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2019年5月6日月曜日

南方熊楠と『彗星夢雑誌』


幕末維新の歴史を宮地正人氏の著作について読むうちに風説留という用語を教わり、典型の一つとして『彗星夢雑誌(すいせいゆめそうし)』の名があげられ、紀州日高郡の羽山某という人物を知らされた。日高郡の羽山と聞けば南方熊楠が再三夢にまで見た親友の若き兄弟がある。さては、と感じて調べにかかった結果が以下の拙文である。

柳田国男に宛てた書簡中に、熊楠が『彗星夢雑誌』の存在を知り、相当に執心であったことがわかるので引用する。
大正2年12月14日午後8時。(…)次の件は、他人に利害を及ぼすこと大なる惧れあるにつき、地名、人名、書名は一切略し申し候。また、さるべきことあるべき虞れなけれども、当分は他人にお話しなきよう願い上げ候。小生父出で候家といささかの縁ある者、ある村にて有名なる医たり。受領ごとき名前を付き、謂わば土豪にて、その人の一言にて近郷ことごとく騒ぎ立てたり。この人、安政か嘉永か、世の騒がしくなるべき前に、大彗星出でたる年あり。至って筆達者な人にて、世上騒がしくなるにつけ、いろいろ聞き込みたることども日々記し付け、また近地の風俗、その他いろいろ雑多のこと、大は将軍家の起居より小は長命丸の製剤方まで記し付けたるもの、和とじ百五十冊(中本)あり。小生、明治19年洋行前一宿し見たことあり。(中略)今も現存する由なり。小生洋行のとき一宿して少々写し抜きしもの今に存するを見るに、世に公にならぬ徳川幕末の記事珍しきこと多し。地方風俗、伝話等のことは、一つも抄しなきもいろいろ記しありしなり。(中略)しかるにまことに惜しきは、件の随筆百五十巻にて、小生当県で多く見たる文書中、かく巨細にかき集めたるものを見ず。(たしか艮斎、拙堂等との往復文、それより奇兵隊の隊長したる人などとも交際広かりし人ゆえ、いろいろの内実、今日に知れぬことども多く扣えあり。)かの一族死に絶えるは止むを得ぬとして、何とかこの書だけは写してでも抄してでも一本を内閣文庫辺に保留いたしたしと存じ候。(以下略す)以上は平凡社版全集第8巻より。
南方熊楠は「疾を脳症に感ずるをもって」大学予備門を退学した後、しばらく故郷の和歌山で保養していた。父親弥兵衛の実家、日高郡入野の向畑家をよく訪れ、またその足で遠縁に当たる北塩屋の羽山家を訪れている。羽山家には和歌山中学で親友だった1歳下の繁太郎と4歳下の蕃次郎がいた。熊楠がブラブラしていた明治19年春から秋にかけて何度か泊りがけで遊びに行っている。
『彗星夢雑誌』を遺した人物は羽山大学(1808~78)、名は維碩(いせき)、大学は号である。蘭方医で嘉永初頭に牛痘接種を日高郡内に広めた先覚者でもある。熊楠が交際した当時の羽山家の当主は大学の養子で医家を継いだ直記であったが明治35年に死去。六男二女の子沢山だったが男子は「将棋倒しのように」次々と肺病で亡くなり、四男茂樹がどうにか生き延びたが、昭和4年に卒中で死去して同家は断絶してしまった。熊楠は洋行したため一族との往来は絶えていたが、大正2年、田辺に寄宿していた末娘の季(すえ)と妻松枝が出逢ったことから、羽山家のその後の様子を知ることになる。大正5年5月には『彗星夢雑誌』を借りて抄録を始め、同7年3月に一応終わると年譜にあるが、筆者はその経緯を知らない。長女信恵は塩屋の豪家山田栄太郎に嫁いでいたが、熊楠が昭和2年、栄太郎に宛てた書簡には『彗星夢雑誌』の出版について触れた箇所がある。そのことから、『彗星夢雑誌』の管理はすでに山田家に移っていたと思われる。上述の次女季は御坊の材木商中川計三郎に嫁いだ。
昭和12年10月に『彗星夢雑誌』を抄録するために雑賀貞次郎を山田栄太郎に紹介している。この人物は熊楠を敬愛する地元の新聞記者で、はやくから著述関係の整理や外部交渉などを手伝っていた。雑賀によれば抄録は翌年秋に完成したという。現在この現物はどこにあるのだろうか。
以上のように熊楠は『彗星夢雑誌』の存在を知り、その歴史的な価値もよく理解していながら、どのようにしてこれを世に役立てられるか模索するだけで、内心は焦りながら終わってしまった。自分で処置ができない状況にあっただけに、まず保存の状態を心配し、つまらぬ商人などの手に落ちないよう山田家の人々に注意をし、せめて写しだけでも手元に置きたいと念願した様子がわかる。1941(昭和16)年12月29日午前6時30分、熊楠は逝った。腎萎縮、75歳。

筆者は冒頭に書いたように、宮地正人氏の著書の記述から『彗星夢雑誌』と南方熊楠の関係を知ったわけであるが、そのことがヒントになってインターネット上の情報をさぐると、中川木材産業株式会社の諸氏の手になるホームページに行き着いた。
そこには不完全ながらも『彗星夢雑誌』原本の影像やら羽山家の家系図まで出ている。それによって宮地氏の著書の注記にある『彗星夢雑誌』を持ち込んだ山田偉平氏とは榮三郎氏の長男であること、編纂所の目録にある現像所有者山田仁丸氏が次男であることを知り得た。宮地氏と『彗星夢雑誌』がどのようにして結ばれたのか不明であるが、同社のサイトの『彗星夢雑誌』のぺーじには、宮地氏が1988年におこなった講演の記録要旨があり、雑賀貞次郎氏が『彗星夢雑誌』の構成を説明されている記事も貴重だ。版権のことを考慮されたのか、どの資料も完全な姿で見ることができないのはいかにも残念である。原本の影像のページでは現代文訳を募っているが、奇特な有志が現れることを期待したい。

南方熊楠が衰えゆく我が身と亡国の戦に盲進した愛する故国にあって、行く末を案じた『彗星夢雑誌』は、いまやこれ以上はない最適所に安住の場を得た。そのうえ、デジタル化されて万人の目に触れることができるようになったとは、泉下で目をむいて驚いているにちがいない。羽山家縁者の諸兄姉にお喜びを申し上げる次第です。
さて、最後に羽山大学の『彗星夢雑誌』序文の一部を引用して終わることにする。黒船が浦賀に現われたことを契機に綴り始めたことを、その時分に彗星が出現したことと重ねて表題にした。嘉永6年秋7月と日付がある。
嘉永六癸丑年七月中旬ころより日々くれどきとりの下刻げこくより西北戌亥いぬいの間にあたりて奇なる星出現す、(…)箒木星ほうきぼしと唱え囂々ごうごうとしてかまびすし、(…)近き世に新に開く亜墨利伽アメリカ洲より一時いっとき千里走ると云火輪ひぐるま仕掛の船に乗り、ペルリとか云毛唐人、浦賀の港へ渡り来て、和親交易ねぎながら、国禁制度も聞入れず、暴威を振い猖獗しょうけつは、かたえに人の無き如く、吾皇国を蔑如して、もし交易を許さずば、忽ち兵を開かんと、江戸近海の人騒ぎ、かなえの沸が如くにて、又は石火矢を発射はなつとて坤軸こんじくくだきし其響き、耳を貫き目を覚ませば、只一睡の夢にして、傍をみれば蚊遣かやりの烟の中に鶏が啼吾妻の方の知己ともだちより、急の報知の雁の文章ふみとてや、遅しと封切りて読めば、不思議やあたりに、今見し夢の如くにて、彼アメリカの話聖東ワシントン、ペレシテントの国王より、使節彼理ペルリが渡来して、和親交易を願う由、吾妻の方の動揺は筆紙に尽し難しとて書誌かきしるしたる報知なれば、只ぼうぜんあきはて、(…)夢なればさめよ覚よと眼をすりて、夢路に綴る此ものがたりほうきの星もろともに掃き集めたるあくた、反故ほごかごいれられて、手巾しゅきんにならん夢紙なれば、自ら彗星夢雑紙と標号して灯下に誌す夢の記は、老て昼寝の目覚しなれば、人に見すべき文に非ず、只此上は大皇国おおみくに、かしこき君の出まして、国威を光輝てらし神風に醜の夷人えびすや箒星、船もろ共、西の海路に吹払らい、此夢はやく醒覚さませかしと、斯くいうものは紀伊の国日高川下に思う事汲て叶うる神の下に住めるあんずの宮の下の叟、夢路をたどりたどり誌す
 今上皇帝 御製
  白浪のよしよするとも なにあらむ 我秋津洲(あきつしま)は神風ぞふく     
                        (彗星夢雑誌 第一巻上)
中川木材産業(株)のサイトより。
参照した本:宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』1999年 岩波書店、同『幕末維新変革史』2018年 岩波現代文庫、『南方熊楠全集』平凡社版、津本、神坂、笠井各氏による伝記など。(2019/5)







2014年12月23日火曜日

「以羊易牛」ということ

来年は羊の年だと思いついて南方熊楠の「十二支考 羊に
大正八年一月号『太陽』表紙
関する民俗と伝説」を読みはじめたはよいが、「羊をもって牛にかえる」という言葉の内に含む意味が字義のとおりではないことに不審を持ち、戸惑っている。

和歌山県田辺市にある旧熊楠邸は、現在南方熊楠顕彰館として種々の事業の中心になっている。毎年暮れから新春にかけては、吉例十二支考輪読というイベントが行われている。今年もホームページに案内が出ている。
www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i141206 

案内文に簡単な紹介がある。「十二支考」は古今東西の書物からテーマとする動物についての生態や伝承、民俗などを引用するだけでなく、熊楠独自の見解を書き連ねているが、情報が多く詰まりすぎだとしている。そのため著作の中で、もっとも難解だという。まことにその通りで、まるで大風呂敷からぶちまけられたような事物や伝聞を自由自在に書き連ねるさまは、読者にとってはときに非常に迷惑なものになっていると筆者も思う。しかし大した力業だと感心する。

さて、羊に関してとはいうものの、事物について「羊」が付いたもの一切、つまり、動物としては羊と山羊が仲良く混じっているし、植物では羊歯類なども含まれる。「独自の見解」による説明や文章にも、たとえば「セルビアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく」など、時世に見合った漫談風の言い回しも絶妙で、そのつもりになって読めば大変に面白い読み物である。原書の訳語には『動物智慧篇』に「アニマル・インテリジェンス」と原題をフリガナで表示するなど勉強もさせてもらえる。

それはともかく、ここでは筆者が頭をひねっている成句「以羊易牛」に主題をかぎることにする。羊をもって牛にかえる、易はとりかえるの意味。登場するのは孟子の言行録の『孟子』梁恵王の章句第七章である。

古代のシナの戦国時代、斉の宣王が自分にうまく国が治められるだろうかと孟子に問うたことで交わされる問答。概要を意訳でまず述べておく。

宣王が祭儀の生贄に曳かれてゆく牛を見かけて、牛をゆるしてやれと言ったところ、では祭儀は取りやめかとの問いに、いや、羊を牛にかえて執り行えと命じたそうだが、と孟子が訊くとその通りだとの答え。そこで孟子は、それでこそ王の資格がある。百姓は王が牛を惜しんだと言っているが、私には王の心がわかっている、と言う。王は、牛を惜しむなどとは心外なことをいう人々だ。罪もないのに殺されにゆく牛が可哀想だから羊に代えよと言ったまでなのに。それにしても人々がそのように受け取るのももっともなことではあるな、と困惑する。

王が困惑したところで孟子は助け舟を出した。
王が大きな牛を小さな羊に代えよと言ったから、王の意中を知らない人たちが、王が牛を惜しんだと受け取ったのだ。罪もないのに殺されるのが忍びないのは牛であっても羊であっても変りはあるまい、と孟子。
王はそれはそのとおりだが、なぜあのような気持ちになったのか自分でもわからぬと考え込む。

孟子は、噂は気にしないでよろしい。それが仁の道なのだ。あなたは牛は見たが羊は見ていない。君子は鳥や獣の姿を見たからにはそれを殺すには忍びないし、声を聞いたからにはその肉を食するに忍びない。だから君子は調理場を遠ざけるものだという、と説くと王は喜んで、詩経に「他人心あり、われ忖度す」とあるのは先生のことだ、先生はよく私の心が読めたと褒める。(この後は省略)

「殺すに忍びないのは牛でも羊でも変わりはない」というなら、この場の羊の処置はどうなるのかという疑問がわくのは筆者だけではないだろう。ところが孟子は「それが仁の術だ。牛は見たが羊はまだ見ていない」と片付けてしまう。これがどうにも腑に落ちない。

ちなみに、原文の「是以君子遠庖廚也」は『礼記・玉藻』の「君子遠庖厨,凡有血気之類弗身践」を踏まえていることを他で知った。
立命館大学の夏剛教授は「君子遠庖厨」の言葉は、殺生に立ち会うことへの良心の抵抗ではあるが、血なまぐさい場面を忌避しつつ、その肉を後でしっかり食べるのは名分と実益を両立させる虫のよい計算か、と皮肉っている。また同教授は、「無傷也、是乃仁術也」は、民衆の評価で心を痛めることはなく、(これすなわち)王の思考・行動は仁の心の働きだ、とも解されるとする。そのうえで、「遠庖厨」論に対して、『詩経』の「他人有心、予忖度之」を引き「夫子之謂也」と感心した、と続けている。なかなか穿った見解であり、この見方なら、宣王はあたかもすでに王の心を持っていながら羊に代えよといった自分の心の奥底に気が付いていなかったということになる。ただし、この夏教授の説といえども文字の意味ではなく、文化の底流にある行間の読み方なのかもしれないと思うが、羊の問題はやはり処理できていないのではなかろうか。
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol13-2/ka.pdf

さてさて、本来の熊楠さんの説に戻ることにしよう。熊楠は、まず馬琴の『亨雑記』(にまぜのき)に拠って馬琴の解釈を述べる。
馬琴は王の意中を解説して次のようにいう。小さいもので大きいものの代わりにする意味ではない。また、牛を見て、まだ羊を見ていないからというのでもない。おどおどしていて罪もないものを死に追いやるようなことは忍びない。それゆえ羊にかえたのだ、と。
つまり、羊は死をこわがらないから牛の代わりにせよ、と言ったのだ。もし、羊でなくても豚でももよかったろう。それはともかく、孟子は牛と羊の性質を論じることはしないで、ただこういうことを言ったのだ。

「牛を見たが、羊は見ていない。君子は鳥や獣の生きているところを見ては殺すに忍びない。声が聞こえているなら、その肉を食するのは忍びない。こういうことだから君子は厨房を身辺から離れた場所に置くのだ」と。これは仁の心の持ち主を言う言葉であり、こういう人が堯舜のような名君になれるのだ。

以上は馬琴による説明だと熊楠は注をつけて、あらたに次のことを披露する。

志村知孝は、説明としてはちょっとおかしくないかとこれに異議を唱えた。
宣王が「羊をもって牛の代わりにせよ」と言ったのは、孟子が言うように「小をもって大の代わりにせよ。牛を見て羊は見ない」という意味であって、牛は死ぬことをたいそう怖がるから殺すに忍びないとか、羊は恐れないから牛の代わりにせよと言ったのではあるまい。このことは孟子が、「王がもし罪もないのを殺すことをあわれむのならば、牛だ羊だと選ぶことはないではないか」と言っていることで明らかであろう。宣王がもし牛は死を恐れるが羊は喜ぶから牛の代わりにせよというのならそう説明すればよい。その説明なしに羊にかえよというから、かえって人は戸惑うはずだと。(原注:『古今要覧稿』五三一巻末)

(筆者注:『古今要覧稿』は屋代弘賢(1758-1841)が編纂、560巻。屋代病没のため千巻の予定が未完に終わる。志村知孝は弘賢の知友の会合で編纂された同人誌へ寄稿者として名前が出ているが、それ以上のことはわからない。)

次に熊楠は牛と羊の殺される際の様子を記述した事例を自分の体験も含めて提示する。羊は黙って殺されるということが多いようなので、牛と羊の死に臨む様子の違いについてはどうやら馬琴の言うとおりらしいと結論する。そこで、「羊をもって牛にかえよ」としたくだりを提示して次のように解説している。

実は王は、牛は大層死を怖がるが羊は殺されても鳴かないから、小の虫を殺して大の虫を生かせというつもりでこのように言ったのだが、国人は王が高価な牛を惜しんで廉価な羊と代えよと言ったと噂した。
そこで孟子は王といろいろ問答した結果、王は牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺されると説明すべきことを思いつかなかったと弁明した。そこで孟子は王のために「牛を見ていまだ羊を見ざるなり、云々」と弁護してやったので王は喜んで、「詩経にいう『他人心あり、われこれを忖度す』と。これは先生のことですね。私は自分でやっておきながらどういうわけなのかわからなかったけれども、先生はよく私の意中が読めましたね」と褒めた。肉食が日常のシナでは羊は牛ほど死を恐れないくらいのことは、人びとは幼いころから知り尽くしていたので、かえって羊が死を恐れないとの説明を思いつかなかったのだ、と結末をつけている。

羊に関する話は、ここに挙げた議論のほかにも世界各地の伝聞を文献で克明に拾っている。孟子の逸話で熊楠の指向した主題は殺されるときに鳴き声を発するかどうかということにある。宣王との問答以外にも「唖羊僧」という語は法を説かない僧侶をいう言葉で、その由来は羊のようにものを言わないからだ、などと数多い伝説や習俗が集められている。

取り上げられた宣王の発言「以羊易牛」に隠された意味について、熊楠は食用に資するため羊が黙って殺されてゆく日常に暮らす人々の社会心理に結論を見出したようにみえる。つまり、日常茶飯事なので憐れみを感じるに至らないということか。
また、羊は見ていないから問題外とするかのような孟子の意見も腑に落ちにくい。現代でも眼に見える対象にしか考えが及ばない人々は確かにいるだろう。途上国での技術指導などでなぜそうするかの説明には、結果を眼前に実現して見せる必要があったりする。地図というものを全く理解できない人たちもいると聞いた。それとは別に、ふだん、鶏の唐揚げが好物だとしていながら、鳥ウイルス対策でいちどきに4千羽処分などの報道を見れば、さすがに可哀想だという気持ちがわくのも、何か共通していそうだ。

「牛は見たが羊はまだ見ていない」、「君子庖厨を遠ざける」、この二つが「羊をもって牛にかえ」た理由であって、それが仁の術だとする。どうもつながりが理解できない。その前にもう一つある、「罪なくして死に就くのをいたむなら牛だ羊だと選ぶことはあるまい」、これもどうつながるのだろう。

さんざんネットの中を探し回っていると、「見ないものに対しては、心の奥にある仁心がまだはたらいて来なかったまでである」という解釈が出てきた。仁の心とはずいぶん変なものだとは思うが、これが孟子の趣旨らしい、と割り切ればどうやら煩悶から抜け出られた気分になる。

この解釈は「昭和漢文叢書「孟子新釈(上)」弘道館発行1929年」によっている。
著者は内野 台嶺(うちの たいれい、1884年4月29日 - 1953年12月14日)
blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51120333.html参照
同じ解釈が内野熊二郎『孟子』(新釈漢文大系) 明治書院 昭37 にもある。後者の著者については前者の著者と姓が同じであるが身内か他人かわからない。まったく同じ文章の「通釈」が載っているから、理屈はどうであれ、日本での定説なのであろう。

原文には、(前略)無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、…(後略)とあって、「見ないものに対しては…」という説明の句などない。読み手が補って都合よく解釈するということなのか、そうであれば漢文とは便利なものである。筆者の世代は中学1年の時間割に漢文があったが、1学期中は農作業と勤労奉仕で授業はなく、夏休みに敗戦が決まって2学期から漢文がなくなった。だからというわけではないが、漢文の読み方は知らないままで過ごしてきた。

漢文にはテニオハがない。この解釈者は「牛を見ていまだ羊を見ざればなり」と訓読している。未見羊也を「いまだ見ざるなり」とはしないで、「見ざればなり」とするのは読み手の自由なのだろうか。
いずれにしろ、こうやって自在に読めば問題はなくなる。それでも、羊を見なければ殺しても平気なのか、との疑問は消えない。

王道の根幹である「忍びざるの心」こそすなわち仁心である。孟子は、それがだれの心にも生まれつきに備わっているということを強調した。いわゆる性善説である。(金谷 治『孟子』岩波新書 昭和41)

「以羊易牛」の逸話は、仁を説く発端であって、このあとも王と孟子の問答は続き、王の心に萌した仁の心を外向けにどんどん伸ばしてゆくことにより、次第に民心全体を治めることができましょうと説くのである。それはよいとしても、君子の眼の届かないところで羊はどんどん殺されてゆくことになる。性善説ならこんなはずはないだろうとは思うものの、孟子が羊の面倒を見たとはどこにも見当たらなかった。

南方熊楠は「羊の民俗と伝説」の冒頭に「流行感冒の病上りでふらつく頭脳で思いつき次第に書き出す」と断っているから、くだくだとわからず屋の読者の相手など面倒になったのかもしれない。

ところで、筆者は祭儀のためと書いたが、それは鐘に血を塗るという儀式で牛は生贄である。王が曳かれゆく牛を見たことを原文は次のように書く。
「将以釁鐘、王曰、舎之、吾不忍其※(「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48)※(「角+束」、第4水準2-88-45)(こくそく)若無罪而就死也」<将に以てチヌらんとす。王曰く、これを舎け(おけ)。吾そのコクソク若(ぜん)として罪なくして死地に就くに忍びざるなり。>
(コクソクぜんとしては、おどおどする様子。)
幸田露伴は「連環記」の中で動物の生贄について「コクソクたる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、どうも善い事か善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである」との一節を遺している。『孟子』を踏まえての言葉ではなかろうか。
そしてこの鐘に血を塗ることに関しては寺田寅彦の頼みに応じて克明に調べた。のちに『釁考(きんこう』として発表した。結果は鐘に血塗る行為がいかなる意味合いを持つか確実なことは不明に終わっているが、岩波の全集19巻の実に55ページを割いている。かたや訊いた側の寅彦は科学者らしい分析を随筆に遺している。青空文庫で読むことができる。寺田寅彦「鐘に釁(ちぬ)る」www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2353_13800.html

熊楠も孟子の結論に続けて簡単に説明している。「この鐘に血塗るということ、むかしは支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑』云々…(後略)」。

南方熊楠全集 第一巻 十二支考 (昭和46年2月20日 平凡社)所収、
「羊に関する民俗と伝説」初出;大正八年一月『太陽』二五巻一号)

(2014/12)

2014年6月25日水曜日

読書随想 武内善信 『闘う南方熊楠  「エコロジー」の先駆者』(勉誠出版,2012年)

著者武内氏は、和歌山市和歌山城整備企画課、前和歌山市立博物館主任学芸員であり日本近代史研究の歴史家でもあります。早くから熊楠資料の調査に関係し、特に1992年から13年間にわたる旧熊楠邸蔵置資料の悉皆調査に参加しています。

著者が玉手箱みたいだというこの悉皆調査では様々な資料が発掘されて終了しましたが、現在は手分けして、分析・翻字作業が続けられています。この膨大な資料は実家に居づらくなった熊楠が終の住まいとなる田辺に居を定めた機会に、実家から移されたロンドンから持ち帰った資料が含まれますが、もし、そのまま実家に保管されていれば和歌山全市が焼失した空襲で灰になっていたことは間違いありません。事実、実家に遺されていた弟常楠宛の書簡などはその貴重な内容とともに失われてしまいました。

熊楠研究家達が調査に取りかかるまでの道はまったく心細い感じでした。私は1965年完成の白浜の記念館と田辺市の南方旧邸を2000年にようやく訪れることができましたが、いまや立派な顕彰館も完成しているようで往時から見れば夢のようです。関係者のご努力に頭が下がります。現在平凡社の南方熊楠全集全12册(1971ー1975)がありますが、いずれ新しい調査研究資料を加えた全集発刊も考えられているそうです。なんでも40巻くらいになるとの予想だそうで驚きます。
南方熊楠旧居2000年10月31日当時(非公開)
さて、著者は常に一次資料に基づいて検証することを徹底しますが、熊楠のような歴史的な人物調査に当たっては、次のような研究方針を定めています。
1.その人の置かれていた歴史的環境の認識、
2.言説や行動の史料批判に基づいた実証的な究明、
3.現代の目ではなく、同時代の目で歴史の流れの中に位置づける評価。

このように著者は歴史研究者としての実践をこの著書で報告していますから、本書はかなり専門的になっています。難解な用語や文章はありませんが、読者には時代や歴史的事実について知識が要求されます。

著者が参加した調査で発見した資料の紹介と、それらの資料が物語る内容の解説を主題としたアメリカ時代の章では、渡米以前の熊楠が民権運動に強い関心を持っていたことと交友関係、在米時代前半には条約改正反対を含めた反政府活動に荷担していたことが明らかにされます。ここでの結論は国家に絡めとられない生き方と世界的な視点を身につける熊楠が誕生したことです。

次に大きく扱われている章は神社合祀反対運動とエコロジーについての章です。ここでは神社合祀反対と、鎮守の森保存のどちらが主題であったかがまず論じられます。次いで、政策や民間運動で自然保護という言葉の内容がどのように扱われていたか、エコロジーという用語がどのように理解されてきたかを扱っています。
ここで読者は明治政府の神社政策の変遷と被害の実態を勉強しなくてはなりません。そして、さらに当時の熊野の山林はもはや原生林的な照葉樹林ではなかったことを教えられます。

粘菌発見場所の消失への嘆きから発意される熊楠の神社合祀反対または鎮守の森保護運動は、貧窮のなかで七千円もの費えを投じて十一年間続きます。そこでなされた熊楠の訴えは現在でいう生態学的視点からの森林保護であり、入会権などに見られる森林や漁民の生活権を守る運動であり、英米独などに於ける自然保護の動向を紹介する啓蒙であったのです。
同時に読者は内外を問わず、また時代を問わず、貧しい思想と利権に走る政治家による施策の人類資産費消の愚を嘆くという現代に通じる問題に向き合うことになります。

というわけで、本書の記述のいちいちについて述べることはとうてい出来ませんけれども、調査に当たった同僚論文の考察も含めて、著者の偏向しない真摯な研究心にうたれました。

南方熊楠資料研究会と南方熊楠顕彰会のウエブサイトが運営されていますので、参考までに紹介しておきます。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/

minakatakumagusu.web.fc2.com

余談ですが著者のロンドン訪問紀行も楽しく読ませてもらいました。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/articles/takeuchi02.html

また、熊楠について知るには田辺の観光案内のお嬢さんのブログがあります。
tktb.seesaa.net/article/208980619.html


2014年6月19日木曜日

小さな発見 女化開拓のこと--熊楠の謎の一つが分かった

1886年末に渡米した南方熊楠は上陸したサンフランシスコにしばらく留まった後、ミシガン州ランシングにあるミシガン農学校に入学した。なぜこの地を選んだのか。 熊楠の経歴について、このことは長らく私の疑問であったが、久しぶりに関連図書を読み出したところ判明した。しばらく熊楠問題から遠ざかっていた間に研究も進み、新著もいくつか出版されたおかげである。 当座の疑問は解決したが、副産物が出てきた。それが「女化」である。 女化は地名、関西人の私にとっては当初読み方も分からない不思議な地名としか思えなかった地域でした。読み方は「おなばけ」、現在は茨城県牛久市女化町(オナバケチョウ)という町名になっていますが、民間伝承の豊かな古い地名です。
一時期、この地を通過する道路をよく利用しましたが、あるとき大々的な拡幅工事が始まったかと思うと、あっという間に細い地道が立派な幹線道路に生まれ変わりました。あれは確か筑波万博に付帯する事業だったのでしょう。本稿末尾注⑵『女化』の文字を発見して、つい懐かしい思いから背景事情を追いかけてみました。
明治11年より和歌山県士族津田出が開拓をはじめた女化ケ原は、日本で最初の洋式大農法で開拓されました。
写真はpainreef3108さんのをお借りしました。
Wikipedia記載の歴史には「元は荒涼とした草原地帯であったが、1878年(明治11年)、津田出により、大規模農場経営の第七農場として開発が始まった。後に経営は破綻し、土地は日本全国からの入植者に払い下げられた」とあります。

熊楠の研究者(注1)は熊楠がランシングの農学校を選んだ理由を探索するうちに1883-1884年当時の在校生名簿にMichitaro Tsudaという日本人らしい名前を発見しました。次いで、この人物が津田出の長男道太郎であることが確認されたのです。津田出は明治初年の和歌山藩の大参事として藩政改革に功労のあった人物で近代陸軍の基礎を作りました。新政府に移行して後、辞任して1878年にアメリカ式大農法の試みを始めます。その土地が女化だったわけであります。

荒蕪地の女化原の開拓はお雇いアメリカ人デダフルシュ・アップ・ジョンズ(注2)が内務卿大久保利通に提言して、津田によって実行に移されたようです。このために長男道太郎を農学校に留学させる必要が生じたのかもしれませんし、アップ・ジョンズが勧めたのかもしれません。いずれにしても、日本人津田道太郎がミシガン農学校に在学した事実がありました。

さて、この津田道太郎の弟安麿が熊楠の大学予備門当時に和歌山学生会を結成した仲間でした。熊楠の日記1886年11月20日条に「朝津田安麿氏と倶に其兄道太郎氏を訪、米国事情を聞く」と書いています。さらに、11月30日にも訪ねています。農学校の入学には卒業生津田道太郎を保証人に立てています。こういう事情が判明すれば、熊楠が縁故をたどってミシガン農学校を選んだことは明らかです。しかし、アメリカの学問や授業、寄宿舎生活などへの不満が募った模様で1888年11月17日寮を出てアナバーに向かいました。そして、そのまま退学してしまいます。熊楠の在学履歴はこれを最後にして、以後は生涯独学で研鑽することになります。

このようなわけで熊楠に関する謎の一つが解けましたが、津田出という人物を知り、さらに大農場経営という事業計画の存在を知りました。
お雇い外国人アップ・ジョーンズについては今のところ資料が見つかりません。ただ、千葉県謎解き散歩2、森田保編著という本に大久保利通の政策でジョーンズが手がけた牧羊計画が紹介されています。

本稿の参考図書:武内善信『闘う南方熊楠 エコロジーの先駆者』(2012年勉誠出版)。
(注1)アメリカ調査の全体については、横山茂雄・中西須美・松居竜吾『ランシング・アナ-バー時代の南方熊楠ーーアメリカ調査報告ーー」(『熊楠研究』五号、2003年)
(注2)『女化』(女化開拓史刊行委員会編、エリート情報社、1985年)42頁
ただし、注1注2とも未見。