2014年7月1日火曜日

読書随想 ロジャー・パルバース『驚くべき日本語』(集英社インターナショナル、2014年)

1944年アメリカ生まれ。ロシア語、ポーランド語、日本語を習得。1967年以来、出たり入ったりしながら日本に住んでいる。イギリス人の奥さんと4人の子ども、全員が日本語で話せるバイリンガル家族。これが著者のおおざっぱなプロフィルです。

この本は表題が示すように日本語はすばらしい言葉だから日本人はもっとその良さを知って、世界中に広めて活躍したらどうですかというお勧めを語っています。
日本語は特別でも何でもない、むしろやさしい言葉といいます。やさしいというのは名詞に女性形や男性形という区別もないし、動詞の変化も簡単だから覚えるのに簡単だというのです。

自分は系統の違う言葉を四つ、つまり、母語である英語のほかにロシア語、ポーランド語、日本語を4年間でマスター出来た。それはどうしてできたかというに、自分の頭を白紙状態の石版にして、その言葉の一つひとつの文字や言葉、語句を書きつけていったのだそうです。白紙状態の石版とは彼がヒントを得ているギリシャ・ローマ神話に登場する予言者シュビラが手に持っている薄い板、タブレットです。その絵ではシュビラは何も書かれていない板を指さしています。人間が知識をいかにして獲得するのかを象徴的に示しているのだそうです。
ベラスケス「タブラ・ラーサを持つ巫女」
タブラ・ラーサは「消されたタブレット」(ラテン語)で、英語では「白紙状態」と表現すると説明しています。ネットで調べると、ロックの認識論の基礎に用いられていて「生まれたばかりの人間の心」の状態をいうとありました。これはパルバースの論と同じです。

言葉を覚える前の赤ん坊なら.日本人でも英語のLとRの聞き分けができると聞いていますが、パルバースさんも同じ理屈で他言語を覚えたということです。
さて、それは具体的にどうすればいいのだろうと読者は考えますが、答えはこの本にはありませんでした。異国人の中に入って自分がそこの人間だと思って言葉を覚えた体験は別の本『もし、日本という国がなかったら』に書いてあると述べています。彼も商売人ですね。
また、日本語論のディベートに備えるみたいにして、敬語の難しさ、はっきり自分を主張しない、など日本語の難癖について述べていますが、それは態度であり、文化の問題であって日本語自体に問題があるわけではないと明確です。

言葉の意味は文脈に依存するのはどこの言葉でも同じですから、どういう場合にはどう言えばいいかを経験的に覚える必要があります。辞書と首っ引きで辞書的な意味だけ覚えても仕方ないことは、はっきりしているのに昔式の受験勉強を続ける愚は避けたいものです(とまでは書いてありませんが)。

また、彼は言葉は中立だからこそ変化するのだということを見抜いています。ですから、「見れる」「食べれる」などの「ら抜き」言葉を認めます。これらは日本語教育の主流をなす先生方は眉をひそめますが、音声学的に日本語を考える人は舌が要求する合理性だからと肯定的だと思います。彼はまた、「マジ」「マジッすか?」もなかなかいいではないかと肯定的です。このあたりになると賛否が分かれるかもしれませんが、実際に世の中で使う日本語を覚えたい外国人には避けて通れない使い方ですから、「それは正しい日本語じゃありません」などと言っていられないのが実情でしょう。こういう面から言えば古い世代の日本語教師は自らを危険な年齢とわきまえる必要があるでしょう。

さて、パルバースがこの本で論じるのは主として話し言葉です。話し言葉について言えば、日本語は英語と同じように世界の普遍言語に十分なれるのだと主張します。問題は日本人が日本語を特別視することにあると。
最後に宮澤賢治礼賛論があります。つまり賢治は自然の音を拾って言葉にするのがじょうずだったわけです。それはそれでいいのですが俳句や和歌の言葉の音の響きについて論じる部分は疑問が残ります。著者も認めるように賢治にしても日本の詩歌にしても、自然の音を声に出していうだけでなく、文字にもうまく表現します。音と意味と文字がうまくかみ合うから心地よく感じられるわけです。著者もここでは音の響き論に文字の介入を認めます。著者は日本語で読み書きも十分に出来る人ではありますが、文字の学びかたについては、かなとローマ字併用あたりを示唆するにとどめています。

この本は外国人にとって日本語は難しくないことを力説しています。だから日本人も日本語を特別視しないで普及に努力すればいいと主張します。しかしながら、いまだに外国人が日本語をしゃべると不思議そうな目を向ける情景が当たり前的なことは彼も知っているのです。

著者は日本語を学ぶ外国人の視点で主張していますが、日本語を教える立場の日本人から言えば現実は十年一日のように、それは無理な相談みたいな思い込みが相変わらず強いと思います。その理由は日本人が自分たちの言葉に無関心だということにもよるのですが、まず政府から歴史的にそうなのですから、古い言い回しですけど、ホトンドビョーキです。東京オリンピックが決まってまたぞろ「英会話」とかが呪文のようになってきました。それもいいですが、外国人に相対したときには、たとえひと言でも自分たちの言葉で外国人に伝えることをこころみる気持ちが持てるようになれればいいなと思います。そういう関心から自分たちの言葉を振りかえる習慣が生まれるだろうと私は考えます。

パルバースが日本語はどんなに便利な言葉か、その柔軟性を第3章に述べていますが、その内容は現在の日本語教育で用いる文法知識とほとんど同じです。外国人に自分たちの文法を教わらなくてはならないほど日本人は日本語を知らないのだと著者に言われているわけです。考えてみれば、くやしいことではないでしょうか。