2021年4月26日月曜日

無重力と飛行機

1909年製の飛行機の例 ファルマンⅢ型
カフカは機械マニアだった。カフカがプラハのドイツ語新聞に「ブレシアの飛行機」と題するルポルタージュを寄稿した。1909年9月のこと。北イタリアへ旅行したときに飛行機ショーのポスターを見かけたので駆けつけたのだそうだ。ブレシアはロンバルディア州の街。カフカが飛行機の話題に惹かれたのは、この新しい乗り物が、車輪によらないで移動することが珍しかったからのようだ。おおかたがまだ二葉式のころとあるが、飛行機ショーは記録を競って賞金が出た。1位がアメリカ人で滞空時間49分34秒、総飛行距離50キロ、高度ではフランス人が198メートルを記録、世界初のレコードだった。(池内紀『となりのカフカ』光文社新書 2004)

さて、池内さんがいうには、バイクマニアでもあったカフカが飛行機ショーのポスターに惹かれて、旅程になかったブレシアに向かったのは、車輪による移動がもっぱらだった当時にあって飛行機が珍しかったからだと想像している。そして、飛行機が車輪を必要とするのは、助走と着陸の短い時間だけであって、あとは虚空を無重力状態で移動していくと書いている。カフカの考えを代弁したのかも知れないが、はて、これでいいのかな? 飛行機が無重力状態の中をゆく…。ここでわたしは思わず混乱したのである。

理屈に合わないとか、言い方が正確でないとか、表現をあげつらうつもりは全くない。のんびりした話題だし、これで十分通じるからいいのではあるけれど、わたしは自分の知識があやふやだからまごついたわけである。こんな場合に無重力という言葉が出てきたのでまごついたのだ。例えば空中をゆく、でもよかったろう。何も科学的に正確な空気中の状態を言わなくても良い。軽い日常会話である。

小学生のころのわたしは竹ひごと紙を使った模型飛行機をたくさん作ったものだ。神風特別攻撃隊ができたのがきっかけで、出撃の報道が新聞に出るつど一機、また一機と作っては押入れの上段に並べていった。ゴム紐動力のプロペラ機であったけれども、主翼に少し仰角をつけて飛ばすと中空に浮いて飛んでいった。だから飛行機はどうやって飛ぶのか、理屈でなく実感的に知ったつもりである。エンジンが止まったら落ちるのだ。前に進むから浮く。400トン近くもあるジャンボがなぜ落ちないのかは不思議ではあるが、現に浮き上がって飛んでいるからそれでいい。その先の理屈まであまり考える必要もない。

そんなわたしが池内紀さんの書きように惑わされた。では理屈調べてみようとしても手元に物理の本など置いてないし、こういう場合はとにかくインターネットだ。あるある、検索語次第で各種各様さまざまな記事があった。重力だの引力だの揚力だの浮力だのと力の字がつく用語が次々出てきた。わたしがこれらの用語をしっかり理解していないことがはっきりわかった。日常会話につかう範囲でしか知らないから、用語を使った物理の説明の意味がほんとに理解できるわけがないことをあらためて思い知った。

話を戻す。ドイツ文学者の池内紀さんは飛行機は無重力状態の虚空を移動するという。弟君で宇宙物理学者の池内了さんが飛行機の移動についてなにか書いてくれていないかと探してみたが、あいにく飛行機については見つけられなかった。緻密な表現をなさる学者さんだからと期待したが残念だった。その代わりではないけれども、アルキメデスの原理を勉強させてもらった。あれは体積の問題であって浮力のこととするのは正確でないとあった。浴槽にからだを沈めたときに溢れ出た水の体積とからだの体積が等しいことを発見したのであると。王冠のような複雑な形の物体の体積を図る便利な方法を発見したわけだ。その説明のあたりを再三読み返していると、「水や空気のような連続体には圧力が働いている。」と出ている。水や空気が重力の方向に重なって存在していると、高い場所の圧力より低い場所の圧力のほうが大きいから、浮力が生じる。圧力とはその呼び名通り、面を押し付ける力のことで、単位面積あたりに面に垂直に働く力の大きさであると定義すると述べている。(池内了『 物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理」へ』講談社学術文庫 2021)。

ところで、重力ってのは地球の万有引力と自転する地球の遠心力の合力だそうで、遠心力は比較的小さいから、重力は引力とほぼ同じと考えてもシロウトの会話ではさしつかえなさそうだ。となれば一般的に水中や空気中には引力と、その反対方向の浮力が働いているともいえる。水中に静止している物体には浮力が生じる。空気中に静止してる物体にも同じ理屈が通用する?。その物体の体積分の重さに等しい浮力が生じる??。物体の上と下での圧力の差が浮力を生む???。どうも現実とは違うような気がするではないか。

2009年10月5日、名古屋におけるJAXAタウンミーティングでは、石川理事という方が、落ちない飛行機はない、YS-11でエンジンが両方止まれば落ちる、YSでもなんでも、いくつかのエンジンの一つが止まっても落ちない設計にはなっていると答えている。理屈がどうであれ、やはり落ちるのだ。つまり浮力なんてのは当てにならない、と考えるほうがよさそうである。https://fanfun.jaxa.jp/c/townmeeting/2009/39/opinion.html 参照。

日経ビジネス電子版に「『飛行機はなぜ飛ぶか』わからないって本当?」というのがある。担当記者が宇宙物理学者松田卓也氏に教えを請うている連載記事である(会員読者限定記事)。https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/ 。

飛行機が飛ぶためには揚力が必要である。揚力は翼の上面の空気の流れが下面のそれより速いことによって生まれる気圧の差が作用して生じる。翼の上面の気圧が小さくなるからである。空気の流れを得るには静止していてはだめだ。飛行機は前進するための推力が得られないと空気の流れをつくれないから必要な気圧差が得られない。

『航空実用辞典』の記述には「揚力…この空気力の,飛行方向に垂直な方向の成分を揚力と呼び,飛行機が空中を飛行できるのは,機体の重量に等しい揚力を翼で発生し,重力(weight)と上下方向の力のバランスを保っているからである」とある。

この説明で水中で物体が受ける浮力と空中の飛行機が受ける揚力の違いが分かった。それでも翼の上下で空気流の速度がなぜ異なるのか、その理由がわからない。いや理由はわかっているのだそうだ。翼の周囲には幾種類かの渦ができるからだそうである。わたしには理解が難しいが渦流の存在が気流の速度に関係するとのことらしい。そしてこの渦流の出来具合が未だに解明されていない。飛行機が飛べる理屈は百年前からわかっていて、現実に飛んでいる。それでもなお飛べる原理がわからないとはこの問題があるからだそうだ。

また、一般書の竹内薫『99.9%は仮説』(光文社新書)とあわせて読むと面白い。予測はできているが原理は解明されていないという結論になる。この本は大ベストセラーだけれども、竹内氏の書き方が過激だから気をつけて読めとアドバイスしてくれるサイトもある(https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/RikaTan/RikaSensei200705.pdf)。

何日間かこの問題に取り組んだあとで前記の松田氏による解説を見つけた。揚力ができるための渦の問題はやはりむずかしいが、親切な説明である。基礎科学研究所という機構に拠っている。他の問題にも非常に有益なサイトだ。末尾にURLを書いておく。

なぜ飛ぶかは揚力によることが百年前からわかっている。しかし揚力についての説明には大学教授であっても間違う人が多いそうだ。当方も半藤さんのいうロートルの仲間だから弱い頭は適当にねぎらって湯船でアルキメデスの気持ちを味わうのが関の山だとよく分かった。もう旅行もしないからいいけれども、なぜ飛べるかの問題を考えるのは旅行するより疲れることを体験した。池内紀さんは大して悩むこともしないでさっさと彼岸に渡って行ってしまった。

参照した資料:

池内紀『となりのカフカ』光文社新書 2004

池内了『物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理へ」』講談社学術文庫 2021 Kindle版

竹内薫『99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方』光文社新書 2006

基礎科学研究所のサイト:http://jein.jp/jifs/scientific-topics/1817-topic138.html

(2021/4)

 

2021年4月17日土曜日

「あゝそれなのに」のこと

ことしの初めに亡くなった半藤一利さんの置き土産『歴史探偵 忘れ残りの記』のなか、第一章 昭和史おぼえがきは「おかしな言葉」としてテニヲハの遣いかたへの疑念をあげている。「食べれる」「着れる」などと、おかしな日本語として槍玉にあげられるのは、いまの若者の言葉遣いだけではなく、われらロートルが親しんでいる昭和史を飾る言葉にだって、首を傾げたくなるのがあるが、不思議に誰もおかしいとは思わない。と、このように書いていくつかの例を出したあげくに、畏れ多くも終戦の詔書にもあると。「堪ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ」。いうまでもなく「終戦の詔書」の一節である。当時の雑音だらけのラジオ放送はよく聴き取れなかったけれど、この言葉だけは多くの人口に膾炙している。半藤センセイいわく、「忍ぶ」とちがって「堪える」は自動詞であるから「何々に堪える」と「を」ではなく「に」でなければならいのではあるまいか。したがって、「堪え難きに堪ヘ」が正しい。ああそれなのに……、とこの短文を結んでいる。ここで筆者は思わずニヤリとした。ああそれなのに、に反応したのである。

 「ああそれなのに それなのに。ネェ、おこるの~は、おこるの~は、あったりまえでしょう」がリフレインになっている昭和の流行歌だ。なんと、このごろはユーチューブでも聞けるから驚きである。曲名「ああそれなのに」、古賀政男作曲・星野貞志作詞、歌・美ち奴、テイチクレコード、昭和12年、 日活映画「うちの女房にゃ髭がある」主題歌。作詞の星野貞志とはサトウハチローの変名だそうだ。

半藤さんは昭和5年生まれ、当方は昭和8年だ。一世を風靡した流行歌だもの、チビどももみな覚えたのだろうと思う。筆者の記憶にもいつの間にやら忍び込んでいた。歌詞の出だしは「空にゃきょうもアドバルーン」であったが、当時は広告宣伝のアドバルーンがどこの街でもデパートの屋上から上げられていたものである。坂の街、小樽の高台にあった我が家からも今井百貨店に「フルヤのキャラメル」と大書したアドバルーンが上がっていたのを見た記憶がある。稲穂小学校に上がって翌年はキゲンハ ニセンロッピャクネンとなるが、それまでの昭和の世間は大正の続き、戦塵は遠く、まだまだ明るかったのである。

そこでまた古い話を思い出した。斎藤茂吉がこの唄を歌に詠んだという話。同じ歌でもこちらは短歌、しかも茂吉さん編集の歌誌『アララギ』の昭和12年4月号に発表した。発表までのいきさつについて、斎藤茂吉著『童馬山房夜話、第二』「152自作一首」という記事にある。(八雲書店 昭和19年 アララギ叢書;第百一一六号 所収)国会図書館で読める。冒頭の一節を引用する。

私がアララギ四月号に発表した歌の中に、『鼠の巣片づけながらいふこゑは 「あゝそれなのにそれなのにねえ」』といふのがある。これは私のところに働いて居る為事師が、天井裏にもぐって鼠の巣を取除けながらあの唄をうたっているのが妙に私の心をそそったので、歌にしようと思っていろいろと試みたすゑに、辛うじてあんなものが出来たのであった。                 無論果敢ないもので、どうのかうのと云ふべき性質のものではないが、作るとき少しく難儀したので、やはり捨てずにとっておきたいともおもったのである。ただアララギに公表しようかしまいかと迷ったが、友人のすすめに任せてとうとう公表したものである。

これに続けて「不覚な美少年強盗」という表題の新聞記事を紹介。少年強盗が押し入った家で明け方まで寝込む場面があって、寝る前に便所に行きながら、「あゝそれなのに……と流行歌を声高らかにやる朗らかさ」という記事で、私にはおもしろいと書いている。

また5月になって石見国の山中で蕗を取りに来た十歳から十二歳ぐらいの女の子たちがあの唄を歌うのに出逢ったとの話が続く。当時の流行ぶりがわかる。

歌壇からいろいろ批評してもらったが、公表した上は俎上の魚、じたばたしても仕方がない。そして、その程度の歌が私の精一杯の力量だと書く。これが片手間の巫山戯歌だなどと思うものがあったら、それは私を買い被っているものだという。そのうえで佐藤佐太郎氏がそれらの批評を丹念に集めてくれたから、記念としてこの夜話に添えることとする、として多くの評を載せている。それらにもまた楽しいのもあり、辛辣なのもあってなかなか興趣が尽きない。大方が好意的な批評で、本格調の歌ではなくとも軽みをもつのも茂吉流とする褒め方もあるのは当然だろうし、他の人ではなかなかこのように堂々と発表できまいというのも頷かせる。一つひとつを腰を据えて読んでみると当時の歌壇が沈滞気味で心ある人達の嘆きも聞こえてくるかのように感じられる真面目な文章もあるので、これらをどんな気持ちで読んだであろうかと茂吉の心中を想像する。ここにすべての評言を紹介することはできないが、一つおいて次の節に「154 二たび『あゝそれなのに』」として米国歌壇から寄せられた評と茂吉の反発が載っている。「童馬山房夜話」は『アララギ』に連載した茂吉の随筆である。筆者はこの米国からの批判に応じる文章に斎藤茂吉の剛柔備わった勁い人柄を感じ得た気がする。痛快でもあるので簡単に紹介する。

 昭和13年1月5日、北米にいる歌人高山泥舟氏から雑誌『とつくに』昭和12年12月11日号が贈られてきて評論文「歌の構へ」の中に拙歌『あゝそれなのに』の一首に言及されていた。高山氏は年来茂吉氏の声に傾倒し憬仰してきた一人であったと告白し、その信仰が一夕にして動揺を余儀なくされて一種の疑念が煙幕の如く拡がりつつある。何に起因する乎?と前置きして、それは歌誌アララギの巻頭に例の歌が作者斎藤茂吉の名に於いて公表せられた為であるという。この歌を一読した高山氏の驚きは到底口には現し得ないものだった。萬葉以来の国歌の大道も、ヤレヤレここまで来たのかと悲しかったのだそうだ。一雑誌の誌面の埋草として投げ出したチャランポコの口説とするなればアララギの殿堂に糞土を塗るもの……何の顔(かんばせ)あって地下の赤彦に白し得よう乎?とあった。

 この非難に対して茂吉は「憬仰」はありがたいけれども、この歌一首によって動揺してしまうようでは自分に対する「憬仰」の度が足りない。自分のような末世の一人間に仏像かなんぞのように憬仰されたりすると變でならない。どうしても憬仰してやまないというならば、もっと骨髄に徹するような憬仰をしてもらうほうが気持ちがいいというものだ、と開き直るのである。そして云う、高山氏はミレエを尊敬してやまないと言っている。ミレエの素描集一巻を所持し、鑑賞して『生活以上のまこと』を貴しとしているということだ。ミレエの素描は現存する油絵の素地をなしたものだから、真面目な敬虔なものばかりである。これをもってミレエを憬仰してやまぬことは認めることができる。 然るにミレエの素描に、Souvenir de Franchard と題した1871年にかいたものがある。此は嵐のために一婦人が倒されて臀部がまる出しになったところである。これはいつもミレエが取扱ふやうな態度でかいたものでなく、寧ろポンチ繪的にかいたもので、1836年ごろのミレエの畫風の地金が出たもののやうである。ここで、高山氏が、ミレエの初期の畫、或はこのフランシャルの回想のやうなものを見て、忽ちその憬仰尊敬の念が失せてしまふだらうかどうであらうか。この例は私に引きつけて解釋すると少しく不遜になるけれども、云って見れば先ずそんなものである。(後略)

一読してこれでケリが付いたかと思ったがさにあらず、このミレエの話をしている時さらに高山氏の一件同様の議論が他誌に出ていることが聞こえてきて、非難の声が果てしなく続くかのような当時の歌壇の情景が見えるようである。ここで茂吉は、「この一首は、私の歌全體から見れば、『無論果敢ないもので、どうのかうのと言ふべき性質のものでない』が、現今歌壇では誰一人、『あゝそれなのに』の流行唄を取上げてゐない。それを私は一種の感動を以て取上げただけである。私があの一首を公表してから、あんな歌は誰でも作り得るが、下等だから作らないのみであると空嘯くのは餘りおもしろくない。世に、コロンブスの卵といふ譬があるが、物事はやってみたうへでの詮議でなければつまらぬ。」と述べて信念を穏やかに披瀝している。

さらに、折しも始まった支那事變を詠んだ歌についても評価のあるべき姿を問うている。その骨子は、「作った歌に縦ひ一首でも物になるものがあらば、作らずにその方が高級だ高尚だと云ってゐるよりもどのくらゐましだか知れない」とある。

いつだったか読んだ臼井吉見氏の戦時中の俳壇の議論とあわせて歌壇も大変だった様子がわかる。最近のSNSとやらの口論合戦に似ていなくもない。世間はうるさいものである。

『童馬山房夜話』は以下のURLで読める。

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874

(2021/4)




2021年4月4日日曜日

フランツ・カフカ『変身』池内 紀訳

『変身』初版表紙

カフカ『変身』を読む

むかし新潮社が全集を売り出した頃に読んだ。主人公が虫に変身したことのほかは何も覚えていなかった。池内紀さんの『記憶の海辺』を読んで、大学の勤めをやめたあとの仕事の中心にカフカ全集を全部ひとりで翻訳するとの課題を置いたと知った。池内さんの日本語は自然で読みやすいからすきだ。というわけでとりあえず白水社のカフカ・コレクションで『変身』を読むことにした。このコレクションは池内訳の全6巻を8冊に再編して多少手直しをしたもので、新書判の大きさ、巻末に訳者による解説がついている。

『変身』が最初に書かれたのは1912年で、3年後に小さな雑誌に発表された。その後薄っぺらな本になったがほとんど注目されなかった。世に知られだすのは死後かなりのことだそうだ。カフカは1924年、喉頭結核で亡くなった。41歳。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目をさますと、自分が虫に変わっていた。この事件だけで十分に有名な作品だから、『変身』についての感想や論文はたくさんある。自分が虫になるなんてことはあり得ないから、そのことを論じてもあまり収穫はなさそうに思える。それでもどんな虫になったのだろうとは誰もが考えそうだ。作家がのこしてくれた手がかりはある。甲羅のように固い背中、こげ茶色をした丸い腹はアーチ式の段になっている。からだにくらべるとなんともかぼそい無数の足がある。それらは勝手にワヤワヤと動く。以上が目覚めた時に知ったグレーゴル自身の知覚である。無数の脚と書かれては背中や腹の描写に適合する生物はいないのではと思う。全体が作者の想像と考えるほうがよさそうだ。

本文を気をつけて読んでも眼や耳の有無や形状については書いてない。変身して日数が経つとだんだん眼が効かなくなってくるような描写がある。暗闇で触覚があることに自分で気づく。筆者のにわか勉強によれば、例えばゴキブリは触覚が眼の代わりをする。音については空気の振動をどこで感知するか虫によって異なるから、この小説では不明だ。だが変身した後のグレーゴルは人間の言葉はすべて理解していることになっている。

口はどうなっているか、一般に咀嚼する昆虫は顎を左右に動かして咀嚼するというから、グレーゴルもこうやって腐りかけの野菜や固いチーズを食べたと考えておこう。顎は鍵穴に指したままの鍵を回すときに活躍している。ただし、この場面、描写してあるようにうまくいくものなのか、あまり信用できない。カフカ本人が実演したことがあるらしいが、途中でカフカがプッと吹き出してしまったと解説にある。

虫の大きさはどれほどなのか。ベッドから落ちたとき音がした。ドアの向こうで支配人が「なかで何か落ちましたぞ」と言う。だからそれなりに重量があるのだろう。そのため椅子を背中で押すことができた、とは言えそうだ。背丈は椅子の背もたれよりは高そうだ。からだを細い脚で支えるのは辛かっただろう。思わず倒れて腹ばったとき急にからだが楽になったと書いてある。はじめて自由に動き回れたとも。本来の虫なら立つという発想はない。ソファの下にもぐるとき、からだに幅があるので入れきれない。どんなソファかわからないが、この表現と椅子の背もたれから推定できる体型がおぼろげに知れる感じがする。さして大きくもない人型である。顔の形については、母親に向かって叫ぶ「母さん、母さん!」が、ただ顎をパクパクするだけだから母親は悲鳴を上げた。かなり怪異な顔相が想像できる。

ミルクの匂いに惹かれたが味は全く受けつけない。口にあう食いものは腐りかけの野菜や食卓の食べかすばかり。グレーゴルの話すことは音声もことばも家族に通じないが、家族の話すことはすべて理解できる。だが家族はそれを知らない。父親が言う。「こいつに言葉がわかるようだとな」、グレーゴルはもはや存在する人間とは言えない。

天井や壁をはいまわるとも書いてある。重い体はどうなったのだろう。壁にかけてある好きな絵が運び出されそうだと思えば、その上に張り付く。見つけた母親は壁のシミだと目をやった途端に驚愕して失神する。虫は大きいのか小さいのか。虫の形にこだわって文章をおっていると、読む方の想像力がついていけない。だがかなり怪奇なものであるとの雰囲気は十分である。

本になるとき出版社は表紙に虫男の絵を出したいと申し出てきたが、カフカは断っている。無名作家の作品がそれでは売れないと言うので妥協して、半開きの扉によって立っている男の姿が表紙になった。半開きの扉は本文中で虫がはじめて人々の前にお目見えする舞台装置である。

把手に頭をのせるとドアは大きく開いた。留め金がかかっている方のドアに身をもたせていた、支配人や父母のいる方からは、からだの半分と片側にかしげた顔だけが見えた。支配人に事情をよくわかってもらおうと、寄りかかっていた扉を離れ、開いたところから身を押し出すようにして支配人の方へ向かおうとした。グレーゴルは支えを失って脚を下にして倒れた。からだが実に楽になったような気がした。無数の脚はしっかり床についている。うれしいことに脚はちゃんと言うことをきく。行きたい方へすぐにもからだを運ぼうとする。

セールス行商人の社内における弱い立場、家庭の事情、訴えたいことがいっぱいある。言葉の通じないこと忘れて懸命に論じたてるが、相手は怯えるばかり。逃げ腰でいる支配人を説得しなくては。逃してはならじ、突進した。気配を感じた支配人は「ウワッ」と叫びをのこして姿を消した。

虫と人間、こんなにも通じ合えないものか。片や虫に変身しても人間であったときのままの精神状態なのだ。人間の方は虫にも道理があることなど想像もできない。怪奇さに怯えるばかり。

あるとき、父親は虫を部屋に追い込もうとリンゴをぶつけてきた。小粒のリンゴ、食堂の果物籠からとって制服のポケットに詰め込んだのを次々と投げる。一つが背中に当たって食い込んだ。痛い。こいつはついに最後まで取れずに虫の背中で腐っていった。

しだいに家計が苦しくなる。父親は銀行の守衛になった。喘息持ちの母親は賃仕事の縫い物をしている。親譲りの装身具を処分した。小娘の台所女中と時間ぎめの掃除女。いまの生計を維持するには家が広すぎると結論して、間借り人をおいた。3人。ユダヤ人のようだ。徹底したきれい好きで、家中の部屋を片付ける。グレーゴルの部屋は物置部屋になった。虫はホコリと自らの粘液にまみれて過ごす。

間借り人は食堂で食事をとる。家族は台所でとる。夕食時に妹がバイオリンを弾いた。全員が聴いているとき、たまたま開け放されてあったドアからグレーゴルも部屋から出てきた。汚らしい姿が間借り人に見つかった。間借りの契約が破棄され慰謝料も要求される。

両親と妹が相談する。あの虫はもうグレーゴルではない。自分たちに良い思い出さえ残っていれば、いなくなってもよい。

ひもじいままに痩せて干からびて平べったくなる虫、ほうきで掃きよせられるようにまでなる虫。小さくなったのかな。

虫は食物も摂らず衰弱して死んだ。掃除女が箒でつついてみて、「くたばってる!」

平和なときが戻った一家3人は春の一日、電車ででかけた。いい天気だ、夫妻は娘の明るい様子を眺めながら、そろそろ相手を見つけなくてはと思う。これが結論だ。めでたしめでたし。

ここには文のあとさきに関係なく、情景を読み取る要素を書き連ねた。書かれたことを忠実に考えればこうなる。グレーゴルが人間である限りは家族の一員でいられた。家族は、はじめのうちは虫の姿であってもグレーゴルだと思おうと努力したり、元の姿に戻る希望を持った。それらの努力や希望が諦めに変わったとき、虫のグレーゴルは虫でしかなかった。家族にとって無用の存在、さらには邪魔である。グレーゴルがどんなにつらい思いをしながらであっても、その経過は家族に一切伝わることなく、死とともにいなくなった。

筆者は素直に文章を読んで楽しんだ。同じ作家の他の作品と比べたり、原語で追求したりする人も多いようだ。面白い小説だった。

ハプスブルグ家のオーストリー・ハンガリー帝国のボヘミア王国であったチェコの首都プラハが物語の舞台である。永年にわたる官僚政治のもとでの社会の様子も少しうかがえて興味深い。無気力な老人生活から銀行の守衛づとめになった父親の制服へのこだわりぶりは、まさにハプスブルグ家の栄光を慕う姿にみえる。カフカ家はボヘミアのユダヤ人家系、登場する3人の間借り人もひげが象徴するユダヤ人らしい。カフカはドイツ語で書いたがプラハもドイツ語圏だった。ちなみに『変身』という表題は元のドイツ語でも同じ、グレーゴルが変身した「虫」の原語は「害虫」を意味するそうである。

読んだ本:『変身』カフカ 池内紀 訳 白水Uブックス 2006 白水社

(2021/4)