2018年1月30日火曜日

110歳のパソコン生活

介護付有料老人ホームの広報誌で知ったが、広島の施設に110歳の男性が元気にお住まいになっている。広島県の最高齢者だそうで、表紙を飾っている笑顔の写真はいかにも元気で屈託がない。写真の背景は本棚、自作のファイルらしいのがたくさん見える。

記事によると冊子だそうだ。自宅をデイサービスに開放して「お話し会」というサロンをひらいている。そこで冊子を元にして「人の幸せを祈ること」を毎月話しているのだそうだ。既に著書『109歳の幸福論』が出版されていて、いま2冊めに取り掛かっている。奥様は5年前に99歳で亡くなられた。施設の食事がおいしいと喜んでいられるから、この方の健康は本物だ。若い頃は軟式テニスで鍛えた。いまの日課はスポーツ観戦とパソコンだそうだ。

たくさんの冊子はパソコンの成果だ。良い話を聞いたら実行しなくてはいけないというのがモットーだそうだ。聞いた話をパソコンに入力して人に伝える材料にするのは老人のパソコン利用としてとりつきやすい。それならワープロと同じじゃないかといっても、いまはもうワープロはない。扱いがより複雑なパソコンの時代になって、すでに世紀も変わっている。この方、山下さんがパソコンを始められたのはすでに80歳半ばだろうか。

むかし、梅棹忠雄さんがカナタイプを推奨されたようにアウトプットの利点を会得されていたのだろう。アウトプットは材料を整理して文章にまとめ、情報として伝えたり、さらなる情報として蓄積することだ。近頃流行りの認知症予防法の一つでもある。ここに実践のお手本があった。

山下さんは耳も目も手も健常のようでまことに結構だと思う。「お話し会」という交流の場を持っていることも強みだ。黙然と読み書きするだけでなく、集まりで会話を交わし、人と交流すること、つまりコミュニケーションすることが一番大切といわれている。認知症の予防や、進行を遅らせるのには一番効果が大きいそうだ。

せんだってNHKテレビの「ためしてガッテン」では難聴になると認知症になりやすいから補聴器を使うようにと啓蒙していた。その意味はコミュニケーションが苦手になり、ついつい自分を孤立に追い込んでしまうことだ。当方は既に難聴で補聴器の厄介になって久しく、隠居生活みたいになっているが、いまさらどうしてくれるという気分になった。怒っていても仕方がない。打つ手は何か考えた、というよりわが身の事ゆえ早くから考えてはいる。

いま我が身に不利なことはなんだろう。難聴のため集まりに出ても会話に加わりにくい。説明が聞けない。私の年代は職場にパソコンがまだ無かった。その延長で現在も年賀状は来てもメールは来ない。同年代の周囲は次々に彼岸に渡ってゆく。コミュニケーションをどうするか。普段の会話の相手は妻だけである。

脳活というのは脳の血流をよくすることでもある。運動して体を使うことでもよい。頭を使うことでは特に知的な活動がよいとされる。本が好きだから本をよく読むが、読むだけでは十分ではない。声を出して読むこと、文字を書くことが有効だと専門家はいう。ブログを始めたのは脳活のつもりだったからそれはよいとして、手で書くことも始めることにしよう。

南方熊楠は大英博物館でひたすら書き写した。それが知識の集積になった。ただし彼の書いた文字は細かくて文字も独特で非常に読みにくい。そのため、いまだに資料整理が遅々として進まず記念館も悪戦苦闘している。わが身の場合も悪筆で、ときに自分でも読めないこともある。だからパソコンをよく使うが脳活には手書きがいちばんよい。

ということで、いまのところ、結論はブログは誰かに語るつもりの文を心がけること、漢字を書く練習をすること、この二つを実行しよう。運動はつとめて歩くことと室内ではスクヮットを励行しよう。外出時には杖をついているが、ときどき足元が心もとない。一度転んだことがあるので臆病になったが、歩くことをやめてはいけないと自分に言い聞かせている。110歳のニュースはよい刺激になった。(2018/1)

2018年1月26日金曜日

日本語版のパソコンを別の言語で使う

日本語版のWordやExcelを外国語表示に変えることができます。
じつはMicrosoftのヘルプにちゃんと手順が載ってはいるのです。ただ答えにたどり着くまでがなかなか大変なのです。ここには、できるだけ実践に即した手順と操作を心覚えまでに書きます。Wordを英語表示に変える例です。


【日本語版のパソコンを別の言語で使う方法】
1. Wordの画面で「ファイル」「オプション」「言語」の順にクリックすると、
「Wordのオプション」[Office の言語設定を実行します] ダイアログ ボックスが表示されます(注;この図は実行結果です)。
2. 下部の「表示言語の選択」で、左の「表示言語」右の「ヘルプ言語」ともに「3.英語」が見えますが、これは以下に述べる操作が実行された結果です。
このように、ここに別の言語を追加することでOfficeに別の言語が加わります。言語の追加は「言語パック」をダウンロードしてインストールすることで実現します。ここでいったんWordを終了します。

3.「スタートボタン」をクリックして、プログラム一覧の「Microsoft Office 2016 ツール」の中の「Office 2016言語設定」*を開きます。1.の図と同じです。
 (*2度めからは「Office 2016 Language Preferences」と表示される)
「Office 2016言語設定」ダイアログの最下端の青い文字「表示言語とヘルプ言語をOffice.comから取得する方法」をクリックします。
4.あらかじめOfficeのビットバージョンが32ビットか64ビットかを確認します。確認する方法は;「ファイル」「アカウント」で「Wordのバージョン」をクリックします。いちばん上に16で始まる数字(2016の場合)と32bitなどが見えます。
注意事項:Officeのビットバージョンは、OS(Windows)のビットバージョンとは別物です。

5.図のタブで2016をクリックして「必要な言語」ドロップメニューから「英語」を選ぶとダウンロードの画面が開きます(図は英語を選んだとき)。

ビット数を選択して青い文字をクリック。ダウンロード終了後、ダブルクリックしてインストールします。インストール完了するのを待って画面を閉じます。
6.Officeの言語を設定します。Wordを開いて「ファイル」「オプション」「言語」で「言語設定ダイアログ」を表示します。
「表示言語」と「ヘルプ言語」に英語が追加されていることを確認します。上記1。の図です。

7.言語の優先順位を決めます。選択して▲をクリックすれば一段上に上がります。
「既定」にする言語は位置を決めてから欄外の「既定」をクリックします。
「ヘルプ言語」は「表示言語」と順位が違ってもかまいません。
変更を有効にするために再起動の案内が出ます。「OK」したあとOfficeを終了します。

8.再起動します。Officeを起動すると、英語版が表示されます。
あとは随時、順位変更と再起動で日英語表示が変えられます。

備考:次のブログを参考にさせてもらいました。お礼を申し上げます。
http://snow-white.cocolog-nifty.com/first/2016/02/office-2016-1ca.html 
  「世の中は不思議なことだらけ」                                                                      (2018/1)


2018年1月17日水曜日

読書雑感 『ブリキの太鼓』

またギュンター・グラスだ。『ブリキの太鼓』を読んだ…。
はじめに異議を申し立てておく。訳注、387ページ下段:マウントバッテン将軍。「1900-79。アメリカ軍司令官。1944年アメリカ軍のビルマ反攻がつづいていた。」とあるが「アメリカ軍」は誤りだろう。そもそもが大英帝国の伯爵だ。ビルマ戦線では英軍劣勢の後、アメリカが協力して反攻に転じた。1943年8月東南アジア連合軍が結成され、マウントバッテンが総司令官、その下に英陸軍中将が補佐についた。

さて、終わりまで読んで、ふと初めの章に戻ると、つい今しがた話題になっていた友人二人が最初からいるではないか。つまり、この小説は尻尾と頭がつながっているのだ。訳者、池内さんの解説にもA-ZがZ-Aになるとか書いてあった。
初章の場面は精神病院。看護人ブルーノ・ミュンスターベルクが登場。目がブラウン、紐細工が得意、週一度の訪問日に客が帰ったあと、お土産品の紐をベッドに腰かけて整理する、紐を石膏で固めて造形する静かな人間。いつもドアの覗き穴からオスカルを見ている。記録用の白い紙は彼が買ってくる。けがれのない紙、という言い回しで言うように頼んだが、戻ってきたブルーノは、けがれのない紙と言うと店の女は真っ赤な顔をしたと考え深げに話した。なんのこと??おっと女の話題じゃなくて紙だったとオスカルが後悔する。
精神病院はオスカルが「やっと手に入れた終のすみか」だそうだ。青い目のオスカル。看護人のブラウンの目はオスカルを見、ぼくの青い目はぼくを見る。オスカルもぼくもどちらも主人公で、ドアが開かれるときどちらも孤独と友情に包まれる。
病院に許され毎日3-4時間ブリキの太鼓に語らせるーーどうやって語らせるのか?たたくだけのようだがわからない!すべてを太鼓が記憶している。太鼓の原理に説明はない。ま、いいか。

物語全部が病院にいながらの回想である。読んだことは読んだがページは尽きても頭の中は物語の出口がわからずうろうろしている。オスカルが生まれてから30歳になるまで、時代と人々の光景が46のエピソードに分けて語られる。時代は違うがブリューゲルの絵を連想する。一枚の絵にてんでばらばらな動きの大衆が大勢描かれている。それぞれの本能に任せてのあるがままの生活ぶり。反教養小説とはうまい表現だ。
主人公の特異な人物オスカル・マツェラート。生まれるときに3歳までは成長しようと決める。3歳になったら太鼓を買ってやろうと母親が言ったからだ。耳ざとい赤子で両親の話をしっかり聞き取って自分の意志を決めている。父親は家業の食料品店を継がせようと言うが、それはお断りする。身体は成長しないが、精神的発達は生まれたとき既に完了しているのだそうだ。
94センチの小さな体形で世渡りするとどういうことになるか。ある時は幼児ぶりを発揮するし、別の時には大人の知恵を使う。幼児の機嫌を損ねると怒りだして叫ぶ。その高い声には強烈な破壊力が伴う。ガラスを割り、切り取り、粉々にする。良くも悪くも使える小人の武器だ。
小人はどこでも意地悪い世間の目にさらされる。むかしから世界共通だ。道化役、笑いの対象…つまり見世物、差別の対象にされる。どっこい、それなら小人もそのことを利用してがっぽり稼いでも見せようぜ。グラスは何気なく被差別民や障碍者の暮らしを描く。現実の社会ではロマを支援しているという。教育の行き届かない無教養の社会では古代人と同様に性におおらかになる。だからこの物語にも奔放な性が横溢する。父母がいて子供ができる。母親はまず間違えようがないけれど、父親はあやしげだ。たいていの生き物のオスは役目がすめばどこかへ行ってしまう。オスカルにも推定上の父親と父親ぶってるだけの父親がいる。オスカルの息子らしきクルトにも同じ問題がある、でもそれだけのことで、だからどうってこともない。
物語の中心となる地域は戦間期のダンツィヒだ。現在はポーランドのグダニスク。ヴェルサイユ条約によって自由都市などという妥協の産物ができた。
自由都市におけるポーランド郵便の切手
もともとはポーランドなのに第二次大戦の幕開けにナチドイツは、何気なく泊めてあった軍艦からの砲撃で取り返しに来た。戦後はポーランドに返され、ドイツ人は難民や東ドイツ人になった。ドイツでもポーランドでもない人たちもいた。いろいろあるが、この作品にはカシューブ人が登場する。バルト海沿岸の漁民が多かったはずだ。ナチの時代には帝国ドイツ人に対する民族ドイツ人だった。政治が鉛筆ねぶって国境を左右したとき、オスカルの祖母アンナはでんとして動かなかった。カシューブ人はいつもカシューブにいるのだと。

メルケル首相もカシューブの血を引いている。だからつよいのか、難民に理解あるのも関係しているか、などと思わず考えた。
ギュンター・グラスはダンツィヒに生まれた。母親がカシューブ人だった。故郷を想う心情は相当に強烈とみる。カシューブ人の土地に対する思い入れは、わが東北育ちの人と似ているのではないかと思う。井上ひさしが独立を考えたように。田圃を守る、墓があるなどというのは結果の話で、根っこがあるのだろうと考える。オスカルの物語に「黒い料理人」が登場する、言葉でだけだが。何のことかわからない。子供たちの歌う歌に出てくるということは相当に古い言い伝えでもあるのかな。
この物語には民族の心を秘めた歴史が土台にあるとみる。物語は時に荒唐無稽、奇怪な出来事に読者を引きずりまわすが、背景時代についての歴史はきちっと記述している。ただし、ときに表現はくだいていることもある。
カシューブの海辺で漁師が馬の首を引き揚げた。まだ腐ってはいない、きのう、おとといあたりの首。中から大小たくさんの緑色のウナギがにょろにょろ出てきた。馬の首も人の死体もウナギは好きなのだと漁師は言う。読者はだれしもしばらくウナギを食う気になれないだろう。この事件をきっかけにオスカルの母親アグネスは過食症が拒食症に、そしてまた過食に。挙句に死んでしまう。料理好きの父親はそのウナギを料理する。もちろんのこと、父母は食え、食べないのいさかいになる。読むほうも辛い場面だ。
母アグネスは、祖母アンナがジャガイモ畑で祖父になるヨーゼフ・コリャイチェクを4枚重ねのスカートの中に匿ったことから生まれたとか。ヨーゼフはなんと政治がらみの放火犯だった。それがどうなるかここには書かないが、この話が冒頭に出てきてめっぽう愉快だ。なんでもポーランドの国を想うあまりか、製材所の塀を片っ端から赤と白に塗り分けたとのこと、それを怒った親方が赤と白を引っぺがしてヨーゼフの背中を殴りつけた。その夜ヨーゼフが新築の製材所に火をつけたのだという。赤と白はポーランドの国旗の色だ。オスカルの太鼓も赤と白に塗り分けられていたようだ。グラスは特に説明をしていないが言わずもがなのことだからではないか。
エピソードそれぞれの主題はばらばらで一貫していない。中世ヨーロッパには「ほらばなし」というのがあったそうだし、わが国にも『今昔物語』その他があった。この作品もそういう系統に数えられるのかもしれない。庶民の暮らしを細かく綴ることで本当の民族の歴史ができてくる。国家にとらわれた大きな歴史では世間がどうだったのかさっぱり見えない。本作は社会史である。随所にちりばめられた比喩や皮肉やもじり、親切な訳注はあるが当方の知識不足は埋められない。だから読み終わった気分からは遠い。なかなか去りがたい思いがする。いつまでたっても、まだ帰ってはいけない気分。映画の方はまだ見ていないが、見ないほうがよさそうだ。
『ブリキの太鼓』グラス 池内 紀 訳 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅱ-12 河出書房新社 2010年 (2018/1)

2018年1月8日月曜日

難聴は認知症になる!?

旧臘12月6日のNHKテレビ「ためしてガッテン」は「認知症を防ぐカギ!あなたの『聴力』総チェック!」という謳い文句だった。2、3日してからネットで検索してみると、随分と反響が大きかったようにみえる。抜け目ない補聴器店は翌木曜日が定休日にもかかわらず、特別に電話による相談を受け付けますと宣伝していた。番組の狙いは、病気や負傷による耳の故障ではなく、加齢にしたがって否応なく聴力が低下することへの気づきと、聞こえないことが認知症への引き金になり得るとの最近の研究成果の周知にあった。つまり自分の聞こえに関心を持てという啓蒙の番組だ。

音はどのようにして聞こえるのか。耳は入り口であって音楽であれ、言葉であれ、聞き分けるのは脳だ。途中伝達する器官に内耳の蝸牛がある。蝸牛の模型で有毛細胞の働きをうまく伝えていた。毛の物理的振動が奥の方で電気的信号に変えられて脳神経に伝わるそうだ。片耳で約1万5千個ほどの有毛細胞があるというが、この数はまだ確定していないようで記事によってまちまちだ。原理としては入口に近い高音用の細胞の毛から摩耗するから、年をとると高い音が聞こえにくくなる。そのことを説明するために放送ではガッテン係が考案した模型を使っていたが、本物の装置はこんな単純な形はしていない。

視聴者は摩耗した毛は再生しないという現実を知って衝撃を受ける。摩耗した部分が受け持っていた音が聞こえなくなる。補聴器はその部分を補うのが目的だから有用なのだ。言い換えれば、いまのところ医療では治せないが、補聴器で代用できるということになる。健康についてのテレビ番組は各局ともたくさんあってそれぞれに医師が説明している。だが高齢者の聞こえに関してはまだ医療は無力だから番組があまりなかったのではないか。

今度のガッテンは医師が説明して補聴器を使えと進言する。こういうことがテレビで堂々と言えるようになったのは、補聴器もデジタル機器に生まれ変わったからだ。いまでもアナログ式の補聴器はある。総じていえば集音拡声器だ。欠落部分を補うのはデジタルだからできることなのだろう。今回のガッテンは耳を使わないと認知症になるよという脅しに力点があるとみた。言い換えれば、聞こえが悪くなった高齢者は補聴器を使わないと認知症になるぞ、これは補聴器の宣伝みたいにも聞こえる。そこをとらまえて補聴器屋さんは定休日でもサービスに応じようと張り切ったのだろう。

河北診療所耳鼻咽喉科という耳の病院をインターネットで知った。ここまで親切に説明してくれる耳鼻科の医院は知らなかった。ある時突然音程が変だと気付いた時、知っていればたとえ仙台でも頼って行ったと思う。なにしろ訪ねた医院はどこもドレミファが狂って聞こえるという訴えには不思議そうな顔をするだけだった。その後も具体的に音程について触れている医師はネットで北海道の人だけだったと記憶している。今では自分なりに高周波数帯の楽音が聞こえにくいせいだと理解している。


で、聞こえなくなると認知症になるのか。番組は人との交流が大切と説く。それはよくわかっているが、補聴器をつけて会合に出ると、対話相手だけでなく周りの声や雑音も全部補聴器は拾ってくれる。人間の脳は聞くべき音と不要な音を区別して認識できる。いまの補聴器はその技術はまだない。だから補聴器に頼っての人との交わりに加わる気は失せてしまうのだ。ということでわたしは番組にガッテンできなかった。あれは健聴者のための番組だったのだとすねている。(2018/1)











2018年1月6日土曜日

映画『トスカーナの休日』(2003、米・伊)

女性による女性のためのお話ではあるが男性が見ても面白い。要するに見て楽しむ娯楽が映画であるなら、これはその通りの作品。毒にも薬にもならないけれども、ただ楽しめるからそれでいいでしょ。女性監督オードリー・ウェルズが自分で書いた脚本だからきっとそう言っているに違いない。
出だしは、何やらおかしな連中が集まっているな、という感じ。15年ほど前のアメリカでは普通なのか、いまの日本の30、40代が見たらどうなのだろう。見慣れない光景なのは学生上がりのような若者の出版記念パーティーといった場面だからだろう。周りは先輩めいた年代だ。若者はフランシス・メイズ教授のお陰で完成できたと感謝する。その教授は眼の前にいる。主演のフランシスことダイアン・レインだ。
つまりこの映画は作家で大学教授のフランシス・メイズが自分の体験を書いた小説を借りた作品なので、物語の主人公はフランシスになっている。
左:原作者フランシス・メイズ 右:ダイアン・レイン

親友のパティ、アジア系の顔立ち。サンドラ・オーという女優さん、カナダ生まれのコーリアン。ベレー帽で右手にグラス、左手はチョコレート。隣にいる女性はパートナー。
男が近づいてくる。フランシスが辛口批評を呈上した相手だ。何やら意味ありげな話をして去る。夫の浮気らしい。
自宅に弁護士がやってきた。別れた夫が慰謝料請求と離婚協定の話。アパートの自宅を処分することに思い切った。生活を支えていたのが作家のフランシスだったからそうなった。段ボール三つだけにした全財産を持って移った先は離婚者収容所の異名のある粗末な一部屋。惨めだった。
パティとパートナーが食事に誘ってくれた。フランシスに気晴らしに旅行しておいでとチケットをくれる。まだそんな気分にならないというフランシスに、行くつもりが行けなくなったのだと言う。「できたのよ」「えっ、それはおめでとう!」「五度目でやっと成功したの。」なるほど、人工授精か。
二人分を1枚のファーストクラスに換えたから、ぜひ使ってと言う。「でもねぇ…。」「心配いらない、ゲイばかりのツァーだから!」
ここで暗い雰囲気だった映画がパッと明るくなる…。


行った先はトスカーナ。いかにもイタリアの観光バスらしい彩りの中は男のなかに紅一点。「ご紹介します、こちらは、フランシスさん、ストレートの女性です」農協さんの団体みたいな野暮な旗など使わない。さぁ、大きなヒマワリについてきてください。


景色の良い田舎の山野をワインを飲みながら、バスは行く。上ったり下ったり、楽しそう。
突然、道いっぱいに広がっている羊の群れ。渋滞だ。窓の外に街で見かけた売り広告の邸宅。あっ、これっ!衝動的にバスを降りた。

300年を経たお屋敷、といっても、イタリアだから石造りだ。伯爵夫人だというおばあさん。鳩のフンがおでこにかかったのが神様のお告げだそうで荒れ果てたお屋敷が手に入る。手を入れて住めるようになるまでの間にストーリーのお膳立てすっかりできあがる。
ストーリーについてはネットでいろいろ書いてあるからここには書かない。監督が考えたらしいいろんな設定が面白い。
ゲイの団体が観光旅行というのはめずらしい。だから女性が独りで混じっても安心だ、とはいい思い付きだ。
パティが大きなお腹でトスカーナへやってくる。なんでまた? パートナーがお母さんになれないと言って行っちゃった、というのはトンチンカンな話だ。笑いをとるためだろうか。
この男なら大丈夫と見極めて一夜フランシスも蘇った気分に。パティのお産で、ひと月近く逢瀬が遠のいた。郵便屋さんのスクータに乗せてもらって会いに行く。びっくりするだろうな。ワクワク…。出てきた男は何かぎこちない。と、後ろのバルコニーから知らない女性が「マルチェロ!」「そうかぁ、待ちきれなかったのね」バカを見たフランシス。イタリア男の面目躍如。イタリアは男も女もスマートですね。
いつも前後の脈絡なしで現れる大きな帽子の女性。16のとき街でフェリーニに見出されたの、と言う。『甘い生活』(1960)に出たとか自慢げだ。ある日噴水に入って踊ってる。ほかの場面にもセリフのなかに『甘い生活』のもじりが含まれているらしい。監督さんのお遊びだ。調べたらマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エグバーグがトレヴィの泉で戯れる場面が有名だった。
工事屋が連れてきた職人がポーランド人の3人。日本式にいえばアルバイトだ。大学教授が混じっている。共産主義から逃れた難民とみたがどうだろう。この場面、大戦の間、国がなくなってもポーランド人はやはりポーランド人だったのだと妙に感心する。
そのポーランド人、若いのが農園主の娘と恋仲になって結婚すると言い出す騒ぎ。二人は片言でしかやりとりできないのに…、と日本人なら思ってしまうが、こんなのはヘッチャラ。
フランシスは改装なった大邸宅で結婚式を挙げて家族を持ちたい、といつしか願うようになった。この若い二人と頑として反対する親を取り持って結婚にこぎつけた。フランシスの屋敷で盛大な結婚式。願いは達せられたじゃないか、と真面目な不動産屋マルティーニに指摘されてハッピーエンド!?
実はこのマルティーニ、屋敷を買ったとき、途方に暮れるフランシスを励ましてくれた。「昔、機関車なんてない頃にヴェニスからウイーンまで線路を敷いた。そしたら、いまや列車でいつでも旅行できるようになった。心に思っていれば実現するものなんだよ」これがこの映画のテーマなのかもしれない。

はじめに書いたように原作はフランシス・メイズ、1940年生まれのアメリカ女性。詩人で大学教授。イタリアのコルトーナに一時移住してトスカーナの古いヴィラ「ブラマソーレ」を買い取って修復した。その回想を書いたのが『トスカーナの陽のもとで――イタリアのわが家』(1996)。ベストセラーズになった。これを下敷きにして脚色したのがこの映画ということだ。映画のエピソードは原作にあるとは限らないだろう。作家のフランシスはイタリアとアメリカを行ったり来たりの暮らしだそうだ。トスカーナが観光地として有名なのは彼女に負うところが大きい。彼女が参画したTuscun Sun Festivalは2003年が最初で、毎年盛んに行われているようだ。この映画も一役買っているに違いない。ほかにもトスカーナ関係の著述が幾つかあり、料理本まで出版されいる。
日本語の翻訳は『トスカーナの休日』(早川書房 2004年)もあるが、原作はインターネットで幾種類かの無料版で読める。
映画『トスカーナの休日』(2003、米・伊)今回見たのはわがライブラリからだが、日本での劇場公開は2004年、たぶん大橋美加がNHKFMの番組で紹介していたように思う。(2018/1)