2014年7月30日水曜日

読書随想 『粕谷一希随想集 Ⅰ忘れえぬ人びと』 (藤原書店2014年)

粕谷一希(かすや かずき1930-2014年)、評論家。東大法学部卒、55年中央公論社、67年編集長、78年退社。雑誌創刊編集経営など、著書多数。
著者粕谷氏は心不全のため530日に亡くなった。奇しくも随想集の奥付の日付と同じ日である。
忘れえぬ人びと、たとえば目次の「先人たち」には小林秀雄と丸山真男、保田与重郎と竹内好、中山伊知郎と東畑精一、林達夫、田中美知太郎・・・などの名が並ぶ。私は名前は知っていてもそれらの人物の業績や学識には不案内である。粕谷一希氏は東大法学部を卒業したが、ジャーナリストを志して中央公論社に入った。編集者として名が高い。世間との交流は広いし、なかでもここに例示した人たちには親しく接して教わることも多かったのだろう。
さて、この機会に少し勉強してみようと考えて読み始める。小林秀雄だけは学生時代少しかじってみたが文章が難しくて目は字面を追うだけで理解が出来なかった。それでも読んだつもりでいたのだから若いというのはいい気なものだ。今読んでも同じ程度に分からない。だから諦めた。

ほかの人たちについても著者が評する内容には当時の用語がたくさん含まれる。有名な言葉には「近代の超克」がある。一時勉強してみたがもう忘れているし、今はもういいやという気分になる。そんなわけで「Ⅱ先人たち」に挙げられたなかで真面目に読んだのは竹山道雄の項だけである。この人の芯のある自由主義を今知ろうとしているから読める。そう、関心があるから読めるのであって、気を惹かれないことは読みづらい。それでも京都大学と東京大学の学風の違いだとか、個々の人物論的な部分は興味が持てる。それでいいではないかと思っている。

「Ⅱ先人たち」に採用された粕谷氏の文章は主として雑誌『諸君!』等に載った評論である。その対象は取り上げられた人たちの思想であり論考である。だから当然論評された中身を知らなくては理解が難しい。粕谷氏の言い分を理解するためには批評の対象になった文章を読むしかない。
ここで『諸君!』に初出の文章はのちに『対比列伝―戦後人物像を再構築する』(新潮社1982)に収められていると末尾の初出一覧にある。この本についてのブログがあった。ラッキー!
戦争知識人と言われる哲学者・思想家・文学者・評論家・批評家・大学教授たちが、日中から真珠湾攻撃を経て太平洋戦争にのめり込んで行く日本国家に対して、戦争中にはどのような立ち位置で臨んでいたのか、そして敗戦後にその自らの戦中の言論に対してどう対応したか簡潔にまとめられています。(http://hp.shr-horiuchi.com/?eid=1421620
こういう親切なブログは大変助かる。いわれてみればこの『粕谷一希随想集Ⅰ』は全体を通じて戦中戦後の世の風潮の移り変わりに対して個々の人物がどう対応したかが底流になっていることに気がつく。そこで、そんならもういっぺん読んでみようか、と思いが新たになる。

「Ⅲ同時代を生きて」と「Ⅳ教えられたこと」は人物についての話が多くなるので読みやすい。

冒頭の「Ⅰ吉田満の問いつづけたもの」は『戦艦大和ノ最期』の著者と粕谷氏の思いが重なることについて記されている。構成は「『戦艦大和ノ最期』初版の跋文について」(『吉田満著作集上巻』の月報)と「吉田満の問いつづけたもの」(『鎮魂吉田満とその時代』文春文庫2005の序章)である。跋文を寄せた5人は吉川英治、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫、小林秀雄であるが。今この名前を見たときにどれも右翼ですねという評を下す向きもある。しかし、粕谷氏は、
戦後の風潮に同調しなかった人びとであり、自らの生を生き抜いた人びとである。そして吉田満という存在、『戦艦大和ノ最期』という作品が、この人びとと響き合っていることが、巧まぬ暗号であり、日本人がアイデンティティを貫いて生きることの意味を、豊かに語りかけているのである。
と記している。

アイデンティティを貫いて生きるということばは吉田満自身が書いている。
戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティそのものが、抹殺されたのである。(中略)苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務に縛られていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さの中に埋没した。(「戦後日本に欠落したもの」)
こういうくだりになると同時代人である私はすんなりと理解できるし、日ごろのもやもやが晴れるような気分になる。
『戦艦大和ノ最期』は占領軍の規程によって発禁処分とされたが、その理由は戦争肯定、軍国主義鼓吹の文学であるという判断であった。それを当然と受け止めた当時の進歩的知識人、ジャーナリズムの評価は粕谷氏のひそかに反対するところであったようだ。吉田満はこういう当時の風潮を経験して、ともに闘いながら死んでいった仲間達の死の意味を考え続けていたのである。

戦後まもなく出版されて大きく話題になった『きけわだつみの声』の編集態度について粕谷氏は疑問を呈している。
「戦争目的を信じて死んでいった学生の手記はあまりに無惨であるから」という理由で除外され、懐疑的あるいは批判的な手記だけが収録されている。やがてそれは反戦平和の運動体、日本戦没学生記念会(わだつみ会、昭和25年結成)へと発展してゆく。そこには当然、一定の戦争観が前提とされていたのである。
あの本がこのように偏向していたとは、知るよしもなかったし、騙されていたというより操作されていたのだ。遅まきながら怒りを覚える。
ポツダム宣言に盛られた勝者のイデオロギーをそのまま、無条件に真実としており、やがてこの姿勢は東京裁判という勝者の裁きを文明の裁きとして受け入れる態度につながってゆく。これでは戦争で死んでいった者たちは浮かばれまいあの克己心と自己抑制に満ちた吉田満がときとして間歇的に激情的ともいえる口振りで、
一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?
と書いた。

多くの死傷者を抱え、家や資産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人びとの立場を考えると、815日を迎えたときの解放感や腹の底からの笑いは違和感を拡大させる。それぞれの解放感は抑制して死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。その通りだと私も思うがその当時はそんなことは考えられなかった。

敗戦国民として日本人は当初、占領軍を迎えるに当って緊張感、悲壮感に満ちていた。終戦の詔勅の「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍」ぶのが運命であり、占領の現実であろうと考えた。
しかし、占領軍のとった建前は解放であった。帝国の解体と軍事能力の除去を狙いとしながら、他面で日本社会の民主化であった。「抑圧と解放」という二重の作業を遂行しようとした。日本人自身による敗戦を終戦と言い換えた二重性、占領軍による抑圧と解放という二重性、
おそらくこの二つの二重性こそ、戦後日本の歴史解釈をめぐっての根源的矛盾であり、困難さなのである。吉田満に代表される問いかけと鎮魂への祈りは敗戦と占領の一九五〇年代を通して、ほとんど掻き消されるようなかぼそい声にすぎなかった。

このように粕谷氏に言われてみれば、そのころ、社会人への入り口に立とうとしていた自分の生活態度もやや苦々しく思えてくる。『鎮魂吉田満とその時代』は読んでみなくてはなるまい。



『戦艦大和ノ最期』は著者の吉川英治氏との面談に始まって原稿が一晩で書かれたという伝説的な話、小林秀雄による絶賛、占領軍による発禁を経て出版されるまでの経緯をめぐって研究もされている。私が見ることの出来た範囲の資料で多少の記録をつけ加えておきたい。
執筆の契機について粕谷氏は吉川英治氏のことから始めている。
吉川英治は昭和期の代表的国民文学の形成者であると同時に、満州事変を”日本の曙“と期待した素朴な庶民感情の持ち主でもあった。日本の大多数の庶民が素朴に”日本の正義”を信じたように、吉川英治も真面目に國を憂え、敗戦によって傷ついた。しかし吉川英治はその傷を糧として後半生を生きる器量を持っていた。
『新平家物語』を通じて、世の無常、敗者の美学を謳い上げることで吉川英治は戦後に復活したのであった。

吉川英治は戦中・戦後、都下吉野村に疎開していた。吉田満の父もたまたま同じ村に疎開していて吉川家をよく訪れていた。あるとき吉田満は父に連れられて吉川に会った。
 
初対面であったものの 吉田満青年は吉川英治の穏やかな人生談義を聴いているうちに 引き出されるままに苛酷だった戦艦大和の艦上における生死をかけた戦闘場面を語り 多くの戦友を失った感懐などを迸るように語っていた。端座して身じろぎもせず 相槌も打たずに耳を傾けていた吉川英治の 吉田満を見つめる瞳に涙が湧き上がってきたという。聴き終わってから吉川英治は言った。 「君はその体験を必ず書き記さねばならない 。それは自分自身に対する義務であり 、また同胞に対する義務である 。それは日本の記録であり 世界の記録だからである。」
(古屋三郎;Otsuka Forum No.29 http://www42.tok2.com/home/otsukaeigo/forum/otsukaforum29.pdf)
 「——あなたの通ってきた生命への記録を書いておくべきだ。」自らの傷を癒やしていた大作家は、若者に語りかける真率な言葉を失っていなかった。そして奇蹟の生還を遂げた青年はその言葉に応えて『戦艦大和ノ最期』を一夜にして書き上げたのであった。(粕谷;初版跋文について」)

さて、この一夜にして書き上げられた原稿は大学ノートに書かれていたらしいが確証はない。
Ohmura-study netには改稿の軌跡と戦後というサイトがあり、江藤淳氏の『閉ざされた言語空間』の内容にも言及している。脚色の多そうな古屋三郎氏のサイトと合わせて読まないといけないが、結局はホントのことは分かりそうにない。占領軍の検閲の問題のほかに吉田氏の原稿がいくつかの段階を経て初稿から変化していたり、吉田氏の記憶違いが指摘されていたりもする。
よるべき資料も十分でない一般読者としては枝葉にとらわれず著者の心を読み取ることで満足すべきであろう。その意味で私は粕谷氏を頼りたく思う。

随想集Ⅰの編集者は新保祐司氏である。いくつか作品を拝見しているが、優れた評論家であると思う。生前の粕谷氏も高く買っていたらしいことが、序文「この随想集について」に述べられている。本書が良書であることは間違いない。(2014/7/30)