2014年12月23日火曜日

「以羊易牛」ということ

来年は羊の年だと思いついて南方熊楠の「十二支考 羊に
大正八年一月号『太陽』表紙
関する民俗と伝説」を読みはじめたはよいが、「羊をもって牛にかえる」という言葉の内に含む意味が字義のとおりではないことに不審を持ち、戸惑っている。

和歌山県田辺市にある旧熊楠邸は、現在南方熊楠顕彰館として種々の事業の中心になっている。毎年暮れから新春にかけては、吉例十二支考輪読というイベントが行われている。今年もホームページに案内が出ている。
www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i141206 

案内文に簡単な紹介がある。「十二支考」は古今東西の書物からテーマとする動物についての生態や伝承、民俗などを引用するだけでなく、熊楠独自の見解を書き連ねているが、情報が多く詰まりすぎだとしている。そのため著作の中で、もっとも難解だという。まことにその通りで、まるで大風呂敷からぶちまけられたような事物や伝聞を自由自在に書き連ねるさまは、読者にとってはときに非常に迷惑なものになっていると筆者も思う。しかし大した力業だと感心する。

さて、羊に関してとはいうものの、事物について「羊」が付いたもの一切、つまり、動物としては羊と山羊が仲良く混じっているし、植物では羊歯類なども含まれる。「独自の見解」による説明や文章にも、たとえば「セルビアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく」など、時世に見合った漫談風の言い回しも絶妙で、そのつもりになって読めば大変に面白い読み物である。原書の訳語には『動物智慧篇』に「アニマル・インテリジェンス」と原題をフリガナで表示するなど勉強もさせてもらえる。

それはともかく、ここでは筆者が頭をひねっている成句「以羊易牛」に主題をかぎることにする。羊をもって牛にかえる、易はとりかえるの意味。登場するのは孟子の言行録の『孟子』梁恵王の章句第七章である。

古代のシナの戦国時代、斉の宣王が自分にうまく国が治められるだろうかと孟子に問うたことで交わされる問答。概要を意訳でまず述べておく。

宣王が祭儀の生贄に曳かれてゆく牛を見かけて、牛をゆるしてやれと言ったところ、では祭儀は取りやめかとの問いに、いや、羊を牛にかえて執り行えと命じたそうだが、と孟子が訊くとその通りだとの答え。そこで孟子は、それでこそ王の資格がある。百姓は王が牛を惜しんだと言っているが、私には王の心がわかっている、と言う。王は、牛を惜しむなどとは心外なことをいう人々だ。罪もないのに殺されにゆく牛が可哀想だから羊に代えよと言ったまでなのに。それにしても人々がそのように受け取るのももっともなことではあるな、と困惑する。

王が困惑したところで孟子は助け舟を出した。
王が大きな牛を小さな羊に代えよと言ったから、王の意中を知らない人たちが、王が牛を惜しんだと受け取ったのだ。罪もないのに殺されるのが忍びないのは牛であっても羊であっても変りはあるまい、と孟子。
王はそれはそのとおりだが、なぜあのような気持ちになったのか自分でもわからぬと考え込む。

孟子は、噂は気にしないでよろしい。それが仁の道なのだ。あなたは牛は見たが羊は見ていない。君子は鳥や獣の姿を見たからにはそれを殺すには忍びないし、声を聞いたからにはその肉を食するに忍びない。だから君子は調理場を遠ざけるものだという、と説くと王は喜んで、詩経に「他人心あり、われ忖度す」とあるのは先生のことだ、先生はよく私の心が読めたと褒める。(この後は省略)

「殺すに忍びないのは牛でも羊でも変わりはない」というなら、この場の羊の処置はどうなるのかという疑問がわくのは筆者だけではないだろう。ところが孟子は「それが仁の術だ。牛は見たが羊はまだ見ていない」と片付けてしまう。これがどうにも腑に落ちない。

ちなみに、原文の「是以君子遠庖廚也」は『礼記・玉藻』の「君子遠庖厨,凡有血気之類弗身践」を踏まえていることを他で知った。
立命館大学の夏剛教授は「君子遠庖厨」の言葉は、殺生に立ち会うことへの良心の抵抗ではあるが、血なまぐさい場面を忌避しつつ、その肉を後でしっかり食べるのは名分と実益を両立させる虫のよい計算か、と皮肉っている。また同教授は、「無傷也、是乃仁術也」は、民衆の評価で心を痛めることはなく、(これすなわち)王の思考・行動は仁の心の働きだ、とも解されるとする。そのうえで、「遠庖厨」論に対して、『詩経』の「他人有心、予忖度之」を引き「夫子之謂也」と感心した、と続けている。なかなか穿った見解であり、この見方なら、宣王はあたかもすでに王の心を持っていながら羊に代えよといった自分の心の奥底に気が付いていなかったということになる。ただし、この夏教授の説といえども文字の意味ではなく、文化の底流にある行間の読み方なのかもしれないと思うが、羊の問題はやはり処理できていないのではなかろうか。
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol13-2/ka.pdf

さてさて、本来の熊楠さんの説に戻ることにしよう。熊楠は、まず馬琴の『亨雑記』(にまぜのき)に拠って馬琴の解釈を述べる。
馬琴は王の意中を解説して次のようにいう。小さいもので大きいものの代わりにする意味ではない。また、牛を見て、まだ羊を見ていないからというのでもない。おどおどしていて罪もないものを死に追いやるようなことは忍びない。それゆえ羊にかえたのだ、と。
つまり、羊は死をこわがらないから牛の代わりにせよ、と言ったのだ。もし、羊でなくても豚でももよかったろう。それはともかく、孟子は牛と羊の性質を論じることはしないで、ただこういうことを言ったのだ。

「牛を見たが、羊は見ていない。君子は鳥や獣の生きているところを見ては殺すに忍びない。声が聞こえているなら、その肉を食するのは忍びない。こういうことだから君子は厨房を身辺から離れた場所に置くのだ」と。これは仁の心の持ち主を言う言葉であり、こういう人が堯舜のような名君になれるのだ。

以上は馬琴による説明だと熊楠は注をつけて、あらたに次のことを披露する。

志村知孝は、説明としてはちょっとおかしくないかとこれに異議を唱えた。
宣王が「羊をもって牛の代わりにせよ」と言ったのは、孟子が言うように「小をもって大の代わりにせよ。牛を見て羊は見ない」という意味であって、牛は死ぬことをたいそう怖がるから殺すに忍びないとか、羊は恐れないから牛の代わりにせよと言ったのではあるまい。このことは孟子が、「王がもし罪もないのを殺すことをあわれむのならば、牛だ羊だと選ぶことはないではないか」と言っていることで明らかであろう。宣王がもし牛は死を恐れるが羊は喜ぶから牛の代わりにせよというのならそう説明すればよい。その説明なしに羊にかえよというから、かえって人は戸惑うはずだと。(原注:『古今要覧稿』五三一巻末)

(筆者注:『古今要覧稿』は屋代弘賢(1758-1841)が編纂、560巻。屋代病没のため千巻の予定が未完に終わる。志村知孝は弘賢の知友の会合で編纂された同人誌へ寄稿者として名前が出ているが、それ以上のことはわからない。)

次に熊楠は牛と羊の殺される際の様子を記述した事例を自分の体験も含めて提示する。羊は黙って殺されるということが多いようなので、牛と羊の死に臨む様子の違いについてはどうやら馬琴の言うとおりらしいと結論する。そこで、「羊をもって牛にかえよ」としたくだりを提示して次のように解説している。

実は王は、牛は大層死を怖がるが羊は殺されても鳴かないから、小の虫を殺して大の虫を生かせというつもりでこのように言ったのだが、国人は王が高価な牛を惜しんで廉価な羊と代えよと言ったと噂した。
そこで孟子は王といろいろ問答した結果、王は牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺されると説明すべきことを思いつかなかったと弁明した。そこで孟子は王のために「牛を見ていまだ羊を見ざるなり、云々」と弁護してやったので王は喜んで、「詩経にいう『他人心あり、われこれを忖度す』と。これは先生のことですね。私は自分でやっておきながらどういうわけなのかわからなかったけれども、先生はよく私の意中が読めましたね」と褒めた。肉食が日常のシナでは羊は牛ほど死を恐れないくらいのことは、人びとは幼いころから知り尽くしていたので、かえって羊が死を恐れないとの説明を思いつかなかったのだ、と結末をつけている。

羊に関する話は、ここに挙げた議論のほかにも世界各地の伝聞を文献で克明に拾っている。孟子の逸話で熊楠の指向した主題は殺されるときに鳴き声を発するかどうかということにある。宣王との問答以外にも「唖羊僧」という語は法を説かない僧侶をいう言葉で、その由来は羊のようにものを言わないからだ、などと数多い伝説や習俗が集められている。

取り上げられた宣王の発言「以羊易牛」に隠された意味について、熊楠は食用に資するため羊が黙って殺されてゆく日常に暮らす人々の社会心理に結論を見出したようにみえる。つまり、日常茶飯事なので憐れみを感じるに至らないということか。
また、羊は見ていないから問題外とするかのような孟子の意見も腑に落ちにくい。現代でも眼に見える対象にしか考えが及ばない人々は確かにいるだろう。途上国での技術指導などでなぜそうするかの説明には、結果を眼前に実現して見せる必要があったりする。地図というものを全く理解できない人たちもいると聞いた。それとは別に、ふだん、鶏の唐揚げが好物だとしていながら、鳥ウイルス対策でいちどきに4千羽処分などの報道を見れば、さすがに可哀想だという気持ちがわくのも、何か共通していそうだ。

「牛は見たが羊はまだ見ていない」、「君子庖厨を遠ざける」、この二つが「羊をもって牛にかえ」た理由であって、それが仁の術だとする。どうもつながりが理解できない。その前にもう一つある、「罪なくして死に就くのをいたむなら牛だ羊だと選ぶことはあるまい」、これもどうつながるのだろう。

さんざんネットの中を探し回っていると、「見ないものに対しては、心の奥にある仁心がまだはたらいて来なかったまでである」という解釈が出てきた。仁の心とはずいぶん変なものだとは思うが、これが孟子の趣旨らしい、と割り切ればどうやら煩悶から抜け出られた気分になる。

この解釈は「昭和漢文叢書「孟子新釈(上)」弘道館発行1929年」によっている。
著者は内野 台嶺(うちの たいれい、1884年4月29日 - 1953年12月14日)
blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51120333.html参照
同じ解釈が内野熊二郎『孟子』(新釈漢文大系) 明治書院 昭37 にもある。後者の著者については前者の著者と姓が同じであるが身内か他人かわからない。まったく同じ文章の「通釈」が載っているから、理屈はどうであれ、日本での定説なのであろう。

原文には、(前略)無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、…(後略)とあって、「見ないものに対しては…」という説明の句などない。読み手が補って都合よく解釈するということなのか、そうであれば漢文とは便利なものである。筆者の世代は中学1年の時間割に漢文があったが、1学期中は農作業と勤労奉仕で授業はなく、夏休みに敗戦が決まって2学期から漢文がなくなった。だからというわけではないが、漢文の読み方は知らないままで過ごしてきた。

漢文にはテニオハがない。この解釈者は「牛を見ていまだ羊を見ざればなり」と訓読している。未見羊也を「いまだ見ざるなり」とはしないで、「見ざればなり」とするのは読み手の自由なのだろうか。
いずれにしろ、こうやって自在に読めば問題はなくなる。それでも、羊を見なければ殺しても平気なのか、との疑問は消えない。

王道の根幹である「忍びざるの心」こそすなわち仁心である。孟子は、それがだれの心にも生まれつきに備わっているということを強調した。いわゆる性善説である。(金谷 治『孟子』岩波新書 昭和41)

「以羊易牛」の逸話は、仁を説く発端であって、このあとも王と孟子の問答は続き、王の心に萌した仁の心を外向けにどんどん伸ばしてゆくことにより、次第に民心全体を治めることができましょうと説くのである。それはよいとしても、君子の眼の届かないところで羊はどんどん殺されてゆくことになる。性善説ならこんなはずはないだろうとは思うものの、孟子が羊の面倒を見たとはどこにも見当たらなかった。

南方熊楠は「羊の民俗と伝説」の冒頭に「流行感冒の病上りでふらつく頭脳で思いつき次第に書き出す」と断っているから、くだくだとわからず屋の読者の相手など面倒になったのかもしれない。

ところで、筆者は祭儀のためと書いたが、それは鐘に血を塗るという儀式で牛は生贄である。王が曳かれゆく牛を見たことを原文は次のように書く。
「将以釁鐘、王曰、舎之、吾不忍其※(「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48)※(「角+束」、第4水準2-88-45)(こくそく)若無罪而就死也」<将に以てチヌらんとす。王曰く、これを舎け(おけ)。吾そのコクソク若(ぜん)として罪なくして死地に就くに忍びざるなり。>
(コクソクぜんとしては、おどおどする様子。)
幸田露伴は「連環記」の中で動物の生贄について「コクソクたる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、どうも善い事か善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである」との一節を遺している。『孟子』を踏まえての言葉ではなかろうか。
そしてこの鐘に血を塗ることに関しては寺田寅彦の頼みに応じて克明に調べた。のちに『釁考(きんこう』として発表した。結果は鐘に血塗る行為がいかなる意味合いを持つか確実なことは不明に終わっているが、岩波の全集19巻の実に55ページを割いている。かたや訊いた側の寅彦は科学者らしい分析を随筆に遺している。青空文庫で読むことができる。寺田寅彦「鐘に釁(ちぬ)る」www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2353_13800.html

熊楠も孟子の結論に続けて簡単に説明している。「この鐘に血塗るということ、むかしは支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑』云々…(後略)」。

南方熊楠全集 第一巻 十二支考 (昭和46年2月20日 平凡社)所収、
「羊に関する民俗と伝説」初出;大正八年一月『太陽』二五巻一号)

(2014/12)