2023年11月11日土曜日

38年前の事件ーー日航123便墜落

阪神タイガースが日本シリーズで優勝した。38年ぶりだという。前のときは芦屋高校の同級生が紅白饅頭を送ってきた。今のマンションに越してから18年、それよりずっと前のことだ。昭和のあとは平成だ、そして令和だと日本の年号は通しで年数を計算するときは厄介でしかない。38年前は西暦の1985年だ。そうであるなら、別の事件がある。御巣鷹の尾根に日本航空のジャンボ機が墜落した。1985812日。8月の記念日、広島、長崎、敗戦にもう一つ加わった。全部追悼の日だ。

と西武沿線の自宅まで弔問に伺った。娘さんの結納の直前だったが、その婚約が沙汰止みになったと聞いた。覚えているのはこれくらいで、ふだんは忘れている。

 帰宅して着替えしながら眼をやったテレビの画面は犠牲者の名前を流していた。同期入社の友人の名もそこにあったはずだ。大阪で単身赴任の彼が遭難したと知ったのは、その後の新聞であったかもしれない。しばらくして同僚たち


柳田邦夫『マッハの恐怖』(1986年)を読んでいなかったので、先ごろ読み始めた。図書館にあった柳田責任編集『同時代ノンフィクション選集第9巻 技術社会の影』(1992年 文藝春秋)で読んだ。四日市・水俣の公害と航空機事故が2篇入っている。「マッハの恐怖」と墜落の夏―日航123便事故全記録(吉岡忍)だ。

私はこの吉岡氏の作品で大事故の有様をあらためて知った、というより学習した。「遺体」で一つの章を立てている。1キロ四方に及ぶ墜落現場には人体の形をした遺体がほとんどなかった。収容だけでなく検屍、身元特定などの手続きが想像以上に難航した。作家にとって書くべき物語が無数に生じた。後に情報開示請求訴訟の原告になる吉備素子氏は乗客であった夫の遺体が発見されなかった。彼女は最後まで諦めず、すでに腐敗していた多数の肉片骨片などを一つひとつ検め、ついに右足の一部を、子供の遺体に仕分けされていた箱の中から見出したのだった。

多くの遺体が異常な有様であったことを初めて知った。亡友は、はたしてどのような状態で棺に収められたのだろう。今更ながら自分の迂闊さ・想像力の欠如を反省した。事故の当事者であった日本航空は棺を520用意していたらしい。私も日本航空会社も事故に対する感覚は、常識的で所詮通念でしかなかったということだろう。だから、このたび往年の航空事故の記録を読み、関連事項をインターネットなどで自分なりに探索して、38年も経た今もなお裁判が僅かな人たちによって密やかに、しかし公然と続いている事実に驚いたのである。

そもそもあれだけの大事故なのに一度も裁判が行われてはいない。日本航空(半官半民)もボーイング社も運輸省(当時)の責任者たちについても刑事訴訟は全部不起訴であった。損害賠償請求の民事裁判はすべて和解で終わっている。事故はどうして起こったのか、モヤモヤ気分のままに過ぎている。

政府の事故調査報告書には、圧力隔壁が過去の損傷修理の不適切により経年疲労をきたした結果破裂したことが尾部破壊に至ったとしている。平米あたり6トンの圧力がかかる隔壁が破壊して生じる客席の急減圧に人は耐えられないはずが、後部座席の4人が生存しているのだ。垂直尾翼喪失に至る可能性が疑われる原因は他にあるべきだ。

インターネットに、アメリカの大衆科学雑誌『ポピュラー・メカニックズ』の「最悪の墜落事故、JAL123」という記事がある。ことし、2023622日の日付がついている。また、85日の日付で雑誌『エスクァイア』も同じ記者アンドリュー・ザレスキによる同様の記事を載せている。38年前の日本の事故がなぜ今頃米国で記事になっているのか。

読んでみると、半世紀飛び続けたB747(ジャンボ)がこの1月に1547番機をもって製造が終わり貨物航空会社に引き渡されたことが報告されている。JAL123便では、最悪の事故となったが、B747は非常に優れた航空機であることを伝えている。ボーイング社は事故原因を、7年前の大阪空港での「尻もち事故」によって損傷した圧力隔壁の修理ミスが引き起こしたと認めることで、事故機を全世界を飛んでいる600機の747全体から切り離して、ボーイング社の信頼性を維持したのだった。旅客運送部門では燃料負担が大きくなって今後就航しないことになったけれども、貨物運送では操縦席下部の開口部の特徴が他に代えられないことで2050年まで飛び続けるだろうと書く。B747への信頼度は高く、アメリカの大統領専用機エア・フォース・ワンなのだ。

記事はその一方で、ひとりの英国人女性遺族の口を借りて、このJAL123便事故の真因が極められていないことを訴えている。相模湾からの尾部残骸引き揚げをしない日本の事故対応が不十分なことを衝いているのだ。

青山透子氏の『墜落の波紋、そして法定へ』(2019年河出書房新社)は事故経緯追求の過程を記した書物である。事件は日本政府の公文書管理に詳しい三宅弘弁護士の無償協力を得て裁判が進められている。青山氏は日米公文書の博捜からはじめ、墜落現場や目撃の記録、事故調査記録などの精査によって数々の疑惑を拾い出した。私が読んだ限りでの極め付きは、外部からの飛来物によって垂直尾翼が破壊されたとの疑惑である。このことにより、事故が事件に変わった。

ときの総理中曽根康弘にアメリカ大統領レーガンが事故2日後の814日付で見舞い状を寄せている。外務省官僚はその一連の文書に日本語メモで墜落事件と書いている。用語遣いに厳格な官僚が当初からすでに事故と言わない。

中曽根回顧録を調べた青山氏は、「米軍がレーダーで監視していたから当然事故については知っていた。あのときは官邸から米軍に連絡は取らなかった。」「私が合図するまで公式発表はならぬ」などの中曽根発言を確認している。当時は自衛隊は日本政府を介さずに米軍と直接連絡を取り合う関係にあった。

フライトレコーダーによって尾部に外的衝撃のあったことが読み取れ、その原因は自衛隊が開発中であったミサイルの模擬弾が命中によることが考えられる。

異常外力着力点と称されている尾翼の箇所が事故報告書に図示されていながら説明がない。模擬弾には炸薬は充填されていないから爆発はしない。その箇所から尾翼の破壊が生じたと想定されるが、その物理的経緯は現物に当たるほか究められない。その残骸は相模湾の海中に沈んでいる。相模湾に浮かぶ破片を拾い集めたのが、上空で「ドーン」という音がした時間に海上で公試中であった護衛艦「まつゆき」だった。「まつゆき」について公文書を請求すると不存在との回答が来た。尾部の主要部は手つかずで今もなお海中にある。深さ160メートルの海底にある残骸は、費用をかけるほどのものでないとして引き揚げ要求に応じない。事故調査委員会を体調不良で辞任した八田委員長に代わった武田俊氏は、沈んだ残骸を引き揚げよと遺族に詰め寄られたとき、思わず「引き揚げて余計なものが見つかったら困る」と言った。おかしなエピソードが残ったものだ。

フライトレコーダーには、11トンの前方への圧力が加わったことがデータに遺されている。「ボーン」という大音響がした時刻だ。機長が発した「スコーク77」(注:SOSの信号)の時刻と重なる。その部分はレコーダー公開に当たって隠されている。

事故報告書は、事故原因が隔壁破壊にあると結論している。しかし、初期の事故調査委員会による現場検証では「隔壁はほぼ完全な姿で発見された」とあった。何かがおかしい。奇跡のように生き残った4名は後部座席で発見された。隔壁破壊で客席の圧力が急激に低下したのなら、生存した落合由美さんの話とは整合しない。圧力低下は僅かであったはずだ。吉岡氏の作品を読んでいると、このあたりには感じられる何かが漂うから不思議だ。吉岡氏の作品は最近絶版になったようだが気の毒である。

墜落現場で救援隊到着が異常に遅かった一夜の間に、自衛隊は圧力隔壁の残骸を電動のこぎりで裁断してしまったという。せっかくの証拠品をなぜ早々と廃棄したのか。公刊された書物の他にもなにかと問題がありそうだし、最近でも元自衛隊員などが当時を語る記事を見ることもある。

青山氏がこの事故の秘密を打破する方策は情報開示請求にあると思い定めた結果の裁判がいま進行している。インターネットには、すでに控訴審の一審、二審とも棄却されたことが載っている。

先行きに暗雲漂う機運も感じられて、この国のあり方に一層の不満が募る。

参考: https://bit.ly/2w2TvlU 森永卓郎氏の記事

読んだ本:柳田邦夫「マッハの恐怖」*

               吉岡忍「墜落の夏―日航123便事故全記録*

      *2点は『同時代ノンフィクション選集第9巻 』所収(1992年 文藝春秋)

     青山透子『圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社 2020

      同  『JAL裁判 日航123便墜落事件』(同 2022

      同  『墜落の波紋 そして法廷へ』(同 電子本 2022

     堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』(平凡社 電子本2018

インターネット:『Popular Mechanics』The Worst Airplane Crash Ever, by Andrew Zaleski ,          Jun. 22, 2023

        https://www.popularmechanics.com/flight/airlines/a43945732/jal-123-plane-crash/

      『エスクヮイヤ』「JAL123便墜落事故の原因」2023/08/05

 https://www.esquire.com/jp/news/a44500136/jal-123-plane-crash/Popular Mechanics の抄訳)

(2023/11



 

2023年10月2日月曜日

読後感想  辻原登『村の名前』

 辻原登については前回当ブログの『闇の奥』(2010年)


のほかいくつか読んでいるが、芥川賞を受けたのは一体どんな作品だろうかというのが本作に近づいた契機だった。「文學界」19906月号に発表され、同年第103回芥川賞を受賞している。この作品も現実と幻想のあわいをゆく物語でありながら読者をうまく案内する手腕はさすがであると感じた。舞台を中国奥地に設定して桃源郷が出てきたのでまたかという感じではあったが、こちらの方が初出であり、『闇の奥』のほうが二番煎じである。

日本商社の青年社員橘が畳表をつくる藺草(いぐさ)を求めて中年のビルマ戦線経験者である畳販売業者とともに中国奥地に向かうとの設定である。

行きつく先は奥地の桃源県桃花源村と出ているが、現実の地図で湖南省に実在する。香港経由で広州まで1日半、その後予定した空路が故障で列車に変えて17時間、更に奥地目指してトヨタのヴァンで目的地に着くという強行行程だ。ネットで目的地を探っているうち桃源郷のモデル『湖南省桃花源村』が私の故郷です」という投稿が出てきた。地図で見た通り湖南省常徳市の郊外、現在でも上海経由で飛行機乗り継ぎとバス5時間で1日半かかると書いている。桃源郷というのは陶淵明の創作詩『桃花源記』がもとになっているが、常徳市の他にも桃源郷の名を持つ地名が別の省にもいくつかあるらしい。繰り返すが、『村の名前』は常徳市郊外の桃花源村に題材をとっている。現在の桃花源村は豪華な観光地になっている模様で写真も多いから、小説の読者はとりあえず現実地域の探索はよして、作品に没頭して主人公たちの旅程と気候の苦難を味わうことが肝心である。その後で現在の現地状況を知ってみると作者が文章の裏に秘めた事情が透けて見えるような気がする。

貧しい村に踏み込むと終始あとをつけてきている公安がすかさず立ち入り禁止を申し渡す。夜間に宿泊所で騒ぎが起きたのは殺人事件で、パトカーが来たと思ったのは県の公安だと教えられる。これらのことの裏には常に中央政府の圧力が一部人民にかかっている事情が読み取れる。現在わかりやすいモデルはウィグル自治区を考えればいいだろう。似たようなことが桃花源村で起こっていて、作者は上手に幻想ででもあるかのように書き記していると筆者は類推した。

作品の中で論理的に無理があるかのように見える箇所は、いつのまにか相手との言葉の壁がなくなっている場面であろう。これは遂に近づき得て親しく話を交わせるようになった相手との場合に起きる状況だ。チョムスキーの唱えるように自然文法がなせる状況だと思えば不思議ではなくなる。まして主人公はカタコトの中国語が話せて、一方広大な中国奥地では様々な中国語が交わされている状況があるから、同じ中国人の間でも話し言葉が通じないのは日常的である。

物語の終わりに向けて強引な妥協案が持ち出される。日中ホテル建設協議書にサインを迫られる。藺草の件は任せろと言わんばかりだ。ここでサインをしなければ無事に帰国できる保証はないという状況に追い込まれる。ここで読者は、というより筆者は現在のインターネット上の旅行案内に豪華なホテルが多数紹介されている状況に思い当たるのだ。ついで持ち出された藺草契約書に橘青年は辛うじて、製品見本照合の上、との一項を書き加えて署名した。翌朝エンジン音がして迎えの車が到着するところで物語は終わる。

本作の執筆当時、中国や桃花源村の状況についてどれだけ作者が知っていたものか全くわからないが、後に『翔べ麒麟』など題材を中国にとった作品などがある作者には、それなりの情報があったと考えてよかろう。一方、芥川賞選評の中にはこういう裏事情に関することは一切見られない。評者や編集者の中には知っていても表面には出さない慎重さがあったのかもしれない。筆者は大逆事件に題材をとった『許されざる者』で作者の思想傾向を知り得ていたため、作品中の端々からここに記したような作品背景を勝手に想像したまでである。結論として本作は芥川賞にふさわしい出来栄えであるとされたことに異論はない。

この度本作を読んだ電子本には『村の名前』のもとに『犬かけて』という別の作品が併載されているが、筆者の興味が今ひとつなので感想は記さない。

読んだ本:文春ウェブ文庫版『村の名前』2002年     (2023/10)






 

2023年9月2日土曜日

徒然の読書は記憶力の確認になった――辻原登『闇の奥』(2013年)

たまには娯楽的な本を読もうかと思っているところに、ふと作家辻原登さんを思い出した。

あの作品は面白かったなぁと思い返すが、なんでも京都の池の底の地底を走り回るという奇天烈な話だった。題名を忘れている。

ネットで探るとすぐ出てきた。『花はさくら木』2006年、大佛次郎賞の受賞が読むきっかけだった。

『許されざる者』2012年も読んだ。関心を持っていた大逆事件が背景にあった。結末に希望を感じさせたのが印象的だった。

どれもが私と相性が良かった。で、今回は『闇の奥』だ。

昨年終活の一環と考えて早手回しに本棚をカラッポにしてしまったので、紙の本はもう買わないようにしている。図書館に行きたいけれど、この夏は格別に暑いし、だいいちこの年寄りはもう足元がおぼつかない。次善の策は電子本になる。

何をするにもからだの老化現象に苛まれて、ことの運びが悪い。こまごました日常の暮らしの合間の読書となるが、記憶力の衰えが二度三度と同じ動作を促す。

新しいことほど覚えが悪いのが老年の特徴だそうだが、読んだ内容を切れ端で覚えているだけで述べられた事態の繋がりが悪い。今読んだことを話してみろと言われても、口が開けないほどもどかしい。これは発すべき言葉を脳が探しあぐねているのだ。

要所要所をメモしておいて、後でそれを見ながら読んだ内容を反芻してみることで一応納得するという始末である。いちいちこんなことをしていては、折角の作品が楽しめないから、フツウの人のように読み進めて楽しんではいるが、終わってから、頭の中がごちゃごちゃになっていることを実感する。

特に今回の読み物は脳の中の整理状態をあらためるのに向いている。

『闇の奥』という表題はジョセフ・コンラッドの小説の日本語版の表題と同じであるが、その原題はHeart of Darkness」である。この場合の「闇」はアフリカのコンゴの密林の奥で何が行われているのか不明というのが一つの意味であろうが、人物の足跡を尋ねて密林の奥深くに分け入る行動と不安ということでは辻原作品と共通する。

辻原版『闇の奥』は、当初『文學界』で7回に分けて、それぞれ現在の各章の題名で発表されたのを、合わせて単行本化された。そのときに本書の表題がつけられたと推定するが、それほど深い意味はないと思う。

辻原氏は末尾に参照作品を掲げている。その筆頭に挙げられている『東南 亜 細 亜 民族学 先史学 研究』は、1946年の出版である。この著者鹿野忠雄(かの ただお)こそ『闇の奥』で作者が三上隆と名付けて捜索対象にした人物のモデルである。蝶の採集や民族学の研究に打ち込んだ人。

辻原氏は和歌山県日高郡印南町(いなみ ちょう)生まれ、本名は村上博、父上は村上六三(ろくぞう)、日本社会党和歌山県議、1971年没。『闇の奥』には、父の村上三六(さぶろう)の遺品から、三上関連の情報を発見する息子村上が登場する。六三さんと三六さん、氏は茶目っ気の多い人だ。

今この文を書いている筆者も和歌山の人間の末裔であるので、大塔山系やら熊野やら、筆者が少年の頃馴染んだ和歌山市の地名や交通、戦後の産業の衰退ぶり、果てはカレー事件まで登場する本作はそれだけで懐かしく、その分一層楽しませてもらった。

先に書いたように、語られた作品をなぞるのにメモを取ったり苦心しているが、辻原氏は東京大学の講義で要約を作ることを教えているという。そういえば60歳過ぎての大学院でレジュメ作りを課されて筆者は大いに苦手にしたものであったが、いま『闇の奥』で読後の反芻にまごつくのもあながち老化のせいだけではないかもしれない、私には早とちりの癖があるのだと、妙に安心もしている。

辻原教授に従いて『闇の奥』の要約作りをしてみようと思いついた矢先、何気なく読み返し始めた章、「沈黙交易」の書き出しはまさにそれまでの物語の経緯の要約であった。労役の半分が助かった。

作者は三上隆とミカミタカシを区別して書いている。ミカミは幻想かもしれない。ラマ教のマニ車の秘儀によって一瞬にしてチベットから熊野の奥まで運ばれてきたミカミ。これはファンタジーだと作者が書いている。

ミカミはボルネオから長途を旅して中国奥地の麗江を訪ね、実在の探検家ジョセフ・ロックに会っている。ロックに矮人族のことを聞くとキングドン・ウォードの著書を教えてくれた。それが本書末尾の参照文書にある旅行記『 The Riddle of the Tsangpo Gorges』、 日本語 訳『 ツアンポー 峡谷 の 謎』( 金子 民 雄 訳)2000年 である。

はじめの章の喫茶店で、出水が稲葉と津金を小人(コビト)の部落探しに誘い出す。その結末は洞穴の奥で老人が手招きしているところで終わっていた。村上の父のテープの中で、「沈黙交易」の小人部落で出逢ったミカミは「彼ら小人の言葉を守れ、さもないと・・・」と警告する。作者はここに「不足為外人道也」と陶淵明『桃花源記』のくだりを紹介して、その意味は他言無用であると読者に教える。

だが、3人は掟を破った。3人とも死んだ。最後の出水はカレー事件で。小人は普通の人の社会に紛れ込み人知れず害をなす。カレー事件とは…、うまく結びつけたものだ。作者の遊び心と言ってしまっては事件の被害者に申し訳ないが。その上告棄却判決の日、息子はチベット行きを覚悟した。

続きは最終章を読んでのお楽しみだ。

作者辻原登さんは非常に広い範囲に興味をお持ちで、それを自在に作品に活用する。本作も例外ではない。ただ本作は全体の構成に無理が残っている感じがする。はじめはシリーズでの連作を意図されたのかもしれない。のちに発表された作品を一つにまとめることになって、やや齟齬が生じた。整理が十分できなかった。切り落とす部分とその分量を補って書き足す部分が必要だったように思える。娯楽性は十分だ。もともと材料が多すぎたのかもしれない。多分お忙しくなったのだろう。(2023/8)


2023年6月23日金曜日

年寄りにはパソコンがいい(その2)――アルバム整理と時の変遷

 紙焼き写真を収めたアルバムが傷んできたので、画像の保存とちょっと見たい時の参照手段を変えることにして、まずひとわたり眺めることをしている。

 取り上げたのは昭和561981)年10月撮影のヤマト、いわゆる「山の辺の道」近辺の写真だ。パソコンもインターネットもない頃で、道路地図だけで走り回っていた。撮影地点をインターネットに当たると、新しい風景や建物を中心に情報満載である。

パソコンもこの20年ほどの間に機器もソフトもすっかり新しくなっている。選択編集した画像をA4のクリア・ファイルに入れ、保存データは一旦ファイルに収めてから、まとめてハードディスクや光学ディスクに入れる方針にした。

 この文章はフリーソフトのLibreoffice writerを使っている。Wordとの使い勝手の比較のためだ。

作業は、元の紙焼き写真を複合機でスキャンして、エクセルで準備した方眼台紙に貼り付ける。編集は褪色補正とトリミング程度ならスキャニングと一緒にできる。スキャンが終わったあとデータを保存する場所の決め方には慎重さが要る。パソコンのファイル・ツリーが意図しない間に複雑になっている。ファイルの場所までの道筋ルートを強く意識しておかないと、データ探しに時間がとられる。弱った頭脳は機械の思うままに引きづられる傾向があるから要注意だが、すでに遅しであった。

さて、元のアルバムには撮影日付と場所がメモしてあるが、対象の説明はない。案内図などなしに飛び出してゆくので、道標を見つけて、あ、ここが「山の辺の道」かという調子だから由緒起源など説明は全部後付になる。現在のネットに教わって説明を加えると、写真の内容とは40年あまりの時間差がある。撮影時になかったものが今あるし、あったものがなくなっているということが当然起きる。これはこれで勉強になってよろしい。

三輪山平等寺という寺院がある。なかなか立派なお寺だ。それが当時の撮影では山門だけ写っている。

それも正面ではなく斜め手前からで、やがては朽ちるかとでもいう風情だ。何ゆえこの角度からだったのだろうと不審である。この場所については撮影時の記憶はまったくない。これがほかの、例えば檜原神社から二上山を望むとか、崇神天皇陵とかなら現場での印象を思い出すことができる。

こういうわけで、作り直すアルバムは簡易なものではあるが、体裁としてはそれなりの説明をつけておきたい。そうすれば、誰でもがまた見直して楽しむことができる。ということになって、これはこれでけっこう時間のいる作業になりそうだ。脳によく効く作業のひとつ。

[参考]平等寺については桜井市による紹介:https://byodoji.org/ がよく分かるし、きれいだ。 

山の辺の道は記紀に[山邊道]と表記されている。たとえば、古事記には崇神天皇について「御陵在 山邊道 勾之岡上也」とある。山邊道 と彫った石の道標は小林秀雄氏の筆跡だ。署名も彫られているから本物だろうが、つくられたことの経緯の説明がどこにもない。単に観光機運の盛り上げに協力したということだろうか。評論家も商売ではあるが。

さて、山の辺の道は日本最古の道と言われ、ヤマト政権の官道でもあった。

東の山裾を縫うように南北に通る初めの道は、西側は湖であったことを物語っている。南北に縦貫する上ツ道、中ツ道、下ツ道は水が引くにつれて順につくられたようで7世紀半ばには三道ともに存在したようだ。

左図はウイキペディアに拝借した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8F%A4%E9%81%93 )

 山の辺の道の南端、始点というべきか、は海石榴市である。「つばいち」と読み、物資の集散地の市(いち)であり、八方に道がつながる衢(ちまた)であった。推古天皇の16年(西暦608年ごろ)の条、「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあるのは、随の使者裴世清を迎えたことの記録である。難波津で川舟に乗り換えた使者は大和川を遡ってここに到着し、陸路を都へ赴いたという筋書きになる。それにしても、ここまで船で来られたとは、いまでは想像がつかない。現地に立ってみても、記念碑や標識だけでは昔を偲ぶ手がかりがなくて面白みがない。山の辺の道の楽しみは、お宮とお寺と石仏あっての風景だろう。

話を戻して、三輪のあたりを撮った写真には三輪山を写したのが何枚もある。何しろ御神体がお山だという変わった神様に惹かれてあちらこちらから撮してある。面白くはないが、これはひとに見せるためではなく、そのときどきの自分の気持ちを思い返すためだ。

長岳寺というのがある。弘法大師の開基という。石を彫った風情のあるお不動さんや古墳の石棺の蓋に刻まれたという弥勒菩薩がある。

三輪といえば素麺の代名詞みたいなものだが、写真を見ているうちに、長岳寺で「にゅうめん」を食べたのを思い出した。夏は冷たい「そうめん」を食べさせてもらえる、といってもお寺の営業だ。ネットには今どきの人の撮影らしく、頂く前のワンショットがいくつもあった。40年あまり休まず営業しているわけだ。嬉しいね。食べログにもあるのは俗化し過ぎだが。いまお休みしてます、とお寺の注意書きもあった。コロナのせいだろう。

話が前後するが、ネット上にあった山の辺の道を写真と文で案内する記事の中に、湖のきわを歩いた道だから標高5060メートルのあたりだというのがあった。パソコンで標高を知るには、国土地理院のサイトがいちばん的確だと思う。地理院地図で見ると崇神稜あたりで100メートル、柳本駅で70メートルほどと出ている。先の記事が誤りだと指摘するつもりはないけれども、標高とか、海抜とか、あるいは水面の高さ、水深の値などと考えを巡らせていると、錯覚に陥りやすいことを知った。

長 岳寺とその道筋には石仏が多い。寺に所属する作品にはネット上に種々説明がされていてありがたい。けれども路傍に小さな石仏が多いのもこのあたりの特徴だろう。明らかに庶民の作品だろうし、作者や由縁の手がかりもない。いつ頃どんな人たちが…など一切わからないけれども、兎にも角にも何かが伝わってきそうな気配があって気持ちが動かされる。楽しむだけではいけないかも知れないが、また会いに行きた
くなったりして。

のんきな話ばかりではない。大和川の舟運などを調べているうちに生駒山系と葛城山系の間にある渓谷、亀ヶ瀬の存在を知った。恥ずかしながら長らく関西には馴染んでいたはずが、この歳になるまで知らなかった。昔から大量の地滑りがあってそのために河床が盛り上がったり、大岩が流れを妨げていた。ヤマトと河内を結ぶ大動脈と言われるようになるには昔から大土木工事が繰り返されている。昭和以降は国の事業でついに地滑りは止まった(今のところだけかも)。日本遺産に登録されて文化庁のポータルサイトがある。こんなところを随の使者が?という疑問も起きる。研究者・学者さんの議論もネットにある。こんなふうに40年の今昔を行ったり来たりしながら過ごしているが、また楽しからずやである。22インチ画面をつけて、パソコンは良い伴侶であります。(2023/6)



2023年4月4日火曜日

日々の卆論―生物学

 90歳になった。賀寿で言えば卒寿である。卒の漢字は卆とも書くので90を表す文字に使われる。日常、格別他にするべきこともないので、読んだり書いたりして過ごしている。というわけで今回のお題は「日々の卆論」とした。

昨年は本を読む時の関心が物理学から脳に移り生物学になってきた。どれをとっても知識がないのに無謀なことであるが、わかってもわからなくても面白く感じていた。ところが中でも生物学になると自分の守備範囲に大穴が開いていることがよくわかった。勉強の科目で言うと化学だ。半世紀も前に生物学はカエルやトンボ相手ではなく分子生物学と遺伝子の世界に変わっていたのだ。 

早期退職を思いついた頃ワープロやms-dosがあらわれた。その流れで今はもっぱらPCだ。必須の勉強道具になっている。アウトプットとインプット両方に重宝している。用語も論文も調べられるが、生物学に興が乗って広がりすぎた。細胞の中でアミノ酸がはたらいてエネルギーを作り出す、その工程は物理学だがアミノ酸がエネルギーになるのは生化学だ。話だけでも驚きであるが、モーターがあって回転するのを目で確かめた研究が語られる時代になっている。面白いがやはり基礎知識と用語知識が必須であると思い直した。

新聞の「売れてる本」のコラムに小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(①)の評が載っていた。人の死はプログラムされている、生き物は次の世代のために死ぬ、難易度は高校の復習程度などとあった。それならと実際に読んでみると、「高校程度」の程度の物差しが自分とは大違いであった。それに自分の関心事も生死のことはすでに通り過ぎている。この本に限らず、わからない用語などをインターネットで自習していると、わが関心事は物質でできているはずの人間が生きているとはヘンではないか、そもそも地球の始まりは無機質の世界だったはずが、なぜ生物が湧いてきたのだ、これもヘンだ、という具合に疑問が次々に出てくる。

『Whai is life?、生命とは何か』ポール・ナース著(②)がよさそうと考えて、読み始めると疑問が解けそうに思える。それでもやはり一般読者用に書かれているから、学界でまだ仮説の段階にある事柄については避けているようだ。でもこれなら面白い。

さて、生命とはなんぞや、自分なりに考えついたことは、それが機能であることだ。生き物には器官があり、組織があり、細胞がある。細胞のシステムがはたらいてくれるから私たちは生きているわけだ。そういう細胞の働きを生命と呼んでいる。このように考えついて②を開くと、話は細胞から始まっていた。

①の本は望遠鏡の話から始まっている。口径30メートルの望遠鏡で138億光年の昔を覗こうというTMT計画だ。何が見えるのかは別として、距離を克服する技術である。②の本は肉眼では見えない微細なものを見る技術の発達による発見を語る。光学の発達は素晴らしい、だけど光は何だかよくわからない。

細胞は小さなものとの思い込みは、鶏卵の黄身も一個の細胞だと教わってヘェと吹っ飛んだ。細胞はあらゆる生命体の構造単位であり、生命の機能単位でもある。1839年『細胞説』が出てきた。あらゆる生命体は細胞でできている。そしてすべての細胞は細胞から生まれる。これは細胞分裂のことだ。

細胞は脂質でできた細胞膜に包まれている。その細胞の中にも膜がある。大きいのは「細胞小器官」で、ほかにそれぞれ別個に膜に囲まれている。そのうち「核」は染色体に記された遺伝命令を含む細胞の指令センターだそうだ。「ミトコンドリア」はミニチュアの発電所で、細胞が増殖し生き延びるためのエネルギーを供給している。心臓の筋肉の一つひとつの細胞に何千ものミトコンドリアが必要だそうだ。需要量に応じるためには供給装置の規模があまりにも小さいため数が要る。「膜」はただの仕切りではない。その内外でイオンの電位差ができるそうだ。電位差という用語から物理学的な見当がついた。細胞内には他にも様々の器官や区画があって高度な生産・物流機能を果たしている。

今年の宮中講書始の儀では脳神経細胞内の物流機能が講じられていた。テレビニュースが報じた画面では両陛下の手元には刷り物があったが、参列者には配られていなかった。きらびやかに並んだお姫様方にはミクロの世界の不思議は伝わったのだろうか。誰かが居眠りをするだろうと期待して画面を眺めていた。

ミトコンドリアの内部で行われているエネルギー源の産出工程を推測したのはイギリスのピーター・ミッチェルだ。「変人化学者の推測」という小見出しでポール・ナースはあらましを説明してくれる。1978年のノーベル化学賞を受けている。受賞理由は「ATP合成のメカニズム発見により」とWikipediaにあるが、ミッチェルが「化学浸透圧説」をNature誌に発表した1961年には誰もが信用しない珍奇な推測だった。ミトコンドリア内膜を介して生じる水素イオンの電位差勾配を利用するATP合成過程が年を追ってようやく理解されるようになり、さらに日本の研究者が産出装置と観測技術を開発して分子モーターが回転する実証実験に成功した。その2年後の受賞だった。吉田賢右(よしだまさすけ)東京工大名誉教授はこの受賞に貢献できたと語っている。『生命誌』サイトの同氏談話や野地博行氏の記事は研究と実験がよく分かる。

https://brh.co.jp/s_library/interview/67/

https://www.brh.co.jp/publication/journal/043/research_11

②の本は発行元がうたう著名人の推奨が派手であるが、良い読み物であると思う。訳文が若年層を狙ってかあえてくだけた風になってるのが、かえって文意をそらしかねない気もするが言葉に難しさはない。編集ミスによる誤記を見つけた。「人の30億個ともいわれる細胞すべてに、最低ひとつは微生物が棲んでいる」とあるが、「30兆個」の誤りであろう(電子本で読んだのでページ数が指摘できない)。

基礎を学ぶつもりでNHK高校講座「生物基礎」を利用することにした。手始めに第3回「生命活動を支える代謝」を動画で見てみる。講師(東大教授 高橋紳一郎)の説明がスルスルと頭に入る、これは実感である。伝え方が上手だ。言葉もよく分かる。これはやらずばなるまいという気になった。

ちなみに同じ動画でもYoutubeの講座トライがある。もっぱら受験対策のようだが、この動画に付帯する字幕は機械変換だろうか誤変換が多い。まことにお粗末だ。NHKのほうはさすがと思わせる。

話が前後するが、『What is life?』の著者ポール・ナース氏も、2001年にリーランド・ハートウェル、ティモシー・ハントとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。wikipediaには、「分裂酵母を材料にして細胞周期に欠損をもつ変異株の分離を手がけ、cdc2と呼ばれる遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを見いだした。cdc2がコードするプロテインキナーゼは、サイクリンと複合体を形成して、細胞周期の進行を司ることが判明」、この業績による受賞と説明がある。②にも細胞周期とcdc2について発見の経緯を述べているが受賞には触れていない。訳者があとがきで著者はノーベル賞受賞者であると明かしている。

書評によると、この本に図版が一切ないのは言葉を重んじる英国流だとあった。図版多用は米国流かも知れないがわかりやすくていいと思う。高校講座で、「ATPといっても白い粉です」と野地氏が写真を見せてくれ、更には同氏らが実験したF1モーターなどの模型図があって、機構がイメージしやすい利点が大きい。対象が目に見えない物だけに効果絶大だと思う。

筋肉細胞が収縮するメカニズムに関しては日米の研究者間で論争が続いている。二つの蛋白質繊維、ミオシンフィラメントとアクチンフィラメントの間で生じる滑り運動が筋繊維の短縮をもたらすことまでは判明していて争いはないが、アクチンを動かすミオシン頭部が、一方は機械部品のように固定されているとするに対して、他方は柔軟なブラウン運動をしてその都度都合の良い方に動くとする考えである。後者が日本の研究者で、考え方の基礎に自然物の動きにブラウン運動的なことは往々見出されるとの観念も含まれているように思える。対するアメリカ、スタンフォード大学はメカニズムにそれはふさわしくないとの前提観念があるらしい。日本チームはすでに実験装置と観察機器を開発済みで、この微妙な物質の動きの現実を見せながら説明中であるようだ。「百聞は一見にしかず」、人は見ることで信用する。

すでに本になり教科書に説明が載るような事柄であっても、なお細かい点では未解明であり得るし、気づいていないこともたくさんあるのだろうと想像できる。だからどこにも書いてないことが研究対象であることも多いし、当方の素人疑問の説明がなかったりもする。学校の頃になかった学問の種を今頃拾い歩きするような日々の勉強、といえば多少かっこいいいかも知れないが、分裂症の予備軍かもしれない。適当に時間をつぶしていればそのうち自然に人生が終わるだろう。

推奨できる読み物:生命誌研究館 サイエンティスト・ライブラリ https://brh.co.jp/s_library/interview/ 

(2023/4)

2023年1月23日月曜日

講書始の儀2023 細胞の中の「分子モーター」

 宮中恒例の年頭行事のひとつ、講書始の儀が1月13日に催された。進講者は3名。NHKTVは、「[……] 最後に、分子細胞生物学が専門の廣川信隆東京大学名誉教授が、細胞内で必要な物質を体の隅々まで運ぶ役割をするタンパク質の「分子モーター」の働きが、精神疾患などさまざまな病気と関わっていることが分かり、病気のメカニズムが明らかになってきていると述べました」と報じた。

難聴でよく聞き取れないわが耳が「分子モーター」という言葉を捉えた。脳が知っていることばだからこの部分だけよく反応したのだ。

私は昨年終わりごろから、生命の始まりやら細胞の誕生に関心が向いて、自己流で色々調べているうちに、細胞の中ではたらく生体分子モーターの存在を知った。

ヒトが食物をとってエネルギーを得るのに必須の存在であり、四六時中くるくる回転していると知ってほんとに驚いた。体の中に60兆個余りもある細胞のすべての中で回っているという。その印象の強烈さがまだ残っていた松の内に飛び込んできたニュースから「分子モーター」が聞こえてきたのであった。

報道翌日あたりはどのメディアもキャプションだけでご進講の内容は伝えていなかったが、そのうちyoutubeで流す局が出てきた。性能の良くないスピーカーで途切れ途切れに聞いてわかってきたのは、どうも私の知っているモーターとは話が違うようだ。

(筆者注:ご進講の内容は3氏すべての全文が宮内庁のサイトに公表されている。URLを本稿末尾に記載する)

あらためて広川教授がご自身の研究について述べているサイトを調べてみた。神経細胞を専門とされる教授が一般人に説明してくれているサイト、季刊『生命誌』第10号の記事である。見出しのコピーを引く。

   生命をささえる運び屋分子:廣川信隆 東京大学医学部教授

細胞の中は、わずか100万分の1ミリ(ナノメーター)の生体分子が動き回るダイナミックな小宇宙。

あるものは物資輸送のレールを作り、あるものは荷物運びのモーターとなり、あるものは細胞の形を自在に変えていく。

こんなに極微の世界まで、私たちは「見る」ことができるようになったのだ*。

(*筆者注:この成果は広川研究室の発明による急速冷凍法の功績である)

「分子モーター(motor=動かす人、物)」と呼ばれる特殊なたんぱく質が、たんぱく質分子や膜の小胞を支え、微小管の繊維をなんとレールとして使って運ぶのである。

モーター分子が私たちの大きさとすると、直径5メートル**の土管の上を秒速100メートル程の速度で、10トントラックほどの積荷を担いで地球から月までの距離を 走り回っていることになります。」

(**筆者注:一部誤りと思われる箇所をHirokawa Lab.のサイト↓を参照して書き換えました)http://cb.m.u-tokyo.ac.jp/index-ja.html

モーターを回転するものと思い込んでしまったのは筆者の早合点だった。生体分子モーターの構造にはいろいろあるのだ。講書始の儀で述べられたのはリニアモーターだった。それとは別に、ヒトが摂取した食物からエネルギーを得るための装置、ATP合成酵素を動かしているモーターは回転するのである。

こういう次第で、あらためて広川教授について、その生い立ちから研究の経歴などを調べてみたら、これが抜群に面白く愉快であった。『生命誌』61号、「未踏の細胞を観察する」がおすすめだ。https://brh.co.jp/s_library/interview/61/

JT生命誌研究館の機関誌『生命誌』(季刊)の各号には同教授ほか研究者各氏が紹介あるいは研究が発表されている。いずれも興味深い読み物である。

ちなみに長らく館長だった中村桂子氏に代わって歌人でもある永田和宏氏が現在館長を務められている。

偶然であったが、私は故渡邉格氏の講演「現代の生物学について」(昭和59年)をインターネットで読むことができて大いに啓発された。そこには、今ある生物を完成されたものとして考えてはいけない。まだまだ進化の途中なのだ、という考えかたが披露されている。現在の分子生物学の研究者諸氏に渡辺氏の系列の方々が多いのも納得できる。

現在インターネットだけでも基礎的なNHK高校講座から先端研究の論文まで参照できるのはまことにありがたい時代に出会ったものである。

また書評に、やさしく書かれているとか、高校生物の復習であるとかあっても、私にとっては迂闊にその表現にのることはできない。読んでみると知らないことがいっぱいなのだ。

戦後まもない頃の高校の生物の内容はせいぜい虫眼鏡で拡大して見えるもののハナシであって細胞の中で分子が動いているなど誰も知らなかったのでなかろうか。顕微鏡は確かに存在していたが、空襲で焼け出されたわが高校では見たことがなかった。いまの新聞書評子の年齢はわが子より10年以上若い世代だろうと想像する。新聞を読むときには自分の歳をよくわきまえなくてはならないと自覚した。

なお、今回の文章に関連して「生命誌」43号記載の野地博行氏の「まわる分子との対話?」も見ていただきたい。こちらではモーターがまわるのである。

https://www.brh.co.jp/publication/journal/043/research_11

用語については、東大理学部 理学部ニュース>理学のキーワード>分子モーター

が参考になる。

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/

講書始の儀3氏によるご進講全文は以下のサイトで読める。

https://www.kunaicho.go.jp/culture/kosyo/kosho-r05.html#ko-03

このうち広川教授の講話は一般向けではあろうが、筆者にはやはり高級すぎることを白状しておく。

(2023/1)