2014年12月30日火曜日

『風と共に去りぬ』とサツマイモ

ちょっと古いお話で恐縮だが、アメリカにもサツマイモがあると
1936 初版と著者署名
知って驚いたのは80年代の初めごろだったと思う。知る人は知るで、これは筆者の単なる無知であったのだろうとは思うけれども、後述するようにマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』の翻訳者もまごついた形跡があるのだ。
記憶をたどれば最初はNHKテレビの地方ニュースで川越の「さつまいも友の会」の発足を知ったことだった。アメリカ人の大学の先生が川越の名産を知って自分の国にもあることを伝えたことから芋文化研究サークルができたと報じられていた。
一番強烈な印象はアメリカではサツマイモの産地が出荷する際のレーベルのコレクターがいることだった。紹介されたいくつかのレーベルにはまさに日本人が知っているサツマイモそのものが描かれていたのである。出荷用の木箱に貼るレーベルであるから一般消費者の目に触れることはないらしい。
1998年にインターネットという道具ができて、筆者はさっそく利用して数々のラベルを楽しんだものであった。

ラベル収集家用のサイト例;
http://www.thelabelman.com/index.php?cPath=36_60

あれから30有余年「川越いも友の会」は大きく発展して今ではサントリー文化財団の支援も受けているらしい。発端を作った大学の教授はベーリ・ドゥエル(Barry Duell)氏で、川越在住を契機にサツマイモ研究に打ち込み論文「アメリカさつまいも事情」を出版、ネット版も大いに参考になる。日本語版がある。
 www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1991kt1.html
 http://www.tiu.ac.jp/~bduell/sp/usasp/

こうして遅まきながらアメリカにもサツマイモがあるということを知ったあと、あるとき『風と共に去りぬ』(原著1936年))を読んだ。図書館の蔵書で読んだのだが、分厚い一冊本の大久保康雄・竹内道之介共訳であった。古い話なので今その図書館の検索にかけても、それらしい書物が見当たらない。世界文学全集の一冊と思うが、三笠書房という記憶がかすかにあるだけで確かではない。いずれにしても初期の翻訳であったろう。大久保康雄氏による単独完訳が成ったのは1938年とされていて、それは絶版になったらしい。その後、竹内氏との共訳ができて、両者の没後も現在まで出版社を変えて発売されている。


写真は映画『風と共に去りぬ』(1939年)の一コマ、アシュレのガーデン・パーティに出かけるため衣装合わせに忙しいスカーレット。マミーに手伝わせて自慢の17インチのウエストに合わせてコルセットを締め上げる場面、世間ではかなり評判になったショットだ。
マミーはオハラ家の令嬢が守るべき鉄則、つまり出先でなにも食べなくてすむように食事をとるように勧める。映画ではこのとき別の家政婦が料理を大きなお盆に乗せて運んでくるが、原作ではマミーが呼ばれた時にすでに自分で持って二階に上がってきている。

さてその料理の盆の上には、
バターを塗った大きなじゃがいもが二つと、シロップがたれるそば粉のホットケーキと、肉汁の中を泳 ぐハムの大きなかたまりがのっていた。
  (新潮文庫昭和52年初版、大久保康夫・竹内道之助訳)
ここで筆者が問題にするのはスカーレットやその細いウエストのことではなく、「じゃがいも」と訳されている食物のことだ。
上に記した場面で「じゃがいも」となっている食物が、のちに見た同じ訳者による版では「さつまいも」になっていて、おや、と思ったことがある。さらにその後、気になって見た同じ訳者の別の本には「じゃがいも」に戻っていた。おや、おや、である。その後、現在手元に買い揃えた新潮文庫(平成十一年)は上に述べたとおり「じゃがいも」だ。 (末尾 追記参照)

あるとき、新潮社にこの変遷の経緯を問いただしたことがあるが、なしのつぶてであった。訳者はすでに故人であり、出版社も三笠書房、河出書房、新潮社と変わる間にはそれぞれの浮沈があり、この作品は何よりも絶版になっていたものを戦後復刊してベストセラーになったいわくつきだ(注1)。その上、大久保康雄氏は多くの下訳者を駆使した翻訳工房の主である。筆者の質問などとるに足らぬ些事であったことに加えて、調査する手立てもなかったのかもしれない。最近になってネットで知ったが同作品の翻訳の正誤に関しては、レットが訣別を告げるセリフ(注2)やタラの丘でまたレットを取りもどそうと誓うスカーレットのセリフ(注3)がファンの間で取り沙汰されていたことを知った。芋のことはますます些事になっていたのだ。

(注1)三笠書房HP企業情報の沿革によれば、1937年本邦初訳で出版、1948年ベストセラー、とある。Wikipedia 竹内道之助の項には、1940年大久保訳を刊行するが発禁、戦後大久保と共訳の形で再刊しベストセラー、翻訳歴に同書が共訳1954となっている。確実な情報がほしい。  
(注2)
“My dear, I don’t give a damn.”「だが、けっしてきみをうらんではいないよ」(大久保訳)
                    「知ったことか」(映画字幕 松浦美奈)
(注3)
 After all, tomorrow is another day.「明日はまた明日の陽が照るのだ。」(大久保訳)
                       「明日に希望を託すのよ」(映画字幕 松浦美奈)

 で、問題の些事にもどる。筆者は些事を些事とは思わないから、サジを投げるわけにはいかんのだ。
この作品は歴史小説でもあり、社会史でもあると思う。その中で筆者は単純に芋の種類に目が行っただけなのだが、そもそも、われわれ日本人がある時期まではアメリカにサツマイモがあるなどとは考えてもいなかったし、事情を全く知らなかった。戦争中におとなだった人たちの中には、サツマイモと聞いて代用食や空襲下の自家菜園などを思い出してアメリへの恨みの残り火をかき立てたかもしれない。いまでこそ、インターネット情報もたくさんあるし、アメリカのラジオも聴けることから状況がわかってきたのである。
『風と共に去りぬ』が映画(1939)になってからも冒頭の場面で料理は映らない。もし、翻訳者がひょっとしてサツマイモ?とでも疑念を持てば、そこは専門家としてアメリカ側に問い合わせるなどの手もあったかもしれない。事情はわからない。
ちなみに映画の日本公開はようやく戦後の1952年9月だ。余談になるが一部の日本人は上海などで戦前にこの映画を見て、こんな大作の映画を作る国が相手との戦争にはとても勝てない、と慨嘆した話がある。

マーガレット・ミッチェルは同作品の中に登場する「いも」を四種類の語で表示している。
yam、yelow yam、potato、sweet potato である。
大久保氏の翻訳ではyamとyellow yam、potatoは「じゃがいも」、sweet potatoは「さつまいも」としている。sweet potato pieの場合には、スイートポテト・パイとなっている。
前出の東京国際大学のドゥエル教授によれば米国では,yamは肉がオレンジ色のサツマイモの意味であるという(「アメリカ サツマイモ事情」米国のサツマイモ祭りヤンボリー)(注)yellow yamについての説明はない。

こういう次第なのでオハラ家の農園および食卓の場面に描かれるyamはサツマイモなのである。

『風と共に…』の中でタラの丘が北軍に荒らされた際、食料が洗いざらい持ち去られた後、芋だけは助かった。理由は北軍のやつらは土の下に食物があるなどとは知らなかったからだ。奴隷のポークは喜んだ。
「丘の上の芋畑は?」(原文は"Even the sweet potato hills?)
「スカーレット嬢さま、芋を忘れてましただ*。きっと畑に残ってるにちげえねだ。ヤンキーどもは、さつまいもを見たことがねえだで、きっと何かの根っこだと思って――**)
 * Ah done fergit de yams.
 **Dem Yankee folks ain'never seed no yams an'dey thinks dey's jes' roots an'――.
ここでは先にsweet potato hills が出ているからあとのyamsがサツマイモと判断できたのだと思われる。

それではyellow yamはどうなのだろう、筆者の考えでは大久保氏の「じゃがいも」でも作品の鑑賞上は支障がないと思う。
それではどんな料理なのだろうか。第1部の4章にある、新潮文庫(一)117ページ。

 While Gerald launched forth on his news, Mammy set the plates before her mistress, golden-topped biscuits, breast of fried chicken and a yellow yam open and steaming, with melted butter dripping from it.
ジェラルドが新しいニュースについて弁じはじめると、マミーは、上のほうが黄金色にこげたパン菓子や、鶏の胸肉のフライや、とけたバターがぽたぽたしたたり落ちて、あたたかそうに湯気を立てるジャガイモなどの皿をならべた。(筆者注:ジャガイモは訳文ではひらがなに傍点がつけてある)(大久保訳)
 蒸した山芋?を割ったところにバターをのせた一品がフライド・チキンと共に供されるのだとは思うがどうだろう。ジャガイモのほうが感覚的にはぴったりだが。
ステーキに付けるじゃがいもは四つ割りにしてホース・ラディッシュをのせるがあんな感じかと思う。あるいはお祭りの屋台で売っているジャガバタだ。結局大久保氏の苦心の訳も空揚げにジャガバタというイメージでいいのではないか。となれば、yellow yamは日本にはなくて日本名もないのだから、ここは食卓の雰囲気を出すためにジャガイモを正解とすればよかろうと思う。ただし、湯気が立っているのは猫舌の西洋人のテーブルには似合わない。

英文のネット情報ではJamaican yellow yamがyellow yamと呼ばれているように書かれていて、皮をむくときには痒くなると注意がある。図像もあってヤマノイモに非常に似ている。その仲間としてwhite yamもあり、この図像はサトイモそっくりである。日本でも、どちらも皮をむくとき皮膚が痒くなることはよく知られているから同じような種類だろう。
とはいってもアメリカ人はものの名前に厳密さはあまりこだわらないから、中身が黄色がかっていれば赤みがかったサツマイモと区別しただけかもしれないし、なんともいえない。ただ、ここのイメージから形は丸っぽいほうがありがたい。

筆者はシンガポールの華人との食卓で食後のスイートに汁粉状の小鉢を出されたことがあり、訊くと「ヤムです」という答えが返ってきた。少しねっとりとしてミルクコーヒーのような色をしていた。このヤムは東南アジアに産する植物で、サツマイモではない。このようにyamはどこをどのように伝わったかは知らないが同名異物がたくさんある。

『風と共に…』はアメリカでも大人気であったことに関連して『「風と共に去りぬ」のクッキング・ブック』もあれば、サツマイモ料理のレシピもたくさんあって、日本の女性にもファンがいるように見受けられる。筆者が苦心して何年もかかって正体を突き止めたヤムも近頃の奥様方は簡単にブログで情報を交換している。アメリカの11月第4木曜日、Thanksgiving Dayにはターキーなどとともにサツマイモ料理が習慣になっているのも、今では皆様方の常識みたいだ。南部の経験者は少ないように見受けられるが、時代は変わった…遥けくも来たものかな…だ。

Duell教授は彼の論文に芋の栽培分布図を載せているのは参考になる。
 一説に、ジャガイモはアイルランド移民がアメリカに持ち込み、独立戦争では兵隊の食糧に大いに役立ったという。

                               http://www.tiu.ac.jp/~bduell/sp/usasp/p02.sp.vs.pot.html

たかが「いも」の問題でずいぶん長い間、頭の隅が掃除できなかったけれども一応これで問題が片付いたことにする。yellow yamの料理はいずれ時が解決してくれるだろう。

最後に蛇足。『風と共に去りぬ』の翻訳で大久保康雄氏といつも名前が並んでいる共訳者、竹内道之助氏は三笠書房の創業者であるが、最近のNHK連続テレビ小説「花子とアン」では小鳩書房社長、門倉幸之助として登場していると聞いた。演じるのは脳科学者の茂木健一郎さんとか。

(2014/12)

【追記】
その後発見した筆者の古いファイルには、『河出文学全集22 風と共に去りぬ Ⅰ』(河出書房新社 1989年)ではサツマイモとなっていると記録されている。訳者は上述と同じ共訳である。
(2015/1/28記)





2014年12月23日火曜日

「以羊易牛」ということ

来年は羊の年だと思いついて南方熊楠の「十二支考 羊に
大正八年一月号『太陽』表紙
関する民俗と伝説」を読みはじめたはよいが、「羊をもって牛にかえる」という言葉の内に含む意味が字義のとおりではないことに不審を持ち、戸惑っている。

和歌山県田辺市にある旧熊楠邸は、現在南方熊楠顕彰館として種々の事業の中心になっている。毎年暮れから新春にかけては、吉例十二支考輪読というイベントが行われている。今年もホームページに案内が出ている。
www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i141206 

案内文に簡単な紹介がある。「十二支考」は古今東西の書物からテーマとする動物についての生態や伝承、民俗などを引用するだけでなく、熊楠独自の見解を書き連ねているが、情報が多く詰まりすぎだとしている。そのため著作の中で、もっとも難解だという。まことにその通りで、まるで大風呂敷からぶちまけられたような事物や伝聞を自由自在に書き連ねるさまは、読者にとってはときに非常に迷惑なものになっていると筆者も思う。しかし大した力業だと感心する。

さて、羊に関してとはいうものの、事物について「羊」が付いたもの一切、つまり、動物としては羊と山羊が仲良く混じっているし、植物では羊歯類なども含まれる。「独自の見解」による説明や文章にも、たとえば「セルビアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく」など、時世に見合った漫談風の言い回しも絶妙で、そのつもりになって読めば大変に面白い読み物である。原書の訳語には『動物智慧篇』に「アニマル・インテリジェンス」と原題をフリガナで表示するなど勉強もさせてもらえる。

それはともかく、ここでは筆者が頭をひねっている成句「以羊易牛」に主題をかぎることにする。羊をもって牛にかえる、易はとりかえるの意味。登場するのは孟子の言行録の『孟子』梁恵王の章句第七章である。

古代のシナの戦国時代、斉の宣王が自分にうまく国が治められるだろうかと孟子に問うたことで交わされる問答。概要を意訳でまず述べておく。

宣王が祭儀の生贄に曳かれてゆく牛を見かけて、牛をゆるしてやれと言ったところ、では祭儀は取りやめかとの問いに、いや、羊を牛にかえて執り行えと命じたそうだが、と孟子が訊くとその通りだとの答え。そこで孟子は、それでこそ王の資格がある。百姓は王が牛を惜しんだと言っているが、私には王の心がわかっている、と言う。王は、牛を惜しむなどとは心外なことをいう人々だ。罪もないのに殺されにゆく牛が可哀想だから羊に代えよと言ったまでなのに。それにしても人々がそのように受け取るのももっともなことではあるな、と困惑する。

王が困惑したところで孟子は助け舟を出した。
王が大きな牛を小さな羊に代えよと言ったから、王の意中を知らない人たちが、王が牛を惜しんだと受け取ったのだ。罪もないのに殺されるのが忍びないのは牛であっても羊であっても変りはあるまい、と孟子。
王はそれはそのとおりだが、なぜあのような気持ちになったのか自分でもわからぬと考え込む。

孟子は、噂は気にしないでよろしい。それが仁の道なのだ。あなたは牛は見たが羊は見ていない。君子は鳥や獣の姿を見たからにはそれを殺すには忍びないし、声を聞いたからにはその肉を食するに忍びない。だから君子は調理場を遠ざけるものだという、と説くと王は喜んで、詩経に「他人心あり、われ忖度す」とあるのは先生のことだ、先生はよく私の心が読めたと褒める。(この後は省略)

「殺すに忍びないのは牛でも羊でも変わりはない」というなら、この場の羊の処置はどうなるのかという疑問がわくのは筆者だけではないだろう。ところが孟子は「それが仁の術だ。牛は見たが羊はまだ見ていない」と片付けてしまう。これがどうにも腑に落ちない。

ちなみに、原文の「是以君子遠庖廚也」は『礼記・玉藻』の「君子遠庖厨,凡有血気之類弗身践」を踏まえていることを他で知った。
立命館大学の夏剛教授は「君子遠庖厨」の言葉は、殺生に立ち会うことへの良心の抵抗ではあるが、血なまぐさい場面を忌避しつつ、その肉を後でしっかり食べるのは名分と実益を両立させる虫のよい計算か、と皮肉っている。また同教授は、「無傷也、是乃仁術也」は、民衆の評価で心を痛めることはなく、(これすなわち)王の思考・行動は仁の心の働きだ、とも解されるとする。そのうえで、「遠庖厨」論に対して、『詩経』の「他人有心、予忖度之」を引き「夫子之謂也」と感心した、と続けている。なかなか穿った見解であり、この見方なら、宣王はあたかもすでに王の心を持っていながら羊に代えよといった自分の心の奥底に気が付いていなかったということになる。ただし、この夏教授の説といえども文字の意味ではなく、文化の底流にある行間の読み方なのかもしれないと思うが、羊の問題はやはり処理できていないのではなかろうか。
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol13-2/ka.pdf

さてさて、本来の熊楠さんの説に戻ることにしよう。熊楠は、まず馬琴の『亨雑記』(にまぜのき)に拠って馬琴の解釈を述べる。
馬琴は王の意中を解説して次のようにいう。小さいもので大きいものの代わりにする意味ではない。また、牛を見て、まだ羊を見ていないからというのでもない。おどおどしていて罪もないものを死に追いやるようなことは忍びない。それゆえ羊にかえたのだ、と。
つまり、羊は死をこわがらないから牛の代わりにせよ、と言ったのだ。もし、羊でなくても豚でももよかったろう。それはともかく、孟子は牛と羊の性質を論じることはしないで、ただこういうことを言ったのだ。

「牛を見たが、羊は見ていない。君子は鳥や獣の生きているところを見ては殺すに忍びない。声が聞こえているなら、その肉を食するのは忍びない。こういうことだから君子は厨房を身辺から離れた場所に置くのだ」と。これは仁の心の持ち主を言う言葉であり、こういう人が堯舜のような名君になれるのだ。

以上は馬琴による説明だと熊楠は注をつけて、あらたに次のことを披露する。

志村知孝は、説明としてはちょっとおかしくないかとこれに異議を唱えた。
宣王が「羊をもって牛の代わりにせよ」と言ったのは、孟子が言うように「小をもって大の代わりにせよ。牛を見て羊は見ない」という意味であって、牛は死ぬことをたいそう怖がるから殺すに忍びないとか、羊は恐れないから牛の代わりにせよと言ったのではあるまい。このことは孟子が、「王がもし罪もないのを殺すことをあわれむのならば、牛だ羊だと選ぶことはないではないか」と言っていることで明らかであろう。宣王がもし牛は死を恐れるが羊は喜ぶから牛の代わりにせよというのならそう説明すればよい。その説明なしに羊にかえよというから、かえって人は戸惑うはずだと。(原注:『古今要覧稿』五三一巻末)

(筆者注:『古今要覧稿』は屋代弘賢(1758-1841)が編纂、560巻。屋代病没のため千巻の予定が未完に終わる。志村知孝は弘賢の知友の会合で編纂された同人誌へ寄稿者として名前が出ているが、それ以上のことはわからない。)

次に熊楠は牛と羊の殺される際の様子を記述した事例を自分の体験も含めて提示する。羊は黙って殺されるということが多いようなので、牛と羊の死に臨む様子の違いについてはどうやら馬琴の言うとおりらしいと結論する。そこで、「羊をもって牛にかえよ」としたくだりを提示して次のように解説している。

実は王は、牛は大層死を怖がるが羊は殺されても鳴かないから、小の虫を殺して大の虫を生かせというつもりでこのように言ったのだが、国人は王が高価な牛を惜しんで廉価な羊と代えよと言ったと噂した。
そこで孟子は王といろいろ問答した結果、王は牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺されると説明すべきことを思いつかなかったと弁明した。そこで孟子は王のために「牛を見ていまだ羊を見ざるなり、云々」と弁護してやったので王は喜んで、「詩経にいう『他人心あり、われこれを忖度す』と。これは先生のことですね。私は自分でやっておきながらどういうわけなのかわからなかったけれども、先生はよく私の意中が読めましたね」と褒めた。肉食が日常のシナでは羊は牛ほど死を恐れないくらいのことは、人びとは幼いころから知り尽くしていたので、かえって羊が死を恐れないとの説明を思いつかなかったのだ、と結末をつけている。

羊に関する話は、ここに挙げた議論のほかにも世界各地の伝聞を文献で克明に拾っている。孟子の逸話で熊楠の指向した主題は殺されるときに鳴き声を発するかどうかということにある。宣王との問答以外にも「唖羊僧」という語は法を説かない僧侶をいう言葉で、その由来は羊のようにものを言わないからだ、などと数多い伝説や習俗が集められている。

取り上げられた宣王の発言「以羊易牛」に隠された意味について、熊楠は食用に資するため羊が黙って殺されてゆく日常に暮らす人々の社会心理に結論を見出したようにみえる。つまり、日常茶飯事なので憐れみを感じるに至らないということか。
また、羊は見ていないから問題外とするかのような孟子の意見も腑に落ちにくい。現代でも眼に見える対象にしか考えが及ばない人々は確かにいるだろう。途上国での技術指導などでなぜそうするかの説明には、結果を眼前に実現して見せる必要があったりする。地図というものを全く理解できない人たちもいると聞いた。それとは別に、ふだん、鶏の唐揚げが好物だとしていながら、鳥ウイルス対策でいちどきに4千羽処分などの報道を見れば、さすがに可哀想だという気持ちがわくのも、何か共通していそうだ。

「牛は見たが羊はまだ見ていない」、「君子庖厨を遠ざける」、この二つが「羊をもって牛にかえ」た理由であって、それが仁の術だとする。どうもつながりが理解できない。その前にもう一つある、「罪なくして死に就くのをいたむなら牛だ羊だと選ぶことはあるまい」、これもどうつながるのだろう。

さんざんネットの中を探し回っていると、「見ないものに対しては、心の奥にある仁心がまだはたらいて来なかったまでである」という解釈が出てきた。仁の心とはずいぶん変なものだとは思うが、これが孟子の趣旨らしい、と割り切ればどうやら煩悶から抜け出られた気分になる。

この解釈は「昭和漢文叢書「孟子新釈(上)」弘道館発行1929年」によっている。
著者は内野 台嶺(うちの たいれい、1884年4月29日 - 1953年12月14日)
blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51120333.html参照
同じ解釈が内野熊二郎『孟子』(新釈漢文大系) 明治書院 昭37 にもある。後者の著者については前者の著者と姓が同じであるが身内か他人かわからない。まったく同じ文章の「通釈」が載っているから、理屈はどうであれ、日本での定説なのであろう。

原文には、(前略)無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、…(後略)とあって、「見ないものに対しては…」という説明の句などない。読み手が補って都合よく解釈するということなのか、そうであれば漢文とは便利なものである。筆者の世代は中学1年の時間割に漢文があったが、1学期中は農作業と勤労奉仕で授業はなく、夏休みに敗戦が決まって2学期から漢文がなくなった。だからというわけではないが、漢文の読み方は知らないままで過ごしてきた。

漢文にはテニオハがない。この解釈者は「牛を見ていまだ羊を見ざればなり」と訓読している。未見羊也を「いまだ見ざるなり」とはしないで、「見ざればなり」とするのは読み手の自由なのだろうか。
いずれにしろ、こうやって自在に読めば問題はなくなる。それでも、羊を見なければ殺しても平気なのか、との疑問は消えない。

王道の根幹である「忍びざるの心」こそすなわち仁心である。孟子は、それがだれの心にも生まれつきに備わっているということを強調した。いわゆる性善説である。(金谷 治『孟子』岩波新書 昭和41)

「以羊易牛」の逸話は、仁を説く発端であって、このあとも王と孟子の問答は続き、王の心に萌した仁の心を外向けにどんどん伸ばしてゆくことにより、次第に民心全体を治めることができましょうと説くのである。それはよいとしても、君子の眼の届かないところで羊はどんどん殺されてゆくことになる。性善説ならこんなはずはないだろうとは思うものの、孟子が羊の面倒を見たとはどこにも見当たらなかった。

南方熊楠は「羊の民俗と伝説」の冒頭に「流行感冒の病上りでふらつく頭脳で思いつき次第に書き出す」と断っているから、くだくだとわからず屋の読者の相手など面倒になったのかもしれない。

ところで、筆者は祭儀のためと書いたが、それは鐘に血を塗るという儀式で牛は生贄である。王が曳かれゆく牛を見たことを原文は次のように書く。
「将以釁鐘、王曰、舎之、吾不忍其※(「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48)※(「角+束」、第4水準2-88-45)(こくそく)若無罪而就死也」<将に以てチヌらんとす。王曰く、これを舎け(おけ)。吾そのコクソク若(ぜん)として罪なくして死地に就くに忍びざるなり。>
(コクソクぜんとしては、おどおどする様子。)
幸田露伴は「連環記」の中で動物の生贄について「コクソクたる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、どうも善い事か善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである」との一節を遺している。『孟子』を踏まえての言葉ではなかろうか。
そしてこの鐘に血を塗ることに関しては寺田寅彦の頼みに応じて克明に調べた。のちに『釁考(きんこう』として発表した。結果は鐘に血塗る行為がいかなる意味合いを持つか確実なことは不明に終わっているが、岩波の全集19巻の実に55ページを割いている。かたや訊いた側の寅彦は科学者らしい分析を随筆に遺している。青空文庫で読むことができる。寺田寅彦「鐘に釁(ちぬ)る」www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2353_13800.html

熊楠も孟子の結論に続けて簡単に説明している。「この鐘に血塗るということ、むかしは支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑』云々…(後略)」。

南方熊楠全集 第一巻 十二支考 (昭和46年2月20日 平凡社)所収、
「羊に関する民俗と伝説」初出;大正八年一月『太陽』二五巻一号)

(2014/12)

2014年12月13日土曜日

原発避難は逃げても意味ない

IAEAの警告マーク2007年制定

このたびの衆議院議員選挙にあたっての論戦では原発に関係する議論が低調です。政府が再稼働に期待している九州電力の川内原子力発電所については、原子力規制委員会が安全対策が新規制基準を満たしているとの審査書を了承した。次いで地元の薩摩川内市の議会と市長が10月再稼働に同意し、さらに11月7日には県知事が同意した。12月には先に内容について指摘を受けていた工事計画と保安規定が規制委員会にあてて再提出される運びとなってるそうだ。

国際原子力機関(IATA)が定める原発事故に対する安全基準には5段階あるが、わが国では1.トラブル防止→2.事故の進展防止→3.重大事故への拡大防止→4.放射性物質の放出抑制の4段階まで国が関与し、5段階目の人への被害抑制(防災・避難)は原子力規制委の審査対象に含まれていない。
避難計画には国も助言はするが、実効性の確保などの審査は行わず原発から30キロ圏内の自治体に避難経路の策定を含む避難計画を義務付けている。

薩摩川内市では昨年度策定の計画では十分でないとの認識で今年度見直しを行うとしている。十分でないとする内容については、寝たきりなどの要援護者の輸送車や避難先での病院確保、避難者や車両の汚染検査(スクリーニング)の場所、緊急時のバス手配などとなっている(東洋経済ONLINE、2014年8月2日)。
10月24日には避難計画が違法であると要望書が出された。
www.jca.apc.org/mihama/bousai/kagosima_yosei_20141104.pdf

以上は今後最もはやい時期に再稼働されると予想される川内原発をめぐる現状です。

ここで文章になっていない部分に多くの問題点が隠されています。
手続きの上では再稼働するには地元の同意が必要とされていますが、その地元の定義(範囲)が定められていなくて、行われている手続きとしては原発の立地場所の薩摩川内市だけが地元とされています。一方で原発から30キロ圏内の自治体に避難計画の策定を義務付けているのに、そこに含まれる自治体の同意はとりつけないまま手続きが進められています。いったい地元の範囲と30キロ圏内はどういう関係と考えればいいのでしょうか。

何故立地場所の同意がいるかといえば、立地場所には危険が伴うからだということであり、その危険とは爆発事故及び爆発に伴う放射性物質の放出(いわゆる放射能被曝危険)である。
原発の立地選定には立地場所の住民による建設忌避のための反対に対して交付金を与えることで対処される。これが電源三法交付金の趣旨だ。交付する地点は主務大臣(文科、経産)と行政の長(県知事)が協議のうえ指定する。
結局、立地地元といえば交付金の対象地域と同じになると考えられる。

それでは立地地点と30キロ圏内で危険の程度が違うのかといえば、放射能の発生元が一番濃度が高いということはいえるだろう。どれだけ離れれば危険度が下がるかといえば放射性物質の流れ方による数値の変化にかかってくるから、確率論でしか言えない。つまり10キロであろうが50キロであろうが、それだからどうとは言えないのである。從って30キロという数値に何も権威があるわけではない。チェルノブイリで30キロで一応線を引いた事例があるからにすぎないということかもしれない。

(250キロ圏内は原発差し止めできると福井地裁判決
http://hunter-investigate.jp/news/2014/05/post-498.html )

交付金との関連で考えれば、川内原発の場合、30キロ圏内の自治体は万難を排して安全な避難計画を立てなくてはならないが、具体的には不足する車両その他の機器の手当て、道路整備、退避場所の建築など負担が大きい。交付金のあるなしで考えれば公平でなく不合理である。となれば再稼働の賛否を問えば反対することになろう。だから同意を求めないというのなら、見殺し的な考えだ。県としてはあり得ない結論だろう。県知事は国が責任を持つから苦渋の決断をしたそうだが、いったん事故が発生した場合に国は何ができるのであろうか。一番大切なことは住民の命に被害を及ぼさないことであり、事故が起きて放射性物質が降り注げば、せいぜい、ただちに生命におよぼす危険はないという前政権得意のセリフが聞かれるだけになりそうだ。それでも人間生きている間に異常発生のおそれはある。子どもには甲状腺異常があり、成人には忘れた頃に白血病だ。

(川内原発30キロ圏内の姶良市議会の意見は廃炉要求になった。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB1702M_X10C14A7000000/ )

ここで避難計画について考えてみよう。薩摩川内市の検討事項での避難とは原発から遠くに逃げることを指しているように見える。ところが一番恐れる放射性物質はガス状あるいは霧状になって流れてくる。放射能雲、あるいは放射能プルームなどと呼ばれるように空中を漂うように流れ、そこから放射性物質が降下してくる。福島の実例が示しているのは、放射能は爆発の途端から飛散し、地上の人間が逃げる前、逃げる途中、逃げた先で降下物質を身体に受けた結果が出ている。千葉県の柏市や東京の世田谷区にもいわゆるホットスポット(局地的に放射線量が高い地点)が出現した。しかも2度発生している。放射能は逃げても被曝被害は防げないと知るべきである。降下する放射能の被害を避けるには浴びないことを考えるしかない。一番いいのはシェルターである。スイスでは一般住宅にシェルターが備えられている。日本では到底無理な相談だ。放射能雲は移動するし、含まれる核の種類と量も増減する。各所で測定されていたデータによれば放射能雲にはピークがあり、通過時間の予測もできるそうだ。

研究者の山田國廣氏はそのことを利用して浴びない工夫をすることを提唱されている。家庭でできるのは屋内で窓から離れた場所にいることや水槽やおむつを重ねて水を含ませて壁を作るなど実際的な方法を提言されている。ヨウ素剤を飲む代わりに作り置きの昆布だしを飲んでも効果はあるという。いずれも完全ではないがかなり有効なのだそうだ(「初期被ばくをいかに防護できるか」季刊誌『環』vol.58 藤原書店所収)。山田氏の提言の本来趣旨は、放射能は逃げても無駄だから浴びないことをまず考えよ。そこから原発をつくらないことが最善だという結論が導かれる。総理大臣流に言えば、この道しかないのだ。

国が責任を持つとか、30キロ圏内は云々とか、政治家や行政の言うことはすべて原発を作るための方便にすぎない。規制委員会が安全審査を承認したといっても委員は絶対安全だとは言っていないし、また言えないことを肝に銘じておこう。
使用済み核燃料の後始末も、除染後の汚染物質の始末も、保管場所の決定も何一つ解決していないままにエネルギーだ景気だという人たちの言うことに貸す耳は持たないことだ。(2014/12)

2014年12月1日月曜日

ノンブル

あるときパソコンの会で新しく知り合った人から質問のメールが来た。目次に関することであったが、ノンブルという言葉が使ってある。ノンブルと聞いて思い出すのはフランス語の数ないし数字であるから、文脈から考えてもこれはページ番号の意味であろうと理解した。
そのことはそれでよかったのであるが、この人はなぜフランス語を持ち出したのか不思議に思ったものである。

それから1年ほどもたって先日丸谷才一のエッセイ本を読んでいたらノンブルが出てきた。それは書物の構成に関する話で、ノンブルはまさにページ番号の意味であることが文面から直ちに了解できた。そして使われている文章から、その部分は印刷や出版、造本などの分野に関係するところからノンブルは用語であることも理解できた。
用語は普通の人が普通のときに普通の話をする時には使わない言葉である。普通は特殊でないという意味だ。ならば先に質問してきた人はなぜノンブルを使ったか。ページ番号でよかったはずなのにという思いが残る。

思い立ってインターネットで検索しようとして「ノンブルとは」というキーワードに対応した事例が目に飛び込んできた。つまり検索語入力にノンブルとまで入力したら「とは」をつけたキーワードがメニューに表示されたのである。その二番目のIT用語辞典バイナリという記事見出しには、「ノンブルとは、出版やDTP、ワープロソフトなどにおいて用いられる用語で、文書のページ番号を表す数字のことである」と出ていた。

ここからは想像になるが、当の質問者はパソコンをいじるようになってワードの操作を覚え、目次を作ったりして多少専門分野に近付いた気分であったのかもしれない。そしてその人は何らかの事情から業界にはノンブルという用語があることを知っていたのであろう。
そこで、あらためてマイクロソフト・オフィス・ワードを開いてみると、そこには「ページ番号」という言葉が使われていた。普通の人はやはりこれでよろしいのだと納得した。

以上の文章を書いてから5年半ば過ぎて、偶然ノンブルに出会った。その記憶が新たなうちに以上の文章をこれまた偶然にファイルから開くことになって、時々経験するこのような芋蔓式関連の不思議さに改めて感銘を受けたりしている。同時に、当時質問を寄せてきた方は、あるいは印刷出版のみならず文学方面にも趣味造詣の深い方であったかも知れないと考え直し、わが身の無知さに恥じ入ったことであった。

ところで、このたびのノンブルは『内田百閒全集 第一巻』(講談社昭和46年)に付帯する「解題」の文中にあった。筆者は平山三郎氏、阿房列車シリーズに登場するヒマラヤ山系氏である。
さて、解題の冒頭に『冥途』が採りあげられ、「本文の各頁に頁数字、ノンブルがいつさい入つていないのである」という用例が出てくる。これはまさに校正とか編集とかの仕事に関連した用例であり、以前に見出したノンブルという言葉の意味理解を補強するものであった。こういう次第で用例の発見の報告は終わりではあるが、この部分の記事内容が百閒氏その人を彷彿とさせるほど興味深いと思われるので煩瑣を顧みず記録しておく。

 『冥途』は大正十一年、著者三十三歳の二月に刊行された第一創作集である。――四六版箱入。箱の表に、
         内田百閒氏著 
         野上臼川氏装
      冥途     東京・稲門堂書店版
とあり、その上に、臼川・野上豊一郎の模寫した奈良薬師寺の佛像臺座のキツネ圖が大きく刷り込まれてある。本を引出して見ると、濃い鼠色布装の表に同じキツネが空押しされ、背に書名があるだけで著者名はどこにも入つていない。およそ地味な、不愛想な本である。この本の奇態なところは本を披いてみると、さらにはつきりする。本文の各頁に頁数字、ノンブルがいつさい入つてゐないのである。從つて巻末を繰つても何頁の本か判らない。目次は、十八篇の表題が羅列してあるだけで、それらが何ページに載つてゐるかは皆目不分明な、ふしぎな本である。――これは、著者が特に指定してノンブルなしの本が作られたのであつて、おそらく前例がないだらう。かうした變つた本を作る事で最も困惑したのは製本屋だつたらしく、左右の綴ぢ目を誤つた亂丁本が多数出来、それが小賣店に竝んだのを著者が買ひ集めたりして、混亂した。 稲門堂版冥途は何部くらい刷つたのか、或る時、著者に訊いてみた。さア、あの時分の常識として考へると、多分、五百部か、せいぜい八百部くらゐぢやないかな、と、他人事を語る樣に、御返事は曖昧だつた。 五百部にしろ八百部にしろ、とにかく初版冥途は、翌年の大震火災で、紙型をふくめて殆んど焼盡したのである。                                                                              
(中略)
 何故、特に指定して頁数字(ノンブル)をつけない本を作ったか。その理由を説明して著者が云ふには――自分の書いたものを本當に讀者が讀んでくれるものならば、途中でやめにして、また後の残りを讀みつぐやうなことをされては、いやだから、それで、何頁まで讀んだといふ中途半端な讀み方や飛び飛びに讀まれないやうに、ノンブルを全部取ツちまつたんだ。――その頃としては非常に鮮新な考へだつたンだがねえ。
                        *
(後略)

ちなみに、この年、昭和四十六年四月二十日に内田百閒は急死した。平山三郎氏は、三月末に書いた全集第一巻の解題の末尾に訃だけを伝える追記を六月五日に遺している。


(2014/12/1)

2014年11月29日土曜日

「サラサーテの盤」 内田百閒

「サラサーテの盤」といえば、内田百閒(1889- 1971)の短編小説の表題を指すのが普通の考えのように思います。

サラサーテはスペインの作曲家でヴァイオリン奏者でもあるパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)のこと。バスク人だという。盤はこの小説ではレコードのこと、つまり音盤です。当時はレコードのレーベルの色によってビクターの赤盤とか黒番とか言っていました。(写真はHMV社による再プレス版です) 
私が最近「サラサーテの盤」という言葉に出会ったのは偶然で、エフエム東京の放送番組、パナソニック・メロディアス・ライブラリーのホームページの「今週の一冊」に出ていた本の表題です。作家小川洋子さんがパーソナリティをつとめているそうです。URLを書いておこう。 http://www.tfm.co.jp/ml/today/index_20111204.html 
indexから後ろの部分を省いて入力すれば最新の記事が見つかる。 このサイト、もう一人アシスタントとして藤丸由華さんという方がToday’s Topicという記事を担当しています。「サラサーテの盤」については、なかなかうまいことを書いていて感心した。書かれた発想に行きつくまでには相当に苦労されたのではないかと想像します。しかも面白おかしくこの短編のムードが表現されていることが私の感心のもとです。小川さんは2011年の放送中のベスト1に「サラサーテの盤」をあげていますが、評は放送の中だけ、後日、本にまとめられています。 

この短編は昭和23年11月、『新潮』に発表されました。 河盛好蔵氏は「内田百閒集 解説」で「一種の怪異談であるが、怪異などという言葉では片付けることのできない、人間の業の深さや人生苦が、彫りの深い筆致で、読者をおびやかすほどの強さで描かれている。名作である」と書いている。(筑摩書房刊『現代日本文学全集75』昭和31年所収) 

この短編の主題は表題のとおりレコードがもたらした情景です。サラサーテが自作の「ツィゴネルワイゼン」を演奏するレコードを再生すると、ある個所で録音の手違いか何かで入ってしまったサラサーテの話し声が聞こえるのだそうです。こういういわば欠陥レコードが実在したらしいのですが、真偽のほどは知りません。欠陥品が評判を呼んだりしたので百閒が小説の種にしたとも考えられます。 小説の要点は亡くなった友人に借りていたレコードを返した時に未亡人が蓄音機にかけて一緒に聴く場面で、ちょっとした曲の切れ目にサラサーテの声が聞こえてきます。その瞬間…、未亡人の挙動が描写されて物語が終わります。 

話の筋として、生前の友人との交流、二人で旅行した先で知り合った芸妓が友人と同郷であったこと、友人が結婚して間もなくスペイン風邪にかかって乳飲み子を遺して死ぬ、偶然の縁から芸妓が後妻となった、何年かして友人も病死する、というように決して明るくはない友人の家族の人生が説明されます。友人が死んでひと月もたたないころ、未亡人が六つになる女の子を連れて日の暮れに訪ねてくるようになります。用件はいつも、友人が貸した本やら辞書やらを返してほしいということなのですが、友人との間では、いろいろ貸し借りはあったものの、いちいち記録するような男でもなかったのに、これこれがこちらに来ているはずとはっきり言うのが不思議です。そうしてレコードの一件に話が進むのですが、物語は時を追うのではなく、あちらこちらに場面を設けて作者は上手に読者をいざないます。その間に読者は知らずしらずに妖しげな雰囲気を感じさせられるようにも思います。 繰り返し読み直し、読み解く努力を重ねてみて、あらためて作者が一見淡々として文章に語らせている内容が伝わってくる感じがします。 クライマックスで幕が下りた後、観客は茫然とします。怖くもなんともないのですが…。何かがおかしい。言い表す言葉が見つかりません。ま、こんな小説です。暗いです。 

それにしても本来なら聞こえるはずのない声が聞こえるということだけでも結構気味が悪いことに思えます。手違いで録音に残されていると知っていても、それが聞こえる瞬間、もしくはその直前の聞き手の心理としては緊張を伴います。私は自分の性分からこういうのは気が張り詰めるから嫌です。おそらく百閒先生も私と同じような心理構造をお持ちのように思います。狐に化かされる話や、誰か知らない人が一緒に琴を合わせて弾いてくれたあと、座敷が泥だらけだったと驚く話とか、こういうことを書いてくれる百閒先生が私は好きなのです。 


余談になりますが、内田百閒は中学時代に「吾輩は猫である」を読んで漱石に傾倒、帝大独文科在学中から漱石の原稿の校正をつとめています。そういう仕事の常として作家の用語、用字や文法などについて質疑をかわしますが、長らく続けるうちに漱石も百閒の異常なほどの凝り性に迫られて用字の選択を明らかにしたり、時には判断を任せたりしたそうです。漱石死後の第一回全集編纂の時、主として校正の任に当たった百閒は『漱石校正文法』を体系化して、漱石の用語法・かなおくり法などに一つの法則を導いたとのことです。こういう次第は百閒自身の文章に何かと反映されることでしょうから百閒の作品に漱石の影を指摘する研究者も多いようです。
私はそれとは別に百閒の用字・用語に興味を持っていますので、作品を読む場合最近の文庫版のように現代の読者に読みやすいように新字体や常用漢字とかに変えられてしまうと面白みが減って困ります。「胡蘿葡(こらふ)」という漢字に出会ったことがありますが、ニンジンの漢名で後ろの二字だけならダイコンだそうで、わかるまで苦労したのを思い出します。これも楽しみです。
 今回の「サラサーテの盤」は『内田百閒 1889-1971』ちくま日本文学(筑摩書房2007)という文庫本で読みました。字が大きくてフリガナも多いのでたいへん楽でしたけど。 (2014/11)

2014年11月15日土曜日

読書余聞 『ドリナの橋』資料編

『ドリナの橋』資料編
https://drive.google.com/file/d/0B-51NK0Z-yPiNFVZckRJNC01Z3M/view

ボスニアの鉄道―ユーゴスラビア鉄道の東部狭軌鉄道など
イヴォ・アンドリッチ『サラエボの鐘』―「1920年からの手紙」からの鐘のエピソード
(2014・11)

2014年11月12日水曜日

『ドリナの橋』と新しい街

ヴィシェグラード、ボスニア・ヘルツェゴビナ

前回掲出の『ドリナの橋』はユーゴスラビアのノーベル賞作家、イヴォ・アンドリッチの小説である。建設以来の4世紀にわたって橋が見つめてきた住民の有様が淡々とつづられている。

ユーゴスラビアという国はもうない。チトー大統領の下でまとめられていた六つの共和国がバラバラになってしまった。アンドリッチの生国はボスニアである。
「ドリナの橋」はボスニアの東部、セルビア共和国との国境に近い町ヴィシェグラードにある。
橋が2007年に世界文化遺産に登録されたためか世界中から観光客が増えているようだ。

ヴィシェグラードの町の観光協会のHPで有名な映画監督のエミール・クストリッツァの活動に出くわしてびっくりした。『パパは出張中』(1985)と『アンダーグラウンド』(1995)で二度カンヌ映画祭パルム・ドールを受けている、この監督がなんでこんなところに出てくるのだ、と面食らった。

ヴィシェグラードのHPを開くとAndrictown complexが2014年6月28日に公式開場したとか、第一次大戦開戦100周年記念のプログラムとかの見出しが目につき、Andrictownのコーナーを開くと、これがエミール・クストリッツァがイヴォ・アンドリッチの業績と人物に感じて始めたプロジェクトだと説明してある。

プロジェクトは正式にはAndricgradといい、ヴィシェグラードの歴史と文化にちなんだ建築物の集合体、愛称は石の町だ。中心になる建物はAndric Institute で出版、教育、研究事業などを行うとしている。HPの全体がまだうまく統制されていなくて、全貌を知るには記述も不足、そのうえセルビア語だけの部分もあったりするが、とにかく何もかもがクストリッツァ頼りみたいな感じも受ける。しかし建前はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦国を構成する片方のスルプスカ共和国の公式事業である。スルプスカ共和国はセルビア人共和国と考えるほうがわかりがよさそうだ。

ドリナ川とルザブ川の合流点に向かって半島のよう形の地形の川岸にさまざまな様式の建物が並ぶ。イスラム教のモスク(ただし実用向きではない)とミナレット、続く広場には隊商宿、ビザンティン様式の建物、広くはないが二重帝国の建築物の区域、すべて町が歩んできた年代を示している。本通りには映画館があり、カフェやアイスクリーム・パーラーなどのある広場に向かう。カフェの名前はアンドリッチが愛好する画家の名にちなんでゴヤという。そのほかにニューヨークの芸術家たちによる巨大なポートレイトなど。これらは映画のセットとテーマパークとお遊びのごった煮だ。クストリッツァの本能の赴くままに作ったそうだ。

ファイナンシャル・タイムズ(以下FTと略す)のサイトに記者がこの新しい街を訪ねたリポートが載っている。

今年は第一次大戦が始まって100年とあって、各地でいろいろな行事があった。FT記者のリポートで見るとサラエヴォとヴィシェグラードでは100年記念の取り上げ方に温度差があるようだ。サラエヴォでは第一次大戦の周年記念であるが、ヴィシェグラードでは暗殺100周年である。
戦争のきっかけとなったオーストリア―ハンガリー二重帝国の皇位継承者フェルディナンド大公夫妻を暗殺した記念日として気勢を上げる行事になっている。
新しい施設アンドリッチグラードの公式開場式典も、暗殺記念日の6月28日に行われた。そしてその開幕は暗殺犯ガヴリロ・プリンツィプと青年同盟の同志たちを描いた壁画の除幕式だった。テロリスト変じて英雄としてたたえられる。スルプスカ共和国の公式行事がこういうことになっている。CNNニュースサイトでは、サラエヴォではテロリストか、英雄かとの意見が混在していると報じられていた。

『アンダーグラウンド』のクストリッツァ監督はセルビア人の野蛮さをあげつらうとの非難を受け容れずに批判された。監督の考えでは、ユーゴスラビアは連邦の誰にとってみても最善の解決法だったのに、それが消えてしまった。あの映画はユーゴスラビアへの書置きのつもりなんだという。
クストリッツァは彼の地元での出来事に政治的意味合いを持たせることは嫌う。その代わりに人々がほとんど本能的にむき出しにする暴力を写し出す。これが彼のやり方だという評価だ。アンドリッチにも似たようなところがあるとして、彼は短編『1920年からの手紙』(1946)の文章を引く。(日本では『サラエボの鐘』(1997恒文社)に「サラエボの鐘」として収められている。)
ボスニアは憎悪の土地です。時折あからさまな憎悪に転嫁する無理解が一般的な住民の性格です。異なった宗教間の溝はあまりにも深く、憎悪だけが時に溝を超えることができるほどです。君たちは、自分たちの愛や炎のように凶暴な感情の火花によって、時折点火される爆薬の深い層の上で生きる宿命なのです。

クストリッツァはいう。
この部分を書くときのアンドリッチは過去よりむしろ将来のボスニアをみている。彼は「1992年からの手紙」と言っているようなものだ。
『1920年からの手紙』は我々の先祖がえりをしたかのような性質がどこから来たのか探求しようとしている。我々が粗暴に突き進む時に押す始動ボタンのありかを探っているのだ。
『アンダーグラウンド』も同じことだ。

アンドリッチグラードも開場記念のお祭りもすべてクストリッツァの計画通りに進んでいる。
これからも建設は続き、スラブ語研究や芸術・美術の新しい大学もできるし、劇場も作るという。多民族間が討議する基盤を創設するのだという。この街は平和主義のシンボルだという。
でも、1992年にはこのヴィシェグラードで忌まわしい事件が発生している。アンドリッチが情緒豊かに描いた橋の上で虐殺があり、死体は川に投げ込まれた。ひなびた風情のホテルの部屋ではセルビア兵たちによる強姦が連日行われた。民族浄化作戦で6割もいたムスリム人はほとんどいなくなった。アンドリッチグラードにかかわっている人は誰もこの話はしないし、どこにも説明がない。

アンドリッチグラードに小さな教会ができている。第二次大戦中に親ナチのクロアチア政党「ウスタシャ」に虐殺された6000人のセルビア人を追悼するものだそうだ。それはそれで結構だとしても1992年のセルビア人同士の方はどう始末すればいいのだろうか。他事ながら気になる。
ボスニア人のブロガーが紹介しているが、短編フィルムのドキュメンタリーに『For Those that can tell no tales』(話すことは何もないという人たちへ)(2013)というのがある。
オーストラリアの女優キム・ヴァーコーが『ドリナの橋』を読んでヴィシェグラード観光に来て、リゾートホテル「ヴィリナ・ヴラス」に泊り、橋の魅力を堪能して帰国した。帰国してから聞かされたのは橋が虐殺の現場であり、ホテルの部屋は強姦の現場であったということ。ヴィシェグラード滞在中はそんな話は聞いたことがない。これはこのままではいけないと、自分でパーフォマンスを作り上げてサラエヴォの舞台にかけたのが映像作家Jasmila Zbanic(ジャスミラ・ズバニッチと読むのだろうか)が作品にした。
女優キム・ヴァーコーが舞台で演じた独り芝居は「Seven Kilometers North East」という。題名はホテル「Vilna Vlas」の所在地の町の中心部からの距離である。

このブロガーは言う。クストリッツァはアンドリッチが小説で描いた橋をめぐるロマンを保とうとしているが、このドキュメンタリーを見た人は、今進行していることが戦争犯罪を覆い隠そうとするものだとしか思わないだろう。ボスニア人のズバニッチがクストリッツァからヴィシェグラードを取り返した、やったぜ、と書いている。
これは昨年12月投稿のブログだから、これ以後クストリッツァの工事の進展は変わっているかもしれない。それにしてもボスニア人同士の抗争による悪夢のような事件である。覆水盆に返らず。スルプスカ共和国が公的に参画している事業でもある。観光客が増えている。どこにも過去を説明しないのだろうか。どのような決着が見られるのであろうか。


(2014/11)

2014年10月17日金曜日

読書随想 『ドリナの橋』 イヴォ・アンドリッチ 1945年 松谷健二 訳、恒文社1997 第4版(1966)

『ドリナの橋』

著者イヴォ・アンドリッチ(1892/10/9-1975/3/13)、ユーゴスラビア、作家、詩人、外交官、1961年ノーベル文学賞を受賞した。



ドリナはボスニアとセルビアの間を流れる川の名前。サライェボから東に向かう街道にできた川沿いの街ヴィシェグラードはコンスタンチノープルに通じる交通路の要衝であった。1577年に急流のドリナ川に見事な石造りの橋が完成した。その美しい姿は現代にまで面影を保ち、2007年に世界文化遺産に登録された。正式の名をメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋という。オスマン帝国の大宰相の名だ。これが表題の「ドリナの橋」である。
橋の中ほどには、両わきにそっくり同じ形のテラスが張り出し、橋幅は倍にもなっている。この部分はカピヤと呼ばれる。門という意味である。テラスは泡立つ緑の激流をはるか下に見下ろす空間へ橋から突き出している。町から見て右手のテラスはソファーと呼ばれ、歩道より二段高く手すりにそって同じ石で腰掛けをとりつけてある。ソファーに向かい合った左手のテラスには腰掛けがなく、人の背丈をこす壁が立ち、上の方に白大理石の板がはめ込まれて、年代銘を入れた堂々たるトルコ語の碑文が刻んである。13行の韻文で、橋の構築者の名、構築の年などが記されている。壁の下の方には石造りの龍があって、その口からちょろちょろと水が流れ出ている。
ある時代までは、このテラスにはコーヒー屋が、深鍋、茶碗、火が絶えたことのないコンロご持参で店を張り、雇いの小僧が向かいのソファーに陣取ったお客にコーヒーを運ぶ風景が見られた。


こんなのんびりしたことだけではない。カピヤは慶弔の儀式の場所でもあり、処刑場でもある。何度も首がさらされた。トルコやオーストリアの布告文もここに掲示される。文字の読めない者は誰かが読んでくれたり通訳したりするのをじっと聞き入る。聞いてもはじめはピンと来ないことが多い。そのうち何かが変わってくるのだ。喜ばしいことはめったにない。

橋の工事が始まってから人々の上には大変な災難が降りかかった。総監督が傲岸無慈悲のアビダガだったからだ。工事を妨害しようとした農夫は生きたまま木の杭で串刺しにされた。犯人を捕まえられなければ同じように串刺しだと脅された警吏は、犯人が捕まって刑罰を逃れた嬉しさのあまり発狂してしまった。狩り出された人々は賦役だ、賃金をもらえない。農事ができない。
橋が完成したとき、総監督のアリフ・ベイが大祝宴を開いた。失脚したアビダガに代わって3年目から指揮を執った。
たぐいまれな正直さをもち、まかせられた金子のすべてをきめられたことに注ぎ込み、自分のふところには一文も入れなかったこの男は、民衆にとりこの祝宴の大立者であった。宰相よりも彼についての話のほうが多かった。だから彼を中心とする祝宴も見事で豊かなものとなった。
監督と人夫達には金と着物が贈られ、貧乏人には肉や甘いものが分配された。暖かいハルヴァ(プディングのような菓子)が配られた。日本の昔の餅まきを思い出させる。読んでいても嬉しくなる。 


トルコ人、セルビア人、ユダヤ人ほか、それぞれイスラム教、セルビア正教、ユダヤ教を信仰する人びとが行き交い、住みつき、それぞれの言葉で語り合いながら暮らしていたこの町でこんなに嬉しかったことはこのほかには物語には出てこない。
著者のアンドリッチは幼少時を、ここヴィシェグラードで橋と共に過ごしてきた。ボスニアの言葉で「橋」は「モスト」だが、表題の「ドリナの橋」では住民の言葉で「チュプリア」と書いている。トルコ語がスラブ語的になまった方言らしい。

24の章に分かたれた物語はすべてヴィシェグラードの人々の暮らしにかかわっている。雑多な人々の物語だ。橋が何をするわけでもないけれども、何があってもいつも橋がそこにある。人々が気づかないうちに世は移り時代が変わってゆく。三百年余りにわたってのこんな感じを淡々と語る物語文学である。これがすなわち歴史だと思う。

橋は人びとの繋がりと諸民族の共存を願う著者の哲学だ。著者が生きた当時のユーゴスラビアは、今はもうない。1961年にスウェーデン・アカデミーは「自国の歴史の主題と運命を叙述しえた彼の叙事詩的力量に対して」著者にノーベル文学賞を贈った。その後のこの国の変容はすさまじい。恐怖でさえある。現在アンドリッチの生国ではその人物的評価は様々であり、必ずしも称揚されてはいないようだ。しかし、著者が語ってくれたおかげで、私たちはその作品から多言語、多民族、他宗教の人たちの集まりとはどういうものか、その生活実態、風習、考え方などを知ることができる。私には知らないことだらけだから、それなりに楽しむことができた。


橋に名前が残っているオスマン帝国の大宰相の伝記や偉業の数々はよく知られている。
16世紀のはじめ、武装兵を従えたイェニチェリ軍団の隊長に率いられた長い馬の列が急流の川に臨んだ渡し場に到着した光景から物語は始まる。非常に印象的で牧歌的、映画のはじまりみたいだ。テオ・アンゲロプロス監督の『ユリシーズの瞳』が古いフィルムで糸をつむぐ場面から始まるのに似ている。
イェニチェリというのは、オスマン帝国の軍隊制度で意味は「新兵」。デヴシルメという徴兵制度によって8歳から15歳程度のキリスト教徒の少年を強制的に連れ出して改宗させて兵隊や軍人政治家に育てる。
馬の背に振り分けられた籠には少年が一人ずつ肉まんじゅうを持って小さな包みといっしょにはいっている。隣村のソコロヴィッチからさらわれてきた、のちの大宰相もこの中にいた。
古ぼけた黒い渡し船、片目、片手、片足の気難し屋の渡し守に命を預ける。馬の隊列をどうやって川を渡したのか、想像をたくましくするが、1516年としか著者は書いていない。

いずれにしろ、橋がない頃には町もなかったのだ。60年たって1577年に橋は完成した。何もない田舎の岸辺に橋が架かり往来が激しくなって町ができて広がってゆく。

ボスニアは現在のボスニア・ヘルツェゴビナの北半分の地域。二つの帝国の領土の奪い合いに数世紀さらされてきた。トルコのやり方は共同体の自治を重視していたように見える。だから人心も穏やかだ。トルコが退いて、セルビアが反抗的になるとウィーンは軍隊を送ってきた。町の人々は何がどうなったかよくわからないままに、気持ちが荒んでくる。言葉が違い、宗教が違う人びとの間ではお互いなにも気にならなければ平穏そのもの。些細なことでも何かが心のどこかに触ると、とげのようなものが飛び出してくる。人の心は不思議だが怖い。

1900年になると橋が修理された。自然との闘いで石橋もくたびれるのだ。続いて橋を利用して対岸の高い山から水道が引かれた。こういう工事の間はカピアが使えないから住民の日常の過ごし方は何やら落ち着かない。さらに1903年には鉄道が敷設された。右岸の街はずれに駅ができた。サライェボへ行く線路は橋を通らなかった。この辺の事情は物語の範囲を超えたからであろうか著者は触れていないが、線路ははるかに遠回りして上流で川を渡った。鉄道が通ってみると、サライェボに行くにも橋はいらないし、2日が4時間になった。情報も人の往来も速度が上がった。人間の質も変わる。考える事柄も変わる。全体が何やら落ち着かない。不安を抱えて人々は訳も分からずに生き急いでいるかのようだ。

話が前後するが、オーストリア軍が占領した後には役人たちが続き、次いで各地から商人たちが入り込んで住みついた。ドリナに橋が架かったころに移住して来てからこの方、数世紀ここに住み着いているスペイン系のユダヤ人セファルドのほかに、アシュケナジというガリツィア系のユダヤ人もあらわれた。後述する旅人宿がさびれた跡地にホテルができた。経営者ツァーラの義妹で美人の未亡人が采配を振るった。「橋ホテル」の名前は自然に女支配人の名をとって「ロッティカ・ホテル」と呼ばれた。うわべは華やかで客から金を巻き上げるしたたかさの陰で彼女は貧しい人々や乞食には食物や金を恵む慈善のような振る舞いもしていた。クラカウの近くにのこる一家の兄弟やいとこたちなど、1ダースほどの東ガリツィアのユダヤ人一族に手紙と為替を送って心の張りを保っていた。しかし30年ほどのちにはホテルも立ち行かなくなり、援助していた親戚縁者も不幸に襲われるなど社会情勢は一切彼女に味方しなかった。最後はオーストリアとセルビアの砲弾が飛び交う下で壊れたホテルを立ち退き、対岸のトルコ人の家に避難するが老齢と精神の異常に痛めつけられ横たわることしかできない。一生懸命に生きた挙句がこうだ。

メフムド・パシャは橋のたもとにキャラバン・サライも建設した。無料の旅人宿である。経費は攻略したハンガリーからのあがりで賄った。百年経過した頃トルコがハンガリーを失って維持ができなくなった。それでも管理人の家系という精神を頑固に守ってきたのが老人のトルコ人アリホジャだ。いつの時でも、町の空気が変わろうとするとき、新しい事態にはまず疑問を抱き、自分の頭で考えて生きてきたが、だんだん時代に取り残される。だが信念は揺るがない。橋は神がなしたもうた善だ。その橋を壊してよいはずがない。撤退するオーストリア軍によって橋が爆破された時、狭心症に苦しみながらアリホジャも息絶えた。このトルコ人はいろいろな場面で自説を説く。どこか東洋的な心が感じられる。一番印象に残る人物だった。

モンテネグロから来たグスラ弾きが二度ほど登場する。グスラは小さな一弦琴のような楽器らしい。最初は橋の建設飯場で賦役農夫に囲まれて、次は橋の上、カピアでホテルに入れない貧しい人々の中で。歌うのは英雄叙事詩、
比喩のヴェールをかかげながら、彼は露と王者の草の姿をまとったセルビアやトルコのほんとうの願いと運命を語り出す。すると聞き手たちの感情はすぐに分かれ、各人が心に抱き、願い、信じているものに応じてそれぞれの道に散っていく。だが彼らはある不文律に従って歌の終わりまで耳をかたむけ、辛抱強く控え目な態度をとって、自分の感情は絶対に外には出さない。ただ目の前のグラスをじっと見つめている。そこのラキア酒のきらきらする表面に、どこにもありはしない勝利とか戦闘、英雄、名声、光栄などを見ているのだ。
著者が語る物語をいちいち取り上げているときりがない。橋が一本の筋となって通ってはいるが、終始抑圧されてきた人々の姿だ。こういう人たちの気持ちというのは日本人にはわかりようがないと思う。可哀想などというのは全く違うだろう。何世紀もの間、頭を押さえつけられることに慣れるのだろうか、生き続けてきた彼らはつよいと思う。

サッカー日本代表チームの元コーチ、イビチャ・オシム氏が、今年のブラジルW杯にボスニア・ヘルツェゴビナのチームを送り出すことに成功した。三つに割れていた協会をまとめ上げたのだ。
反対勢力も多い中で、これにはまさに命がかかっていたことだと想像する。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0622/ 


元日本代表のプレーヤー宮本恒靖氏もボスニアで子どもサッカー教室を開いているそうだ。その教室の名前を「マリ・モスト(小さな橋)」という。かつて戦火を交えた民族の子供の間に「心の橋」をかけるとの願いが込められているのだそうだ。ご健闘を祈る。

『ドリナの橋』は長い物語だ。時々取り出して読み返すという読み方もいいだろう。読むたびに、知人に再会した気分にもなると思う。いつまでも図書館においてほしいな。


2014/10
http://www.visegradturizam.com/english

2014年10月4日土曜日

読書随想 『私の日本語雑記』(中井久夫著、岩波書店、2010年)

表紙のカットも著者
著者の「あとがき」によれば、『私の日本語雑記』は雑誌『図書』(岩波書店)に2006年7月から2009年5月までひと月おきに載せたものを一年近くかかって手を加えたとある。『図書』はずっと購読していたが、気になりながら読まずに過ごしてしまっていた。今回、図書館の書棚で見かけたので読んでみる気になった。高級な内容であった。高級というのは自分の知識の程度との比較である。

著者はご自分を「ただの言語使用者」と卑下されているが、どうしてどうして、エッセイスト、翻訳家であり、本職は精神病理学のお医者様である。本業の論文や著作集はもちろん、翻訳も余技どころではないヴァレリーやらギリシャの詩人などの訳詩におよんで、著書多数である。だから語学も達者。それでいて1934年生まれだという。私より学年で2年下になるが、どういうわけだろう。

文章の中に「高校生のドイツ語の時間」とでてくる。「9 私の人格形成期の言語体験」という章には、旧制中学最後の入学者であるが、その学校は中高一貫校であったと書いている。これは神戸の甲南中学だろう。すべて旧制高校の教師が教えていたそうだ。米語を無視してキングズイングリッシュを教え続けた名物教師がいた。高校では第一外国語がドイツ語のクラスに入って、文法を1学期であげて、あとは原著の訳読。11人のクラスだから毎回当たる。語彙と文法、訳語の適切さには厳しかった。国語の授業はずっと情緒的だったから、外国語の授業をとおして日本語を習ったといえると書く。ナチスを嫌って帰国しないままだったドイツ人老教師は音声学の専門家、発音に厳しく、また、ゲーテ、ニーチェなど暗唱させられた。国語の教師は一人はリルケを、もう一人はヴァレリーを読み込んでいて、特に後者は新古今集とヴァレリ-などの西欧象徴詩とを対比させた絢爛たる講義をしたという。ヴァレリーの原語による朗誦はいまだに中井氏の耳に残っているそうだが、これらの原書は図書館に寄贈されていた九鬼周造の全蔵書に限定本で揃っていて、借り出しては筆写して持ち歩いたという。中井氏が高校と書くのは新制高校であるから、なんとうらやましい環境だったことかと驚く。甲南中学・高校が私立であったからできたことかとも思う。

不肖私は兵庫県の旧制県立中学三年生に転入したが図書館どころか校舎は空襲で焼失、摂津本山の小学校に仮住まいしていた。先生も生徒も戦後3年目の空気だけは明るい世の中にいたが、中井氏の伝えるような別天地は望むべくもなかった。かりに私が甲南中学への転入を志望したとしても、とても合格はしなかったろうし、僥倖で合格したとしても毎年落第していただろうと想像する。
それにしても中井久夫氏は素晴らしい環境に恵まれ、優秀な頭脳で京都大学医学部に進まれ、医学にフランス語にと研鑽をつまれたわけである。こういう方の存在と作品群を知らなかった不明を私は大いに恥じなければならない。

先に述べたとおり、本書の文章は高級である。著者は私と同年配ではあるが頭の構造は大いに違う。例によっていろいろ脇道に入って知識を補充しながら読み進めた。
高校生のドイツ語の時間、昔のことだから訳読が中心の授業であったが、真面目な初老の先生が、「「犬」と訳しても、日本の犬とは違う。ほんとうは「洋犬」と訳さなければならないのです」と言った。当時は各種の「洋犬」が跋扈する今と違って、だいたいは柴犬のようなのが「犬」だった。「洋犬」はテリアぐらいか。
先生のこのコメントは中井氏の頭に後々まで残って、
『失われた時を求めて』の中の訳語などは「プルーストの指しているものと違うのがずいぶんあるだろうな」などと考えた。そんなに違っても、なぜ私たちは外国の小説が読めるのだろうか。あるいは源氏物語を。私は現に読んでいるのだが、不思議である。訳語の少しの違いよりも、厳格主義者にはこちらのほうが問題ではなかろうか。
ある勉強会で中井氏は尋ねた。イメージとそれに対応する名がある。イメージが先だと書いてある本があるけれども、ほんとにイメージなりモノが先ですか、それとも言葉が先ですか。答えは、最初に子どもが言葉を覚えるときには、モノなりイメージが先でしょうね、だった。
単純にイメージが優先するとすると、われわれは外国の小説をどうして読めるのだろうか?この質問に対する答えは「それは私たちがいい加減だからです」だった。この「いい加減さ」には深い意味があるぞと私は思った。
私たちの錯覚は、帝国主義者が世界を分割してしまったように、言語が世界を分割していると思い込んでいることかもしれない。実際はそうではない。さまざまな椅子を「椅子」と名付けることによって、私たちは利益も得たが、粗雑にもなった。犬に比べて嗅覚は1万分の1にも鈍くなったそうである。他の感覚もそうだろう。
他の感覚に考えが及んでいるのは著者が精神医学者だからかもしれない。別の個所でこういう文もある。「3.日本語文を組み立てる」、テンプル・グランディンという自身が自閉症である動物学者の著書『動物感覚』(中尾ゆかり訳、日本放送出版協会、2006年)を紹介しながら、
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。
この文章の手前には最相葉月『絶対音感』(小学館、1998年)をひいて、自閉症の世界は絶対音感の世界でもあって絶対音感の人の苦しみは、それが音だけでなく、すべての感覚にわたってそうらしいとも書いている。 
言語の支配する世界はすべてにわたっていわば相対音感の世界ということになる。相対性、文脈依存症は成人の記憶において明らかである。誰しも、生きてゆくにつれて、過去の事件の比重、意義、さらには内容、ストーリーさえ(たいていは自分に都合よく)変わる。しかし、人間はどこか生の現実(「即事」「物自体」「現実界」など)から原理的に隔てられている虚妄感を持つようになる。(ここでリルケの詩で例をひているが省略する)晩年のリルケはキリスト教から距離を置くようになったらしい。一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。
ここは何度もかみしめたい箇所だ。このあと私たちがどのようにして世界を言語化する作用に巻き込まれてゆくかを検証している。

イメージと言葉の話に戻ろう。著者は、色彩のエスノ言語学によって、いかに人が色を言語化することの不十分さを知った。普通の市民は高度に概念的に色を見ている。樹は緑に、海は青くと、「固有色」に塗るのが多数派である。小学校あるいはそれ以前からの教育の結果である、と中井氏は書くが、最近のテレビなどで見る保育園児のお絵描きの色づかいは全く自由気ままである。少しは時代が変わって「固有色」にこだわらない教育がされているのかもしれないが、「概念化」がなければ色付けに当惑することには変りないだろう。 

月を最初に周回した1968年の宇宙飛行士は、月の表面の色について意見が大幅に分かれたことを中井氏は回想している。何とも言いようのない色であったそうだ。
私たちは、見たことのない色は、既知のどれかの色に片寄せて認知する。私の場合は淡い灰色であった。この片寄せは言語という粗い網の目で世界を分割しようとする場合には避けられない。物体の色にしてこうであるから。抽象概念はなおさら、具体物も同じくであろう。 
色は、精神医学者サリヴァンのいう「合意による妥当性確認」(Consensual validation)によってしか伝達できない。「これが赤だよ」「うん、ぼくにもこれが赤だ」。これが合意である。つまり、純粋の「質」は意見の一致によってしか確認できないのである。形ならば、いろいろ説明することができる。しかし、色については意見が一致しなければそれ以上の正否は問えない。
エスノ言語学者、バーリーンとケイの仕事(Brent Berlin & Paul Kay:"Basic Color Terms"(1969),CSLI Publications,1991)が紹介されている。
バーリーンとケイはいろいろな民族と言語における色名とその色名が妥当する色の範囲を知ろうとして、質問用紙を用意した。
可視スペクトルを左右に、明暗を上下に展開する。「虹の七色」(赤橙黄緑青藍紫)に欠けているピンク、桃色、茶褐色、黒褐色系を加え、灰色のモノクローム系を縦に付け加える。これを縦横に細い線で切り分け、合計330個のプレートを作る。これが質問用紙だ。
中井氏はこれを一見して、
まず驚いたのは「虹の七色」などどこにもないということである。
それはそうだ。全部がひとつながりになって色合いは段階的に境界なしに変化しているのであるから、そこから色を七つ取り出せといわれても困惑するだけだ。 
私たちの脳は連続して変化するものを、どこかで仕切って「質」の枠組み(カテゴリー)に分けようとするらしい。可視光線の色は純粋の「質」といってよいだろう。これを虹の七色に分けるのは、坂道を階段に変えるのと同じである。
 著者は精神医学の医学博士である。精神障害の分類に関心があって、このエスノ言語学者の実験に興味を持ったのだそうだ。
精神病も精神/脳という一つのシステムの状態であるから、分類表を作って研究した結論に、はっきりした境界線などないというのは当然である。
ここまでのことの中で私がまだよくわからないのは「純粋の「質」」という言葉である。著者による説明はない。形質とか形容という言葉から類推して「目に見えるが形のない、言葉で言い表せないもの」と考えればよいだろうか。

ところで、虹は七色というが、どうして七なのか。中井先生は「ミラーの法則」という心理学的法則を紹介する。ミラーは人名であって、ジョージ・ミラー(George Armitage Miller、 1920年2月3日 - 2012年7月22日)アメリカ合衆国の心理学者である。 
それによれば、一度に操作できる「もの」(チャンク(chunk)―― 一つの名で呼ばれるものといおうか)は七プラスマイナス二だというもので、七つ道具をはじめ、多くのものがこれに当てはまる。これは人間の心理というより生理的な法則だろう。虹の場合には、連続スペクトルであるはずのものがどうしても六ー七色に見えてしまう。これは世界を認識する際のかなり基本的な制約であろう。特に「質」的な認識の場合がそうである。
純粋の質である「色」はミラーの法則のもっとも見事な例ということができるだろう。
一方で、ヒトは千万単位の色を区別することができるという。ミラーの法則を超えて色の名を増やす方法は比喩であると著者は教えてくれる。

翻ってわが日常に経験していることでは、コンピューターで色を表現するとき、カラーコードを使って色合いを指示する。例えばこのブログの文字の色は「RGB (153,0,0)」、または「#990000」である。このコードはセーフカラー216色コード表によっている。バーリーンとケイの質問表の構成の説明からこのカラーチャートを連想したが、カラーチャートはやはり区割りされている。
カラーチャートの例にはWindows付属のソフトでの「その他の色」とか「色の編集」がある。チャートの全面を見れば連続した色だ。使いたい部分(色)をクリックするとRGBの数値が表示されて、その色合いが特定できる。特定できたからといってもこれも区割りされたものでしかない。その部分の色だけが世界に存在しているわけではない。「群盲象をなでるの図」をちょっと思い出した。

『私の日本語雑記』の中で、色に関する問題は「14 われわれはどうして小説を読めるのか」という章に述べられている。上に抜書きで抄出したように、主題は言語で示すものと示されるものの差異であり、どうして小説を読めるか、という問いに対す答えは、「概念化」と「いい加減さ」である。この話題に精神医学の視点が入るのがこれまで読んだ日本語論などにはなかったので大いに啓蒙された。
前後するが、この章の文章は次に示すように、胎児の言葉の認識に始まり、老化および認知症の観察にいたる。人生の終点に近くなったわが身に照らして考えて面白かったのでこの章を取り上げた。 
言葉の意味は名付けから始まる。子どもはまず、母語の音調、リズム、音素を覚える。この準備は胎内から始まっているようだが、子どもが言語は意味を持つという事実を体験し身につけてゆくという作業は、出生以後である。言葉を口にするよりも先にかなり多くの言葉(音素の組み合わせ)が何を指すかはわかっているらしい。外国語を話すよりも聞き覚えるほうが一般に先なのと、これは同じことだろう。
対照的に、老人は名から忘れる。文法構造のほうはかなり後まで残って、名のあるところは「あれ」「それ」でつぎはぎされる。文法構造あるいは文脈的ネットワークはずいぶん後まで保存されるようである。たとえば「てにをは」である。これは生きてゆく日々によって形成され再形成されたしたたかな網目構造である。
認知症の人が格助詞の間違いに的確に異議を唱えるのを耳にしたことがある。まさに「格助詞の違い」を咎める時の、警笛のような鋭さを持っていた。(「に」じゃなくて)「を !!」というふうに。
 翻訳論もいくつかの章に分かれて述べられているが、英、独、仏、ギリシャ語などにわたっている。詩についても話題が多く、音声の拍やらモーラ、五音、七音、拍子、頭韻、脚韻など、内容は非常に高度なもので私ごとき知識ではとても一度に咀嚼しきれない。悔しいからこれからも何度も読み返したいと思う。

心覚えのためにスペクトルの図を掲げておこう。実はこういうこともすっかり忘れていた。


可視光線は、太陽やそのほか様々な照明から発せられる。通常は、様々な波長の可視光線が混ざった状態であり、この場合、光は白に近い色に見える。プリズムなどを用いて、可視光線をその波長によって分離してみると、それぞれの波長の可視光線が、ヒトの目には異なった色を持った光として認識されることがわかる。各波長の可視光線の色は、日本語では波長の短い側から順に、紫、青紫、青、青緑、緑、黄緑、黄、黄赤(橙)、赤で、俗に七色といわれるが、これは連続的な移り変わりであり、文化によって分類の仕方は異なる(虹の色数を参照のこと)。波長ごとに色が順に移り変わること、あるいはその色の並ぶ様を、スペクトルと呼ぶ。
出典:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%A6%96%E5%85%89%E7%B7%9A

ミラーの法則は次のサイトが参考になる。
matome.naver.jp/odai/2140790955485153101

(2014/10)




2014年9月25日木曜日

地図が語ること

テレビのクイズ番組で「江戸の地図で大名屋敷の名前の表記がマチマチの方向を向いているのはなぜか」という趣旨の問が出た。正解は「表門のある方角を向いて名前が書いてある」ということだった。解説は大名屋敷が占有する区,0,0画が広く、出入り口も一つではないから正面入り口を示す必要があったとかいうものであったと思う。その時にはなるほどと思ったが、少し別の角度から考察している文章があることを思い出した。
文芸評論の磯田光一氏の著書に『思想としての東京』がある。氏はこの中で江戸の地図の方角を話題として取り上げている。
『思想としての東京―近代文学史論ノート』(国文社1978年、私が読んだのは新装版1989年)、江戸から東京へ日本の近代をなぞっての著作。著者の磯田光一氏(1931-1987)は英文学者であるとともに日本近代の文学を時代性でとらえる評論を続けていた。
巻頭に著者が苦心して集めた江戸、明治、大正各時代の関東の地図がグラビアで紹介されている。寛政9年の江戸の地図では西が上になっている。そして、「御城」(葵の紋所が描いてある)は逆さまに、大名屋敷や人家の表記は「御城」を向いているが,神社仏閣は別だ。つまり神社以外は権威が所在する方向を向いている。神社仏閣はその権威に従う必要はない。これが著者の見方だ。




磯田氏によれば、「江戸時代には、すでに北を上方とする西洋的な地図作法が入っていたにもかかわらず、大半の江戸地図では西が上で東が下になっている」。
この作図法には二つの問題がある。建物をあらわす文字の向きと方角の定め方だ。文字のことは上に述べたのがひとつの見方だが、「御城」が逆さまになっていて下方を向いているのは西に向かって聳え立つためと解釈できる。西に京都があって天皇がいるから、権力を象徴するにはこうなると説く。「御城」の表記が時代が下がって「皇城」「皇居」と変わっても西を上にすることは明治になってもなかなか改まらなかったらしい。原版を江戸地図においたまま改訂版ですませたためもあるとも考えられるが、著者は詳しく拾ってはいない。著者の論ずべき筋が別のところにあったせいだろう。なお、筆者がネットで探った結果では、大名屋敷の向きについては、著者の言い分が当てはまるとは限らないように見受けられた。テレビの回答のほうが当たり前のようで、広くあてはまる。

この本では地図を読むにも作図法の根底に潜む「神話」要素を掘り出して、特定の住居地域がステイタスシンボル的に考えられてゆくことや、区域で話される言葉が地方語、方言、東京語、標準語などの違いによって人間の格差づけがうながされ、さらにこういう要素から東京が日本の中で憧憬の地になってゆく様子を文芸史上に探っている。
江戸地図の方角基準については克明に調べれば磯田氏の見解の通りになっていないこともあろうかとは思うが、ひとつの「神話」として面白い見方であると思う。


話は違うが、「みんなの党」が解党する動きとなった際に党の使途不明金が問題になった。渡辺喜美代表の口をついて出てきたのが「お酉様の熊手」に40万円支払ったとかいうことで話題になった。あの時、私は磯田氏の著書を思い出した。

著書『思想としての東京』に大正14年の『東京都市計画地域図』が載っている。関東大震災によってやり直しを強いられた都市計画の図面で、著者はこの図に「昭和の東京の運命を決定した地図」と下記している。「東京の西半分が薄緑色にぬられて、「住居地域」と定められ、現在の千代田区、中央区のあたりが「商業地区」として赤くぬられ、いわゆる下町と川崎は「工業地区」としてブルーにぬられて」いる。ピンクの商業地区とブルーの工業地区との境界線が隅田川だった。
昭和の東京は新上京者として日本近代化の指導層になった地方人が、主として世田谷、杉並方面に居を構え、森茉莉『気違いマリア』のいう「浅草族」を工業地区のうちに封じこめることによって近代化を達成したのだと著者の論考は進む。
「浅草族」つまり、そこに住み着いた人びとは住居地区の標準語族の力の前に滅んでゆく。磯田氏は谷崎の『痴人の愛』から浅草千束町を引き合いに出すが、樋口一葉の『たけくらべ』の舞台でもある。
かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂(でんがく)みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當ことごとしく、一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉(とり)の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着(はるぎ)の支度もこれをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者のうわさも聞かざりき、……(青空文庫『たけくらべ』より)
 お酉様の熊手などを作り出すのは際物屋という商売だそうだが、その季節にたまたま店の主人を取材したのをNHKテレビで見たことがある。材料こそ変わったようだが、相変わらずの手作りで、しかも工場すなわち住まいは一葉の描く時代と同じ地域であったのに驚いたのであった。いうなれば『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也)の現場である。一葉の皮肉な口調を思い出して気の毒なような感じもするが、同じ商売、似たような境遇の職業がひとところに相集まって生計を立てるのは洋の東西を問わず共通した必要性に基づくことでもあるかと思った。それにしても、100年以上も昔のころから、同じ地域が同じ職種を営む人々を呼んでいるとはどういうことであろうか。浅草の場合は鷲神社あっての商売だから、神社の足元に張り付いているらしい。「浅草 よし田」という宝船熊手専門店の場合がわかった。お酉様には150もの熊手の店が出るそうだが、生産地はわからない。多少は地元にもあるとは思うが。
「日本職人名工会」と「浅草よし田」のサイトが参照できる。
http://www.meikoukai.com/contents/town/04/4_9/
http://info.linkclub.or.jp/nl/2007_11/yoshida.pdf

関連:5月15日『一銭五厘たちの横丁』参照。

(2014/9)



2014年9月17日水曜日

読書随想 『ラデツキー行進曲』 ヨーゼフ・ロート 1932年

筑摩世界文学大系 63(昭和53年)、柏原兵三訳で読んだ。8ポ活字、3段組で200ページほどある長い小説だ。今般、新しく出版された岩波文庫は上下二巻で740ページほどだ。

作者ヨーゼフ・ロートJoseph Roth 1894-1939はオーストリア人の父とユダヤ人の母との間に生まれた。作品はドイツ語で書いた。この作品は1932年に出版されて高く評価されたが翌年ヒットラー政権が誕生して亡命生活に入った。放浪の後、パリで亡くなる。
フランツ・ヨーゼフ一世

この作品の背景はすでに凋落しつつあるハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー二重帝国、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の世の中、68年間在位して86歳で没する1916年まで。
物語の始まりは戦場である。舞台は1859年、北イタリアはソルフェリーノの戦いである。

両軍が対峙する最前線に立った若き皇帝が双眼鏡を目に当てようとしたのを見つけたトロッタ歩兵少尉は、飛び出して皇帝の肩を押さえつけた。皇帝はたちまち転倒した。瞬間、敵弾が少尉の左肩を撃ち抜いた。少尉は倒れ、皇帝は救われた。「ソルフェリーノの英雄」の誕生である。
やがて健康を取り戻した少尉は、大尉に昇進し、最高の勲章であるマリア・テレージア勲章を授けられ、貴族に列せられた。そのとき以来、陸軍大尉ヨーゼフ・トロッタ・フォン・ジポーリエと呼ばれることになった。

物語は「ソルフェリーノの英雄」と称えられた祖父と息子、そして孫の三代にわたる。命の恩人に対する皇帝の謝意はトロッタ家への恩寵となり、息子も孫も恩恵を賜る。
この恩恵の賜り方は、ときに滑稽であり、逸楽の結果の借金から逃れることなど、今の世ならば非難囂々かもしれないが、著者はそれも蚕食されてゆく宮廷政治の一部と承知のうえで親子の情に君臣の情を重ねて事を運ばせる。

この著者はオーストリアが好きなのだ。だから、ウィーンが好きで、皇帝が好きなのだ。何よりも著者は、物語が語る静かに明け暮れていた日々の暮らしと時代に愛着が強いので、三代の話を紡ぐことによって、この時代をいとおしみながら作品を世に送り出したのだと思う。

作品の題名「ラデツキー行進曲」はいうまでもなく、ヨハン・シュトラウス一世の作曲、1848年、北イタリア独立運動の鎮圧に向かうラデツキー元帥を称えたものとされる。現在では恒例のウィーン・フィル、ニュー・イヤー・コンサートでアンコール曲の定番になっているほど人びとに愛されている。オーストリアは軍隊の國であるから、もともと軍楽隊の演奏であったろうと思う。ソルフェリーノの英雄の孫、カール・トロッタ少尉は毎日曜日、郡長の屋敷のバルコニーの下で演奏されるこの曲が大好きだった。聴いているうちに自分がハプスブルグ家の親戚であるかのような気がして、皇帝のために死ぬことを想像し、この曲を聴きながらなら、死ぬのはたやすいものだなどと夢想していた。

一方、ソルフェリーノの戦いはイタリア北部、サルデーニア王國とナポレオンのフランスの連合軍を相手にした戦い、双方合計30万に及ぼうという大軍の衝突だったが、オーストリア軍が大敗してイタリアでの勢力が大きく損なわれた。総指揮官フランツ・ヨーゼフ皇帝にとっては忘れられない一戦であったろう。
となれば、ラデツキー行進曲は意気盛んに出征した当時の曲であり、誇り高いオーストリアが失われてしまった今も、それがいまだに人気があって演奏されるというのは、やはりよき時代への郷愁ではないだろうか。この物語の表題としてよくできていると思う。

ソルフェリーノの戦いで皇帝がヨーゼフ・トロッタ少尉に救われたという挿話は事実であるかどうか知らない。物語ではそのようになっているのであるが、ヨーゼフがボヘミヤの資産家の娘と結婚して息子が一人でき、小さな守備隊での生活に安住していたころのある日、教科書の読本を見たことから事件が起きる。
「ソルフェリーノの戦いにおけるフランツ・ヨーゼフ一世」と題した読み物に、敵軍の騎兵隊に皇帝が囲まれてしまったとき、栗毛の馬にまたがった少尉が突っ込んできて敵を切り倒し、皇帝を救出したとあるのだ。これは嘘だ。それにおれは騎兵ではないぞ。嘘と卑怯を憎む頑固者はただちに抗議して取り消しを求めた。だが、官僚の壁は厚かった。皇帝に直訴した。「偽りだらけだのぅ」皇帝は彼の主張を認め、善処しようと約束してくれた。守備隊に戻って辞表を出した。
彼は少佐に進級して退職させられた。舅の領地に移住した。数週間後、皇帝は彼の恩人にその嗣子の学資としてお手元金から5千グルデンを下賜されたとの通知と共に男爵への昇格がもたらされたのであった。やがて折に触れての皇帝の希望で問題の読み物も教科書から姿を消した。
トロッタという名前は連隊の匿名の年代記にだけ残った。

祖父の代まではまだ小さな村の百姓だった、父親は南の国境の憲兵曹長だったが、戦闘で右目を失ってからは廃兵としてラクサンブルクで庭園の庭番をしていた。男爵になったトロッタも田舎の小百姓のような暮らしが気持ちよかった。プロシア戦役は彼なしで行なわれて敗れてしまった。彼は憤った。
廃兵の父は81歳で死んだ。時を経ずして舅が逝き、やがて妻も死んだ。息子を寄宿学校に入れた。決して職業軍人になってはならぬと厳命した。夏の休暇に帰郷した息子は絵を描く友人を連れてきた。父親の肖像画を描いておいていった。男爵は大層喜んだ。初めて自分の顔を知って、ときどき無言の対話を交わした。同時に老いてゆく自分も知った。やがて息子は行政官になり群警部になった。教科書から消えたけれどもトロッタという名前は上層の政治当局の秘密書類には残されている。皇帝のみ恵みはずっと見守ってくれるのだ。昇進は早かった。郡長になる二年前に父少佐は死んだ。

ウィーンの軍楽隊、歩兵一個中隊、軍や官の代表者たち、そして礼砲。人びとは簡素な軍人らしい墓石を置き、名前と地位、連隊名に並んで誇らかな通称を刻み込んだ。「ソルフェリーノの英雄」。
皇帝からは弔慰の手紙が来た。その中には今は亡き故人の永遠に「忘れられることのない功績」について二度も触れられてあった。故人に関するものはこの墓石と忘れられた名声と肖像が残された。

ここまでが第一章で、このあとはフォン・トロッタ郡長とその息子カール・トロッタ少尉の生涯と折々の暮らしぶりが第二〇章及びエピローグまで語られる。
郡長は時代の進み方に遅れをとっていることも知らずに過ごしていたが、息子の駐屯地を訪れて親しくされた民間人のホイニツキイ伯爵が教えてくれた。

君主国は生きながら崩壊しているのです。鼻風邪のたびに危険にさらされ,死に捧げられた老人が,古い帝位を守っているのです。あとどれくらいもつでしょうか。時はわれわれに利あらずです。現代はまず独立した民族国家を生み出そうとしています。人びとはもはや神を信じていない。新しい宗教はナショナリズムです。諸民族はもはや教会へ行きません。彼らは民族結社へ行くのです。君主国は,われわれの君主国は、敬神を、神がしかじかの数のキリスト教を信じる民族を統治するようにハプスブルグ家を選びたもうたのだという信仰を基礎としています。われわれの皇帝と法王とはこの世に於ける兄弟なのです。皇帝はオーストリア・ハンガリーの陛下なのです。彼以外の何人も,神の使徒ではありません。ヨーロッパのどの帝王も,彼ほど,神の恩寵と、諸民族の神の恩寵への信仰に依存してはいないのです。ドイツの皇帝は、神に見捨てられても,依然として統治します。場合によっては国民の加護によって。オーストリア・ハンガリーの皇帝は神に見捨てられてはならないのです。今しかし神は彼を見捨てられたもうたのです。
伯爵の主張は,彼がここ何週間かの間、特に老ジャックの死以来感じていたすべての混乱をいちどきに解明してくれるように思えた。 (引用者注 :ジャックは気心の通じ合っていた召使い)
老男爵は世の中が少しわかったと思ったころに皇帝の臨終を知り、シェーンブルン離宮の庭に詰めて弔葬の鐘を聞いた。数日後、皇帝の埋葬の日に自分も死を迎えた。スロベニアの百姓であったトロッタ家はソルフェリーノの英雄の功績で貴族に列せられたのだ。フォン・トロッタは自分の故郷はシェーンブルンの陛下の居城と定めた。息子に言い聞かせた。「わしたちはオーストリア人でいよう」。彼の葬列も軍楽隊が行進曲を演奏し礼砲が放たれた。

作品は終始優しい言葉遣いで語られる。翻訳がじょうずなのだと思う。同時に、哲学も日常用語で語られ得るというドイツ語の性質も考えた。語りの内容は細かく緻密、それでいて人物の心情が細やかに読み手に伝わる。飛ばし読み、流し読みは出来ない、大切な要点が抜ける。
この物語は歴史であり、社会史でもある。人びとの生活と時代の様子がかなり分かる。
フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルが言っている。「本来の歴史は逸話的構成によってしか語れない」と。だから文章は細部の記述の連続になる。この作品もそうだ。

広大な領土を統治する偉大な、しかし老いさらばえた皇帝の真情が切々と綴られる部分もある。
騎兵幼年学校を終えたカール・トロッタ少尉はメーレンにある連隊に配属された。はて、メーレンとは。モラヴィアのドイツ語だそうだ。チェコ東部の町。ところが兵隊たちはチェコ人ではなくて、ウクライナ人とルーマニア人で構成されていた。トロッタにはまったく理解できない言葉が話されている。彼は話せないが、父親は五年前まではスロベニア語だった。今は軍人式のスラブ人のドイツ語で話す。家政婦の老嬢はドイツ暮らしが長かったので標準語だ。

夏祭りの最中に皇太子がセルビアで撃たれた知らせが飛び込んでくる。「ブラヴォー!」、ハンガリー人たちの間では今まで話していたドイツ語を切り替えてハンガリー語が溢れかえった。セルヴィア人とクロアチア人は腹を立てて、ドイツ語で話せとわめく。「なら、ドイツ語で言いましょう。豚野郎はくたばれと言うことですよ。」この国の分裂が始まっている。

カール・トロッタは将校だ。槍騎兵少尉だが本当は馬などどうでもいい。先祖は百姓で、騎士ではない。ときどき彼は、馬鍬を持って土を耕して種をまいて、自然の恵みをいただく生活に憧れた。彼のDNA、著者の時代にそんなものはまだないから書いていないが、そう思える。生きる目的を見失って軍隊を辞めたが、第一次大戦が始まったので復帰した。行軍中に百姓たちの兵隊の身を守ろうと彼らに代わって危険な水汲みに赴いてコザック騎兵に狙撃されて死んだ。百姓の兵隊たちに囲まれて死んだから、先祖伝来のもとの身の上に戻れて満足だったかもしれない。倒れた時、ウクライナ人の百姓の兵士たちがいっせいに叫んだ。「イエス・キリストに頌えあれ!」。「とこしえに、アーメン!」と彼は言いたかった。それが彼のしゃべることのできた唯一のルテニア語だったのだ。ルテニア語、この場合はウクライナの方言ととっておこう。

軍隊は、端的に言えば将校は貴族、兵は農民、商人などの民間人だった。オーストリアはユダヤ人に寛大な政策をとっていたらしい、いわゆる東方ユダヤ人がよく登場する。しかし将校たちの間では、ヒソヒソ話の対象になり、疎外される身の上だ。ドクトル・デーマントは優秀な医者だが連隊付医官という身分でしかない。ガレシア地方のユダヤ人だからだ。ある時酒保でユダヤ人を侮蔑する言葉を投げられたため決闘することになった。軍人なるが故に避けられない決闘、馬鹿馬鹿しいと言いながら「名誉」のために死んだ。相打ちだったのがせめてもの慰めか。

軍の学校で養成された若い将校たちは戦争を待っている。戦争がなければ訓練、演習に明け暮れる日々。死ぬ機会を待っている身ではほかにすることがない。ウィンナ・ワルツに「酒・女・唄」というのがあったと思うが、トロッタの兵営内の生活もそれだ。東の国境守備隊で親しんだ酒は「九十度」というとおり名だった。彼は少し酒で脳がやられていた様子が見える。ウィーンには有閑夫人が多い。若い将校は誘惑される。トロッタも楽しんだクチだ。金がかかる。戦争になる少し前に守備隊のいる町のホテルに賭博場が開かれた。鬱屈している連中にはルーレットの偶然が幸福をもたらしてくれるように思えた。みんながすった。借金が増える。ユダヤ商人のつけいる機会も増える。自殺者も出た。トロッタの借金問題が老皇帝の恩寵で片付けられたついでに賭博場も閉鎖された。賭博場については近頃の日本の政治家の思惑を連想して「他山の石」という言葉を思い出した。
その他もろもろ、たくさんのことを知ることができた。題材は講談か浪曲みたいだが、語り口がうまいからやはり文学になっている。本音のことが書いてある。評判が高かった所以だろう。
ジポーリエなどという地名は今の地図ではどこにあったのやらもう分からないが、現存する地名やハプスブルグ家の各地の城や庭園などはネットが利用できるから観光気分で写真も楽しめる。読み返しながらのネット・サーフィンも楽しいことであった。
(2014/9)



2014年8月26日火曜日

旅の回想 流しの楽師たち ロマ


東欧4か国の世界遺産をめぐるグループ・ツアーに出かけたことがある。プラハ・ブラチスラバ・ブダペスト・ウィーンと回る。ウィーンとかプラハの名は知っていても、ブラチスラバなどという名前は頭になかったぐらい、このときの旅は馴染みのない地域であった。また、この4か国、チェコ・スロヴァキア・ハンガリー・オーストリアは、すべてハプスブルグ家が支配していたという歴史的事実もあらためて感懐をよんだ。旅行そのものは「世界遺産をめぐる」といううたい文句の通り、どの旅行案内書にもある風景や建物を見て回る物見遊山にすぎない。団体旅行ではこうなるのは仕方がない。オプションで行ったドナウベント地方というのは、西欧的な雰囲気から外れた鄙びた土地柄がなかなか良かったと思う。バックザック一つで回る旅ならいいが、こう年をとってしまうとこういう土地にはなかなか行けない。
さて、旅行を思い返せばいろいろあるが、食事時に現われた楽師達については、その後も何かにつけて思い出されるので、少し書いておきたい。

このときの添乗員が言うには夕食時に全部生演奏がついていますが、こんなことは滅多にありませんと。なるほど言葉に偽りはなかったが、登場したのは二、三人が組んだ楽師達、服装はほとんどややくたびれた普段着、日本でいうなればギターの流しみたいな感じ。生演奏と聞いて洒落たムードピアノのソロとか、弦楽クヮルテットなどを期待していれば馬鹿かといわれそう。結論を言えば、「夕食時の生演奏」では楽しいことは全くなかった。ないほうがよほどよろしい。

チェコのビアホールのは女性のアコーディオンとチューバ二人組。お国柄でいけばビアマグを挙げての合唱でもあれば様になろうが、ツァーの日本人では歌も出なければリクエストも出ない。相手も困って一曲いかがですかと回ってくるが皆さん黙々と飲み食いに忙しい。なにしろ「いえ、私は結構です」なんてことも言えない人ばかりだから、見ていていらいらする。結局登場したときに演奏した「ビア樽ポルカ」一つでほかのグループに行ってしまった。この女性達はチップももらえずじまいで気の毒した。
ひょっとしてわがグループの人たちはテーブルを回ってくる楽師達にリクエストして、チップを渡すという、暗黙の社会的取り決めに気がつかないのかもしれない。それともチップなど出さなくてもいいのかな。後述するハンガリーの例だとそうは思えないのだが。

チューバなんてブラスバンドでしか見ないものだから珍しかった。これはベースの代りを務めるわけだと分かった。「ビア樽ポルカ」は日本では戦後アンドリューズ・シスターズの歌で流行ったが、原曲はなんとチェコであったとは誰も知らなかったろうと思う。ただしビールにはまったく関係なしの「スコダ ラスキ(失われし恋)」(1934)という失恋の歌だそうだ。チェコに進駐したナチス・ドイツ兵が歌って、ドイツ語の「ロザムンデ」という歌になった。アメリカに渡って「ビア・バレル・ポルカ」として歌詞がついた(1939)。ヨーロッパではアメリカ軍が一帯に展開していたせいで英語とポピュラー曲が普及したようだが、この曲はお里帰りであったのだ。
アンドリューズ・シスターズ
チップの話を続ける。食卓で囲んだ小さなステージで演奏するピアノを含んだ男3人組があったが、このときはグループの女性客もだいぶ慣れて一緒に歌ったり、写真を撮ったりしてはしゃいでいたが、誰もチップは出さなかったようだ。こういうのは店を通じて添乗員で処理するのだろうか。チップがなければ彼らの実入りはないはずだろう。

不愉快な思いをしたのはブダペストの中年男3人組。誰もチップを出さないので端の席にいた私の横に親分格が来てヴァイオリンを弾きながら「アリガト、アリガト」とチップを催促する。ほかの客は黙ってうつむいて食べるだけ。演奏を聴きながら彼らの様子を見ていたのが失敗だったようだ。いつまでたっても動かず、明らかに強要であった。あいにくコインがなく、ありあわせた500フォリント(250円強)をポケットにねじ込んでやると、やおら引っ張り出して、ゆっくり引き伸ばしてわれわれお客みんなに見せた上、弦の間に挟んでようやく立ち去った。あのグループは、親分のしつこさとともに実にいやーな感じの人たちであった。そこで思い出したのが映画の一場面だ。『ヴェニスに死す』(伊1971)。執拗に繰りかえし演奏してチップをせびる一団。生暖かい空気とコレラ騒動の不安が観客にも伝わってくるような場面。音楽の効果がめいっぱい使われていた。あの一団の楽師達とブダペストの経験は似ている。
映画『ベニスに死す』より
ハタと思いあたったのはロマだ。昔はジプシーといわれた人たち。弾いているのはヴァイオリンだが、この場合はフィドルと呼ぶほうが似合いそうだ。日本語では「屋根の上のバイオリン弾き」となっているアメリカのミュージカル、原題は「Fiddler on the Roof」だ。これに登場するのは帝政ロシアのユダヤ教徒でロマではないが、同じ構造の楽器であっても弾く人たちや曲目の種類などで、所謂クラシックのバイオリン演奏とは違う。フィドルのほうがぴったりという感じがする。

で、ロマの話に戻ろう。現代では欧州一円に拡散したロマは、各国ともその制御に手を焼いているようだ。基本的に放浪生活のかれらは定住を嫌うらしい。経済的にも弱い人たち。シューマンの「流浪の民」という歌曲、高校時代には綺麗な合唱曲だと思っていたが、詩に歌われていたのはナイルのほとりからさすらいの旅に出る可哀想なジプシー達であったのだ。使われていた詩はロマがエジプトから流浪し始めたとの伝説がもとでジプシーと呼ばれた時代の作品。ドイツ語の原題を知ってみれば「ツィゴイナーレーベンZigeunerleben」、ツィゴイナーが今でいうロマだ。だから「流浪の民」の元の題は「ロマの暮らし」ということになる。サラサーテの「チゴイネルワイゼン」は「ロマのメロディー」だ。

4か国世界遺産の旅などと謳われているが、ヨーロッパの中でもロマ人口が多い地域。ブラチスラバでは街を行く数人かたまった人達を見て、ガイドさんは「あれはスリだから気をつけましょう」と言って、注意深く間隔をとっていた。一人が何やら話しかけてきて、受け答えを強いられる間にぐるりと囲まれて刃物でバッグの底を切り取って中身を持ち去るという手口が多いのだそうだ。何となく小汚い風体の人たちだから、慣れればすぐ分かる。楽師達もそうだとは言えないが犯罪者すれすれの生活であることは間違いなさそうだ。昔からのジプシーのイメージではフラメンコであり、馬車暮らしだった。現代では馬車が自動車に変わっているらしい。馬や馬車の取引が今は中古車になり、その延長で修理工も多いという。日本でも放浪職人には鋳掛け屋が多かったが、西洋にも同様の鋳掛け職人があるようだ。放浪しながら生計を立てなければならないとなると、職業の範囲は自ずから限られるだろう。だからロマと呼ばれる人たちにはダンサーや楽師などの芸人、修理屋、占い師などが話題になることが多い。犯罪者の発生も多いし、スリ、泥棒、誘拐もある。結局は嫌われる人たちということになり、ロマはどこでも疎外され、差別の対象になってしまう哀しい存在である。
世界遺産巡りが図らずもロマの存在を目の当たりに意識させられることになってしまった。

しかし、ロマといっても悪い人たちばかりではないのは当たり前だ。片親がロマ出身というのも有名人には多いようだ。熱心な研究者によって世界の有名人のリストも作られているようだ。
ジャズ・ギタリストでジャンゴ・ラインハルト(1910-1953)がいる。両親がロマでベルギー生まれ、フランスを中心に活躍した。ロマの音楽とジャズ・スウィングを混淆させたマヌーシュ・スウィング(マヌーシュはフランス語圏でのロマの呼び方)の楽曲を独特の奏法で演奏する。キャラバンの火災で大けがをした名残で指が不自由なためその技法も特殊になった。
チョコレートを題材にした風変わりな物語の映画『ショコラ』(米2000)ではジョニー・デップが水上生活のロマを演じるが、ジャンゴの曲『マイナー・スウィング』が印象的に使われる。映画にはロマという言葉は出てこないが、この曲が聞こえることで、あ、そうか、と思ったことを覚えている。

ジャンゴ・ラインハルト

東欧4か国めぐりはチェコを除いてドナウ巡りの旅でもあったが、ドナウ周辺にはロマが多い。ドナウの終点、ルーマニアはロマ人口が150万人はいるだろうといわれるほどロマが多く、問題も多い國のようだが、政府はロマは存在しないという立場だそうな。Wikipediaにも興味深いことが書いてあった。ここには書かない。(2014/8)