『有理数』という新しい語を導入し、その意味を『分数の形であらわされる数』によって確定しているわけです。このような形の文を数学では定義(definition) とよびます。
数学は「定義」と「論理」で話を進めると説明がある。提題の文に定義をしていない語を用いてはいけない。現代日本ではお互いの使う言葉の定義は話者それぞれの自由に任されている。誤解や意味の取り違いが起きるのは当然だが、生活環境が狭い範囲でお互い近しい間柄では問題は起きない。日本人はこういう環境に慣れたまま時代が進んできたのだろう。閑話休題。
ギリシャ時代のユークリッド『原論』の紹介もある。ここで述べられる幾何学の出発点としての、面と線の関係についての定義には意表をつかれてなかなか面白い。結論だけ書いておこう。
話を戻そう。有理数とは何のことか知らなかったが、そこに説明文があるから、あゝ、さようかで無事通過できた。それでも芯から納得できたわけではない。「有理数」という字面に引っかかって考えが先に進まないのだ。つまり表記が気になる。数だの整数だの小数、分数などは、数学での定義はともかく、日常的な語彙であるから抵抗はないが、有理数は知らなかった。意味がわかっても腑に落ちない理由は漢字が邪魔していることに気がついた。ちなみに有理数は中学3年生の学習項目であるらしいが習った覚えはない。
整数、小数、分数など「数」を修飾している文字はその意味がわかるし、数の字と組み合わさったときの意味・内容は納得できる。有理数の「有理」あるいは「理」にそのような感覚が持てないから困るのだ。有理数でない数は無理数というらしいが、有の反対は無であるにしても、よく考えればこの場合は「理」ではないのなら「非」のほうが良かろうと思ったりもする。ま、こちらは二次的な問題として、とにかく「理」が感覚的に邪魔だてしていると思える。
「有理数」の語源や歴史について調べるのは、シロートの手に負えなさそうだから早々にあきらめた。インターネットでも、あたかも初めからあったように書いている記事が多い。ということは、淵源はわからないことを無意識に白状しているようなものだ。
ここに本職の数学者による文章がある。上野健爾氏「数とはなんだろうか」日本数学会の「数学通信」第6巻第3号(2001) に次のようなくだりがある。
・・・ところで、古代ギリシャ人は分数を数とは認めていなかったようです。分数は比の値として捉えていて、自然数だけが(古代ギリシャには負の数はありませんでした)数と考えていたようです。分母が1の分数は整数ですから、分数の全体を考えると加減乗除の四則演算ができることが分かります。分数の全体を有理数と呼びます。有理数は英語のrational numberの訳です。rationalはratioから出てきた言葉でratioは「比」を意味します。ですから古代ギリシャ人の思いを込めて訳すと有理数よりは有比数(比を持つ数)の方が正しい訳語だと思われます(下線は筆者)。https://mathsoc.jp/publication/tushin/0603/kueno6-3.pdf
上野氏は有理数は英語からの訳語だと明記されている。「理」を云々するより「比」と考えるほうが正しいと言われる。有理数が分数であることを知れば比とのつながりがよく分かる。無理数は有理数でない数をいう語であると考えよう。無理数が分数にならないとの証明は難しそうだから。おかげで有理数の表記に一応の結論が得られた。
有理数とは何かというとき、日本では一般に「整数a、bをa/b であらわす。ただしb≠0 」とするが、このアメリカのサイトではaとbではなく、 p/q (q ≠0) としている。これが慣習なのだろうか。このサイトの説明はストレスがなくわかりやすい。どんな数が有理数になるかはかなり複雑で、文章もあるけれども、上図は見やすくて便利だ。
表記の疑問が片付いて本文に取り掛かる。面白いのだけれども、頭が慣れないからかなかなか進まない。骨休み用に『こんどこそ!わかる数学』も読み始めた。年少者相手の文体でかえってまどろっこしいが、素直に読む努力をする。有理数はこちらに解説がある。こうして、ようやく「数学」の勉強が始まった。前途遥かである。用もないのにどうして苦労して読むのだろう。知りたがり、なのだ。
『こんどこそ!わかる数学』(岩波書店、2007)