ヴィシェグラード、ボスニア・ヘルツェゴビナ |
前回掲出の『ドリナの橋』はユーゴスラビアのノーベル賞作家、イヴォ・アンドリッチの小説である。建設以来の4世紀にわたって橋が見つめてきた住民の有様が淡々とつづられている。
ユーゴスラビアという国はもうない。チトー大統領の下でまとめられていた六つの共和国がバラバラになってしまった。アンドリッチの生国はボスニアである。「ドリナの橋」はボスニアの東部、セルビア共和国との国境に近い町ヴィシェグラードにある。
橋が2007年に世界文化遺産に登録されたためか世界中から観光客が増えているようだ。
ヴィシェグラードの町の観光協会のHPで有名な映画監督のエミール・クストリッツァの活動に出くわしてびっくりした。『パパは出張中』(1985)と『アンダーグラウンド』(1995)で二度カンヌ映画祭パルム・ドールを受けている、この監督がなんでこんなところに出てくるのだ、と面食らった。
ヴィシェグラードのHPを開くとAndrictown complexが2014年6月28日に公式開場したとか、第一次大戦開戦100周年記念のプログラムとかの見出しが目につき、Andrictownのコーナーを開くと、これがエミール・クストリッツァがイヴォ・アンドリッチの業績と人物に感じて始めたプロジェクトだと説明してある。
プロジェクトは正式にはAndricgradといい、ヴィシェグラードの歴史と文化にちなんだ建築物の集合体、愛称は石の町だ。中心になる建物はAndric Institute で出版、教育、研究事業などを行うとしている。HPの全体がまだうまく統制されていなくて、全貌を知るには記述も不足、そのうえセルビア語だけの部分もあったりするが、とにかく何もかもがクストリッツァ頼りみたいな感じも受ける。しかし建前はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦国を構成する片方のスルプスカ共和国の公式事業である。スルプスカ共和国はセルビア人共和国と考えるほうがわかりがよさそうだ。
ドリナ川とルザブ川の合流点に向かって半島のよう形の地形の川岸にさまざまな様式の建物が並ぶ。イスラム教のモスク(ただし実用向きではない)とミナレット、続く広場には隊商宿、ビザンティン様式の建物、広くはないが二重帝国の建築物の区域、すべて町が歩んできた年代を示している。本通りには映画館があり、カフェやアイスクリーム・パーラーなどのある広場に向かう。カフェの名前はアンドリッチが愛好する画家の名にちなんでゴヤという。そのほかにニューヨークの芸術家たちによる巨大なポートレイトなど。これらは映画のセットとテーマパークとお遊びのごった煮だ。クストリッツァの本能の赴くままに作ったそうだ。
ファイナンシャル・タイムズ(以下FTと略す)のサイトに記者がこの新しい街を訪ねたリポートが載っている。
今年は第一次大戦が始まって100年とあって、各地でいろいろな行事があった。FT記者のリポートで見るとサラエヴォとヴィシェグラードでは100年記念の取り上げ方に温度差があるようだ。サラエヴォでは第一次大戦の周年記念であるが、ヴィシェグラードでは暗殺100周年である。
戦争のきっかけとなったオーストリア―ハンガリー二重帝国の皇位継承者フェルディナンド大公夫妻を暗殺した記念日として気勢を上げる行事になっている。
新しい施設アンドリッチグラードの公式開場式典も、暗殺記念日の6月28日に行われた。そしてその開幕は暗殺犯ガヴリロ・プリンツィプと青年同盟の同志たちを描いた壁画の除幕式だった。テロリスト変じて英雄としてたたえられる。スルプスカ共和国の公式行事がこういうことになっている。CNNニュースサイトでは、サラエヴォではテロリストか、英雄かとの意見が混在していると報じられていた。
『アンダーグラウンド』のクストリッツァ監督はセルビア人の野蛮さをあげつらうとの非難を受け容れずに批判された。監督の考えでは、ユーゴスラビアは連邦の誰にとってみても最善の解決法だったのに、それが消えてしまった。あの映画はユーゴスラビアへの書置きのつもりなんだという。
クストリッツァは彼の地元での出来事に政治的意味合いを持たせることは嫌う。その代わりに人々がほとんど本能的にむき出しにする暴力を写し出す。これが彼のやり方だという評価だ。アンドリッチにも似たようなところがあるとして、彼は短編『1920年からの手紙』(1946)の文章を引く。(日本では『サラエボの鐘』(1997恒文社)に「サラエボの鐘」として収められている。)
ボスニアは憎悪の土地です。時折あからさまな憎悪に転嫁する無理解が一般的な住民の性格です。異なった宗教間の溝はあまりにも深く、憎悪だけが時に溝を超えることができるほどです。君たちは、自分たちの愛や炎のように凶暴な感情の火花によって、時折点火される爆薬の深い層の上で生きる宿命なのです。
クストリッツァはいう。
この部分を書くときのアンドリッチは過去よりむしろ将来のボスニアをみている。彼は「1992年からの手紙」と言っているようなものだ。
『1920年からの手紙』は我々の先祖がえりをしたかのような性質がどこから来たのか探求しようとしている。我々が粗暴に突き進む時に押す始動ボタンのありかを探っているのだ。
『アンダーグラウンド』も同じことだ。
アンドリッチグラードも開場記念のお祭りもすべてクストリッツァの計画通りに進んでいる。
これからも建設は続き、スラブ語研究や芸術・美術の新しい大学もできるし、劇場も作るという。多民族間が討議する基盤を創設するのだという。この街は平和主義のシンボルだという。
でも、1992年にはこのヴィシェグラードで忌まわしい事件が発生している。アンドリッチが情緒豊かに描いた橋の上で虐殺があり、死体は川に投げ込まれた。ひなびた風情のホテルの部屋ではセルビア兵たちによる強姦が連日行われた。民族浄化作戦で6割もいたムスリム人はほとんどいなくなった。アンドリッチグラードにかかわっている人は誰もこの話はしないし、どこにも説明がない。
アンドリッチグラードに小さな教会ができている。第二次大戦中に親ナチのクロアチア政党「ウスタシャ」に虐殺された6000人のセルビア人を追悼するものだそうだ。それはそれで結構だとしても1992年のセルビア人同士の方はどう始末すればいいのだろうか。他事ながら気になる。
ボスニア人のブロガーが紹介しているが、短編フィルムのドキュメンタリーに『For Those that can tell no tales』(話すことは何もないという人たちへ)(2013)というのがある。
オーストラリアの女優キム・ヴァーコーが『ドリナの橋』を読んでヴィシェグラード観光に来て、リゾートホテル「ヴィリナ・ヴラス」に泊り、橋の魅力を堪能して帰国した。帰国してから聞かされたのは橋が虐殺の現場であり、ホテルの部屋は強姦の現場であったということ。ヴィシェグラード滞在中はそんな話は聞いたことがない。これはこのままではいけないと、自分でパーフォマンスを作り上げてサラエヴォの舞台にかけたのが映像作家Jasmila Zbanic(ジャスミラ・ズバニッチと読むのだろうか)が作品にした。
女優キム・ヴァーコーが舞台で演じた独り芝居は「Seven Kilometers North East」という。題名はホテル「Vilna Vlas」の所在地の町の中心部からの距離である。
このブロガーは言う。クストリッツァはアンドリッチが小説で描いた橋をめぐるロマンを保とうとしているが、このドキュメンタリーを見た人は、今進行していることが戦争犯罪を覆い隠そうとするものだとしか思わないだろう。ボスニア人のズバニッチがクストリッツァからヴィシェグラードを取り返した、やったぜ、と書いている。
これは昨年12月投稿のブログだから、これ以後クストリッツァの工事の進展は変わっているかもしれない。それにしてもボスニア人同士の抗争による悪夢のような事件である。覆水盆に返らず。スルプスカ共和国が公的に参画している事業でもある。観光客が増えている。どこにも過去を説明しないのだろうか。どのような決着が見られるのであろうか。
(2014/11)