2016年10月23日日曜日

古代史拾い読み(その4)日本語の誕生

『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年から

「日本人」とは倭人、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人など日本列島に雑居していた諸種族の総称である。これらの諸種族を全部カバーするアイデンティティーとして「日本」という概念が生み出された。では、日本の建国はいつかというに668年に天智天皇が大津宮で即位したときとする。この即位という行為はその前に制定された近江律令の規定によって定められた国号「日本」と王号の「天皇」に基づいている。この建国は何を意味するかといえば、唐・新羅連合軍の日本列島への侵攻に備えて、それまでたくさんの集団に分かれていた列島内を統一して唐・新羅に対抗する勢力をつくることであった。663年に皇太子中大兄皇子が指揮する倭国艦隊が白村江の海戦に敗れたことが契機で、中大兄が統一のための建国事業に着手し、飛鳥宮から大津宮に遷都し、自ら即位して天智天皇となった。

さて、雑居民からなるこの時代の日本で行われていた言語の状況はどんな風であったか考えると、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人それぞれ漢語の方言を使っていたと思われる。倭人はもともとの原住民であればいわゆる土語であり、韓半島にいたことがある倭人はそこで使っていた漢語の方言だったろう。列島原住の倭人は文字を持たず、政治や経済の語彙もない。倭語共通の方言もない。倭人は商業種族ではなかったから共通語を普及させられなかった。結局どのグループもお互いの間に共通する言葉はなかった。シナの漢字方言では文語に近い言語でなければ漢字で書けないということがあるそうで、現代の広東語は漢字で書けるが福建語ではできないという。
岡田氏の考えでは、七世紀までの日本列島で、共通語の役割を果たしたのは、南朝のシナ文化の影響が強い百済方言だった。百済語も、ほかの華人の話す口語よりも、漢字で綴った文語に近い言語だったからである。
漢語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が漢語だったから、新羅と対抗して独立を維持するには、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った漢語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探し出してきておきかえる、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。 
日本語の誕生直後の姿は、『万葉集』のなかに見ることができる。以下すべて岡田氏の受け売りである。
『万葉集』巻七に載る「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」とことわった歌は倭語の書き表し方から見てもっとも古風であるという。たとえば、
「天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見」は「あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ」と読む。表し方の基本は倭語の単語を意訳した漢字を、倭語の語順に従って並べる。意訳には当て字を使う。「丹」は「赤色の土」の意味だが、倭語では「に」といったことを利用した。倭語の動詞には語尾変化があるが、漢字には語尾変化はない。「たち」は「立」と書くが語尾の「ち」を送らない。「榜」も「隠」も意訳漢字で書き表すだけで語尾は送らない(「榜ぐ」こぐ)、「隠る」かくる)。助詞は漢字の助字で意訳することもあり(「之」)、しないこともある(「天の」の「の」を省く)。こういう書き方は漢文の一種ともいえる段階の文体であろう。
日本語の成長の第二段階は、『万葉集』巻一の天武天皇の歌に見られる。
「紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方」は、「むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも」と読む。ここでは、どの一句にもかならず意味を表す漢字が入る。そして、それぞれに倭語の音訳漢字を添える。音訳漢字を平仮名で置き換えると、次のようになる。
「紫草の にほへる妹を にくく有者 人嬬故に 吾恋めやも」。また「め」を「目」、「やも」を「八方」のように、発音は同じでも意味が違う倭語を表す漢字、つまり当て字を使っている。岡田氏はこれを、原形では音訳漢字を連ねる「柿本人麻呂歌集」の歌のようなものだったのを、『万葉集』の編者が書き直して読みやすくした結果、このような書き方になったのであろうとしている。
第三の段階は八世紀初めの山上憶良に見ることができる。『万葉集』巻五の「貧窮問答歌」の反歌は、次のように書かれている。
「世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆」 
これは、「よのなかを うしとやさしと おもへども とびたちかねつ とりにしあらねば」と読む。名詞の「よのなか」を「世間」、「とり」を「鳥」、動詞の「とびたち」を「飛立」と書いているのだけが意訳漢字で、それ以外の倭語は、動詞、形容詞、助詞すべて一音節に漢字一字を当てて音訳してある。このようになるまで半世紀かかっているが、あとは漢字意訳をなくすれば、漢語から完全に独立した国語になれる。
『万葉集』巻十四「東歌」の書き方が次に来る。
「可豆思加乃 麻万能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母」は、「かづしかの ままのうらみを こぐふねの ふなびとさわく なみたつらしも」と読む。この書き方になると、もはや名詞その他の品詞の区別なく、倭語の一音節ごとに漢字一字が音訳して当てられている。完全音訳のこのやり方で、日本語は、漢字を使いながらも、漢字から絶縁して、独立の国語の姿がとれるようになった。
『日本書紀』は天武天皇が681年に編纂を命じたが完成まで39年を要して元正天皇の720年に完成した。この間に倭語の歌謡の表記について、編集方針に変更があったらしいことがわかる。最初は歌謡はすべて漢字意訳でなされていたが、のちに完全音訳が実現して、現行本では一音節一漢字の音訳になっている。
岡田博士は『万葉集』を日本語発明の記録であるという。上のような説明の後に「こうして、新たに生まれた日本語は、ようやく漢字を離れて、耳で聞いても多くの人にわかるようになり、国語の資格をそなえるところまで来た」と述べているが、この「漢字を離れて、耳で聞いてもわかる」というのはどういうことだろうか。漢字で書かれていても、それは漢語を書いた文字ではない、漢字のような文字だが日本語音を持っている文字、つまり日本文字だということと解してよいかと思う。このあとに続く説明には「次の段階では、何かほかに一音節一字の文字体系を考案して、音訳にも漢字を使わないことにすればいい。そうすれば、表意文字である漢字との最後のつながりも切れて、日本語は完全に音声だけの、漢語から独立した国語になれる」と書く。ということで、平安時代には音訳漢字を草書体にした平仮名と、筆画の一部だけをとった片仮名が出現するにいたる。
古代史の書物でありながら、日本語論の一部をこれだけ面白く説明してくれたものは、ほかにはあまりなさそうである。岡田氏はまだこのうえに仮名文、散文など続けて述べられているが、日本語の誕生として題するのはこの辺で終わろう。
これまでの説明にある一音節一漢字は、いわゆる万葉仮名として私たちに親しい文字である。万葉仮名は上に述べられたような漢字を崩した草書体で書いた文字で仮名とはいいながら実は漢字だったわけだ。変体仮名とも呼ばれる。江戸から明治への時代に活版印刷が始まると次第に衰退したのだから、考えればずいぶん寿命の長い文字であった。江戸時代の公文書は草書体であったということを何かで見たが、平安時代も同じだったことになる。話は飛ぶが、いまの人間のほとんどが読めない草書体の変体仮名をコンピュータで扱うことがずっと研究されているそうだ。文字コードは大体できたが、フォントの開発に時間がかかっているとも聞いた。楽しそうな話だが筆者の目には入らずに終わりそうだ。(2016/10)






2016年10月12日水曜日

読書随想 足立巻一『虹滅記』朝日文芸文庫1994年、朝日新聞社


著者は九歳で孤児になった。ただ一人の肉親の祖父が目前で浴槽に沈んで頓死した。大正十年、享年六十五歳。
生後3ヶ月で父親の急死に遭う。母は遺児に思いを遺しながらも去り、生活の手立てを持たない祖父母と暮らすが、やがて祖母も死ぬ。富商の後家に貰われて育った祖父は漢詩文を得意とする漢学者ではあるがすでに時代に合わない。他に仕事を持つどころか銭勘定も、ひとりで電車に乗ることも出来ない生活無能者である。この頃すでに資産を食いつぶしたあとは孫の手を引いて縁者を頼る乞食同様の暮らしであった。祖母の香典の残りで孫と二人長崎に戻ってはみたが、頼りにした菩提寺にも入れてもらえず、気立ての良い質屋の妾宅に間借りしていたころ銭湯での急死である。

残された孫は縁者を転々と移りながら養われて成人した。中学二年の頃、母と再会して神戸の伯父の家で共に暮らす。神宮皇学館を卒業して国漢の教師となる。招集されて大陸で軍隊を経験し、やがて再び招集されようかという昭和十八年、小さな本を出版する。新聞で広告を見たかつての祖父の門人から、もしや足立敬亭先生の孫さんではないかと問い合わせが来た。

実は、ここからこの本の物語が始まる。ここまでのことは物語のなかで、あちらこちらにそのときどきの出来事やら回想やらを綴りながら読者に知らされる。文庫本のカバーには評伝文学の名作とある。1994年に日本エッセイストクラブ賞を受けている。やはり小説というよりエッセイに近い作品であろうと思うが、半ばドキュメンタリーでもある。

カバーの題字「虹滅記」の「虹」の漢字の偏には「ノ」がついている。文字の出典は不明だが、「虹滅」という熟語も祖父の創造らしい。照り映えていた美しい虹が俄に消えてしまった。哀惜の想いがこもっている。慈しんだ長男の急死を録した漢文に見出される。長男の足立菰川の遺稿「鎖国時代の長崎」を浄書していた祖父が凡例に遺した。「著者俄に虹滅し去る」と。

著者が顔を知らない父親は苦学して五高に進み、京都帝大法科大学を卒業して「二六新報」に入社、論説記者として活躍するが、大正二年腹膜炎で急死してしまう。享年三十三歳。

変わり者の漢学者敬亭はひどい吃音であったが、漢籍の講義では極めて流暢になった。暮らしには無能だが好色であり、女義太夫に入れあげて家庭争議を起こしたりした。
物語冒頭に登場する門弟から著者は遺稿の漢詩文集のうち「秘著の部」二十四冊を返還される。題簽に見える文字から明らかに春本の漢訳集とわかった。その他大部分の遺稿は敬亭死後神戸の親戚に送られていたが、転送されて預かった菩提寺から行李いっぱいの荷物となって著者の手許に戻ってきた。
このとき中学生の著者はその中に大事な書物が含まれていないことを直感的に知る。それが実は父菰川の作品「鎖国時代の長崎」なのであったが、昭和十二年夏、長崎を訪れた際に旧友に誘われて郷土史家古賀小十郎を訪ねた際、同氏が偶然にも紙くず屋から買い戻して所有していることを知った。

著者が実際にその原稿を見ることが出来たのは遥か後の昭和四十年、長崎県立図書館であった。古賀氏は物故していたが同氏宅は原爆被害を免れ、蔵書はすべて古賀文庫として図書館に収められていたのだった。
そこにつけられている「凡例」にこの稿の生い立ちが述べられ、著者菰川が京大在学中に作述を志し五年の歳月を費やして書き上げたものを、菰川没後敬亭が浄書した、父子双方の思いがこもった作品であることが理解できる。
浄書完成の大正四年、著者巻一氏は二歳三ヶ月であり、記憶にあるはずもないが、
この『凡例』を讀み終わったとき、くらいランプの下で、息子の遺稿をたんねんに毛筆で書きついでいる敬亭の顔が見えた。眉が濃く太く、目がギョロリとして鼻梁は高い。いつも白髪まじりのかたい無精ひげがさかだっている。その顔に深い影をきざみこみ、目を充血させたようにして、関節のふとい指で、一字一字彫りきざむようにして書いたのであろう
と述べている。
肉親、育ての親など著者の周囲にあった人たちで最も著者が親しんだのは祖父敬亭であろう。第一章を敬亭と題してその変わった人物像の一端の紹介に費やす。そもそも祖父がもらい子だったことに読者は軽い驚きを覚えるだろう。
生後すぐ、海老屋という長崎屈指の富商の後家にもらわれて育てられたというが、実家はどうしてもわからず、ただもらわれてきたときに上等の大小刀が添えられ、海老屋がもらうぐらいだから相当由緒ある武家の子であろうとうわさされただけである。
海老屋についても著者はルーツ探しのようにして徳山湾の大津島に渡って調べる。すでに過疎化の様相がみられる島では一向に要領が得ず、炎天下を百五十二基の墓をしらみつぶしに当たる場面では読んでいるこちらも汗になる思いがした。
辛うじて見つけた古い墓には本家で見た戒名があった。菩提寺に嫁入った祖父の義妹から伝えられるのは先祖は代々通詞であったこと、墓碑銘に蘭谷院とあることから阿蘭陀通詞だったらしい。回天記念館長は公民館長の兼任、その人は島の歴史を調べても全くわからないと言いながらも、島の沿岸はエビ・アワビの宝庫で徳山藩の隠し財源だったから誰が宰領していたのか記録がない、と教えてくれた。本家に伝わる文書には「俵物」交易のことが出ている。総合すれば初代は徳山藩と繋がりが出来て俵物の出荷を取扱い、柳河藩とも繋がって御用商人、両替商として蓄財する。エビを扱っていたから海老屋なのだ。大筋が理解できるようになる。
このあたりはさながら近世日本経済史であるが著者の探索にあたる執念に驚かされる。一基だけ発見した墓石から目の前がひらける。まるでご先祖様の手引ではないか。しかし、明治維新で銀目が停止されると両替商は倒産し、廃藩置県による藩が消滅すると藩に用立てした大金が焦げ付く。これらが原因で海老屋本家の家産が傾き、一方分家には被害少なく生き残る結果をもたらして両家仲違いという不幸なことにもなった。著者の祖父は分家の筋だったが墓参しても墓の位置に疑念が残っていたりする。

この作品にはやたらと養子縁組が出てくる。親戚付き合いのほとんどなくなった筆者などには不思議で仕方ないが、これも時代であろう。養子をもらって、協議離縁となり、再養子、再々養子まで出てくる。また、戦時中疎開のやむなきに至ったまま親戚付き合いが絶えたと嘆く遠い親戚にめぐりあい、これで心強い、どうか今後は親戚付き合いをよろしくと頼まれたりする。人々の血縁に対するこういう思いはとうに薄らいでいると考えていたが違った。東北の被災地の老人たちが知らない人ばかりの土地には行かないと根の生えたように動こうとしないのもこれだろう。互いを思いやる心根は日本人の古い文化の根っこかもしれない。

日々の暮らしの多忙さの合間を縫って著者は度々長崎を訪れる。その都度何かしら新しい発見があるが、それだけでなく父親の遺稿に関連して土地の風物や伝統行事を伝えてくれる。年々薄らぐ昔ながらの濃厚な雰囲気が記録に残される。長崎くんち、紙鳶あげ、精霊流し、唐寺の盆祭など。

父子二代続いた依田学海との縁、ほか明治の漢学者のこと。急激に消えてゆく漢学文化の消滅は異常とも思える。著者は祖父、父、自分とつながる血筋にまつわる縁を語りながら、日本近世をも伝えるという重厚な作品にしあげた。暗い話の連続で地味ではあるが名品といえるだろう。

長らく本棚に収まったまま読んでいなかった一冊。実は幾度か開いてみては閉じる繰り返しを重ねた。とっつきが悪いのだ。この度入院するにあたってこの一冊を選んだ。ほかにすることのない病室でようやく讀み終えた。終わってから思い返すと何やら懐かしい半面よくわかっていない部分がいくつもある。養子で入り組んだ系譜もそうだ。相関図のようなものを描いたりして考えた。人の世のめぐり合わせと人間のいじらしさみたいなものが後味として残った。

個人的に興味をひいたのが大津島での調査でわかった過去の記録の実態である。各家に仏壇があり、その引き出しには過去帳がある。けれども他人には見せられないという共通の掟のようなものがあるらしい。寺の住職でさえ過去帳の中身は「本山からきつい達しが来ている」から見せられないと断られた。墓の在り処は寺では関知しないという。
過去帳を見せられないのはなぜだろう、疑問である。現在なら個人情報とか言って管理にうるさいが、昔ながらにどうしてそうなのか。滅亡した大内家家臣の隠れた島ということで暗黙のうちに秘密が守られるというようなことだろうか。
また、海老屋の文書で見た忠四郎という名が代々襲名されて現存すると聞き込んだので訪ねたが徳山で仕事をしているため留守であった。表札を見ると足立ではなく安達となっていて落胆する。置き手紙をして帰郷したが、間もなく届いた返信にはお尋ねの戒名は我が家の先祖だとあり、姓がもとは足立であったとわかる。これが本命だったのだ。過去帳はお見せ出来るからお出でを待つとあった。お互い親戚だと判明したから見せることが出来るという意味にも取れる。
島の古老がいうには墓石は百年経ったら新しくするそうで、表面を削って新たな文字を彫ると教わった。これでは古い墓は探りようがない。このような閉鎖社会がつくられているのでは、生きている人に古い話を訊いて回るほか歴史は探りようがない。地方史や郷土史の研究の難しさを改めて教わった思いがする。
それにしても著者足立巻一氏の先祖探しへの執念は血縁の薄い生い立ちのため格別なのだろうか、それが立派な作品に成就したことにお祝いを申し述べたい気持ちである。
(2016/10)