2020年8月29日土曜日

随想 昭和天皇の戦争責任

「先の大戦」とは天皇の発言にいつも出てくる表現であるが、その大戦に天皇はどのように関わっていたのか。数え切れないほどの出版物があるが、これでわかったというふうにはなかなかならないのが素人の悲しさである。新憲法誕生のいきさつを書いた本を読みながら、占領下にあって世界の国々から戦争犯罪を問われる立場の天皇が、アメリカ人による画策によって東京裁判に出廷させられることが免れたことを改めて認識した。けれども何かスッキリしない、というのは庶民感覚で考えても、あれだけの惨禍を経験させられたことについてなにか責任があるはずであり、国外にあって皇軍の名のもとにずいぶんひどいことをしてきた軍隊の最高位の存在であったことにも責任があるはずという気持ちがどうしても抜けないからである。戦争中の天皇は神とされていて、神は責任を取らないとされていたと聞くけれども、それは勝手に作り上げた絵空事であって、昭和46年の正月には「人間宣言」の詔勅が出されているからにはそうは行くまいと思う。帝国憲法第一条に神聖ニシテ侵スベカラズとして君主無答責根拠があるにしても、憲法は国内のことであり国際的には有責を問われるだろう。
ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(2002年)を拾い読みしている。原著の表題は "HIROHITO and The Making of Modern Japan "(2000年)である。ちなみに、昭和天皇という呼び方は死後の諡(おくりな)である。名は裕仁(ひろひと)、天皇家には姓はない。日本人はいつの世の天皇を呼ぶにも名で呼ぶことをしない。翻訳書の表題はそのことを考慮したのであろう。
日本の軍隊は皇軍と呼ばれたように天皇の軍であるから天皇の命令によって動く。先の大戦では大本営があったから、陸軍の作戦は大本営陸軍部が立案して参謀総長が上奏する。天皇はそれを裁可して参謀総長に命令する。参謀総長はそれを下部に伝達する、という順序があった。天皇が裁可した命令は「大陸命」として連番がつく。参謀総長からの指示は「大陸指」である。「大陸指」の現物を見れば「大陸命」〇〇号に基づき左のごとく指示す、などとある。ウエブサイトでは毒ガスに関する朝日新聞の記事で「大陸指」の例が読める。
天皇が裁可するとは裁量して承認することで、署名をして御璽を押す。御璽は天皇のハンコである。
第10章(下巻)に昭和天皇が戦争にどの程度関与したか具体的に述べている。
第一次戦後に日本も調印した国際的な協定では催涙ガスを含め毒ガスの使用が禁止されていた。日本陸軍の考えでは、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくて問題はないと考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。「天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは。1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京―通州地区の掃討について、『適時催涙筒を使用することを得』と書かれていた命令である」(p.13)。つづいていくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可し、以後次第に規模が大きくなって、翌年春・夏には中国・モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。
日中戦争の全期間を通じて毒ガスは、天皇、大本営、統帥部が周到に、そして、有効に管理した。前線部隊はもちろんのこと、方面軍司令部ですら毒ガスを使用する権限を持っていなかった。毒ガスは指揮命令系統に基づいて使用許可が求められ、通常、まず最初に天皇の裁可があり、その後、参謀総長の指示を「大陸指」形式で発令、大本営陸軍部から現地軍に送られた。このように説明したあと著者は毒ガスが用いられたおびただしい時と数量、場所を例示している。1941年7月の南部仏印進駐に際して杉山元参謀総長は毒ガス使用禁止を明示した命令を出した。またアメリカが化学兵器を保有している懸念から、第二次世界大戦終結まで日本は化学兵器を使用しなくなったと述べられている。
この箇所の記述でわかることは、国際的に認められない毒ガスの使用について、天皇を含む国ぐるみで隠蔽しようとした意図がわかる。軍事技術の面で劣った敵に対しては使い、フランスや英米相手には使わない、つまりバレないように使うという実に卑怯な魂胆である。似たようなことは捕虜の扱いにも言える。
化学兵器とは別に細菌兵器がある。本書には次のような記述がある。
1940年、昭和天皇は中国で最初の細菌兵器の実験的使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇と細菌兵器を直接結びつけるものはない。しかし、天皇は、科学者の側面を持ち几帳面で、よくわからないことには質問し、事前に吟味することなく御璽を押すことは拒絶する性格であった。したがって、みずからが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀長が発令した大本営指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そしてこのような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に、天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦・化学戦に依存したことは、第二次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つことになった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・科学研究の発見と技術に基づいていた。ついで、それはベトナム戦争で、アメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった(p.16)。
言うまでもなくこれは枯葉剤を思い起こさせる文章である。

「昭和天皇は中国を「近代」国家とは見なさず、中国侵略が悪いとは夢にも思わなかった。そのため、中国に宣戦布告をすることを控え、中国人捕虜の取り扱いに際して国際法の適用を除外する決定を認めた。すなわち、1937年8月5日、陸軍大臣により出された指令をみずから承認した。その指令は、現在は支那を相手とする全面戦争をしていないのであるから、陸戦にかかわる法規慣例に関する条約や交戦法規に関する諸条約を適用することは適当でない、としている。その結果、毎年1万人以上の中国兵が捕虜になっていたが、戦争終結後、日本当局は数千人の欧米人捕虜が捕虜収容所にいると主張したけれども、中国人捕虜はわずかに56人の存在を認めたに過ぎない。読者は否応無しにその数値の差に注目させられる。
また、上に触れた大臣による通牒では、現地参謀に、「俘虜」という言葉の使用を控えるように指導した、と著者は書いている。ここは読者として推量を強いられる。「俘虜」が存在する場合に「俘虜」という言葉の使用を控えるにはどうするか。一部に放免した例も伝えられているが、現場では「いないことにせよ」という意味に受け取ったのでないか。なお、用語として「俘虜」と「捕虜」の使い分けがこの箇所に見られるが、原文ではどちらもprisoner(s) of warである。少し調べてみたが、西周による「万国公法」の訳語は「俘虜」であったようで、この漢語を掘り下げると「捕虜」という語と明確に使い分けられていた事実がある。「俘虜」には人間として扱う心が込められているに対して「捕虜」には首をはねるとか容赦のない仕打ちが向けられた有様がわかる。第一次大戦の青島戦で捕虜になったドイツ兵を収容したのは板東俘虜収容所であった。満州事変以後は一般に「捕虜」が使われるようになったと理解してよいようだ。英語を漢語を介して日本語に翻訳し、その日本語の使われ方が時とともに変化した事例である。と書いて思い出した。大岡昇平氏は『俘虜記』や他の作品でも俘虜と書いている。氏独自の人間哲学によるものと考える。
ビックスによれば昭和天皇は国際法を立 作太郎(筆者注:たち さくたろう、東京帝国大学教授、国際法学者、1874年(明治7年) - 1943年(昭和18年))に学び、捕虜取り扱いに関するジュネーブ条約に日本が調印(ただし、批准せず)したことも知っていた。明治・大正の両天皇が煥発した宣戦布告の詔書が国際法遵守に触れていることも知っていた。しかし、大量虐殺や中国人捕虜虐待を防ぐよう軍に命令を出すことはしなかった。1930年代の日本ではこういう不作為は官僚、知識人、右翼の間に広く認められた傾向であり、国際法自体を全く西洋の産物とみなし、西洋人が自己の都合のいいように普及させたものに過ぎないと考えていた。日本軍の残虐行為の背景には、国際法適用を拒む陸軍の存在があり、国際法が実効性を持たなかったことには天皇にも責任があった(p.12-13)。
このほか著者は直接関与の文書は存在せずとも天皇の責任ありとして、重慶その他への戦略爆撃(1938年)をあげる。様々な種類の対人爆撃だったということが著者の注意をひいたように読める。無差別爆撃のモデルでもあったことは広く知られてきたが、英国によるドレスデン爆撃、そして東京大空襲がある。中国の日本軍占領地区の都市漢口でもアメリカ空軍が実験的に焼夷弾による無差別爆撃をして住民2万人が死亡している。これによりルメイ将軍は東京爆撃に自信を得たとされる。
昭和天皇は中国における「無人区化」作戦も承認したと著者はいう。南京大虐殺よりも遥かに規模の大きいものだそうであるが、後に中国共産党は「三光政策」、日本軍は「三光作戦」と呼んだ。「光」はすべてを意味し、「焼き尽くす」「殺し尽くす」「奪い尽くす」の意味だとある。1938年末に天皇はこういう作戦に承認を与えている。この作戦は「敵および土民を仮想する敵」と「敵性ありと認むる住民中15歳以上60歳までの男子」殺戮を目標とするようになったと述べる。この三光作戦による中国軍被害について日本には何の統計もないそうだが、歴史学者姫田光義による概算では「247万人以上」の中国の非戦闘員がこの作戦の過程で殺されたとしている。「綿密に計画された三光作戦は、陸軍の化学戦・細菌戦や「南京大虐殺」とは比較にならないほど破壊的で、長期におよぶものであったことがいつの日か判明するだろう。しかし、アメリカでは日本の戦時行為のなかで南京事件に道義的な非難が集中し、ドイツによるヨーロッパでのユダヤ人大量殺戮と――目的とか、脈略、あるいは究極の目標とかかわりなく――軽率にも比較さえされている」と評している。(p.19-20) 。
ほんの20ページ足らずを読んだだけで、これだけの考える材料が出ている。すっかり忘れていたけれども、かつての家永三郎『戦争責任』はほぼ同じ文脈で論じているが、30年近く時間を経過したビックス本が扱う史料は格段に増えている。今後読みつづける体力があるかどうか自信がないが、読みながら湧いてきた妄想は中国という国の存在である。山東出兵や満州国のころから日本が手玉に取られてきたのは、底なしの沼のような国だった。抜けられないままに日本は世界の敗戦国となり、中国は相変わらず隣国で戦勝国として存在する。
戦争責任は別にして、昭和天皇という人は臣民や国民をどう思っていたのだろうとときに不思議な気持ちになる。惨憺たる敗戦に終わった戦後、国民大衆にどのように迎えられるか不安なままに試みたお伊勢参りの列車行幸では、案に相違して沿線大衆から大歓迎を受けてマッカーサーも天皇もほっとした。その前に東京大空襲の焼け跡を見に来て、こんなにやられたのか、とつぶやいたと伝えられるが、天皇の姿を見かけた民衆は土下座をして、こんなに焼いてしまって申し訳ないと涙を流して詫びていた。我が身を神と唱え、片や神と崇めたことには、どっちもどっちだと言ってしまってはそのように仕向けられた国民が気の毒だ。
最後の最後に沖縄が戦場になったころ、伊勢湾にアメリカ軍が来れば伊勢も熱田も危ない。神器を早く手元に移さなくては国体が護れないと焦った。神器と国民とどちらが大事なのか。神器がなくては天皇が天皇でなくなるということらしい。国体護持が叫ばれたが、国体とは天皇制のことだと今頃になってわかった。共産主義のソ連に対抗するため、沖縄をアメリカ軍の基地に提供するとマッカーサーに申し出た。あんなふうに惨めに犠牲にされた住民をどう思っていたのだろうと訝しむ。天皇は沖縄の住民はもともと日本人ではないと考えていたのかもしれない。マッカーサーはそのように理解していた。歴史的にはそのとおりではあるが。
こう考えると、敗戦後、全国を経巡った列車行幸と「あ、そう」と言って民衆に近づいた昭和天皇の大御心には、心底から国民をおもう気持ちがあったようには思えなくなる。洛中の死臭が漂う御所にあっても歌詠みに興じた七百余年前から変わらぬ伝統であろうか。
参照した本:H・ビックス『昭和天皇 (下)』2005年 講談社学術文庫 (2020/8)

2020年8月18日火曜日

読書随想 憲法改正・近衛公爵・ノーマン

ハーバート・ノーマンが占領期日本でGHQに勤務していたことに関連して古関彰一氏の『日本国憲法の誕生』(2017年)を読んでみる気になった。同名の2009年上梓の旧著を大幅に改定した増補版である。新資料が多く参照されていても、まだ未公開のものが多数あるという。著者が末尾に詳細な年表をつけてくれている。<1945年6月18日沖縄軍牛島満司令官の陸軍参謀本部に「決別電報」打電>から、<1947年5月3日日本国憲法施行>までが記されている。これが本書の内容の範囲でもある。多くの事柄が入り組んでいる内容をいちどきには掴みきれない一般読者にとっては大変にありがたい労作である。注になっている引用または参照資料も膨大である。読者としては用語や制度などの忘れたことやもともと知らなかったこともわんさと出現する。現代の百科事典インターネットは誠にありがたい存在である。本文450頁におよぶ本書を読み通すのは相当な力仕事である。著者の筆の運びは精確を期していても堅苦しくはなく、ときにさりげないユーモアを漂わせたりもする。銷夏読み物には少し重いが、よくできたノンフィクションとして読めばよい。
余談ながら、国立国会図書館のウエブサイト「憲法の誕生」は参考になる。私は用語解説をはじめ、古関氏が使用した資料原本などを参照した。本稿で触れるマッカーサー・近衛会談の内容もある。https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

さて本書には、憲法改正を最初に口に出したのはマッカーサーだった、と書いてある(p.11)。1945年10月4日、GHQへ二度目の訪問をした近衛公爵に、日本の憲法は改正しなければならないと述べたのである。近衛は、帰路の車中で通訳の奥村勝蔵に「今日はえらいことを言われたね」と言ったという。木戸内大臣と相談して近衛が内大臣府の御用掛となって憲法改正作業をすることになった。それまでの近衛の立場は東久邇宮内閣の副総理格の無任所大臣だ。この内閣は翌5日には、マッカーサーのいわゆる「人権指令」が発令されたことをうけて瓦解する。マッカーサーが近衛に会う直前にこの指令を決裁していたとは近衛は知る由もなかったが、この指令によって釈放される徳田球一などのマルキシストが軍閥とともに戦争責任があると、近衛が長々と話すのをマッカーサーはどのように聞いたのだろうか。
10月9日幣原新内閣成立、新首相は11日にマッカーサーを訪問し、婦人解放、労組奨励などの5大改革の指示を受けるが、そこに憲法問題は含まれていなかった。13日の新聞には、5大改革をあげる前に「元帥の見解」として「ポツダム宣言を履行するに当たり……社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。日本憲法の自由主義化の問題も当然この中に含まれてくるであろう」との判断のあったことが紹介されていた。その日のトップ記事は天皇が近衛を内大臣府御用掛に任命した記事だった。国民はこの報道によってはじめて近衛が改憲作業に入ることを知ったのであり、憲法改正は天皇が近衛に命じ、5大改革はマッカーサーが幣原に命じたと読み取れる紙面になっていた。後の憲法調査会で高木八尺は、マッカーサーが幣原との会談で要求すると予想される事項から憲法改正だけは別扱いにすることを事前に要請し、憲法改正が自主的に日本の側で、というふうに考慮された形を整えることに努めたのだと語っている。著者古関は、このことでGHQが日本側での自主的な憲法改正に極めて協力的であったことも知ることができる、と述べている。
幣原はマッカーサーとの会談の直後の13日に松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を決めた。これは幣原・マッカーサー会談直前に、木戸からの電話で、近衛に改憲作業をやってもらう趣旨が伝わったので、双方で会談したが折り合いがつかず、競合する事態になったと著者は見ている。松本の見解は憲法改正を「やるのは内閣を除いてあるべき道理はない」ということだった。このあと国民に見えないところで両者の作業が続くが、上記の新聞報道のあとは朝日、毎日などが学者の見解を伝えるようになる。世論の大勢は内閣による改正が正当とする意見が強かったらしい。一方、海外では、特に米国内では近衛が憲法改正にあたることに強い批判があらわれた。10月26日、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙はフランク・ケリー記者の東京電でこの事実を伝えたあと、社説で、アメリカが極東で犯した馬鹿げた失敗の中で最も甚だしいのは近衛公爵を日本の新憲法の起草者として選んだことである、としてマッカーサーの責任をきびしく追求した。
時間は戻るが、マッカーサーの憲法発言に同席していた国務省から出向のアチソン政治顧問も、やはり「えらいことになった」と国務省の憲法についての指示を仰ぐべく打電した。この回答は10月17日に来る。23日には覚書となってマッカーサーに伝えられた。その骨子を近衛を補佐していた高木が25日に聞き出している。憲法改正にあたっての基本構想は、国民主権の確立とその限りにおいての天皇制の改革であった。とにかく最大の心配事であった天皇制護持の見通しがついた。
ところが、11月1日夜GHQは「近衛公は連合軍当局によって、憲法改正の目的のために専任されたのではない」との声明を発した。この声明は3日付で新聞に報ぜられた。「近衛公は首相の代理としての資格において日本政府は憲法を改正することを要求されるであろう旨通達されたのである」と述べ、もはや内閣が変わった以上近衛はその任にないとし、「幣原新首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」と述べた(pp.25-6)。驚いて高木八尺が新聞発表の翌4日アチソンの下のエマーソンを訪問したところ、彼らの態度が豹変していたという。会見は数分で決裂した。
GHQの近衛に対する方針は、百八十度転換していた。すでにアチソンはノーマンに近衛の戦争犯罪に関する調査を命じていた。ノーマンはその報告書を高木らがエマーソンに会った翌5日にアチソンに提出している。ノーマンの報告書のさわりを著者は引いている。
近衛の公式記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。しかし、それ以上に彼が公務にでしゃばりよく仕込まれた政治専門家の一団を使って策略をめぐらし、もっと権力を得ようとたくらみ、中枢の要職に入り込み、総司令官に対し自分が現状勢において不可欠の人間であるようにほのめかすことで逃げ道を求めようとしているのは我慢がならない。 
一つたしかなことは、かれが何らかの重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはすべて残骸と化す(p.27)。
近衛の運命は大きく暗転し始めていた。
ノーマンの提出した覚書によって近衛が適任者でないと判断したGHQ上層部は改定作業は別組織によってされるべきと決定した。9日には戦略爆撃調査団から喚問され、東京湾上に浮かぶアンコン号上で尋問を受ける。中国侵略、日米開戦前夜の政策決定責任について、かなり厳しい尋問がなされているが、近衛はその責をすべて軍部と東条英機に転嫁することに終止した。しかし、12月6日近衛は戦犯に指定され、収監される当日の16日朝、服毒自殺しているのが発見された。

日本国憲法が新しくなる舞台の序幕は近衛の退場で次の段階、日本人による草案作成とGHQの介入の場面に移るが本稿はこのへんで終わることにする。ノーマンは新憲法誕生に関しては、民間における人権思想の存在と憲法改正の動きが扱われる章に、戦前に逼塞させられた旧知の研究者鈴木安蔵を探し出すことから、憲法研究会の設立までしばらくの間登場している。
ところで10月9日の幣原内閣成立以降もGHQは近衛側と会って示唆を与えてきたのに、11月1日になって近衛を袖にするのは変ではないかと、誰しもが疑うのは自然なことである。GHQは近衛に改憲を示唆したことに対する内外の批判があまりに厳しいので、政策を急いで変更したと解釈するしかない、として著者も当時を探っている。マッカーサーが憲法改正を説いたのは、通訳の誤訳だったという説が占領終了後になって流布したことがあるそうだ。出所は『東京旋風』(1954年)で、著者はGHQ憲法草案作成メンバーであったワイルズという人。著者がこの線をたぐってわかったことは、マッカーサーあるいはGHQの失態をアチソンが隠蔽したということである。ノーマンから近衛戦犯の報告書を受け取った11月5日に、アチソンはすぐさまトルーマン大統領に書き送って、あの「えらいことになった」日の会談で、近衛の通訳が「行政の改革」の正確な日本語を思いつかないまま「憲法の改正」と元帥の言葉を訳してしまったのだと弁解した。通訳が自分でそのように話しているということまで装って。
近衛に憲法改正をやらせるという判断の誤りを知ったアチソンの保身術である。奥村通訳には気の毒なことだったと同情する。 このアチソンの弁解術をよく考えてみれば日本人を差別視するアメリカ人の通弊だと私は思う。戦前から原爆投下まで日米戦は人種差別戦争だったと思う。奥村氏はマッカーサーと会談した天皇の通訳も務めている人物であるから、それなりの能力を備えた官僚であったはずだが、アチソンにこういうふうに扱われていたことは知らないで終わったかもしれない。
マッカーサーも憲法改正を示唆する相手を間違えていたことを知った。同時にアメリカでの反響の大きさにも驚いた。本国政府に直結しているアチソンほか国務省関係者を憲法問題を扱うチームからはずすようになった。11月7日、アチソンは手紙で国務長官あてにその動きを報告している。

GHQには終始マッカーサーの側近としてフェラーズ准将という人がいた。フィリピン以来の側近の情報将校、本職は心理作戦である。アナポリスに学ぶ前に大学で日本人学生から教わったラフカディオ・ハーンに傾倒したのが日本通になる始まりだった。天皇を戦犯指名から外して占領行政を成功させる重要な存在であった。この人物について次の論文が大いに参考になる。
http://netizen.html.xdomain.jp/Fellers.html
加藤 哲郎(一橋大学、政治学)「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『講座 小泉八雲 1 ハーンの人と周辺』(新曜社、2009年8月)所収、pp.597-607.)

憲法改正については基本的に「ポツダム宣言」をどのように理解したか、日本人の受け止め方が問われて、結果としてGHQに教わりながら草案を作ることになった。それがいわゆる押しつけ論の根拠になったが、天皇を上に戴く観念が抜けきれないまま、戦争裁判もくぐり抜けて戦後に移っていった日本社会の問題である。その中で生きている国民にとってはどうしようもないかのような問題であるが憲法といい、天皇の存在といい、なんとも厄介なことではある。本書はそのような全体にはふれないけれども、問題点を指摘されて考える基本を教えてもらえる。通読半ばであるが一端を記してみた。
読んだ本:古関彰一『日本国憲法の誕生』増補改訂版 岩波書店2017年 (2020/8)



2020年8月8日土曜日

追憶 ”Tie a yellow ribbon~” 「黄色いリボン」

NY POSTのサイトから
朝刊を見ていると、このところコロナ・ムードに当てられっぱなしで働かなくなってる我が脳細胞に、潤滑油が注ぎ込まれてやおら動き出したではないか。その記事は「天声人語」。「きのう訃報が届いたピート・ハミルさんは、…日本では映画「幸福の黄色いハンカチ」の原作者として知られている」という書き出しであったが、私の頭の中では"Tie a Yellow Ribbon 'Round the Ole Oak Tree"の曲が鳴り出していた。こういう反応はよくある。目で見た文字が自動的に音に変わる。耳は難聴であるが、この際耳は関係ないところが面白い。調べてみると映画の公開は1977年、曲は1973年のビルボード1位の大ヒットである。
1975年夏にシンガポールに赴任したとき、彼の地でこの曲は流行っていた。着任早々知り合った日本人が神戸っ子のT氏で、アポロホテルの10階を住まいにしていて、夕食後の憩いの場が同ホテル1階のイオン・バーだった。お互い一人駐在なので所在なさを紛らわすにはここは安全で気分が良い。お誘いの電話をもらっては、いそいそと出かけたものだったが、ステージがあって女性歌手が夜毎出演している。"Yesterday once more", "El condor pasa"など英語の不得手なT氏は一生懸命にタイトルを覚えてはリクエストしていたものだ。長い曲名"Tie a Yellow Ribbon~"も苦労して彼のリクエスト曲になったが、もとより我々はそれをもとにしてやがて映画が作られようとは知る由もなかった。80年以後前後して帰国してからも、曲名が「幸せの黄色いリボン」になっているとも知らず、相変わらずT氏と「タイ ア イエロー リボン~」などと回らぬ舌で話していて周りが「ン?」となったりしたのも今思い出すとおかしい。そのT氏は帰国して何年か後に亡くなってしまった。
映画の「幸福の黄色いハンカチ」は、”幸福の”と書いて”しあわせの”と読ませるらしいが、山田洋次監督で高倉健が演じたとは知っているものの、映画も後続のテレビドラマも見たことはない。ドラマにはドーン(Dawn)の演奏が挿入されているとimdbにあるが、映画にも使われているのだろうか。
さて、ピート・ハミルは8月5日に亡くなった。1935年生まれだそうだから同世代だ。ジャーナリストでコラムニスト、最初の夫人は1972年に離婚し、87年に再婚、それが現在の奥さんの青木冨貴子氏と知ってあッと思った。岩波新書で『「風と共に去りぬ」のアメリカ』を読んで感心したのは随分前のことだが、この人も優れたジャーナリストだと思う。
ハミルが日本映画『幸福の黄色いハンカチ』の原作者と書いてあったが、正確にはそうでない。アメリカのどこかに古くからの口頭伝承があった。刑期を終えた男が何年かぶりに我が家に戻ろうとするとき、妻が待っていてくれるだろうか不安になった。もし迎えいれてくれる気があるなら樫の木に黄色いリボンをつけておいてくれ。そうでなかったら家には寄らない、と書き送っておく。そしてバスから見えた風景には樫の木に黄色いリボンがつけてあったのだ。その言い伝えをハミルは少しアレンジして、1971年にニューヨーク・ポスト紙にコラム『Going Home』を書いた。1973年にオーランドとドーン(Dawn featuring Tony Orlando)が売り出したときハリムは自分が原作者だとして提訴したが、ドーンの歌の作詞者側に立った民俗学者が古くからの伝承を見つけたので訴訟を取り下げた。
1949年のジョン・ウェイン主演の騎兵隊ものの『黄色いリボン』があるが、これは娘が首に巻く黄色のリボンで、男への愛を示す合図だとのこれも伝承によるらしい。
で、ハミルの物語はどうなっているかといえば、ネットのあちこちに原文が出ている。
(例えば、https://nypost.com/2010/02/26/the-post-column-that-sparked-the-yellow-handkerchief/ )
Vingo sat there stunned, looking at the oak tree. It was covered with yellow handkerchiefs, twenty of them, thirty of them, probably hundreds—a tree standing as a banner of welcome Billowing in the wind. 

Vingoは刑期を終えた男の名前だ。かしの木にはハンカチがいっぱいだ。20枚、30枚、いや何百枚もあるぞ。かしの木は風をはらんでふくらんだ歓迎の幕のようにみえた。
というぐあいで、歌の文句のリボンはハンカチに変えられている。ハミルのコラムもリボンではなく、ハンカチをつけてくれ、と手紙に書いたとなっている。なんだ、これなら山田映画の原作と言ってもいいのでは、と私は思いなおした。山田洋次は物語を聞いて「樫の木に黄色いリボンが花のように咲く」のをイメージしたそうだけれど、これは倍賞が伝えた歌の方の物語の印象なのだろう。
Tonyが歌う曲のおしまいは、たくさんのリボンになっている。
    a hundred yellow ribbons round the ole oak tree
    I'm comin'  home
   (Refrain) Tie a yelllow ribbon~

サックスの渡辺貞夫の娘さん、倍賞千恵子、山田洋次のリレーで物語が映画になったエピソードもネットに教わった。
ハミルの代理人によると、ハミルは日本の電気製品がアメリカ市場を荒らしているとして日本に好意を持っておらず、作品の上映は日本国内限定で海外に出すことは絶対に認めないとの条件がつけられた。作品が好評を得た松竹が輸出したいと望んで、山田洋次がアメリカまで出向いてハミルに試写を見てもらった。ハミルは「ビューティフル」と喜んで承諾が得られたとも書いてあった。(Wikipedia 「幸福の黄色いハンカチ」)
以上、他愛のない話ではあるが、日本では映画が大ヒットした。英語の音曲は流行る範囲が狭い。だが、シンガポールで日々を過ごした私たちが思い出すのは、この歌である。メロディーが頭の中で鳴り出すと、とたんに数年間のあれこれがイメージとなって押し寄せてくる感がする。たまたまお盆だ。亡きT氏にあらためてこの物語を手向けて冥福を祈ろう。(2020/8)
追記:ハミル氏のコラムを映画の原作と呼んでいいかどうか、は実はどうでもいいことです。アメリカには黄色いリボンまつわる伝承があったのは事実でしょう。私としてはハミる氏の訃報を教えてくれた「天声人語」が"Tie a yellow ribbon~"の音楽を思い出させてくれたことが、往年の様々なことにつながったわけです。ただそれだけのことのために、この文章を書きました。それにしてもたかがリボンとハンカチがこんぐらがって、やはり我が脳細胞が衰えていることが証明されました。以上