2020年6月11日木曜日

雑録 H・ノーマン「日本の兵士と農民」など

いろいろな本その他情報を読んできたが、たいていは芋づる式に手繰って話柄を追いかけてきた結果である。すんなりとブログになるものもあるし、そうでないのもある。ここしばらくはコロナ騒ぎに静謐を乱されたこともあって、もうふた月あまりも発信しない日が続いている。この筆者はもうあちら側にいってしまったと早合点した向きもあるかもしれない。それならそれでも一向にかまわないが、当方は「物言わぬは腹膨れる思い」で健康が損なわれるのが困る、というわけで、駄弁を弄しながら話のタネを考えている。

臼井吉見さんの文章を読んでいると、同氏が主宰していた総合雑誌『展望』に寄稿者として誘いこんだ竹内好のことがでていた。初めて原稿を依頼してみた結果、寄せられた論考を高く評価して、以後常連になってもらったように書いてあった。その論考は「伝統と革命――日本人の中国観」という題で『展望』1949年9月号に載った。筆者は他の論文とともに「ちくま学芸文庫『日本とアジア』」に収められているのを見ている。それまで依頼原稿でさえ断られることの多かった竹内は『展望』の巻頭に載せられ、思いがけない多額の稿料をもらって嬉しかったと回顧している(「解題」)。
さて竹内は、ハーバート・ノーマンの著作、『日本における兵士と農民』(1947年、白日書院)を非常に高く評価している。そのうえで、「軍国主義が遅れた資本の手先になって大陸侵略に乗り出すとき、近代的軍隊が必然的に野蛮化される過程を心理的現実に即して掴んでいる」として、次の文を引用する。
みずからは徴兵軍隊に召集されて不自由な主体(エイジェント)である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷を打ち付ける代行人(エイジェント)となった。他人を奴隷化するために純粋に自由な人間を使用することは不可能である。反対に、最も残忍で無恥な奴隷は、他人の自由の最も無慈悲且つ有力な掠奪者となる。(竹内好「中国の近代と日本の近代」(1948年)、『日本とアジア』ちくま学芸文庫1993年所収)
竹内は書く。ノーマンが日本と日本人を愛していることは疑えない。ハーンやタウトとちがった仕方で、しかもあるいは彼ら以上に、外国人としてのほとんど一種の極限にまで、彼はそれを愛している。もしその対象への愛がなければ、彼の学問があのように見事に結晶するはずがない。私は、ノーマンの言葉を、得難いものだと思う、と。先の引用の前にも、この本は、最近読んだ中で感銘の深かったものだとし、ほとんど芸術的な感銘を受けた。積み重ねられた論理が造形的でロダンの彫刻かなにかのように物量が盛り上がっている、とまで述べるのであるが、筆者は残念ながらそこまで読みこなせない。納得のゆかない日本語文はヴィクトリア州立図書館(メルボルン)からダウンロードした原文を確かめながら読むわずらわしさで、とても芸術的な感興には至らない。ちなみに原文には「徴兵の起源」と副題が付けられている。

「日本の兵士と農民」という著作は太平洋戦争勃発という出来事によって初稿が失われ、手元に残ったノートを頼りに数年後に書き直された経緯がある。そのためもあって全体は短く、各部分は論述というより要点をまとめた文という感じが強い。竹内が褒めるほどに理解するまではノーマンの文章に込められた論理を感得しなくてはならない。この論理を解く、または紡ぎあげるいとぐちは各節に散らばっているのである。かなりな読解力が要求される。まずは読書百遍意自ずから通ず、である。
結論的に言えば、太政官布告という極めて専制的で恣意的な方法で始められた日本の徴兵制は、西南戦争で官軍が勝利したことにより、それまでの国内治安に用うるべしという議論を追いやって、海外へ侵攻するための軍隊を作り上げることに向けられた。創設以来その方向づけを担ったのは山縣有朋であった。近代日本軍に奴隷精神を叩き込むのに用いられた道具は、山縣の「軍人訓戒」(1878・明治11年)である。
明治維新そのものは徳川幕府を倒す革命を目指しながら、西南戦争の結果が示すように反革命側の勝利に終わった。錦旗を掲げて東征する官軍が、みちみち民衆を煽るようにして幕府の旧悪を訴えさせ、大いに希望を抱かせられた民衆は、終わってみれば置いてけぼりを食ったどころか、さらなる重税・苦役に苦しめられることになった。その必然として各地に民衆の蜂起や騒動が巻き起こり、薩長土で構成する新米の政府は対応に苦慮して議論する中から徴兵の発想が浮上した。結果は上述のとおりであるが、日本の軍隊の手引と指針になった「軍人訓戒」には、軍人に「民主的、自由主義的傾向の結社に参加することを禁じ、…民権などを唱え」ることを厳重に戒めている。自由民権運動の声が届いたのかどうか、帝国議会開設は1890(明治23)年である。
戊辰戦争で各地で官軍に味方した農民の願望は、ただ暮らしの苦しさから傲慢な旧藩支配層を憎んだことに発するのであって、自由とか民権などにはほとんど関係なかったはずだ。農民の一揆暴動・騒擾は支配層を悩ませる点では維新前後で変わりはないのも事実であったろう。支配者はいつの時代でも秩序を乱されることを嫌うものである。
竹内は、明治維新は革命に始まって反革命に終わった、これは革命でなく転向だという。
幕府を倒せと一揆を起こして成功したが、新政府のもとで全てが元通りになった農民層の一例が隠岐の島にあったことをノーマンは報告している。
「維新後まもなく中央政府から派遣された役人の多くは、わずか前に追い出されたばかりの同じ役人であり、しかも、有力な兵士の一隊を引き連れてきた。はげしい闘争の後に、この人民の自治を打ち立てる試みは鎮圧された(68-9頁)。」ノーマンはこの暴動の資料に用いた文書は、明治政府またはそれ以前の出雲藩の役人の書いたもので、人民の立場から蜂起を説明した文書はなにもない、と注記する。竹内は、このノーマンの指摘は日本の学問全体への批判であり、日本文化の構造的弱点が見事に掴まれていると考える。構造的弱点とは一旦革命が成功したかの段階で反革命側の反動があったとき、さらにそれを跳ね返す力がないことを指す。権力に対抗する人民側の層には厚みがないということだろう。逆に開国をめざす近代化推進のエネルギーは、一方で儒学による徳治主義を護ろうとする後ろ向きのエネルギーと合体する。明治天皇の教学に元田永孚(もとだながざね)が活動し教育勅語発布につなげたことにそれは結実する。
余談だが隠岐の島騒動を朝日新聞2019年7月7日が公民館の活動として伝えている。
https://www.asahi.com/articles/ASM6T54WCM6TUTFK01D.html
記事中のURLから漫画広報をダウンロードできる。
https://www.town.okinoshima.shimane.jp/www/contents/1562301372309/

H・ノーマン(Egerton Herbert Norman、1905-1957)は日本生まれのカナダ外交官である。アメリカのいわゆる赤狩りと呼ばれたマッカシー事件に巻き込まれて、訪問先のエジプトで自死して生涯を終えた。ソ連のスパイだったとの嫌疑についてはなにも明らかにされず、カナダ政府は在日本大使館の図書館に彼の名を冠して顕彰している。
「日本の兵士と農民」は1941年11月に印刷所に回されたが、折しも勃発した太平洋戦争のため、彼は公使館内に拘禁されて翌年交換船で帰国させられた。この間原稿は取り戻す機会を得ずして失われてしまった。戦後職務の間隙を縫って手元のノートに残った資料をたよりに書き直しにかかったが充分な叙述には至らなかった。けれども時日経過を勘案して検討対象を拡大して書き足すことをした。
ノーマンの著作は「ハーバート・ノーマン全集」全四巻、編訳者大窪愿二、岩波書店にまとめられている(1977-78)。他に編訳者を異にする増補二巻(1989)がある。増補版企画途中で大窪氏は交通事故被害で急死された(1915-1986)。
筆者は第四巻1978年を入手して参照している。(2020/6)