著者が玉手箱みたいだというこの悉皆調査では様々な資料が発掘されて終了しましたが、現在は手分けして、分析・翻字作業が続けられています。この膨大な資料は実家に居づらくなった熊楠が終の住まいとなる田辺に居を定めた機会に、実家から移されたロンドンから持ち帰った資料が含まれますが、もし、そのまま実家に保管されていれば和歌山全市が焼失した空襲で灰になっていたことは間違いありません。事実、実家に遺されていた弟常楠宛の書簡などはその貴重な内容とともに失われてしまいました。
熊楠研究家達が調査に取りかかるまでの道はまったく心細い感じでした。私は1965年完成の白浜の記念館と田辺市の南方旧邸を2000年にようやく訪れることができましたが、いまや立派な顕彰館も完成しているようで往時から見れば夢のようです。関係者のご努力に頭が下がります。現在平凡社の南方熊楠全集全12册(1971ー1975)がありますが、いずれ新しい調査研究資料を加えた全集発刊も考えられているそうです。なんでも40巻くらいになるとの予想だそうで驚きます。
南方熊楠旧居2000年10月31日当時(非公開) |
1.その人の置かれていた歴史的環境の認識、
2.言説や行動の史料批判に基づいた実証的な究明、
3.現代の目ではなく、同時代の目で歴史の流れの中に位置づける評価。
このように著者は歴史研究者としての実践をこの著書で報告していますから、本書はかなり専門的になっています。難解な用語や文章はありませんが、読者には時代や歴史的事実について知識が要求されます。
著者が参加した調査で発見した資料の紹介と、それらの資料が物語る内容の解説を主題としたアメリカ時代の章では、渡米以前の熊楠が民権運動に強い関心を持っていたことと交友関係、在米時代前半には条約改正反対を含めた反政府活動に荷担していたことが明らかにされます。ここでの結論は国家に絡めとられない生き方と世界的な視点を身につける熊楠が誕生したことです。
次に大きく扱われている章は神社合祀反対運動とエコロジーについての章です。ここでは神社合祀反対と、鎮守の森保存のどちらが主題であったかがまず論じられます。次いで、政策や民間運動で自然保護という言葉の内容がどのように扱われていたか、エコロジーという用語がどのように理解されてきたかを扱っています。
ここで読者は明治政府の神社政策の変遷と被害の実態を勉強しなくてはなりません。そして、さらに当時の熊野の山林はもはや原生林的な照葉樹林ではなかったことを教えられます。
粘菌発見場所の消失への嘆きから発意される熊楠の神社合祀反対または鎮守の森保護運動は、貧窮のなかで七千円もの費えを投じて十一年間続きます。そこでなされた熊楠の訴えは現在でいう生態学的視点からの森林保護であり、入会権などに見られる森林や漁民の生活権を守る運動であり、英米独などに於ける自然保護の動向を紹介する啓蒙であったのです。
同時に読者は内外を問わず、また時代を問わず、貧しい思想と利権に走る政治家による施策の人類資産費消の愚を嘆くという現代に通じる問題に向き合うことになります。
というわけで、本書の記述のいちいちについて述べることはとうてい出来ませんけれども、調査に当たった同僚論文の考察も含めて、著者の偏向しない真摯な研究心にうたれました。
南方熊楠資料研究会と南方熊楠顕彰会のウエブサイトが運営されていますので、参考までに紹介しておきます。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/
minakatakumagusu.web.fc2.com
余談ですが著者のロンドン訪問紀行も楽しく読ませてもらいました。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/articles/takeuchi02.html
また、熊楠について知るには田辺の観光案内のお嬢さんのブログがあります。
tktb.seesaa.net/article/208980619.html