2014年12月30日火曜日

『風と共に去りぬ』とサツマイモ

ちょっと古いお話で恐縮だが、アメリカにもサツマイモがあると
1936 初版と著者署名
知って驚いたのは80年代の初めごろだったと思う。知る人は知るで、これは筆者の単なる無知であったのだろうとは思うけれども、後述するようにマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』の翻訳者もまごついた形跡があるのだ。
記憶をたどれば最初はNHKテレビの地方ニュースで川越の「さつまいも友の会」の発足を知ったことだった。アメリカ人の大学の先生が川越の名産を知って自分の国にもあることを伝えたことから芋文化研究サークルができたと報じられていた。
一番強烈な印象はアメリカではサツマイモの産地が出荷する際のレーベルのコレクターがいることだった。紹介されたいくつかのレーベルにはまさに日本人が知っているサツマイモそのものが描かれていたのである。出荷用の木箱に貼るレーベルであるから一般消費者の目に触れることはないらしい。
1998年にインターネットという道具ができて、筆者はさっそく利用して数々のラベルを楽しんだものであった。

ラベル収集家用のサイト例;
http://www.thelabelman.com/index.php?cPath=36_60

あれから30有余年「川越いも友の会」は大きく発展して今ではサントリー文化財団の支援も受けているらしい。発端を作った大学の教授はベーリ・ドゥエル(Barry Duell)氏で、川越在住を契機にサツマイモ研究に打ち込み論文「アメリカさつまいも事情」を出版、ネット版も大いに参考になる。日本語版がある。
 www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1991kt1.html
 http://www.tiu.ac.jp/~bduell/sp/usasp/

こうして遅まきながらアメリカにもサツマイモがあるということを知ったあと、あるとき『風と共に去りぬ』(原著1936年))を読んだ。図書館の蔵書で読んだのだが、分厚い一冊本の大久保康雄・竹内道之介共訳であった。古い話なので今その図書館の検索にかけても、それらしい書物が見当たらない。世界文学全集の一冊と思うが、三笠書房という記憶がかすかにあるだけで確かではない。いずれにしても初期の翻訳であったろう。大久保康雄氏による単独完訳が成ったのは1938年とされていて、それは絶版になったらしい。その後、竹内氏との共訳ができて、両者の没後も現在まで出版社を変えて発売されている。


写真は映画『風と共に去りぬ』(1939年)の一コマ、アシュレのガーデン・パーティに出かけるため衣装合わせに忙しいスカーレット。マミーに手伝わせて自慢の17インチのウエストに合わせてコルセットを締め上げる場面、世間ではかなり評判になったショットだ。
マミーはオハラ家の令嬢が守るべき鉄則、つまり出先でなにも食べなくてすむように食事をとるように勧める。映画ではこのとき別の家政婦が料理を大きなお盆に乗せて運んでくるが、原作ではマミーが呼ばれた時にすでに自分で持って二階に上がってきている。

さてその料理の盆の上には、
バターを塗った大きなじゃがいもが二つと、シロップがたれるそば粉のホットケーキと、肉汁の中を泳 ぐハムの大きなかたまりがのっていた。
  (新潮文庫昭和52年初版、大久保康夫・竹内道之助訳)
ここで筆者が問題にするのはスカーレットやその細いウエストのことではなく、「じゃがいも」と訳されている食物のことだ。
上に記した場面で「じゃがいも」となっている食物が、のちに見た同じ訳者による版では「さつまいも」になっていて、おや、と思ったことがある。さらにその後、気になって見た同じ訳者の別の本には「じゃがいも」に戻っていた。おや、おや、である。その後、現在手元に買い揃えた新潮文庫(平成十一年)は上に述べたとおり「じゃがいも」だ。 (末尾 追記参照)

あるとき、新潮社にこの変遷の経緯を問いただしたことがあるが、なしのつぶてであった。訳者はすでに故人であり、出版社も三笠書房、河出書房、新潮社と変わる間にはそれぞれの浮沈があり、この作品は何よりも絶版になっていたものを戦後復刊してベストセラーになったいわくつきだ(注1)。その上、大久保康雄氏は多くの下訳者を駆使した翻訳工房の主である。筆者の質問などとるに足らぬ些事であったことに加えて、調査する手立てもなかったのかもしれない。最近になってネットで知ったが同作品の翻訳の正誤に関しては、レットが訣別を告げるセリフ(注2)やタラの丘でまたレットを取りもどそうと誓うスカーレットのセリフ(注3)がファンの間で取り沙汰されていたことを知った。芋のことはますます些事になっていたのだ。

(注1)三笠書房HP企業情報の沿革によれば、1937年本邦初訳で出版、1948年ベストセラー、とある。Wikipedia 竹内道之助の項には、1940年大久保訳を刊行するが発禁、戦後大久保と共訳の形で再刊しベストセラー、翻訳歴に同書が共訳1954となっている。確実な情報がほしい。  
(注2)
“My dear, I don’t give a damn.”「だが、けっしてきみをうらんではいないよ」(大久保訳)
                    「知ったことか」(映画字幕 松浦美奈)
(注3)
 After all, tomorrow is another day.「明日はまた明日の陽が照るのだ。」(大久保訳)
                       「明日に希望を託すのよ」(映画字幕 松浦美奈)

 で、問題の些事にもどる。筆者は些事を些事とは思わないから、サジを投げるわけにはいかんのだ。
この作品は歴史小説でもあり、社会史でもあると思う。その中で筆者は単純に芋の種類に目が行っただけなのだが、そもそも、われわれ日本人がある時期まではアメリカにサツマイモがあるなどとは考えてもいなかったし、事情を全く知らなかった。戦争中におとなだった人たちの中には、サツマイモと聞いて代用食や空襲下の自家菜園などを思い出してアメリへの恨みの残り火をかき立てたかもしれない。いまでこそ、インターネット情報もたくさんあるし、アメリカのラジオも聴けることから状況がわかってきたのである。
『風と共に去りぬ』が映画(1939)になってからも冒頭の場面で料理は映らない。もし、翻訳者がひょっとしてサツマイモ?とでも疑念を持てば、そこは専門家としてアメリカ側に問い合わせるなどの手もあったかもしれない。事情はわからない。
ちなみに映画の日本公開はようやく戦後の1952年9月だ。余談になるが一部の日本人は上海などで戦前にこの映画を見て、こんな大作の映画を作る国が相手との戦争にはとても勝てない、と慨嘆した話がある。

マーガレット・ミッチェルは同作品の中に登場する「いも」を四種類の語で表示している。
yam、yelow yam、potato、sweet potato である。
大久保氏の翻訳ではyamとyellow yam、potatoは「じゃがいも」、sweet potatoは「さつまいも」としている。sweet potato pieの場合には、スイートポテト・パイとなっている。
前出の東京国際大学のドゥエル教授によれば米国では,yamは肉がオレンジ色のサツマイモの意味であるという(「アメリカ サツマイモ事情」米国のサツマイモ祭りヤンボリー)(注)yellow yamについての説明はない。

こういう次第なのでオハラ家の農園および食卓の場面に描かれるyamはサツマイモなのである。

『風と共に…』の中でタラの丘が北軍に荒らされた際、食料が洗いざらい持ち去られた後、芋だけは助かった。理由は北軍のやつらは土の下に食物があるなどとは知らなかったからだ。奴隷のポークは喜んだ。
「丘の上の芋畑は?」(原文は"Even the sweet potato hills?)
「スカーレット嬢さま、芋を忘れてましただ*。きっと畑に残ってるにちげえねだ。ヤンキーどもは、さつまいもを見たことがねえだで、きっと何かの根っこだと思って――**)
 * Ah done fergit de yams.
 **Dem Yankee folks ain'never seed no yams an'dey thinks dey's jes' roots an'――.
ここでは先にsweet potato hills が出ているからあとのyamsがサツマイモと判断できたのだと思われる。

それではyellow yamはどうなのだろう、筆者の考えでは大久保氏の「じゃがいも」でも作品の鑑賞上は支障がないと思う。
それではどんな料理なのだろうか。第1部の4章にある、新潮文庫(一)117ページ。

 While Gerald launched forth on his news, Mammy set the plates before her mistress, golden-topped biscuits, breast of fried chicken and a yellow yam open and steaming, with melted butter dripping from it.
ジェラルドが新しいニュースについて弁じはじめると、マミーは、上のほうが黄金色にこげたパン菓子や、鶏の胸肉のフライや、とけたバターがぽたぽたしたたり落ちて、あたたかそうに湯気を立てるジャガイモなどの皿をならべた。(筆者注:ジャガイモは訳文ではひらがなに傍点がつけてある)(大久保訳)
 蒸した山芋?を割ったところにバターをのせた一品がフライド・チキンと共に供されるのだとは思うがどうだろう。ジャガイモのほうが感覚的にはぴったりだが。
ステーキに付けるじゃがいもは四つ割りにしてホース・ラディッシュをのせるがあんな感じかと思う。あるいはお祭りの屋台で売っているジャガバタだ。結局大久保氏の苦心の訳も空揚げにジャガバタというイメージでいいのではないか。となれば、yellow yamは日本にはなくて日本名もないのだから、ここは食卓の雰囲気を出すためにジャガイモを正解とすればよかろうと思う。ただし、湯気が立っているのは猫舌の西洋人のテーブルには似合わない。

英文のネット情報ではJamaican yellow yamがyellow yamと呼ばれているように書かれていて、皮をむくときには痒くなると注意がある。図像もあってヤマノイモに非常に似ている。その仲間としてwhite yamもあり、この図像はサトイモそっくりである。日本でも、どちらも皮をむくとき皮膚が痒くなることはよく知られているから同じような種類だろう。
とはいってもアメリカ人はものの名前に厳密さはあまりこだわらないから、中身が黄色がかっていれば赤みがかったサツマイモと区別しただけかもしれないし、なんともいえない。ただ、ここのイメージから形は丸っぽいほうがありがたい。

筆者はシンガポールの華人との食卓で食後のスイートに汁粉状の小鉢を出されたことがあり、訊くと「ヤムです」という答えが返ってきた。少しねっとりとしてミルクコーヒーのような色をしていた。このヤムは東南アジアに産する植物で、サツマイモではない。このようにyamはどこをどのように伝わったかは知らないが同名異物がたくさんある。

『風と共に…』はアメリカでも大人気であったことに関連して『「風と共に去りぬ」のクッキング・ブック』もあれば、サツマイモ料理のレシピもたくさんあって、日本の女性にもファンがいるように見受けられる。筆者が苦心して何年もかかって正体を突き止めたヤムも近頃の奥様方は簡単にブログで情報を交換している。アメリカの11月第4木曜日、Thanksgiving Dayにはターキーなどとともにサツマイモ料理が習慣になっているのも、今では皆様方の常識みたいだ。南部の経験者は少ないように見受けられるが、時代は変わった…遥けくも来たものかな…だ。

Duell教授は彼の論文に芋の栽培分布図を載せているのは参考になる。
 一説に、ジャガイモはアイルランド移民がアメリカに持ち込み、独立戦争では兵隊の食糧に大いに役立ったという。

                               http://www.tiu.ac.jp/~bduell/sp/usasp/p02.sp.vs.pot.html

たかが「いも」の問題でずいぶん長い間、頭の隅が掃除できなかったけれども一応これで問題が片付いたことにする。yellow yamの料理はいずれ時が解決してくれるだろう。

最後に蛇足。『風と共に去りぬ』の翻訳で大久保康雄氏といつも名前が並んでいる共訳者、竹内道之助氏は三笠書房の創業者であるが、最近のNHK連続テレビ小説「花子とアン」では小鳩書房社長、門倉幸之助として登場していると聞いた。演じるのは脳科学者の茂木健一郎さんとか。

(2014/12)

【追記】
その後発見した筆者の古いファイルには、『河出文学全集22 風と共に去りぬ Ⅰ』(河出書房新社 1989年)ではサツマイモとなっていると記録されている。訳者は上述と同じ共訳である。
(2015/1/28記)





2014年12月23日火曜日

「以羊易牛」ということ

来年は羊の年だと思いついて南方熊楠の「十二支考 羊に
大正八年一月号『太陽』表紙
関する民俗と伝説」を読みはじめたはよいが、「羊をもって牛にかえる」という言葉の内に含む意味が字義のとおりではないことに不審を持ち、戸惑っている。

和歌山県田辺市にある旧熊楠邸は、現在南方熊楠顕彰館として種々の事業の中心になっている。毎年暮れから新春にかけては、吉例十二支考輪読というイベントが行われている。今年もホームページに案内が出ている。
www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i141206 

案内文に簡単な紹介がある。「十二支考」は古今東西の書物からテーマとする動物についての生態や伝承、民俗などを引用するだけでなく、熊楠独自の見解を書き連ねているが、情報が多く詰まりすぎだとしている。そのため著作の中で、もっとも難解だという。まことにその通りで、まるで大風呂敷からぶちまけられたような事物や伝聞を自由自在に書き連ねるさまは、読者にとってはときに非常に迷惑なものになっていると筆者も思う。しかし大した力業だと感心する。

さて、羊に関してとはいうものの、事物について「羊」が付いたもの一切、つまり、動物としては羊と山羊が仲良く混じっているし、植物では羊歯類なども含まれる。「独自の見解」による説明や文章にも、たとえば「セルビアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく」など、時世に見合った漫談風の言い回しも絶妙で、そのつもりになって読めば大変に面白い読み物である。原書の訳語には『動物智慧篇』に「アニマル・インテリジェンス」と原題をフリガナで表示するなど勉強もさせてもらえる。

それはともかく、ここでは筆者が頭をひねっている成句「以羊易牛」に主題をかぎることにする。羊をもって牛にかえる、易はとりかえるの意味。登場するのは孟子の言行録の『孟子』梁恵王の章句第七章である。

古代のシナの戦国時代、斉の宣王が自分にうまく国が治められるだろうかと孟子に問うたことで交わされる問答。概要を意訳でまず述べておく。

宣王が祭儀の生贄に曳かれてゆく牛を見かけて、牛をゆるしてやれと言ったところ、では祭儀は取りやめかとの問いに、いや、羊を牛にかえて執り行えと命じたそうだが、と孟子が訊くとその通りだとの答え。そこで孟子は、それでこそ王の資格がある。百姓は王が牛を惜しんだと言っているが、私には王の心がわかっている、と言う。王は、牛を惜しむなどとは心外なことをいう人々だ。罪もないのに殺されにゆく牛が可哀想だから羊に代えよと言ったまでなのに。それにしても人々がそのように受け取るのももっともなことではあるな、と困惑する。

王が困惑したところで孟子は助け舟を出した。
王が大きな牛を小さな羊に代えよと言ったから、王の意中を知らない人たちが、王が牛を惜しんだと受け取ったのだ。罪もないのに殺されるのが忍びないのは牛であっても羊であっても変りはあるまい、と孟子。
王はそれはそのとおりだが、なぜあのような気持ちになったのか自分でもわからぬと考え込む。

孟子は、噂は気にしないでよろしい。それが仁の道なのだ。あなたは牛は見たが羊は見ていない。君子は鳥や獣の姿を見たからにはそれを殺すには忍びないし、声を聞いたからにはその肉を食するに忍びない。だから君子は調理場を遠ざけるものだという、と説くと王は喜んで、詩経に「他人心あり、われ忖度す」とあるのは先生のことだ、先生はよく私の心が読めたと褒める。(この後は省略)

「殺すに忍びないのは牛でも羊でも変わりはない」というなら、この場の羊の処置はどうなるのかという疑問がわくのは筆者だけではないだろう。ところが孟子は「それが仁の術だ。牛は見たが羊はまだ見ていない」と片付けてしまう。これがどうにも腑に落ちない。

ちなみに、原文の「是以君子遠庖廚也」は『礼記・玉藻』の「君子遠庖厨,凡有血気之類弗身践」を踏まえていることを他で知った。
立命館大学の夏剛教授は「君子遠庖厨」の言葉は、殺生に立ち会うことへの良心の抵抗ではあるが、血なまぐさい場面を忌避しつつ、その肉を後でしっかり食べるのは名分と実益を両立させる虫のよい計算か、と皮肉っている。また同教授は、「無傷也、是乃仁術也」は、民衆の評価で心を痛めることはなく、(これすなわち)王の思考・行動は仁の心の働きだ、とも解されるとする。そのうえで、「遠庖厨」論に対して、『詩経』の「他人有心、予忖度之」を引き「夫子之謂也」と感心した、と続けている。なかなか穿った見解であり、この見方なら、宣王はあたかもすでに王の心を持っていながら羊に代えよといった自分の心の奥底に気が付いていなかったということになる。ただし、この夏教授の説といえども文字の意味ではなく、文化の底流にある行間の読み方なのかもしれないと思うが、羊の問題はやはり処理できていないのではなかろうか。
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol13-2/ka.pdf

さてさて、本来の熊楠さんの説に戻ることにしよう。熊楠は、まず馬琴の『亨雑記』(にまぜのき)に拠って馬琴の解釈を述べる。
馬琴は王の意中を解説して次のようにいう。小さいもので大きいものの代わりにする意味ではない。また、牛を見て、まだ羊を見ていないからというのでもない。おどおどしていて罪もないものを死に追いやるようなことは忍びない。それゆえ羊にかえたのだ、と。
つまり、羊は死をこわがらないから牛の代わりにせよ、と言ったのだ。もし、羊でなくても豚でももよかったろう。それはともかく、孟子は牛と羊の性質を論じることはしないで、ただこういうことを言ったのだ。

「牛を見たが、羊は見ていない。君子は鳥や獣の生きているところを見ては殺すに忍びない。声が聞こえているなら、その肉を食するのは忍びない。こういうことだから君子は厨房を身辺から離れた場所に置くのだ」と。これは仁の心の持ち主を言う言葉であり、こういう人が堯舜のような名君になれるのだ。

以上は馬琴による説明だと熊楠は注をつけて、あらたに次のことを披露する。

志村知孝は、説明としてはちょっとおかしくないかとこれに異議を唱えた。
宣王が「羊をもって牛の代わりにせよ」と言ったのは、孟子が言うように「小をもって大の代わりにせよ。牛を見て羊は見ない」という意味であって、牛は死ぬことをたいそう怖がるから殺すに忍びないとか、羊は恐れないから牛の代わりにせよと言ったのではあるまい。このことは孟子が、「王がもし罪もないのを殺すことをあわれむのならば、牛だ羊だと選ぶことはないではないか」と言っていることで明らかであろう。宣王がもし牛は死を恐れるが羊は喜ぶから牛の代わりにせよというのならそう説明すればよい。その説明なしに羊にかえよというから、かえって人は戸惑うはずだと。(原注:『古今要覧稿』五三一巻末)

(筆者注:『古今要覧稿』は屋代弘賢(1758-1841)が編纂、560巻。屋代病没のため千巻の予定が未完に終わる。志村知孝は弘賢の知友の会合で編纂された同人誌へ寄稿者として名前が出ているが、それ以上のことはわからない。)

次に熊楠は牛と羊の殺される際の様子を記述した事例を自分の体験も含めて提示する。羊は黙って殺されるということが多いようなので、牛と羊の死に臨む様子の違いについてはどうやら馬琴の言うとおりらしいと結論する。そこで、「羊をもって牛にかえよ」としたくだりを提示して次のように解説している。

実は王は、牛は大層死を怖がるが羊は殺されても鳴かないから、小の虫を殺して大の虫を生かせというつもりでこのように言ったのだが、国人は王が高価な牛を惜しんで廉価な羊と代えよと言ったと噂した。
そこで孟子は王といろいろ問答した結果、王は牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺されると説明すべきことを思いつかなかったと弁明した。そこで孟子は王のために「牛を見ていまだ羊を見ざるなり、云々」と弁護してやったので王は喜んで、「詩経にいう『他人心あり、われこれを忖度す』と。これは先生のことですね。私は自分でやっておきながらどういうわけなのかわからなかったけれども、先生はよく私の意中が読めましたね」と褒めた。肉食が日常のシナでは羊は牛ほど死を恐れないくらいのことは、人びとは幼いころから知り尽くしていたので、かえって羊が死を恐れないとの説明を思いつかなかったのだ、と結末をつけている。

羊に関する話は、ここに挙げた議論のほかにも世界各地の伝聞を文献で克明に拾っている。孟子の逸話で熊楠の指向した主題は殺されるときに鳴き声を発するかどうかということにある。宣王との問答以外にも「唖羊僧」という語は法を説かない僧侶をいう言葉で、その由来は羊のようにものを言わないからだ、などと数多い伝説や習俗が集められている。

取り上げられた宣王の発言「以羊易牛」に隠された意味について、熊楠は食用に資するため羊が黙って殺されてゆく日常に暮らす人々の社会心理に結論を見出したようにみえる。つまり、日常茶飯事なので憐れみを感じるに至らないということか。
また、羊は見ていないから問題外とするかのような孟子の意見も腑に落ちにくい。現代でも眼に見える対象にしか考えが及ばない人々は確かにいるだろう。途上国での技術指導などでなぜそうするかの説明には、結果を眼前に実現して見せる必要があったりする。地図というものを全く理解できない人たちもいると聞いた。それとは別に、ふだん、鶏の唐揚げが好物だとしていながら、鳥ウイルス対策でいちどきに4千羽処分などの報道を見れば、さすがに可哀想だという気持ちがわくのも、何か共通していそうだ。

「牛は見たが羊はまだ見ていない」、「君子庖厨を遠ざける」、この二つが「羊をもって牛にかえ」た理由であって、それが仁の術だとする。どうもつながりが理解できない。その前にもう一つある、「罪なくして死に就くのをいたむなら牛だ羊だと選ぶことはあるまい」、これもどうつながるのだろう。

さんざんネットの中を探し回っていると、「見ないものに対しては、心の奥にある仁心がまだはたらいて来なかったまでである」という解釈が出てきた。仁の心とはずいぶん変なものだとは思うが、これが孟子の趣旨らしい、と割り切ればどうやら煩悶から抜け出られた気分になる。

この解釈は「昭和漢文叢書「孟子新釈(上)」弘道館発行1929年」によっている。
著者は内野 台嶺(うちの たいれい、1884年4月29日 - 1953年12月14日)
blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51120333.html参照
同じ解釈が内野熊二郎『孟子』(新釈漢文大系) 明治書院 昭37 にもある。後者の著者については前者の著者と姓が同じであるが身内か他人かわからない。まったく同じ文章の「通釈」が載っているから、理屈はどうであれ、日本での定説なのであろう。

原文には、(前略)無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、…(後略)とあって、「見ないものに対しては…」という説明の句などない。読み手が補って都合よく解釈するということなのか、そうであれば漢文とは便利なものである。筆者の世代は中学1年の時間割に漢文があったが、1学期中は農作業と勤労奉仕で授業はなく、夏休みに敗戦が決まって2学期から漢文がなくなった。だからというわけではないが、漢文の読み方は知らないままで過ごしてきた。

漢文にはテニオハがない。この解釈者は「牛を見ていまだ羊を見ざればなり」と訓読している。未見羊也を「いまだ見ざるなり」とはしないで、「見ざればなり」とするのは読み手の自由なのだろうか。
いずれにしろ、こうやって自在に読めば問題はなくなる。それでも、羊を見なければ殺しても平気なのか、との疑問は消えない。

王道の根幹である「忍びざるの心」こそすなわち仁心である。孟子は、それがだれの心にも生まれつきに備わっているということを強調した。いわゆる性善説である。(金谷 治『孟子』岩波新書 昭和41)

「以羊易牛」の逸話は、仁を説く発端であって、このあとも王と孟子の問答は続き、王の心に萌した仁の心を外向けにどんどん伸ばしてゆくことにより、次第に民心全体を治めることができましょうと説くのである。それはよいとしても、君子の眼の届かないところで羊はどんどん殺されてゆくことになる。性善説ならこんなはずはないだろうとは思うものの、孟子が羊の面倒を見たとはどこにも見当たらなかった。

南方熊楠は「羊の民俗と伝説」の冒頭に「流行感冒の病上りでふらつく頭脳で思いつき次第に書き出す」と断っているから、くだくだとわからず屋の読者の相手など面倒になったのかもしれない。

ところで、筆者は祭儀のためと書いたが、それは鐘に血を塗るという儀式で牛は生贄である。王が曳かれゆく牛を見たことを原文は次のように書く。
「将以釁鐘、王曰、舎之、吾不忍其※(「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48)※(「角+束」、第4水準2-88-45)(こくそく)若無罪而就死也」<将に以てチヌらんとす。王曰く、これを舎け(おけ)。吾そのコクソク若(ぜん)として罪なくして死地に就くに忍びざるなり。>
(コクソクぜんとしては、おどおどする様子。)
幸田露伴は「連環記」の中で動物の生贄について「コクソクたる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、どうも善い事か善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである」との一節を遺している。『孟子』を踏まえての言葉ではなかろうか。
そしてこの鐘に血を塗ることに関しては寺田寅彦の頼みに応じて克明に調べた。のちに『釁考(きんこう』として発表した。結果は鐘に血塗る行為がいかなる意味合いを持つか確実なことは不明に終わっているが、岩波の全集19巻の実に55ページを割いている。かたや訊いた側の寅彦は科学者らしい分析を随筆に遺している。青空文庫で読むことができる。寺田寅彦「鐘に釁(ちぬ)る」www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2353_13800.html

熊楠も孟子の結論に続けて簡単に説明している。「この鐘に血塗るということ、むかしは支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑』云々…(後略)」。

南方熊楠全集 第一巻 十二支考 (昭和46年2月20日 平凡社)所収、
「羊に関する民俗と伝説」初出;大正八年一月『太陽』二五巻一号)

(2014/12)

2014年12月13日土曜日

原発避難は逃げても意味ない

IAEAの警告マーク2007年制定

このたびの衆議院議員選挙にあたっての論戦では原発に関係する議論が低調です。政府が再稼働に期待している九州電力の川内原子力発電所については、原子力規制委員会が安全対策が新規制基準を満たしているとの審査書を了承した。次いで地元の薩摩川内市の議会と市長が10月再稼働に同意し、さらに11月7日には県知事が同意した。12月には先に内容について指摘を受けていた工事計画と保安規定が規制委員会にあてて再提出される運びとなってるそうだ。

国際原子力機関(IATA)が定める原発事故に対する安全基準には5段階あるが、わが国では1.トラブル防止→2.事故の進展防止→3.重大事故への拡大防止→4.放射性物質の放出抑制の4段階まで国が関与し、5段階目の人への被害抑制(防災・避難)は原子力規制委の審査対象に含まれていない。
避難計画には国も助言はするが、実効性の確保などの審査は行わず原発から30キロ圏内の自治体に避難経路の策定を含む避難計画を義務付けている。

薩摩川内市では昨年度策定の計画では十分でないとの認識で今年度見直しを行うとしている。十分でないとする内容については、寝たきりなどの要援護者の輸送車や避難先での病院確保、避難者や車両の汚染検査(スクリーニング)の場所、緊急時のバス手配などとなっている(東洋経済ONLINE、2014年8月2日)。
10月24日には避難計画が違法であると要望書が出された。
www.jca.apc.org/mihama/bousai/kagosima_yosei_20141104.pdf

以上は今後最もはやい時期に再稼働されると予想される川内原発をめぐる現状です。

ここで文章になっていない部分に多くの問題点が隠されています。
手続きの上では再稼働するには地元の同意が必要とされていますが、その地元の定義(範囲)が定められていなくて、行われている手続きとしては原発の立地場所の薩摩川内市だけが地元とされています。一方で原発から30キロ圏内の自治体に避難計画の策定を義務付けているのに、そこに含まれる自治体の同意はとりつけないまま手続きが進められています。いったい地元の範囲と30キロ圏内はどういう関係と考えればいいのでしょうか。

何故立地場所の同意がいるかといえば、立地場所には危険が伴うからだということであり、その危険とは爆発事故及び爆発に伴う放射性物質の放出(いわゆる放射能被曝危険)である。
原発の立地選定には立地場所の住民による建設忌避のための反対に対して交付金を与えることで対処される。これが電源三法交付金の趣旨だ。交付する地点は主務大臣(文科、経産)と行政の長(県知事)が協議のうえ指定する。
結局、立地地元といえば交付金の対象地域と同じになると考えられる。

それでは立地地点と30キロ圏内で危険の程度が違うのかといえば、放射能の発生元が一番濃度が高いということはいえるだろう。どれだけ離れれば危険度が下がるかといえば放射性物質の流れ方による数値の変化にかかってくるから、確率論でしか言えない。つまり10キロであろうが50キロであろうが、それだからどうとは言えないのである。從って30キロという数値に何も権威があるわけではない。チェルノブイリで30キロで一応線を引いた事例があるからにすぎないということかもしれない。

(250キロ圏内は原発差し止めできると福井地裁判決
http://hunter-investigate.jp/news/2014/05/post-498.html )

交付金との関連で考えれば、川内原発の場合、30キロ圏内の自治体は万難を排して安全な避難計画を立てなくてはならないが、具体的には不足する車両その他の機器の手当て、道路整備、退避場所の建築など負担が大きい。交付金のあるなしで考えれば公平でなく不合理である。となれば再稼働の賛否を問えば反対することになろう。だから同意を求めないというのなら、見殺し的な考えだ。県としてはあり得ない結論だろう。県知事は国が責任を持つから苦渋の決断をしたそうだが、いったん事故が発生した場合に国は何ができるのであろうか。一番大切なことは住民の命に被害を及ぼさないことであり、事故が起きて放射性物質が降り注げば、せいぜい、ただちに生命におよぼす危険はないという前政権得意のセリフが聞かれるだけになりそうだ。それでも人間生きている間に異常発生のおそれはある。子どもには甲状腺異常があり、成人には忘れた頃に白血病だ。

(川内原発30キロ圏内の姶良市議会の意見は廃炉要求になった。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB1702M_X10C14A7000000/ )

ここで避難計画について考えてみよう。薩摩川内市の検討事項での避難とは原発から遠くに逃げることを指しているように見える。ところが一番恐れる放射性物質はガス状あるいは霧状になって流れてくる。放射能雲、あるいは放射能プルームなどと呼ばれるように空中を漂うように流れ、そこから放射性物質が降下してくる。福島の実例が示しているのは、放射能は爆発の途端から飛散し、地上の人間が逃げる前、逃げる途中、逃げた先で降下物質を身体に受けた結果が出ている。千葉県の柏市や東京の世田谷区にもいわゆるホットスポット(局地的に放射線量が高い地点)が出現した。しかも2度発生している。放射能は逃げても被曝被害は防げないと知るべきである。降下する放射能の被害を避けるには浴びないことを考えるしかない。一番いいのはシェルターである。スイスでは一般住宅にシェルターが備えられている。日本では到底無理な相談だ。放射能雲は移動するし、含まれる核の種類と量も増減する。各所で測定されていたデータによれば放射能雲にはピークがあり、通過時間の予測もできるそうだ。

研究者の山田國廣氏はそのことを利用して浴びない工夫をすることを提唱されている。家庭でできるのは屋内で窓から離れた場所にいることや水槽やおむつを重ねて水を含ませて壁を作るなど実際的な方法を提言されている。ヨウ素剤を飲む代わりに作り置きの昆布だしを飲んでも効果はあるという。いずれも完全ではないがかなり有効なのだそうだ(「初期被ばくをいかに防護できるか」季刊誌『環』vol.58 藤原書店所収)。山田氏の提言の本来趣旨は、放射能は逃げても無駄だから浴びないことをまず考えよ。そこから原発をつくらないことが最善だという結論が導かれる。総理大臣流に言えば、この道しかないのだ。

国が責任を持つとか、30キロ圏内は云々とか、政治家や行政の言うことはすべて原発を作るための方便にすぎない。規制委員会が安全審査を承認したといっても委員は絶対安全だとは言っていないし、また言えないことを肝に銘じておこう。
使用済み核燃料の後始末も、除染後の汚染物質の始末も、保管場所の決定も何一つ解決していないままにエネルギーだ景気だという人たちの言うことに貸す耳は持たないことだ。(2014/12)

2014年12月1日月曜日

ノンブル

あるときパソコンの会で新しく知り合った人から質問のメールが来た。目次に関することであったが、ノンブルという言葉が使ってある。ノンブルと聞いて思い出すのはフランス語の数ないし数字であるから、文脈から考えてもこれはページ番号の意味であろうと理解した。
そのことはそれでよかったのであるが、この人はなぜフランス語を持ち出したのか不思議に思ったものである。

それから1年ほどもたって先日丸谷才一のエッセイ本を読んでいたらノンブルが出てきた。それは書物の構成に関する話で、ノンブルはまさにページ番号の意味であることが文面から直ちに了解できた。そして使われている文章から、その部分は印刷や出版、造本などの分野に関係するところからノンブルは用語であることも理解できた。
用語は普通の人が普通のときに普通の話をする時には使わない言葉である。普通は特殊でないという意味だ。ならば先に質問してきた人はなぜノンブルを使ったか。ページ番号でよかったはずなのにという思いが残る。

思い立ってインターネットで検索しようとして「ノンブルとは」というキーワードに対応した事例が目に飛び込んできた。つまり検索語入力にノンブルとまで入力したら「とは」をつけたキーワードがメニューに表示されたのである。その二番目のIT用語辞典バイナリという記事見出しには、「ノンブルとは、出版やDTP、ワープロソフトなどにおいて用いられる用語で、文書のページ番号を表す数字のことである」と出ていた。

ここからは想像になるが、当の質問者はパソコンをいじるようになってワードの操作を覚え、目次を作ったりして多少専門分野に近付いた気分であったのかもしれない。そしてその人は何らかの事情から業界にはノンブルという用語があることを知っていたのであろう。
そこで、あらためてマイクロソフト・オフィス・ワードを開いてみると、そこには「ページ番号」という言葉が使われていた。普通の人はやはりこれでよろしいのだと納得した。

以上の文章を書いてから5年半ば過ぎて、偶然ノンブルに出会った。その記憶が新たなうちに以上の文章をこれまた偶然にファイルから開くことになって、時々経験するこのような芋蔓式関連の不思議さに改めて感銘を受けたりしている。同時に、当時質問を寄せてきた方は、あるいは印刷出版のみならず文学方面にも趣味造詣の深い方であったかも知れないと考え直し、わが身の無知さに恥じ入ったことであった。

ところで、このたびのノンブルは『内田百閒全集 第一巻』(講談社昭和46年)に付帯する「解題」の文中にあった。筆者は平山三郎氏、阿房列車シリーズに登場するヒマラヤ山系氏である。
さて、解題の冒頭に『冥途』が採りあげられ、「本文の各頁に頁数字、ノンブルがいつさい入つていないのである」という用例が出てくる。これはまさに校正とか編集とかの仕事に関連した用例であり、以前に見出したノンブルという言葉の意味理解を補強するものであった。こういう次第で用例の発見の報告は終わりではあるが、この部分の記事内容が百閒氏その人を彷彿とさせるほど興味深いと思われるので煩瑣を顧みず記録しておく。

 『冥途』は大正十一年、著者三十三歳の二月に刊行された第一創作集である。――四六版箱入。箱の表に、
         内田百閒氏著 
         野上臼川氏装
      冥途     東京・稲門堂書店版
とあり、その上に、臼川・野上豊一郎の模寫した奈良薬師寺の佛像臺座のキツネ圖が大きく刷り込まれてある。本を引出して見ると、濃い鼠色布装の表に同じキツネが空押しされ、背に書名があるだけで著者名はどこにも入つていない。およそ地味な、不愛想な本である。この本の奇態なところは本を披いてみると、さらにはつきりする。本文の各頁に頁数字、ノンブルがいつさい入つてゐないのである。從つて巻末を繰つても何頁の本か判らない。目次は、十八篇の表題が羅列してあるだけで、それらが何ページに載つてゐるかは皆目不分明な、ふしぎな本である。――これは、著者が特に指定してノンブルなしの本が作られたのであつて、おそらく前例がないだらう。かうした變つた本を作る事で最も困惑したのは製本屋だつたらしく、左右の綴ぢ目を誤つた亂丁本が多数出来、それが小賣店に竝んだのを著者が買ひ集めたりして、混亂した。 稲門堂版冥途は何部くらい刷つたのか、或る時、著者に訊いてみた。さア、あの時分の常識として考へると、多分、五百部か、せいぜい八百部くらゐぢやないかな、と、他人事を語る樣に、御返事は曖昧だつた。 五百部にしろ八百部にしろ、とにかく初版冥途は、翌年の大震火災で、紙型をふくめて殆んど焼盡したのである。                                                                              
(中略)
 何故、特に指定して頁数字(ノンブル)をつけない本を作ったか。その理由を説明して著者が云ふには――自分の書いたものを本當に讀者が讀んでくれるものならば、途中でやめにして、また後の残りを讀みつぐやうなことをされては、いやだから、それで、何頁まで讀んだといふ中途半端な讀み方や飛び飛びに讀まれないやうに、ノンブルを全部取ツちまつたんだ。――その頃としては非常に鮮新な考へだつたンだがねえ。
                        *
(後略)

ちなみに、この年、昭和四十六年四月二十日に内田百閒は急死した。平山三郎氏は、三月末に書いた全集第一巻の解題の末尾に訃だけを伝える追記を六月五日に遺している。


(2014/12/1)