と西武沿線の自宅まで弔問に伺った。娘さんの結納の直前だったが、その婚約が沙汰止みになったと聞いた。覚えているのはこれくらいで、ふだんは忘れている。
帰宅して着替えしながら眼をやったテレビの画面は犠牲者の名前を流していた。同期入社の友人の名もそこにあったはずだ。大阪で単身赴任の彼が遭難したと知ったのは、その後の新聞であったかもしれない。しばらくして同僚たち
柳田邦夫『マッハの恐怖』(1986年)を読んでいなかったので、先ごろ読み始めた。図書館にあった柳田責任編集『同時代ノンフィクション選集第9巻 技術社会の影』(1992年 文藝春秋)で読んだ。四日市・水俣の公害と航空機事故が2篇入っている。「マッハの恐怖」と「墜落の夏―日航123便事故全記録(吉岡忍) 」だ。
私はこの吉岡氏の作品で大事故の有様をあらためて知った、というより学習した。「遺体」で一つの章を立てている。1キロ四方に及ぶ墜落現場には人体の形をした遺体がほとんどなかった。収容だけでなく検屍、身元特定などの手続きが想像以上に難航した。作家にとって書くべき物語が無数に生じた。後に情報開示請求訴訟の原告になる吉備素子氏は乗客であった夫の遺体が発見されなかった。彼女は最後まで諦めず、すでに腐敗していた多数の肉片骨片などを一つひとつ検め、ついに右足の一部を、子供の遺体に仕分けされていた箱の中から見出したのだった。
多くの遺体が異常な有様であったことを初めて知った。亡友は、はたしてどのような状態で棺に収められたのだろう。今更ながら自分の迂闊さ・想像力の欠如を反省した。事故の当事者であった日本航空は棺を520用意していたらしい。私も日本航空会社も事故に対する感覚は、常識的で所詮通念でしかなかったということだろう。だから、このたび往年の航空事故の記録を読み、関連事項をインターネットなどで自分なりに探索して、38年も経た今もなお裁判が僅かな人たちによって密やかに、しかし公然と続いている事実に驚いたのである。
そもそもあれだけの大事故なのに一度も裁判が行われてはいない。日本航空(半官半民)もボーイング社も運輸省(当時)の責任者たちについても刑事訴訟は全部不起訴であった。損害賠償請求の民事裁判はすべて和解で終わっている。事故はどうして起こったのか、モヤモヤ気分のままに過ぎている。
政府の事故調査報告書には、圧力隔壁が過去の損傷修理の不適切により経年疲労をきたした結果破裂したことが尾部破壊に至ったとしている。平米あたり6トンの圧力がかかる隔壁が破壊して生じる客席の急減圧に人は耐えられないはずが、後部座席の4人が生存しているのだ。垂直尾翼喪失に至る可能性が疑われる原因は他にあるべきだ。
インターネットに、アメリカの大衆科学雑誌『ポピュラー・メカニックズ』の「最悪の墜落事故、JAL123」という記事がある。ことし、2023年6月22日の日付がついている。また、8月5日の日付で雑誌『エスクァイア』も同じ記者アンドリュー・ザレスキによる同様の記事を載せている。38年前の日本の事故がなぜ今頃米国で記事になっているのか。
読んでみると、半世紀飛び続けたB747(ジャンボ)がこの1月に1547番機をもって製造が終わり貨物航空会社に引き渡されたことが報告されている。JAL123便では、最悪の事故となったが、B747は非常に優れた航空機であることを伝えている。ボーイング社は事故原因を、7年前の大阪空港での「尻もち事故」によって損傷した圧力隔壁の修理ミスが引き起こしたと認めることで、事故機を全世界を飛んでいる600機の747全体から切り離して、ボーイング社の信頼性を維持したのだった。旅客運送部門では燃料負担が大きくなって今後就航しないことになったけれども、貨物運送では操縦席下部の開口部の特徴が他に代えられないことで2050年まで飛び続けるだろうと書く。B747への信頼度は高く、アメリカの大統領専用機エア・フォース・ワンなのだ。
記事はその一方で、ひとりの英国人女性遺族の口を借りて、このJAL123便事故の真因が極められていないことを訴えている。相模湾からの尾部残骸引き揚げをしない日本の事故対応が不十分なことを衝いているのだ。
青山透子氏の『墜落の波紋、そして法定へ』(2019年河出書房新社)は事故経緯追求の過程を記した書物である。事件は日本政府の公文書管理に詳しい三宅弘弁護士の無償協力を得て裁判が進められている。青山氏は日米公文書の博捜からはじめ、墜落現場や目撃の記録、事故調査記録などの精査によって数々の疑惑を拾い出した。私が読んだ限りでの極め付きは、外部からの飛来物によって垂直尾翼が破壊されたとの疑惑である。このことにより、事故が事件に変わった。
ときの総理中曽根康弘にアメリカ大統領レーガンが事故2日後の8月14日付で見舞い状を寄せている。外務省官僚はその一連の文書に日本語メモで墜落事件と書いている。用語遣いに厳格な官僚が当初からすでに事故と言わない。
中曽根回顧録を調べた青山氏は、「米軍がレーダーで監視していたから当然事故については知っていた。あのときは官邸から米軍に連絡は取らなかった。」「私が合図するまで公式発表はならぬ」などの中曽根発言を確認している。当時は自衛隊は日本政府を介さずに米軍と直接連絡を取り合う関係にあった。
フライトレコーダーによって尾部に外的衝撃のあったことが読み取れ、その原因は自衛隊が開発中であったミサイルの模擬弾が命中によることが考えられる。
異常外力着力点と称されている尾翼の箇所が事故報告書に図示されていながら説明がない。模擬弾には炸薬は充填されていないから爆発はしない。その箇所から尾翼の破壊が生じたと想定されるが、その物理的経緯は現物に当たるほか究められない。その残骸は相模湾の海中に沈んでいる。相模湾に浮かぶ破片を拾い集めたのが、上空で「ドーン」という音がした時間に海上で公試中であった護衛艦「まつゆき」だった。「まつゆき」について公文書を請求すると不存在との回答が来た。尾部の主要部は手つかずで今もなお海中にある。深さ160メートルの海底にある残骸は、費用をかけるほどのものでないとして引き揚げ要求に応じない。事故調査委員会を体調不良で辞任した八田委員長に代わった武田俊氏は、沈んだ残骸を引き揚げよと遺族に詰め寄られたとき、思わず「引き揚げて余計なものが見つかったら困る」と言った。おかしなエピソードが残ったものだ。
フライトレコーダーには、11トンの前方への圧力が加わったことがデータに遺されている。「ボーン」という大音響がした時刻だ。機長が発した「スコーク77」(注:SOSの信号)の時刻と重なる。その部分はレコーダー公開に当たって隠されている。
事故報告書は、事故原因が隔壁破壊にあると結論している。しかし、初期の事故調査委員会による現場検証では「隔壁はほぼ完全な姿で発見された」とあった。何かがおかしい。奇跡のように生き残った4名は後部座席で発見された。隔壁破壊で客席の圧力が急激に低下したのなら、生存した落合由美さんの話とは整合しない。圧力低下は僅かであったはずだ。吉岡氏の作品を読んでいると、このあたりには感じられる何かが漂うから不思議だ。吉岡氏の作品は最近絶版になったようだが気の毒である。
墜落現場で救援隊到着が異常に遅かった一夜の間に、自衛隊は圧力隔壁の残骸を電動のこぎりで裁断してしまったという。せっかくの証拠品をなぜ早々と廃棄したのか。公刊された書物の他にもなにかと問題がありそうだし、最近でも元自衛隊員などが当時を語る記事を見ることもある。
青山氏がこの事故の秘密を打破する方策は情報開示請求にあると思い定めた結果の裁判がいま進行している。インターネットには、すでに控訴審の一審、二審とも棄却されたことが載っている。
先行きに暗雲漂う機運も感じられて、この国のあり方に一層の不満が募る。
参考: https://bit.ly/2w2TvlU 森永卓郎氏の記事
読んだ本:柳田邦夫「マッハの恐怖」*
吉岡忍「墜落の夏―日航123便事故全記録*
*2点は『同時代ノンフィクション選集第9巻 』所収(1992年 文藝春秋)
青山透子『圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社 2020)
同 『JAL裁判 日航123便墜落事件』(同 2022)
同 『墜落の波紋 そして法廷へ』(同 電子本 2022)
堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』(平凡社 電子本2018)
インターネット:『Popular Mechanics』The Worst Airplane Crash Ever, by Andrew Zaleski , Jun. 22, 2023
https://www.popularmechanics.com/flight/airlines/a43945732/jal-123-plane-crash/
『エスクヮイヤ』「JAL123便墜落事故の原因」2023/08/05
https://www.esquire.com/jp/news/a44500136/jal-123-plane-crash/(Popular Mechanics の抄訳)
(2023/11)