虫が地上を這っているのは命を実現しているのだ。何の意義もない営みでもそれは生命活動である。
渡辺京二さんが『図書』2月号の巻頭に書いている。何か調べようと思いながら、うっちゃっているのは、疑問を抱えたまま死ぬ怖れがあると気づいた。いま89歳、明日頓死しても不思議はない。だから疑問はすぐ調べておくべしと思い直した。知的探求とかいっても、死を迎えようとしている人間にとっては何の意義もない詮索に過ぎない。しかし、それでも、それは生命活動ではないか。些事にこだわるのも私の命の表れかも知れぬ、と書く。
筆者の私も他人様には関係なく、自分の知りたいことを探しては何かしら書き付けている。書いておかないと考えたこと、知ったこともどんどん忘れてゆくからである。これを人さまから見れば、地上を虫が這っていることと同じで、どうでもいいことのはずだ。それでも私にとっては命の表れである。何やら開き直った気分である。
唐木順三「鴨長明」という文章に出逢った。中に『往生要集』への言及があり、一部文言が引用されてある。
「ひねもす仏を念ぜんも、閑かに其の実を検ぶるに、浄心は是れ一両にして、其の余は皆濁り乱れたり、野鹿は繋ぎ難く、家狗はおのずから馴る、いかに況や自ら心を恣にせば、其悪幾許ぞや」
引用文は源信の原文(685年)のままのようである。おおよその意味は理解できるが、私は「浄心は是一両にして」という句にこだわった。一両の意味がわからなかった。あとにつづく、「其の余は・・・」を考えると趣旨は量が少ないことを意味しているはずである。そこで「両」という漢字が何を意味するかを知りたくなったのであったが、一対とか二つであることはすぐわかった。では一両と書けばどうなるのかが、いまの課題である。
当家のちゃちな辞書ではついに不明におわったが、ネットで『往生要集』に関連することを手当り次第に見ているうちに、一つ出会った。「浄心是一二」という表記が見つかった。これが通用するのなら「両」は「二」に置きかえて読んでよいことになる。中国語で「両」は「リャン」であり、数えるのに、イー、リャン、サン、スー・・・という。
さらにみてゆくと、『往生要集』現代語訳というサイトがあって、そこに当の部分は「浄心がほんの一、二に過ぎず云々」とでている。これは意訳であるが私がはじめ文脈から予想した意味と同じである。実に長い時間がかかってしまったが、辞書を見ても両に「ふたつ」や「対」の意味があることは書かれていても「二」に置きかえて使うという用法は示されていなかったから解が得られなかったわけである。大きな辞典には多分書いてあるのだろうが。
というわけで、これでいつでも死ねるとまでは思わなかったけれども、気が晴れた。
追記:「浄心是一二」の出典を書いておく。
顕意道教上人(1239-1304)の著『竹林鈔』巻上、第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに煩て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」と知とは此意也。
websiteは竹林鈔ー本願力で得られると思います。
(2020/3)
ルビ・ふりがなの話 この間、露伴の振り仮名についての座談「言語と文字の間の溝」を読んだ。その座談のきっかけは山本有三の提唱したいわゆる「ふりがな廃止論」であった。この「ふりがな」は漢字の横に漢字の読みを仮名で小さく付けることを意味している。「仮名をふる」という言い方ができている。露伴はこの振り仮名をルビーと呼んでいる。印刷業界では振り仮名に使う小さな活字をルビーと称した。ルビーは宝石のルビーからとった名称だが、イギリスでは活字の大きさにそれぞれ愛称があったようで、辞書にもRubyは5½ポイントとある。日本での呼び方がルビーからルビになったのでろうと推察できるが、露伴は初期の頃の呼び方に従っていたのであろう。広辞苑の項目に「ルビ」があり、「振り仮名用活字。また、振り仮名。五号活字の振り仮名である七号活字がルビーとほぼ同大であることからいう」とある。活字の歴史も興味深いことが多いけれどもここには触れる余裕が無い。 ネットでルビとか振り仮名とかを検索語にして調べてみて大いに驚いた。ルビを振るフリーソフトがたくさん紹介されていたり、新聞記事にルビを振って無料公開しているサイトがあったりしたことだ。この種の検索を今までしていなかったこともあって、今更ながら時代の変遷に一人だけ取り残されたような気分になった。 |
| YOMOYOMO 東京新聞の画面 |
かつて日本語教室で講師をしていた頃、新聞を読むクラスで、日本人の名前で読めない漢字やどう読むのが正しいかわからない漢字に出くわして困らされたことがよくあった。ところが英字新聞で同じ話題を探すとその日本人の名前がローマ字でちゃんと出ているではないか。日本語で読もうとすると読めない文字が英字新聞では読める。なにか変だとその不都合に怒りを覚えながら新聞社にメールで抗議して、以後こういう場合には振り仮名を付けてもらいたいと希望を出しておいた。1990年前後だったと思うが、当時その新聞社から広告か編集部関係の本が出ていて、振り仮名の有無で紙面行数が変わり、ひいては広告の占める面積に影響するという考え方が披露されていたように記憶するが、要するに振り仮名には消極的であった。読者の利便か金儲けかという大新聞ともあろうものの姿勢が疑われることでもあった。半年ほどしてから難読の姓名に振り仮名が付けられるように変更された。 思えばそれから数年経ってインターネットが登場したわけだが、さらに20年ほどたった今はネットを通じた振り仮名サービスが花盛りの様相となっているわけだ。 「日本語教育学習ポータルYOMOYOMO」というのがある。新聞のページには全国紙、夕刊紙、地方紙、スポーツ新聞など25紙が用意されている。使い方はまだ知らないが、サイトの説明文には振り仮名だけではなく、ルビ振りでローマ字、ハングル、デーヴァナーガリ(インドの文字)、キリルをつけることができて、更に音声読み上げができるとしている。任意の文字をクリックすれば単語を自動的に認識して辞書も引けるそうだ。使い勝手はまだ分からないが外国人の自習にはかなりの利便性が認められそうである。日本語学者育ちの講師だけではここまでのツールは出来なかったのではないだろうか。IT技術を応用した日本語処理ツールなのだ。 日本語教育から離れて10年以上経つ老兵にはただ驚きの一語である。 これとは別に、文書にルビを振るソフトも沢山ある。たとえば「ルビfor Word」(有料)とか「るびるび」(無料)なんてのもある。試したことはないが、いずれもオフィス関連ソフトのようだ。HTML用もあったりしてなかなか賑やかなことだが、これなどひょっとしてアニメに使うのかもしれない。日本語教育とは少し方向が違う感じがする。前二者はオフィスのIMEを応用しているようだが、教材作成に便利だろう。 先の"YOMOYOMO"や上の「るびるび」など使用する側は講師の目も必要かもしれない。"YOMOYOMO"では偶然「誤読」が見つかった。テニスの錦織選手の名字がニシキオリと仮名が振られてあった。「るびるび」ではIMEのくせ?によって「行った」は「おこなった」になることが多いと断りが添えてある。せっかくの学習ソフトだから校正を含めた正確さが求められよう。だからといって、これらソフトの作成者には頭がさがることにかわりはない。 ルビ振りソフトに思わず話をさらわれてしまったが、新聞記事などの固有名詞には振り仮名が必要なことは最近その思いが強くなった。子供の名前だ。ありきたりの文字でも読みは決してありきたりでないことが増えてきた。例に出して悪いがピンポンのワールドツアーで優勝した14才の伊藤美誠さん、ミマとお読みするらしい。その他事故や犯罪などの記事では不思議な読み方が多くなった。関取衆も日馬富士も最初は意表をつかれたし、皇風(キミカゼ)、颯天(ハヤテ)、今度は阿炎(アビ)というのが登場した。四股名はどうか知らぬが、一般の人名についての字形は人名用漢字で常用漢字2136のほかに840ほどに制限されている。困るのは読み方に制限がないことなのだ。昔の親は漢字を決めて読みが従う形だったが、いまはカワイサ優先のためだろうか読み方(呼び方)を決めてから当てる漢字を決めるのが多いそうだ。人名用漢字の管轄は法務省になっているが、文科省(文化庁)との二元体制はよろしくない。おまけに漢字コードのJISは通産省の縄張り、かつて年金の名寄せがでたらめのような感じを見せつけられたが、どうも漢字と平仮名、片仮名の三種類の文字の制御がうまくいかない。認知症のお年寄りの行方がわからなくなって、警察署間の捜索連絡がよみがなの連絡違いで、何年も不明のままになってしまった事例も出た。来年実施というマイナンバーとやらも、扱う人間の質を向上させることが先決だろう。どうぞうまくやってくださいよ。(2015/3)
表題の一篇は座談の記録である。正確には岩波書店編集部の記者が当時かしましかった振り仮名についての議論に対する露伴の意見を聞きに来た時の対談記録である。対談といっても殆どが露伴の発言であるし、その内容の知的な豊富さは巧みな表現と相まって自ずから人柄の滲みでた楽しい座談であると思う。
対談の契機となったのは作家山本有三が著書のあとがきに添えた主張である。本文で山本は易しい漢字だけを用いる文章をこころがけて振り仮名は一切使わないことを実行した。そして、あとがきで振り仮名は一切用いないことを世に勧奨した。これが「ふりがな廃止論」とされ多くの議論が巻き起こったのであった。
(参考)
山本有三『戦争とふたりの婦人』巻末「この本を出版するに当って―国語に対する一つの意見―」岩波書店 昭和13年5月単行本、8月改訂版
山本有三『戦争とふたりの婦人』巻末「この本を出版するに当って―国語に対する一つの意見―」「『ふりがな廃止論とその批判』へのまへがき」岩波書店 新書版 昭和14年
白水社編『ふりがな廃止論とその批判』昭和13年12月)
昭和13年当時と現在では、時代というか世相が全く違うわけだし、言葉や漢字についても感覚も異なることから、ここでは昔のことをとやかくいうことはしない。ただ問題の種類や所在は当時も今も相変わらずである。したがって、この一篇では虚心坦懐に露伴の語るところを愉しめばよいだろうと思う。その意味でこれは筆者にとっては楽しい読み物であった。賢くなった気もするし。
ちなみに「ふりがな廃止論」に対する露伴の意見は、常識的なことである。要約すれば、
普通教育を受けた者には誤解誤読のおそれなきものには付けない。地名などは字が決まっているのだから仕方がないし、ほかにもいろいろあるだろう。そういうものには親切の意味で下に小さく読みを書いておく。
文字と言語の間に溝のある我が国のことだから、訓注を要する場合があるということだけは予想されねばならない。
ということになろう。
「文章はルビーだけで成り立っているわけではなく、もっと大きな問題がいくらもあるのだから、それで漢字を廃してしまうとか、ローマ字を採用するとか、あるいは仮名文字にしてしまうというような大きい議論は別にして、それをお預けにしたところでルビー一つだけで論ずるのならば」という前置きをしているが、その当時の漢字制限論やローマ字運動には批判的であったかのようにみえる。
「『字』という字の意味が元来孳乳繁殖を意味していて」という箇所があるが、調べると哺乳動物が繁殖するということだったが、「うむ、ふえる」という意味の「孳(じ)」が「字」の語源で、字は増えるから「字」を使うようになったと辞書にある。「社会の事物思想が段々と新生して来ると言語だの文字だのは随應して増加して行くべき譯」で「文字を減じ得ても言語は増さぬ譯には行かぬ」から制限しようというのは容易ではない、と言っている。「詞は元来が耳に訴えるものにして(漢字が減らされれば)長々しく示されるようになる」から、露伴の頃から80年余経て、紆余曲折があったとはいえ、現代の漢字仮名交じり文はほどよいところで落ち着いたのかなという感じがする。
漢字クイズなどに難読漢字を読ませるものがあるが、鑷(金偏に耳が3つ)を露伴が話のついでにもち出している。「ケヌキ、毛抜」だそうだ。紅葉が好んで使ったというが「南方」と書いて「ケヌキ」と読ませた。こころは「南方不毛の地」から採ったシャレらしい。この場合南方は今の東南アジアである。昭和期前半の南方も未開瘴癘の地として扱われていた。1970年代、外務省のシンガポール駐在員には瘴癘地手当がついていたらしい、随分失礼な話ではある。
また日本の故事からの言葉として「白馬」を「あおうま」と呼ぶ習慣を紹介している。漢字の白は碧と共通するらしいが、日本では古来の年中行事に「白馬節会(あおうまのせちえ)」があることを知った。そういえば神社に白馬が飼われているのを見た記憶がある。故事の漢字と読みかたの結びつきは、知らなければ振り仮名に頼るしかない。
劇作家の井上ひさしさんは、振り仮名は漢字と仮名、つまり意味と音をつなぐ貴重な工夫なのだ、と書いていて、作品にも数多く利用している。それがまた、たいてい笑わせたりして愉快だったのは懐かしい。大冊「吉里吉里人」が我が本棚の奥に眠ったままになっていたのを思い出した。読んでみよう。
「言語と文字の間の溝」は近代デジタルライブラリーで読める。「音幻論」の付録175ページ。コマ番号95から始まる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/8
(2015/3)