2021年12月30日木曜日

年末に想うー-アルキメデスに閃いたこと

アルキメデスが「ユーリカ!」と叫んで浴場から裸で跳びだした逸話は、明示はされていないけれども、純金の冠の成分を確かめる方法が主題だった。
金の冠の形は、研究者のドレクセル大学ロレス教授によれば古代ギリシャのリース(英語:wreath)だという。インターネットで "The gold of Macedon" を検索してその画像サイトを見ると、おびただしい数の発掘品が揃っている。冠は leaf crown とか wreathとか幾種類かの名で呼ばれているが、どれも実に繊細で複雑な形をもつ。
冠を壊すことなく成分を調べるために体積を知りたいアルキメデスはうまい手立てが思いつかない。浴場で湯につかった途端、溢れる湯を見て、「あ、これだ」とひらめいたにちがいない。水ならばどんなに複雑な形であっても隅々までゆきわたるから、水に浸した物体が排除した水の量を調べれば体積が分かる。水に漬ければいいのだ。アルキメデスにひらめいたのは、こういうことだったろうと、わたしは確信している。
ものの重さ、体積、密度、比重などの関係をアルキメデスはすでに知っていたと思う。重さだけは王が細工師に預けた純金と同じだから自明であるが、体積が分からない。この入り組んだ形の細工物の体積をどうやって測ろうか、彼は考えあぐねていたに違いない。だから湯が溢れたときにアッと思ったのだ。
いま手元に、いわゆる「アルキメデスの原理」について二人の物理学者の表現がある。 
「彼が見つけたのは、湯船から溢れ出た湯の量(体積)は湯船につかった体の体積に等しいということだった」とは池内了氏の文である。酒井邦嘉氏は「空中と水中で量った物体の『重量差』が、物体と同じ体積の水の重量分だということに気づいたのだ」と書く。どちらの文もはじめのうちは私には納得できなかった。なんでそんな事がわかるのよ、という気持ちであった。テッサロニキ博物館の見事な金冠の数々を眺めながら、物理学の先生の説明と見比べていても虚しく湯ならぬ時間が流れるだけだ。ふと思いついて小学生の理科向けのサイトにあたってみた。
石ころの体積を量ってみようとの課題と説明の図が出ている。一目瞭然、そうか、そうか、これがわたしの「ユーリカ」だった。水が「溢れる」ことは「増える」ことだった。水槽に入れた水の中に石ころを沈めたとき、石ころと同じ体積の水の量が追い出されるのだ。水槽の縁が高ければ追い出された水は溢れないで水位が上がるだけである。
石ころを水に入れて体積を知る問題(文末URL参照)

 石ころの体積を求める問題は小学5年生の学習にあるようで、それがなかなか理解されない   らしい。そうだろうな、この問題は考えているだけでは納得しにくい。体験してみて自然の 法則を受け入れるしかない。筆者のわたしも5年生並みなのだということがよく分かった。
さらに、「空中で量った重量を、その重量差で割ることで比重が分かる」と、酒井先生はおかしなことを書いている、と思った。ここの重量差は先の文と同じように括弧付きが本来だろうが、「その」をつけることで括弧を省略したようだ。わたしは自分の言葉に置きなおして考えてやっと結論が出た。分かってみれば、石ころの図で全部説明ができている。酒井氏の文は表現が個性的なのだと思う。
冠を水に漬ければ難題は解決するとアルキメデスは考えた、とは、どこにも書き残されていない。水につけて排水量を比較する考案は紀元前1世紀のローマの建築家が書いている。これはロレス教授が披露していて、水量が微妙すぎて実際的でないとしている。アルキメデスをよく研究していたガリレオが述べているように、アルキメデスが研究した中に静水中の物体についての議論と梃子の議論がある。ロレス教授は、天秤秤で純金塊と冠を均衡させたのを水に漬けて、純金の方に天秤が傾くことで簡単に解決すると立論している。ブリタニカ百科事典でのこの逸話の扱いを調べてみたが、同じことが書いてあった。
一般的に逸話には事実が混じっているにせよ、時々の人々の楽しみにつくられている。冠の話は自然の法則であったり、原理が導かれる基本になったりする事柄が含まれていて興味深い。物体が静水の中で重さが変わることなど、風呂場での経験は豊富であっても、いまだにわたしは腑に落ちたとは言えない。「アルキメデスの原理」と呼ばれる事柄はいくつかあるのだろうけれども、いまここで勉強したつもりの水中の物体に関しても、たとえば船の重さ、排水トンをどうやって測定するのか、聞かされても芯からは信じられない。先だってスエズ運河で座礁した日本のコンテナ船の写真をみても、つくづくと、よくも平気で運航されているものだと疑う眼しかわたしにはないみたいだ。それはそれとして、お風呂での出来事はこれくらいにして、いつもの読書に戻ろう。ようやくのことに長く停滞していたのが進みそうだ。それにしてもアタマの弱くなったことよ。まもなく、またひとつ歳をとる。
余談。「Yahoo!知恵袋」でみた。「…水槽に石を入れたら深さが5cmふえた。ふえた水の体積は何cm³ですか。」の答えを教えてくださいというのがあって、回答者は「石が押し退けた水の分だけ、水かさが増えたのですから」として、水槽のタテxヨコx5㎝で答えたあとに、ほんとは増えたのではないから、答えは「ふえた水はありません」または「0」かもしれませんね、と皮肉った。お礼の言葉に「息子にも教えてやりましょう」と書いてあった。親も大変なんだね。
参考にした本:池内 了『物理学の原理と法則』(講談社学術文庫)、
       酒井邦嘉『科学という考え方』(中公新書)
インターネット:https://jukensansuu.com/mizuniireru.html、
        "Archimedes Home Page"、"The gold of Macedon"など。(2021/12)


 

2021年12月10日金曜日

脳とことば 気まぐれべんきょう

酒井邦嘉氏の名を知ったのは、「知は力なり」と題した朝日カルチャーセンターへの寄稿文だった(朝日朝刊2021年11月8日)。東京大教授言語脳科学の肩書がついている。物理学科に入って宇宙へ、そして脳へと関心が移った結果のご専門だという。アメリカはマサチューセッツ工科大学での言語学者ノーム・チョムスキー教授との出会いが現在の研究の基となっているそうだ。「ことばの研究」といえば文系の学問のように響くが、言語学は自然科学である。ことばは音声から始まる。音声は音であり振動なのだから物理学の領分だ。物理学は自然の法則を探る学問であり、人間も自然の一部であるからには言語学は自然科学なのである。

チョムスキーといえば「普遍文法」あるいは「生成文法」の代名詞のような人物である。言語は生得的である、つまり生まれながらに獲得するというのがその主張の基礎にある。幼児が言葉を話すようになる過程を親となった経験のある人はみな見ているはずだ。カタコトをしゃべったと言って、カワイイと笑い転げるだけでは人間の大事を見逃していることになる。ことばを脳の構造と結びつけて、話すことができる様子を探究するのが脳言語学だ。昔流の文系とか理系とかを分ける垣根を超える学問である。

脳について素人は普通アタマがいいとか悪いとか言い、最近では認知症など理解や記憶の装置として考える。頭が痛いというときも果たして脳のどこが痛いのか。その内部はどうなっているのか知る人は少ない。

『脳の言語地図』より

本を読むときの脳の働きについて酒井教授が説明してくれる。活字は視覚的な刺激として与えられ、視神経を通じて脳の「視覚野」に入る。視覚野は大脳皮質の後ろの後頭部にあり、網膜に映った外界を再現するために特化した部分である。活字は脳に対する豊富な入力ではあるが、眼は一度にたくさんの情報を受け取ってはいない。両眼を動かして眼球の中心でとらえた活字しか読むことができない。黙読しているときは、音声化できる活字はいったん脳の中だけの「音」に変えられ、記憶との照合によって自動的に単語やテニヲハなどの文法要素が検索される。検索された情報は、さらに単語の意味や、文を作る文法を分析するため「言語野」へと送られる。そこで初めて「読む」という行為が確かに言語と結びつくのである。「言語野」は少なくとも4つの領域に分かれていると教授は考えている。その場所を脳表上に示したものが脳の「言語地図」だ(図参照)。なお、耳で音声を聞く場合には聴覚的な刺激は聴神経を通じて脳の「聴覚野」に入る。聴覚野は大脳皮質の側面下側の側頭葉にある。視覚野と聴覚野とから言語は脳に入るが、その先はどちらも言語野に合流する。

わたくしたちが外界から受け取る情報のうち活字、音声、映像で情報の量を比べると映像が一番情報量が多い。つまり見てわかる部分がほとんどである。活字は逆に情報量が一番少ない。読み直し、考え直してわかるという手順が必要な場合が多い。その上でわたくしたちは想像で結論したりする。この「想像」によって欠落している情報を埋める作業を経て「わかる」状態に至る。この「想像力」とは、平たく言えば、「自分の言葉で考える」ということだと説明される。 

学校では国語の時間に音読させることが多い。スラスラ読める人は文や語句の区切りなどを見分けて、聞いた人もよく分かるように読む。漢字が読めなくてつっかえ、かなの切れ目が分からなくてつっかえする読み方では聞き手どころか自分もわかっていない証拠である。長期政権を誇る元総理の読み方は、妙なところでプッツンと切れることがよくあった。これは自分自身が読めていない証拠だろう。官僚に書かせた答弁書を読んで「ここまでが大臣のお話です」と注書きまで読んでしまった代議士がいた。おおかたの政治家が、普段本を読んでいないことがよくわかる。

黙読であっても自分の言葉にして読めなくては文意の理解はできない。酒井氏は次に出てくる言葉が予想できる先読み能力も大切で、これは脳の働きだと説明している。想像力は創造力でもある。酒井氏の著書『脳を創る読書』は読書の大切さを説いている。

科学の協同によって脳の内部を診る技術が進んだ結果、アタマの中で脳がしていることがかなり分かってきた。MRIといえば医療診断装置である。MRIによる診断を磁気共鳴画像法という。それに機能的を表すFの小文字がついてfMRIという検査方法ができている。これでMRI装置を利用して脳の活動状態を、領野ごとに見分けられるようになった。Wikipediaの解説が刺激的だ。100年以上も前から脳の血流と神経活動の関係が知られていた、と書かれている。100年もの間、世間の人はちっとも知らなかった。fMRIというのは、脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化する方法の一つであると書かれてある。診断ではなく研究の方法である。

酒井教授はこの新しい方法を使って言語に関して脳のどの領野が活動するかを研究されている。脳の状態が見ることができないうちは、チョムスキー教授の言語生成説は誰も立証することができなかった。いまでは脳の領域に言語野という中枢が存在していて、文法の正誤をも判断する機能も備えていることが分かってきたのである。チョムスキーとの出会いがあり、fMRIの出現があり…と、酒井教授はまことに強運の人だと思う。

教授は駒場時代に進路に迷っていたころ、寺田寅彦の言葉で迷いが吹っ切れたと話している。

学生の時に接した寺田寅彦の次の言葉は、私の迷いを見事に払拭してくれました。

「サイエンスは一つのものです。物理学をやるにしても、他の多くの部門の知識が必要です。自分の専門以外のことをちっとも知らなかったために、回り道をしたりして、つまらぬ損をすることは少なくありません。けっしてフィールドを狭くしてはいけません」(「進学の決定論 -物理から脳、そして言語へ- 」)(http://park.itc.utokyo.ac.jp/agc/news/46/sakai.html )

酒井教授のこの文章には一瞬とまどう。えっ!学生のときに寺田寅彦に接したの !? まさか…。これが日本語なのだ。だが、ここは講演を文字化した文であり、もとは音声による言葉だから「接した」のは「寺田寅彦の次の言葉」だと聞き手は理解できる。これが脳の仕業なのだ。

その酒井先生が説明によく提示する例文には、「みにくいあひるの子」とか「かっこいいサカイセンセイのじてんしゃ」などがある。これらはあいまい文であるけれども読んだ人や聞いた人が文の意味を取り違えることは少ない。文脈だとか抑揚だとかで、その場にふさわしい解釈をする。それは脳が文の構造を判断する働きをするからだと説明される。いわば本能である。

「みにくいあひるの子」を例にして、AIによる翻訳はまだまだ実用に遠いことを書いたwebへの投稿を見た。「みにくい」が 英語では hard to see になるとあった。google翻訳を試すと、たしかにそうなった。「みにくいあひるの子」と入力しても何故かそのままでは受け付けない。たぶん、かな文字の読み分けができないためだろう。「みにくい」を「醜い」と表記すると、uglyと返してきた。

酒井教授は、形容詞「みにくい」が修飾するのは「あひる」か「あひるの子」かという構文解釈の課題では、正解は後者で、AI論議の場では、ただしい英訳は ”The ugly duckling” だと話している(https://www.sakai-lab.jp/media/20201130-090519-465.pdf)。

構文についての問題はチョムスキーの『統辞構造論』(1957)を借りての酒井教授の例文であるが、脳が解釈して正しい構文を導く例として使われる。提示した図像は左脳の言語野に存在する単語、文法、音韻、読解の各分野を示しているが、これらが相互に情報をやりとりした結果が人間の発話や文に現れる。脳に情報が伝わったときにどの分野が活動するか、fMRI装置を用いて神経を伝わる電流に脳の各部分に赤や青の色を表示させて判定することができる。別の実験では脳が文法(ことばの並び方)の正誤や文の意味の有無判定をする機能を持っていることも判明している。これはチョムスキーが「統語論」と「意味論」は別個であって関係しないとする主張を補強しているのだそうである。文法は自然の産物であって生得的に脳に備わっているが、「意味」は人間が作り出した産物である。どの言語が母語であろうとも、土台となる基本的な言語システムは変わらないのだそうだ。

クレオールという音葉の種類がある。植民地などで異民族の間にかわされる共通語をさすが、その言語ができ上がってくる過程は子どもが始まりだそうだ。クレオールのもとはラテン語で「創造する」との意味がある。アフリカ各地から集められた奴隷が働かされたカリブ海域のフランス領植民地をさしてクレオールと呼んだ。奴隷は雇い主のヨーロッパ人の言葉を理解できないし、奴隷相互も生まれ故郷が別々で互いの言語も通じない。家庭を持たない奴隷集団に生まれた子どもは大人のやり取りする不完全な共通言語(ピジン言語)で育つが、ピジン語には仕事に関する言葉だけで、人間生活全般におよぶ語彙も文法もない。そういう中で子どもたちは共通の言葉の語彙と文法を身につけて育つ。子供の成長と同じくしてクレオール言語も発達する。こうしてできあがるのが各種のクレオール言語で、スペイン語系やフランス語系などの広がりをもつ。参照した西谷修氏の説明には「興味深いことに、語彙はもとになる言語によってそれぞれに違うが(それでも共通語も多い)、文法構造はたいてい似通っており、それが人間の言語形成能力に関して様々な憶測を呼び起こす」とある(『クレオールとは何か』シャモアゾー+コンフィアン著、西谷訳 平凡社 1995年)。ここにはまさにチョムスキーの唱える「普遍文法」が生得的に文法構造を知っている子どもたちによってみちびかれて、クレオール語という自然言語が生成される事実が示されている。

酒井教授が話す興味深い例は手話のクレオール化である。80年代半ばにニカラグァのろう学校の子どもたちが手話を使い始めた。10歳ぐらいの子どもたちが上級生に教えながらジェスチャーをクレオール化する。この能力は小さい子だけが持っていて上級生はできないのだそうである。これも言語生得説の裏付けになる貴重なデータだという。ちなみに日本手話も明治初期に誕生したそうだが、ろう学校で日本語を教えていたところ耳が聞こえない子どもたちは、音声が入ってこないのでジェスチャーをクレオール化して初めて手話が生まれたそうだ。ただ残念なことに、その場には言語学者も脳科学者もいなかったので、その新たな言語誕生の瞬間は記録されなかった。いづれにしても、子どもだけが自然に作られた構造を持ち続けているのが人間の言語であって、大人の考えた言語は自然に合わないと酒井教授はいう。

話がすこし飛ぶが、日本語のテニヲハの使われ方は未だにうまく説明されていない。「お茶が飲みたい」「水がほしい」など、のどをうるおしたい時に自然に出る言葉に現れる「が」はどうしても説明がつかない。文法的には目的語の「お茶」「水」には「を」が使われるべきであるのに、である。「が」と「は」の使い分けも日本語の大学者さんには頭痛の種だ。それが本能だからそうなっているとの説明で済むなら教師はおおいに助かる。学習者は一時は困るだろうが自然言語だからじきに覚えることだろう。やたら肩肘を張るだけの「学説」がなくなるだけ朗報だ。

ここに思いつくままに述べたような研究のためには、相当に広い範囲についての知識が必要であり寅彦の言葉そのままである。言葉の次には心の問題がひかえている。心も脳のうちであり物質的には神経細胞である。心について考える場合にも言葉が使われるはずだ。お互いが気持ちよく言葉が通じ、さらに心も通じたと感じる場面は誰しも経験するところだ。あの感慨はどこからもたらされるのだろうか。酒井教授は既に心に関しても脳言語学の立場からの著述もあるようだが、当方はまだ手も頭もまわりかねる。

(参考記事)○https://www.jsps.go.jp/j-jisedai/data/life/LS030_outline.pdf日本学術振興会 最先端・次世代研究開発支援プログラム「脳は電気的信号を発する無数の神経細胞で形作られたネットワークである。」掲記websiteに明快な図示がある。

○http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/index.html 「脳の世界」 三上研究室、中部学院大学

○https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku2/kioku2_2.html 日本学術会議 おもしろ情報館

参考にした本:酒井邦嘉『脳を創る読書』2011年 実業之日本社     

         同 『脳の言語地図』2009年 明治書院

 (2021/12)