2019年5月26日日曜日

雑談 江戸の便り

『彗星夢雑誌』のことに引き続いて幕末維新期の「風説留」に関連した事柄を読み散らかしている。
風説を巷の噂ととらえれば、当時ではなんと言っても黒船来航のニュースである。最たるものは「たった四杯で夜もねられず」と銘茶の上喜撰に蒸気船をひっかけて、お上のテンヤワンヤぶりを皮肉った狂歌であろう。
嘉永六年六月三十日というホットな日付の手紙の末尾におまけのようにして知らせてきた江戸の書肆山城屋左兵衛が、市中で見たか聞いたかしたものであった。この手紙の受取人は常陸国土浦に住まう色川三中(いろかわみなか)という人物、この御仁は薬種商であり、醤油醸造元であり、また国学者であった。黒船当時はすでに子息に商売を任せ、自身は国学者として門人たちと黒船情報の入手に日夜熱を上げていたほか大砲など武器の製造研究もこころみていたそうである。
句の秀逸さが面白がられて一時は教科書にまで載ったという狂歌であったが、いつ頃の作であるかが知れなかった。それがなんと2010年にもなって判明した。所在は静嘉堂文庫所蔵の色中文書、発見者は元専修大学の斉藤純さん。ネットでは神奈川新聞と読売新聞が新史料発見と報道しているが、それらによると、明治11年に史料で確認されたのが最初ということから、後世の作品ではないかとの疑念が生じていた。それがまさに黒船騒動の真っ最中の「嘉永六年六月三十日」付の手紙で伝えられていたことがわかったのである。
Peaceman氏のブログ、PORTAGIOIEから拝借
子供の頃は周りが全て明治人という環境に育った筆者は、いつの頃かこの狂歌を記憶していたが、9年前のニュースを今頃知って、へぇと改めて驚いている。古文書というあの草書体の毛筆文は、ただ眼にしただけでは何が書いてあるか、つかみにくいものではあるが、すでに故人となった色川三中研究者の中井信彦氏でさえ、一度ならず眼にしたはずの文書で見つけられなかったのかという驚きもある。

さて、狂歌発見の報道にも出ていたと思うが、発見した研究者の斉藤氏は大久保真菅を調べていたとあった。この人物は色川三中に親しく教えを請うていた人であり、黒船来航の頃にはニュースを求めて二人三脚のように記録に現れる。下総国結城郡菅谷村の名主で黒船当時は50歳過ぎだった。三中に入門してから名主を長男に譲り、国学を学びながら色中の蔵書を筆写し、郷土史を編纂しながら、仙台藩儒者とも交流し、さらに水戸藩とのつながりを持つようになった。
色川三中は本草学を学んで破産に瀕した生家の薬種商を立て直して息子に任せ、自分は醤油醸造元の経営をしながら学問に向かった。思想的には地域が色濃く反映して尊攘派だったから、大久保真菅も傾向を同じくしたようである。真菅は、菅谷村領主との関わりを通して武士階層への不信や黒船対応時の失望などから、農民武装計画を練るなどもしていたが、最後は水戸藩の天狗党に参加した結果、自刃して果てた。
名主になって間もなく大飢饉に見舞われたり、家作が残らず全焼するなど不運があったにもかかわらず、家伝の山林を開発して新田を拓くなどして再建する真面目一徹な人柄であったが、直情径行の傾きが過ぎたのかもしれない。真菅については風説留すなわち情報研究の一環として岩田みゆき氏が大量の日記を研究されている。
その岩田氏の著書を読みながら筆者は歴史上の用語知識をいろいろ勉強させてもらった。用語の知識がないと著者の文意を正確にはとれなかったからである。おかげで徳川政権の治世に対する強みと制度維持に要する管理体制の大仰さがわかった気がする。
結城郡菅谷村というのは現在の茨城県結城郡八千代町菅谷(すげのや)の地に当たる。大久保家は天正の頃に出羽国から移ってきた郷士でこの土地の開拓地主だったらしく、菅谷村の一人百姓だった。それが元禄時代に地方直し(じかたなおし)という知行再編成改革がなされて、菅谷村は相給(あいきゅう)という複数領主制の領分になり、正徳二年(1712)には壬生藩領、天領、旗本の山本領・榊原領の四つに分かたれて幕末まで続く。大久保家もそれにつれて分化し、一族の中から分家によって名主を出し、真菅自らは壬生藩領菅谷村の名主を勤めた。岩田氏の著書には「正徳二年鳥居丹波守の領分になった時、郷士の称号を剥奪され、ただの「里正」となった」と記されている。この意味は農民でありながら武士とみなされる階級から、農民階級の里正におとされた、ということであろうが、里正にかぎ括弧がつけられている理由がわからないし、一般的に里正の職分もこのころになると地域によっても異なっているようで判然としない。いずれにしろ村方のまとめ役、年貢を納める責任者としての名主の職分を勤めていたとの理解で良さそうである。
ところで、この鳥居丹波守は下野壬生藩の初代として近江水口から移封されて三万石を与えられた。一方菅谷村の村高はどれくらいであったか、資料がないので不明であるが、岩田氏は大久保家の所持高を120石あまりと記している。壬生藩の領地は下野、下総を中心に大和、播磨にもわたり合計91カ村に及んでいる(Wikipedia、壬生藩「幕末の領地」による)。3万石と120石と91カ村を結ぶパズルを解く鍵を持たない筆者には見当がつかないが、藩主たるもの、それぞれの領地を代官で治めて、どのように財政を管理したのか謎だけが残る。わかっているのは時代が進むにつれて、武士階層が生活を維持できなくなるとともに、農民が年貢と夫役に困窮したことである。領主が村から先納金、御用金、調達金などの名目でする前借りが横行し、年貢収入で追いかけても返済ができなくなると「此度上ゲ金」と称して一部帳消しが行われたというから呆れるではないか。「上ゲ金」とは本来献納金のことだ。黒船来航の際には内陸の藩でも武具武器の調達に高額の御用金を申し付けたらしい。ということは時代はすでに変わっていて、農村には金があったということになる。自然のうちに商業的な動きが盛んになり農民層は才覚があれば作物の換金だけでなく余剰金を生み出すこともできていた。こういう趨勢は、さきの渋沢栄一の物語で学んだことでもある。大久保真菅は火事で家作を失って困窮した際には村全体の財政再建を図るために家伝の山林開発とともに尊徳仕法の導入を計画している。尊徳仕法、またの名、報徳仕法は言うまでもなく二宮尊徳が各地で教導して成功していた財政再建策である。「分度」と「推譲」という用語が使われるが、分に応じた金の使い方をして、余剰を生み出し、他を助けるというやり方だという。地元の小田原で家老の家の借財を整理して余剰金を差し出して有名になった逸話があるそうだけれども、見方を変えれば質素な節約生活の勧めみたいなことで、武家がいかに家計運用に暗かったかということではなかろうか。大久保家の場合は尊徳仕法に領主が関心を示さず、やむなく民間のつてを頼って尊徳翁の指導を願ったが、最後は真菅のほうが不信感を抱いたとかで実現はしなかった。
風説留関連でまとめるつもりの文章が思わず横道にそれたが、武家階層の没落、農村上層及び町方商人、一般知識層から起こった気運は、社会的革新をもたらすに至る。明治維新の評価は別にして、そこに至る道筋で風説留をめぐる人間関係が醸し出した「公論」世界(宮地正人氏)は至極まっとうなものだった。まだ情報という用語がなかった頃、歴代名主が文書を隠蔽している疑惑から揉め事が起こる事例や、文字に暗いことがバレた名主の事例やら、一揆の発端になりかねない事例など、現在の政治家・官僚にみられるような事象が多く見出される。筆者は非力無知のため、肝心の問題検討に到達する以前でもたついているが、政権に対する民衆の力という観点で見ると江戸時代、徳川の治世はなかなか興味深い。
参照した本:岩田みゆき『幕末の情報と社会変革』吉川弘文館 2001年
      中井信彦「色川三中の黒船一件記録について」三田史学会『史学』50号
      1980年、慶應義塾大学レポジトリ PDF オンラインAN00100104-
      19801100-0005.pdf
      神奈川新聞、読売新聞等の記事は以下の他、諸ブログによる。
      https://www.kanaloco.jp/article/entry-135851.html 
(2019/5)

2019年5月6日月曜日

南方熊楠と『彗星夢雑誌』


幕末維新の歴史を宮地正人氏の著作について読むうちに風説留という用語を教わり、典型の一つとして『彗星夢雑誌(すいせいゆめそうし)』の名があげられ、紀州日高郡の羽山某という人物を知らされた。日高郡の羽山と聞けば南方熊楠が再三夢にまで見た親友の若き兄弟がある。さては、と感じて調べにかかった結果が以下の拙文である。

柳田国男に宛てた書簡中に、熊楠が『彗星夢雑誌』の存在を知り、相当に執心であったことがわかるので引用する。
大正2年12月14日午後8時。(…)次の件は、他人に利害を及ぼすこと大なる惧れあるにつき、地名、人名、書名は一切略し申し候。また、さるべきことあるべき虞れなけれども、当分は他人にお話しなきよう願い上げ候。小生父出で候家といささかの縁ある者、ある村にて有名なる医たり。受領ごとき名前を付き、謂わば土豪にて、その人の一言にて近郷ことごとく騒ぎ立てたり。この人、安政か嘉永か、世の騒がしくなるべき前に、大彗星出でたる年あり。至って筆達者な人にて、世上騒がしくなるにつけ、いろいろ聞き込みたることども日々記し付け、また近地の風俗、その他いろいろ雑多のこと、大は将軍家の起居より小は長命丸の製剤方まで記し付けたるもの、和とじ百五十冊(中本)あり。小生、明治19年洋行前一宿し見たことあり。(中略)今も現存する由なり。小生洋行のとき一宿して少々写し抜きしもの今に存するを見るに、世に公にならぬ徳川幕末の記事珍しきこと多し。地方風俗、伝話等のことは、一つも抄しなきもいろいろ記しありしなり。(中略)しかるにまことに惜しきは、件の随筆百五十巻にて、小生当県で多く見たる文書中、かく巨細にかき集めたるものを見ず。(たしか艮斎、拙堂等との往復文、それより奇兵隊の隊長したる人などとも交際広かりし人ゆえ、いろいろの内実、今日に知れぬことども多く扣えあり。)かの一族死に絶えるは止むを得ぬとして、何とかこの書だけは写してでも抄してでも一本を内閣文庫辺に保留いたしたしと存じ候。(以下略す)以上は平凡社版全集第8巻より。
南方熊楠は「疾を脳症に感ずるをもって」大学予備門を退学した後、しばらく故郷の和歌山で保養していた。父親弥兵衛の実家、日高郡入野の向畑家をよく訪れ、またその足で遠縁に当たる北塩屋の羽山家を訪れている。羽山家には和歌山中学で親友だった1歳下の繁太郎と4歳下の蕃次郎がいた。熊楠がブラブラしていた明治19年春から秋にかけて何度か泊りがけで遊びに行っている。
『彗星夢雑誌』を遺した人物は羽山大学(1808~78)、名は維碩(いせき)、大学は号である。蘭方医で嘉永初頭に牛痘接種を日高郡内に広めた先覚者でもある。熊楠が交際した当時の羽山家の当主は大学の養子で医家を継いだ直記であったが明治35年に死去。六男二女の子沢山だったが男子は「将棋倒しのように」次々と肺病で亡くなり、四男茂樹がどうにか生き延びたが、昭和4年に卒中で死去して同家は断絶してしまった。熊楠は洋行したため一族との往来は絶えていたが、大正2年、田辺に寄宿していた末娘の季(すえ)と妻松枝が出逢ったことから、羽山家のその後の様子を知ることになる。大正5年5月には『彗星夢雑誌』を借りて抄録を始め、同7年3月に一応終わると年譜にあるが、筆者はその経緯を知らない。長女信恵は塩屋の豪家山田栄太郎に嫁いでいたが、熊楠が昭和2年、栄太郎に宛てた書簡には『彗星夢雑誌』の出版について触れた箇所がある。そのことから、『彗星夢雑誌』の管理はすでに山田家に移っていたと思われる。上述の次女季は御坊の材木商中川計三郎に嫁いだ。
昭和12年10月に『彗星夢雑誌』を抄録するために雑賀貞次郎を山田栄太郎に紹介している。この人物は熊楠を敬愛する地元の新聞記者で、はやくから著述関係の整理や外部交渉などを手伝っていた。雑賀によれば抄録は翌年秋に完成したという。現在この現物はどこにあるのだろうか。
以上のように熊楠は『彗星夢雑誌』の存在を知り、その歴史的な価値もよく理解していながら、どのようにしてこれを世に役立てられるか模索するだけで、内心は焦りながら終わってしまった。自分で処置ができない状況にあっただけに、まず保存の状態を心配し、つまらぬ商人などの手に落ちないよう山田家の人々に注意をし、せめて写しだけでも手元に置きたいと念願した様子がわかる。1941(昭和16)年12月29日午前6時30分、熊楠は逝った。腎萎縮、75歳。

筆者は冒頭に書いたように、宮地正人氏の著書の記述から『彗星夢雑誌』と南方熊楠の関係を知ったわけであるが、そのことがヒントになってインターネット上の情報をさぐると、中川木材産業株式会社の諸氏の手になるホームページに行き着いた。
そこには不完全ながらも『彗星夢雑誌』原本の影像やら羽山家の家系図まで出ている。それによって宮地氏の著書の注記にある『彗星夢雑誌』を持ち込んだ山田偉平氏とは榮三郎氏の長男であること、編纂所の目録にある現像所有者山田仁丸氏が次男であることを知り得た。宮地氏と『彗星夢雑誌』がどのようにして結ばれたのか不明であるが、同社のサイトの『彗星夢雑誌』のぺーじには、宮地氏が1988年におこなった講演の記録要旨があり、雑賀貞次郎氏が『彗星夢雑誌』の構成を説明されている記事も貴重だ。版権のことを考慮されたのか、どの資料も完全な姿で見ることができないのはいかにも残念である。原本の影像のページでは現代文訳を募っているが、奇特な有志が現れることを期待したい。

南方熊楠が衰えゆく我が身と亡国の戦に盲進した愛する故国にあって、行く末を案じた『彗星夢雑誌』は、いまやこれ以上はない最適所に安住の場を得た。そのうえ、デジタル化されて万人の目に触れることができるようになったとは、泉下で目をむいて驚いているにちがいない。羽山家縁者の諸兄姉にお喜びを申し上げる次第です。
さて、最後に羽山大学の『彗星夢雑誌』序文の一部を引用して終わることにする。黒船が浦賀に現われたことを契機に綴り始めたことを、その時分に彗星が出現したことと重ねて表題にした。嘉永6年秋7月と日付がある。
嘉永六癸丑年七月中旬ころより日々くれどきとりの下刻げこくより西北戌亥いぬいの間にあたりて奇なる星出現す、(…)箒木星ほうきぼしと唱え囂々ごうごうとしてかまびすし、(…)近き世に新に開く亜墨利伽アメリカ洲より一時いっとき千里走ると云火輪ひぐるま仕掛の船に乗り、ペルリとか云毛唐人、浦賀の港へ渡り来て、和親交易ねぎながら、国禁制度も聞入れず、暴威を振い猖獗しょうけつは、かたえに人の無き如く、吾皇国を蔑如して、もし交易を許さずば、忽ち兵を開かんと、江戸近海の人騒ぎ、かなえの沸が如くにて、又は石火矢を発射はなつとて坤軸こんじくくだきし其響き、耳を貫き目を覚ませば、只一睡の夢にして、傍をみれば蚊遣かやりの烟の中に鶏が啼吾妻の方の知己ともだちより、急の報知の雁の文章ふみとてや、遅しと封切りて読めば、不思議やあたりに、今見し夢の如くにて、彼アメリカの話聖東ワシントン、ペレシテントの国王より、使節彼理ペルリが渡来して、和親交易を願う由、吾妻の方の動揺は筆紙に尽し難しとて書誌かきしるしたる報知なれば、只ぼうぜんあきはて、(…)夢なればさめよ覚よと眼をすりて、夢路に綴る此ものがたりほうきの星もろともに掃き集めたるあくた、反故ほごかごいれられて、手巾しゅきんにならん夢紙なれば、自ら彗星夢雑紙と標号して灯下に誌す夢の記は、老て昼寝の目覚しなれば、人に見すべき文に非ず、只此上は大皇国おおみくに、かしこき君の出まして、国威を光輝てらし神風に醜の夷人えびすや箒星、船もろ共、西の海路に吹払らい、此夢はやく醒覚さませかしと、斯くいうものは紀伊の国日高川下に思う事汲て叶うる神の下に住めるあんずの宮の下の叟、夢路をたどりたどり誌す
 今上皇帝 御製
  白浪のよしよするとも なにあらむ 我秋津洲(あきつしま)は神風ぞふく     
                        (彗星夢雑誌 第一巻上)
中川木材産業(株)のサイトより。
参照した本:宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』1999年 岩波書店、同『幕末維新変革史』2018年 岩波現代文庫、『南方熊楠全集』平凡社版、津本、神坂、笠井各氏による伝記など。(2019/5)