2017年2月9日木曜日

医学博士森林太郎と脚気問題

読んだ本:坂内正 『鷗外最大の悲劇』2001年 新潮社
     白崎昭一郎『森鷗外 もう一つの実像』1998年 吉川弘文館

日露戦争は明治37、38(1904-5)年の2年間、18ヶ月間の戦いだった。動員数おおよそ108万人、日露両軍の攻防も語り草に事欠かないが、脚気の多発が問題にされる。引き合いに出される数字は、脚気患者25万人で、うち死亡が2万7千800人というものである。軍は本当の数字を公式に発表していない。よく考えれば戦闘による死者の中にも脚気患者がいたのでないだろうか。ロシア兵の話で日本兵はフラフラしているから機関銃で狙い放題だったというのを何かで読んだ。視察中の外国武官の目には、日本兵は恐怖から逃れるため酒に酔って戦争をしていると映った。これも脚が立たずによろよろしているのを見たものである。その日露戦争には鷗外こと森林太郎も出征して、第二軍軍医部長として、輜重、衛生看護治療等で全軍に関わる責任を持つべき立場にあった。

海軍では高木兼寛医務局長の糧食改善によって脚気をほとんど根絶していたが、日露戦争開戦に備えてパン一食、麦3割の米麦混食二食を基本として、戦時にその2割を増量するとした。注目すべきは「白米は毎人一人の量百匁を超えることを得ず」、つまり陸軍の白米6合の半分以下となる。結果は日露戦中の脚気患者87名、同病による死者3名であった。

これに対して陸軍は開戦まで何をしていたのか。33年3月に医務局長小池正直は麦飯の脚気予防効果を認める見解を出し、全軍米麦混食実施のために各師団軍医部長に混合比率と実施時期について諮詢した。ところが脚気多発状態に背に腹をかえられない思いをしていた多くの師団では、白米規定を護らずにすでに混食を実施していたためか、新局長のせっかくの要請がうやむやになってしまった。その間を衝くように8月、森林太郎が「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたるに因する乎」と混食反論の声をあげた。34年3月には左遷と噂されていた小倉の第十二師団軍医部長から第一師団軍医部長として東京に戻ってきた。

開戦すれば中央からの白米統一支給で元の木阿弥になることを心配して、谷口第一軍軍医部長は麦飯支給を要請したが容れられなかった。「全軍に責任を持つ小池野戦衛生局長も新たな指示は出さなかった。彼の身近には陸軍兵食の優秀さを立証したとされている兵食試験を行い、戦時でも白米6合を以てすれば足りるとする「戦時糧食区分意見」を提出し、先にはまた「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたるに因する乎」で彼の正面に立ちはだかった林太郎がいる。その林太郎の背後には、始終学問、学者といって仄めかすように、いまや東大医科大学長(医学部長)として権勢を振るいだした青山胤通をはじめとする細菌派のドイツ医学がある。敵に廻したときの文飾を力にした林太郎の執拗な攻撃性は身近にあって存分に見聞したことであった。退役したとはいえ、陸軍衛生部の武内宿禰を以て任ずる石黒の軍医部内の力はなお隠然たるものがある。」坂内氏はこのように書いて脚気対策を怠ったまま日露戦争が始まったことを述べている。

出征中の林太郎は、日記はつけなかったが折々に兆した思いを歌に託している。帰還の翌年刊行された『うた日記』がある。「紅旗征戎我が事にあらず」とうそぶいて歌道に専心した藤原定家を思い出す。林太郎の専心すべきは軍医の職務である。
脚気予防に効果が見られた海軍の先例があるにも関わらず、麦飯が良いとする学問的な根拠がない、あるいはカロリーにおいて白米に勝るものはないとの理由付けで米麦混食を実行しようとはしなかった。これはどういう心理だろうか。ドイツ人には脚気についての知見はない。けれども当時の細菌学の勃興を背景に脚気菌原因説に傾いていた。明治天皇も脚気に悩まされていた。同じく脚気に罹った清閑院宮(和子)が転地療養先の箱根で亡くなった。伝染性と考えるから転地が良いとされた。侍医団にも洋医がいたが天皇の信頼を失った。それでも東大医学部の前身、東京医学校にドイツ医学を持ち込んだのには石黒も貢献した。「脚気論」をものした彼は黴菌説に立った。細菌学が知られる前で、何らかの有機的存在を考えたという。その彼が陸軍軍医制度を創設し、兵食に白米6合を決めたのだ。

林太郎が留学する際に軍医本部次長の石黒から与えられた指示は「殊に兵食について」研究することだった。18年、海軍の予防策成功が伝えられ、陸軍でも地方師団に麦飯支給の動きがでてきた頃、石黒は改めて白米の利便性、栄養的に優れていること、麦飯の効用が理論づけされていないことなどを述べた小冊子「脚気談」で対抗した。留学2年目の林太郎にも国内動向とこの小冊子を送って意見を問うた。実質は賛同を求める意図だった。林太郎は「日本兵食論」(ドイツ語)と「日本兵食論大意」を書いた。「大意」というものの実質的に別物だった。これらの中でカロリーからみて麦に比べて白米の優位を主張した。日本食と洋食、あるいは白米食と麦食の栄養比較を論じる内容で、奇妙なことに脚気との関係はあえて論じないとする。しかし石黒は白米食の栄養が十分であるから洋食に変える必要は全くないという結論に満足していた。林太郎はドイツで種々試験をした結果というふうに論じるが、机上の作文や他の学者の論文からの借用が混じる。これは林太郎がその後も使う常套手段のようだ。このようにして林太郎の脚気との関わりが始まった。

明治27、28年の日清戦争では石黒野戦衛生長官のもとに上がってくる報告書の中で、中部兵站軍医部長の林太郎からの報告には朝鮮半島の道路状況や人員配置のことが多く、扱った患者数や病気種別などの記載がない。遼東半島方面の作戦では、第二軍兵站軍医部長に任じられた。白崎氏は細かに林太郎が関係した病院について書くが、脚気患者の記載がない。彼が担当する兵站病院が別の軍医部長の所属に変わった途端に脚気患者数が増えるという現象がみられた。

日清戦争では出征数17万8千人、脚気入院患者4万1千、脚気死者4千人と記録されている。脚気を含む病気死者が1万6千人にくらべ、戦傷死者が1270人というのはいかに衛生環境が悪かったかを物語っているが、これが林太郎の責任であるはずはない。けれども脚気についての死者が三ヶ所を除いて林太郎の報告に記載されていないことは注目してよいと白崎氏は指摘する。

明治17年、大阪陸軍病院長堀内利国は部下の情報により、監獄の給食を麦飯にしたところ脚気が激減したと聞き、大阪鎮台での実施を上申した。連隊長の間では下層民の食物を兵士に支給するとは怪しからん、など反対されたが山地元治司令官の賛同で12月から実施し、結果は上々であった。ちなみに海軍での実験艦筑波の結果が11月に死者ゼロとしてもたらされている。
これに刺激されて近衛師団が緒方惟準(これよし)病院長が3割麦飯を実施、同じく成功を見て各師団が続き、24年までにほとんど全師団が米麦混食になった。ただし、中央指令ではないので時期や混合率はまちまちだった。こうした動きにも関わらず中央の陸軍軍医本部は麦飯に反対を続ける。

20年2月大阪行幸の天皇に第4師団長高島鞆之助が麦飯支給による脚気激減を報告し、堀内も拝謁、詳細を奏上した。天聴に達した脚気予防案であっても中央は動かない。しかし、石黒は各師団に向けて混食をやめさせることまではしなかったので、脚気減少の傾向は日清戦争直前までは続いていた。
日清開戦のとき、陸軍の運輸通信部長は寺内正毅だった。寺内はかつて脚気を患って以来麦飯を摂っていたので、戦地にも麦を供給しようとした。野戦衛生長官石黒忠悳の横槍が入った。
麦飯が脚気予防に効果があるということは、科学的に立証されておりません。陸軍では米飯をもって正当な主食としております。陛下の御為に命を懸けて戦っている兵士に、麦を送るなどとはもっての外であります。

続く台湾戦役は脚気もひどいが、その他伝染病など恐るべき土地であった。北白川宮もマラリアで戦没したことはいつか書いた。

日露戦争時には石黒忠悳はすでに引退し、陸軍大臣は麦食愛好の寺内正毅であったから状況が良くなり、正式に麦が前線へも送られた。それでも脚気は相当発生していたことは冒頭に数字を挙げたとおりである。ただ、混食率が麦3割だったため、副食の欠乏を含めると到底ビタミン補給が不足だったろうと白崎氏はいう。37年中に内地に送還した人数の報告に、林太郎は次のように付記した。
脚気予防には一般生活状態の改良を主とするを以て、諸予防法実行の監督を厳にし、就中労働の適度ならんことを期するを要す。麦及雑穀の供給に尽力するを要す。
さすがの林太郎も麦飯の効果を全く否定することはできなくなっている。最後の一行には林太郎の悲鳴が聞こえるような思いがする、と白崎氏は書いている。
けれども、林太郎の第二軍に編入されていた第3師団軍医の鶴田禎次郎が遺した『日露戦役従軍日誌』に表れている林太郎の行動と言辞は、互いに協同するべき人間のしたこととは思えない。
坂内氏は鶴田禎次郎の貴重な日誌を発掘したのは坂倉聖宣氏の博捜によると紹介している。

明治40(1907)年、11月森林太郎は軍医の最高峰、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任した。同じ頃、脚気病の原因を確かめ、予防法を確立する目的で、脚気調査会設置が議会で可決された。翌41年勅令によって臨時脚気病調査会官制が公布された。立場上、林太郎は調査会の会長である。しかし、会長が不熱心のためか調査会は進展しなかった。

遡って明治30年、オランダのエイクマンはジャワでニワトリに白米を与えると、人の脚気に似た症状を表すことを発見。4年後に栄養障害によることを確認して発表した。
43年、鈴木梅太郎が米糠から鉄蛋白質抽出、オリザニンと命名。実質的にビタミンの発見だったが、注目されなかった。鈴木の話では自分が化学者だから医学会の関心を惹かなかったと。
大正12年、臨時脚気調査会はビタミンB1欠乏食による実験を行って脚気と同様の症状を呈することが明らかになった。
大正14年4月、調査会は最終報告会を開いて脚気の原因はビタミンB1の欠乏症によるものとの結論を打ち出した。林太郎の死後3年目のことだった。

林太郎は脚気の病因を栄養障害ではないとはいわなかった。麦飯など穀類の効用は高木説で分かっていただろうが積極的に発言しなかった。石黒の意見に合わせて白米には栄養があると言っていた。これは間違いではなかろうが、脚気の原因だとも言ってない。

それにしても、脚気で苦しむ兵を目前にして何の手も打たないのは、どのような神経の持ち主だったのだろうか。それを探るには幼時からの林太郎をよく知ることと、作品を注意深く読んでみなくてはならないだろう。わたしは神童といわれた幼時と、母峰子の厳しさにこだわる。
漢学の塾で神童とは、お手本通りにできたということであろうし、晴れて留学の途次を綴った『航西日記』に、『米欧回覧実記』から久米邦武の名文を借りて澄ました顔でいる。この習性はのちのち彼の論文にみられる、いまでいうコピペをなんとも感じない心性である。また自分の弱点は徹底して護り、そのため敵を攻めるに急な攻撃性、大胆にして小心であって、つねに頂点に居たい。母親の厳しさがもたらした性格ではなかろうか。
「陸軍の脚気対策の根本的誤りに重大に関与した鷗外こと森林太郎を、公に最初に指摘したのは山本俊一東大教授(「公衆衛生」昭和56年)であるとされる(山下政三)」とこれも坂内氏の紹介である。
「大君の任(まけ)のまにまに くすりばこもたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く」
出征のとき宇品で詠んだ歌である。臨床医ではないから、薬箱を持たない医師としての軍医殿は衛生学を修めていて、第二軍軍医部長の職務は全体の衛生管理に責任を持つ。
脚気の病因がまだ不明な時代で一般伝染病として扱うにしても、チフスやコレラの中に脚気罹患数を紛れ込ませるような細工は科学者のとる道ではなかろう。
坂内氏は、鷗外が『北条霞亭』において、霞亭の死因を脚気としたくなかった心理を問うている。どうしてそこまで脚気から逃げたかったのか。
作品上で霞亭の死因を隠したように、鷗外は自分の死因の真実も隠し通してしまった。
話は跳ぶが、石黒忠悳も森林太郎も医学博士である。いまどきなら有識者と呼ばれるだろう。

(参考)
山下政三『明治期における脚気の歴史』昭和63年 東京大学出版会
板倉聖宣『模倣の時代』上・下 昭和63年仮説社
吉村昭『白い航跡』上・下 平成3年 講談社

(2017/2)