2016年2月24日水曜日

『童謡の近代』 岩波現代全書を読んでみた

童謡という言葉がある。この漢字、「童」は元来奴隷のことだそうで、中世の頃ニンベンに童を書いた「僮」であるべきところを誤って「童」が使用されてしまったという。したがって「僮」が本来「わらべ、しもべ」を意味する。「謡」のほうの意味は言を長くのばしてうたうことだそうだ。
漢字で童謡と書いてドウヨウと読むが、和訓は「わざうた」であり、古代では純真な子どもの口を借りて神意を告げることを意味した。また、「わざうた」は風刺や裏の意味を伝える出所不明の「はやりうた」を指すようにもなった。「わざうた」がいつのころから童謡と漢字で表され、ドウヨウになったかわからないが「わらべうた」の意味が加わるのはおそらく漢字になってからだろう。たとえば、僧行智編『童謡古謡』文政三(1820)年がある。これは「わらべうた」の採集だ。

ところで現代的な意味での童謡がいつごろ出て来たのかについては、鈴木三重吉の『赤い鳥』1918(大正七)年が嚆矢であるとするのが定説になっている。けれども創刊号に載っていたのは童謡「りすりす小栗鼠」、北原白秋作で見開き頁に詩と挿絵があるだけ、曲譜はない。しかし童謡とあるからには古来意味したようにうたうことが意図されている。白秋の理想は子供の感情から自然に生まれ出た言葉なり歌が本来の童謡だとしていた。これは「わらべうた」の伝統を踏まえたものかも知れない。とは言うものの、無心に歌うという以上のことを白秋は示さなかった。

三重吉の提唱する理想に応じて白秋は詩を提供した。ヨミガナが付いている。「杏の実が赤いぞ」には「あんずのみィがあァかいぞ」のように、伸ばす音を示している。作詞した白秋自身がそのように歌ったのだという。子どものように歌うことを理想とした白秋は幼児の喃語を写すことを考えたりもした。だがこの段階では「読む歌」でしかなく、子どもが自分で歌うには大人に読んでもらうしかなかった。子どもの間で歌が普及するには「耳で聞いて覚える」ことが先決だ。読者からは譜がほしいと要望が増えてきたが自分の詩に曲が付けられることに白秋は必ずしも賛成しなかった。三重吉の方は創刊以前から小学唱歌に変わる楽曲形式の唱歌を構想していた。
根本的なところで一致していなかった鈴木三重吉と北原白秋の組み合わせは、やがて白秋が尊敬する唯一の作曲家山田耕筰と組み、創刊以前から鈴木を助けてきた成田為三が白秋に取って代わった。創刊二年目にして成田作曲の「かなりや」の譜が紙面を飾る。作詞者は西条八十である。

創刊時の標榜語、「「赤い鳥」は世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現を迎ふ、一大区画的運動の先駆である」は変更され、「・・・現代第一流の作家詩人、作曲家の誠実なる努力を集め・・・」の文言が加わった。言ってみれば文芸から音楽への転向である。鈴木が早くから指向する児童音楽と大衆文化事業の方向がここに固まった。
ただ雑誌に楽譜を印刷することは経営的には苦しい作業であった。「何しろ東京中で楽譜を組むウチが一軒(職工二人)しかないので、赤い鳥ナンゾは非文明的にもコツリコツリ木版で彫らせています」との談が残っている。

このように童謡が誕生するまでには、いまの我々には考えつかないような苦心があった。上に述べてきたことがらは、『童謡の近代』―メディアの変容と子ども文化ー、周東美材(しゅうとう よしき)著、岩波現代全書(2015年)を読んでみた回想の一部である。
「近代日本で子どもはいかに文化の担い手となったのか。音楽と文芸とのせめぎ合いのなかで、「童謡」を大衆文化へと発展させた北原白秋、鈴木三重吉、本居長世・みどり親子らの活動を追う。明日の「スター誕生」を夢見る歌声文化の魅力と変容を、100年前に創刊された雑誌『赤い鳥』とその周辺のメディア産業に探る。」
表紙カバー折り返しにある謳い文句である。この通りではあるが読みやすい本ではなかった。なにしろ博士論文の初単行本なのである。社会現象を含めて一々の事柄については繰り返し読み返せばようやく読者自身が歴史を体現しているように理解できる。
1920年代までを考察の対象にしているため、かろうじて生き延びている私が懐かしさを感じるはずの昭和前期は登場しない。

明治以前のお伽話が童話にかわり、江戸時代の「わらべうた」しかなかった子どもの歌が童謡として生まれた。節もなかった詩に曲が付けられて今の形が出来た。普及するには雑誌が必要だった。著者はメディア論も研究対象にする人だから、メディアの変遷と歌の発達普及の関連を考察した。「赤い鳥」の雑誌に始まり、「赤い鳥」音楽会という何人かの子どもが組になって歌うイベントが登場する。オルガンに始まった唱歌はピアノ伴奏を伴う童謡になる。本居長世が登場すると、やがて長女みどりが童謡歌手第一号になった。こうして作詞、作曲、歌手がそろい、あとは録音やラジオ、レコード、蓄音機など技術とメディアの発達に乗って童謡は商業的に盛況を呈する。
社会の変動も背景として童謡の普及に大いに作用した。大正期以後の都市への人口流入、勤め人の発生、郊外沿線住宅の家庭と茶の間、ルソー『エミール』の流行、成城小学校、児童教育、音楽教育等々。
たかが童謡がとは考えられないほどの多くの要素があずかって隆盛を招いたことが綴られている。取り上げられている要素は時代相を合わせて考えれば面白いものであるだけに、単行本としてはもう少し読ませる文章で語られていれば万人の興味を惹くものを、と惜しまれる。(2016/2)