2015年8月25日火曜日

阿川弘之入門

8月3日阿川弘之さんが亡くなった。94歳。志賀直哉のお弟子さんで師匠の伝記『志賀直哉』を書いている。文章は旧仮名遣いを用いて名文であるとされている。私は昔「暗夜行路」を読んだような気がするが、話が暗いうえに面白いとは思えず放り出したように思う。こちらが若かったせいもあるだろう。志賀直哉は戦後、日本の国語をフランス語にしたほうがよいと言ったそうで、なんと幼稚なことを言う方だろうと少し呆れた。このことは後に撤回されている。その方のお弟子さんというので、阿川さんは読まず嫌いだった。けれども「山本五十六」「米内光政」などの評判が高いのは気になっていた。それがお亡くなりになったと聞くと、やはり一度は目を通さなければいけないように思って少し読んでみることにした。

「自選紀行集」「春風落月」
まず軽い読み物からと思ってこの2冊を借りてきた。ここで大変な乗り物好きだったと知った。鉄道、舟、飛行機、自動車なんでも来いみたいな感じで、鉄道は百間先生の後継者を自負し、時刻表を読む趣味もプロ級だ。プロ級というのは宮脇俊三さんが頭にあるからだが、宮脇さんの本職は作家生活になる以前は中央公論社の編集長で常務取締役だったから厳密には時刻表のプロではない。阿川さんも趣味を通じて親交があったようだ。
「自選」とあるだけにどの紀行文も面白いものだった。なかでも「アガワ峡谷紅葉旅行」は、はしなくも阿川家のルーツ探しの様相も示して私には興味津々だった。

アガワ峡谷はカナダのオンタリオ州だが、景色もさることながら「AGAWA」へ行きたい一心で、特別に頼んで命がけで行ってきた話。観光列車から切り離された貨物用の車両で行き、熊に食われなければ帰り便に旗を振って合図して乗せてもらえと言われたという。電話帳にAGAWA姓を8軒発見、英語の達者なご子息に言いつけて物好きにもその一つに電話する。その地のAGAWAはすべて先住民で、はるかな昔祖先が地続きだったべーリング海を越えて来たとの伝承を聞き出した。姓の持つ意味は川の屈曲する処だとも。帰宅後、漢和大辞典で「阿」を調べると「川の屈曲するところ」と出ていたと書く。また本籍のある山口県には阿川の地に阿川神社もあることを教えられた。こうなると私の空想癖が頭をもたげて肝心の読書の妨げになって困った。ご子息尚之さんが留学初年の頃のお話だつた。そのほか「ドナウ源流をたずねて」は佐和子さんをナヴィゲーターにしての冒険ドライブ旅行、アウトバーンを170キロでとばす阿川氏を想像するのはちょっと難しいことだった。このほか豪華船でのクルージングでは、とかくエピソードの多い斉藤茂吉夫人やら狐狸庵先生、マンボウさんと組んだ3人組のお笑い道中など謹厳な大作家を想像しそうな読者にとっては愉快な文章が続いていた。(2001年、JTB刊)



いっぽうの「春風落月」はゆったりとした空気が全頁に流れる随筆集。ここでは名にし負う著者の文章が堪能出来た。私の興味から強く記憶に残ったのは日本語の使い方の問題で、「立ち上げる」を例に引いて自動詞と他動詞をごちゃ混ぜにしていると大層ご立腹の様子だった。きたない言葉であるとあったが、いまやパソコン関係の記事には氾濫している。たしかに手元の広辞苑や新明解国語には「立ち上がる」はあっても「立ち上げる」はない。文章論では佐和子さんの初期の文章修業の教師としてなかなか厳しそうな様子がうかがえた。(2002年、講談社刊)


「雲の墓標」「春の城」
阿川さんは東大国文科卒、学徒出陣の被害者だ。昭和17年9月に繰り上げ卒業で海軍に入る。所定の教育課程を経て、翌年少尉に任官して軍令部に配属され暗号解読などに従事した。興味半分で受講したことのある中国語が生きたのだそうだ。
上の2冊で当たりをつけた感触が良かったので少し追っかけファンになりかけて長い小説を読んでみた。ここにあげた作品が二つとも載っている『自選作品集 1』(新潮社 昭和52年)を選んだ。

「雲の墓標」は広島高等学校同期生から譲られた特攻要員の日記を題材にした小説。小説も日記の体裁にしてあるがフィクションが混在している。本人と親しい友人たちを中心に同期卒業の若者の身体と精神が軍隊でどのように造られてゆくか、抑えた筆致で静かに語られる。昭和18年12月の海兵団入団から始まり昭和20年7月の出撃直前の朝に書く両親と友人宛の遺書でおわる。末尾に本人の友人が復員後に本人の遺族である両親宛に書いた手紙を載せる。詩作が添えられているが、日記を譲られた同窓生の作品、著者自身には詩作の才能がないと後記している。題名「雲の墓標」は出撃直前に書かれた友人宛の遺書から取られている。               
出水市の特攻慰霊碑
雲こそ吾が墓標/落暉よ/碑銘をかざれ

後年出水を訪ねたときには元の航空隊はゴルフ場に変わっていて、はずれにこの句を彫った慰霊碑があったそうである(作品後記より)。
ついでながら同後記にあったエピソード。執筆前に出水を訪れた際に急行列車の中にこの大切な日記の一冊を置き忘れたことがあった。気を鎮めて考えた挙句にこの急行の折り返し列車を確かめて八代の駅で捕まえた。列車ボーイに聞くと、「ありましたよ、とっておきました」と返してくれた。汽車のダイヤに興味を持っていることの一得と書いてあった。

さて、「雲の墓標」はフィクションが混じるとはいえ、現実の日記を母体としていることで実録といってもよいだろう。国文科で万葉集を読んでいた学徒が無理やり学問や恩師から引き離され特別攻撃隊という戦闘要員に育てられてゆくのは悲劇である。これは死ぬための教育訓練なのだ。練習機を赤とんぼと呼んでいたのは子供の頃から知っているが、艦攻、とか艦爆とかの用語は出てきても適当に想像して読み進めた。海兵出身と差別されて予備学生は何かといじめられるということも頻りに出てくる。これでは死ぬ訓練も大変だと嫌でも思わされるが、著者の筆致は冷静そのもの。日記自体がそれだけ淡々と書かれていたということだろう。特攻機は「ワレ突入ス」の電信を最後に目標に突入してゆくが、たいていは打電直後に撃ち落とされて海に沈んだと私どもは聞いている。そういう場面は作品には出てこないけれども、そういうことが必至であると知って読んでいる気分は誠にむなしいものがある。全編を通じて若者の苦悩や覚悟など様々な形で出てくるが、読み終わっての感想はみんなマジメだったのだなぁという感嘆が入る。「本分を尽くす」とはいまどき忘れられた言葉だが、思わず脳裏にひらめいた。同時に「あはれ」という言葉も湧いてきた。登場する若者たちにはこういう言葉がピッタリだと思う。
(「新潮」昭和30年1月号~12月号、単行本 昭和31年4月、新潮社刊)


「春の城」

一般に戦後書かれた軍隊生活の様子などは、それまでの皇軍万歳一辺倒の風潮の裏返しのような作品が多く、「阿諛便乗が正義の顔をしたと同じやうに、吐け場を見出した怨念が思想のお面をかぶって通ってゐる。これは違ふと思った」(作品後記より)。ならば本当のことを書いてやろうと5年がかりで書き終えた作品だそうだ。著者最初の長編、三度に分けて雑誌に発表された。題名は杜甫の詩をかりたそうだ。という意味は調べてみて杜甫の「春望」であろうと推察する。8世紀、安禄山に敗れた唐の都、長安の廃墟の眺めである。
国破山河在 国破れて山河あり
城春草木深 城春にして草木深し
 (以下略)
著者の身代わり小畑耕二が主人公で自伝的要素が濃い。広島に両親がいる東京の大学生、小説家志望で文学部に籍がある。広島高等学校の教師の感化で国文科を選んではみたが講義には気が乗らない。郷里の年上の友人、伊吹の妹と親しいが将来を決めているわけでもない。何か茫漠とした気分の日々に戦時の社会的な予定が色々と迫ってくる。やがて徴兵検査があり、大学生の繰上げ卒業制度が発表され、文科生にも海軍士官候補生になる道が開ける。この時代、昔からの日本の風習で、年頃の子女のある家庭では家の跡取りとか嫁入りとかが大きな問題になり、親も子どもも頭を痛めるが、戦時でもそれは同じであった。しかし、やがて戦場に出てゆく身としては内心は複雑にならざるをえない。こんな背景事情を考えながら読んでゆくと、航空隊で事故死の同僚を荼毘に付すとき、生まれたばかりの乳飲み子を抱いた若い母親が故人を訪ねてきたりする。庶民の生活が平時から戦時に移り、描かれる場面も家庭や軍隊内の生活、家族、上官、下士官、空襲、戦場、沈没、闇の海上などと変転する。マリアナ沖海戦、原爆投下。それぞれの場にそれぞれの人生があった。人間の物語の積み重ねが歴史になる。こうして読んだ歴史はよく理解できて身につく。読んだ人の心のひだに潜み思想のDNAになってゆくと思う。

作品の発表順は次のようになっている。
「新潮」昭和24年11月号、「別冊文藝春秋」昭和26年7月第22号、
「新潮」昭和26年12月号、
単行本『春の城』昭和27年7月、新潮社
昭和27年4月までは連合軍による占領期間である。なんでもが自由になったはずが、郵便は検閲され、作品発表には種々制限がかかった。吉田満『戦艦大和ノ最期』は占領軍とその協力者たち(粕谷一希氏のことば)によって「軍国主義を鼓吹するもの」と断定されて掲載した雑誌「創元」は発売禁止になった。阿川さんの作品は中庸を往くその穏やかな文章のために検閲にかからなかったのかもしれない。どちらも同時代の戦争の真実を語った文学である。

第3章だったかに大陸の漢口に赴任した耕二が狂暴になるというくだりがある。内地の軍令部で暗号解読の小グループをまとめていたのが、一転230人ほどの集団を率いる立場に変わったからだ。怠けるやつ、狡く立ちまわるやつ、上から下までそれこそ阿諛便乗の輩がいっぱいいるのが軍隊だろう。著者は短気で瞬間湯沸し器のあだ名を持つ人ではあるがそれは親しみを持つ周囲が言うことで、本質は真っ直ぐな人だ、曲がったことは嫌い。下士官から兵隊からてんで勝手な連中を統率するのは、全員の命がかかるだけにときには狂暴にもなろうというものだ。軍隊の宿命のような気もする。小説ではなく生身の阿川さんは当時辛かっただろうとお察しする。
「春の城」も「雲の墓標」と並んで見事な作品だと思う。私の阿川さん追っかけは続く気配がする。(2015/8)


2015年8月11日火曜日

8月の暑い日々に想う

戦後70年という言葉が毎日のようにテレビや新聞を賑わせている。70年であろうがなかろうが毎年8月になると昭和20年の暑さを身体が思い起こすようになっている。8月15日の思いっ切り晴れた青い空、その日は静かだった。毎日のように高空を通過していく飛行機が来ない。疎開で間借りしていた和歌山県御坊市郊外、日高川堤防の上は暑かった。正午の雑音だらけの放送は聞いたが中味はわからなかった。広島や長崎のことは知っていたのだろうか。沖縄の状況も知っていたとは思えない。今思えば報道制限されていたのだろう、記憶に無い。
翌年の夏休みは寄寓先の和歌山市内にいた。西宮球場からのラジオ放送にかじりついて浪速商業と対戦する和歌山中学を応援した。ニュースが何を報じていたか、これも記憶していない。ラジオから流れる「カムカム英語」や「鐘の鳴る丘」のテーマ音楽だけは覚えている。敗戦も原爆も関係なかったかのように。進駐軍も報道制限していたのだ。
いつの頃からか、あれから何年とか、戦没者や犠牲者を忘れるなとか。ずっと後には御巣鷹山で同僚も亡くなった。お盆の季節。毎年同じ思いを繰り返すのはテレビや新聞のお節介もあるが、国全体が心のこもらない年中行事をしているかのようにも思える。
折しも今年は国会で安保法案の空疎な議論が進められている。丁寧な説明をすると繰り返す総理の言葉は毎日空回りしているようだ。国会は議論をする場所なのに。こういう日々を連ねているうちに日限が来て議案は衆議院に差し戻され、再議決の結果、法案は成立して自民党万々歳となる結末はおそらく変わらないであろう。



それはそれとしてこの夏は、日本が敗戦を受け入れたポツダム宣言について少し勉強してみた。受諾する条件として執拗に繰り返される国体護持という言葉を考えてみた。国体って一体なんだろう、国民体育大会のことだよ、なんていう茶化しは措いて、まじめに考えてもすんなりとはわからない。しかし答えは何の事はない、天皇制のことだった。5日の朝日新聞夕刊の加藤陽子さんもそう話している。ロベール・ギランは著書『日本人の戦争』で終戦の詔勅中の「朕は慈に国体を護持し得て」の「国体」に次のように注をつけている。
国体というこの日本語は、終戦まで日本ナショナリズムのさまざまな局面を包含する、極めて漠然たる形態を意味し、とりわけ日本国家の天皇制性格を示唆するものと受け取られてきた。
(ロベール・ギラン『日本人の戦争』(朝日文庫1990))
この注釈によってもなお感覚的にわかったような気がするだけで、一向に具体像を描けない用語である。いろいろの場合に用いられるのでなかなか理解しにくい。
絶望的な戦況の推移によって政府上層部に戦争終結への機運が増してきた。議論には必須の条件として「國體護持」という用語が頻出した。

7月26日にポツダム宣言が発表され、どのように反応すればよいか戸惑った内閣は宣言発表の事実を論評なしで公表したところ、「拒否だ」「無視だ」と新聞が勝手な解釈をして世間は混乱した。やむなく鈴木貫太郎首相が「黙殺」と表明したのは28日だった。続く日々には通常の空爆や艦砲射撃が続けられたのは勿論のことだが、6日に広島、9日に長崎と特殊爆弾の投下による惨劇があり、8日には中立条約を破ってソ連が対日宣戦を布告した。折しもソ連に終戦交渉の仲介を持ちかけて返答を待っていた日本政府にとってはまさに青天の霹靂であった。

ポツダム宣言による最終通告にどう対応するか。そもそも日本政府はこの宣言が連合国から日本に向けた最後通牒であることを理解していなかったのではないか。
すったもんだの議論に結論を得ず、御前会議の鶴の一声で受諾することになった。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に」との条件を付けて8月10日に連合国に通知された。これがその時終戦を画策していた一同が共通に理解していた「國體護持」の内容だ。この場合はこれでよく理解できる。天皇が統治する国家形態のこと、すなわち天皇制という制度のことになる。

この条件に対してのアメリカ政府の回答には「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官に従属する(原文ではsubject to)ものとす」「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本の国民の自由に表明する意思により決定されるべきである」とあった。さて「國體護持」はどうなったんだ、これでは「國體護持」に確信が持てない、という意見が持ち上がり、政府上層部はまたもや紛糾した。「国家統治の権限が連合国最高司令官に従属する」といわれてしまったのでは天皇の大権が認められないことになろうと解釈されてもしかたがない。軍部はこの解釈で抵抗したが外務省は「従属する」ではなく「制限せられる」と訳して抵抗をかわそうとした。13日未明にスエーデン岡本公使よりアメリカの回答文には実質的に日本側条件を是認したものであるとの緊急電が入り、ようやくこのまま受諾することに決して天皇の聖断を仰いだ。14日の最終的な受諾決定は再びの聖断を得てスイス経由で連合国に通知されてようやく戦争は終結することになった。日本国内では15日正午、ポツダム宣言を受諾したことが裕仁天皇の肉声によるラジオ放送によって周知された。

ポツダム宣言受諾までの経緯をみると、政府上層部の和平派も徹底抗戦派も何は措いても国体が護持できないなら受諾できないとの思想である。国民の運命も国土の荒廃も一切無視して天皇制を護るのが唯一の目的だったかのようである。国民も国土もなくなって皇室だけが残ってどうするのかと思うが、誠に不思議な国民感情であったと思う。
ポツダム宣言の第十条に「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも・・・」("We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation,"に対する外務省訳文)との文言がある。戦争に負けることは奴隷化や滅亡までをも意味するという西洋流の概念を果たして日本人は持っていたであろうか。
降伏を勧める相手はこのような概念を持つ人達であるにもかかわらず、国体護持を条件に申し出るのは世間を知らぬ尊皇攘夷思想を思い出させる。本来なら通用しないはずであり、現にソ連は反対して無条件降伏を主張した。案文作成は6月頃からアメリカの三人委員会の手で進められていた。中にはグルー元駐日大使のような日本を知悉している人たちが入っていたこと、戦後の占領計画を立てる人たちは皇室の存在が人心を収攬し統治の混乱を防げることを理解していたことなどが幸いしたのである。
国民の間には予ての戦時体制一色になってきた頃から喧伝された「天皇の大御心」に殉じる感情が広く行き渡っていたものの、この和平工作段階の頃には空爆下の日常生活の窮乏化がひどくなっていたことから反天皇感情が増えていたことも確かであった。宮中側近も情報収集に抜かりなくその辺りは十分に天皇に伝えていたことと思われる。14日の最終受諾に裁決を与えた天皇は自らの発意で受諾に至った真意を直接国民に伝えたい意向をもらしたと伝えられる。これが15日正午のいわゆる玉音放送となった。




ところでポツダム宣言はベルリン郊外のポツダムで公表されたため、この名でよばれる。同地では1945年7月17日から8月2日にわたって米英ソ連の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を合議する会談が行われていた。この期間中に「日本への降伏要求の最終宣言」として米国大統領、英国首相及び中華民国主席の名において発出されたのがいわゆるポツダム宣言である。発出された1945年7月26日当時、ソ連は対日中立条約廃棄を4月に通告済みであったが、翌年4月まで有効の当事国であったから宣言には加わっていない。ポツダム宣言はアメリカ製であるから米国の意思が明瞭に表れている。損害を少なくしながら、戦争を終結させる方策として、天皇制を維持することを事前に表明すれば日本が受諾に応じやすくなると考えられた。しかし、アメリカ国内の世論に天皇制に対して非常に厳しい思潮があったためトルーマンはこの提案を原案から削除した。この削除された内容が、日本が要求した国体護持の条件についての上述の回答に示唆されたわけだ。また、原爆保有を明示して日本の破滅が確実な予想とすれば降伏を早めると提案されたが、案文段階では実験成功の帰趨が不明であったため条文には含めなかった。原爆については宣言文第3条に「軍事力の最高度の使用」という間接的な表現になったが、これでは日本は理解できなかった。

第十条には上述の奴隷化云々の文言に続いて「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし」との語句もある。当然のことに戦後、日本側では天皇の免罪が大問題になる。ただ天皇個人を有罪とすることで制度自体は存続可能となるとする考え方も生まれてきた。
宣言を受諾した直後に従来皇后宮職に属していた東宮関係の事務を分離し、新たに東宮職を設置することが宮内省から発表され、東宮大夫に穂積重遠が任命された。続いて11日付各新聞に「宮内省御貸下」の皇太子昭仁の写真が掲載されて、立派にご成長などのコメントが付けられていた。これは状況の全く見通せない段階にあって天皇の引責退位の事態を想定して「國體護持=制度維持」を考慮した手段と考えられよう。
なお、ポツダム宣言の署名者はトルーマン一人だけであった。チャーチルは一時帰国していて不在だった。だが最終に至る案文には目を通している。彼は第13条の無条件降伏に「日本軍の」と付け加えた。アメリカはおそらく国を挙げて日本国の無条件降伏と絶滅の気運が強かったろう。リメンバー・パールハーバーだ。
蒋介石はポツダム会談にも来ていなかった。

ところで、国体護持などにとらわれないでポツダム宣言を直ちに受諾していたならば、原爆は避けられたのに、などという恨みがましい話がよくある。経緯を調べればそれは間違いだ。どうやら日本に原爆を使用することは開発の進行中に決まっていたようである。
ポツダム宣言に関連して判明しているのは、7月17日にソ連が保留していた対日参戦を実行するとスターリンがトルーマンに知らせたこと、翌18日にトルーマンのもとに原爆実験が成功したとの報告が届いたことである。そして7月25日にトルーマンが原爆の投下を承認したことにより、実際の爆撃部隊への指令が発出される運びとなった。
ルーズベルトは日本に原爆を使用しないことにしていたのが、急死によってトルーマンに政権が引き継がれたことで日本に投下する具体的な計画が進展したことは事実のようである。
原爆を何処にどのように使うかについてのアメリカがどう考えたかは、十分な資料を手元に持たないので推移を記述するのはシロートには難しい。
国体護持の勉強には吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書1992)を参考にしたが、原爆については触れていない。

日本がポツダム宣言の受け入れを逡巡している間にアメリカは二発も原爆を投下した。一般国民を含む無差別爆撃であることは東京大空襲ほかとも共通していて立派な戦争犯罪である。だが、新しい二発は核爆弾である。いったん殻を破ったら無限に近い時間の間、有害な放射能を発散し続ける核、それは二度と元には戻せないのだ。核爆発の利用は人類への挑戦である。アメリカがいかに自由と民主主義のためにといっても、その使用は人類に対する犯罪である。ポツダム宣言の勧告に従って日本は降伏したが、核の利用は許せない。その核をアメリカと同調して「平和利用」している日本は間違っていると思う。
(2015/8月)