2014年7月30日水曜日

読書随想 『粕谷一希随想集 Ⅰ忘れえぬ人びと』 (藤原書店2014年)

粕谷一希(かすや かずき1930-2014年)、評論家。東大法学部卒、55年中央公論社、67年編集長、78年退社。雑誌創刊編集経営など、著書多数。
著者粕谷氏は心不全のため530日に亡くなった。奇しくも随想集の奥付の日付と同じ日である。
忘れえぬ人びと、たとえば目次の「先人たち」には小林秀雄と丸山真男、保田与重郎と竹内好、中山伊知郎と東畑精一、林達夫、田中美知太郎・・・などの名が並ぶ。私は名前は知っていてもそれらの人物の業績や学識には不案内である。粕谷一希氏は東大法学部を卒業したが、ジャーナリストを志して中央公論社に入った。編集者として名が高い。世間との交流は広いし、なかでもここに例示した人たちには親しく接して教わることも多かったのだろう。
さて、この機会に少し勉強してみようと考えて読み始める。小林秀雄だけは学生時代少しかじってみたが文章が難しくて目は字面を追うだけで理解が出来なかった。それでも読んだつもりでいたのだから若いというのはいい気なものだ。今読んでも同じ程度に分からない。だから諦めた。

ほかの人たちについても著者が評する内容には当時の用語がたくさん含まれる。有名な言葉には「近代の超克」がある。一時勉強してみたがもう忘れているし、今はもういいやという気分になる。そんなわけで「Ⅱ先人たち」に挙げられたなかで真面目に読んだのは竹山道雄の項だけである。この人の芯のある自由主義を今知ろうとしているから読める。そう、関心があるから読めるのであって、気を惹かれないことは読みづらい。それでも京都大学と東京大学の学風の違いだとか、個々の人物論的な部分は興味が持てる。それでいいではないかと思っている。

「Ⅱ先人たち」に採用された粕谷氏の文章は主として雑誌『諸君!』等に載った評論である。その対象は取り上げられた人たちの思想であり論考である。だから当然論評された中身を知らなくては理解が難しい。粕谷氏の言い分を理解するためには批評の対象になった文章を読むしかない。
ここで『諸君!』に初出の文章はのちに『対比列伝―戦後人物像を再構築する』(新潮社1982)に収められていると末尾の初出一覧にある。この本についてのブログがあった。ラッキー!
戦争知識人と言われる哲学者・思想家・文学者・評論家・批評家・大学教授たちが、日中から真珠湾攻撃を経て太平洋戦争にのめり込んで行く日本国家に対して、戦争中にはどのような立ち位置で臨んでいたのか、そして敗戦後にその自らの戦中の言論に対してどう対応したか簡潔にまとめられています。(http://hp.shr-horiuchi.com/?eid=1421620
こういう親切なブログは大変助かる。いわれてみればこの『粕谷一希随想集Ⅰ』は全体を通じて戦中戦後の世の風潮の移り変わりに対して個々の人物がどう対応したかが底流になっていることに気がつく。そこで、そんならもういっぺん読んでみようか、と思いが新たになる。

「Ⅲ同時代を生きて」と「Ⅳ教えられたこと」は人物についての話が多くなるので読みやすい。

冒頭の「Ⅰ吉田満の問いつづけたもの」は『戦艦大和ノ最期』の著者と粕谷氏の思いが重なることについて記されている。構成は「『戦艦大和ノ最期』初版の跋文について」(『吉田満著作集上巻』の月報)と「吉田満の問いつづけたもの」(『鎮魂吉田満とその時代』文春文庫2005の序章)である。跋文を寄せた5人は吉川英治、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫、小林秀雄であるが。今この名前を見たときにどれも右翼ですねという評を下す向きもある。しかし、粕谷氏は、
戦後の風潮に同調しなかった人びとであり、自らの生を生き抜いた人びとである。そして吉田満という存在、『戦艦大和ノ最期』という作品が、この人びとと響き合っていることが、巧まぬ暗号であり、日本人がアイデンティティを貫いて生きることの意味を、豊かに語りかけているのである。
と記している。

アイデンティティを貫いて生きるということばは吉田満自身が書いている。
戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティそのものが、抹殺されたのである。(中略)苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務に縛られていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さの中に埋没した。(「戦後日本に欠落したもの」)
こういうくだりになると同時代人である私はすんなりと理解できるし、日ごろのもやもやが晴れるような気分になる。
『戦艦大和ノ最期』は占領軍の規程によって発禁処分とされたが、その理由は戦争肯定、軍国主義鼓吹の文学であるという判断であった。それを当然と受け止めた当時の進歩的知識人、ジャーナリズムの評価は粕谷氏のひそかに反対するところであったようだ。吉田満はこういう当時の風潮を経験して、ともに闘いながら死んでいった仲間達の死の意味を考え続けていたのである。

戦後まもなく出版されて大きく話題になった『きけわだつみの声』の編集態度について粕谷氏は疑問を呈している。
「戦争目的を信じて死んでいった学生の手記はあまりに無惨であるから」という理由で除外され、懐疑的あるいは批判的な手記だけが収録されている。やがてそれは反戦平和の運動体、日本戦没学生記念会(わだつみ会、昭和25年結成)へと発展してゆく。そこには当然、一定の戦争観が前提とされていたのである。
あの本がこのように偏向していたとは、知るよしもなかったし、騙されていたというより操作されていたのだ。遅まきながら怒りを覚える。
ポツダム宣言に盛られた勝者のイデオロギーをそのまま、無条件に真実としており、やがてこの姿勢は東京裁判という勝者の裁きを文明の裁きとして受け入れる態度につながってゆく。これでは戦争で死んでいった者たちは浮かばれまいあの克己心と自己抑制に満ちた吉田満がときとして間歇的に激情的ともいえる口振りで、
一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?
と書いた。

多くの死傷者を抱え、家や資産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人びとの立場を考えると、815日を迎えたときの解放感や腹の底からの笑いは違和感を拡大させる。それぞれの解放感は抑制して死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。その通りだと私も思うがその当時はそんなことは考えられなかった。

敗戦国民として日本人は当初、占領軍を迎えるに当って緊張感、悲壮感に満ちていた。終戦の詔勅の「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍」ぶのが運命であり、占領の現実であろうと考えた。
しかし、占領軍のとった建前は解放であった。帝国の解体と軍事能力の除去を狙いとしながら、他面で日本社会の民主化であった。「抑圧と解放」という二重の作業を遂行しようとした。日本人自身による敗戦を終戦と言い換えた二重性、占領軍による抑圧と解放という二重性、
おそらくこの二つの二重性こそ、戦後日本の歴史解釈をめぐっての根源的矛盾であり、困難さなのである。吉田満に代表される問いかけと鎮魂への祈りは敗戦と占領の一九五〇年代を通して、ほとんど掻き消されるようなかぼそい声にすぎなかった。

このように粕谷氏に言われてみれば、そのころ、社会人への入り口に立とうとしていた自分の生活態度もやや苦々しく思えてくる。『鎮魂吉田満とその時代』は読んでみなくてはなるまい。



『戦艦大和ノ最期』は著者の吉川英治氏との面談に始まって原稿が一晩で書かれたという伝説的な話、小林秀雄による絶賛、占領軍による発禁を経て出版されるまでの経緯をめぐって研究もされている。私が見ることの出来た範囲の資料で多少の記録をつけ加えておきたい。
執筆の契機について粕谷氏は吉川英治氏のことから始めている。
吉川英治は昭和期の代表的国民文学の形成者であると同時に、満州事変を”日本の曙“と期待した素朴な庶民感情の持ち主でもあった。日本の大多数の庶民が素朴に”日本の正義”を信じたように、吉川英治も真面目に國を憂え、敗戦によって傷ついた。しかし吉川英治はその傷を糧として後半生を生きる器量を持っていた。
『新平家物語』を通じて、世の無常、敗者の美学を謳い上げることで吉川英治は戦後に復活したのであった。

吉川英治は戦中・戦後、都下吉野村に疎開していた。吉田満の父もたまたま同じ村に疎開していて吉川家をよく訪れていた。あるとき吉田満は父に連れられて吉川に会った。
 
初対面であったものの 吉田満青年は吉川英治の穏やかな人生談義を聴いているうちに 引き出されるままに苛酷だった戦艦大和の艦上における生死をかけた戦闘場面を語り 多くの戦友を失った感懐などを迸るように語っていた。端座して身じろぎもせず 相槌も打たずに耳を傾けていた吉川英治の 吉田満を見つめる瞳に涙が湧き上がってきたという。聴き終わってから吉川英治は言った。 「君はその体験を必ず書き記さねばならない 。それは自分自身に対する義務であり 、また同胞に対する義務である 。それは日本の記録であり 世界の記録だからである。」
(古屋三郎;Otsuka Forum No.29 http://www42.tok2.com/home/otsukaeigo/forum/otsukaforum29.pdf)
 「——あなたの通ってきた生命への記録を書いておくべきだ。」自らの傷を癒やしていた大作家は、若者に語りかける真率な言葉を失っていなかった。そして奇蹟の生還を遂げた青年はその言葉に応えて『戦艦大和ノ最期』を一夜にして書き上げたのであった。(粕谷;初版跋文について」)

さて、この一夜にして書き上げられた原稿は大学ノートに書かれていたらしいが確証はない。
Ohmura-study netには改稿の軌跡と戦後というサイトがあり、江藤淳氏の『閉ざされた言語空間』の内容にも言及している。脚色の多そうな古屋三郎氏のサイトと合わせて読まないといけないが、結局はホントのことは分かりそうにない。占領軍の検閲の問題のほかに吉田氏の原稿がいくつかの段階を経て初稿から変化していたり、吉田氏の記憶違いが指摘されていたりもする。
よるべき資料も十分でない一般読者としては枝葉にとらわれず著者の心を読み取ることで満足すべきであろう。その意味で私は粕谷氏を頼りたく思う。

随想集Ⅰの編集者は新保祐司氏である。いくつか作品を拝見しているが、優れた評論家であると思う。生前の粕谷氏も高く買っていたらしいことが、序文「この随想集について」に述べられている。本書が良書であることは間違いない。(2014/7/30)






2014年7月20日日曜日

読書随想 露伴を読む(1)

「雪たたき」(昭和14年)

雪たたきは下駄の歯の間に固く挟まった雪のかたまりをたたき落とすことをいう。
鳥がその巣を焼かれ、獣がその穴をくつがえされたときはどうなる。心は乱れ、目はうつろに、
ただ脅え、警戒し、緊張し、いたづらに闘争的になるであろうと、冒頭に5行の文を置く。これで作品の時代の様相を表わしている。
応仁、文明、長享、延徳を経て、今は明応2年の12月の初めである。西暦でいえば1493年に当たる。前年にはコロンブスが新大陸に到着したが、日本の中は下克上の時代、将軍家が落ち着かず荒れに荒れている。
泉州堺は静かな屋敷町の裏通り、傘の代りに古筵をかぶった男一人、禄を離れた侍らしい。雪も止みかけ、筵を捨てて早足になろうとして下駄の雪に足を取られ躓きそうになる。
エーッ邪魔なとばかり目の前の小門の裾板に下駄をぶつける。二度三度繰り返すと雪塊が抜けた。と同時に門がすっと開いた。
門が開いたのは男の意外であったが、読者の意外はこれが始まりで数奇な物語に導かれる。屋敷の主は堺の豪商、いまは海外に出て留守であった。下駄の音が秘密の合図と勘違いした侍女の過失から邸内に導かれた男は、失礼の詫びを受けて立ち去る。謝金のほかに室内に丁重に置かれていた笛を持ち去る。
笛がなくては娘の命にもかかわる豪商の隠居、身代にかえてもお返しくだされというのに、損得では意地でも動かぬ男の意志、割って入ったは旧主を盛りたて再興を図る一味の面々。あわや血を見ようかとまでの激論に男は意地を曲げる。「損得にそれがしも引き廻されてござるかな」。
足利将軍家の跡目争いに端を発した明応の政変の余波で家督争いに負けた畠山尚慶の再挙を題材にとった史伝物語である。露伴の筆にかかると血なまぐさい世の中でもしっかりと商売にいそしむ堺商人の暮らしと争いに明け暮れる武士の世界があたかも絵巻物の一巻でもあるように浮かび出る。「雪たたき」という閑雅な響きの表題は新派の舞台に掛けてもよし、講談でもよし、浪曲師も使いたくなろうかという庶民にもわかりやすいお話。

余談になるが、一般に漢字漢語が多くて読みにくいとの露伴評は、ここでは必ずしも当たらないと思う。たしかに漢字が多いが、この全集には旧仮名遣いのルビが振ってある。全集の編集者は蝸牛会となっているが、全集のどこにもその構成員や編集方針などが見当たらない。したがって、ルビや仮名づかいの取り扱い方針などは分からない。僅かに私は研究者の論文中に蝸牛会6名の名を発見し得た。すなわち、幸田文、斎藤茂吉、柳田泉、小林勇、土橋利彦、松下英麿である。(「目野由希 露伴「史伝」の戦中戦後――松下英麿の軌跡――」

( 露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)




「幻談」(昭和13年)

一席の高座を聴く趣の短編である。
はじめに、山や海に出掛けると神秘的なことや怖ろしいことにも出会うと言いながら、外国のお話を軽く紹介します。アルプスのマッターホルン初登頂に成功したウィンバーが語ったという登攀記の一節です。下山にかかってのこと、半数の4人が滑落します。上で4人が踏みこらえます。落ちる4人とこらえる4人の間でロープは力足らずして切れてしまいました。下の4人は4千尺ばかりの氷雪の處を逆落としに落ちていきます。午後6時ごろ幾分安全な場所まで降りて来ました。つい先刻まで一緒にいた人々がもはやいない、という虚ろな気分です。そのとき4人の目に見えた不思議な光景がありました。そのすこしこの世でないような情景を描写したのち、「心は巧みなる畫師の如し」という経文の言葉でおさめます。これがいわばマクラに当たります。
さて本題は、というところで趣味の魚釣りと閑職にまわされたお侍ののんきな暮らしの話になります。大川に釣り船を出して、ときには江戸前の海までゆく。馴染みの船頭が約束の日に迎えに来ておもむろに出掛ける。雲行きの怪しい日にはきょうは旦那はどうするかなと遅い時間に様子を見に来て、昼になると旦那は座敷で、船頭は台所にさがって昼飯をとる。さて行こうか、という具合な往時の日常が描かれます。露伴自身、釣りが大層好きだったそうですから、仕掛けや竿など道具の蘊蓄を傾けるのも楽しそうです。
こうした日常のある日、遅くまで海にいて薄暗くなってから帰りを急ぐとき、ふと向こうの水面に妙な物が見えます。はてなと船頭を見ると同じように首をかしげている。ということがあって、その見えたものがなんであるか、それをどうしたか、その次の日はという具合に話が進んでいきます。
おしまいは伏せておきますが、緩急を心得た話の展開です。江戸っ子の露伴がしゃべらせるのですから船頭の話しっぷりも生きがいい。これなら露伴さんも高座に上がってもずいぶん客がついたろうなどと失礼なことも考えたくなりました。
兎に角面白いのです。おしまいのぼかしぶりも大変よろしい。名作です。
(露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)

連環記 (昭和15年)

「かものやすたね」という人の話で始まる。賀茂保胤であるが、慶滋保胤と書く。生年没年は承平3933)年―長保4(1002)年とされるが確かには不明のようである。陰陽師安倍晴明の師の賀茂忠行の次男であるが家業の陰陽師にはならず、儒家であり詩歌に優れた菅原文時に師事した。文時は道真の孫、従三位、漢詩の巨匠であるが、保胤も資質高く弟子の上位にあり、詔勅・記録を司る大内記にまでなった。
保胤の仕える具平親王は保胤を師としていたが、この師は世事には一切興味を示さず、「出世間の静寂の思いに胸が染みて」いて、親王への講義がひととおりすむと、なかば瞑目するようにして口の中でかすかに何か念じるようにしていたという、少し変わった先生ではあったらしい。狂言綺語(詩歌のこと)をもって仏法をたたえる縁としたいという白楽天のような思想を保胤は是としたところであろうことは疑いないと露伴は述べている。
保胤がいかに慈悲心の強い人物であったか、いくつかの逸事が紹介されているが、ことにあって涙を流す様子は尋常ではなかった。時にはそのために自身も困難な目に遭うこともあった。そういう話も今鏡に遺されている。世才に疎いのはやむを得ぬことで長年借家住まいをしていたが50歳にちかい頃、六条に安い土地を買って居宅を作った。その記録は池亭記として遺った。またこの池亭に住まいしながら本朝善男善女四十余人の幸せな往生事実を記録して日本往生極楽記を著わした。
ここまでの保胤の事績を露伴は漢語漢文調の言い回しを駆使して面白おかしく書き綴っている。すべて現代文のふりがな付きとは言え、意味をとるには辞書もいるが、調子の良さに引きずられてしまう。
このあと、保胤は遂に落髪出家をしてしまう。戒師が誰であったかまったく記録がないそうな。
また妻も分からず子もあったはずだが系図にも見当たらないという。妻子ともに普通の人であったろうが、「善人ではあったろうが所謂草芥とともに朽ちたものと見える」とある。
保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖と呼んだ。

このあと、寂心、朋友源信、叡山の高僧増賀のこと、大江匡衡とその妻赤染右衛門、大江定基と妻、この妻には名がないわけではないが当時のならいとして記録がない、そして三河赤坂の長の娘の力寿などが登場する。定基と匡衡は従弟同士である。また定基も保胤と同じ文時を師とする流れにあり自然交流もあったろう。
定基と妻、力寿の三角関係の調停に赤染右衛門と大江匡衡が乗り出す場面は、露伴は前もってこれからでたらめを書く、ただし、定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演したことであると断っている。創作ではあるが、まるっきりあり得ないことではない人物のつながりはある。

定基が若くして三河の守に任じられて赴任先で力寿を見初めてしまったが、すでに定基には妻があった。赤染右衛門はあわれな定基の妻を見かねて、夫匡衡をたきつけて定基の改心を図るが、定基は妻を離縁してしまう。ところが、程なくして力寿も病を得て儚く世を去る。定基は惚けたように時を過ごし棺を覆うて弔うべしとの命令も下さないから、遺体はいつまでも傍らにある。古い書き物によれば、「悲しさの餘りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出来たりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなくはふりてける」とようやく始末を付けた。
このくだりについて坊さんの虎関の文と比べて大納言のは好いと露伴は書く。大納言は宇治拾遺物語の著者、宇治大納言源の隆国と思われる。ただし露伴は力寿の名は『宇治拾遺』にはないと書いている。三河守定基と力寿の話は『今昔物語』にも有名である。余談になるが豊川市には江戸時代に立てられた力寿の石碑があり記念の桜が年ごとに人を呼んでいる。
やがて定基は官職を捨てて東山如意輪寺を訪れる。そこには保胤のなれの果て(と露伴はいう)の寂心がいた。定基が剃髪して得度を受けて寂照と名乗ったのは三十歳そこそこだった。寂心の友であり師でもある恵心の教えも得て修道に励む。

「寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其諷誦文(ふうじゅもん)を大江匡衡が作ってゐる。そして其請状は寂照が記してゐる。」露伴は『寂心上人伝』の存在を紹介して、寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆に在(いま)すことを或る人が夢みたと記してあると。世を哀しんだ寂心と、寂心を懐かしんだ世の人々のこころがこういうことを伝えるに至ったのであろうと述懐している。寂心が池亭で編んだ往生極楽記につづいて大江匡房が続本朝往生伝を撰し寂心(保胤)も採録されている。「法縁微妙、玉環の相連なるが如しである」と露伴は記す。『連環記』の所以であろう。

寂照はやがて師恵心の意を受けて南宋の僧知禮に宛てた問目二十七条を携えて渡海する。問目を閲読した知禮は東方にこのような深い理解をした人があるかと大いに感心して答釋を作ることになった。また知禮は寂心を宋の天子にも紹介したので、紙筆を求めて日本の国のことを説明する機会を得た。文章の人であるから文字といい文といい宗主(眞宗しんそう)を驚嘆せしめ、日本の国体を賛美措くあたわず、紫衣束帛を賜り圓通大師の号を賜った。やがて知禮の答釋ができあがったが、寂照は引き留められ代りに弟子に持たせて日本に送ることになった。かくして寂照は呉門寺に留まり帰国することはなかった。仏の弟子になったからにはどこに居ても易らぬ理屈で、呉にあること三十余年、我が国でいえば長元七(1304)年「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾として微笑して終った。

保胤の寂心、定基の寂照の二人をめぐるさまざまな人と人生絵図、平安期の貴族政治、浄土思想の世であるからにはどうしても叙述には漢字漢語が横溢する。途中赤染右衛門が登場するあたりになると和歌も登場するから、男性は漢字、女性はかなの世界となり文章もかなりくだけたものになっている。露伴はでたらめを語るといいながら俗諺俗謡の調子も取り入れ、なかなかのご機嫌である。本作をもって小説は終わりにしたらしいが、ずいぶんと楽しみながら書いたように思える。漢詩は読み下し文にしてあるが、仏説、仏法に関する言葉など読むには少し苦労が要る。
しかし、変幻自在というのもおかしいがじっくりと楽しめる作品であった。
『連環記』は「日本評論」昭和156月号と7月号に発表された。この年2月には皇紀2600年の大祭が催された。翌年末には太平洋戦争を仕掛ける。日本中が昂揚しているこういう時期にこういう作品を悠々と書いていたことは、「紅旗征戎わが事にあらず」と『明月記』に記した藤原定家を連想する。寂照が入宋して天子にまみえるくだり、「寂照は紙筆を請ひて、我が神聖なる國體、優美なる民俗を答へ述べた」。神聖なる國體という言葉遣いは時流に合わせたのかもしれない。当時一般に考えられていた國體とは字面は同じでも内実が別のものである気もする。露伴は言葉に関しては音幻論があるように言語は音声という考えの持ち主、と同時に市井の庶民の言葉を大切にした人であると私は考える。現在の目で見れば難しい漢字も多いが、漢字かな混じり文という日本語を大切にした作家と思う。旧仮名遣いを追って読んでいるうちに久しぶりに心の内なる自分の言葉に出会う心持ちがしていたことを特に記しておきたい。
(露伴全集 第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年 第二刷)

2014年7月1日火曜日

読書随想 ロジャー・パルバース『驚くべき日本語』(集英社インターナショナル、2014年)

1944年アメリカ生まれ。ロシア語、ポーランド語、日本語を習得。1967年以来、出たり入ったりしながら日本に住んでいる。イギリス人の奥さんと4人の子ども、全員が日本語で話せるバイリンガル家族。これが著者のおおざっぱなプロフィルです。

この本は表題が示すように日本語はすばらしい言葉だから日本人はもっとその良さを知って、世界中に広めて活躍したらどうですかというお勧めを語っています。
日本語は特別でも何でもない、むしろやさしい言葉といいます。やさしいというのは名詞に女性形や男性形という区別もないし、動詞の変化も簡単だから覚えるのに簡単だというのです。

自分は系統の違う言葉を四つ、つまり、母語である英語のほかにロシア語、ポーランド語、日本語を4年間でマスター出来た。それはどうしてできたかというに、自分の頭を白紙状態の石版にして、その言葉の一つひとつの文字や言葉、語句を書きつけていったのだそうです。白紙状態の石版とは彼がヒントを得ているギリシャ・ローマ神話に登場する予言者シュビラが手に持っている薄い板、タブレットです。その絵ではシュビラは何も書かれていない板を指さしています。人間が知識をいかにして獲得するのかを象徴的に示しているのだそうです。
ベラスケス「タブラ・ラーサを持つ巫女」
タブラ・ラーサは「消されたタブレット」(ラテン語)で、英語では「白紙状態」と表現すると説明しています。ネットで調べると、ロックの認識論の基礎に用いられていて「生まれたばかりの人間の心」の状態をいうとありました。これはパルバースの論と同じです。

言葉を覚える前の赤ん坊なら.日本人でも英語のLとRの聞き分けができると聞いていますが、パルバースさんも同じ理屈で他言語を覚えたということです。
さて、それは具体的にどうすればいいのだろうと読者は考えますが、答えはこの本にはありませんでした。異国人の中に入って自分がそこの人間だと思って言葉を覚えた体験は別の本『もし、日本という国がなかったら』に書いてあると述べています。彼も商売人ですね。
また、日本語論のディベートに備えるみたいにして、敬語の難しさ、はっきり自分を主張しない、など日本語の難癖について述べていますが、それは態度であり、文化の問題であって日本語自体に問題があるわけではないと明確です。

言葉の意味は文脈に依存するのはどこの言葉でも同じですから、どういう場合にはどう言えばいいかを経験的に覚える必要があります。辞書と首っ引きで辞書的な意味だけ覚えても仕方ないことは、はっきりしているのに昔式の受験勉強を続ける愚は避けたいものです(とまでは書いてありませんが)。

また、彼は言葉は中立だからこそ変化するのだということを見抜いています。ですから、「見れる」「食べれる」などの「ら抜き」言葉を認めます。これらは日本語教育の主流をなす先生方は眉をひそめますが、音声学的に日本語を考える人は舌が要求する合理性だからと肯定的だと思います。彼はまた、「マジ」「マジッすか?」もなかなかいいではないかと肯定的です。このあたりになると賛否が分かれるかもしれませんが、実際に世の中で使う日本語を覚えたい外国人には避けて通れない使い方ですから、「それは正しい日本語じゃありません」などと言っていられないのが実情でしょう。こういう面から言えば古い世代の日本語教師は自らを危険な年齢とわきまえる必要があるでしょう。

さて、パルバースがこの本で論じるのは主として話し言葉です。話し言葉について言えば、日本語は英語と同じように世界の普遍言語に十分なれるのだと主張します。問題は日本人が日本語を特別視することにあると。
最後に宮澤賢治礼賛論があります。つまり賢治は自然の音を拾って言葉にするのがじょうずだったわけです。それはそれでいいのですが俳句や和歌の言葉の音の響きについて論じる部分は疑問が残ります。著者も認めるように賢治にしても日本の詩歌にしても、自然の音を声に出していうだけでなく、文字にもうまく表現します。音と意味と文字がうまくかみ合うから心地よく感じられるわけです。著者もここでは音の響き論に文字の介入を認めます。著者は日本語で読み書きも十分に出来る人ではありますが、文字の学びかたについては、かなとローマ字併用あたりを示唆するにとどめています。

この本は外国人にとって日本語は難しくないことを力説しています。だから日本人も日本語を特別視しないで普及に努力すればいいと主張します。しかしながら、いまだに外国人が日本語をしゃべると不思議そうな目を向ける情景が当たり前的なことは彼も知っているのです。

著者は日本語を学ぶ外国人の視点で主張していますが、日本語を教える立場の日本人から言えば現実は十年一日のように、それは無理な相談みたいな思い込みが相変わらず強いと思います。その理由は日本人が自分たちの言葉に無関心だということにもよるのですが、まず政府から歴史的にそうなのですから、古い言い回しですけど、ホトンドビョーキです。東京オリンピックが決まってまたぞろ「英会話」とかが呪文のようになってきました。それもいいですが、外国人に相対したときには、たとえひと言でも自分たちの言葉で外国人に伝えることをこころみる気持ちが持てるようになれればいいなと思います。そういう関心から自分たちの言葉を振りかえる習慣が生まれるだろうと私は考えます。

パルバースが日本語はどんなに便利な言葉か、その柔軟性を第3章に述べていますが、その内容は現在の日本語教育で用いる文法知識とほとんど同じです。外国人に自分たちの文法を教わらなくてはならないほど日本人は日本語を知らないのだと著者に言われているわけです。考えてみれば、くやしいことではないでしょうか。