2018年9月28日金曜日

読書閑談 条約の原本がない!『ペリー提督日本遠征記』より

日米和親条約は異文化間の交渉事であるからいろいろ厄介なことがつきまとう。『ペリー提督日本遠征記』(以下「遠征記」と略す)はアメリカ人の保護と、外国人を閉め出している日本の港をアメリカ人に開くよう、掛け合いにやって来たときの往路と日本および近海での見聞を一切のこらず盛り込んだ語り物である。今回は物語の中から交渉にまつわる言葉の問題に話題を絞って綴る。
「遠征記」は角川ソフィア文庫(以下角川版という)からの kindle版による。

英語国のアメリカと日本語の国とのやりとりだから、お互いの言葉は相手に通じない。はじめての出会いは、小舟に乗った幕府の役人が軍艦の甲板にいる士官に向かって「アイ キャン スピーク ダッチ」と叫んだ。見事な英語だったが、彼の英語はそれだけで出尽くしたみたいだ、と書いてある。
そこでオランダ語通訳のポートマン氏がでてきて、互いにオランダ語で話し始めた。これが1853年7月8日のことだった。
口頭のやりとりは、英ー蘭ー日、日ー蘭ー英の二重通訳、文書のやり取りには漢文が加わる。ペリーは漢文・シナ語通訳にウイリアム氏を雇っていた。日本語通訳は見つけられなかった。
いっそくとびに条約調印の様子にうつる。1854年3月31日、横浜、ペリーたちが条約館と呼んだ応接所。
(以下の引用文中【 】は本稿で問題とする訳語を示し、( )はその訳語の原文該当語を示す)
ペリーは到着すると早速英語で書かれた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通に署名し、通訳のウイリアム氏とポートマン氏が認証した漢文とオランダ語文の【訳文の写し3通】(three copies of the same)と共に、委員たちに手交した。同時に日本委員は、日本語、漢文、オランダ語で書いた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通を提督に手交した。そこには4人の委員の署名が入っていた。 次にあげるのが【承認された】(agreed upon)条約である。
こういう記述に続いて条約条項が列挙され、最後の第12条の文章が続く。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく【調印された】(signed)うえは、アメリカ合衆国および日本、並びに両国の市民及び臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18カ月以内、または可能ならば、さらに早期に交換されるものとする。
以上を証明するため、われわれ、すなわち前述のアメリカ合衆国および日本帝国の各全権委員は、【この書類に署名捺印した】(signed and sealed these presents)。主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。
以上で条約条項は終わって、平文の記述になる。
「この条約の【写し】(copies)に署名し、交換すると、提督はさっそく第一委員の林侯にアメリカ国旗を贈呈し……」以下略。

全権委員の役職と氏名は条約の前文に挙げられてある。遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーと林大学頭、井戸対馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔である。上述のように条項末尾に氏名はない。
最初に読んだときにはなんとなく変だと感じた。何が変なのかよくわからなかったが、そのうちにこの条約には原本に相当する文書がないことに気がついた。そこで原文にあたってみると、うえの文中に示したとおり訳語が適切でないことがわかった。ペリーが到着後に早速サインしたのは写しではなく草案だった。となればこの場の進行は草案を検討して、すべてが合意されれば調印の運びとなるはずだ。

ところで、合意されたら最後に連名で署名して終わるのが普通のやり方だろうと思うが、ここは違う。最後の署名はないのである。会合の最初に署名した草案が取り交わされている。これですべてだとすれば、草案のとおりに合意された場合、そのまま草案が条約の原本になるのだろうか。草案に修正が加えられたら、どうなるのか。そこだけ部分訂正するのか。何かおかしいぞと思ったわけであるが、たまたま手許にあった加藤祐三『黒船異変』を覗いてみて、その時の事情がわかった。
双方がその場で署名して交換をするという現在の流儀ではない。事前に双方が署名しておいた条約正文(条約の条文解釈で基準とされる、特定の言語で書かれた文)を交換するという方式である(153ページ)。
続く文章にヒントがあった。
それがまさに終わらんとする最後の段階で林が口を開いた。「われわれは外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない。」ペリーは一瞬虚をつかれたが、反論する間もなく、儀式は終わってしまった(154ページ)。
こうして、英文版にはペリーの署名のみ、日本語版には応接掛の署名のみで、双方の責任者の署名が揃った条約文は一つもないという結果になった。だからわたしは原本がないと思ったのだ。正文は何語にするかの交渉は行われなかった。双方で自国語こそ正文と思い込んだが、どちらのにも相手方の署名はなかった。

加藤氏は専門家だからいろいろと資料があるようだ。ペリーは気になったらしく翌日海軍省宛に公信を書いたそうだ。「……それから彼は、日本の法律は、その臣民が外国語で書かれた、いかなる文書にも署名してはならないと規定していると述べた。」「条約の英文版に署名がなされなくても条約の効力をいささかも妨げないと考えたので、彼らが申し出、かつすでに決定しているらしい方針にたいして、さしたる異議も出さなかった」「彼らは代わりに、証明つきの翻訳版、三通を出した。これですべての規定が合意されたこと、また彼ら自身の方法で規定を実行するであろうことに私は満足している」。
加藤氏は論評する。
「アメリカで悪意の反対者がいれば、この部分に噛み付き、条約の正当性を疑うこともあったであろう。ちなみに上院に提出された公的な報告書(『ペリー提督日本遠征記』)はこの辺りをさらりと流し、日本語版、漢文版、オランダ語版に応接掛四名の署名があると述べている」。
そのとおりだ。こっちは、さらりと流された「遠征記」を一生懸命読んだけれども、誤訳のためもあって、わけがわからなかったのである。

もうしばらく加藤氏の解説をお借りする。ペリーは応接掛にも書簡を届けた。
「貴政府は、これまでの法令どおり双方別紙に名判を押されたが、双方で内容に相違があった場合、問題を生じる」。
書簡を受理した応接掛の方は返答をせず、黙殺した、とある。
このことについて応接掛は老中への上申書に、通常は連判だが、今回は双方が別紙に署名し、連判を断った。調印の翌日ペリーから書簡で、連判がないのは不都合だと言ってきたが、そのままで押し通した。「御国威を相立て申候」。
彼らは彼らでペリーの失態と考えることにしたのかもしれない。けれども放置すれば将来まずいかもしれない。

2ヵ月後に下田で追加条項の取り決め調印がなされた。先の条約交渉で持ち越された下田と箱館における行動範囲の設定ほかの条項である。
付加条項の形式は角川版によると、最初に「ペリーと日本側委員(7名の氏名、略す)との間に両国政府に代わって定めた付加条項」と記されたあと全12条の条文が列挙され、末尾に、
「以上を証するため、英語及び日本語による本付加条項の謄本に両当事者は署名捺印し、かつオランダ語に翻訳し、米日両国委員がこれを交換するものである。1854年6月17日 日本、下田にて」
とあって、ペリーの肩書と氏名が記載されている。なぜか日本委員の氏名はない。これはどういうわけだろう。加藤氏は林とペリーが揃って同じものに署名した、(177ページ)と書いているが、角川版によるかぎり、そのことは確認できない。

また条約の正文についての問題は、角川版で付加条項第7条に、
「今後、両政府間に公式告示において中国語を用いないこととする。ただし、オランダ語通訳のいない場合はその限りではない」
とある。ところが加藤氏は、条約における正文の使用問題については、「今後は両国の言語すなわち日本語と英語とを正文とし、オランダ語を訳本として、双方の言語で解釈に相違のある場合にはオランダ語に依拠することとした。ここで国家関係を決める条約言語のなかから、漢文が姿を消した」と書いている(177ページ)。
ということで加藤氏は、これで当面の懸案問題はすべて解決した、と喜んでおられるのであるが、こちらは全然すっきりしない。
  
追加条項の最後の部分、訳語はこれでいいのだろうか。原文ではcopiesとあるのを「謄本」としてある。わが国では、謄本は原本の内容と相違がないことを証明された写しである。英語の辞書には、英法での用法として謄本とあるのがまぎらわしい。写しには違いなかろうと思う。
「謄本」の話をしよう。3月31日和親条約の調印が終わると、すぐさまペリーは、条約に上院の批准を得るため、アダムズ中佐を帆船サラトガ号で派遣した。ハワイまでの間に石炭補給ができないから帆船なのだ。批准を得るために持参する条約文は原本だろうと思うがはたしてそうか。この部分の記事にはそのことには触れていないが、無事に批准された文書を交換するために下田に戻ってきたアダムズを迎えた記事がある。ついでだから参考までに旅程も書いておこう。「遠征記」の補章である。ぺりーはすでに1854年7月11日帰国の途についてミシシッピー号で那覇を離れている。
アダムズ中佐が1854年4月4日サラトガ号に乗り込み、条約の謄本を携えて故国に急派されたことはご記憶のとおりである。5月1日中佐はホノルルに到着すると、サンフランシスコに向かう最初の船に乗り、通常の航路をとってパナマを経由し、7月12日にワシントンに到着、3ヵ月と8日を費やして日本からわが国の政府所在地までの旅を終えたのである。その条約は大統領によって上院に提出され、さっそく満場一致で批准され。9月30日にアダムズ中佐がこの批准された条約を持ってニューヨークを出発し、日本へ向った。イギリスに到着すると、次は陸路をとって、1855年1月1日香港に到着した。ポーハタン号はアボット提督の命によって直ちにアダムズ中佐を下田へ運び、中佐は日本当局と条約の批准を交換する合衆国代表としての全権を帯び、1855年1月26日に下田に到着した。下田に引き返すのに3ヵ月と27日かかったので、条約調印の日から、大統領及び上院によって正式に批准され、それが日本に到着するまでに9ヵ月と22日経過したわけである。
なんとも冗長な、旅路と同じように長い文章である。
アダムスが持参した条約は謄本になっている。そんなことはあるまいと元の英文を探ると the copy of the treatyだ。この訳者は謄本が好きだ。持ち帰ってきたのも、批准された謄本(the ratified copy)だそうだ。謄本は英語でどういうか、authorized copyとかcertified copyではないのか。
よくわからないが、角川版を読むときに謄本とくれば、もともとの原本だと考えることにした。英語のcopyの用法はわからないままだが、実態を考えれば写しではおかしい。

最後にいまひとつ署名捺印と訳されるsign and sealについて、どなたかに教わりたいことがある。
黒船騒ぎのなかで、日本がアメリカ大統領の新書を受け取る場面である。1853年7月14日、久里浜(浦賀)に急造された応接所だ。
親書だの国書だのと日本語で書いてあるが、「遠征記」の英文ではただのletterにすぎない。しかし、ことごとしい、たいそうな容れものに収められてある。
礼服を着た二人の少年が提督の先に立って、緋色の布に包まれた、提督の信任状と大統領の親書を収めた箱を運んだ。この文書は二つ折り型の羊皮紙に美しく書かれたもので、折らずに青い絹のビロードの表紙の中に綴じてあった。それぞれの印章は、金糸と絹とを織り交ぜて、端が金の房になった紐に取りつけられ、直径6インチ、深さ3インチの純金細工の円形の箱に収められていた。それぞれの文書は印章とともに、長さ約12インチの紫檀の箱に収められ、箱の錠や蝶番などの金具はすべて純金だった。
ここにあらわれている印章とは原文ではsealである。外国文学の中に封蝋と訳されているものは、現物を見たことがないけれども、なんとなくわかったつもりでいたが、このように箱に収められるシールの使われ方は知らないので戸惑うだけである。サインをした同じ用紙に粘土細工みたいな平ったい盛り上がりを置いて型印を押す。印面だけが重要なのかと思っていたが、印章そのものも文書といっしょに届けられるのだ、と読める。

今回は原本だの写しだのという公文書の書式についての知識がないため、なんとも頼りない読み方になった。そのうえ、「遠征記」はごった煮のようにいろいろなことを次から次と拾って書かれてあるので、同じ箇所を何度も読むことになったりして、いつまでたっても読み終わる気がしない。このへんでこの大著は措くことにする。今後、折に触れて部分的にでも読めば面白いと思うが、紙の本と違って電子版では簡単にページをアチコチひっくり返しにくいのが辛い。それにしてもアメリカの図書館サービスはありがたかった。偶然に見つけたが、pdfファイルを読む電子ファイルはこれが一番良かった。
読んだ本:『ペリー提督日本遠征記 上 下』kindle版 底本 角川ソフィア文庫 平成26年
参照した本:加藤祐三『黒船異変』岩波新書 1988年
      『Narrative of the expedition of an American squadron to the China       seas and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854, under       the command of Commodore M.C. Perry, United States Navy』(1856)       Volume One.
      https://library.ucsd.edu/dc/object/bb73408443 
      米国サン ディエゴ図書館電子サービス
(2018/9)

2018年9月7日金曜日

読書閑談 鎖国と抜荷

気分転換に、ある日『銭形平次捕物控』を読んでいたところ大塚御薬園というのが出てきた。御薬園はオヤクエンと読む。幕府直轄の薬用植物園のことで、三代将軍家光が麻布と大塚に開いたのがはじめという(寛永15年(1638))。のちに統廃合があって現在の小石川植物園に続く。大塚御薬園はいまの護国寺の場所であると野村胡堂さんが正確に教えてくれ、園内は薬草の匂いが満ち満ちているとして名高い薬草の名をズラリと並べ、まるで見てきたようなふうに書いている。ちなみにこの作品は「平次捕物控」の第一作で、銭形の名のいわれも説明があって楽しい。

長々と続くために少々飽きが来て読者として気分転換が必要になった「ペリー遠征記」。日本遠征計画立案に際し、避難港として食料供給に役立ててもらいたいと園芸種子を用意したと、計画の周到ぶりが述べられていた。国内農業はペリーに心配させるほど貧弱なものではなかったが、漢方の薬草は日本に必須の輸入品だった。種子といえば、享保四年(1719)、対馬の宗家から献上された朝鮮人参の種6粒を日光御薬園に植えたところ、50年後に1万株に増えたという(長崎大学薬学部)。人参は江戸時代には万病の薬として重用されたというが、現代でもその効用は、万病かどうかは別として、引き続き広く認められている。シンガポールへ初めて行ったとき、ピープルズ・パークのそこかしこで売られているその種類や商品の多様さにびっくりしたものである。これらは華人市場での根強い需要を物語っていたが、日本人観光客もよく買っていた。値段は決して安くはない。
幕府の御薬園は将軍家が服用する薬草を植えて育てている。たやすく出入りできるところではないから銭形親分が活躍する舞台となる。町中で漢方薬は手に入ったであろうか。富山の薬売りは来ていたであろう。原材料は輸入品のはずである。
長崎出島
ペリーの使命だった「開国」に対する言葉は「鎖国」であるが、この言葉、字面の意味とは違って、四周を海に囲まれて城門があるわけでもない日本の沿岸は物理的に出入り自由であった。「鎖国」とか「鎖国令」とかは、後の世の人たちが使いだした言葉で、徳川幕府では明国にならって「海禁」の語を使っていた。海禁は領民の海上利用を規制する政策のことだ。鎖国令という法律もあったためしはなく、1632年から39年に至るまでに幕府が出したいくつもの布告があっただけのことである。ところで「鎖国」中の日本には対外窓口が四つあったとは、近頃学校でも教えるらしい、とはインターネットにそれらしい質問が出ているので知った。神国日本の国史でさえろくに覚えていない私は何十年もの間そんな事は考えもしなかった。とにかく長崎天領が唐船とオランダ東インド会社船、対馬藩が朝鮮貿易、薩摩藩は琉球貿易、松前藩は蝦夷地の窓口を受け持った。

秀吉の朝鮮出兵は秀吉の死によって終結したが、これで明国との貿易ができなくなった。家康はそれを回復しようと苦心する。そこでまずこれまで朝鮮貿易で得た物品の中継によって島民の命を食いつないできた無石高の対馬藩が利用された。対馬藩は関ヶ原戦役で西軍についたが、戦後も領土が安堵されたのは家康の配慮だったといわれる。藩主宗義智は朝鮮に貿易回復を懸命に働きかけ、家康が豊臣家を滅ぼしたことに明が好感をもったことも手伝って1609年己酉条約(きゆうじょうやく)の締結に成功した。途中、何度か国書改竄など大それた山場を超えてのめでたしめでたしである。これによって徳川幕府は対馬藩を介在させた間接的な明国貿易が再開できることになった。朝鮮との貿易の特徴は薬用人参の輸入である。

琉球王国は14世紀に明国と冊封関係に入り朝貢していた。薩摩藩は1601年琉球を支配下に収めたが明国との関係をそのままにしておいたのは悪賢い。幕府は幕府でこのことを利用して、明との関係は琉球のことであるからと薩摩はお構いなし。幕府は薩摩藩を中継した明国との間接貿易ができた。琉球では日本人は外国人に姿を見せてはいけなかったらしいが、ペリーの遠征記には那覇港にはシナの船はないが日本船は数多くいたと書いてあったように思う。すでに明ではなくて清の時代であったからかもしれない。

明と清では格が違う。シナには華夷秩序があり、日本の大陸との交渉では大昔からの中心概念である。シナが華で周りは野蛮国で夷である。明は江戸時代の日本にとっては大先生だから華であった。清は蛮族が建てた国だから夷である。華が滅ぼされて夷がとってかわった。これを「華夷変態」という。清は夷の国、敬うことはない。いまや日本が華であるぞと「日本主義」が芽生えた。
朝鮮は江戸に将軍就職の賀として通信使を派遣した。正副使はじめ500名ほどの行列だった。朝鮮は日本人に国内観察の機会を与えることを好かないため答礼には行かなかった。琉球は「江戸上り」をおこなった。将軍就職の際の慶賀使と国王襲封の際の謝恩使があった。一行は正使・副使以下約100名だったが、参勤交代で出府する薩摩藩主が警固するため行列は4千名余りとなった。薩摩の行列に迷惑する宿場の有様はよく話の種になった。
オランダ東インド会社の商館長(カピタン)も年に一度は江戸に「参府」して、将軍に貿易の礼を申し述べた。カピタンのほか、2名の書紀と1名の医師が付くが、日本側が通詞や護衛その他従者を付けるため一行は100ないし150名になった。カピタンの「参府」は幕府にとって「入貢」であり、献上物は「貢物」であった。こうして華夷秩序から自立した日本主義で幕府は自己中心に華夷秩序を想い描いていた。

松前藩はいまの北海道西南端、渡島半島の先っぽにあった。北海道という名はまだなくて、島全体が蝦夷地とよばれていた。幕府もそこが領土とは考えもしていなかったが、土地があるからには住民がいた。主にアイヌという名の原住民。沿岸地方に紅毛人の船がやってきたり漂着したりするようになってきた。住民は助けてやったり脅されたりの交流がうまれる。時間がたってからそういう話が伝わってくる。そのあたりから土地の帰属や外来人の身元やらを考えるふうが出てきた。蝦夷地全体を松前藩が担当せよとか、幕府直轄地とするとか、中央の腰はなかなか定まらなかった。北海道として日本領土であると自認したのは明治政府だった。鎖国の時代、輸入物品の見返りに出すものがない幕府は、ふんだんにあるものと思いこんでいた金銀銅で支払った。次第に手元不如意になって俵物を当てるように変わる。いりこ(干しなまこ)、干し鮑、ふかひれの俵物三品と「諸色」の昆布である。松前藩は原住民アイヌからこれら物資を集め長崎会所に送る役目をしていた。松前藩も対馬と同じく米の穫れない無石藩で、アイヌ交易物品の中継が実入りとなっていた。幕府は形式を調えるために一万石としていた。

長崎は唯一の開港場で幕府の天領である。交易のための会所を設け物資の受払をおこなった。会所が扱う物資は統制品であるから、その裏には必然的に密貿易、当時の用語での抜荷があった。数量、品目どの項目をとっても統制が厳しくなれば、抜荷が増えるのは理の当然であり、結局は鎖国体制の限界を示すようになった。長崎港に出入りを許されていたのは唐船とオランダ東インド会社船だけであった。前者がもたらす品物は生糸・薬種・書籍、後者は黄糸(南方産の生糸)、薬種、香料、砂糖があった。日本から輸出される産品は銀と銅が主である。銀、銅の枯渇とともにシナ相手には俵物が使われた。

生糸は日本各地でも養蚕が昔から農家の自家消費でおこなわれていた。シルクロードの起点のシナからの生糸は白糸と呼ばれる上質の生糸だ。博多や堺、京都西陣で高級絹織物に織られて流通した。貴族や上流階級が身につける奢侈品である。幕府は「君臣上下」の関係を明らかにするために衣服を統制していた。絹織物は平民では名主庄屋以上の衣類であり、平百姓は綿織物か麻織物を着なければならなかった。
新井白石がおそまきながらも金銀銅の垂れ流し経済の行く末におそれを感じて流出を止めようと、「量入為出」(いるをはかっていずるをなす)を貿易の原則とした。奢侈品を追いかける「奢侈経済」から自分たちの暮らしに沿った「国民経済」に転換すべく自給自足を図り密貿易を禁圧した。薬種だけは輸入に頼るほかないため決済手段に金銀に代わって俵物三品と昆布を推奨した。白石をクビにした八代吉宗ではあったが、理の当然をわきまえて白石の考えにしたがった。薬種の自給化を中心課題として殖産興業政策をすすめ、抜荷の取締り強化と同時に貿易規模を縮小した。貿易規模を縮小すると、それだけ抜荷が増加する。俵物の横流しを防ぐために長崎会所直仕入れにすれば、買い付け値段が不当に安くなる。それを嫌って、場外取引の抜け荷が増えるという具合だった。

輸入代金の支払いに困るから輸入を減らそうというのは当たり前の考えではあるが、人の命に関わる物品として薬は止めるわけにはいかなかった。近世史家山脇悌二郎によれば、天明のころ(1780年代)には正常なルートで入ってきた薬の輸入量は80万斤であったが、四分の一に当たる20万斤ほどが密輸入であった。この例によって薬の輸入量の規模がどの程度だったのかはわかるにしても、どれだけあれば十分なのかは別の話。貿易量に制限があってもなくても商人は市場を大きく占有したいと考えるだろうから、需要には制約がないのはどの商品にも共通する。したがってどの商品にも抜け荷の可能性は常にあるが、統制品であるからには違反に罰則がつく。抜け荷には死罪から流刑、鼻削ぎまで重刑が並ぶ。それでも抜荷はやまず、中でも薬種にいちばん多かった。

大名の抜荷で有名なのは薩摩藩ついで長州藩だった。商人では薬の抜荷が富山の売薬商に多かったようだ。新井白石や吉宗が志向した国民経済とは、そこかしこの村落同士が集まって市(いち)をつくり、お互いの地域の産物を育てて、次第に商圏を広げ、更に大きな市場圏へ拡大しながら、自分たちの特産品が国民的生産品に成長するような発展である。白石は金銀銅の流出を止めることに懸命で、つくりだした輸出品の代金を金銀銅で受け取って国内に還元することに考えが及ばなかった。吉宗も自給によって国産品開発を志向しながらも農業生産の範囲でしか考えられなかった。

現実には鎖国制度によって折角の輸出志向を抑えられてしまった「日野絹」や、シナの明清交代期に生産が止まった景徳鎮産物の代替品としてしか使われなかった「伊万里焼」、福井藩の専売統制にされた「越前和紙」のような工業生産物などは白石はとりあげなかった。余談だが、伊万里焼の場合、半世紀も続いた東インド会社の注文が途絶えた後、苦境に耐えかねた二人の陶商富村某と嬉野某が密貿易を試みて発覚し、富村は自殺、嬉野は刑死している。

「日野絹」の場合、決済金銀の枯渇から減り始めた輸入白糸に替えて、近江商人が東北・関東から和糸を集荷して西陣に送り込んだ。西陣は国産生糸への依存を高めて地方の養蚕を一層刺激し、同時に絹織物の生産も各地にさかんとなった。桐生・足利は西陣からの技術導入によって織機を転換して西陣と肩を並べる機業地になった。近江商人は地方の生産地が自前の生糸で織り上げた絹織物を「日野絹」として各地に売り歩き、ついには輸出を計画して鎖国の修正を要求するまでになったが、輸出することが禁止された。この事実は『長崎県史』に「日野類」が唐船に売り渡し禁止の「御停止物」の品目に含まれていることから判明している。ちなみに「日野類」とか「日野絹」は近江の日野でつくられた品物を意味するのではなく、日野出身の商人が知恵と足で各地の産業をつないで、まとめ上げた絹織物を指す総称である。

鎖国はローマ教会の宣教師が日本にやってきてキリスト教を広めはじめた結果、しだいに各地領主層まで入信する様子をみた統治者が、自己の統治支配秩序が崩れることを怖れたこと、民衆のうちに統治者を超える権威の意識が育つことを怖れたことにはじまる。したがって、まず支配下の人間がキリスト教に染まる機会をなくす方策がとられた。それがキリシタン布教・信仰の禁止であり、宣教師追放であった。宣教師は外国からの渡来人であったから外国人一切の入国禁止となり、日本人が出国して外国の気風に染まらぬよう出国禁止となった。キリスト教とはまったく無関係にすでに海外にあった日本人の帰国までも禁止したのは行き過ぎの嫌いはあったが、人間の心の内の見定めが難しいことを考えれば、やむを得ない安全策であったろう。

古くから日本の先生格としての位置にあったシナは明・清ともにキリスト教とは関係しない国柄とみなされ、海外情報源としての役割は大きかった。宣教師もローマ教会に続いて新教の各国からも来日し、互いに競争する立場からの情報を統治者に吹き込むことに余念がなかった。真偽の程はともかくとして、秀吉は、ポルトガル人は宣教師が民心を慰撫した後に武力で領土を乗っ取ることを国是とすると耳にした結果、即刻キリシタンを追放したと伝えられる。ポルトガルがスペインと世界を二分する裁量をローマ教皇がおこなっていた事実を知れば、そういう国との断交が、日本が西欧の植民地とならなかった理由のひとつにはなるが、徳川の太平の眠りに入る前の日本の武力は当時のスペイン遠征軍よりも強かったとの話もある。
秀吉も家康もキリシタンは禁じても通商は続ける意向をもっていたが、人の心に戸はたてられない理屈で、信仰心に凝り固まった宣教師の執拗な日本潜入は、隠れキリシタンを生み、領主の暴政とあいまって島原の乱を引き起こしたあげくに鎖国となってしまった。三代将軍家光の時代だった。出島にいたオランダ人はオランダ国の代表ではなくオランダ東インド会社の社員だったが、島原事件では幕府に加担して大砲を提供して心証を良くした結果、宗教には関係しないと誓約して貿易を許された。鎖国下の日本でのオランダ人の振る舞いをヨーロッパの国としての行動と考えるのは間違いである。

一時期倭寇という厄介者の存在があった。元の時代に初めて記録に現れる。倭寇は日本、朝鮮、シナ大陸沿岸の出身者で海賊行為、人身拉致と売買、密貿易などをした集団である。まだ人を捕らえて奴隷に売るような行為が世界共通的におこなわれていた時代だった。秀吉も人身売買禁止の触れを出していたという。それはともかく、貿易に関していえば倭寇は政府公認の公貿易からはみ出した業者だった。
日本の貿易は遣唐使が廃止された9世紀から、室町幕府の明国との勘合貿易までの間、官による公貿易が途絶え、日元、日宋は私貿易で結ばれていた。明国との勘合貿易は明が海禁政策をとったためであるが、北九州沿岸の松浦、壱岐、対馬、五島あたりから生まれていた倭寇が一層激しく活動を始めた。ために明は繰り返し取り締まり方を頼んできたという。商売の世界にはどこにでも隙間業者が発生する。日元貿易のころに交換取引された物品を、ネットに紹介されている例で見ると、「交易品は、日宋貿易と基本的には変わらず、元からの輸入品は銅銭・香料・薬品・陶磁器・織物・絵画・書籍などであり、日本からの輸出品は、金・銀・硫黄・水銀・真珠・工芸品(刀剣・漆器)など」とある(「世界史の窓 日元貿易」)。
余談になるが、倭寇の扱う品物に刀剣が多かったそうだ。名にしおう日本刀は海の向こうでも評判で、倭寇に対抗するにはこれがいちばんだとか皮肉な話だ。ついでながら、琉球は日本刀を仕入れて鞘に朱の漆を塗ったり、柄に螺鈿の細工を施したりして再輸出したそうである。日本刀の好評をうけて刀鍛冶は大忙しだったが、時とともに粗製乱造が増えてきたという。また、とばっちりを受けて鉄製の農機具の発展がどれほど阻害されたか想像に余りあると嘆く研究者もいる(佐々木銀弥「岩波講座日本歴史7、1976」)明が海禁をやめると次第に倭寇は消滅したようだ。

鎖国とは何であったかを物品の流通関係から見てみると、うえに述べてきたようにいろいろな実態が透けて見えてきてなかなか面白かった。文藝春秋6月号に出口治明氏が「交易から見れば通史がわかる」という記事を載せている。生保の社長さんだから、時代ごとの細目では学者さんたちと少し違う部分はあるけれども、似たようなことを考える人がいるものだと思った。倭寇であれ、御朱印船貿易であれ、東南アジア辺での交易結果をも日本にもたらしていたことから、鎖国といいながらも実態は世界貿易につながっていたことに、いまわたしの関心は向いている。ペリー遠征記は魔法の玉みたいにいろいろな風景を見せてくれたものだと思う。
今回読んだ本:信夫清三郎『江戸時代 鎖国の構造』新地書房 1987年(2018/9)