2014年10月17日金曜日

読書随想 『ドリナの橋』 イヴォ・アンドリッチ 1945年 松谷健二 訳、恒文社1997 第4版(1966)

『ドリナの橋』

著者イヴォ・アンドリッチ(1892/10/9-1975/3/13)、ユーゴスラビア、作家、詩人、外交官、1961年ノーベル文学賞を受賞した。



ドリナはボスニアとセルビアの間を流れる川の名前。サライェボから東に向かう街道にできた川沿いの街ヴィシェグラードはコンスタンチノープルに通じる交通路の要衝であった。1577年に急流のドリナ川に見事な石造りの橋が完成した。その美しい姿は現代にまで面影を保ち、2007年に世界文化遺産に登録された。正式の名をメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋という。オスマン帝国の大宰相の名だ。これが表題の「ドリナの橋」である。
橋の中ほどには、両わきにそっくり同じ形のテラスが張り出し、橋幅は倍にもなっている。この部分はカピヤと呼ばれる。門という意味である。テラスは泡立つ緑の激流をはるか下に見下ろす空間へ橋から突き出している。町から見て右手のテラスはソファーと呼ばれ、歩道より二段高く手すりにそって同じ石で腰掛けをとりつけてある。ソファーに向かい合った左手のテラスには腰掛けがなく、人の背丈をこす壁が立ち、上の方に白大理石の板がはめ込まれて、年代銘を入れた堂々たるトルコ語の碑文が刻んである。13行の韻文で、橋の構築者の名、構築の年などが記されている。壁の下の方には石造りの龍があって、その口からちょろちょろと水が流れ出ている。
ある時代までは、このテラスにはコーヒー屋が、深鍋、茶碗、火が絶えたことのないコンロご持参で店を張り、雇いの小僧が向かいのソファーに陣取ったお客にコーヒーを運ぶ風景が見られた。


こんなのんびりしたことだけではない。カピヤは慶弔の儀式の場所でもあり、処刑場でもある。何度も首がさらされた。トルコやオーストリアの布告文もここに掲示される。文字の読めない者は誰かが読んでくれたり通訳したりするのをじっと聞き入る。聞いてもはじめはピンと来ないことが多い。そのうち何かが変わってくるのだ。喜ばしいことはめったにない。

橋の工事が始まってから人々の上には大変な災難が降りかかった。総監督が傲岸無慈悲のアビダガだったからだ。工事を妨害しようとした農夫は生きたまま木の杭で串刺しにされた。犯人を捕まえられなければ同じように串刺しだと脅された警吏は、犯人が捕まって刑罰を逃れた嬉しさのあまり発狂してしまった。狩り出された人々は賦役だ、賃金をもらえない。農事ができない。
橋が完成したとき、総監督のアリフ・ベイが大祝宴を開いた。失脚したアビダガに代わって3年目から指揮を執った。
たぐいまれな正直さをもち、まかせられた金子のすべてをきめられたことに注ぎ込み、自分のふところには一文も入れなかったこの男は、民衆にとりこの祝宴の大立者であった。宰相よりも彼についての話のほうが多かった。だから彼を中心とする祝宴も見事で豊かなものとなった。
監督と人夫達には金と着物が贈られ、貧乏人には肉や甘いものが分配された。暖かいハルヴァ(プディングのような菓子)が配られた。日本の昔の餅まきを思い出させる。読んでいても嬉しくなる。 


トルコ人、セルビア人、ユダヤ人ほか、それぞれイスラム教、セルビア正教、ユダヤ教を信仰する人びとが行き交い、住みつき、それぞれの言葉で語り合いながら暮らしていたこの町でこんなに嬉しかったことはこのほかには物語には出てこない。
著者のアンドリッチは幼少時を、ここヴィシェグラードで橋と共に過ごしてきた。ボスニアの言葉で「橋」は「モスト」だが、表題の「ドリナの橋」では住民の言葉で「チュプリア」と書いている。トルコ語がスラブ語的になまった方言らしい。

24の章に分かたれた物語はすべてヴィシェグラードの人々の暮らしにかかわっている。雑多な人々の物語だ。橋が何をするわけでもないけれども、何があってもいつも橋がそこにある。人々が気づかないうちに世は移り時代が変わってゆく。三百年余りにわたってのこんな感じを淡々と語る物語文学である。これがすなわち歴史だと思う。

橋は人びとの繋がりと諸民族の共存を願う著者の哲学だ。著者が生きた当時のユーゴスラビアは、今はもうない。1961年にスウェーデン・アカデミーは「自国の歴史の主題と運命を叙述しえた彼の叙事詩的力量に対して」著者にノーベル文学賞を贈った。その後のこの国の変容はすさまじい。恐怖でさえある。現在アンドリッチの生国ではその人物的評価は様々であり、必ずしも称揚されてはいないようだ。しかし、著者が語ってくれたおかげで、私たちはその作品から多言語、多民族、他宗教の人たちの集まりとはどういうものか、その生活実態、風習、考え方などを知ることができる。私には知らないことだらけだから、それなりに楽しむことができた。


橋に名前が残っているオスマン帝国の大宰相の伝記や偉業の数々はよく知られている。
16世紀のはじめ、武装兵を従えたイェニチェリ軍団の隊長に率いられた長い馬の列が急流の川に臨んだ渡し場に到着した光景から物語は始まる。非常に印象的で牧歌的、映画のはじまりみたいだ。テオ・アンゲロプロス監督の『ユリシーズの瞳』が古いフィルムで糸をつむぐ場面から始まるのに似ている。
イェニチェリというのは、オスマン帝国の軍隊制度で意味は「新兵」。デヴシルメという徴兵制度によって8歳から15歳程度のキリスト教徒の少年を強制的に連れ出して改宗させて兵隊や軍人政治家に育てる。
馬の背に振り分けられた籠には少年が一人ずつ肉まんじゅうを持って小さな包みといっしょにはいっている。隣村のソコロヴィッチからさらわれてきた、のちの大宰相もこの中にいた。
古ぼけた黒い渡し船、片目、片手、片足の気難し屋の渡し守に命を預ける。馬の隊列をどうやって川を渡したのか、想像をたくましくするが、1516年としか著者は書いていない。

いずれにしろ、橋がない頃には町もなかったのだ。60年たって1577年に橋は完成した。何もない田舎の岸辺に橋が架かり往来が激しくなって町ができて広がってゆく。

ボスニアは現在のボスニア・ヘルツェゴビナの北半分の地域。二つの帝国の領土の奪い合いに数世紀さらされてきた。トルコのやり方は共同体の自治を重視していたように見える。だから人心も穏やかだ。トルコが退いて、セルビアが反抗的になるとウィーンは軍隊を送ってきた。町の人々は何がどうなったかよくわからないままに、気持ちが荒んでくる。言葉が違い、宗教が違う人びとの間ではお互いなにも気にならなければ平穏そのもの。些細なことでも何かが心のどこかに触ると、とげのようなものが飛び出してくる。人の心は不思議だが怖い。

1900年になると橋が修理された。自然との闘いで石橋もくたびれるのだ。続いて橋を利用して対岸の高い山から水道が引かれた。こういう工事の間はカピアが使えないから住民の日常の過ごし方は何やら落ち着かない。さらに1903年には鉄道が敷設された。右岸の街はずれに駅ができた。サライェボへ行く線路は橋を通らなかった。この辺の事情は物語の範囲を超えたからであろうか著者は触れていないが、線路ははるかに遠回りして上流で川を渡った。鉄道が通ってみると、サライェボに行くにも橋はいらないし、2日が4時間になった。情報も人の往来も速度が上がった。人間の質も変わる。考える事柄も変わる。全体が何やら落ち着かない。不安を抱えて人々は訳も分からずに生き急いでいるかのようだ。

話が前後するが、オーストリア軍が占領した後には役人たちが続き、次いで各地から商人たちが入り込んで住みついた。ドリナに橋が架かったころに移住して来てからこの方、数世紀ここに住み着いているスペイン系のユダヤ人セファルドのほかに、アシュケナジというガリツィア系のユダヤ人もあらわれた。後述する旅人宿がさびれた跡地にホテルができた。経営者ツァーラの義妹で美人の未亡人が采配を振るった。「橋ホテル」の名前は自然に女支配人の名をとって「ロッティカ・ホテル」と呼ばれた。うわべは華やかで客から金を巻き上げるしたたかさの陰で彼女は貧しい人々や乞食には食物や金を恵む慈善のような振る舞いもしていた。クラカウの近くにのこる一家の兄弟やいとこたちなど、1ダースほどの東ガリツィアのユダヤ人一族に手紙と為替を送って心の張りを保っていた。しかし30年ほどのちにはホテルも立ち行かなくなり、援助していた親戚縁者も不幸に襲われるなど社会情勢は一切彼女に味方しなかった。最後はオーストリアとセルビアの砲弾が飛び交う下で壊れたホテルを立ち退き、対岸のトルコ人の家に避難するが老齢と精神の異常に痛めつけられ横たわることしかできない。一生懸命に生きた挙句がこうだ。

メフムド・パシャは橋のたもとにキャラバン・サライも建設した。無料の旅人宿である。経費は攻略したハンガリーからのあがりで賄った。百年経過した頃トルコがハンガリーを失って維持ができなくなった。それでも管理人の家系という精神を頑固に守ってきたのが老人のトルコ人アリホジャだ。いつの時でも、町の空気が変わろうとするとき、新しい事態にはまず疑問を抱き、自分の頭で考えて生きてきたが、だんだん時代に取り残される。だが信念は揺るがない。橋は神がなしたもうた善だ。その橋を壊してよいはずがない。撤退するオーストリア軍によって橋が爆破された時、狭心症に苦しみながらアリホジャも息絶えた。このトルコ人はいろいろな場面で自説を説く。どこか東洋的な心が感じられる。一番印象に残る人物だった。

モンテネグロから来たグスラ弾きが二度ほど登場する。グスラは小さな一弦琴のような楽器らしい。最初は橋の建設飯場で賦役農夫に囲まれて、次は橋の上、カピアでホテルに入れない貧しい人々の中で。歌うのは英雄叙事詩、
比喩のヴェールをかかげながら、彼は露と王者の草の姿をまとったセルビアやトルコのほんとうの願いと運命を語り出す。すると聞き手たちの感情はすぐに分かれ、各人が心に抱き、願い、信じているものに応じてそれぞれの道に散っていく。だが彼らはある不文律に従って歌の終わりまで耳をかたむけ、辛抱強く控え目な態度をとって、自分の感情は絶対に外には出さない。ただ目の前のグラスをじっと見つめている。そこのラキア酒のきらきらする表面に、どこにもありはしない勝利とか戦闘、英雄、名声、光栄などを見ているのだ。
著者が語る物語をいちいち取り上げているときりがない。橋が一本の筋となって通ってはいるが、終始抑圧されてきた人々の姿だ。こういう人たちの気持ちというのは日本人にはわかりようがないと思う。可哀想などというのは全く違うだろう。何世紀もの間、頭を押さえつけられることに慣れるのだろうか、生き続けてきた彼らはつよいと思う。

サッカー日本代表チームの元コーチ、イビチャ・オシム氏が、今年のブラジルW杯にボスニア・ヘルツェゴビナのチームを送り出すことに成功した。三つに割れていた協会をまとめ上げたのだ。
反対勢力も多い中で、これにはまさに命がかかっていたことだと想像する。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0622/ 


元日本代表のプレーヤー宮本恒靖氏もボスニアで子どもサッカー教室を開いているそうだ。その教室の名前を「マリ・モスト(小さな橋)」という。かつて戦火を交えた民族の子供の間に「心の橋」をかけるとの願いが込められているのだそうだ。ご健闘を祈る。

『ドリナの橋』は長い物語だ。時々取り出して読み返すという読み方もいいだろう。読むたびに、知人に再会した気分にもなると思う。いつまでも図書館においてほしいな。


2014/10
http://www.visegradturizam.com/english