2022年11月13日日曜日

ホモ・サピーエンスの未来と100年前のH・G・ウェルズ

Herbert George Wells (21 September 1866 – 13 August 1946)。日本では、一般にH・G・ウェルズの表記でSFの大家として知られている。『タイム・マシン』とか『宇宙戦争』とか著作名は私も知っているが読んだことはない。子供の頃に絵で見た火星人という手足の長いタコのような生物は、この作家の小説の産物だったらしい。


1938年、アメリカでラヂオドラマの放送中に、火星人が攻めてくるというニュース場面を本物と思い込んだ民衆がパニックを起こしたという。H・G・ウエルズの『宇宙戦争』(1898)を俳優のオーソン・ウェルズが脚色して朗読した作品だった。詳しくはWikipediaに載っているが、実はパニックなどはなかったそうで、いまでは都市伝説だったと片付けられている。オーソン・ウェルズは有名度を上げたらしいが。H・G・ウエルズの科学空想小説が大衆娯楽としてそれほどもてはやされていたということだ。

私自身は少年時代から今に至るまでウェルズの作品は関心の外であった。それが今年、いつも楽しみにして読んでいた「あかちゃんトキメキ言行録」(岩波書店『図書』連載、著者は時枝正)を読んで変わった。「ことのおこり」と題したその最終回のエッセイは、受胎告知から分娩まであれこれと生起した事柄を述べたあと、「智ちゃん、よく来たね。ほんとによく来たね。」との言葉が最後に置かれている。それは明らかにそのエッセイの冒頭の文に対応している。つぎに引用する。

  ” ウェルズ『世界史概観』(岩波新書)は進化論から筆を起こす。史家は王          朝、GDP、戦争などに拘泥するが、人類の盛衰は畢竟生物としてのさがに          弄ばれる以上、著者のパースペクティブは賢い(そして種にズームアウト          して筆を擱く原書1922年初版の方が改版よりよい)。 智ちゃんも、私の            母=パパ一流の大風呂敷を借りれば、宇宙の歴史を無事に辿り   ここに着          いた。着く直前の九ヵ月を日記風に記録しよう。”

時枝夫人はイギリス人、エッセイの舞台はロンドンの産院とケンブリッジの自宅、智ちゃんとの会話は3ヵ国語らしいが、『図書』ではパパと交わす和会話(と、時枝氏は書く。なるほど。)に限られるのはやむを得ない。ロンドンの産院での様子も珍しかった。

時枝氏は天才的な頭脳をお持ちかもしれないが、智ちゃんが辿ってきた旅程は知るはずはなかろう。「智ちゃん、よく来たね」という言葉は感懐であってロマンである。

著者がそのような感懐を持ったことに感じて、私はその前提となったウェルズに興味をもった。時枝氏は、ウェルズが世界歴史を生物の歴史として考え、それを人類という種にズームアウトして書いているという。そして改版より初版の方がよいというが、それはどういう意味なのか。私はその内容を知りたくなったのである。

『世界史概観』(岩波新書)は市の図書館にあった。しかし、それは1979年出版の岩波新書青版だった。ウェルズは1920年に書き上げた" The Outline of History"を原著として、それを一般読者の便を図って5分の1に縮小したのを、"A Short History of the World" と題して1922年に出版した。これが時枝氏が指す初版で、日本では岩波新書の赤版で刊行されているそうだ。

ネットで探索すると、『世界文化小史』というのがあった(講談社学術文庫、2012年)。底本は1971年角川書店刊行。訳者下田直春氏の解説によると、本書は前述Short Historyの改訂版(1946)の全訳本であるが、出版界の事情によって形を変えて出版することになったとある。それがさらに文庫化されたわけであるが、形を変えるために1922年版を翻訳し、1946年改訂版との差異を明らかにし、新たな図版を加え、また誤訳も訂正したと述べられてある。私はこのような事情を知らないままに学術文庫の電子本を入手したが幸運であった。赤版によらずとも1946年版で抹消された1922年版の記述をも翻訳で読むことができたのである。また、1922年版の英文原著はGutenberg ebookで参照できる。URLを下記する。    https://www.gutenberg.org/ebooks/35461

ウェルズは二度の大戦の経験を経て、それまでの楽観的な人類の将来への見通しを改め、自らは「科学ロマンス」と呼んでいたそれまでの小説から人類の歴史を書くようになった。若い頃にハックスレイに学んだ進化論に対する信念は変わらずとも、現実からは人類の発展よりは終焉を考えるようになった。1922年版で述べた、ようやく黎明期に達した人類はやがて統一と平和を達成して発展し続けようとの見方から、第二次大戦後には一転して世界は回復力を失ったように見えるとして、ホモ・サピーエンスは別種の人類にとって代わられ得るとの考えを出したという。1946年の改訂版にはこのような見通しを述べてこの作家は逝った。

『世界文化小史』の訳者による解説によれば、おおよそこのようなことがウェルズの思想について言えるかと思う。ウェルズの歴史に関する著作の文章は長いし回りくどい。それほど難しい英語ではないが、眼にした英文をそのまま理解できる能力について私は十分ではない。頭の中には英語と日本語のレールが二本走っている。翻訳は所詮誤解だともいい、また多義語というのも日本語の専売ではない。この弱々しい頭脳で原文を読み込まないままにウェルズの思想を云々するのはよろしくない。

時枝氏があかちゃんの誕生にロマンを感じたように、ウェルズも多分にロマンの人だったのだ。同じ種の人類がどうして平和に暮らせないものか。ウェルズは人類は一つだという信念の人だった。それを現実の世界情勢に照らして人類の将来を悲観的に見直して筆を措いた。時枝氏はそのことを残念に思ったから、初版のほうがよいというのである。人類の将来に希望を持とう。智ちゃんにも幸あれ。

ダウンロードした資料:                                                                                         A Short Story of the World,(1922)、The Project Gutenberg ebook [EBook #35461] 2011                                                                                                『世界文化小史』(講談社学術文庫 電子版 2014)

(2022/11)