた一冊、最近は文庫版になっている。読んだのは、2001年第4刷、小学館出版である。(2020/9)




2020年8月29日土曜日

随想 昭和天皇の戦争責任

「先の大戦」とは天皇の発言にいつも出てくる表現であるが、その大戦に天皇はどのように関わっていたのか。数え切れないほどの出版物があるが、これでわかったというふうにはなかなかならないのが素人の悲しさである。新憲法誕生のいきさつを書いた本を読みながら、占領下にあって世界の国々から戦争犯罪を問われる立場の天皇が、アメリカ人による画策によって東京裁判に出廷させられることが免れたことを改めて認識した。けれども何かスッキリしない、というのは庶民感覚で考えても、あれだけの惨禍を経験させられたことについてなにか責任があるはずであり、国外にあって皇軍の名のもとにずいぶんひどいことをしてきた軍隊の最高位の存在であったことにも責任があるはずという気持ちがどうしても抜けないからである。戦争中の天皇は神とされていて、神は責任を取らないとされていたと聞くけれども、それは勝手に作り上げた絵空事であって、昭和46年の正月には「人間宣言」の詔勅が出されているからにはそうは行くまいと思う。帝国憲法第一条に神聖ニシテ侵スベカラズとして君主無答責根拠があるにしても、憲法は国内のことであり国際的には有責を問われるだろう。
ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(2002年)を拾い読みしている。原著の表題は "HIROHITO and The Making of Modern Japan "(2000年)である。ちなみに、昭和天皇という呼び方は死後の諡(おくりな)である。名は裕仁(ひろひと)、天皇家には姓はない。日本人はいつの世の天皇を呼ぶにも名で呼ぶことをしない。翻訳書の表題はそのことを考慮したのであろう。
日本の軍隊は皇軍と呼ばれたように天皇の軍であるから天皇の命令によって動く。先の大戦では大本営があったから、陸軍の作戦は大本営陸軍部が立案して参謀総長が上奏する。天皇はそれを裁可して参謀総長に命令する。参謀総長はそれを下部に伝達する、という順序があった。天皇が裁可した命令は「大陸命」として連番がつく。参謀総長からの指示は「大陸指」である。「大陸指」の現物を見れば「大陸命」〇〇号に基づき左のごとく指示す、などとある。ウエブサイトでは毒ガスに関する朝日新聞の記事で「大陸指」の例が読める。
天皇が裁可するとは裁量して承認することで、署名をして御璽を押す。御璽は天皇のハンコである。
第10章(下巻)に昭和天皇が戦争にどの程度関与したか具体的に述べている。
第一次戦後に日本も調印した国際的な協定では催涙ガスを含め毒ガスの使用が禁止されていた。日本陸軍の考えでは、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくて問題はないと考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。「天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは。1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京―通州地区の掃討について、『適時催涙筒を使用することを得』と書かれていた命令である」(p.13)。つづいていくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可し、以後次第に規模が大きくなって、翌年春・夏には中国・モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。
日中戦争の全期間を通じて毒ガスは、天皇、大本営、統帥部が周到に、そして、有効に管理した。前線部隊はもちろんのこと、方面軍司令部ですら毒ガスを使用する権限を持っていなかった。毒ガスは指揮命令系統に基づいて使用許可が求められ、通常、まず最初に天皇の裁可があり、その後、参謀総長の指示を「大陸指」形式で発令、大本営陸軍部から現地軍に送られた。このように説明したあと著者は毒ガスが用いられたおびただしい時と数量、場所を例示している。1941年7月の南部仏印進駐に際して杉山元参謀総長は毒ガス使用禁止を明示した命令を出した。またアメリカが化学兵器を保有している懸念から、第二次世界大戦終結まで日本は化学兵器を使用しなくなったと述べられている。
この箇所の記述でわかることは、国際的に認められない毒ガスの使用について、天皇を含む国ぐるみで隠蔽しようとした意図がわかる。軍事技術の面で劣った敵に対しては使い、フランスや英米相手には使わない、つまりバレないように使うという実に卑怯な魂胆である。似たようなことは捕虜の扱いにも言える。
化学兵器とは別に細菌兵器がある。本書には次のような記述がある。
1940年、昭和天皇は中国で最初の細菌兵器の実験的使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇と細菌兵器を直接結びつけるものはない。しかし、天皇は、科学者の側面を持ち几帳面で、よくわからないことには質問し、事前に吟味することなく御璽を押すことは拒絶する性格であった。したがって、みずからが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀長が発令した大本営指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そしてこのような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に、天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦・化学戦に依存したことは、第二次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つことになった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・科学研究の発見と技術に基づいていた。ついで、それはベトナム戦争で、アメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった(p.16)。
言うまでもなくこれは枯葉剤を思い起こさせる文章である。

「昭和天皇は中国を「近代」国家とは見なさず、中国侵略が悪いとは夢にも思わなかった。そのため、中国に宣戦布告をすることを控え、中国人捕虜の取り扱いに際して国際法の適用を除外する決定を認めた。すなわち、1937年8月5日、陸軍大臣により出された指令をみずから承認した。その指令は、現在は支那を相手とする全面戦争をしていないのであるから、陸戦にかかわる法規慣例に関する条約や交戦法規に関する諸条約を適用することは適当でない、としている。その結果、毎年1万人以上の中国兵が捕虜になっていたが、戦争終結後、日本当局は数千人の欧米人捕虜が捕虜収容所にいると主張したけれども、中国人捕虜はわずかに56人の存在を認めたに過ぎない。読者は否応無しにその数値の差に注目させられる。
また、上に触れた大臣による通牒では、現地参謀に、「俘虜」という言葉の使用を控えるように指導した、と著者は書いている。ここは読者として推量を強いられる。「俘虜」が存在する場合に「俘虜」という言葉の使用を控えるにはどうするか。一部に放免した例も伝えられているが、現場では「いないことにせよ」という意味に受け取ったのでないか。なお、用語として「俘虜」と「捕虜」の使い分けがこの箇所に見られるが、原文ではどちらもprisoner(s) of warである。少し調べてみたが、西周による「万国公法」の訳語は「俘虜」であったようで、この漢語を掘り下げると「捕虜」という語と明確に使い分けられていた事実がある。「俘虜」には人間として扱う心が込められているに対して「捕虜」には首をはねるとか容赦のない仕打ちが向けられた有様がわかる。第一次大戦の青島戦で捕虜になったドイツ兵を収容したのは板東俘虜収容所であった。満州事変以後は一般に「捕虜」が使われるようになったと理解してよいようだ。英語を漢語を介して日本語に翻訳し、その日本語の使われ方が時とともに変化した事例である。と書いて思い出した。大岡昇平氏は『俘虜記』や他の作品でも俘虜と書いている。氏独自の人間哲学によるものと考える。
ビックスによれば昭和天皇は国際法を立 作太郎(筆者注:たち さくたろう、東京帝国大学教授、国際法学者、1874年(明治7年) - 1943年(昭和18年))に学び、捕虜取り扱いに関するジュネーブ条約に日本が調印(ただし、批准せず)したことも知っていた。明治・大正の両天皇が煥発した宣戦布告の詔書が国際法遵守に触れていることも知っていた。しかし、大量虐殺や中国人捕虜虐待を防ぐよう軍に命令を出すことはしなかった。1930年代の日本ではこういう不作為は官僚、知識人、右翼の間に広く認められた傾向であり、国際法自体を全く西洋の産物とみなし、西洋人が自己の都合のいいように普及させたものに過ぎないと考えていた。日本軍の残虐行為の背景には、国際法適用を拒む陸軍の存在があり、国際法が実効性を持たなかったことには天皇にも責任があった(p.12-13)。
このほか著者は直接関与の文書は存在せずとも天皇の責任ありとして、重慶その他への戦略爆撃(1938年)をあげる。様々な種類の対人爆撃だったということが著者の注意をひいたように読める。無差別爆撃のモデルでもあったことは広く知られてきたが、英国によるドレスデン爆撃、そして東京大空襲がある。中国の日本軍占領地区の都市漢口でもアメリカ空軍が実験的に焼夷弾による無差別爆撃をして住民2万人が死亡している。これによりルメイ将軍は東京爆撃に自信を得たとされる。
昭和天皇は中国における「無人区化」作戦も承認したと著者はいう。南京大虐殺よりも遥かに規模の大きいものだそうであるが、後に中国共産党は「三光政策」、日本軍は「三光作戦」と呼んだ。「光」はすべてを意味し、「焼き尽くす」「殺し尽くす」「奪い尽くす」の意味だとある。1938年末に天皇はこういう作戦に承認を与えている。この作戦は「敵および土民を仮想する敵」と「敵性ありと認むる住民中15歳以上60歳までの男子」殺戮を目標とするようになったと述べる。この三光作戦による中国軍被害について日本には何の統計もないそうだが、歴史学者姫田光義による概算では「247万人以上」の中国の非戦闘員がこの作戦の過程で殺されたとしている。「綿密に計画された三光作戦は、陸軍の化学戦・細菌戦や「南京大虐殺」とは比較にならないほど破壊的で、長期におよぶものであったことがいつの日か判明するだろう。しかし、アメリカでは日本の戦時行為のなかで南京事件に道義的な非難が集中し、ドイツによるヨーロッパでのユダヤ人大量殺戮と――目的とか、脈略、あるいは究極の目標とかかわりなく――軽率にも比較さえされている」と評している。(p.19-20) 。
ほんの20ページ足らずを読んだだけで、これだけの考える材料が出ている。すっかり忘れていたけれども、かつての家永三郎『戦争責任』はほぼ同じ文脈で論じているが、30年近く時間を経過したビックス本が扱う史料は格段に増えている。今後読みつづける体力があるかどうか自信がないが、読みながら湧いてきた妄想は中国という国の存在である。山東出兵や満州国のころから日本が手玉に取られてきたのは、底なしの沼のような国だった。抜けられないままに日本は世界の敗戦国となり、中国は相変わらず隣国で戦勝国として存在する。
戦争責任は別にして、昭和天皇という人は臣民や国民をどう思っていたのだろうとときに不思議な気持ちになる。惨憺たる敗戦に終わった戦後、国民大衆にどのように迎えられるか不安なままに試みたお伊勢参りの列車行幸では、案に相違して沿線大衆から大歓迎を受けてマッカーサーも天皇もほっとした。その前に東京大空襲の焼け跡を見に来て、こんなにやられたのか、とつぶやいたと伝えられるが、天皇の姿を見かけた民衆は土下座をして、こんなに焼いてしまって申し訳ないと涙を流して詫びていた。我が身を神と唱え、片や神と崇めたことには、どっちもどっちだと言ってしまってはそのように仕向けられた国民が気の毒だ。
最後の最後に沖縄が戦場になったころ、伊勢湾にアメリカ軍が来れば伊勢も熱田も危ない。神器を早く手元に移さなくては国体が護れないと焦った。神器と国民とどちらが大事なのか。神器がなくては天皇が天皇でなくなるということらしい。国体護持が叫ばれたが、国体とは天皇制のことだと今頃になってわかった。共産主義のソ連に対抗するため、沖縄をアメリカ軍の基地に提供するとマッカーサーに申し出た。あんなふうに惨めに犠牲にされた住民をどう思っていたのだろうと訝しむ。天皇は沖縄の住民はもともと日本人ではないと考えていたのかもしれない。マッカーサーはそのように理解していた。歴史的にはそのとおりではあるが。
こう考えると、敗戦後、全国を経巡った列車行幸と「あ、そう」と言って民衆に近づいた昭和天皇の大御心には、心底から国民をおもう気持ちがあったようには思えなくなる。洛中の死臭が漂う御所にあっても歌詠みに興じた七百余年前から変わらぬ伝統であろうか。
参照した本:H・ビックス『昭和天皇 (下)』2005年 講談社学術文庫 (2020/8)

2020年8月18日火曜日

読書随想 憲法改正・近衛公爵・ノーマン

ハーバート・ノーマンが占領期日本でGHQに勤務していたことに関連して古関彰一氏の『日本国憲法の誕生』(2017年)を読んでみる気になった。同名の2009年上梓の旧著を大幅に改定した増補版である。新資料が多く参照されていても、まだ未公開のものが多数あるという。著者が末尾に詳細な年表をつけてくれている。<1945年6月18日沖縄軍牛島満司令官の陸軍参謀本部に「決別電報」打電>から、<1947年5月3日日本国憲法施行>までが記されている。これが本書の内容の範囲でもある。多くの事柄が入り組んでいる内容をいちどきには掴みきれない一般読者にとっては大変にありがたい労作である。注になっている引用または参照資料も膨大である。読者としては用語や制度などの忘れたことやもともと知らなかったこともわんさと出現する。現代の百科事典インターネットは誠にありがたい存在である。本文450頁におよぶ本書を読み通すのは相当な力仕事である。著者の筆の運びは精確を期していても堅苦しくはなく、ときにさりげないユーモアを漂わせたりもする。銷夏読み物には少し重いが、よくできたノンフィクションとして読めばよい。
余談ながら、国立国会図書館のウエブサイト「憲法の誕生」は参考になる。私は用語解説をはじめ、古関氏が使用した資料原本などを参照した。本稿で触れるマッカーサー・近衛会談の内容もある。https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

さて本書には、憲法改正を最初に口に出したのはマッカーサーだった、と書いてある(p.11)。1945年10月4日、GHQへ二度目の訪問をした近衛公爵に、日本の憲法は改正しなければならないと述べたのである。近衛は、帰路の車中で通訳の奥村勝蔵に「今日はえらいことを言われたね」と言ったという。木戸内大臣と相談して近衛が内大臣府の御用掛となって憲法改正作業をすることになった。それまでの近衛の立場は東久邇宮内閣の副総理格の無任所大臣だ。この内閣は翌5日には、マッカーサーのいわゆる「人権指令」が発令されたことをうけて瓦解する。マッカーサーが近衛に会う直前にこの指令を決裁していたとは近衛は知る由もなかったが、この指令によって釈放される徳田球一などのマルキシストが軍閥とともに戦争責任があると、近衛が長々と話すのをマッカーサーはどのように聞いたのだろうか。
10月9日幣原新内閣成立、新首相は11日にマッカーサーを訪問し、婦人解放、労組奨励などの5大改革の指示を受けるが、そこに憲法問題は含まれていなかった。13日の新聞には、5大改革をあげる前に「元帥の見解」として「ポツダム宣言を履行するに当たり……社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。日本憲法の自由主義化の問題も当然この中に含まれてくるであろう」との判断のあったことが紹介されていた。その日のトップ記事は天皇が近衛を内大臣府御用掛に任命した記事だった。国民はこの報道によってはじめて近衛が改憲作業に入ることを知ったのであり、憲法改正は天皇が近衛に命じ、5大改革はマッカーサーが幣原に命じたと読み取れる紙面になっていた。後の憲法調査会で高木八尺は、マッカーサーが幣原との会談で要求すると予想される事項から憲法改正だけは別扱いにすることを事前に要請し、憲法改正が自主的に日本の側で、というふうに考慮された形を整えることに努めたのだと語っている。著者古関は、このことでGHQが日本側での自主的な憲法改正に極めて協力的であったことも知ることができる、と述べている。
幣原はマッカーサーとの会談の直後の13日に松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を決めた。これは幣原・マッカーサー会談直前に、木戸からの電話で、近衛に改憲作業をやってもらう趣旨が伝わったので、双方で会談したが折り合いがつかず、競合する事態になったと著者は見ている。松本の見解は憲法改正を「やるのは内閣を除いてあるべき道理はない」ということだった。このあと国民に見えないところで両者の作業が続くが、上記の新聞報道のあとは朝日、毎日などが学者の見解を伝えるようになる。世論の大勢は内閣による改正が正当とする意見が強かったらしい。一方、海外では、特に米国内では近衛が憲法改正にあたることに強い批判があらわれた。10月26日、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙はフランク・ケリー記者の東京電でこの事実を伝えたあと、社説で、アメリカが極東で犯した馬鹿げた失敗の中で最も甚だしいのは近衛公爵を日本の新憲法の起草者として選んだことである、としてマッカーサーの責任をきびしく追求した。
時間は戻るが、マッカーサーの憲法発言に同席していた国務省から出向のアチソン政治顧問も、やはり「えらいことになった」と国務省の憲法についての指示を仰ぐべく打電した。この回答は10月17日に来る。23日には覚書となってマッカーサーに伝えられた。その骨子を近衛を補佐していた高木が25日に聞き出している。憲法改正にあたっての基本構想は、国民主権の確立とその限りにおいての天皇制の改革であった。とにかく最大の心配事であった天皇制護持の見通しがついた。
ところが、11月1日夜GHQは「近衛公は連合軍当局によって、憲法改正の目的のために専任されたのではない」との声明を発した。この声明は3日付で新聞に報ぜられた。「近衛公は首相の代理としての資格において日本政府は憲法を改正することを要求されるであろう旨通達されたのである」と述べ、もはや内閣が変わった以上近衛はその任にないとし、「幣原新首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」と述べた(pp.25-6)。驚いて高木八尺が新聞発表の翌4日アチソンの下のエマーソンを訪問したところ、彼らの態度が豹変していたという。会見は数分で決裂した。
GHQの近衛に対する方針は、百八十度転換していた。すでにアチソンはノーマンに近衛の戦争犯罪に関する調査を命じていた。ノーマンはその報告書を高木らがエマーソンに会った翌5日にアチソンに提出している。ノーマンの報告書のさわりを著者は引いている。
近衛の公式記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。しかし、それ以上に彼が公務にでしゃばりよく仕込まれた政治専門家の一団を使って策略をめぐらし、もっと権力を得ようとたくらみ、中枢の要職に入り込み、総司令官に対し自分が現状勢において不可欠の人間であるようにほのめかすことで逃げ道を求めようとしているのは我慢がならない。 
一つたしかなことは、かれが何らかの重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはすべて残骸と化す(p.27)。
近衛の運命は大きく暗転し始めていた。
ノーマンの提出した覚書によって近衛が適任者でないと判断したGHQ上層部は改定作業は別組織によってされるべきと決定した。9日には戦略爆撃調査団から喚問され、東京湾上に浮かぶアンコン号上で尋問を受ける。中国侵略、日米開戦前夜の政策決定責任について、かなり厳しい尋問がなされているが、近衛はその責をすべて軍部と東条英機に転嫁することに終止した。しかし、12月6日近衛は戦犯に指定され、収監される当日の16日朝、服毒自殺しているのが発見された。

日本国憲法が新しくなる舞台の序幕は近衛の退場で次の段階、日本人による草案作成とGHQの介入の場面に移るが本稿はこのへんで終わることにする。ノーマンは新憲法誕生に関しては、民間における人権思想の存在と憲法改正の動きが扱われる章に、戦前に逼塞させられた旧知の研究者鈴木安蔵を探し出すことから、憲法研究会の設立までしばらくの間登場している。
ところで10月9日の幣原内閣成立以降もGHQは近衛側と会って示唆を与えてきたのに、11月1日になって近衛を袖にするのは変ではないかと、誰しもが疑うのは自然なことである。GHQは近衛に改憲を示唆したことに対する内外の批判があまりに厳しいので、政策を急いで変更したと解釈するしかない、として著者も当時を探っている。マッカーサーが憲法改正を説いたのは、通訳の誤訳だったという説が占領終了後になって流布したことがあるそうだ。出所は『東京旋風』(1954年)で、著者はGHQ憲法草案作成メンバーであったワイルズという人。著者がこの線をたぐってわかったことは、マッカーサーあるいはGHQの失態をアチソンが隠蔽したということである。ノーマンから近衛戦犯の報告書を受け取った11月5日に、アチソンはすぐさまトルーマン大統領に書き送って、あの「えらいことになった」日の会談で、近衛の通訳が「行政の改革」の正確な日本語を思いつかないまま「憲法の改正」と元帥の言葉を訳してしまったのだと弁解した。通訳が自分でそのように話しているということまで装って。
近衛に憲法改正をやらせるという判断の誤りを知ったアチソンの保身術である。奥村通訳には気の毒なことだったと同情する。 このアチソンの弁解術をよく考えてみれば日本人を差別視するアメリカ人の通弊だと私は思う。戦前から原爆投下まで日米戦は人種差別戦争だったと思う。奥村氏はマッカーサーと会談した天皇の通訳も務めている人物であるから、それなりの能力を備えた官僚であったはずだが、アチソンにこういうふうに扱われていたことは知らないで終わったかもしれない。
マッカーサーも憲法改正を示唆する相手を間違えていたことを知った。同時にアメリカでの反響の大きさにも驚いた。本国政府に直結しているアチソンほか国務省関係者を憲法問題を扱うチームからはずすようになった。11月7日、アチソンは手紙で国務長官あてにその動きを報告している。

GHQには終始マッカーサーの側近としてフェラーズ准将という人がいた。フィリピン以来の側近の情報将校、本職は心理作戦である。アナポリスに学ぶ前に大学で日本人学生から教わったラフカディオ・ハーンに傾倒したのが日本通になる始まりだった。天皇を戦犯指名から外して占領行政を成功させる重要な存在であった。この人物について次の論文が大いに参考になる。
http://netizen.html.xdomain.jp/Fellers.html
加藤 哲郎(一橋大学、政治学)「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『講座 小泉八雲 1 ハーンの人と周辺』(新曜社、2009年8月)所収、pp.597-607.)

憲法改正については基本的に「ポツダム宣言」をどのように理解したか、日本人の受け止め方が問われて、結果としてGHQに教わりながら草案を作ることになった。それがいわゆる押しつけ論の根拠になったが、天皇を上に戴く観念が抜けきれないまま、戦争裁判もくぐり抜けて戦後に移っていった日本社会の問題である。その中で生きている国民にとってはどうしようもないかのような問題であるが憲法といい、天皇の存在といい、なんとも厄介なことではある。本書はそのような全体にはふれないけれども、問題点を指摘されて考える基本を教えてもらえる。通読半ばであるが一端を記してみた。
読んだ本:古関彰一『日本国憲法の誕生』増補改訂版 岩波書店2017年 (2020/8)



2020年8月8日土曜日

追憶 ”Tie a yellow ribbon~” 「黄色いリボン」

NY POSTのサイトから
朝刊を見ていると、このところコロナ・ムードに当てられっぱなしで働かなくなってる我が脳細胞に、潤滑油が注ぎ込まれてやおら動き出したではないか。その記事は「天声人語」。「きのう訃報が届いたピート・ハミルさんは、…日本では映画「幸福の黄色いハンカチ」の原作者として知られている」という書き出しであったが、私の頭の中では"Tie a Yellow Ribbon 'Round the Ole Oak Tree"の曲が鳴り出していた。こういう反応はよくある。目で見た文字が自動的に音に変わる。耳は難聴であるが、この際耳は関係ないところが面白い。調べてみると映画の公開は1977年、曲は1973年のビルボード1位の大ヒットである。
1975年夏にシンガポールに赴任したとき、彼の地でこの曲は流行っていた。着任早々知り合った日本人が神戸っ子のT氏で、アポロホテルの10階を住まいにしていて、夕食後の憩いの場が同ホテル1階のイオン・バーだった。お互い一人駐在なので所在なさを紛らわすにはここは安全で気分が良い。お誘いの電話をもらっては、いそいそと出かけたものだったが、ステージがあって女性歌手が夜毎出演している。"Yesterday once more", "El condor pasa"など英語の不得手なT氏は一生懸命にタイトルを覚えてはリクエストしていたものだ。長い曲名"Tie a Yellow Ribbon~"も苦労して彼のリクエスト曲になったが、もとより我々はそれをもとにしてやがて映画が作られようとは知る由もなかった。80年以後前後して帰国してからも、曲名が「幸せの黄色いリボン」になっているとも知らず、相変わらずT氏と「タイ ア イエロー リボン~」などと回らぬ舌で話していて周りが「ン?」となったりしたのも今思い出すとおかしい。そのT氏は帰国して何年か後に亡くなってしまった。
映画の「幸福の黄色いハンカチ」は、”幸福の”と書いて”しあわせの”と読ませるらしいが、山田洋次監督で高倉健が演じたとは知っているものの、映画も後続のテレビドラマも見たことはない。ドラマにはドーン(Dawn)の演奏が挿入されているとimdbにあるが、映画にも使われているのだろうか。
さて、ピート・ハミルは8月5日に亡くなった。1935年生まれだそうだから同世代だ。ジャーナリストでコラムニスト、最初の夫人は1972年に離婚し、87年に再婚、それが現在の奥さんの青木冨貴子氏と知ってあッと思った。岩波新書で『「風と共に去りぬ」のアメリカ』を読んで感心したのは随分前のことだが、この人も優れたジャーナリストだと思う。
ハミルが日本映画『幸福の黄色いハンカチ』の原作者と書いてあったが、正確にはそうでない。アメリカのどこかに古くからの口頭伝承があった。刑期を終えた男が何年かぶりに我が家に戻ろうとするとき、妻が待っていてくれるだろうか不安になった。もし迎えいれてくれる気があるなら樫の木に黄色いリボンをつけておいてくれ。そうでなかったら家には寄らない、と書き送っておく。そしてバスから見えた風景には樫の木に黄色いリボンがつけてあったのだ。その言い伝えをハミルは少しアレンジして、1971年にニューヨーク・ポスト紙にコラム『Going Home』を書いた。1973年にオーランドとドーン(Dawn featuring Tony Orlando)が売り出したときハリムは自分が原作者だとして提訴したが、ドーンの歌の作詞者側に立った民俗学者が古くからの伝承を見つけたので訴訟を取り下げた。
1949年のジョン・ウェイン主演の騎兵隊ものの『黄色いリボン』があるが、これは娘が首に巻く黄色のリボンで、男への愛を示す合図だとのこれも伝承によるらしい。
で、ハミルの物語はどうなっているかといえば、ネットのあちこちに原文が出ている。
(例えば、https://nypost.com/2010/02/26/the-post-column-that-sparked-the-yellow-handkerchief/ )
Vingo sat there stunned, looking at the oak tree. It was covered with yellow handkerchiefs, twenty of them, thirty of them, probably hundreds—a tree standing as a banner of welcome Billowing in the wind. 

Vingoは刑期を終えた男の名前だ。かしの木にはハンカチがいっぱいだ。20枚、30枚、いや何百枚もあるぞ。かしの木は風をはらんでふくらんだ歓迎の幕のようにみえた。
というぐあいで、歌の文句のリボンはハンカチに変えられている。ハミルのコラムもリボンではなく、ハンカチをつけてくれ、と手紙に書いたとなっている。なんだ、これなら山田映画の原作と言ってもいいのでは、と私は思いなおした。山田洋次は物語を聞いて「樫の木に黄色いリボンが花のように咲く」のをイメージしたそうだけれど、これは倍賞が伝えた歌の方の物語の印象なのだろう。
Tonyが歌う曲のおしまいは、たくさんのリボンになっている。
    a hundred yellow ribbons round the ole oak tree
    I'm comin'  home
   (Refrain) Tie a yelllow ribbon~

サックスの渡辺貞夫の娘さん、倍賞千恵子、山田洋次のリレーで物語が映画になったエピソードもネットに教わった。
ハミルの代理人によると、ハミルは日本の電気製品がアメリカ市場を荒らしているとして日本に好意を持っておらず、作品の上映は日本国内限定で海外に出すことは絶対に認めないとの条件がつけられた。作品が好評を得た松竹が輸出したいと望んで、山田洋次がアメリカまで出向いてハミルに試写を見てもらった。ハミルは「ビューティフル」と喜んで承諾が得られたとも書いてあった。(Wikipedia 「幸福の黄色いハンカチ」)
以上、他愛のない話ではあるが、日本では映画が大ヒットした。英語の音曲は流行る範囲が狭い。だが、シンガポールで日々を過ごした私たちが思い出すのは、この歌である。メロディーが頭の中で鳴り出すと、とたんに数年間のあれこれがイメージとなって押し寄せてくる感がする。たまたまお盆だ。亡きT氏にあらためてこの物語を手向けて冥福を祈ろう。(2020/8)
追記:ハミル氏のコラムを映画の原作と呼んでいいかどうか、は実はどうでもいいことです。アメリカには黄色いリボンまつわる伝承があったのは事実でしょう。私としてはハミる氏の訃報を教えてくれた「天声人語」が"Tie a yellow ribbon~"の音楽を思い出させてくれたことが、往年の様々なことにつながったわけです。ただそれだけのことのために、この文章を書きました。それにしてもたかがリボンとハンカチがこんぐらがって、やはり我が脳細胞が衰えていることが証明されました。以上



2020年7月14日火曜日

感想 工藤美代子著『悲劇の外交官』

最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。

駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。

本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。

ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。

最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。
読んだ本:工藤美代子著『悲劇の外交官  ハーバート・ノーマンの生涯』 岩波書店 1991年(2020/7)

筆者より:7月13日付の同文ブログ「H・ノーマンの不運」は、たいそう読みにくいので修正してここに改題して再掲します。

2020年7月13日月曜日

感想 H・ノーマンの不運

本稿はたいそう読みにくいので、別掲「悲劇の外交官」(7月14日付)でお読みください。筆者より。


最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。
駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。
本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。
ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。
最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。(2020/7)

2020年6月11日木曜日

雑録 H・ノーマン「日本の兵士と農民」など

いろいろな本その他情報を読んできたが、たいていは芋づる式に手繰って話柄を追いかけてきた結果である。すんなりとブログになるものもあるし、そうでないのもある。ここしばらくはコロナ騒ぎに静謐を乱されたこともあって、もうふた月あまりも発信しない日が続いている。この筆者はもうあちら側にいってしまったと早合点した向きもあるかもしれない。それならそれでも一向にかまわないが、当方は「物言わぬは腹膨れる思い」で健康が損なわれるのが困る、というわけで、駄弁を弄しながら話のタネを考えている。

臼井吉見さんの文章を読んでいると、同氏が主宰していた総合雑誌『展望』に寄稿者として誘いこんだ竹内好のことがでていた。初めて原稿を依頼してみた結果、寄せられた論考を高く評価して、以後常連になってもらったように書いてあった。その論考は「伝統と革命――日本人の中国観」という題で『展望』1949年9月号に載った。筆者は他の論文とともに「ちくま学芸文庫『日本とアジア』」に収められているのを見ている。それまで依頼原稿でさえ断られることの多かった竹内は『展望』の巻頭に載せられ、思いがけない多額の稿料をもらって嬉しかったと回顧している(「解題」)。
さて竹内は、ハーバート・ノーマンの著作、『日本における兵士と農民』(1947年、白日書院)を非常に高く評価している。そのうえで、「軍国主義が遅れた資本の手先になって大陸侵略に乗り出すとき、近代的軍隊が必然的に野蛮化される過程を心理的現実に即して掴んでいる」として、次の文を引用する。
みずからは徴兵軍隊に召集されて不自由な主体(エイジェント)である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷を打ち付ける代行人(エイジェント)となった。他人を奴隷化するために純粋に自由な人間を使用することは不可能である。反対に、最も残忍で無恥な奴隷は、他人の自由の最も無慈悲且つ有力な掠奪者となる。(竹内好「中国の近代と日本の近代」(1948年)、『日本とアジア』ちくま学芸文庫1993年所収)
竹内は書く。ノーマンが日本と日本人を愛していることは疑えない。ハーンやタウトとちがった仕方で、しかもあるいは彼ら以上に、外国人としてのほとんど一種の極限にまで、彼はそれを愛している。もしその対象への愛がなければ、彼の学問があのように見事に結晶するはずがない。私は、ノーマンの言葉を、得難いものだと思う、と。先の引用の前にも、この本は、最近読んだ中で感銘の深かったものだとし、ほとんど芸術的な感銘を受けた。積み重ねられた論理が造形的でロダンの彫刻かなにかのように物量が盛り上がっている、とまで述べるのであるが、筆者は残念ながらそこまで読みこなせない。納得のゆかない日本語文はヴィクトリア州立図書館(メルボルン)からダウンロードした原文を確かめながら読むわずらわしさで、とても芸術的な感興には至らない。ちなみに原文には「徴兵の起源」と副題が付けられている。

「日本の兵士と農民」という著作は太平洋戦争勃発という出来事によって初稿が失われ、手元に残ったノートを頼りに数年後に書き直された経緯がある。そのためもあって全体は短く、各部分は論述というより要点をまとめた文という感じが強い。竹内が褒めるほどに理解するまではノーマンの文章に込められた論理を感得しなくてはならない。この論理を解く、または紡ぎあげるいとぐちは各節に散らばっているのである。かなりな読解力が要求される。まずは読書百遍意自ずから通ず、である。
結論的に言えば、太政官布告という極めて専制的で恣意的な方法で始められた日本の徴兵制は、西南戦争で官軍が勝利したことにより、それまでの国内治安に用うるべしという議論を追いやって、海外へ侵攻するための軍隊を作り上げることに向けられた。創設以来その方向づけを担ったのは山縣有朋であった。近代日本軍に奴隷精神を叩き込むのに用いられた道具は、山縣の「軍人訓戒」(1878・明治11年)である。
明治維新そのものは徳川幕府を倒す革命を目指しながら、西南戦争の結果が示すように反革命側の勝利に終わった。錦旗を掲げて東征する官軍が、みちみち民衆を煽るようにして幕府の旧悪を訴えさせ、大いに希望を抱かせられた民衆は、終わってみれば置いてけぼりを食ったどころか、さらなる重税・苦役に苦しめられることになった。その必然として各地に民衆の蜂起や騒動が巻き起こり、薩長土で構成する新米の政府は対応に苦慮して議論する中から徴兵の発想が浮上した。結果は上述のとおりであるが、日本の軍隊の手引と指針になった「軍人訓戒」には、軍人に「民主的、自由主義的傾向の結社に参加することを禁じ、…民権などを唱え」ることを厳重に戒めている。自由民権運動の声が届いたのかどうか、帝国議会開設は1890(明治23)年である。
戊辰戦争で各地で官軍に味方した農民の願望は、ただ暮らしの苦しさから傲慢な旧藩支配層を憎んだことに発するのであって、自由とか民権などにはほとんど関係なかったはずだ。農民の一揆暴動・騒擾は支配層を悩ませる点では維新前後で変わりはないのも事実であったろう。支配者はいつの時代でも秩序を乱されることを嫌うものである。
竹内は、明治維新は革命に始まって反革命に終わった、これは革命でなく転向だという。
幕府を倒せと一揆を起こして成功したが、新政府のもとで全てが元通りになった農民層の一例が隠岐の島にあったことをノーマンは報告している。
「維新後まもなく中央政府から派遣された役人の多くは、わずか前に追い出されたばかりの同じ役人であり、しかも、有力な兵士の一隊を引き連れてきた。はげしい闘争の後に、この人民の自治を打ち立てる試みは鎮圧された(68-9頁)。」ノーマンはこの暴動の資料に用いた文書は、明治政府またはそれ以前の出雲藩の役人の書いたもので、人民の立場から蜂起を説明した文書はなにもない、と注記する。竹内は、このノーマンの指摘は日本の学問全体への批判であり、日本文化の構造的弱点が見事に掴まれていると考える。構造的弱点とは一旦革命が成功したかの段階で反革命側の反動があったとき、さらにそれを跳ね返す力がないことを指す。権力に対抗する人民側の層には厚みがないということだろう。逆に開国をめざす近代化推進のエネルギーは、一方で儒学による徳治主義を護ろうとする後ろ向きのエネルギーと合体する。明治天皇の教学に元田永孚(もとだながざね)が活動し教育勅語発布につなげたことにそれは結実する。
余談だが隠岐の島騒動を朝日新聞2019年7月7日が公民館の活動として伝えている。
https://www.asahi.com/articles/ASM6T54WCM6TUTFK01D.html
記事中のURLから漫画広報をダウンロードできる。
https://www.town.okinoshima.shimane.jp/www/contents/1562301372309/

H・ノーマン(Egerton Herbert Norman、1905-1957)は日本生まれのカナダ外交官である。アメリカのいわゆる赤狩りと呼ばれたマッカシー事件に巻き込まれて、訪問先のエジプトで自死して生涯を終えた。ソ連のスパイだったとの嫌疑についてはなにも明らかにされず、カナダ政府は在日本大使館の図書館に彼の名を冠して顕彰している。
「日本の兵士と農民」は1941年11月に印刷所に回されたが、折しも勃発した太平洋戦争のため、彼は公使館内に拘禁されて翌年交換船で帰国させられた。この間原稿は取り戻す機会を得ずして失われてしまった。戦後職務の間隙を縫って手元のノートに残った資料をたよりに書き直しにかかったが充分な叙述には至らなかった。けれども時日経過を勘案して検討対象を拡大して書き足すことをした。
ノーマンの著作は「ハーバート・ノーマン全集」全四巻、編訳者大窪愿二、岩波書店にまとめられている(1977-78)。他に編訳者を異にする増補二巻(1989)がある。増補版企画途中で大窪氏は交通事故被害で急死された(1915-1986)。
筆者は第四巻1978年を入手して参照している。(2020/6)



2020年3月21日土曜日

感想 井上ひさし「父と暮せば」

井上ひさし「父と暮せば」一幕四場 1994年9月初演、紀伊国屋ホール、こまつ座。
ときは昭和23(1948)年7月、広島市比治山の東側、福吉美津江の家。美津江23歳と父竹造の二人芝居。
図書館に勤める美津江の前に文理大の講師木下が現れ、心が通うようになり始めるが、美津江は近しい者にみな原爆で死なれて、自分一人幸せを追うことに罪悪感が強い。一人娘の心を素直に幸せに向けようとして、死んだ竹造が美津江の前に現れるようになった。セリフを通じて状況が説明されピカの時から以後のことが語られてゆく。井上流の笑いとペーソスを織り込んだ進行に観客は和みながらも、原爆という社会問題がもつ事態の深刻さを理解できるように作り込まれた上等の芝居である。美津江の恋の応援団長を自称する竹造を初演で演じた役者、すまけいを見たかったと切に思う。
井上劇はわかりやすくて親しみやすい。それだけに見終わった後、よかったねぇと言葉を交わすだけで終わってしまう人も多いだろうが、それでは作者が気の毒だ。おそらくこの作品は読書会などで採り上げられていることが多いと思う。私はずっと聞かされ続けてきたはずの原爆問題について理解できていないことが多い、あるいは忘れてしまったことが多いことにあらためて気がついた。
木下青年は原爆による被害物を焼け跡から蒐集している。原爆瓦、溶けた薬瓶、顔がなくなった地蔵の首など。モデルがいたのかどうか明かされていないようであるが、ネットの中国新聞の社説に、同様の仕事をした長岡省吾氏が紹介されている。資料館の基礎を作った人物だそうだ。こういう人は他にもいるらしい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=2017-26 

木下が図書館に現れたのは収集物の置き場所に困ったからだった。しかし図書館にも置けないことを美津江は説明する。占領軍がそもそも蒐集にも制限しているのだ。作品ではそれ以上の説明はされていないが、占領初期にアメリカは広島・長崎の被害状況について相当神経質になっていたらしことは憶えている。彼ら自身が核爆弾について、あるいは核がもたらす人間への問題点について解明されていないことが多くあったためでもあったろうことは容易に想像できる。だからこの作品には現れていないけれども、あきらかに現在にも続いているこの種の問題は語り続けられなくてはならないだろう。
芝居の中で高熱で表面にトゲトゲができた瓦という表現がある。現在では原爆瓦とか被爆瓦という一般名詞になっている。高熱で溶けた現象との説明が普通だが現物を見ないことには理解しにくい。実験では1800度の熱で同様の状態が得られたとの説明がある(2017年9月15日「被爆瓦をご存知ですか」)。被爆瓦をご存知ですか

地上では熱線によって全てが溶け、次に爆風で壊れるという順序で存在物への被害が生じるらしいが、最初の熱線を受けた人体は瞬時になくなるはずだ。世の語り草の中に、「死んだことも知らずに逝った」という痛烈な表現ができている。写真展でよく見るズルムケになった皮膚を垂れ下がらせた被災者たちよりも、それより先に熱線で消えてしまった人が大勢いたはずである。文字どおり「なくなる」現象だ。「溶ける」ということについては、美津江が庭に持ちこまれた収集物の中に地蔵の首を見つけて、「あのときのおとったん」を思い出す。顔が溶けてしまった石地蔵の首だ。瓦といい、石地蔵といい、井上ひさしは何気ないふうに芝居の中に底知れない人間の悲惨さを持ち込んでいる。核爆発の原理とか状態など一度は何かで読んだりしたはずであるが、改めて考えようとするとあらかた忘れている。最初は何年間ものあいだ草一本生えないと言われていた。上空で破裂した爆弾はまず放射線を放出する、ついで熱線、次に爆風という順序だったかと思う。青白いピカは熱線だろうか。「わしは正面から見てしもうた。お日ィさん二つ分の火の玉をの」、竹造のセリフである。竹造は屋敷の下敷きになって救けられず、二人の間で納得づくで逃げた娘は骨だけは拾うことができた。同じ庭先にいながら美津江は石灯籠にかばわれて光線は浴びなかったが、体内に原爆症が残った。B29がなにか落としたのを見ようとして、思わず手に持っていた手紙を落とした。拾おうとして石灯籠のねきにかがみ込んだときにピカが光ったのだった。おなじとき、その手紙の宛名人の親友もピカに襲われていた。被災したその親友の母親を見舞うと、初めは泣いて喜んでくれていたが突然怒り出した、「なんであんたが生きとるん?」。背中一面に火膨れを背負ったその母親も月末に亡くなった。
だれもが逝ってしまった美津江の負い目を懸命に癒そうとする竹造。この世に現れるようになったいきさつを明かす。圖書館で美津江が木下を見て一瞬ときめいたとき、そのときめきから胴体ができた。木下の後ろ姿を見て、お前がもらしたためいきからわしの手足ができたんじゃ。二人いる係のうちで、うちのほうに来てくれんかなと願うたろ、その願いからわしの心臓ができとるんじゃ。娘に恋をさせようと思ってこの辺をぶらついていたのかと問われて、ニッコリする。恋の応援団長の登場である。これは劇のはじめのほうで明かされるユーモラスな場面であるが、終わりのほうになると、娘が自分の幸せに頑なに否定的になると怒り出して、自分たち親子のむごい別れ方を語り継ぐために代わりを出せという、代わりとは孫であり、ひ孫であって後々まで語り継がせなくてはならぬと息巻く。結局は美津江が納得して父に従うが、作者は孫やひ孫ということばで原爆症、障害、奇形などへの観客の想像を促している。放射線障害はいまだに爆心地からの距離で救済に差をつける考え方がされているが、ホントのことは分かっていそうにない。放射線は骨髄を冒す。造血器官の骨髄には成熟した血液になる前の若い細胞がある。被災当初は外見から気付かれなかった細胞への障害が後々現れるのが原爆症の特徴だ。美津江は光線を浴びなかったけれども放射線は浴びている。自身もすでに原爆症であることは芝居に表明されているが、木下と結ばれても、その将来には不安が残されている、というのが時限爆弾としての原爆を題材にする芝居の宿命である。観客は井上流の笑いとともに井上の訴えることを真摯に受け止めてあげよう。
ところで、タイトルの「父と暮せば」は条件をあらわす形であるが、後節をどんなことばで結ぶのがよいのだろうか。「父と暮らせば、前向きになれる」・・・。
井上ひさし「父と暮せば」、日本文学全集 27 河出書房新社 2017年所収 (2020/3)

2020年3月16日月曜日

里見弴を知っていますか

里見弴(さとみ とん)、明治21年生まれ。古い作家であるが名前は知っていても、読んだ記憶はない。池澤夏樹個人編集、『日本文学全集 27、近現代作家集Ⅱ』に「いろおとこ」という短い作品がとられている。日本の小説の分野には花柳小説というものがあって、その文字が示すとおり芸者が登場する。
夏の終りのまだ暑い頃、とある別荘らしき座敷の60がらみの寡黙な男と40過ぎかの女性が過ごす三日間を、まことに手際のよい語り口で読ませる。その描写から女性の暮らしかたがみえる。こういうのをこの作家は得意としたのであろうが、自分も親の反対を押し切ってクロウト女性を妻にし、のちには並行して別の女性の面倒を見たりしている。昔風情そのままの人生哲学の持ち主だったようである。
夜の活動の旺盛ぶりにくらべて昼間はむっつり何かを考え込んでしまう男に、女は退屈して、しょうことなしに独り占いなどして付き合っている。帰ってくれてもいいんだよとの声にも、いいの、と付き合っている。3日目の朝、駅頭で上りと下りに別れた後ぷっつり音信なし。世に聞こえた人だのに誰に訊いても、唯一の親友・森に会ってさえも、曖昧に言葉を濁された。ふた月半ほどすると、突然、かの人の名が、日本はおろか世界中にさえ響き亘った。森を介して、心入れの品々を送り届け、たまさかの短い便りを喜び、新しい旦那に見せびらかして、痴話の種にしたりした。
翌々年の四月、華々しい戦死を遂げた男の遺骨を奉じて還った下役の者から、英雄の最期にふさわしい南の島の現場の模様を聞かされた。語る者も、聞く者も、共に泣いた。
ほどなく執り行われた国葬に、遺族ではないが、特に設けられた席で、思い余って泣き崩れる。―――

戦時を知っている読者にはネタバレ的であるが男のモデルは明かされない。短い中に女ごころを巧みに描いた佳編との評が高い。一読後、私は里見弴、本名山内英夫という人に興味を覚えてその生い立ちを知った。有島家の四男に生まれてすぐ山内家の養子になったが、ほとんど有島家で兄弟たちと過ごした。その有島家の長男が有島武郎である。Wikipediaによれば、武郎が心中事件で死亡したときには「兄貴はあまり女を知らないから、あんなことで死んだんだ」と言ったとある。また、本人は「白樺」創設に参加、その親友志賀直哉の手引で吉原で遊蕩していたとある。一方、文章については「小説家の小さん」と称され、文章の達人としてNHK人物録にアーカイブが遺されている。
NHK人物録 里見弴https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010113_00000
「馬鹿正直」で世渡りが下手だったと書いた伝記があるらしいが、その作者小谷野敦氏が詳細な年譜をwebに載せているから参考になる。里見弴 年譜http://akoyano.la.coocan.jp/satomiton.html
「いろおとこ」は原題は旧仮名で「いろをとこ」として短編集『自惚鏡』小山書店(1948)に所収されているが、占領下の1947年に発表されたので、知られることのなかった作品だった、とは故加藤典洋氏の解説にある。
新しい試みとして全編個人編集と銘打った池澤夏樹は、明治憲法時代の男性優位社会の反映とも言える花柳小説をいまどきどうかとの当方の思いに、日本文学は古来男女の仲が主題と考えての編集だという。最近は花柳界自体が随分新しくなっているだろうし、この作品の場面のような情景は見られなくなったかもしれない。それでもそういう時代があったことには違いないから日本文学全集に収められるのは当然だと言える。あるいは、ともすれば不倫だとか言い立てて当たりを取ろうとするメディアや作家とは別に、もっと静かにおおらかに進行する交際もあるはずである。ただし、この第27巻には単に色恋のことばかりでなく、さまざまな関係の男性女性が登場する。皇軍兵士の悪行もあれば原爆の悲劇もある。この巻だけで20編が収められている。楽しみな一冊である。
読んだ本:日本文学全集 27 近現代作家集Ⅱ 河出書房新社 2017年   (2020/3)

2020年3月10日火曜日

漢字の用法「両」 浄心是一両

虫が地上を這っているのは命を実現しているのだ。何の意義もない営みでもそれは生命活動である。
渡辺京二さんが『図書』2月号の巻頭に書いている。何か調べようと思いながら、うっちゃっているのは、疑問を抱えたまま死ぬ怖れがあると気づいた。いま89歳、明日頓死しても不思議はない。だから疑問はすぐ調べておくべしと思い直した。知的探求とかいっても、死を迎えようとしている人間にとっては何の意義もない詮索に過ぎない。しかし、それでも、それは生命活動ではないか。些事にこだわるのも私の命の表れかも知れぬ、と書く。
筆者の私も他人様には関係なく、自分の知りたいことを探しては何かしら書き付けている。書いておかないと考えたこと、知ったこともどんどん忘れてゆくからである。これを人さまから見れば、地上を虫が這っていることと同じで、どうでもいいことのはずだ。それでも私にとっては命の表れである。何やら開き直った気分である。
唐木順三「鴨長明」という文章に出逢った。中に『往生要集』への言及があり、一部文言が引用されてある。
「ひねもす仏を念ぜんも、閑かに其の実を検ぶるに、浄心は是れ一両にして、其の余は皆濁り乱れたり、野鹿は繋ぎ難く、家狗はおのずから馴る、いかに況や自ら心を恣にせば、其悪幾許ぞや」
引用文は源信の原文(685年)のままのようである。おおよその意味は理解できるが、私は「浄心は是一両にして」という句にこだわった。一両の意味がわからなかった。あとにつづく、「其の余は・・・」を考えると趣旨は量が少ないことを意味しているはずである。そこで「両」という漢字が何を意味するかを知りたくなったのであったが、一対とか二つであることはすぐわかった。では一両と書けばどうなるのかが、いまの課題である。

当家のちゃちな辞書ではついに不明におわったが、ネットで『往生要集』に関連することを手当り次第に見ているうちに、一つ出会った。「浄心是一二」という表記が見つかった。これが通用するのなら「両」は「二」に置きかえて読んでよいことになる。中国語で「両」は「リャン」であり、数えるのに、イー、リャン、サン、スー・・・という。
さらにみてゆくと、『往生要集』現代語訳というサイトがあって、そこに当の部分は「浄心がほんの一、二に過ぎず云々」とでている。これは意訳であるが私がはじめ文脈から予想した意味と同じである。実に長い時間がかかってしまったが、辞書を見ても両に「ふたつ」や「対」の意味があることは書かれていても「二」に置きかえて使うという用法は示されていなかったから解が得られなかったわけである。大きな辞典には多分書いてあるのだろうが。
というわけで、これでいつでも死ねるとまでは思わなかったけれども、気が晴れた。
追記:「浄心是一二」の出典を書いておく。
顕意道教上人(1239-1304)の著『竹林鈔』巻上、第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに煩て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」と知とは此意也。
websiteは竹林鈔ー本願力で得られると思います。
(2020/3)

2020年3月3日火曜日

懐かしい臼井吉見さん 『蛙のうた』

臼井吉見(1905 - 1987)。ちょっと調べたいことがあって図書館で借りた「現代日本文学大系 78」に、この人の文章もいくつか収められていた。
「酒と日本語と」と題された短い文があった。招集されて入隊した日、中隊の酒宴があり、酔っぱらった臼井少尉は中隊長の読み上げる「部隊長の統率方針」の条文の日本語をこきおろした。「積極的任務の遂行」という言い方はない、「任務の積極的遂行」というべきだとぶった。慌てた中隊長は大隊長にご注進したらしく、翌朝、条文改めの命令が出た。臼井は懲罰をくらうかと覚悟したが、部隊長付きを命じられて祐筆のような務めにまわされた。中隊はサイパン島で全滅したが、ひとり臼井は内地で生き残った。
最近知ったこのての話では、これで3人めである。堀田善衛と安岡章太郎は病気のため命拾いしたが、臼井は大好きな酒に救われた。運の強い人である。
8月15日は千葉の山で木こりの親分をしていた。玉音放送の後、ポツダム宣言について大まかに話した。あとで若い兵隊が質問した。「隊長殿、基本的人権の尊重というのは、犬や猫よりは、いくらかましな取扱いをするということでありますか?」(「伐木隊長」)

臼井は「短歌への訣別」を『展望』昭和21(1946)年5月号に発表した。彼は自分でも歌を詠む愛好家である。戦争中に多くの無名の兵隊たちが短歌や俳句の形式にすがって遺書を残した。自分を追いつめた軍国日本への愛情と恩義を短歌や俳句で表したり、死に直面した自分の命をこういう形で示したりしたことがあわれでならなかった。これを短歌や俳句がもつ根強い国民的性格形成力と考えた。
きっかけは戦後の短歌雑誌を開いて驚いたこと、無条件降伏の八月十五日が歌になっていたことである。大家とされる歌人が例外なく即座に、無造作に、やすやすと歌にしていた。全部が「玉音放送」にすがって、「うつつのみ声ききたてまつる」「み声の前に涙し流る」…などとやっている。しからば開戦の十二月八日はどうかとみるに、こちらでも「畏さきはまりただ涙をのむ」「涙かしこしおほみことのり降る」…。なんだ同じじゃないか、二つの日の感動は簡単なものでなかったはずだ。複雑な内心の動揺や不安、絶望、疑惑などなど入り混じった実に複雑なものだったはずが、歌人というのは手放しで「み声」に感泣する以外の感情を覚えなかったとは奇怪極まる存在である。俳句の場合は少し違うかもしれないがこれには触れなかったという。
とにかく短歌という認識の形式にたよっていては現実を合理的に、批判的に把握できない。これは日本人の知性の問題であるし、もとより自分一個のことではない、というのが臼井の考えていた内容だった。
こういう主張に天下の歌人という歌人が、横合いから言いがかりをつけられたと勘違いしたか、一斉に歯をむいて罵りを浴びせてきたと書いている。こういう攻撃が一斉に激しくなったのは半年後の11月に『世界』に発表された桑原武夫の「第二芸術――現代俳句について」が巻き起こした騒ぎに巻き添えを食ったからだそうである。臼井が吊るし上げられたのは翌22(1947)年だったそうだ。
桑原は、俳句が作品だけでは感銘が得られず、句作者の名前が添えられて初めて鑑賞者が優れた作品だと知る事ができる体のものならば、それは芸術の名に値しない、強いて言うなら第二芸術とでもいうがよい、というふうに論じた。桑原が試みた提示方法が奮っていた。有名無名の作者の俳句をとりまぜて15句並べて作者名を伏せた。そのうえで優劣の順位をつけ、また優劣に関わらずどれが名家の作か推測を試みよ、というものだった。
作者の名前で優劣順が決まるとなれば、作者は弟子の数や主宰誌の部数を競い、世間的勢力の大いさを争うようになる。第二芸術論は結社組織のバカらしさを指摘している。桑原はこれにおまけを付けた。「成年者が俳句を嗜むのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものを閉め出してもらいたい」。阿諛と迎合しか知らない宗匠とその取り巻き連がざわめき立った。それが半年前の臼井の論に燃え移って、歌人どもが遅れ馳せに殺気立ってきた、と書かれてある。

今は昔、敗戦直後の日本の巷の貧しい文化戦争であったのだろうが、俳句も和歌も21世紀の今も盛んであり、週に一度の新聞1ページを選ばれた投稿が埋めている。とりわけ和歌は、なんと言っても、皇居で新年には「歌会始の儀」が催され、これは鎌倉時代にはじまるという。
臼井は尊敬する釈迢空に意見を求めている。釈は過去2回短歌滅亡論、実は再生論を考えていた。そのことばの中に、歌詠みは玄人意識を持ちすぎていて、それが禍いしている、というのがあった。時代が移って「サラダ記念日」。俵万智の第一歌集は1987年280万部のミリオンセラーズになった。口語短歌である。「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日。角川短歌賞で認められた俵の本は角川書店で発売されるべきだが、自らが俳人である社長の角川春樹が、短歌の本は売れないと判断したから河出書房のヒットになったというエピソードがある。いみじくも釋迢空の指摘通りクロウト筋が時代を読み誤ったかたちになった。
臼井氏は私の親の世代の人だが、編集者を本職とする彼の世間は広い。取り上げる題材は、今の人には響きにくいかもしれないが、私には魅力がある。
この本に取り上げられている題材は日本が米国の占領下にあった時代の社会、世相が背景または主題である。占領軍は米ソ冷戦下の米本国の意向にそって方針が変化しつつあり、政治・思想は政治犯釈放によっていわゆる左翼勢力が優勢になるとともにインテリと呼ばれる知識層が、不確かな海外情勢を宣伝し、それを未熟なメディアが知識を拡散した。ノンポリ大学生になった私にも、臼井氏がここに採り上げている基地反対ほか共産党や日教組などによる騒擾事件のいくつかは記憶にある。それらを明快に否定する臼井氏の筆は痛快でさえある。今やメディア媒体は紙から電子に変わって、玉石混交どころか若い世代は石を互いにぶつけあっている感もある。足許から見直す意味でもこの臼井氏のぶれない感覚は貴重だと思う。
読んだ本:
『現代日本文学大系 78 (中村光夫 唐木順三 臼井吉見 竹内好集)』(筑摩書房) 1971年
『蛙のうた』臼井吉見著 (筑摩書房) 1972年
(2020/3)

2020年1月31日金曜日

読書雑感『鶴見俊輔伝』

鶴見俊輔さんと聞けば『思想の科学』の名が反射的に思い浮かぶ。続いて、あの風変わりな雑誌は何だったのだろうと考え始めるがすぐに考えることをやめてしまう。考えてもよくわからなかったからだ。新聞紙上に『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受けた黒川創氏が述べていることを読んで納得した(朝日新聞1月30日朝刊)。氏の経歴に『思想の科学』編集委員を経て作家になる、とあるが、「経て」はいない、「思想の科学」は職業でも社会的地位でもないからという。
私の頭にも、いろいろな人がいろいろなことについてそれぞれに書いている文章を集めた雑誌という印象が残っている。それぞれ個別の生活をしながら、自発的に学問をしていたのだと黒川氏は説明する。そういう学問を鶴見さんは愛したと。「地位とも報酬とも結びつかない、個人によってひそかに続けられた学問は、無垢な輝きを帯びている。」それが学問の初心だとした鶴見さん、とあるが、この表現はすでに黒川氏のだろう。鶴見さんなら、ただ「おもしろいな」と言ったはずだ。
雑誌の表題にある「思想」の意味については深く考えたこともなかったが、上田辰之助(経済・思想の学者)がアート オブ シンキング、からソートを思いついて、思想にしたとの来歴をこの伝記で読んだ。ならば「かんがえること」を科学する意味なんだと妙に腑に落ちる。だから、てんでばらばらな考えることを文章にして持ち寄ったのを雑誌に仕立てた、つまり編集したわけだ。茫漠とした世の中という広大な広場に散らばっている人々がどんなことを考えているのか。「日本の地下水」といううまい表現がでてきた。
1946年から96年まで50年続いた雑誌の終刊にあたって、総索引、ダイジェスト、討議集の三冊が刊行されているそうだが、ダイジェストに採用されたタイトルは2千におよぶという。討議集の表題は「源流から未来へ」とされたそうだ。
鶴見さんは哲学者に分類される学者であるが、私は自分の関心事であることばの使用に関連した著作を多く読んできた。専門的に言えばそれは記号論に関係するらしいが、そっちの方のことは私の頭が受け付けないから、そこから鶴見さんが展いてくれた事柄を読んだ。「言葉のお守り的使用法」はそういう意味で非常に面白かった。内容はほとんど忘れてしまったが、要するに戦時中なら「鬼畜米英」「国体」など、戦後は「民主」「自由」「平和」など、いわゆる空疎な言葉ないしは言葉遣いへの批判である。これさえ唱えていれば安全だというわけである。
哲学者についての話題では自然に言葉も難しくなる。1945年12月、占領下である。軽井沢の山荘に一人で暮らしていた鶴見さんを訪ねてアメリカ軍伍長フィリップ・セルズニックが来た。のちに社会学者として知られる人物。父親の鶴見祐輔の熱海の家には占領軍当局者たちが日本での知見や手づるを求めて頻繁に出入りしていたが、この日、この伍長は婚約者ガートルード・ジェイガーが書いた論文「生まれたままの人の哲学」というのが載っている小雑誌「エンクヮイアリー」を持参して、俊輔と話したかったのだそうだ。論文はプラグマティズム哲学のデューイ論だった。
デューイの哲学は、人間性の完成に対する楽天主義から出発し、その帰結としてどのような形態の社会も人間の努力次第で現出する、という可能性の無制限を主張するようになった。だが、ジェイガーが見るには、人間はそんなに可塑的なものではない。人間にはリカルシトランスがある。不可操性とでもいうのか、つまり「どうしようもなさ」と呼ぶしかないものが。竹のように、ある程度は、しなる。だが、それ以上求めると、折れてしまう。人間性には、こういうところがあり、それが罪というものとつながる――。
一般読者にはそれほど興味があると思えないジェイガー論文だが、俊輔は自分たちの雑誌がいつか刊行できれば、訳出して載せたいと伝える。末尾の典拠資料には、英文で論文の表題・所載誌ほかと和文で『思想の科学』創刊号(1946年5月)と記載されている。その当時の鶴見さんの日本語力については、創刊号に書いた鶴見さんの「言葉のお守り的使用法」の日本語は非常に晦渋でぎこちないものであったことを黒川氏が明かしており、のちに著作集に入れるに際して平明な文章に改められたとある。それから考えると、ここは鶴見訳ではなさそうである。
それはそれとして、この引用文の可塑あるいは可塑性、リカルシトランス、不可操性ということばを私なりに理解するには少し時間がかかった。続く本文には、「セルズニックの言葉にたびたび出てくる「リカルシトランス」(どうしようもなさ)、また、理想に付随する「ユーフォリア」(多幸症)という言葉に、俊輔も目を開かれていく思いがあった。」とあるから、俊輔がアメリカを出てからあとのプラグマティズムの進展が語られたようだ。
「どうしようもなさ」という訳語は当の文脈では正しいのかもしれないが、どうも納得できない。意味が確定できないではないか。形容詞なら頑強に抵抗する(人)、名詞なら強情っぱりとか反抗的な人というのが私の解釈であるが。ま、ここはシロートの口出しする場所ではないけれども、漢英辞典から日本語の訳語を案出したような芸当を期待するには、いまの時代は日本語が痩せ過ぎたかと密かに思う。
鶴見さんは1948年に桑原武夫から京大人文研に誘われ助教授として迎えられる。桑原ははじめ大学を出ていなくてもいいと言ったので、「出ていますよ」と答えると、ニヤッと笑ったとあったが、桑原が小学校卒の学歴で京大助教授に誘おうとしたことに鶴見さんは驚いたというが読者の私も驚いた。中学時代にはすっかりグレて、父親がアメリカに送り込んだ。1年間ハイスクールに在学して英語習得後ハーヴァード大学の哲学科に入った。日米開戦になって敵国人として収監され、さらに不用意にアナーキストと称したために牢獄につながれた。書きかけの卒業論文が没収されたのを大学当局が取り返してくれたおかげで、牢獄の中で論文を仕上げることができて無事に卒業が認められた。日本人の常識では大学と司法当局のやり取りは、へぇと思うし、入学から卒業までの経緯も尋常でない。不良少年のはずがよくできるのだ。ホンマかいなというところだ。でも、それが事実であった。その事実の裏には16歳の俊輔少年のまさに死にものぐるいの英語習得努力と、下宿させてくれた家庭の婦人たちの協力があった。婦人たちは学校に出かけて俊輔の英語教育について教師陣と話し合い、家庭で朗読などで実践的に補講をしてくれたものだ。良きアメリカが生きていた時代だったのだと私は感動した。
ハイスクール1年だけの学業で受け入れようと決めたのはアーサー・シュレジンジャー(シニア)という歴史学者で、父祐輔が懇意であったので後見人になってもらった。俊輔を面接して受け入れを決め、修学方法を大学院で講師をしていた都留重人と相談して決めた。都留は俊輔の生涯の恩師になった。この辺の事情を読みながら私は昨今の日本における大学入試についての問題を連想した。また、藤原正彦氏が『文藝春秋』12月号に紹介しているイギリスの大学の教授たちの、面接もしないでどうやって受験生の人物を知ることができるのか、という疑問も思い返していた。シュレジンジャーと英語ができない俊輔との間にどのようにして会話が成り立ったのか、資料がなくて書けなかったのか残念である。
俊輔は日米開戦のはじめから日本の敗北を信じた。日米交換船に乗るか乗らないかは個人の選択に任された。彼は日本人だから日本が敗けるときには日本にいたいと考えたそうだ。1942年8月、日本に着くと徴兵検査があり、結核保持者なのに第二乙種合格、海軍に志望してドイツ語通訳の軍属となった。ジャカルタ・シンガポールで勤務する中で軍隊の実情を知った。多くは語るまいと決意する。語れば他人に災いをもたらす。1944年に病気で帰国、翌年8月15日は熱海の借家で療養中に終戦の詔勅を聞いた。
この人はどこにでも出向いて行って人と話す。いたるところに何やらの会ができる。60年安保では国会デモに何度も出かけた。座り込みでごぼう抜きにされている写真も残っている。異色なのは「ベ平連」だった。有名無名、おおぜいの人の輪ができた。鶴見さんの経歴には「反米」がまといついている。アメリカのヴィザは絶対におりない。ハーヴァードでライシャワーの日本語教科書に姉和子とともに協力した。そのライシャワーが駐日大使のときにも大使館前で座り込みをした。ライシャワー自伝には俊輔について、強い反米意見をもっている評論家と書いているそうだ。これには鶴見も寂しそうな顔をして彼は怒っているんだよと言う。鶴見は親米家なのに。「正義」のあり場所がちがうのだ。
京都ベ平連の事務局長をした北沢恒彦氏は、この『鶴見俊輔伝』の著者黒川創氏の父君だそうである。著者も幼少の頃から父に手を引かれてデモに加わっている。そんなころから著者は鶴見さんの近くにあった。
私は長年、鶴見俊輔は、けったいな学者だけどいいことを書くなぁといった程度で何冊か単行本を読んできた、要は好きになったのである。それでも、なにをしてるんだろ、この人は、という思いは残っていた。この伝記を読んで、うん、いいことをしてくれたと納得できた。そして著者にも同じ感想をもった。いいことをしてくれたと。
読んだ本:黒川創『鶴見祐輔伝』新潮社 2018年   (2020/1)

2020年1月14日火曜日

雑感 安岡章太郎『流離譚』

安岡章太郎氏は1920年に高知市で生まれているが、父君が陸軍獣医将校であったため任地にしたがって生活の場がいくつか変わったらしい。1944年学徒動員で応召、満州から南方へ派遣予定のところ、病気除隊となった。在籍部隊はレイテ島に送られて全滅したというから、堀田善衛氏に似た偶然による幸運である。1948年頃から病苦を抱えながら文学活動に入ったようだ。
『流離譚』は1976年3月から81年4月まで文芸誌『新潮』に連載され、同年12月に新潮社から刊行された。私がこの作品を読んでみたいと思ったのは、古文書解読の専門家、北小路健氏の『古文書の面白さ』(昭和60年刊)に、安岡氏から解読の依頼があり、この作品の執筆が進行中と紹介されていたのを読んでいたからである。
高知に安岡姓は多いそうであるが、章太郎氏の系統は香美郡山北村にあった四軒の安岡であるという。この地名は現在、香南市香我美町山北となっている。四軒の安岡は、本家、お上、お下、お西と呼び分けるそうで、分家が三つあるということである。土佐藩は身分の区分が上士と郷士に厳格に差別されていたことで有名である。安岡四家はいずれも郷士であり、郷士の婚姻は郷士同士と決められていたためと、山地に位置していて四家以外との交通が不便だったこともあって、何年もの間四軒の間だけで嫁取り、養子関係が結ばれていた。上巻付録として十世代ほどの系譜図が付いている。
北小路氏によると、流離は中国の古いことばで、流は分かれる意味だから、流離は分離と同義で、分離は一点で二股に分かれる感じが強まる。流離では時間の流れに沿っての枝分かれという思い入れが深まり、時とともに何本にも別れてゆく姿を指すことになるそうだ。系図はまさにその通りであって、誠に複雑に入り組んでいる。
安岡家の人物で歴史的事件にからんで有名なのは、章太郎の四代前の安岡嘉助、これは吉田東洋暗殺実行犯の一人で天誅組に走った。最期は打首である。その兄覚之助は戊辰戦争で官軍の軍監、会津の銃弾で戦死した。弟道之助(道太郎)は自由民権派で活動した。これら三兄弟の父親文助が天保年間から明治まで書き続けていた日記が存在する。この資料を中心にして、北小路氏の助力を得たことで章太郎氏は『流離譚』の執筆が続けられたものであろう。
この文助氏は、日記の他に「安岡系図書」という50ページほどの文書を残しているそうだ。これは系図であって、桓武天皇に始まり、しばらく平のなにがしとかいう貴人が続く。10ページ目あたりで、大和ノ国、安岡ノ庄から出てきたという平家の一族が、保元の乱を逃れて土佐の室ノ津に流れ着き安岡のなにがしと名乗る。それから12代目に安岡源左衛門行正という16世紀に生きた人物の記載があって、文助老人がその行正の実在を確認する作業をした記録があるのだそうだ。あとは省略するが、このあたりが章太郎氏のご先祖様のハシリとされているらしい。文助老人は天保9年に先祖の一人の墓探しをしたとき、その墓も土地も宝永4年の津波にさらわれて流されれてしまったと役人に聞かされたことを書き付けてあるという。こういう史実がわかることに興味を覚える私のような者もいるが、おおかたの人には退屈な話だろう。
私は新潮社刊の上下二巻で読んだが、長い、というより長く感じた。昔読んだ司馬遼太郎『関ヶ原』など全3巻であったが夢中になって読み終えたものであるが、そういうのとの違いは、物語の筋の運び方、人物の動き、作家の語り口など理由はいくつも挙げられるだろうけれども、やはりご先祖探しの話柄はどうしても地味になるということかも知れない。何しろ読み手は知らない人について聞かされるわけだから、その人たちがなにか動きを見せるまでは関心の向けようがない。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある」という一行だけの書き出しは、続く行からの「私のところは、父の家も母の家も高知県の郷士で、先祖代々土佐に住みついてきたから、親戚といえばどんな遠縁の人でも、みんな土佐言葉か、多少とも高知訛りの標準語かである。…」というような説明によって、なるほどという聞き手の反応が引き出されてくる。この一行を冒頭に持ってきたのは、作家の土佐への思い入れがそれだけ強烈なのだろうと思う。その土佐人がなぜ東北にいるのか、少年時代に東北訛りの紳士の訪問を受けたことを思い出す。「奥州の安岡」という呼び名が一族の間にあったそうだ。答えは本家の人間が福島に移ってしまった結果であって、明治維新まもなくの頃の地域経済力の差が、本家の没落と東北蚕業の盛況にあらわれているのであった。そういう事情がわかるのは全巻の最後に近いあたりだ。その少し手前に、関連してお墓探しの話がある。
冒頭に近いあたりにも四軒と墓地の説明があるが、文助氏の墓が見当たらないことが課題として残った。で、最後のお墓探しの場面は、安岡家をも含む広い山の斜面に展開している雑草に埋もれた墓地に、寛文とか元禄といった文字の刻まれた朽ちた墓石が何百となく荒れた斜面に様々な向きにうず高く転がっている情景がある。
作家は何千何万の遺体と骨がすでに溶けてしまっているであろう山地の地面の底を思いやるのであるが、「流離」のことばが表す系図の中身になんとも言いようのない虚しさをもたらす情景である。どこからとも知れぬところから、いつの時代かの人の胎内にやってきて生みおとされ、いっときこの世ですごしたのち消え去ってゆく生き物、それが自分のことでもあるという情感である。拾い集めた割れた墓石の一部を復元して何文字か読み取る、こんな作業は当今のシュレッダーにかけられた記録の屑を連想させる。
文助じいさんの日記や文書、覚之助からの陣中報告他、様々な文書から得られる情報は、まさに人々の生きた証であり、歴史そのものである。出来たてほやほやの明治朝廷軍、宮さん宮さん、と東へ下っていく兵隊とは名ばかりで、それぞれの藩からの雑兵のかたまり、どこまで行ったら国元に帰してもらえるかばかり考えている有様だ。中央政府にカネがないとか、補給ということが頭にない軍隊とか、学者先生の歴史には出ていないいろいろな状況が分かって面白い。すべて古文書のおかげだ。
高名な15代藩主山内豊信(とよしげ、のちの容堂)は先々代と先代が嗣子がないまま早世し、御家断絶の危機にあたって苦肉の策謀で養子に仕立てられて家督相続したといういわくつきの藩主だそうだ。不祥事で引退した隠居の12代豊資の子鹿次郎(当時3歳)に家督を譲る条件が付けられたうえ、公私の生活態度作法にまで誓約書を入れさせられ、豊資のロボットとして操られていたのだそうだ。大政奉還を唱えながら裏表のよくわからない態度をとってみたりした、ひねくれた酒飲み殿様の実態はこんなところの心の秘密から出ていたのかと思わせられる。
『流離譚』が先祖を探る物語であるからには、日本の家の制度の話となるのは当然である。家の制度は夫婦が子供をつくることが基本である。男が生まれなければ養子を入れて家を嗣ぐ。土佐藩山内家は短命や子なしが多かったので、12代豊資のときに、一説には20数人ともいわれる多数の側室をおいたことが成功して、目出度く11男、7女をもうけて一躍家門は大繁盛したという。ただし、あとがいけなくて、財政窮乏で領民が大量に逃亡する不祥事が起きた。
昔の安岡家は前述のように四つの家で跡継ぎが絶えないように工夫していたのであったが、極端な早婚もよくあったらしく、9歳と7歳の夫婦ができたりして、「二人して毎日、椎の木に登って椎の実を食うたり…」と語った女性はどうやら自分のことのようだったという場面もある。
話が前後するが、明治5、6年頃に覚之助長男正明(のち松静と改め)と真寿が結婚、松静17歳、真寿16歳。覚之助松静が戊辰の役で戦死、真寿の父嘉助が打首で双方とも早世したため、早く跡継ぎをもうけさせようとしての従兄姉夫婦である。明治7年に長女美名吉(みなえ)が生まれた。本家では文助の妻の生家藤田家の次男克馬(のち正凞)を婿にするつもりで学資の面倒を見た。克馬は16歳で医学修学のため上京したが、すでに開校されていた東大医学部に学んだ形跡はないそうだ。どこで学んだかわかっていないが、本家はかなりの出費をしたらしい。正凞の後日談では「養子に来たときには家の中はカラッポで金目のものは何もなかった」と言っていたそうだ。本家がなくなるほど没落するのは、地主であった当主が土地を手放したとしか考えられないというのが章太郎氏の推察である。
明治20年12月、東京にあった克馬は警視総監三島通庸の発令した保安条例に引っかかって相州に逃れた。保安条例というのは民権派を強圧的に押さえつけるための条例であって、発令と同時に戒厳令がしかれ、克馬のように民権運動に関係していない人間も土佐人と見れば東京から退去させられた。無茶苦茶な条例で福島事件で名をはせた三島の悪辣なやり口である。相州に逃れたというのは横浜に行ったことらしいが、ここでヨーロッパの異常気象が日本に幸いして蚕卵紙の輸出価格高騰という景気の良い話に出逢った。なんでも東北が養蚕で景気が良いという話を聞いて移住を考えた。試しに行ってみた仙台で、盛況を聞き込んだ梁川町に眼科医を開業した。蚕の繭とりの作業が閉め切りの部屋で湯気や煙を立てるため眼病になる女工が多いから眼医者をやれば当たるという話だったが、開業したその日から患者が詰めかけたそうである。
これが明治21年で、翌年土佐に戻り、美名吉と結婚、同時に正凞(まさひろ)と改名した。移住には一家全員が賛成したそうで、養祖母万亀59歳、養母真寿31歳、妻美名吉16歳を連れてみちのくの旅に上った。ときに正凞27歳。
この土地を章太郎氏は実際に訪れていろいろ聞き込みをした様子も綴られている。古文書の北小路氏の教えで、必ず実地を踏むことという教訓を作家は忠実に励行している。
最初の妻、美名吉は明治25年20歳で亡くなり、長男正武も数えの3歳で死ぬ。二人とも肺結核だったのでないかと作家は推定している。明治28年に迎えた後妻安猪(やすい)は2男3女をもうけて42年に40歳で死亡している。明治29年に生まれた最初の子が次男正光である。本作初めのほうに登場する東北訛りの実直そうな紳士、安岡正光氏はまさにこの子なのである。ちなみに38年に生まれた三男正郎は三月余りで死んでいる。
南国育ちの人間には軒まで積もる雪の中の生活は苦しかったであろうし、味噌も醤油も鹹いし、生魚も口にできないとなれば、それだけで精神的に参るかもしれない。眼科を開業した安岡正凞は、他に医者がいないため医療万般請負のようであった。正凞は考えをあらためたか三番目の妻、いしは宮城県から迎えた。明治22年生まれの21歳、作品中には90歳を越えてなお健在と書いている。
話は変わるが、美名吉が亡くなるとき、病人が賛美歌を口ずさんだ。付き添っていたのは母真寿であった。
「亡ぶるこの世、くちゆく我が身、何をかたのまん……」そこまで唱って声が出なくなったのを、真寿があとを引きとって、「何をかたのまん、十字架にすがる……」と、枕元で、つづけてうたってやった。
これは真寿を知っているという山北の老婆から作家が聞いた話である。この場面に来るまで作品にはクリスチャンに関することは出てこない。明治30年頃、高知ではクリスチャンが増え始めたようで、それは民権運動の普及と並行していたという。安岡家の女性たちは民権家道太郎の手びきで入信したのかも知れないと書いている。ちなみに章太郎氏は本作の6年ほど後に受洗したようだが、私はその動機や理由は知らない。
真寿は、ひとり梁川から戻ってきたのだというが、その理由は不明である。亡父嘉助の遺した書付や遺品を一切合切持ち帰ったらしい。それらは真寿の生母の実家公文家へ持っていったといわれているが確かめられていない。この作品のあと、章太郎氏がそちらを探求したかどうか、どこかほかに書かれてあるだろうか。
さきに真寿のことについて、亡父嘉助と書いた。嘉助は吉田東洋暗殺実行犯として脱藩し、1864年京都六角獄舎で処刑されるまで追われる身であった。そのため真寿は4歳から母子家庭にあって母の実家公文家で暮らした。15歳で縁付いた安岡松静には9年目に死なれて24歳で寡婦になった。42歳で婿の家から飛び出した理由は何であれ、孤独な人生だったと作家は同情している。出戻った高知は必ずしも暮らしは楽でもなさそうで、たまたま縁続きの寺田寅彦の日記、明治34年10月の記事に病人の看護などしているように想像できる話が載っているそうだ。ついでながら、このとき寅彦は24歳の大学生、妻の夏子が肺結核、自身も肺尖カタルで別居して療養中であった。
物語全体の流れには安岡家内部の事柄と維新前後の公との関係事項が織り交ぜて述べられている。上記の正凞の話は安岡の私事であるが、土佐藩の内部や坂本龍馬、天誅組の破綻、戊辰戦争の記録などもかなり書き込まれてある。目次とか章分けとかがないため、後戻りしてなにかの事柄を確かめるなどの作業がしにくい。初回の通読だけでは、記憶が定着し難い。面倒でもメモをとるとかしながら読まないといけない。図書館で借りて読むには時間に追われる。ここには、部分部分で印象に残っていることを書き留めた。個人の日記や手紙の類など、いわゆる古文書から知れる人々の暮らしの様子からは思いがけないことを知ったりして断片的にでも楽しめる。本編も文学賞受賞作品であるからには、もう一度読み直せば、かなり深く頭に入ることもあろうとは思うが、いまのところその勇気は出ない。ただ、よくも書いたものだと感心する。安岡章太郎氏は7年前に亡くなった。この26日が命日である。
読んだ本:安岡章太郎『流離譚(上)および(下)』新潮社 昭和56年
(2020/1)

2020年1月3日金曜日

大佛次郎の『源実朝』を読む

鶴岡八幡宮のイメージの象徴は例の大銀杏であったが、
戦前の絵葉書から

2010年3月に強風で倒れてしまったから、参道正面から見えていた風景は思い出になってしまった。社殿に向かって左手にあった大木が印象に残っているのは、実朝が暗殺された話をずっと昔に読んだか聞いたかしてからのことだと思う。それもお公家さんみたいな人という印象で三代将軍などとその名を知ったのはもっとあとのことだ。倒れた大木は1955年に天然記念物に指定されて推定樹齢千年とされていたが、暗殺下手人の公暁が隠れたのは、建保7年1月27日(1219年)だそうだから、700年以上も古い話である。樹齢はたかだか400年という声もあって、倒れた木は二代目という説もあったから、何がホントだか不明のままである。
こんな話を書き出したのはほかでもない、大佛次郎著『源実朝』を読んだので、忘れないうちに少し印象を書き留めておこうと考えた次第だ。実朝を表題とした文芸作品は少なくないが、久しぶりで私の好きな大佛さんで読んでみようと思った。
最近まで堀田善衞さんの『方丈記私記』を読んでいたので実朝についても芋づる式に出てきたのであったが、堀田さんが中野孝次氏の『実朝考』を引き合いに出していたので、それもあらかた読んでみた。このお二人ともが戦争末期に、国に殺されるかという思いを強く体験されたために、そういう発想からの思索を文章にされていた。そうなると自然にその書かれる内容は、いわゆる硬質のことばで表現される論考となって、歯の弱りはじめた当方は咀嚼に苦労させられた。そこへゆくと大佛氏は遺作となった『天皇の世紀』でさえも非常にわかり易いことばで歴史を語ってくれた。
『源実朝』は『婦人公論』と『新女苑』に分けて執筆されたのであるが、平易なことばで綴られている。前者は「新樹」と題されて昭和17年9月号から翌18年11月にかけて、後者は「からふね物語」として、昭和20年6月号から翌年3月号まで連載された。著者が昭和18年末に海軍南方報道班員として南方に向かうことになったのが中断した理由である。
さて、「新樹」は一から七まで番号だけの章に分けられ、「一」には閏7月19日(元久2年1205)の出来事として、名越にある執権北条時政の館に尼御台政子からの使者が遣わされて12歳の将軍実朝が義時の館に引き取られたことが綴られている。この事の推移を運ぶ筆は、父と子の間に合戦があるとの噂に騒然とする日暮れの町の様子を伝えながら、ここ数年来繰り返された事変のあれこれに触れて、将軍家と北条家および両家に連なる一族の人間関係の確執と陰謀、殺戮のいくつかを挙げる。そのうえで時政館に使者が到着して俄然緊迫する中での時政の心の動きを記す。
複雑な人物間の相関関係がしっかりと頭に入っていないと、せっかくの機微細かい文章から大事の様子を汲み取るのはむずかしい。ちょうど歌舞伎の忠臣蔵において、長い物語の一部分が何段目とかと称されて部分的に上演される場合のように、観客が予め事の中身を知っていないと、舞台で演じる役者の所作と科白を十分に楽しめないのと同じような具合なのである。
「頼家将軍の子一幡を擁して比企一族が小御所に亡びた」とか、「頼家が修善寺に送られて押し込められる時」、とあるのはどういうことか、別途に調べて知っておいたほうが、あとの事柄が理解しやすい。
「一」の主題である時政と義時親子の間が決定的に険悪な関係になる、その因になった畠山事件については道案内的に書いてくれてはいる。それでも「時政義時のあいだが今日のように突然に、血で血を洗う戦も辞さぬ迄に険悪な状態になろうとは側近の者も恐らく夢にも予期しなかった事であろう」と書くわりには、緊迫した空気が私にはあまり感じられなかった。私の場合は、多分に鈍感であるか、史実を知らなすぎるのか、作品の内外における人間関係の経過推移がわかったうえでないと、どうにも文の内容が読み取りにくいことであった。昔にあっては普通のことであったろうが、血族・縁組・地縁関係が入り組みすぎているのである。
政権交代が決定的になった発端の畠山事件、これは女のほむらがなせる業であった。
68歳になる時政の後妻、牧の方は30歳ほども年が離れていて、先妻の娘政子とほぼ同年である。どちらも勝気で思ったことを貫こうとするタチである。政子はすでに子の前将軍頼家を父に殺されていて、残されたもうひとりのわが子実朝を護りぬこうと警戒心を解かない。牧の方は都の貴族の家に育ってそのまま執権の後添えだから怖いもの知らず。尼御台と呼ばれている政子は、後添えの牧の方のほうから言えば、当然の義理として自分の娘分と考えているのが顔や言外に出る。牧の方は自分の娘婿平賀朝雅を将軍につけようと時政に吹き込んでいる。その平賀朝雅が時政の先妻の娘婿の畠山重忠の子重保と酒席で口論になった。牧の方はケンカ相手の父親が先妻の娘婿であることが気に食わない。謀反の疑いをでっちあげ、稲毛重成も肩入れして時政に訴えた。時政は義時を討手として差し向け重忠を誅戮し、子の重保は三浦の計略にはまって由比ヶ浜で殺される。義時はこれを冤罪と見破って時政の非を知る。あるとき、実朝の乳母で政子の妹阿波局が牧の方に害意があると訴えてきたので実朝を引き取ったことがある。時政は誓書を入れて実朝を名越に連れ戻した。実朝も子供心に牧の方の冷たい心を感じて警戒心をもつようになっている。今回は、政子・義時と牧の方・時政が将軍をわが手にとの対立である。政子・義時が先手を打って実朝を引き取りにでる。不意を打たれた時政は屋敷が義時の手の者で囲まれたのを知って諦める。伊豆に籠もってじっとしていれば、自分たちも平賀朝雅も無事だろうと考えた。
こういう内容が「一」にまとめられてある。
「孫といわず、子といわず、父上も、したたかに、おやりなさいましたなあ、最早、後世のことをお考え遊ばしたところで、齢に釣り合わぬこととはもうされぬ」と政子に言う義時の声はそれまでの時政のやり口をよく表している。

巻末に編集者の村上光彦氏は、大佛氏にとって推敲とは削ることであったと書いているが、頷けることである。
「一」は北条家の代替わりによる時代の転換をしめす序章なので、それなりに作者は苦心されたのであろう。「二」に入ると、「牧の方のことがあってから、若い将軍に新しい日が始まった。郷国の伊豆にひき籠った時政の老後に、野望の種と成ったと見られていた平賀朝雅は鎌倉を離れて都にいたが、義時の計画どおり、同じ月の二十六日に不意に追手に襲われて落命した」とある。
ここで「牧の方のこと」と言われて読者は、はて、と戸惑う。それまでにこの表現は見当たらないのである。牧の方の讒言によって畠山父子と稲毛氏が殺戮されたこと、そして牧の方の野望の種であった平賀朝雅の殺戮まで含む一連の事件をひっくるめて指したものと考るほかない。大佛流の括り方なのだろう。ちょっと気になる表現であった。
ともかく、「一」は読解に苦労した。自分なりに相関図めいたメモを取って繰り返し読み直した。カッチリとまとまった記述のうちに実に恐ろしい人の心の動きが語られているのであった。あわせて自分の認識能力が弱いことに落胆した。次の「二」からは、世の中から血腥い争いが消え、実朝の物語となる。あとはすべてが読みやすくわかりやすい。
読後の感想として、実朝は実に素直な性質で、理非を本能的にわきまえた人物として描かれている。ただし生い立ちが植え付けた精神の真底には実に頑固な「自分」があった。浜辺に虚しく朽ちた「から船」がその象徴である。筆者は繰り返し読んだ「一」だけで一幕物の舞台になりそうだと考えたが、すでにあるのかもしれない。
ちなみに作品中には鴨長明の訪問が出ているが、実朝は長明の人柄にも歌にも深いものを感じることができなかったとされ、長明も滞在しながら次第に落ち着かなくなったと書かれている。長明が実朝に好意を覚えてはいても、容れられないものを感じたようだ。法華堂の柱に挟んだ歌にも実朝は、良い歌だろうかと首を傾げたという。評価はされなかった。この作品での長明は『吾妻鏡』に実朝訪問の記事が載せられているからお義理で登場させてもらった感じなのである。
さきの戦争末期から敗戦後にかけての作品であるが、編集者村上光彦氏は、この作品に戦争の影響はまったくないと作家を評価している。大佛氏は戦中もずっと鎌倉に住まいし、誰よりも鎌倉を愛するという気概を持たれていた。
読んだ本:大佛次郎『源実朝』六興出版 昭和53年(2020/1)