2017年1月19日木曜日

鷗外の『うた日記』のこと

小島憲之『ことばの重み』(講談社学術文庫、原本1984年)を脇に置いて、岡井隆『森鷗外の「うた日記」』(書肆山田、2012年)を参照している。森林太郎『うた日記』は明治四十年(1907)に春陽堂から刊行された。この書物には日露戦争に出征中の明治三十七・八年に陣中でものした「うた」を編集した詩歌集「うた日記」のほかに「隕石(ほしいし)」(訳詩集)、「夢がたり」、「あふさきるさ」、「無名草(ななしぐさ)の四編が併載されている。
初版を所有されている岡井氏によれば、全ページのうち「うた日記」が7割近くを占めているそうだ。「あふさきるさ」(あれやこれやの意)が戦場からの書信の端々に書き留められた詩歌であることが知られるだけで、他についてはよくわからない。
「うた日記」にいう「うた」には短歌、長歌、反歌、俳句、詩などがある。原作者の鷗外の自筆と認定されている『うた日記』広告文は次のようにうたう。漢字ではなく「うた」としたゆえんだろう。

新体詩家にもあらず、俳人にもあらず、歌人にもあらずといふ氏がものせられし長 詩、十七字詩、三十一字詩の趣をば、これを見て知り給へ。

岡井本は著者が歌人であることや刊行時期が新しいだけあって関連資料が多く採り入れられていて、それはそれで読み応えもあり面白いが、『ことばの重み』とは方向が違い、両書をうまくつなげるまとめはむずかしい。ここでは『ことばの重み』に重点を置くことにする。

『ことばの重み』の著者は国文学者ではあるが上代日本文学が畑である。必要あって近代日本文学での漢語使用について知見を深める途中に鷗外の漢語の使い方に関心を持つに至った。本書は鷗外の漢語という副題を持ってはいるが、鷗外の作品中『うた日記』は他の日記と異なり詩歌集であり、万葉語や上代語が頻りに用いられていること、およびそれらも漢語に関連することなどを明らかにしている。これを反面からいえば、それほど鴎外の語彙知識が膨大であったということでもある。

『ことばの重み』第九「舂(うすつ)く」と題された章は「我馬痛(わがうまや)めり」と題する韻文で始まる。(/は改行を示す)
わが馬やめり/つねはすぐれて/足掻(あが)き疾(と)き馬/けふおくれたり
ひねもすゆきし/道はいく里ぞ/黄なる畑土/かぎりしられず
丈に満たざる/高粱(たかきび)ごしに/つれなる馬の/とほざかる見ゆ
ゆきなやみつつ/わが馬嘶(いば)ゆ/夕日うすつき/わが馬嘶(いば)ゆ

「いばゆ」は馬が声高くいななくことをいう万葉語。行き悩んだ鷗外の馬がどうなったか知る由もないが、読んでみて口調の快さと「あわれ」を感じる。戦場におけるその場その場の覚悟の感情を、激しい戦闘で思考の停滞した頭脳で論理的に綴るより、「うた」に姿を借りるのが適当である、と小島氏は鷗外が日記ではなく「うた日記」とした理由を想像する。小島氏は応召されて輸送船が撃沈され、バシー海峡で八時間漂流して生還した経験の持ち主である。
しかし、鷗外は第二軍の軍医部長という職責で直接の医療には当たらない。戦闘部隊とは別行動の後方部隊にいる。当時は敵味方とも戦うのは戦闘部隊同士で、後方部隊が敵に襲われるという事態は起こらない建前だった。したがって鷗外は比較的ゆったりと詩作もできたのではないか。
「日記」と名付けてはいるが、毎日の日付を追うわけでもなく、生じた出来事を逐一記録するのでもない。日付と場所は書いてある。何かの事象をきっかけに催した感懐を「うた」にしているのだ。しかも形は短歌あり俳句ありとさまざまを意図的に並べてある。これは遊びであると思う。自らをうたった歌がある。

明治三十七年四月二十一日於宇品
大君の任(まけ)のまにまにくすりばこもたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く
「うた日記」の魅力のひとつは随所に万葉語が自在に駆使されていることである。持ち前の詩才によることもちろんであるが、歌人佐々木信綱との長年にわたる交渉によっても磨かれた。
出陣にあたって信綱から贈られた『日本歌学全集』のうちの『万葉集』三冊本を携帯している。当時としては革命的な便利なテキストであったという。小島氏は陣中にこの三冊本があることを末弟森潤三郎著『鷗外森林太郎』の口絵写真で発見している。
ここで余談になるが、この『万葉集』の便利さを説明するため小島氏は、浦島子伝説を詠んだ長歌のその反歌を例に出している。
この本が便利だというのは本文に片仮名の傍訓があり、訓と共に『万葉集』の原文にも親しむことができる。さらに簡単な頭注がついていることである。
常世辺(トコヨベニ)可住物乎(スムベキモノヲ)剣刀(ツルギタチ)己之(シガ)心柄(ココロカラ)於曽也(オソヤ)是君(コノキミ
[頭注] 己之をシガと云る也。於曽也は鈍き意にて、此君は浦島子をさせるなり。
)

ともかく鴎外は『万葉集』をよく学び、その長歌および反歌の使い方に熟練していた。また漢語もそうであるが、万葉語についても克明に抜粋する作業をよくしていたという。
昭和九年三月、雑誌「文芸」に「陣中の竪琴」を発表した佐藤春夫が「うた日記」を愛読したことを広く伝え、なかでも「このかなり複雑な事件を簡潔に規則正しい形で構成したその清新な手法は集中でも亦出色である」として激賞した長歌がある。
それはロシア兵に犯され、毒性のけしの花を食べて自殺した満州乙女の悲しい死を詠んだ歌である。小島本は部分で出しているが、岡井本によって省略せずに引く。
     「罌粟、人糞(けし、ひとくそ)」(明治三十七年)
      わが住む室せばく/顔ばな照れるかくさん/すべなくうたて見られぬ
                 紐は黄、袴朱(はかまあけ)/仇見るてだてに慣れて/をみなごたやすく見出でつ
                ますらを涙なく/辞(いな)めどきかんとはせで/あす来(く)と契りてゆきぬ
               耻(はぢ)見て生きんより/散際いさぎよかれと/花罌粟さはに食べつ
              たらちねかくと知り/吐かすとのませたまひし/人屎(ひとくそ)験(しるし)なかりき
              おもなく羞ぢ伏すを/舌人(をさひと)聞きて告げれば/吐くべき薬とらせつ
              間近きたたかひの/場(には)行く死(しに)の使の/打見て過ぎし花罌粟

長い詩である。内容は、死のうとして毒性の花を食べた少女に、吐き出させようとして母親が人糞をのませるが死ねなかった。通訳が聞き知って告げたので医師が解毒剤を飲ませた。間もなく始まる戦の場におもむく軍隊が見ながら通り過ぎてゆく。
小島氏の解説は;
近く戦いの庭に行くべき「死の大王(しにのおほきみ)」の使者が――鷗外を含める――見ながら「通り過ぎ」た花げし。この万葉語の「過ぎし」のことばの中には、「散り過ぎ」てしまったけしの花、その自決して逝った乙女の二重写しがある。死ぬべき覚悟で戦場に臨もうとする詩人鷗外と散ってしまった花げしの彼女、鷗外の感情は静かにたかぶりつつここに結びとなる。
この長歌の次に並べられた歌二首はその反歌とみることができる。
磚瓦(かはら)もて 小窓ふたげる こやの雨に 女子(をみなご)訴へ うさぎうま鳴く
毒ながら 飲みし花罌粟 ふさはしき 子よといはんも いとほしかりき

この二首について著者は、長歌の補完であるが「言はでも」の部分で、感情の流れもあらわでかえって弱く、もとの長歌にはとても及ばない、とする。
小島氏の解釈では、この歌の乙女は死んだのであるが、奇妙なことに、岡井隆氏によれば。少女は嘔吐剤を飲まされて生き返ったことになっている。
また、「過ぎし花げし」は戦闘の外に投げ捨てられた花として自分を歌っているのだという。反歌のできも、うさぎうま(ロバのこと)鳴くという結句を褒めている。
少女の生死について小島氏とは反対の意見である。どういうことだろうか。「うた」というものは、まことに曖昧であるが、ここは鷗外氏の詩囊の豊かさを味わうべし、とでも言って次に進みたいがどうにもひっかかる。
元来、和歌の意味のとり方は読む者に任されるものだそうであるが、生きるか死ぬかまで判断がつかないほどとは困ることもある。詠み上げた者の意図はどうだったかということで、筆者は、はからずも昭和十六年九月の御前会議で昭和天皇が読み上げられた明治天皇御製
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
を思い出した。
開戦か平和か、国家の大方針を決めようというときに、決定権をもっているはずのお方が、意見の発言に代えてこの歌を持ち出された。事態は開戦に向かって動いたのは周知のとおりであるけれども、歌の意図はどちらだったのか。一億の民の命が一片の歌に懸けられたとなれば、単に悲壮美だなどとはいえない。
国語学の大野晋氏に、日本語の漢字を重要視しない行き方によって漢語の論理性が失われてしまったという意味のことばがある。情意表現を得手とする和語が増えるだけでは困るのである。
話を戻そう。「罌粟、人糞(けし、ひとくそ)」の長歌とその反歌という手法は万葉集に見られる高橋虫麻呂の浦嶋子伝説その他伝説の手法に拠っていると小島氏はいう。ほかにも「さくら」の長歌とその反歌が良い例としてあげられている。
「己(し)が家の庭広ければ春深み 摘むべき花は小垣内(をがきつ)に ここだあらんを」とはじまる(以下略)。
これは桜の花で代表される日本とこれを占領しようとするロシアとの関係を述べる比喩的な長歌とその反歌で構成される。桜の花を手折ろうとするロシアを皮肉った手法は、浦嶋子の歌の手法を思わせる。その反歌は次のようになっている。
「ひとり匂ふ 梢に蝶の 垣こえて 迷い来ぬるよ しがこころから」

筆者の個人的な関心のことになるが、この反歌の「しがこころから」は浦島の歌にもある。最近これを「ながこころから」と読むようになっていると他の書物で知った。「己之」と表記される部分であるが、「己之家」という句もいくつか見られることでもあるが、そちらはどうなっているのか、「ながいえ」となるのか、知りたく思う。浦島も桜も「お前の」よりは「自分の」となるほうがいいように考える。
著者小島氏はこの本のなかで、鷗外研究者が万葉集に通じていないことを嘆いているが、今の時代も同じであろうか。鷗外がせっかく万葉集を活かして「うた」を詠んでも刊行された書物の注には「未詳」と片付けられる例のあることをあげている。
『うた日記』におさめられた訳詩集「隕石(ほしいし)」にある「喇叭」という詩に用いられた「柜楉(くべ)の馬」の「柜楉」について角川版頭注に「未詳」とあるが、鷗外の詩才を持ち上げるまでもなく『歌学全書』の頭注に「馬塞」とあるではないか。鷗外はこの注を利用しただけだよとわらっている。
鷗外の歌嚢(うたぶくろ)の中には万葉語だけでなく上代語も存在するとして、例に、薬師寺の仏足石歌にみえる「死の大君(しにのおほきみ)」(上代語)と万葉語の「黄泉(したへ)の使」をあわせて「死の使(しにのつかひ)」として「罌粟」の長歌に使っていると解説する。
また、鷗外脳中の「詩経」のことばとして「病む馬」の例を紹介し、戦場で病む馬を見て「詩経」を思い出したのだと解釈している。やはり鷗外は漢語の人であったかと思うが、その鷗外の古言(こげん)にかかる哲学をエッセイ『空車(むなぐるま)』に見出す。
古言は宝である。しかし什襲(じっしふ)してこれを蔵して置くのは、宝の持ちぐされである。縦(たと)ひ尊重して用ゐずに置くにしても、用ゐざれば死物(しぶつ)である。わたくしは宝を掘り出して活かしてこれを用ゐる。わたくしは古言に新たなる性命(せいめい)を与へる。古言の帯びてゐる固有の色は、これがために滅びよう……。
「什襲」は十重にかさね包むこと、大切に保存すること。早いころより鷗外は「古言は宝である」との主張を持ち続けていて、『うた日記』のなかに、万葉語、上代語などの和語のほかに漢語をも使用した。古言の帯びる原色を捨てて、新しい生命を与えようとした彼は、和語といわず漢語を問わず、貪欲にそれらを採用しようとする。
「我馬やめり」にでる「足掻(あが)く」や「嘶(いば)ゆ」は万葉語であるが「うすつく」は万葉語にも上代語にも存在しない。漢語に源をもつ「古言」であった。明治時代には「舂く」の文字を用いてよく使われはしたが、どうして夕日の没することになるのか、鷗外が使った依り処はどこにあったかなどはかなり探索しないと不明であった。また必ずしもだれにでも読める語でもなかった。
挿話がある。海軍軍令部次長の伊集院五郎は明治三十八年五月末、明治天皇に日本海海戦の戦況を奏上する役にあった。東郷司令長官の「戦闘詳報」を読み上げるうちに「此時夕陽已ニ」という文のところで一瞬絶句した。その次に続く異様な文字「舂キ」が出現したからであったという。話の結末は知らないと著者はそっけない。ただ、「戦闘詳報」を書いたのは秋山真之だったことがわかっている(括弧して『提督秋山真之』とあるが1934年の古書らしい)。小島氏は比較文学の島田謹二氏の直話で示唆されたそうである。
明治びとがこの語を何で知ったか、小島氏の探索結果は『三体詩』(『三体唐詩』)のなかに晩唐詩人薛能(せつのう)の詩があって、冒頭の句に「夕陽舂(せきゆうしょう)」がある。これを注釈書『素隠(そいん)抄』には「夕日ノ落(おち)ント欲(す)ルトキニ、光ノ揺盪(えうたう)シテ、上下スルヤウナヲ、杵臼デ物ヲ舂ツクニ比スルゾ(巻四)」
とあることから、「うすつく」の訓を与えたことがわかる、と解説している。『三体詩』が中世、近世、明治と読まれることでこの語が詩や小説に入った様子が見える。鴎外が長詩「我馬痛めり」の中に、「夕日うすつき わが馬嘶ゆ」と結んだのは、この「舂く」を歌の世界に導入した例として新鮮である、と称賛している。
こうして小島氏の探索は和語とみられる語にも漢語の源があることを突き止める。膨大な時間を費やされたであろう労作は簡単にかいつまんで読んだだけでも随分と勉強になり、また新しい刺激を受けた。この小さな文庫本になんとたくさんの知識が詰まっていることか。
岡井隆氏のほうも社会的な関心が広く、それなりの参考資料が使われているので何度も読み返したいと思うほど筆者には魅力がある。
それはそれとして、この度『うた日記』を読みながら思ったことは、鷗外は医者としての仕事はどうだったのか、ということだ。文学の才能ばかり著作で知らされても医学ではどうなっていたのか。世に有名な脚気療法について少し考えてみたい。高い地位にあったせいで自らの過ちを正せなかった面があるのではないかと思っている。(2017/1)


2017年1月12日木曜日

「閑愁」と「暗愁」ーーことばの歴史

このブログには長閑悠閑という題をつけた。これで検索するように案内すると、これらの文字を入力する際の漢字変換が厄介らしいことがわかった。こちらはそんなご迷惑などは考えずに、ただ思いつきでつけた題である。書き手がいかにもヒマな人間であることが伝わればいいとの思いからの発案だった。その「閑」の字が俎上にのったので閑文字を連ねることにする。

日本文学に使われている漢語が由緒正しく使われているか、それは漢語ではなくて日本製の和語ではないか、などとそのようなことを厳しく検証することを楽しみにして、それを学問の基礎とされている学者さんがいた。前々回披露した小島憲之氏だ。その著書『日本文学における漢語表現』(岩波書店1988年)というやや本格的な書物をのぞいてみた。

漱石の漢詩にみえる「閑愁」という語が問題になっている。『大漢和辞典』の注にある「そぞろにわきおこるうれひ」では、どうしてそうなるのかわからないとこの著者はいう。『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』にある「閑愁」の用例を挙げたうえで「これらを例にして考えると、閑居閑暇などの際に起こる物思いが『閑愁』である。『閑』は、暇であり、のどやかで静かな状態をいうが、そうした際に起こる心の憂愁(<ものおもい>と振り仮名)が『閑愁』といえよう」と納得の様子をみせる。

著者によると、漱石は二百二十首あまりの漢詩の中に、閑愁など「閑」に関する漢語を多く使用する。「閑何」のように「閑」を頭にかぶせた聯語や「閑を遣る」「閑に乗ず」「閑を得」などの名詞としての「閑」などがあり、これら「閑」は「閑静」「閑寂」「餘閑」などの意とあるが、筆者の知識ではよくわからない。とにかく漱石さんは「閑」を好んだという話である。

話題がこの「閑愁」のくだりに繋がった背景には、漱石の漢詩をすべてにわたって英訳しようと来日中のオーストラリアの大学の先生の訪問を受けたという事情があった。小説にはあまり通じていないが、漢詩ならばなんとかなるかと、著者は受けてたったまではいいが、たとえば漱石の詩にみえる「暗愁」という漢語、『佩文韻府』にも『大漢和辞典』にも例が見えない。これをどう処理するか、それにはまず「暗何」の語例を摘出して、英訳に先立って基礎語の「暗」から攻めるべしと話したらしい。その思い出のついでに「閑愁」がでてきたという形で、読者を韜晦しながら著者としての考えにしたがってあえて横道にそれたようだ。
筆者にとっては「閑」の地固めをしていただいたお陰でブログの題名に余分な意味が付け加えられて解釈されるおそれがなくなったことで満足である。

「暗愁」については、著者は次のように結論している。
「暗」には、何という理由もなく、言い知れぬ不安な意をもつとすれば、このたぐいの「暗」を含む憂いが暗愁の意に近い。古典語でいえば「そこはかとなき憂(うれへ)」とでもいってよい。
前々回紹介した『ことばの重み』(講談社学術文庫2011年、原本1984年新潮社)の、第十 「暗愁」という章に展開されている話題が印象深かったので例によって書き留めておく。
まず著者は鷗外の詩にこの語を見つけて出典を調べはじめて、前述のように『佩文韻府』にも『大
漢和辞典』にも見つからないが、晩唐の書物に一つ見つけ、さらに清朝の詩にもあることを発見して、それが幕末から明治の日本人によく読まれていたことを知る。
では鷗外がどのようにしてその語を知ったのか経路探しに移るところで話は一転、大正天皇のことになる。

大正天皇といえばその短い晩年ちかく脳を患われ、そのご病気についての巷のあらぬ噂は筆者も子供の頃よく耳にしていたものである。しかし、この著者が教えてくれたのは御製集、それも漢詩集の存在だった。『大正天皇御製詩集』には精選された二百五十一首が載せられているが、もとの詩数は一千三百数十首、うち七言絶句は千首を越えるという。歴代天皇御製漢詩のうち、九世紀平安前期の嵯峨天皇のが一番多くて約百首だというから、すごい数である。
この『御製詩集』を謹解した御用掛木下彪(ことら)は大胆にもいう、「大正天皇は影の薄い天子様である」と。これには、父君明治帝の威光の前に影が薄いという意が含まれていよう。在位期間、国是業績など、いずれをとってみても比較になるまい。しかし人にはそれぞれの持ち前はあるもの。「歌よりは詩の方がよい」と洩らされたことばからみて、かりに大正天皇自身にとっての境遇がうらはらに回転したとするならば、すでに風流人のすさびになっていた漢詩を作ること、大正期の詩人の中に指を折ることもできようか。
そして著者が目に止めた一首を紹介する。東宮時代の終りに近い明治四十二年作の七言絶句。

「人の暮春の作に擬す」
百花歴乱東風を趁(お)ふ 
寂寞たる園林夕日空し
首(かうべ)を回せば天涯人已(すで)に遠し
暗愁寄せて在り暮雲の中
結びの句に「暗愁」がある。
「暮春」という季節と一日のある時間との中に、ひとり「暗愁」をいだく作者の心情がよく表現されている。「謹解」には、「平穏な御作である」と評するが、やはりわたしは、「暗愁」の語の中に、人に知られぬ作者の憂愁の色濃さを感じる。わたしは、『佩文韻府』にも載せず、詩語としてはやや偏りのありそうなこの「暗愁」の語を、大正帝が、何に、また誰によって学ばれたかに深い関心をもつ
と著者は述べる。
誰によって学ばれたか、などと問いを発しながら著者は伊藤博文と大正天皇の間柄について書く。
この場合伊藤博文は政治家ではなく漢詩に巧みな、滄浪閣主人春畝である。細部は省くが漢詩人伊藤と大正天皇との作詩上の交流は、第三者の想像を超えるほどに濃く深いものがあったという。その伊藤は、国務多端ながら、国内はもちろん旧朝鮮、満州、さらには遠くヨーロッパへ旅行して、旅するごとに詩嚢をひろく豊かなものにした。その彼の漢詩のなかに、「暗愁」が一つ遺されている。しかもそれが絶筆となった。明治四十二年(1909)の作である。
「十月二十五日奉天を発して哈爾賓に赴く汽車中の作」。
万里の平原南満州     風光闊遠なり一天の秋
当年の戦迹余憤を留め  更に行人をして暗愁を牽かしむ
つい最近の六月に朝鮮併合の非を翻して朝鮮総督を辞任した伊藤の最後の旅、数々の戦迹への思いは消えず、旅人春畝の憂愁はそこはかとなく続く。
「更に行人をして暗愁を牽かしむ」の結びには、政治家としての博文ではなく、詩人春畝のいだく「あわれ」が漂うと著者はおもいやる。
こうして漢詩語「暗愁」をめぐる大正天皇と伊藤春畝を結ぶ線が浮かび上がった。

さて、その春畝の漢詩の師は森槐南といって職業詩人であり官僚でもあった。中江兆民が随筆『一年有半』に「槐南先生の詩学」と題してその作を称揚していると小島氏は書く。
その槐南が春畝の最後の旅行に秘書官として同道し、ハルビン駅頭で安重根の銃弾も受けているのだ。途中の車中では春畝と詩談を楽しんでいたであろうことは容易に想像できる。はたしてその証左ともいえる詩稿が自書されて友人井上馨の許に贈られていた。

絶筆となった漢詩の結びの句、「更令行人牽暗愁」が「呼起行人牽暗愁」となっているのだそうだ。著者のみるところではこれが絶筆の第一案だったことは明らかで第二案より劣るという。つまり槐南の添削が加えられているだろうとみる。

続いて著者の捜索の結果は『槐南集』を読むにつれていくつか「暗愁」の語を見出したのであった。こうして「暗愁」の語に限っては槐南・春畝・大正天皇を結ぶ線上に眺めることができる。
門人春畝を悼む森槐南の挽歌も紹介されているが省略する。うえの第一案にしろ、筆者には読めないのが悔しい。

著者の探索はさらに執拗である。されば、槐南は「暗愁」の語をどこで学んだのかということである。彼は明治の填詞(てんし)家であったと書いてある。填詞とは唐の中ごろ起こった新体の曲で、楽府(がふ)の曲によって字を填めることからその名がある。詩の一体であり、「詩余(しよ)」ともいう、と説明されてもわからない。要は先にできている曲に詩をつけるのであろう。

それやこれや唐の時代の人のことがあって、森槐南は「暗愁」の語が載る唐のその手の有名な詩集の名をもじった詩集を編んでいるところから、ルーツはここにありと断言するに至る。
『ことばの重み』の「解説」、内田憲徳氏によれば、小島氏が到達したその唐の「暗愁」は電子検索「全唐詩」中に検索される唯一の例だそうだが、小島氏は何年かかったことだろうか。

さらにさらに小島氏の勉強はつづく。この「暗愁」の語が槐南たち填詞家の独占物ではなく、幕末から明治にかけてたくさん使われたことが発見される。森槐南の父で漢詩家森春濤の明治十四年の作品にもある。結局、填詞家などはほんの一部であり、明治の漢詩愛好者を通じて流行語のように広まっていたことが知れる。だから森鷗外もこの語を使ったし、漱石も使った。

余談だが、今は死語になっていると五木寛之氏が書いているらしい。昭和二十年七月に荷風が使って以来だと。

著者は、ながらく上代日本語にかかわり過ぎていたために、明治の漢語に疎い結果を招来したとどこやらに述懐しているが、それはそれとして、筆者が、かじりかけたこの著書から得たことは、ことば(語)には歴史があるということである。著者はしきりに語性とか語の「あや」をいう。この場合「あや」を辞書で引いても著者の言いたい内容は伝わらない。「あや」は文様とか彩とかの文字で表されることがよくあるように、細かい微妙なものの集合したものをいう。「もの」なんてあいまいな言い方をするなと咎められてもほかに言いようはない。その微妙なもののそれぞれにことばを発した人の思いの要素が込められている。要素の組み合わせいかんで「あや」は変化する。それゆえに、著者は非常にもどかしい思いで「あや」といっているに違いない。

漢語が日本語のなかに入り、訓読みから字音読みが優勢になり、はてはカタカナ語に置き換わってきているのは、外国映画の邦題に典型がみられる。いまどきは翻訳すらしないでナマである。
新聞の投稿にカタカナ語の是非論が載っていた。もともとの意味を知って使えという意見があった。小島氏の仕事につながっている話である。知ったかぶりで使うなというのが小島氏の学問の裏にある。とはいうものの、大きな辞典を探り、古今の用例を探しというのでは夜道にもう一度日が暮れそうな気分がする。
「夕日うすつく暮年のわが身」とは著者の愛用することば遣いだが、「うすつく」は「舂く」と書く。春ではない。「春」の日の部分が臼である。夕日が沈むとき光の具合で揺れ動くさまを臼で搗くありさまにたとえた古語、「舂」は漢語で、「うすつく」の和語を生んだ。鷗外は『うた日記』に使っているという。この話は次回にしよう。(2017/1)










2017年1月6日金曜日

難聴治療への道、IPS細胞

新年早々、難聴者には朗報が届いた。ただし、明るい未来の話である。
朝日新聞1月5日朝刊に画像のような記事があった。内耳の失われた有毛細胞を薬によって再生する道がひらけたことを意味する記事である。目的達成にはまだまだ遥かに遠い道のりだ。この記事は先天性または幼児期に発症するペントレッド症候群という難病による難聴対策に有効な成分の薬が見つかったということだが、記事に紹介されている慶応大学の岡野教授グループではすでにIPS細胞による内耳細胞の作製作業が進んでいる。調べてみると3年前にすでに発表されているので、ここに記録しておく。内耳を開ける手術ではなく薬を使うというのは嬉しい話である。
http://news.mynavi.jp/news/2013/01/11/167/
http://kompas.hosp.keio.ac.jp/contents/medical_info/science/201309.html
2017年1月5日朝日新聞
(2017/1)