2022年11月13日日曜日

ホモ・サピーエンスの未来と100年前のH・G・ウェルズ

Herbert George Wells (21 September 1866 – 13 August 1946)。日本では、一般にH・G・ウェルズの表記でSFの大家として知られている。『タイム・マシン』とか『宇宙戦争』とか著作名は私も知っているが読んだことはない。子供の頃に絵で見た火星人という手足の長いタコのような生物は、この作家の小説の産物だったらしい。


1938年、アメリカでラヂオドラマの放送中に、火星人が攻めてくるというニュース場面を本物と思い込んだ民衆がパニックを起こしたという。H・G・ウエルズの『宇宙戦争』(1898)を俳優のオーソン・ウェルズが脚色して朗読した作品だった。詳しくはWikipediaに載っているが、実はパニックなどはなかったそうで、いまでは都市伝説だったと片付けられている。オーソン・ウェルズは有名度を上げたらしいが。H・G・ウエルズの科学空想小説が大衆娯楽としてそれほどもてはやされていたということだ。

私自身は少年時代から今に至るまでウェルズの作品は関心の外であった。それが今年、いつも楽しみにして読んでいた「あかちゃんトキメキ言行録」(岩波書店『図書』連載、著者は時枝正)を読んで変わった。「ことのおこり」と題したその最終回のエッセイは、受胎告知から分娩まであれこれと生起した事柄を述べたあと、「智ちゃん、よく来たね。ほんとによく来たね。」との言葉が最後に置かれている。それは明らかにそのエッセイの冒頭の文に対応している。つぎに引用する。

  ” ウェルズ『世界史概観』(岩波新書)は進化論から筆を起こす。史家は王          朝、GDP、戦争などに拘泥するが、人類の盛衰は畢竟生物としてのさがに          弄ばれる以上、著者のパースペクティブは賢い(そして種にズームアウト          して筆を擱く原書1922年初版の方が改版よりよい)。 智ちゃんも、私の            母=パパ一流の大風呂敷を借りれば、宇宙の歴史を無事に辿り   ここに着          いた。着く直前の九ヵ月を日記風に記録しよう。”

時枝夫人はイギリス人、エッセイの舞台はロンドンの産院とケンブリッジの自宅、智ちゃんとの会話は3ヵ国語らしいが、『図書』ではパパと交わす和会話(と、時枝氏は書く。なるほど。)に限られるのはやむを得ない。ロンドンの産院での様子も珍しかった。

時枝氏は天才的な頭脳をお持ちかもしれないが、智ちゃんが辿ってきた旅程は知るはずはなかろう。「智ちゃん、よく来たね」という言葉は感懐であってロマンである。

著者がそのような感懐を持ったことに感じて、私はその前提となったウェルズに興味をもった。時枝氏は、ウェルズが世界歴史を生物の歴史として考え、それを人類という種にズームアウトして書いているという。そして改版より初版の方がよいというが、それはどういう意味なのか。私はその内容を知りたくなったのである。

『世界史概観』(岩波新書)は市の図書館にあった。しかし、それは1979年出版の岩波新書青版だった。ウェルズは1920年に書き上げた" The Outline of History"を原著として、それを一般読者の便を図って5分の1に縮小したのを、"A Short History of the World" と題して1922年に出版した。これが時枝氏が指す初版で、日本では岩波新書の赤版で刊行されているそうだ。

ネットで探索すると、『世界文化小史』というのがあった(講談社学術文庫、2012年)。底本は1971年角川書店刊行。訳者下田直春氏の解説によると、本書は前述Short Historyの改訂版(1946)の全訳本であるが、出版界の事情によって形を変えて出版することになったとある。それがさらに文庫化されたわけであるが、形を変えるために1922年版を翻訳し、1946年改訂版との差異を明らかにし、新たな図版を加え、また誤訳も訂正したと述べられてある。私はこのような事情を知らないままに学術文庫の電子本を入手したが幸運であった。赤版によらずとも1946年版で抹消された1922年版の記述をも翻訳で読むことができたのである。また、1922年版の英文原著はGutenberg ebookで参照できる。URLを下記する。    https://www.gutenberg.org/ebooks/35461

ウェルズは二度の大戦の経験を経て、それまでの楽観的な人類の将来への見通しを改め、自らは「科学ロマンス」と呼んでいたそれまでの小説から人類の歴史を書くようになった。若い頃にハックスレイに学んだ進化論に対する信念は変わらずとも、現実からは人類の発展よりは終焉を考えるようになった。1922年版で述べた、ようやく黎明期に達した人類はやがて統一と平和を達成して発展し続けようとの見方から、第二次大戦後には一転して世界は回復力を失ったように見えるとして、ホモ・サピーエンスは別種の人類にとって代わられ得るとの考えを出したという。1946年の改訂版にはこのような見通しを述べてこの作家は逝った。

『世界文化小史』の訳者による解説によれば、おおよそこのようなことがウェルズの思想について言えるかと思う。ウェルズの歴史に関する著作の文章は長いし回りくどい。それほど難しい英語ではないが、眼にした英文をそのまま理解できる能力について私は十分ではない。頭の中には英語と日本語のレールが二本走っている。翻訳は所詮誤解だともいい、また多義語というのも日本語の専売ではない。この弱々しい頭脳で原文を読み込まないままにウェルズの思想を云々するのはよろしくない。

時枝氏があかちゃんの誕生にロマンを感じたように、ウェルズも多分にロマンの人だったのだ。同じ種の人類がどうして平和に暮らせないものか。ウェルズは人類は一つだという信念の人だった。それを現実の世界情勢に照らして人類の将来を悲観的に見直して筆を措いた。時枝氏はそのことを残念に思ったから、初版のほうがよいというのである。人類の将来に希望を持とう。智ちゃんにも幸あれ。

ダウンロードした資料:                                                                                         A Short Story of the World,(1922)、The Project Gutenberg ebook [EBook #35461] 2011                                                                                                『世界文化小史』(講談社学術文庫 電子版 2014)

(2022/11)



 

2022年8月3日水曜日

堀田善衛「聖者の行進」を読んで

 堀田善衛さんに「聖者の行進」という作品がある。『文芸』19714月号に初出という。16世紀のブラジル北東部乾燥地帯での物語である。


劈頭、教区顧問アントニオ師が、骸骨のように干からびた体に、もとは綿製の僧服であった襤褸をまとい、巡礼杖に身を託して跛をひきながらぎくしゃくと歩いている。ひたすら歩く。ときに幾日も食することなく歩き続ける。人影を認めるとき、「われに、続け!」と叫ぶのみ、あとはひとこともなく、ことばをもたぬかに見える。古代基督教の、荒野に飢えて祈る聖者を思わせた、とある。

ここは砂漠の一歩手前まで乾燥しきった砂礫の荒野である。植物さえ水分を求めて地中深くに幹や枝をはる。地上には動物に食われないよう棘だらけの葉を残すのみ。

師の背後には師に劣らぬ襤褸をまとい、また師に劣らず飢えと乾きに痩せさらばえた人々が続いている。

ときに師をとり囲んで拝するとき、師の発することばは怖るべき予言だった。それは黙示であり、世の終焉を告げるものだった。

水は血となり、光は消え失せるであろう。世は闇となり、やがて地には帽子のみ多く残り、生ある頭はごく少なくなるであろう、と。また人は、東方に大凶の箒星を見るであろう、と。そしてカニュドスに来たれと叫ぶ。

カニュドスとは、見捨てられた村落のあと、乾きで荒廃し果てた奥地(セルタン)の廃墟である。そこに会堂を築いて最後の聖地をつくるべく師と人々が衰えた歩みを続ける。行列は数十人、数百人となり、たちまち千人を超えた。人々の通ったあとには行き倒れの屍の列ができ、カニュドスまで間違いなく辿り着ける道標となった。

出来上がった会堂では祈りの集会が頻繁にもたれ、一切の財物が師に献じられ、そこに支配するのは師に対する仰慕のみであった。祈りだけが唯一の救いであり、唯一の現実であった。祈りならざるものは、悪徳も、殺人も、乱婬も、一切が許されていた。教区顧問アントニオ師の顔を見上げて、この大乾燥地帯のうちにあって己の眼に一滴の涙さえ浮かべ得られれば一切が許されていた。

このようにして人々は師ただ一人の栄光のために、俗世の法を否定し、殺し、婬し、盗み、そして祈った。カニュドスを根拠地として人々は四方に散り、村々を襲って食糧や武器を奪い、人を殺し、かつ徴集した。

こうしてカニュドスは当局者によって反逆者集団と認められる次第となった。となれば、このカニュドスに拠った奥地住民たちもまた戦に備えなくてはならなくなったのである。

討伐に向かった軍隊はきらびやかな軍装に光り輝く武器を手に進軍したものの、乾燥地帯の暑熱、毒蛇、牛の血を吸う蝙蝠のもたらすペスト菌など、荒れ地のあらゆる反抗にあって敢なく屍の列をなした。

二度三度と討伐軍の試みが失敗したあと、第四の大遠征軍はカニュドスとアントニオ師にまで到達するためには正式の植民地戦争を行う戦略と戦術を練らなければならなかった、と作家は記述している。

結末の数行をここに引いておく。

カニュドスは、もはや無い。叢林(カティンガ)の天の王国も、無い。神秘に燃え上がったこの年は、乾きの平原の民を旧に倍した悲惨に突き落とした。そうして彼らが再びの大旱魃期(セッカ・グランデ)を迎えて、この光の地獄から次なる地獄に突き入れられるまでに十年はかからなかった。
二十世紀は、ゴムを必要とした。乾きの平原の、数百万の襤褸の民は、海岸に駆り集められ、奴隷船に詰め込まれて、北西へ海を航し、海の如き川を遡り、このたびは、光と乾きの代りに、水と緑の地獄であるアマゾン奥地に叩き込まれ、日も射さぬ真暗な密林のゴムの木の傍に放り出された。ゴムの木を。アマゾンの原住民は、泪する木と呼んでいた。

末尾に主要資料 Lucien Bodard : Le Massacre des Indiens、 とある。

作品の内容を紹介することを兼ねて作家が用いた語彙を借りながら中心話柄の梗概を述べてみたが、ブラジルの地には西洋人に発見される以前数千年にもすでに人間がいたことをも含めて先住、原住と形容せられる人間の層が複雑なこと、その上に白人種が侵入したことで共存が破壊された歴史がある。文明の名をかりての破壊による混沌の有様を描くのは容易でない。近頃流行りの多様性の問題などはブラジルの土地にあっては普通のことだったように思う。

ルシアン・ボダール氏には『アマゾン原住民の虐殺』(1972)があるが、6年間もブラジルに住み込んでいたらしいから堀田氏が参照した記述もどこかにあるのだろう。

「聖者の行進」に堀田氏はアントニオ師のことを、「精神錯乱者にして神託受領者、偏執狂者にして聖者、預言者にして悪魔であり、かつそれらのすべてでもあった」と表現し、かつ「アントニオ師が出現したのは、これらの孤立閉鎖地帯のなかでももっとも純潔かつ完璧に維持されてきた地域からであった」と書く。

ブラジル北東部に広がる広大無辺の内陸曠野はポルトガル語でセルタンと呼ばれ広さはフランスの二倍はあり、地味は痩せていた。この、人のあるべき地でないところに二千五百万の人間がいたのだそうである。いかに広くてもとても養いきれるものでない、とある。

白人たちがエメラルドの山、あるいは銀塊を求めて四世紀、あるいは五世紀にもわたってこの内陸に乱入し続けた。何もあるはずはなかったが、結局は原住各民族との乱婬の結果だけが残された。未開野蛮の徒と見られていた種族の女、開化の民と称していた男たち、そうした男たちを教化すべく砂礫の地を踏み越えて入ってきた僧侶たち、これら三者の乱婬の結果が残された。白人たちは原住民族の男を使い潰し、殺戮した。しかし屍の数よりも、生まれる者の数のほうが多かった。

宝さがしに絶望した男たちはやがて出て行ったが、たまさかに留まって牧畜を始めた者があった。牛を飼う者は、彼らが産みつけた混血児たちであった。混血に混血が重ねられた。永遠の同質混血だった。あまりに広大な地で他との交流は不可能だったのである。いわば閉じ込められたこの地に宗教が目をつけた。ここに天国を築くことが目論まれた。

僧侶司祭は遥か大西洋の彼方から王の勅許を得て、外部からの白人をも含めての侵入を許さず、東方海岸地帯との、また南方の肥沃な土地との商行為をも含めて一切の交流を禁じた。天国ができるはずのところに夢魔に憑かれた僧侶司祭が約束したものは地獄であった。こういう孤立閉鎖地帯から出てきたのがアントニオ師であった、と、こういうことになろう。

グーグル地図で検索してみた。カニュドスでは見つからない。Wikipediaでブラジルの歴史を参照する。以下にその一部を抜粋する。

1894年に初の文民大統領として、サンパウロ州出身のプルデンテ・デ・モライスが就任した。旧共和政初期には旱魃や低開発が続く北東部は極めて不安定であり、モライス時代には1896年に北東部のバイーア州アントニオ・コンセリェイロ(助言者アントニオの意)によって率いられたカヌードスの反乱が勃発した。コンセリェイロはキリスト教に深く帰依し、バイーア州の奥地のカヌードスにコロネルの支配が及ばない30,000人が生活する共同体を築いていたが、政府はカヌードスを認めず、三次に渡る遠征の末、1897105日カヌードスの住民は一人残らず皆殺しにされ、反乱は鎮圧された。この反乱はエウクリデス・ダ・クーニャに『奥地を書かせた。

これでわかった、カヌードスだ。地図にはカヌドスcanudosがある。でも、湖がある。そばにアントニオ・コンセリェイロ記念碑の存在も付記されてある。これに違いないが、なにか変だ。この地で事件があったのだ、しかし記念碑があるとは。

エウクリデス・ダ・クーニャ 奥地』で検索すると、没後100周年とうたった日本ブラジル中央協会による記事があった。事情が読めてきた。

堀田作品の対極にあるかのような作品が見つかった。

『カヌードスの乱―19 世紀ブラジルにおける宗教共同体』(春風社、2018 年)著者は名桜大学・ 住江淳司 教授。あらましが『ラテンアメリカ・カリブ研究』(2018)のweb pdfファイルで読める。

https://lacsweb.files.wordpress.com/2018/06/25sumie.pdf

書物は現在入手困難。県立図書館に見つかったがすぐには読めない。

このような経過を経て事件のあらましを知ることができた。

堀田氏が挙げた資料「インディアンの虐殺」はボダールの著書としては見あたらなかったが、事件の結末が共和国政府による25千人住民のみな殺しであることが明らかであることから当該事件を述べたルポであることがわかる。

「聖者の行進」は事実を材料にした堀田善衛氏の創作ということで理解できる。同氏が綴る文章に散りばめられ数々の語彙から、この作家の大きなテーマ「時代と人間」と、さらに「民族」という人間所在の現実を深く考えさせられる。(2022/8)

カヌドスの記念館前にあるアントニオ師の像

追記:住江教授の説明では、カヌードスに現存する湖は中央政府の手による人造湖で、事件の忌まわしさを水で覆ったと見られる。教授が現地を訪れたときは折しも渇水期で会堂の上部が水面上に現れていたという。記事には写真が添えてある。(8月6日記)

2022年7月17日日曜日

年寄りはのんびり生きたいのだ

安倍晋三さんが撃たれたのは78日(金)だった。翌9日の朝日新聞朝刊22面にACジャパンの全面広告が載っている。大きな写真はノートパソコンを前にした若宮正子さん87歳。キャッチコピーは「とにかく バッターボックスに立ってみる。/ バットを振ったら、当たるかもしれないじゃないですか。」

若宮さんには予て関心をもっていたが、この日は遂に広告塔にまでなったかという驚きがあった。それとともにその広告は何を伝えようとしているのか不思議に思ったのだった。

広告主のACジャパンというのは一体何をする団体なのか、ロゴの上には「気づきを、うごきへ。」とのコピーが添えられてあるが、よくわからない。

ふだんはニュースの題目だけ程度しかテレビを見ないが、折も折とて銃撃事件の関係する報道が続くからいつもより長くテレビの前にいた。すると、見るともなく見ている画面にACジャパンのロゴがよく現れるのに気がついた。しかし、それは広告画面が終わったあとであるから広告自体は見ていない。はて、若宮さんを広告塔にした広告主は何者だろうとネットで調べてみた。

さまざまなメディアを通した公共広告により啓発活動をおこなっている公益社団法人だそうだ。住みよい市民社会の実現を目指す民間の団体とも書いてある。

そしてある日、Yahoo!ニュースに「民放各局で『AC広告』急増。安倍ショックがもたらした”不謹慎”以上のCM中止理由」ときた。


要するに日頃のお笑い芸人やタレントによるチャラチャラした広告は銃撃ショックの世間には流さないほうがよい、社会の沈痛な気持ちにたいして不謹慎だ、いやそれよりも広告主のイメージに疵がつく、マイナスイメージだ、という打算であるらしい。悲痛な気持ちどころか、ちゃっかりしているのだということがよく分かる現象なのだ。こういう事態の場合には、ACジャパンの広告イメージがいつもの広告をとりやめた穴をうめるのに最適との計算である。今週いっぱいはこの流れが続きそうだと、そのニュースは解説していた。

新聞の、あの若宮さんの広告はその後は出ない。ACジャパンのソロバンはどうなるか知らないが、密かに有卦に入っていることだろう。

ゲームアプリ「ひな壇」


さて、思わぬことで折角の若宮広告塔もたちまち影が薄くなる運命になってしまったが、本来の広告目的はどこにあったのだろう。

81歳でプログラマー・デビューで世の中に突然のように登場して以来、あちこちで話題にされ、この日の広告には国連本部でスピーチしたり、87歳の今、政府デジタル官庁で社会構想会議に参加しているなどと説明がある。

若宮さんのお名前を知ったはじめのうちは、「もとはお荷物銀行員」というフレーズがついていた。これはお年寄りでもここまでできるのだよという啓蒙目的には効果があった。事実の経過とともにだんだん明らかになった経歴を見ると、この女性はもともと手先が器用ではなく、ソロバンは遅いし、お札を数えるのにも時間がかかった。やがて器械がお札を数える時代になって、本人も開発部門に配置されてから、能力が発揮されだした。私的生活では英語に関心があってラジオで独習したり、好んで海外一人旅をしたりしている。これだけ聞けば、ボォーッとおばあさんになったのでないことがよくわかる。そして、かつてのお荷物行員は社内試験を受けて管理職にもなったのだそうだ。

この年代の勤め人、大抵の会社ではコンピューターなど事務所になく、大きな会社ではたいてい大型のが御本社に鎮座している時代だった。若宮さんはやがて定年になるが、そのあとパソコンに興味をもったのだという。習いに行ったり、教わる人に出会ったりして技能と知識を増やしている。

こういう経過が次第に明らかになってみると、若宮さんは急にプログラマーになったわけではない。世界最高齢とうたわれたのは、アップルのエライさんの目に止まったのが幸いしたようだ。日本では世界で認められれば一流人だ。デジタル化に躍起の政府が見逃すわけもなく政府の一劃に席を得て、インタビューや著述にも忙しい日々を送っているらしい。そこで一人暮らしで87歳という状況がもてはやされる。ここで留意しておきたいのは若宮さんが開発して有名になったのはスマホアプリだということである。パソコンでないのは、まさに今の世の中、万事がスマホで、パソコンは普通の生活圏外に追いやられつつある。世代交代の現象だろう。一般に老人はキー操作が苦手、文字入力ができないなどといわれるが、若宮さんのアプリ、「ひなだん」にしろ「ななくさ」にしろ、キー操作は押すだけにしてある。そして間違えるとブーと音がなる仕掛けで、年寄にもわかりやすいという。開発したのが年寄りだからこその気配りだろう。

ナンバーカードで遅れを取った政府は、目下その普及促進に躍起である。しかし、若宮さんを担ぎ出したところで世の人たちがデジタル思考になるわけではない。毎日のニュース時間に「私はだまされない」とNHKが口を酸っぱくして警告しているのに、キャッシュカードを見知らぬ人に渡して詐欺被害に遭う年寄りが引きも切らない。

機械音痴という言葉もある。パソコン、スマホを問わずキーやボタンを押して目的を達せられる便利な機器が使えない人が多いのは年寄りとは限らない。数学者の藤原正彦氏もその一人、彼はえらい数学者は軒並み器械に弱いのだと弁護している。

新聞の投稿欄に年寄りが寄稿されたものは世代を同じくするだけに読んでいていろいろな感情が起伏する。

三食付きの施設に一人暮らしの元会社員で90歳の男性。居住者と会話も弾まず、することがなくて時間を持て余していたが、雑誌に目標をもてとあったのを見た。そのつもりはないが百歳まで生きるという目標を立てた。そのためにはまず食べることだ、ゆっくり噛んで食べると食物の味がわかってきた。目標が達成されたとき、体力が残っていてほしい。散歩するためにスニーカーを買った。こうしてこの方は自立生活をはじめられたらしい、その報告だった。

87歳の女性文筆家。熱海の施設で一人暮らし。新幹線の切符が自分で買えなくて困る。機械音痴だからパソコンは使えないので原稿すべて万年筆、いま書いている37冊目とかの本を最後にしようとある。アメリカに住む娘さんに郵便を出すのに、手書き宛名では出せなくなったと困っている。昨年施行された通関データ通信のためのstop actとやらのことを言ってるようだ。どこかに宛名作成サービスがあるらしいがご存知ない様子だ。怒っている。

こんな具合でどちらを向いても高齢者社会、助けてくれる人はめったにいない。銃撃された安倍さんを悼む献花には何日経ってもどこでも行列が後を絶たない。さて、どうすればいのだろう。難題だ。(2022/7)


 

2022年6月15日水曜日

知りたがりの勉強 有理数のこと

 新井紀子さんに『数学は言葉』(2009年)という著作がある。目下、読解記述力を向上させる「リテラリーテスト」を開発中とのこと、『文藝春秋』の対談に触発されて図書館にあった掲記の本を読み始めたが、たちまち行き詰まった。文章は難しいものではないが、普段使っていない語彙が並ぶ。数学の教科書の表現を例にして分析が始まるが、当方の暮らしとは無関係な世界だから、たとえ中学生相手の文例でもエッ、それ何?となる。
「分数の形であらわされる数を有理数という。」もその一つだ。この例文では、「~という」は、新しい語を導入し、その意味を確定するために用いる語尾です、と説明される。数学ではなく数学文の読解本なのだ。

『有理数』という新しい語を導入し、その意味を『分数の形であらわされる数』によって確定しているわけです。このような形の文を数学では定義(definition) とよびます。

数学は「定義」と「論理」で話を進めると説明がある。提題の文に定義をしていない語を用いてはいけない。現代日本ではお互いの使う言葉の定義は話者それぞれの自由に任されている。誤解や意味の取り違いが起きるのは当然だが、生活環境が狭い範囲でお互い近しい間柄では問題は起きない。日本人はこういう環境に慣れたまま時代が進んできたのだろう。閑話休題。

ギリシャ時代のユークリッド『原論』の紹介もある。ここで述べられる幾何学の出発点としての、面と線の関係についての定義には意表をつかれてなかなか面白い。結論だけ書いておこう。

 ・線の端は点である。
 ・面の端は線である。

話を戻そう。有理数とは何のことか知らなかったが、そこに説明文があるから、あゝ、さようかで無事通過できた。それでも芯から納得できたわけではない。「有理数」という字面に引っかかって考えが先に進まないのだ。つまり表記が気になる。数だの整数だの小数、分数などは、数学での定義はともかく、日常的な語彙であるから抵抗はないが、有理数は知らなかった。意味がわかっても腑に落ちない理由は漢字が邪魔していることに気がついた。ちなみに有理数は中学3年生の学習項目であるらしいが習った覚えはない。

整数、小数、分数など「数」を修飾している文字はその意味がわかるし、数の字と組み合わさったときの意味・内容は納得できる。有理数の「有理」あるいは「理」にそのような感覚が持てないから困るのだ。有理数でない数は無理数というらしいが、有の反対は無であるにしても、よく考えればこの場合は「理」ではないのなら「非」のほうが良かろうと思ったりもする。ま、こちらは二次的な問題として、とにかく「理」が感覚的に邪魔だてしていると思える。

「有理数」の語源や歴史について調べるのは、シロートの手に負えなさそうだから早々にあきらめた。インターネットでも、あたかも初めからあったように書いている記事が多い。ということは、淵源はわからないことを無意識に白状しているようなものだ。

ここに本職の数学者による文章がある。上野健爾氏「数とはなんだろうか」日本数学会の「数学通信」第6巻第3号(2001) に次のようなくだりがある。

・・・ところで、古代ギリシャ人は分数を数とは認めていなかったようです。分数は比の値として捉えていて、自然数だけが(古代ギリシャには負の数はありませんでした)数と考えていたようです。分母が1の分数は整数ですから、分数の全体を考えると加減乗除の四則演算ができることが分かります。分数の全体を有理数と呼びます。有理数は英語のrational numberの訳です。rationalはratioから出てきた言葉でratioは「比」を意味します。ですから古代ギリシャ人の思いを込めて訳すと有理数よりは有比数(比を持つ数)の方が正しい訳語だと思われます(下線は筆者)。https://mathsoc.jp/publication/tushin/0603/kueno6-3.pdf

上野氏は有理数は英語からの訳語だと明記されている。「理」を云々するより「比」と考えるほうが正しいと言われる。有理数が分数であることを知れば比とのつながりがよく分かる。無理数は有理数でない数をいう語であると考えよう。無理数が分数にならないとの証明は難しそうだから。おかげで有理数の表記に一応の結論が得られた。

英語が出てきたから英語世界では有理数がどのように扱われているか覗いてみた。わかりやすい英語でK-12レベルの教育サイトCUEMATHがある。https://www.cuemath.com/numbers/rational-numbers/
末尾にある図解を転記しておく。


有理数とは何かというとき、日本では一般に「整数a、bをa/b であらわす。ただしb≠0 」とするが、このアメリカのサイトではaとbではなく、 p/q (q ≠0)  としている。これが慣習なのだろうか。このサイトの説明はストレスがなくわかりやすい。どんな数が有理数になるかはかなり複雑で、文章もあるけれども、上図は見やすくて便利だ。

日本語では次に示すNHK高校講座の説明がわかりやすかった。
数学1 第5回 数と式より。

表記の疑問が片付いて本文に取り掛かる。面白いのだけれども、頭が慣れないからかなかなか進まない。骨休み用に『こんどこそ!わかる数学』も読み始めた。年少者相手の文体でかえってまどろっこしいが、素直に読む努力をする。有理数はこちらに解説がある。こうして、ようやく「数学」の勉強が始まった。前途遥かである。用もないのにどうして苦労して読むのだろう。知りたがり、なのだ。

参考図書:新井紀子『数学は言葉』(東京図書、2009)、
         『こんどこそ!わかる数学』(岩波書店、2007)
(2022/6)

2022年5月9日月曜日

読後雑感 『完本 春の城』『西南役伝説』

島原 原城跡

石牟礼道子さんの作品をはじめて読んだ。4年前に90歳で病没されているが、水俣病救済活動の実践家としても知られている。池澤夏樹個人編集の世界文学全集では日本文学からはただ一人、『苦海浄土』が入っている。これは題材が重すぎることに恐れをなして、いまだに読む勇気がもてない。
この春、ふと気持ちが動いて『完本 春の城』と『西南役伝説』とを続けて読んだ。
前者は島原天草一揆を題材にとった物語である。この一揆は乱ともいわれるが、1637年から翌年春にかけての圧政下の民衆と統治者の争いだ。廃城に立てこもった老若男女3万7千人を12万人もの武装軍隊が囲み、一人の内通者のほかは皆殺しになった異様な事件であった。もとはといえば、キリシタン禁制と理不尽な年貢高の強制にあった。
廃城のもとの名が原城(ハルノジョウ)であったところから、来世に希望の春を夢見たであろう一揆の民衆を思いやった著者が「春の城」と題したと思われる。この地方では原(ハラ)はハルとなまる。
皆殺しの事件ではあったが血なまぐさい戦いの場面はごくわずか最後に現れるだけで、蜂起に至るまでの春秋の細民の暮らしぶりが人物描写とともに、ときにはユーモラスに描かれる。
著者の筆は暖かく人々が磯に山に日々の食料を工夫して手にする有様を男女様々な言葉のやり取りを通じてつづる。天草一帯の島々は渚と山に挟まれた痩せ地に田畑が残って後は山という感じだ。今でこそ派手やかな五橋が架かって観光名所を謳歌しているが、物語の頃は天然そのままで島から島に渡るにさえ、手漕ぎの小舟では潮の様子を読まずには動けない。
この作品を読みながら感じたのは作者の実に温かい眼差しだった。人間だけでなく生きとし生けるもの全てにいのちを感じる類のものだった。「春の城」全編が膨大な枚数にも関わらず読者を軽やかに物語の先行きに送り立てる魔術がここにある。
著者は鈴木重成というサムライを書きたかったという。一揆のいくさでは幕府の鉄砲隊長を勤めた人物、乱後に天領となった天草の代官に任命されて善政を敷いた。一揆の原因となった年貢高が実収高の二倍という旧領主の定めを改めるよう詳細な検地を行って老中に訴え続けたが容れられず、最期は石高半減を願う建白書を出して江戸の自邸で自裁した。二年後に年貢高は改められた。天草の人々はその善政を慕って鈴木神社を建立した。重成は物語に登場はしないが、『完本 春の城』に併載された取材紀行「草の道」には神社訪問場面がある。
籠城した天草各地からの隠れキリシタンの人々の中にはナンマンダの家から嫁いだ女性や観音様を拝む老人がいるし、仏教僧侶もいる。この人達の考えではキリストさんも仏さんもオンナジで宗派が違うだけだ。要はヒトを愛し慈しむことに変わりはない単純明快さであって、それは著者の考え方であり、水俣病の問題に通じている。900ページにおよぶ長い物語であるが文章は読みやすく登場人物にも親しみが感じられて一気に読み終えた。
次に読んだ『西南役伝説』もそうだが、作中の人々に語らせる土地のことばが作品に温もりを感じさせる。ことばは天草に生まれて水俣で育った著者がもつ強みであり、特質でもあるだろう。
『西南役伝説』。「春の城」では作者が造形した人物に土地ことばを語らせているが、こちらは探し当てた長命の古老に当人が生きた時代を語らせている。「オーラル・ヒストリー」という歴史叙述の手法があるそうだが、この作品はまさにそれだと思う。よそ者が耳で聞いてもわからない内容も仲介者が文字に写してくれれば、おおよそは理解できる。その上、ことばのなかに本来の日本のこころを感じることまでできそうである。
『西南役伝説』は序章及び第一章から第六章までと三篇の拾遺からなっている。戦争は芝居の書割のように背後に押しやられて、村々の人たちが身近に見聞きしたことを語ってくれる。いくさの場面は出てこないから表題にはやや偽りありの感じがする。
「わしゃ、西郷戦争の年、親達が逃げとった山の穴で生まれたげなばい。ありゃ、士族の衆の同志々々の喧嘩じゃったで。天皇さんも士族の上に在(おら)す。下方の者は、どげんち喜(よろこ)うだげな。(中略)戦が始まっても、それそれやれやれ、ちゅう気もあって、百姓共は我家ば見らるる藪に逃げ隠れしとったが、戦に加担(かた)らん地方(ぢかた)の士族の組が、遠うに逃げとったげな」。
西南役の後、村の子守達が唄った数え唄――、
 一つひぐれの時が来て
 ニではにっことウス笑う
 三で侍無うなった
 六つ無刀に槍朽ちて
 九つ小前に苗字くれて
 十とうとう夜があける
侍の日暮れを声に出すまいと笑ったとうたうのだ。小前は小百姓のこと。著者は別の箇所で、水呑百姓とはリアルすぎる腹の実感だったと書いている。
以上は序章から引いたが、語り手の男4人女1人の仮名と生年が挙げられている。
第一章の語り手は須崎文造翁、1861年生、昭和38年当時は103歳だった。
「並みはずれた長寿のみが時代の心を語ってくれるその典型でした。民衆の中に甦えり甦えりする命のごときが、目尻のやさしい皺の中にありました。あの歴史年表とかいうものをあずかり知らぬ細民ひとりの百年の、まだ生きている中味が、秋の日さしに匂い立つ渚の家の囲炉裏ばた座っていました」。語りの途中に挟まれたこの著者のことば、心にくいような達筆に思える。
第二章は小木原、有郷きく女106歳、その娘、咲70すぎ、話を聞いたのは、また養子夫婦の時代。乳牛数頭と小型三輪車の小屋が隣り合って並ぶ自作農家、アメリカ向けにカナリアも輸出している。きくの嫁入った頃とはなんという違いだろうか。「仏さんのようなばあさん」の口から漏れる生身の憤怒には、現世嫌悪の気配があると著者は書く。そしてこの章の括りには次のように記している。
きく女の一語一語を字幕のように思い出せば、うつろいゆく文明というものの景色の中にじわりと出て来て、節の曲がった老人斑の腕(かいな)が、ちゃぷちゃぷと音を立てながら、泥水をかき撫でかき撫で、早苗の間を吹く風の中を、泳ぐような手つきでゆくのが見えてくるのです。それは拡がってゆく土塊のようにもみえ、古い絵地図が活き返ってくるようでもありました。 そのような指が、もう唄わなくなった自分の子守唄を、田んぼの泥水といっしょに握り潰したまんま、果てるのを私は見るのです。
第三章は詫間村の梅田ミトさん104歳、一人暮らしにはわけがある。第四章は著者が古文書にさぐった天草の変遷が記述されている。第5章と六章、郷土史編纂に携わる俳人穴井太、熊谷陵蔵両氏が聞き取っていた古老の話。村を通り過ぎた官軍と薩摩軍の印象が語られている。最後の拾遺三編は孤独のうちに世を終える不運の人たち。このうち「六道御前(ろくどうごぜ)」は爺様が好きでよく呼び込んだという浄瑠璃語りの女乞食のことを婆様が語る形になっている。名作である。
はじめに戻るが、序章の一節が読後も強く印象にのこる。
西南役を出生の年とする一老農の、1962年迄の85年間の全生涯は、体制そのものの対極にある生でもある。支配権力を物語として捉え、AがBになりBがCになろうが、例えば、天皇制護持という形をとるにしても、倫理としてより便法として捉えているようにみえる。明治初期肥後と薩摩境の、水俣の下層農民にとって天皇とは、
「わしゃ想うが、日輪さんの岩屋に這入(ひゃら)した話は嘘ぞ。空より広か岩屋のあろうかい。勘に来ん。あんたは字ば知っとるや、本に書いてあるかい?」百の理論や知識を超えて、文盲の彼の中に、物語としても系統化せぬ論理への疑問が、その精神の振子の軌条に副い続けているのである。
読んだ本:石牟礼道子 『完本 春の城』 2017年 藤原書店
      〃    『西南役伝説』  1988年 朝日新聞社
(2022/5)
 

2022年3月8日火曜日

堀川惠子『暁の宇品 船舶司令官たちのヒロシマ』


旧陸軍の揚陸舟艇ダイハツ
インターネット画像から。

先の戦争中、小学6年生のころだから昭和19年だ。わが住まいの近くを歌声をあげながら駆け足で過ぎる兵隊さんの集団を度々目にした。上半身はカーキ色のシャツ姿だったから訓練とか日課だったのだろう。たしか「われらが精鋭あかつき部隊…」というふうな歌を歌いながらだった。ずっと後年の戦後のいつごろか、それは暁部隊という集団だったことを知った。大岡昇平『レイテ戦記』の索引などで船舶工兵隊という名もあることを知り、あの駆け足の兵隊たちもフィリピンに送られたのだなぁとの感慨をもった。旧帝国陸軍には船舶運輸部という機構があって本部を宇品に置き、戦時には船舶司令部となる。それに所属する部隊の略称が暁部隊であった。

昨年12月朝日新聞に大佛次郎賞の発表があり、受賞作の本書があの暁部隊のことだと知ってすぐ図書館に予約した。あにはからんや、すでに予約10件…この2月末に やっと順番が来て一気に読んだ。脳についての読書から一転、無慙というも愚か、呆れ果てた負け戦の物語である。大東亜戦争というものの実態はすでにあれこれと知ってはいるが、話としてはこれほどバカバカしいものはなく、無意味に殺された人たちを悼む言葉も虚しいだけである。

けれどもこの作品は物語として面白いだけでなく、著者が掘り起こした記録の価値の重みと記録した人たちの精神の清冽さ、それに内容に含まれる教訓の重みには圧倒される。作品評価の席では満場一致で受賞決定したというが納得できる。著者堀川氏の名をはじめて知ったが、前作『狼の義』(未読)では大佛次郎の作品をたくさん読み込んだと知って大佛ファンの私には嬉しいことであった。

大東亜戦争が戦後呼び方が改められて太平洋戦争となった。主たる相手のアメリカと戦う場が広い太平洋であるにもかかわらず、終始戦争を牽引した帝国陸軍には船がなかったという不思議がこの作品の主題といってもよいだろう。それがやむにやまれず運輸部をもうけて役目を背負う人たちを集めた。運輸部の名称からはいまの総合商社の運輸部を連想するが本作を読めばそれと同じ働きをしたことがわかる。そこに働く人たちの中から個人の特性が生かされる職務や技能職、研究所などが生まれてくる。

内国の平水面で動き回った手漕ぎ船が高波の打ち寄せる海岸で荷揚げに活躍するエンジン駆動の双胴型の舟艇に変容する。業務に特化した人から秀でた技術者が生まれる。アメリカ海兵隊の上陸用舟艇や揚陸船の船型や前開き扉の形は明らかに暁部隊の技術者の発想に始まっている。ドイツに技術見学に出張した技師はロータリーエンジンの設計図を持ち帰って、戦後マツダのロータリーエンジン車製造につながった。大型船舶の建造技術や形態は自動車専用船に生きた。ペリー提督が米中航路に中継給炭港を求めてやってきたように、宇品の運輸部は物流拠点と中継地を中国沿岸に設けることから始めた。物流の発想は陸軍上層部の硬い頭からは生まれるはずはない。派閥人事に階級制度とタテ社会などの壁を壊してつながりを持った人たちで運輸部は活動できた。この物語には教訓が満ちみちている。争いがあるところには技術は花咲かないし物流は損なわれる。原子爆弾完成の瞬間も科学者たちは止めようとしたが、すでに軍部が知ってしまっていた(パール・バック『神の火を制御せよ』)。閑話休題。

本作を読んで考えさせられることは多いが、なかでも運輸部に徴用された民間人の処遇が気になる。高級船員のほかは人間扱いされていない。敵の砲火、上空からの攻撃に輸送船も、荷役中の人間も無防備だった。潜水艦を見張る双眼鏡さえもらえなかったという。それでいて身分保障は何もなかった。

危険に身を曝し、兵員以上の重労働にもかかわらず、その身分を保障する国家的処遇に欠けていることは不合理極まる状態だ、とは、田尻昌次元司令官の残している言葉であるが(「海上労働の特殊性」147ページ)、昭和13年に陸軍省は大手船会社の高級船員に限って「船会社からの申告」によって軍属にすることを定めた。しかし、圧倒的に数の多い一般船員、漁船員、雑船の乗組員、港湾労働者らについては、昭和28年にようやく障害年金や遺族年金、弔慰金などの支給対象となった。だが、これも支給は本人または遺族による「申告」が基本だそうだ。受給資格者に情報が伝わらなければそれまでのこと、もともと実数がわからない無名の人々なのだ。支給決定は朗報のようでいて、言葉の空回りに過ぎない。

今も昔も日本人は変わっていないように思えるけれど、8月6日のヒロシマで終わるこの物語、すべてのことが生まれる前の歴史であるこの本の読者諸氏には、もしかして理解しにくいところもあるのではないかと危ぶむ。これを題材にして語り部をつとめる読者がでてくるといいななどと思う。

巻末に多数の参考文献が記載されている。大いに参考にするべしである。

読んだ本:堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社 2021年
(2022/3)


 

2022年2月19日土曜日

意識は脳で創られる

「生体の基本となる細胞のもつ環境は水分子の作り出す熱力学的な環境空間であり、脳がどう働くかの原則も、熱力学的理論体系に従うことが知られている。医学の基本は生物学にあり、生物学の基本は化学にある。そして化学の基本は物理学にあり、脳がどのように働くかでさえも、正確な物理理論として記載可能なのである。そして、その基本原則を支える環境空間は、水によって作られている。水は、本当に生命の源なのである。」(中田 力著『脳の中の水分子』p78)

九州大学の白畑教授のエッセイ「水のこころ」に教わって新潟大学中田 力教授のお名前を知ったが、お二人共すでに故人になってしまわれた。生年が同じ1950年で没年も同じ2018年とはなにか不思議な気がする。ご冥福を祈るばかりである。

中田教授は「脳の渦理論」という研究実績をお持ちだ。人間の意識があるという状態が脳の水分子の動態に深く関係しているという仮説である。滞米25年の結論でもある論文は1996年に完成したまま陽の目を見ていない。脳はそれぞれの部位がそれぞれに役割処理機能を備えているという機能局在論が常識となってしまって、そうではなく常に新しい情報を受け入れて処理する自己形成型の機能をも持つことが理解されていない。大脳皮質に備わる2種類の機能、それには1000億個のニューロン細胞のほかにその10倍もの数のグリア細胞の働きがあるから可能になる。その領域では水分子が活躍している。

長らく脳神経学と臨床医学の教授を勤めた後、アメリカに籍を置いたままMRI開発研究者として新潟大学脳研究所に招聘されたとき、同僚となる脳神経生理学の教授に座談として訊いてみた。「もし、脳の中で、水が動いていて、それが脳機能と結びついていると言ったら、どう思う?」相手は即答した。「そりやあ、おかしい人と思われますよ」。いまのところ、これが常識なのだそうだ。

1999年に立花隆氏のインタビューを受けたとき、脳科学にも関心の深い同氏に「脳の渦理論」入門編を話してみたうえで、アテストしてくれるか尋ねたら「いいですよ」と即答してくれた。これで論文が正式に誕生した、と著書にある(前掲書 P166)。

「脳の渦理論」にまで到達できた中田氏にとっての、そもそもの発端は東大医学部時代にライナス・ポーリング(1901-1994)の論文に出逢ったことだった。ポーリングは化学賞と平和賞との二度ノーベル賞を受けただけでなく多くの分野で実績をあげた大科学者である。たまたま図書館で見つけたその論文には、全身麻酔効果のある薬剤すべてが水の分子のクラスター形成を安定化し、小さな結晶のようなものをつくりだすとあった。彼はその所説を「水和性微細クリスタル説」と呼び、1961年『サイエンス』誌に発表した。だが、直後に撤退している。薬剤の水分子への働きが明らかになった、そのあと、なぜ意識を抑制することができるのかの説明できなかったからだ。中田氏はポーリングの所説を『水性相理論』と呼びかえているが、その全身麻酔薬の作用機序を説明した論文は完璧であり、圧倒されたという。ちなみに作用機序とは医学の常用語で、薬物が人体へ与える効果の仕組みをいう。そのうえ、ポーリングの説明は麻酔薬の大気圧依存性という奇妙な特徴までも説明できていた。当時の医学では全身麻酔薬は脂肪によく溶けるから効果が出やすいという1900年頃以来の「脂肪溶解度説」がもっぱらで、薬剤の作用機序は全く知られてはいなかった。ポーリングにしてもまだ科学における複雑系の概念が理解できていなかったのだ。全身麻酔薬がなぜ効くか、生体にどう作用するかポーリングが知り得たのは、脳内細胞の水分子に作用して結晶を作りやすいことまでだった。そのことが何故か人の意識を抑制する。その「何故か」に中田氏は賭けてみようと決めた。ここから出発すれば、脳がどのようにして覚醒し、意識と呼ばれる形而上的実存を作り上げるのかが解明できるはずであると。

日本には、こころとよばれる脳機能を、脳科学の立場から研究する基盤が存在しなかったため、臨床研修を終えた1976年に渡米してバークレイで同じ目的をもった脳神経の医師たちと合流した。アメリカにおいても実状は、脳神経学から高次機能を追求する医師は異端とされ、こころとは精神科とか心理学の範疇にはいるものであった。異端者のグループを率いていたのは、数学、物理学の世界から医学に転向した天才的な知識と理論展開能力をもったユダヤ系アメリカ人だったという。この著書にこの人物が紹介されていないのが残念である。近代言語学の祖、ノーマン・ゲシュウィンドの弟子であったこの御仁から、中田氏は医学でさえも数式で扱えることを教えられた。そして、偉大なる哲学者はすべて偉大なる物理学者であり、偉大なる物理学者はすべて偉大なる哲学者であるという彼の言葉は、私の生き方にはっきりとした道筋を与えてくれたと述べている(前掲書p154)。

この著書『脳の中の水分子』に明らかにされている解明の過程を読めば、脳はまさに複雑系の世界であって、その中で展開されている自然の生態動作の精妙さには驚かされるばかりである。生物、化学、物理などにまたがる知識を次々に知らなくては自然の動態にはついてゆけない。中田氏の跡を追いかけるには知らなければわからないことが多すぎる。しかし、用語の意味を知れば文章はわかりやすい。優れたサイエンス・ライターだと思う。私は調べながらこのエッセイの展開を楽しんでいる。

現実の世界ではインターネットで探ってみても、全身麻酔薬の作用機序についてはポーリングの「水性相理論」の先行きを解明する説は見当たらない。本書にあるように大脳皮質の情報処理機能はニューロン細胞だけにあるのではない。その10倍以上もあるというグリア細胞のネットワークが必須だったのだ。新しい論文を眺めていると、グリア細胞やアクアポリンという専門語までが現れる状況になっている。後者は1992年に発見された水を透過させるタンパク質である。中田教授の先進性を示す証拠であろうし、脳における意識の解明が少しずつ進んでいることを感じる。

数年前に神経外科医に腰椎の痛みをとってもらったときは全身麻酔であった。いまでもその時の手術室の張り詰めた緊張感が普通ではなかったことを覚えている。そして麻酔が解けたとき、ベッドを囲んだ人たちの間にホッとした空気が一斉に流れだしたように感じられた。どちらもただならぬものであった。

全身麻酔薬の作用機序がわかっていないことについては半世紀を経ても同じであるが、医師たちは、それはそれなりに工夫と技術を重ねて患者の安全に尽くしてくれていると思いたい。アメリカ大統領の専用機内には手術室があって、麻酔医までもが同行するのだそうだ。飛行高度の大気圧によって微妙に変化する麻酔薬の効果も研究され尽くしていることだろう。だから現場職人の経験頼りにすぎないと怖れたり、無責任だと非難するのは無用なことだ。現状は、科学が到達した先端にあることには違いなく、完成した理論の正当さがまだ実証されていないということなのである。

著者が『日本老年医学』誌に寄稿した『水分子の脳科学』も高年齢者には参考になる。インターネットのPDFで読める(「水分子の脳科学」ーJ-Stageで検索)。この寄稿文は、私がいま取り組んでいる『脳の中の水分子』の科学総論だとしてある。こちらは、やや専門臭が強いがむずかしくはない。

読むという行為でいえば、中田氏による文章には医事や化学の専門用語に漢語が多い。日本語使用の歴史的な推移に関係すると思われる。そのことを除けば易しい日本語である。事態の説明には一般的な日本文より一層論理的に字句がつづられている感じが強い。著者の置かれた環境から想像するに、手慣れた英語説明が自動的に日常日本語に置き換えられたのでなかろうか。そのうえ、中田氏はその師から「教え方」も学んだのではないか。主題の好悪は当然読者によるが、内容に興味のある読者にわかりやすい書き方だと思う。本書は3冊めだから、前2冊『脳の方程式 いち・たす・いち』と『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』も一層の理解のためには読んでみたい。

耳慣れない用語のなかに、わずかに親しみのあるものが出てきた。MRIだ。腰椎手術の事後点検のために年に一度はお世話になる。

MRIは最新の技術ではなく1952年のノーベル賞の対象になった核磁気共鳴(NMR)という物理現象の利用だそうな。MRIは水分子の水素原子核が磁場に置かれたときに示す共鳴現象を捉える技術であり、身体をつくっている分子の中で水分子の数が圧倒的に多いから水素分子が利用される。放射能を浴びるわけでないから身体には非常に安全な画像法なのだそうである。その代わりというわけではないが、原子核をもった分子を磁場の中に入れなくてはならないので、患者に大きな磁石の中に入ってもらわなくてはならないという説明だった。人間は体重の50から75パーセントほどが水分だという。そして高齢者は水分が少なく、老化とは細胞水分の減ることだという。そうだった、1日2リットルを少しずつ補給せよ、とどこかで読んだ。これは中田先生ではない。ここらで休憩することにしよう。

読んでいる本:『脳の中の水分子 意識が創られるとき』中田 力著 2006年 紀伊國屋書店     (2022/2)





2022年2月1日火曜日

水は大事だという話

95歳の祖父は夕食後母と叔母に手を取られてベッドに移動しようとして突然くずおれた。女性たちが抱き起こそうとしたが既に事切れていた。こんな情景で始まるエッセイを読んだ。なんとも見事な最期ではないか、なろうことなら・・・思わず感動した。

「人間のからだを構成する原子は、死後もずっと地球にとどまり続ける。地球の重力で繋(つな)ぎ留められた物質は、ほとんど地球から出ることができないのである」。ふ~ん、こんな言葉にも感心した。不意をつかれたのだ。原子炉とか原子力とか日常の新聞記事で眼にするほかにも原子があったことをふだんは忘れているからだ。このエッセイの終わりには「朝が来る。窓を開ける。/ 空がある。雲が動く。/ 鳥が鳴く。かつて誰かの肉体だった原子が、見えない風に運ばれている。/ 宇宙のどれほど遠くを探しても見つからないもの――それはすべての人の最も近くにある。/ 僕たちはそれをともに作り続けている」、こんな詩で結ばれている。森田真生さん、紙上では独立研究者という肩書がついている。調べてみると1985年生まれの数学者だそうだ。なかなか魅力的な人のようだ。(朝日新聞2022年1月14日朝刊「寄稿」)

たまたま物質を構成するものについて考えを巡らせているときにこのエッセイに出会った。思わず、ン?となった。いつの間にか誰かの原子が自分の中に入り込んでいる! いや、それだけではない。しじゅう入れ替わっていると考えるほうが当たっていそうだ。このことが直ちに、はて、自分は誰でしょうとはならないと思うが不思議な感じがする。

人の体の60%以上は水だそうだ。枯れた年寄でも50%以上あるらしい。胎児では90%が水だという。そもそも人間は水の中で発生したらしいではないか。受精まもない胎児は魚のような形からイモリのような形になり、人の形に変るのだそうだ。このことをドイツの学者は、羊水の中で生物の歴史をなぞりながら人間として生まれてくると唱えたという。(サントリー「水大事典」)

水の三態(サントリー水大事典より)

水なしでは生きていけない、体の不調は水が原因、足がつると、水を飲めとマッサージ師は言う。そんなこんなで小学生並みのアタマの持ち主は、水を少し勉強しようと考えた。インターネットで手頃な手がかりがないか探していると、ルルドの水の奇蹟の話が出てきてドイツの学者が解明に取り組んだことを知った。その縁がわが九州大学農学部に繋がっていて多くの学者とその卵さんたちが生命の研究に取り組んでいるのを知った。九州大学の白畑実隆教授、既に故人であるがエッセイ「水のこころ」を残されているので、まずここから水の世界に入ってみた。

このエッセイは細胞制御工学教室といういかめしい名前の研究室の片隅に残されている大変長い語録である。読む前にその研究室の現状を覗いてみると、次のようなことが書いてあった。

九州大学大学院農学研究院遺伝子資源工学部門細胞制御工学教室では10年以上に亘って「健康に良い水」の分析・機能評価に関する研究を行ってきました。この度、当研究室では「健康に良い水」についてさらに広い知見を得るために、「健康に良い水」である可能性のある飲料水等について、試験管内試験、培養細胞を用いた試験、さらに必要があれば動物実験まで行い、健康に良い水かどうかの総合評価を行う共同研究を行います。本共同研究にご関心のある方はお気軽にご相談下さい。

こうなると水の研究と言っても物理や科学、原子力などの理論の世界ではなく、われわれ自身の体を守ろうという非常に身近で切実な現世世界のご利益を見出そうということだと身にしみて分かる。

エッセイ「水のこころ」には細胞制御工学教室ホームページからリンクとして跳ぶことができる。 http://www.agr.kyushu-u.ac.jp/lab/crt/index12.html

ここで話が少し跳ぶ。『文藝春秋』新年号に「愛子さまご誕生の瞬間」と題されて山王病院名誉院長の堤 治氏の寄稿が掲載されている。掲載は愛子さまが成年になられた節目を記念してのことで、話題は20年前の雅子皇后ご懐妊から出産までの記録でもある。私は一読してある種の感銘をおぼえた。両陛下が超音波画像を仲良くご覧になりながら医師の説明を聞かれたという事実が述べられてあったからだ。普通の市民であればこういう情景は当たり前であるが、天皇と皇后が、となるとなぜか当方は思わずエッと驚きが先に立つ。堤医師は侍従長に逆らってまでも分娩予定日を明かさなかった。37歳8ヶ月という高齢出産の母体に及ぼすマスコミの有害な反応を避けるための配慮だった。また胎児の性別を前もって知らせることをしなかった。天皇に伺うと知らなくてよいと答えられた。分娩予定日も性別のことも、ともに後継者にかかわる議論がもたらす危うさを深く考慮したものであることはいうまでもない。

超音波画像を見ながら医師の説明と診断を聞くという光景は、現在の医療場面では既に珍しいことでなくなってはいる。しかし、両陛下の眼前に展開されたはずの画面がどのようなものであったろうかと想像してみれば、やはり驚きであったし続いて戸惑いの気持ちが起きた。プチっと黒い粒がエコー画面に現れる頃から現実味を帯びてくる新しい人間の始まりと、天皇の後継は男子であることという決まりごとがどうやって結びつくのだろうか、との違和感と疑問が湧いてきたのである。同時に既に20歳になられた一個の人格をどのように処遇するのか、親でありながら他人の手にわが子の行く末を委ねなくてはならない不自然さをどのように結着させるのか。天皇ご一家にはお気の毒なことでしかない。自然の働きについて考えを巡らせているとき、たまたま手にした雑誌にこの記事が載っていたまでのことではあるけれども、これは不自然でかつ不条理な事柄に類するのは確かだ。

さて、われわれの身体を作る物質は、どこからとも知れずいつの間にか他所から入り込むのだという。胎児の体は90%が水だときけば、その水を作っている物質は原子であり、分子である事を考えてみたり、それらはどれほどの大きさのものかなどと思う。

エッセイ「水のこころ」第10話(2009年5月)では、fMRIという研究装置の機能と、その権威として新潟大学教授中田力氏の名を教えられた。そして脳の神経回路のうち「水のない空間を未知の気体が流れることでできた渦流が、大脳皮質の上層にある水の薄膜に渦の興奮を伝わることで大脳の意識や記憶を働きが行われるという脳の渦理論」を紹介され、「この脳の渦理論によって、全身麻酔薬の働きやアルコールで意識がかく乱される仕組みをよく説明できます。脳という高度な器官において、水が心の働きに無くてはならない働きをしているということは大変興味深いことだと思います」と結ばれている。

中田教授について調べると長くカリフォルニア大学で研究されて名誉教授でもあったが2018年に68歳で旅立たれていた。「脳の渦理論」は難解な仮説であるらしいが、ノーベル賞に最も近い研究者とされていたという。図書館に『脳の中の水分子』(2006年 紀伊國屋書店)という著書があったがどんな内容だろうか。この著書については松岡正剛さんも書いている。松岡さんは先立つ2冊の著書を読んだあとに『脳の中の水分子』を読んだそうだ。それが2008年、著書にお会いして色々聞いてみたいとあるが、その機会はついになかった。「水のこころ」の白畑教授はヒントのように麻酔に触れているが、全身麻酔は意識を奪うことであることに中田教授が気がついたのが、脳が意識(こころ)に関与する仕組みの解明に到達する入り口であった。それから25年もかかったが、その間、脳科学者たちは誰ひとり振り向いてくれなかったという。それはひとえにそんな事があるものかという思い込みのせいであったのだ。こういうエピソードに惹かれてこの著書を読んでみようと思い立った。知らないことが次々に出てきて少々錯乱するかも知れないが。(2022/2)