2016年9月20日火曜日

古代史拾い読み(その3) 日本以前のこと

この稿には日本が自らを国として認知する以前の状況についてあらましを書く。前回に続いて用語として、土地についてはシナ及び韓半島、人については漢人、華人を使う。
紀元668年に日本が国号を日本と定めるまでは、列島にいる人達は自分たちが何者であるかを考えたことはなかったのではないか。文献に見る限りシナの歴史書では、人は倭人、地域は倭国と呼ばれていた。
『漢書』「地理志」(82年頃成立)に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とあり、これが倭人が記事になった最初らしい。楽浪郡は、前漢紀元前202年-8年)の武帝紀元前108年に朝鮮王国を征服して韓半島に設置した郡の一つ、王朝の出先機関であり 交易と軍を管轄する。その楽浪の海の先に倭人がいて百余りも國があるというのであるが、ここでいう国は人の集まって 住んでいる所、つまり集落、かっこよく言って都市である。
江戸時代に北九州の志賀島で出土した「漢委奴国王(かんわなこくおう)」の金印については『後漢書』「倭伝」に該当する記録がある。後漢の光武帝の治世、紀元57年に倭奴国が使節をもって朝貢してきたので、これに印と綬を賜ったとある。この記録はシナ王朝が倭人の王を認定したはじめてのものである。この場合の王は交易の窓口の役目でしかない。
古くからシナが黄河中流の洛陽付近から発達し、東北に向けて進出し、韓半島、さらに日本列島へと関心を向けていたのは、一つには漢民族が商業文明の民であること、もうひとつに水路を使って交通ができたことが理由と考えられる。前108年には半島東南端まで進出していたのである。それは日本列島という地域を有望な商圏として見込んだからであるらしい。
シナは韓半島に流出した漢人たちの交易を大目に見ていたのが、王朝が統一を果たして力がつくと直接乗り出してくるように変わる。韓半島に設けた楽浪郡や帯方郡は交易を管轄する軍管区で、取引収益を確保する皇帝直轄の組織だ。九州の博多は倭の出入り口として次第に都市を形成する。内陸に向けての交通路にそっても次々に都市ができる。百余国というのもそれらの都市を指している。金印に彫られた倭奴国は倭人の國の一つである奴国を意味する。つまり奴国とは今の博多あたりのことだった。金印で王と認められた奴国の酋長はその他の国々がシナとの交易に必要とするビザを発行する領事の様な特権的な存在になる。ただし、王は自分の統治能力で地位を得たわけではないからシナの王朝が没落すれば倭王の権威はひとたまりもない。
紀元57年の「漢倭奴国王」が誰であったか記録されていないが、岡田英弘氏は107年に160人の奴隷を献じて朝貢した師升(すいしょう)がそうだという。この年、不安定な立場に陥った魏の安政権がテコ入れのため、友好国の君主のなかで序列の高い金印を所有する倭王に働きかけて演出したのだと説明されている。手みやげの奴隷が160人もの数であったことは、宮廷まで参上したのが奴国だけでなくほかの国々の使節も同道していたと考えられる。「魏志倭人伝」にはこの奴国の倭王は2世紀末に没落したと書かれている。
「その國はもと、また男子をもって王となした。住すること七、八十年、倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴た。すなわち共に一女子を立てて王となした。名は卑弥呼という」とある。
男の王、師升のあと77年後のシナでは184年に黄巾の乱が起きて国内が混乱する。続いて三国時代になった。シナ王朝に依拠している倭国王はたちまち権威を失う。そのため倭国内も乱れて互いに争う事態が続いた。共同して女王、卑弥呼を立てることでようやく決着した。これが上の倭人伝の内容である。
倭国内が乱れたというのは、金印を所有する奴國の後裔がいただろうし、邪馬台国に同調しない句奴国もあって、少なくとも三人の酋長がそれぞれ組んでいた諸国を率いて争っていた状況があったらしい。男の王同士の争いが決着がつかないから共同して女王を立てたという。そこにも何か訳がありそうで岡田氏はそれを華僑内部の宗教結社と解している。
「魏志倭人伝」に卑弥呼について「鬼道に仕えてよく衆を惑わし」とある。「鬼道」は190-215年の間、陝西の南部から四川の東部にかけて宗教共和国を建設した五斗米道教団の神々をいう当時の用語だった。卑弥呼は単なる女シャーマンではなく、漢人商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司だった。それが倭人諸国の市場を横に連ねる華人のネットワークに乗っていたから秩序を保てたと説明する。倭人の酋長たちの間では他を圧倒する実力者が誰もいなかっただけだ。卑弥呼を担ぎ出せばまとまりがつきやすかったということで、卑弥呼に格別の実力があったわけではない。
やがてシナでは後漢が滅亡して魏に政権が移り、卑弥呼は即応するようにして魏に使節を送って朝貢した。これが239年、倭の使節は「親魏倭王」の印と綬を賜った。卑弥呼は247年に死亡するが、しばらく国同士がもめたあとに卑弥呼の一族の娘、十三歳の台与が後継女王となって、魏に続く晉にも266年に入貢している。これを最後にシナの史書から倭国の名は消えてしまう。
300年になるとシナ各地で各種軍隊が騒乱を起こし、五胡十六國の乱世に入る。韓半島でも倭国でもシナの勢力はなくなってしまい、原住民たちはそれぞれ自立の道を選ぶしかなくなる。
この後の時代については、文献では5世紀に完成した『宋書』の「倭国伝」に倭国が再登場するが、日本側の資料は7世紀の『日本書紀』まで何もない。
ここでここまでの倭国の内情を少し探ってみたい。といっても筆者は浅学であり、特に日本の歴史については神武天皇に始まる国史のほかは学校で教わったことがない。基本は岡田英弘氏のお説に従うが、氏は東洋史学者であるから日本の歴史もシナの文献に現れた記述を追って考察されている。一方私たちは敗戦後盛んになった考古学者の研究で縄文だの弥生だのという言葉を知るようになった。ところがそれらの時代は文献にいうどの時代かということはあまり結びつけて知らされていない気がしている。手元の乏しい資料の年表で見ると紀元57年の金印の頃は弥生時代となっている。ヘェっと感じるだけでそれ以上の実感は湧いてこないが、稲作の技術がすでにもたらされていただろうとは思う。人々の生活ぶりなどさっぱりわからないが、人間の種類はナントカ大雑把に分かりそうだ。土着の原住民と渡来人だ。さきごろ「日本人はどこから来たか」というテーマで台湾から草船で沖縄に渡る実験がなされて成功しなかった。これは言うまでもなく、もともとの原住民の祖先を探ろうとした実験だろう。推定では南から、西から、北からの各方面から来たらしい。
ともかく、どこからともなく到来して住みついた人々がいた。最近、外国の学者の話に、人間がまったく気がおけない間柄として出来る集団の規模は150人程度までだそうだ。言い換えれば同じ言葉を話す間柄の人だ。ここで考えるレベルでは、少し訛りが違えば、おそらく別の仲間になるだろう。こういう人たちのかたまりが、あちらこちらにできて集落ができてゆく。生計を立てる手段に応じて、ひとつところで日を過ごす人や別の集落の間を巡る人などがでてくる。そのうち親分格も出来るだろうし、その手下として暮らす人もできるだろう。争いも起これば治める役の人もでる。集落の親分格のことを岡田氏は酋長と書いている。韓半島に常駐するシナの太守は常日頃倭国内の事情をよく知っていて、これと見込んだ酋長を宮廷に推薦したうえで、上表文を作成して使節を仕立て朝貢させる。宮廷は詔書を発布して王位を認知する。印と綬を授ける。印材は幾通りかあって金印は最高位だったそうだ。博多の酋長はこんな具合に「漢委奴国王」に 叙されたのであろう。倭人の暮らしに立ち交じる渡来人たちがいたことは当然だ。主として商人だろう。これは倭国の市場を当てにして韓半島から渡って来た華人である。韓半島にだって土着の人と、ほかから流れこんだ人、多くは漢人だったろうが、新たに土着した人たちもいたはずだ。これはすでに華人である。シナの王朝の使用人もいたろうし、下々の商人や船乗りもいただろう。王朝の役人は漢語の読み書きができたはずだ。そのほかの渡来人や土着の人は文字を知らない話し言葉だけの人たちだ。渡来人たちの話す漢語は倭国に来る前にいた土地で話されていた方言だ。長く住み込んで土語に通じる人もいる。土着の人の中にも漢語を話す人も出てくる。通訳が活躍しピジン語が飛び交ったことだろう。ピジンは片言の外国語をいう。片言の各種土語と片言の各種漢語でお互い話を通じさせていたと想像できる。漢字はほぼ華人役人の占有物だっただろう。こういう状態を全体的に見れば、当時の日本列島はまさに雑居状態であって、お互いがナニ人とも言えない、そんなことも考えない人たちがいたわけだ。そのうえ、華人は男が単身で来るのが常態だから、土着の女性との間に子どもが生まれて、次の世代になれば出自もあやふやになるわけである。だから、古来日本民族は単一民族にして云々などとはとても言えない
状態であったのだ。日本民族が誕生するのは、671年に律令制度が施行され、日本国号が制定されたあとの話である。それでも日本人は雑種であることには変わりがない。
次にシナの文献に倭人が登場するのは『宋書』の「倭国伝」(488年)である。讃、珍、済、興、武の五人の倭王のことが記されている。この人たちは720年完成の『日本書紀』記載の系譜に合致するところから、それぞれ、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と認めるのが通説である。『宋書』「倭国伝」中の「倭王武の上奏文」には、「むかしより祖禰(そでい)は、躬(み)に甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧(やす)らかに処(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五國を征し、西は衆夷の六十六國を服し、渡りて海北の九十五國を平らぐ」と記されている。
祖禰は祖父である禰という意味で、禰は仁徳天皇の名前である。つまりこの文で雄略天皇は祖父仁徳天皇の事績をつたえている。東の毛人の五十五國は上毛野國(群馬県)、下毛野國(栃木県)に代表される関東諸国、西の衆夷の六十六國は九州諸国、中間の中部、近畿、中国、四国の諸国はかつて邪馬台国の女王と狗奴国の男王を支持した諸国が、今度は連合して、仁徳天皇を共通の倭王として戴いたのである。海北九十五國は韓半島の諸国のことを指す。高句麗が南下して百済を征服しようとしたが、百済王の太子・貴須(きしゅ)は難波の仁徳と同盟して、仁徳を倭王として承認、証拠として七支刀をつくって贈った。369年の日付と銘文が 刻してある。奈良の石上神宮に現存する。かくして369年は河内王朝の建国の年であり、畿内の倭国の起源となった。
現在の中国吉林省に「広開土王碑」(414年建立)があって、碑文に「倭は辛卯(しんぼう)の年(391年)をもって来たりて海を渡り、百殘・新羅を破り、もって臣民となす」とある。倭王武の祖父禰が九十五國を平らげたという事件のことだ。広開土王は、ときの高句麗王である。岡田氏によれば、この後、倭と百済の連合軍は407年まで戦いを続けるが、その後の戦闘は伝えられていないという。倭王禰、すなわち仁徳天皇はこの頃死んだようだ。
412年に広開土王が死んで高句麗と倭の間に和解が成立した。翌413年には、高句麗の長寿王の使者と、仁徳天皇の息子の倭王・讃(履中天皇)の使者が連れ立って今の南京にあった東晋の朝廷を訪問した。この時すでに実権を握っていた将軍・劉裕は、自ら皇帝となって宋朝を建てた。武帝である。この宋朝と河内王朝の倭国は、倭王・讃の弟の倭王・珍(反正天皇)、倭王・済(允恭天皇)、その息子の倭王・興(安康天皇)、倭王・武(雄略天皇)の二世代、五王にわたって友好関係を保った。すべて『宋書』などに記されている。
『随書』および『北史』に600年「倭王、姓は阿毎(あま)、名は多利思比孤(たらしひこ)、阿輩鶏弥(おほきみ)と号す」という者が、隋の都、大興に使いを遣わしてきた、とある。その記録には「王の妻は鶏弥(きみ)と号す。太子は利歌弥多弗利(りかみたふつり)となづく」とあった。よってこの時の倭王は男であったことは間違いない。しかし『日本書紀』では女性の推古天皇が在位したとなっている。倭王・多利思比孤は二度目の使いを608年に送っている。例の国書『日出づる処の天子・・・・・・」を持たせて。随の皇帝・煬帝は翌年裴世清(はいせいせい)を倭国に遣わした。難波津経由で邪靡堆(やまと)に着いて、男王に会っている。王は非常に喜んで問答をしたという。この王は誰だったのか、太子も聖徳太子ではないし、小野妹子の名も出てこない。
随はまもなく唐に変わり、唐は韓半島の利権を取り戻すべく高句麗を攻めるが失敗する。それでまず百済を滅ぼしにかかる。百済と同盟していた倭国はともに敗北(660年)、次いで高句麗が滅ぼされた(668年)。
この間、倭国は撤退して守りを固め、大津に遷都して天智天皇が即位して668年の建国に至る。近江律令の施行によって日本國が誕生する運びとなる。高句麗をも滅ぼした唐は半島から撤退して670年代には遼河の西の方に撤退してしまう。この理由は華北の生態系が破壊されてしまって、人口の中心が江南に移ったためと岡田氏は説く。韓半島を経由するより、日本を差配するには海上交通のほうが有利となり、さらに大船建造ができはじめたのである。おかげで新羅は半島統一することが出来た。
ここで再び住民のことを考えてみよう。『随書』「東夷伝」(636年)には、おおよそ6世紀末から7世紀初めの見聞が書かれているが、百済の住民は百済人だけではなく、高句麗人と新羅人と倭人と漢人とで成り立っていると書かれているそうだ。新羅については、新羅人だけでなく、高句麗人と百済人と漢人である。同時代の裴世清の倭国遣使の記録には日本列島には秦王国というのがあり,それは漢人の國だという。『新撰姓氏録』(814年)によると、日本には高句麗系もいれば、漢人系の秦氏も漢(あや)氏もいるし、任那系、新羅系、百済系もいる。要するに住民の種族構成は、韓半島も日本列島もだいたいおなじで、あらゆる種族が混ざっていた。
白村江敗戦の後、倭人は半島から駆逐されてしまい、新羅は残りの種族をすべて吸収して統一新羅王国をつくった。つまり民族国家誕生への第一歩だ。このあたりはすべて岡田英弘氏の受け売りであるが、このあと、いよいよ同氏の独擅場になる。
白村江の戦いの後、新羅にしてみれば対馬海峡でとどまらず、来ようと思えば難波津まで水路の一本道であった。当時の情勢からはそこまで統合できたはずなのに、なぜそうならなかったのか。それは天智天皇をとりまく華人のアドバイザーたちが身の危険を感じたからだった。
それまで倭国は列島全体ではなく、近畿の一部を占めるに過ぎなかった。経済的基盤は百済を通じての南朝との商売だった。輸入商品を売りさばく市場としての難波を中心としての倭国だった。倭国王の宮廷の経営はそれで成り立っていたわけである。その根底がなくなってしまった。
立て直すために打つ手としては先ず人の統合である。無能無力の原住民と共同して統合するしかない。次に言葉を転換しようと考えた。韓半島の公用語は漢語であるが、それを使うことはやめよう。倭人の言葉を採用して共通日本語を作ろうと考えた。(岡田氏はマレーシアのマレー語標準語作りを念頭にバハサ・ニッポンと書いている。)それで大変な無理をして、漢語で考えた文章を倭人の言葉で一語一語置き換え、日本語を創りだした。『万葉集』は日本語を無理やり発明した記録だという。なるほどそういう見方があったかと意表を突かれた思いがする。柿本人麻呂という天才がいた。当然に渡来人で漢人系だ。そうでなければ和歌が詠めるはずがない。だいたい五七調そのものが、シナ南北朝の楽府(がふ)の長短句のまねなのだそうだ。ともかく、それまでの倭人と百済人と高句麗人と任那人と漢人を総称して全部包括する新しいアイデンティティとしての日本人ができた。絆が日本語だということであろう。多種族の統一国家の象徴が新しい国号、日本だった。
東洋史、ことに中国の歴史と朝鮮半島の歴史は墨で消された国史教科書しか知らない世代の筆者は、これまでまじめに読んだことがなかった。それだけに岡田氏の著作集一冊をほじくり回すばかりで、どうにもまとめがつかない。いつも以上に稚拙な文章しか書けなくて疲労困憊した。それでもいい書物に巡りあったという気持ちは続いている。
今回は雑種日本がテーマだったつもりである。
まだ書いておきたいこととして『日本書紀』と 『万葉集』があるが、いつのことになるやら。しばらくは読むことに集中しよう。
今回も『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』(藤原書店 2014)のお世話になった。(2016/9)

2016年9月2日金曜日

古代史拾い読み(その2) 邪馬台国

『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店 2014年を読んで書いている。
本稿では、著者にしたがって、現代中国ではない19世紀までの土地や文明は「シナ」、人は「漢人」、シナの外に定住する漢人は「華人」と書く。また英語のKoreaに対応する地域は「韓半島」と書く。

晋王朝に公認された正史『三国志』の一部をなす『魏志』に「倭人伝」という部分がある。そこには、邪馬台国という國と卑弥呼という女王の名が出てくる倭人についての記事がある。いわゆる「魏志倭人伝」であるが、そういう書物があるわけではない。
古代史に関して意見の表明が自由になった戦後、堰を切ったように溢れだした諸説による邪馬台国論争が続いていたが最近はどうなのだろうか。なんとはなしに、いまだにくすぶっているような気もする。
岡田氏による本書はその書きぶりがわかりやすい。氏は東洋史学者であるが、非常に広い視野で例を引いたりして、その説には説得力がある。

邪馬台国がどこにあったのかという論争は、氏の説にしたがえば無意味なことに帰する。「倭人伝」のうち邪馬台国の方位と行程の距離は故意に歪めてある。実際より甚だしく大きな國が、現実より甚だしく遠くに存在しているかのように偽装されているのだ。日本の歴史を考える場合に、そんなインチキな話をまともに議論するのはまったく意味がない、というのが結論である。しかもシナの正史に記載されていることであって、日本の歴史にはなんにも関係がないのである。

それでは何故たくさんの日本人がこれまで長い間議論し続けてきたのか。それは「倭人伝」がホントの事を書いてあると考えたからだろうが、実はシナの歴史書はそんなものではない。漢人にとって、何かを書くという行為は、あるべきことを書くことを意味するのだそうだ。歴史の記録の場合には、ことが期待通りに起こらなければ、無視するか、または記録者の理想を書きつけて、世界をさらに完全にするかしかないことになる。このあたりが、日本人にはわかりにくい。

正史は紀伝体の形で書かれる。「(ほんぎ)」は皇帝に関した出来事を年ごとに書く。「列伝」は皇帝と同時代の人が、皇帝との関係でどんな位置にあって何をしたかを伝える。皇帝の直接統治が及ばない地域の人々については、その種族が皇帝とどういう関係を持ったか、を列伝の形で書く。「倭人伝」がその一部をなす『三国志』の『魏書』「東夷伝」はそういう列伝である。

次に朝貢(ちょうこう)という外交儀礼がある。皇帝は人民に対して、自分が皇帝たるにふさわしい人物であることを説得するには、自分の統治下にない人々の集団、すなわち外国人の精神的支援を取り付けるのがもっとも有効である。古代シナでは、この外国からの訪問を「朝貢」といった。挨拶する「朝見」と手土産の「貢物」を合わせた用語だ。朝貢使節の派遣を決定するのは、その外国ではなく、たいていその國との貿易の窓口になっている郡である。郡の官吏が手伝って皇帝宛の賛辞を書き連ねた手紙を定まった書式で作成し、使節の員数を揃え、手土産を用意する。費用は一切シナが負担する。洛陽に入場するときは護衛兵がついて「倭人朝貢」の旗を翻して行進する。黒山の人だかりであったようだ。当の外国でどのように受け取られるかは問題ではない。あくまでも対内宣伝の手段なのである。
なお、國というのは城壁で囲った都市であって国家ではない。韓半島から日本列島にかけては城壁のある集落はまずなかったようだ。卑弥呼が代表した30国というのは、それぞれ交易の町のことである。わずかに卑弥呼の居所だけに城壁があったように伝えられている。

さて、『三国志』は単なる史実の記録ではない。265年に建国した晋という王朝の正史である。「正史」は現政権の正統性を証明するために書かれる。「正統」の意味は、シナを統治する権限を前政権から合法的な手続きを踏んで移譲されたということである。正史の資格には政府の公認が要る。
魏(220-265)の初代皇帝・文帝の学友だった将軍・司馬懿(しばい)は226年、文帝の遺言によって、曹真・曹休と3人で次代の明帝の後見人となる。曹真は西域方面の工作に大きな貢献をした。最大の勲功は229年に大月氏王()調(ちょう)の使節来訪に成功したことであった。大月氏国は今の新疆ウイグル自治区西部からトルキスタン、アフガニスタン、パキスタン、北インドまで支配する大クシャン帝国のことである。明帝はこれに「親魏大月氏王」の称号を贈った。曹真の最高の名誉になる出来事だ。

司馬懿の宮廷内の政敵はこの曹真だったが、231年に病死した。嗣子の(そう)(そう)が代わって西北司令官になるところ、若すぎるため皇帝は司馬懿に代行させた。蜀の諸葛(しょかつ)(りょう)(孔明)の病死によって、幸いなことに西方は安定し、司馬懿は続いて乱れていた東北安定に向かう。天候に祟られた大苦戦も大流星群の出現という僥倖に助けられ、4年越しで公孫氏を滅ぼすことができた。その結果、楽浪郡、帯方郡を征服し、東北アジア一帯は司馬懿の地盤となった。強運の人である。郡は軍管区のことをいう。
239年に明帝が死亡した。8歳の斉王・曹芳を養子にとって帝位につけるにあたり後見争いが生じ、曹爽と司馬懿が後見者となって元帝が即位する。これで、司馬懿は古くからの地盤、河南に加えて西北・東北両方面に発言権を持つ魏朝宮廷の第一人者になった。これに対して曹爽は、実権を自分の手中に収めるべく、若い有能な官僚を周囲に集める一方で、老齢の司馬懿には最高顧問・太傅(たいふ)の肩書を初めとしてあらゆる栄誉を捧げて祭り上げる方策をとった。その一環として演出されたのが、邪馬台国の女王・卑弥呼の朝貢であった。

曹爽は父・曹真と同等の名誉を司馬懿に与えることにし、新たに司馬懿の勢力圏に入った東北方面から、なるべく遠くの酋長として、倭の邪馬台国の女王が選ばれた。帯方太守・(りゅう)()の働きかけで、239年の内に、早くも卑弥呼の表敬使節団が洛陽に到着した。司馬懿の面子を立てるため、波調と同格の「親魏倭王」の称号が卑弥呼に贈られた。

しかし、ここに無理があった。「王」の称号は宮廷内での最高の地位を意味する。「親魏倭王」と「親魏大月氏王」とは「王」として同格であっても、現実の倭王はちっぽけな30ほどの諸国の代表に過ぎず、広大な大月氏國の王とは同格どころか格差がありすぎた。称号の手前、つまりは司馬懿と曹真の面子を等しくするため、邪馬台国は大月氏國と同等の遠方の大国に仕立てあげられなくてはならなかった。

偽装作業が称号を授与するとの公報に反映させるために行われた。その内容が「魏志倭人伝」に記された邪馬台国所在地の方位とそこまでの距離、および「倭人伝」に挙げられている諸国の戸数なのである。

結果的に距離は洛陽から大月氏国に至る16370里に相当するよう、洛陽から邪馬台国までは17000里ほどに作られた。戸数はもっとも大きい邪馬台国を7万余戸とし、倭国全体で15万戸とされた。大月氏國の15万余戸に対抗させたものであるが、当時人口が激減していたシナから見ると驚くべき数字である。岡田氏によれば『晋書』「地理志」によると、洛陽を含む河南郡の戸数は、12県(県は城壁で囲った都市)で114400戸となっていて、洛陽だけではおそらく10万戸以下で邪馬台国の7万戸と同程度だったに違いないという。さらに所在地は「会稽の東冶の東に在るべし」とおおまかなことが書かれてあり、これで敵対する呉の背後に新たに友好国となった邪馬台国という大国が在ることなり、魏の防衛にとって大きな安心事である。公孫氏を討伐した司馬懿の勲功あってこそ、ということになる。このような作為が魏の内部で行われた。239年のことである。
卑弥呼はその後247年に死んで、一族の少女の(たい)()が女王に立てられ、引き続き折につけ表敬使節を送ってきた。

司馬懿は敵対する曹爽の失政につけこんで明帝未亡人の皇太后と組み、249年にクーデターを成功させて、魏の全権を手中にした。翌々年の251年に73歳で亡くなリ、長男・司馬師が跡を継ぎ、255年に師が死ぬと、弟の司馬(しょう)が継いだ。265年に、もはや名目だけに過ぎなかった魏の元帝を廃して、司馬昭の子息・司馬炎が普朝を開いた。武帝という。倭の女王は早速翌年、祝意を述べる使者を送ってきた。

ここまでが「魏志倭人伝」にいう邪馬台国にまつわるシナにおける出来事のあらましである。そこには現実の邪馬台国を大国であり、遠方に位置し、かつ、魏の友好国として背後の敵、呉を脅かす頼もしい存在に仕立てる壮大な偽装が行われる特別な事情があった。「親魏倭王」の称号の重みにその秘密があった。

それでは『三国志』の作者陳寿はどういうつもりで、この偽装された記録を綴ったのだろうか。結論を先に言えば、承知のうえで書かざるを得なかったということである。
陳寿は魏に併合された蜀の生まれ、早くに文才を認められながら、不運、不幸が続いて官途につけなかったが、張華に認められた。この人もまた不運が続いた人だったが司馬昭に救われ高位に昇った。司馬昭は司馬懿の子息である。

『三国志』は晋朝がその正統性を証明する目的の公認された正史である。初代の武帝は司馬懿の孫だ。司馬懿は249年のクーデターにより魏の全権を握った人物で、実質的に普朝の創業者である。創業者の最大名誉となった盛儀、「親魏倭王」授与その他、司馬懿にまつわる事歴に疵をつけることは出来ない。魏朝の時世はわずか45年で終わったために、関わりのある人もまだ現存している。陳寿としては自分の今日あるは張華のおかげ、司馬昭のおかげ、そして司馬懿まで人脈がつながっている。そういう人たちにも配慮して、書くべき内容に細心の注意が求められたのは必定であった。いやでも筆を抑えることになったであろう。
邪馬台国に関わる偽装の部分は「親魏倭王」授与に際して作られた公報の丸写しで収めるほかなかった。公式の記録であるからには、明らかに事実でないとわかっていても訂正は出来ない。訂正すれば、もはや正史でなくなるのだ。

いま私たちがこの事実を知って不思議に思うのは、陳寿だけでなく司馬懿も、それから東北方面の管理に関与した人々、現実に邪馬台国に足を運んだ人たちが一人ならずいることは確かである。つまり実際の方位、里程を知り尽くしている人達がいるにもかかわらず、という不思議である。これが先に書いたシナの歴史というものだろうか。
ちなみに、魏は大月氏国をはじめとして西方地域と広く友好関係を結んでいた。『三国志』に付属する外国関係列伝には、あるはずの「西域伝」がない。この地方の工作の功労者は司馬懿の政敵、曹爽の父親の曹真である。書けば曹真をたたえることになってしまうから書けなかったという。この欠落を補うために、西域に関しては宋の人、裴松之(はいしょうし)によって、はるかな後に『三国志』注(429年)が書かれることになる。そこには陳寿が避けて通った史実が述べられている。

著者岡田氏は、日本での邪馬台国論争に水をかける結果になるだけに、事細かくシナの史書を読んで分析されている。問題の里程についてもシナの一里は三百歩、一歩は左右一回ずつの複歩だから、つごう450メートルというような基本からはじめて、現在の鉄道マイル数と比較して割り出す、あるいは数多い史書から使える道程の距離を検証する、などを重ねて偽装部分を探っている。240年と247年に魏の官吏が邪馬台国に戻る使節を送っていった際の報告書を参照して倭人伝に登場する諸国の名を確かめ、さらにそれぞれの年には楽浪太守が別人であったことから二つの報告書の相互照合ができていないことまで見ぬかれた。だから倭人伝の倭国の国名が列挙されている箇所の前半と後半では記述の仕方が違うという。こういう指摘は他の研究者にはないのではないか。

偽装のことはシナの話であるからそれはそれとして措いて、日本の歴史を考えるときにもっとも古い『日本書紀』は八世紀の資料である。それ以前の文献は日本にはない。「魏志倭人伝」が三世紀後半の記録であるなら、こちらを参照することで『日本書紀』の記述の真偽がわかるかもしれない。岡田氏以前にはそういう方法をとった研究はなかったという。しかも邪馬台国の記述があるのを知って、そこになぜ倭人の國の記事があるのか、不思議に思った気配はなかったそうだ。シナの史書に倭人が登場する理由を探ってみたいというのが岡田氏の日本研究の出発だったと書かれてある。

こうしてみると、敗戦の時以後、解禁された日本古代の研究に30年もかけて多くの頭脳がこの論争に無意味に消費されたことは、いかにももったいなかったと感じる。無意味にというのは、シナの史料も取捨選別すれば有効に利用できる部分があることを岡田氏は指摘しているからである。筆者は引き続いて岡田氏の著作を読むつもりでいる。

(2016/9)