2020年3月21日土曜日

感想 井上ひさし「父と暮せば」

井上ひさし「父と暮せば」一幕四場 1994年9月初演、紀伊国屋ホール、こまつ座。
ときは昭和23(1948)年7月、広島市比治山の東側、福吉美津江の家。美津江23歳と父竹造の二人芝居。
図書館に勤める美津江の前に文理大の講師木下が現れ、心が通うようになり始めるが、美津江は近しい者にみな原爆で死なれて、自分一人幸せを追うことに罪悪感が強い。一人娘の心を素直に幸せに向けようとして、死んだ竹造が美津江の前に現れるようになった。セリフを通じて状況が説明されピカの時から以後のことが語られてゆく。井上流の笑いとペーソスを織り込んだ進行に観客は和みながらも、原爆という社会問題がもつ事態の深刻さを理解できるように作り込まれた上等の芝居である。美津江の恋の応援団長を自称する竹造を初演で演じた役者、すまけいを見たかったと切に思う。
井上劇はわかりやすくて親しみやすい。それだけに見終わった後、よかったねぇと言葉を交わすだけで終わってしまう人も多いだろうが、それでは作者が気の毒だ。おそらくこの作品は読書会などで採り上げられていることが多いと思う。私はずっと聞かされ続けてきたはずの原爆問題について理解できていないことが多い、あるいは忘れてしまったことが多いことにあらためて気がついた。
木下青年は原爆による被害物を焼け跡から蒐集している。原爆瓦、溶けた薬瓶、顔がなくなった地蔵の首など。モデルがいたのかどうか明かされていないようであるが、ネットの中国新聞の社説に、同様の仕事をした長岡省吾氏が紹介されている。資料館の基礎を作った人物だそうだ。こういう人は他にもいるらしい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=2017-26 

木下が図書館に現れたのは収集物の置き場所に困ったからだった。しかし図書館にも置けないことを美津江は説明する。占領軍がそもそも蒐集にも制限しているのだ。作品ではそれ以上の説明はされていないが、占領初期にアメリカは広島・長崎の被害状況について相当神経質になっていたらしことは憶えている。彼ら自身が核爆弾について、あるいは核がもたらす人間への問題点について解明されていないことが多くあったためでもあったろうことは容易に想像できる。だからこの作品には現れていないけれども、あきらかに現在にも続いているこの種の問題は語り続けられなくてはならないだろう。
芝居の中で高熱で表面にトゲトゲができた瓦という表現がある。現在では原爆瓦とか被爆瓦という一般名詞になっている。高熱で溶けた現象との説明が普通だが現物を見ないことには理解しにくい。実験では1800度の熱で同様の状態が得られたとの説明がある(2017年9月15日「被爆瓦をご存知ですか」)。被爆瓦をご存知ですか

地上では熱線によって全てが溶け、次に爆風で壊れるという順序で存在物への被害が生じるらしいが、最初の熱線を受けた人体は瞬時になくなるはずだ。世の語り草の中に、「死んだことも知らずに逝った」という痛烈な表現ができている。写真展でよく見るズルムケになった皮膚を垂れ下がらせた被災者たちよりも、それより先に熱線で消えてしまった人が大勢いたはずである。文字どおり「なくなる」現象だ。「溶ける」ということについては、美津江が庭に持ちこまれた収集物の中に地蔵の首を見つけて、「あのときのおとったん」を思い出す。顔が溶けてしまった石地蔵の首だ。瓦といい、石地蔵といい、井上ひさしは何気ないふうに芝居の中に底知れない人間の悲惨さを持ち込んでいる。核爆発の原理とか状態など一度は何かで読んだりしたはずであるが、改めて考えようとするとあらかた忘れている。最初は何年間ものあいだ草一本生えないと言われていた。上空で破裂した爆弾はまず放射線を放出する、ついで熱線、次に爆風という順序だったかと思う。青白いピカは熱線だろうか。「わしは正面から見てしもうた。お日ィさん二つ分の火の玉をの」、竹造のセリフである。竹造は屋敷の下敷きになって救けられず、二人の間で納得づくで逃げた娘は骨だけは拾うことができた。同じ庭先にいながら美津江は石灯籠にかばわれて光線は浴びなかったが、体内に原爆症が残った。B29がなにか落としたのを見ようとして、思わず手に持っていた手紙を落とした。拾おうとして石灯籠のねきにかがみ込んだときにピカが光ったのだった。おなじとき、その手紙の宛名人の親友もピカに襲われていた。被災したその親友の母親を見舞うと、初めは泣いて喜んでくれていたが突然怒り出した、「なんであんたが生きとるん?」。背中一面に火膨れを背負ったその母親も月末に亡くなった。
だれもが逝ってしまった美津江の負い目を懸命に癒そうとする竹造。この世に現れるようになったいきさつを明かす。圖書館で美津江が木下を見て一瞬ときめいたとき、そのときめきから胴体ができた。木下の後ろ姿を見て、お前がもらしたためいきからわしの手足ができたんじゃ。二人いる係のうちで、うちのほうに来てくれんかなと願うたろ、その願いからわしの心臓ができとるんじゃ。娘に恋をさせようと思ってこの辺をぶらついていたのかと問われて、ニッコリする。恋の応援団長の登場である。これは劇のはじめのほうで明かされるユーモラスな場面であるが、終わりのほうになると、娘が自分の幸せに頑なに否定的になると怒り出して、自分たち親子のむごい別れ方を語り継ぐために代わりを出せという、代わりとは孫であり、ひ孫であって後々まで語り継がせなくてはならぬと息巻く。結局は美津江が納得して父に従うが、作者は孫やひ孫ということばで原爆症、障害、奇形などへの観客の想像を促している。放射線障害はいまだに爆心地からの距離で救済に差をつける考え方がされているが、ホントのことは分かっていそうにない。放射線は骨髄を冒す。造血器官の骨髄には成熟した血液になる前の若い細胞がある。被災当初は外見から気付かれなかった細胞への障害が後々現れるのが原爆症の特徴だ。美津江は光線を浴びなかったけれども放射線は浴びている。自身もすでに原爆症であることは芝居に表明されているが、木下と結ばれても、その将来には不安が残されている、というのが時限爆弾としての原爆を題材にする芝居の宿命である。観客は井上流の笑いとともに井上の訴えることを真摯に受け止めてあげよう。
ところで、タイトルの「父と暮せば」は条件をあらわす形であるが、後節をどんなことばで結ぶのがよいのだろうか。「父と暮らせば、前向きになれる」・・・。
井上ひさし「父と暮せば」、日本文学全集 27 河出書房新社 2017年所収 (2020/3)

2020年3月16日月曜日

里見弴を知っていますか

里見弴(さとみ とん)、明治21年生まれ。古い作家であるが名前は知っていても、読んだ記憶はない。池澤夏樹個人編集、『日本文学全集 27、近現代作家集Ⅱ』に「いろおとこ」という短い作品がとられている。日本の小説の分野には花柳小説というものがあって、その文字が示すとおり芸者が登場する。
夏の終りのまだ暑い頃、とある別荘らしき座敷の60がらみの寡黙な男と40過ぎかの女性が過ごす三日間を、まことに手際のよい語り口で読ませる。その描写から女性の暮らしかたがみえる。こういうのをこの作家は得意としたのであろうが、自分も親の反対を押し切ってクロウト女性を妻にし、のちには並行して別の女性の面倒を見たりしている。昔風情そのままの人生哲学の持ち主だったようである。
夜の活動の旺盛ぶりにくらべて昼間はむっつり何かを考え込んでしまう男に、女は退屈して、しょうことなしに独り占いなどして付き合っている。帰ってくれてもいいんだよとの声にも、いいの、と付き合っている。3日目の朝、駅頭で上りと下りに別れた後ぷっつり音信なし。世に聞こえた人だのに誰に訊いても、唯一の親友・森に会ってさえも、曖昧に言葉を濁された。ふた月半ほどすると、突然、かの人の名が、日本はおろか世界中にさえ響き亘った。森を介して、心入れの品々を送り届け、たまさかの短い便りを喜び、新しい旦那に見せびらかして、痴話の種にしたりした。
翌々年の四月、華々しい戦死を遂げた男の遺骨を奉じて還った下役の者から、英雄の最期にふさわしい南の島の現場の模様を聞かされた。語る者も、聞く者も、共に泣いた。
ほどなく執り行われた国葬に、遺族ではないが、特に設けられた席で、思い余って泣き崩れる。―――

戦時を知っている読者にはネタバレ的であるが男のモデルは明かされない。短い中に女ごころを巧みに描いた佳編との評が高い。一読後、私は里見弴、本名山内英夫という人に興味を覚えてその生い立ちを知った。有島家の四男に生まれてすぐ山内家の養子になったが、ほとんど有島家で兄弟たちと過ごした。その有島家の長男が有島武郎である。Wikipediaによれば、武郎が心中事件で死亡したときには「兄貴はあまり女を知らないから、あんなことで死んだんだ」と言ったとある。また、本人は「白樺」創設に参加、その親友志賀直哉の手引で吉原で遊蕩していたとある。一方、文章については「小説家の小さん」と称され、文章の達人としてNHK人物録にアーカイブが遺されている。
NHK人物録 里見弴https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010113_00000
「馬鹿正直」で世渡りが下手だったと書いた伝記があるらしいが、その作者小谷野敦氏が詳細な年譜をwebに載せているから参考になる。里見弴 年譜http://akoyano.la.coocan.jp/satomiton.html
「いろおとこ」は原題は旧仮名で「いろをとこ」として短編集『自惚鏡』小山書店(1948)に所収されているが、占領下の1947年に発表されたので、知られることのなかった作品だった、とは故加藤典洋氏の解説にある。
新しい試みとして全編個人編集と銘打った池澤夏樹は、明治憲法時代の男性優位社会の反映とも言える花柳小説をいまどきどうかとの当方の思いに、日本文学は古来男女の仲が主題と考えての編集だという。最近は花柳界自体が随分新しくなっているだろうし、この作品の場面のような情景は見られなくなったかもしれない。それでもそういう時代があったことには違いないから日本文学全集に収められるのは当然だと言える。あるいは、ともすれば不倫だとか言い立てて当たりを取ろうとするメディアや作家とは別に、もっと静かにおおらかに進行する交際もあるはずである。ただし、この第27巻には単に色恋のことばかりでなく、さまざまな関係の男性女性が登場する。皇軍兵士の悪行もあれば原爆の悲劇もある。この巻だけで20編が収められている。楽しみな一冊である。
読んだ本:日本文学全集 27 近現代作家集Ⅱ 河出書房新社 2017年   (2020/3)

2020年3月10日火曜日

漢字の用法「両」 浄心是一両

虫が地上を這っているのは命を実現しているのだ。何の意義もない営みでもそれは生命活動である。
渡辺京二さんが『図書』2月号の巻頭に書いている。何か調べようと思いながら、うっちゃっているのは、疑問を抱えたまま死ぬ怖れがあると気づいた。いま89歳、明日頓死しても不思議はない。だから疑問はすぐ調べておくべしと思い直した。知的探求とかいっても、死を迎えようとしている人間にとっては何の意義もない詮索に過ぎない。しかし、それでも、それは生命活動ではないか。些事にこだわるのも私の命の表れかも知れぬ、と書く。
筆者の私も他人様には関係なく、自分の知りたいことを探しては何かしら書き付けている。書いておかないと考えたこと、知ったこともどんどん忘れてゆくからである。これを人さまから見れば、地上を虫が這っていることと同じで、どうでもいいことのはずだ。それでも私にとっては命の表れである。何やら開き直った気分である。
唐木順三「鴨長明」という文章に出逢った。中に『往生要集』への言及があり、一部文言が引用されてある。
「ひねもす仏を念ぜんも、閑かに其の実を検ぶるに、浄心は是れ一両にして、其の余は皆濁り乱れたり、野鹿は繋ぎ難く、家狗はおのずから馴る、いかに況や自ら心を恣にせば、其悪幾許ぞや」
引用文は源信の原文(685年)のままのようである。おおよその意味は理解できるが、私は「浄心は是一両にして」という句にこだわった。一両の意味がわからなかった。あとにつづく、「其の余は・・・」を考えると趣旨は量が少ないことを意味しているはずである。そこで「両」という漢字が何を意味するかを知りたくなったのであったが、一対とか二つであることはすぐわかった。では一両と書けばどうなるのかが、いまの課題である。

当家のちゃちな辞書ではついに不明におわったが、ネットで『往生要集』に関連することを手当り次第に見ているうちに、一つ出会った。「浄心是一二」という表記が見つかった。これが通用するのなら「両」は「二」に置きかえて読んでよいことになる。中国語で「両」は「リャン」であり、数えるのに、イー、リャン、サン、スー・・・という。
さらにみてゆくと、『往生要集』現代語訳というサイトがあって、そこに当の部分は「浄心がほんの一、二に過ぎず云々」とでている。これは意訳であるが私がはじめ文脈から予想した意味と同じである。実に長い時間がかかってしまったが、辞書を見ても両に「ふたつ」や「対」の意味があることは書かれていても「二」に置きかえて使うという用法は示されていなかったから解が得られなかったわけである。大きな辞典には多分書いてあるのだろうが。
というわけで、これでいつでも死ねるとまでは思わなかったけれども、気が晴れた。
追記:「浄心是一二」の出典を書いておく。
顕意道教上人(1239-1304)の著『竹林鈔』巻上、第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに煩て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」と知とは此意也。
websiteは竹林鈔ー本願力で得られると思います。
(2020/3)

2020年3月3日火曜日

懐かしい臼井吉見さん 『蛙のうた』

臼井吉見(1905 - 1987)。ちょっと調べたいことがあって図書館で借りた「現代日本文学大系 78」に、この人の文章もいくつか収められていた。
「酒と日本語と」と題された短い文があった。招集されて入隊した日、中隊の酒宴があり、酔っぱらった臼井少尉は中隊長の読み上げる「部隊長の統率方針」の条文の日本語をこきおろした。「積極的任務の遂行」という言い方はない、「任務の積極的遂行」というべきだとぶった。慌てた中隊長は大隊長にご注進したらしく、翌朝、条文改めの命令が出た。臼井は懲罰をくらうかと覚悟したが、部隊長付きを命じられて祐筆のような務めにまわされた。中隊はサイパン島で全滅したが、ひとり臼井は内地で生き残った。
最近知ったこのての話では、これで3人めである。堀田善衛と安岡章太郎は病気のため命拾いしたが、臼井は大好きな酒に救われた。運の強い人である。
8月15日は千葉の山で木こりの親分をしていた。玉音放送の後、ポツダム宣言について大まかに話した。あとで若い兵隊が質問した。「隊長殿、基本的人権の尊重というのは、犬や猫よりは、いくらかましな取扱いをするということでありますか?」(「伐木隊長」)

臼井は「短歌への訣別」を『展望』昭和21(1946)年5月号に発表した。彼は自分でも歌を詠む愛好家である。戦争中に多くの無名の兵隊たちが短歌や俳句の形式にすがって遺書を残した。自分を追いつめた軍国日本への愛情と恩義を短歌や俳句で表したり、死に直面した自分の命をこういう形で示したりしたことがあわれでならなかった。これを短歌や俳句がもつ根強い国民的性格形成力と考えた。
きっかけは戦後の短歌雑誌を開いて驚いたこと、無条件降伏の八月十五日が歌になっていたことである。大家とされる歌人が例外なく即座に、無造作に、やすやすと歌にしていた。全部が「玉音放送」にすがって、「うつつのみ声ききたてまつる」「み声の前に涙し流る」…などとやっている。しからば開戦の十二月八日はどうかとみるに、こちらでも「畏さきはまりただ涙をのむ」「涙かしこしおほみことのり降る」…。なんだ同じじゃないか、二つの日の感動は簡単なものでなかったはずだ。複雑な内心の動揺や不安、絶望、疑惑などなど入り混じった実に複雑なものだったはずが、歌人というのは手放しで「み声」に感泣する以外の感情を覚えなかったとは奇怪極まる存在である。俳句の場合は少し違うかもしれないがこれには触れなかったという。
とにかく短歌という認識の形式にたよっていては現実を合理的に、批判的に把握できない。これは日本人の知性の問題であるし、もとより自分一個のことではない、というのが臼井の考えていた内容だった。
こういう主張に天下の歌人という歌人が、横合いから言いがかりをつけられたと勘違いしたか、一斉に歯をむいて罵りを浴びせてきたと書いている。こういう攻撃が一斉に激しくなったのは半年後の11月に『世界』に発表された桑原武夫の「第二芸術――現代俳句について」が巻き起こした騒ぎに巻き添えを食ったからだそうである。臼井が吊るし上げられたのは翌22(1947)年だったそうだ。
桑原は、俳句が作品だけでは感銘が得られず、句作者の名前が添えられて初めて鑑賞者が優れた作品だと知る事ができる体のものならば、それは芸術の名に値しない、強いて言うなら第二芸術とでもいうがよい、というふうに論じた。桑原が試みた提示方法が奮っていた。有名無名の作者の俳句をとりまぜて15句並べて作者名を伏せた。そのうえで優劣の順位をつけ、また優劣に関わらずどれが名家の作か推測を試みよ、というものだった。
作者の名前で優劣順が決まるとなれば、作者は弟子の数や主宰誌の部数を競い、世間的勢力の大いさを争うようになる。第二芸術論は結社組織のバカらしさを指摘している。桑原はこれにおまけを付けた。「成年者が俳句を嗜むのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものを閉め出してもらいたい」。阿諛と迎合しか知らない宗匠とその取り巻き連がざわめき立った。それが半年前の臼井の論に燃え移って、歌人どもが遅れ馳せに殺気立ってきた、と書かれてある。

今は昔、敗戦直後の日本の巷の貧しい文化戦争であったのだろうが、俳句も和歌も21世紀の今も盛んであり、週に一度の新聞1ページを選ばれた投稿が埋めている。とりわけ和歌は、なんと言っても、皇居で新年には「歌会始の儀」が催され、これは鎌倉時代にはじまるという。
臼井は尊敬する釈迢空に意見を求めている。釈は過去2回短歌滅亡論、実は再生論を考えていた。そのことばの中に、歌詠みは玄人意識を持ちすぎていて、それが禍いしている、というのがあった。時代が移って「サラダ記念日」。俵万智の第一歌集は1987年280万部のミリオンセラーズになった。口語短歌である。「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日。角川短歌賞で認められた俵の本は角川書店で発売されるべきだが、自らが俳人である社長の角川春樹が、短歌の本は売れないと判断したから河出書房のヒットになったというエピソードがある。いみじくも釋迢空の指摘通りクロウト筋が時代を読み誤ったかたちになった。
臼井氏は私の親の世代の人だが、編集者を本職とする彼の世間は広い。取り上げる題材は、今の人には響きにくいかもしれないが、私には魅力がある。
この本に取り上げられている題材は日本が米国の占領下にあった時代の社会、世相が背景または主題である。占領軍は米ソ冷戦下の米本国の意向にそって方針が変化しつつあり、政治・思想は政治犯釈放によっていわゆる左翼勢力が優勢になるとともにインテリと呼ばれる知識層が、不確かな海外情勢を宣伝し、それを未熟なメディアが知識を拡散した。ノンポリ大学生になった私にも、臼井氏がここに採り上げている基地反対ほか共産党や日教組などによる騒擾事件のいくつかは記憶にある。それらを明快に否定する臼井氏の筆は痛快でさえある。今やメディア媒体は紙から電子に変わって、玉石混交どころか若い世代は石を互いにぶつけあっている感もある。足許から見直す意味でもこの臼井氏のぶれない感覚は貴重だと思う。
読んだ本:
『現代日本文学大系 78 (中村光夫 唐木順三 臼井吉見 竹内好集)』(筑摩書房) 1971年
『蛙のうた』臼井吉見著 (筑摩書房) 1972年
(2020/3)