「遠征記」は角川ソフィア文庫(以下角川版という)からの kindle版による。
英語国のアメリカと日本語の国とのやりとりだから、お互いの言葉は相手に通じない。はじめての出会いは、小舟に乗った幕府の役人が軍艦の甲板にいる士官に向かって「アイ キャン スピーク ダッチ」と叫んだ。見事な英語だったが、彼の英語はそれだけで出尽くしたみたいだ、と書いてある。
そこでオランダ語通訳のポートマン氏がでてきて、互いにオランダ語で話し始めた。これが1853年7月8日のことだった。
口頭のやりとりは、英ー蘭ー日、日ー蘭ー英の二重通訳、文書のやり取りには漢文が加わる。ペリーは漢文・シナ語通訳にウイリアム氏を雇っていた。日本語通訳は見つけられなかった。
いっそくとびに条約調印の様子にうつる。1854年3月31日、横浜、ペリーたちが条約館と呼んだ応接所。
(以下の引用文中【 】は本稿で問題とする訳語を示し、( )はその訳語の原文該当語を示す)
ペリーは到着すると早速英語で書かれた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通に署名し、通訳のウイリアム氏とポートマン氏が認証した漢文とオランダ語文の【訳文の写し3通】(three copies of the same)と共に、委員たちに手交した。同時に日本委員は、日本語、漢文、オランダ語で書いた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通を提督に手交した。そこには4人の委員の署名が入っていた。 次にあげるのが【承認された】(agreed upon)条約である。こういう記述に続いて条約条項が列挙され、最後の第12条の文章が続く。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく【調印された】(signed)うえは、アメリカ合衆国および日本、並びに両国の市民及び臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18カ月以内、または可能ならば、さらに早期に交換されるものとする。
以上を証明するため、われわれ、すなわち前述のアメリカ合衆国および日本帝国の各全権委員は、【この書類に署名捺印した】(signed and sealed these presents)。主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。以上で条約条項は終わって、平文の記述になる。
「この条約の【写し】(copies)に署名し、交換すると、提督はさっそく第一委員の林侯にアメリカ国旗を贈呈し……」以下略。
全権委員の役職と氏名は条約の前文に挙げられてある。遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーと林大学頭、井戸対馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔である。上述のように条項末尾に氏名はない。
最初に読んだときにはなんとなく変だと感じた。何が変なのかよくわからなかったが、そのうちにこの条約には原本に相当する文書がないことに気がついた。そこで原文にあたってみると、うえの文中に示したとおり訳語が適切でないことがわかった。ペリーが到着後に早速サインしたのは写しではなく草案だった。となればこの場の進行は草案を検討して、すべてが合意されれば調印の運びとなるはずだ。
ところで、合意されたら最後に連名で署名して終わるのが普通のやり方だろうと思うが、ここは違う。最後の署名はないのである。会合の最初に署名した草案が取り交わされている。これですべてだとすれば、草案のとおりに合意された場合、そのまま草案が条約の原本になるのだろうか。草案に修正が加えられたら、どうなるのか。そこだけ部分訂正するのか。何かおかしいぞと思ったわけであるが、たまたま手許にあった加藤祐三『黒船異変』を覗いてみて、その時の事情がわかった。
双方がその場で署名して交換をするという現在の流儀ではない。事前に双方が署名しておいた条約正文(条約の条文解釈で基準とされる、特定の言語で書かれた文)を交換するという方式である(153ページ)。続く文章にヒントがあった。
それがまさに終わらんとする最後の段階で林が口を開いた。「われわれは外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない。」ペリーは一瞬虚をつかれたが、反論する間もなく、儀式は終わってしまった(154ページ)。こうして、英文版にはペリーの署名のみ、日本語版には応接掛の署名のみで、双方の責任者の署名が揃った条約文は一つもないという結果になった。だからわたしは原本がないと思ったのだ。正文は何語にするかの交渉は行われなかった。双方で自国語こそ正文と思い込んだが、どちらのにも相手方の署名はなかった。
加藤氏は専門家だからいろいろと資料があるようだ。ペリーは気になったらしく翌日海軍省宛に公信を書いたそうだ。「……それから彼は、日本の法律は、その臣民が外国語で書かれた、いかなる文書にも署名してはならないと規定していると述べた。」「条約の英文版に署名がなされなくても条約の効力をいささかも妨げないと考えたので、彼らが申し出、かつすでに決定しているらしい方針にたいして、さしたる異議も出さなかった」「彼らは代わりに、証明つきの翻訳版、三通を出した。これですべての規定が合意されたこと、また彼ら自身の方法で規定を実行するであろうことに私は満足している」。
加藤氏は論評する。
「アメリカで悪意の反対者がいれば、この部分に噛み付き、条約の正当性を疑うこともあったであろう。ちなみに上院に提出された公的な報告書(『ペリー提督日本遠征記』)はこの辺りをさらりと流し、日本語版、漢文版、オランダ語版に応接掛四名の署名があると述べている」。
そのとおりだ。こっちは、さらりと流された「遠征記」を一生懸命読んだけれども、誤訳のためもあって、わけがわからなかったのである。
もうしばらく加藤氏の解説をお借りする。ペリーは応接掛にも書簡を届けた。
「貴政府は、これまでの法令どおり双方別紙に名判を押されたが、双方で内容に相違があった場合、問題を生じる」。
書簡を受理した応接掛の方は返答をせず、黙殺した、とある。
このことについて応接掛は老中への上申書に、通常は連判だが、今回は双方が別紙に署名し、連判を断った。調印の翌日ペリーから書簡で、連判がないのは不都合だと言ってきたが、そのままで押し通した。「御国威を相立て申候」。
彼らは彼らでペリーの失態と考えることにしたのかもしれない。けれども放置すれば将来まずいかもしれない。
2ヵ月後に下田で追加条項の取り決め調印がなされた。先の条約交渉で持ち越された下田と箱館における行動範囲の設定ほかの条項である。
付加条項の形式は角川版によると、最初に「ペリーと日本側委員(7名の氏名、略す)との間に両国政府に代わって定めた付加条項」と記されたあと全12条の条文が列挙され、末尾に、
「以上を証するため、英語及び日本語による本付加条項の謄本に両当事者は署名捺印し、かつオランダ語に翻訳し、米日両国委員がこれを交換するものである。1854年6月17日 日本、下田にて」
とあって、ペリーの肩書と氏名が記載されている。なぜか日本委員の氏名はない。これはどういうわけだろう。加藤氏は林とペリーが揃って同じものに署名した、(177ページ)と書いているが、角川版によるかぎり、そのことは確認できない。
また条約の正文についての問題は、角川版で付加条項第7条に、
「今後、両政府間に公式告示において中国語を用いないこととする。ただし、オランダ語通訳のいない場合はその限りではない」
とある。ところが加藤氏は、条約における正文の使用問題については、「今後は両国の言語すなわち日本語と英語とを正文とし、オランダ語を訳本として、双方の言語で解釈に相違のある場合にはオランダ語に依拠することとした。ここで国家関係を決める条約言語のなかから、漢文が姿を消した」と書いている(177ページ)。
ということで加藤氏は、これで当面の懸案問題はすべて解決した、と喜んでおられるのであるが、こちらは全然すっきりしない。
追加条項の最後の部分、訳語はこれでいいのだろうか。原文ではcopiesとあるのを「謄本」としてある。わが国では、謄本は原本の内容と相違がないことを証明された写しである。英語の辞書には、英法での用法として謄本とあるのがまぎらわしい。写しには違いなかろうと思う。
「謄本」の話をしよう。3月31日和親条約の調印が終わると、すぐさまペリーは、条約に上院の批准を得るため、アダムズ中佐を帆船サラトガ号で派遣した。ハワイまでの間に石炭補給ができないから帆船なのだ。批准を得るために持参する条約文は原本だろうと思うがはたしてそうか。この部分の記事にはそのことには触れていないが、無事に批准された文書を交換するために下田に戻ってきたアダムズを迎えた記事がある。ついでだから参考までに旅程も書いておこう。「遠征記」の補章である。ぺりーはすでに1854年7月11日帰国の途についてミシシッピー号で那覇を離れている。
アダムズ中佐が1854年4月4日サラトガ号に乗り込み、条約の謄本を携えて故国に急派されたことはご記憶のとおりである。5月1日中佐はホノルルに到着すると、サンフランシスコに向かう最初の船に乗り、通常の航路をとってパナマを経由し、7月12日にワシントンに到着、3ヵ月と8日を費やして日本からわが国の政府所在地までの旅を終えたのである。その条約は大統領によって上院に提出され、さっそく満場一致で批准され。9月30日にアダムズ中佐がこの批准された条約を持ってニューヨークを出発し、日本へ向った。イギリスに到着すると、次は陸路をとって、1855年1月1日香港に到着した。ポーハタン号はアボット提督の命によって直ちにアダムズ中佐を下田へ運び、中佐は日本当局と条約の批准を交換する合衆国代表としての全権を帯び、1855年1月26日に下田に到着した。下田に引き返すのに3ヵ月と27日かかったので、条約調印の日から、大統領及び上院によって正式に批准され、それが日本に到着するまでに9ヵ月と22日経過したわけである。なんとも冗長な、旅路と同じように長い文章である。
アダムスが持参した条約は謄本になっている。そんなことはあるまいと元の英文を探ると the copy of the treatyだ。この訳者は謄本が好きだ。持ち帰ってきたのも、批准された謄本(the ratified copy)だそうだ。謄本は英語でどういうか、authorized copyとかcertified copyではないのか。
よくわからないが、角川版を読むときに謄本とくれば、もともとの原本だと考えることにした。英語のcopyの用法はわからないままだが、実態を考えれば写しではおかしい。
最後にいまひとつ署名捺印と訳されるsign and sealについて、どなたかに教わりたいことがある。
黒船騒ぎのなかで、日本がアメリカ大統領の新書を受け取る場面である。1853年7月14日、久里浜(浦賀)に急造された応接所だ。
親書だの国書だのと日本語で書いてあるが、「遠征記」の英文ではただのletterにすぎない。しかし、ことごとしい、たいそうな容れものに収められてある。
礼服を着た二人の少年が提督の先に立って、緋色の布に包まれた、提督の信任状と大統領の親書を収めた箱を運んだ。この文書は二つ折り型の羊皮紙に美しく書かれたもので、折らずに青い絹のビロードの表紙の中に綴じてあった。それぞれの印章は、金糸と絹とを織り交ぜて、端が金の房になった紐に取りつけられ、直径6インチ、深さ3インチの純金細工の円形の箱に収められていた。それぞれの文書は印章とともに、長さ約12インチの紫檀の箱に収められ、箱の錠や蝶番などの金具はすべて純金だった。ここにあらわれている印章とは原文ではsealである。外国文学の中に封蝋と訳されているものは、現物を見たことがないけれども、なんとなくわかったつもりでいたが、このように箱に収められるシールの使われ方は知らないので戸惑うだけである。サインをした同じ用紙に粘土細工みたいな平ったい盛り上がりを置いて型印を押す。印面だけが重要なのかと思っていたが、印章そのものも文書といっしょに届けられるのだ、と読める。
今回は原本だの写しだのという公文書の書式についての知識がないため、なんとも頼りない読み方になった。そのうえ、「遠征記」はごった煮のようにいろいろなことを次から次と拾って書かれてあるので、同じ箇所を何度も読むことになったりして、いつまでたっても読み終わる気がしない。このへんでこの大著は措くことにする。今後、折に触れて部分的にでも読めば面白いと思うが、紙の本と違って電子版では簡単にページをアチコチひっくり返しにくいのが辛い。それにしてもアメリカの図書館サービスはありがたかった。偶然に見つけたが、pdfファイルを読む電子ファイルはこれが一番良かった。
読んだ本:『ペリー提督日本遠征記 上 下』kindle版 底本 角川ソフィア文庫 平成26年
参照した本:加藤祐三『黒船異変』岩波新書 1988年
『Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854, under the command of Commodore M.C. Perry, United States Navy』(1856) Volume One.
https://library.ucsd.edu/dc/object/bb73408443
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(2018/9)