2018年12月12日水曜日

日本武尊 露伴と『日本書紀』

幸田露伴の「日本武尊」
この間、澁澤栄一のことを少し調べたときに読んだ露伴全集第17巻には渋沢栄一伝を含めて史伝6篇がおさめられてあり、なかに「日本武尊」が入っていた。読むでもなく眺めると、書きぶりが面白い上に、言葉についての探求がこの人らしく、惹かれるものがあったので一通り読んでみた。日本武尊という人物は実在しないというのが今日の定評であるけれども、ここに収録された文章のもとは昭和3年の新聞連載である。探究心旺盛だった露伴のことであるから、日本の古代についてはある程度、それも並の人以上に知識を持っていたろうと思う。素知らぬ顔をして淡々と語る叙述には、執筆者の用語、記紀に表現された和漢の言葉、また、それぞれの音声と文字、今と違う漢字の使い方など、筆者の関心が強いところが次々に繰り出されてなかなか興の深いことであった。すべてを書き出すことは出来ないが、かいつまんで記しておこう。

本文に先立って「緒言」が2頁半ほどある。講談師の枕のような語りで理屈が述べてあるが、真面目風でいて面白く述べるのがこの人らしい。時代や境遇の違いが大きく懸け隔たっている物事を理解することは難しいことだから、それを人に伝えるには、余程注意して控えめにしなくてはならないと心得を説く。今を以て古をはかり、己を以て他を律することは慎めと諭す。こういうときに露伴はなんとレンズの講釈を持ち出すので不意をうたれる。歪みや色収差の多い硝子鏡(レンズ)から覗いたままを真実とするとき、往々にしてレンズの持ち主の身勝手であることが多いものだと訓戒を垂れる。「クラウン玻瓈(ガラス)から覗いた世界は如実であるやうでも色収差に累(わずらわ)せられている、単レンズから覗いた世界は如実であるやうでも歪んでいる。自分がクラウンガラスの単レンズであろうことを憂ふる心づかひを存せぬ譯にはゆかぬ上からは、餘程謙遜した、控へ目の料簡を以て、古の勝れた人々に對したい。……」このあとにフリントグラスやら半球蛍石やらエナガラスやら、聞き慣れない語彙が並ぶ。どれも今でも生きている光学系の用語である。「…レンズが優良で無い時は、精々遠慮して絞りを強くするのが忠実に写真を撮る道である。是非はありません。控え目に、小心に、十分に絞りを入れて、今レンズの蓋を明けまする」と述べて緒言を終わる。
本文は一から四十に分けられ、150頁余り、日本武尊の出生から西征と東征までの事柄について、日本書紀にもとづいて、ときには古事記の記事とも比べながら語る。昭和3年の新聞に連載した文章だが、ことは皇室に関わる題材だけに敬語がしっかり使われている。そのぶん時代のなせることではあるにしても、露伴の生真面目な精神が窺われて好もしい。それだからといって堅苦しくはなく、古い言い伝えの荒唐無稽さをも楽しむ雰囲気をもたらしている。たしかに露伴はこの作品をたのしんで書いたろうと思える。
さて、本文は次の文で始まる。
日本武尊(やまとたけのみこと)(ママ――筆者注)の御上を意(こころ)の随(まま)に記したり談(かた)つたりすることは、まことに畏れ多いことである。それは尊(みこと)がただに皇子の貴(たっと)き御身であらせられたといふばかりで無く、また皇朝第十四代の足仲彦(たらしなかつひこ)天皇、御諡號(おんおくりな)仲哀天皇の御父君にわたらせられた御方であるといふばかりで無く、我が国家人民のために、いろいろと御労苦あそばされて、そして大いに皇化を賛(たす)け、世益を圖らせられた御方であり、そして又大勲偉業を立てさせられたにもかかはらず、光栄幸福の日をおくらせられるにも及ばずして、御壽も猶ほ花ならば咲きの盛りに至らず、月ならば光の圓(まどか)なるを示されざるほどの御齢(おんよはひ)に、口惜しくも嵐に散り、雲に隠れさせたまうたゆゑに、千七百餘年後の今に於いても、尊の御上を思ひ奉れば、誰しも胸の中に何とも申し難いやうな肅然たる感を抱かずには居られないからである。ただし今尊の御上を、かにかく申すのも尊を思いしのびまつる餘りのことである。まことに畏れ多く、罪得がましいことではあるが、しばらく宥恕(いうじょ)を得たい。
こういう調子の日本語は久しぶりである。読んで快感さえ覚えるのはわが歳のせいか。「罪得がましい」など何とも奥ゆかしく響く。千七百餘年後の今、とあるが、これは新聞に連載した昭和3年のことだ。昭和15年に紀元2600年祭というのが催された。当時7歳の筆者は、祖母に連れられて寒い中を橿原神宮に詣ったのはよく覚えている。「キゲ~ンワニセ~ンロッピャクネン」と歌う歌もあった。
神武即位を西暦紀元前660年と決めてかかっての2600年目が西暦1940年すなわち昭和15年に当たる。露伴先生はこの皇紀創出作戦とは無関係のはずだから、何らか別の根拠で1700年余りの時間経過を考えていたわけだろう。いずれにしろ、人か神かもよくわからない実在が疑われる存在の履歴であるから、とは言わないまでも、露伴は系譜やら紀年については、あまり真っ正直に考えないほうがよいと、それとなく教えてくれている。

文には日本武尊は第十二代景行天皇の第二皇子とある。原文を見てみよう。日本書紀は漢字だけの文で、読みや注釈を示すときには少し小ぶりの漢字を用いた。ここでは[ ]内に示す。日本武尊についての記事は、『日本書紀』では「景行天皇紀」に記述されている。これは尊が若くして亡くなって天皇にならなかったからの扱いである。
二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬[一云、稻日稚郎姬。郎姬、此云異羅菟咩]爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。[一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。]其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男[童男、此云烏具奈、]亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉。 
概略を訳す。(景行天皇は)3月3日播磨のイナヒノオオイラツメを立てて皇后とした。皇后は男子を二人生み、第一の子を大碓皇子(オオウスノミコ)、第二の子を小碓尊(ヲウスノミコト)と申された。この二人は同じ日に生まれた双生児であった。天皇はこれをあやしんで臼にちなんだ名をつけた。この小碓尊はまたの名を日本童男(ヤマトオグナ)、また日本武尊(ヤマトタケノミコト)と申される。幼くして雄略の気があり、壮年には容貌魁偉、身長(みのたけ)は一丈あって、その力は鼎(あしがなへ)を持ち上げられた。

私たちが普通にヤマトタケルノミコトとよぶに対してヤマトタケノミコトとしてあるのはどこから出たものなのか。一説にタケルは悪い評価のある人への称え、尊い人にはタケとするというが、定説はないようだ。ここに云う「またの名」は自称ではなく、人よんでこの名もあるという意味だと思う。
双生児が生まれることを異とする理由はわからないが、露伴はお産がなぜ臼と関連するのか考えようとしている。ウスにはいろいろあるが、碓は「からうす」を意味する文字である。だからといって字面にこだわるのは了見が狭すぎる、広く伝承を探れば何かあるのかもしれないと、徒然草まで引っ張り出して各地のウスに関する民俗伝承をいろいろあげて読者を楽しませてくれるものの結論はない。

原文をうかつに読めば、后を娶ってその年に男子二人が生まれたかのように見えるが、そうではないと読み方に注意している。それは(天皇在位の)27年冬10月の条に日本武尊を遣って熊襲を討たせる話があって、そこに年16とあるからである。したがって、日本武尊の生年は天皇の御代第12年の生まれとなる。この天皇は治世60年の冬に御崩(かく)れになリ、御年106歳とあるから、逆算して、この時天皇は58歳になっていた勘定だ。日本武尊の生年はそれでいいとしても、天皇の年齢については考えないほうが良かろうと諭す。景行天皇については父垂仁の37年に皇太子となって、21歳だったと紀にあるから、在位99年の垂仁が崩じて、景行が即位したのは83歳となり、治世60年なら143歳で崩御のはず、先に述べた106歳と食い違う。これは一例であって、一人の天皇だけでも幾通りもの人生が出てきかねない。
露伴いわく、「一體に古史の紀年は甲乙の齟齬が多くて、深く憑(よ)るに足らない。それは上代に暦術が精(くわ)しかったり、記録係が備へられたりした譯では無くて、文書の事が起ってから後に推算逆行して歳月を記したものであるからで、記紀の出来た前に既に種々家々の記も存して居たらうことは疑も無いが、それらの記にしても然程(さほど)遠い古から出来たものでは無からうから、数百年を隔てた歳月の注記などが精確であり得る道理は無い。[……]むしろ疑はしきを疑はしとして錯誤脱漏あらんと思って置くが宜い。重箱の隅を楊枝でせせっても得るところは無からう」と述べている。

話は前後するが、露伴という人は言葉に敏感に反応する。古代のいわゆる大和言葉による語彙を一つ一つ慈しむかのように検討する。「碓」のことや、「おぐな」についてなど、個々の例をいちいちここにはあげないが、それぞれ頁を費やすに暇なしである。かと思えば漢語の方にも博学ぶりを覗かせる。例えば、雄略について。いまの私達は雄略と字を見ただけであらかた見当はつくからそれでよしとするが、露伴はいちいち立ち止まらなくては収まらない。雄略は「一つの語とも取れるが、漢文の辞法で雄才大略をいふ」のだそうである。「谷川士清は実に詳しく紀を読んでいること敬服すべきだけれども此字面を看過してゐるが、秦鼎(はたかなえ)は流石に漢学者で、これを漢武紀に本づいてゐると指摘してゐるのは、人各々其道によって賢いものだ。雄材大略は漢書の語で、漢の中で最大膨張を敢えてした「武帝を贊した班固の語を採り用ゐて…熊襲、蝦夷までを掃討して天日の光を廣布された尊の御上を、幼にして雄略の気有らせたまひ、と紀の撰者が筆を下したのは、まことに感服なもので、所謂良工に苦心多きものであるのに、庸人多くは做す等閑の看で、うっかり讀過しては濟まぬくらいのものである」とあって、あとは日本書紀の文章が一代の最高才識の結晶であると賛美する。
古人は良い本を熟(よ)く讀んで、じっとりと味はってゐるから、其の發するところの文も、片言隻語亦おのづから來歴ありで、中々手堅い美(うま)いことを爲(し)てゐる。紀の文章なども、日本文学草創時代では有り、漢文を以て國史をものするといふ難局にも當面してゐるのであるから、其の困惑の情状は推察に餘りあるのであるが、それでも全體を通じて論ずれば、どうして中々立派に出来てゐるのであって、用語措辭に至っては感服すべき用意が盡くされてあることを否むわけには行くまい。紀の文章語辭の出典のあらましも見透せぬ分際で兎角を云ふのは、自ら省みて差控へたいことである。壯に及びて容貌魁偉、身長一丈、とあるのなどは、たゞ然様(さう)いふことを然様(さう)記したまでであろうから誰も注記もしないが、後漢書郭太傅に、身長八尺、容貌魁偉、とあるのと字面も辭氣も甚だ近いものがある。力能く鼎を扛げたまふとあるのは前人も指摘して居るが、史記の項羽本記に、籍長(せきたけ)八尺餘、力能く鼎を扛ぐ、とある其の四字一句を其儘移したので、尊の御勇力のほどを譬喩的にあらはしたのだが、此等は我知らず胸中の文字に累されたものであろう。鼎(あしがなへ)などいふものが此時代に餘り無かったものらしいから、まだしも宜いが、若し鼎が数々當時の談話中にあらはれて、そして重いものとされてゞも居たならば、甚だ好ましからぬ文飾であった。
このように述べておいて、そのあとに身長一丈や八尺の寸法論議が5頁ほども続くが、面白いけれども煩わしいから省く。それよりも身の丈高く容貌魁偉で力が強い人となりならさぞ乱暴者でもあったろうと想像させる記事が古事記のほうに見出される。御兄君を拉(とりひし)がれた逸話である。
御父天皇が小碓命に詔(の)りたまふやう、何とかも汝(みまし)の兄(いろせ)の朝夕(あしたゆうべ)の大御食(おほみけ)に参出来(まいでこ)ざる、専(もは)ら汝泥疑(ねぎ)教へ覺(さと)せ、と詔りたまうた。然るに如是(かく)詔りたまひて以後(のち)、五日といふまで猶も参出たまはなかった。そこで天皇が小碓命に問ひたまふには、何ぞ汝の兄の久しく参出ざる、若し未だ誨(をし)へず有りや、と問ひたまうた。尊は、既にねぎつ、と申したまうた。如何さまにか泥疑つる、と詔りたまうた。そこで尊は答へ白(まを)したまふに、朝曙(あさけ)に厠に入りたりし時、待捕へて搤㧗(つかみひし)ぎて、其枝を引闕(ひきか)きて、薦に裹(つつ)みて投げうちつ、と答へたまうたといふことである。記には又直(すぐ)に其段につづけて、そこで天皇は其御子の猛く荒き御情(みこころ)を惶(かしこ)みまして、それから、西の方に熊曾建(くまそたける)二人あり、これ伏(まつろ)はず禮(あや)無き人どもである、其人等(ひとども)を取れ、と詔りたまうて、そして尊を西方にお遣はしになった、と記してゐるのである。天皇が尊の勇猛をかしこみたまふと云ふが如きは、天皇の御心中に立入ったことで、甚だ以て慎言の用意に遠いことである。もとより記さなくても有るべきことである。…尊が兄王を扱われたこと、及び天皇が尊の勇猛をかしこみたまひたること等は其事も不分明であるし、其情も未だ必ずしも然らざるべきものであるから、疑はしきを闕(か)き、晦(くら)きを袪(しりぞ)けて、諱(い)みて書さなかったのであらう。我等がかゝる事をかにかくと談(かた)るのは、古を考へて詳(つまびらか)ならんことを欲するの意からとは云へ、齊東野語の陋に陥ってゐるもので、本来は深く論ぜぬ方が賢いことであらう。
また後ろの方で、尊の仕業も言葉だけのことかもしれず、本当にあったこととも思われないような書きぶりをしている。「諱みて書さなかったのであらう」とは、筆者の都合で露伴の話の一部分を抜かしてしまったが、尊の荒業は『日本書紀』には書かれていないことを指している。

食事時に出てこないことについて、人間にとっての共食は大昔から禽獣とは異なる人の道、礼として大事なことと訓戒をたれ、ことに大御食は宮中儀式としても大切であったであろうと例によって諄々と説いて、皇子が勤める必要もあった場合もあったとしている。泥疑を音で読ませて字義を持った文字を当てていないのは、ネギの語が含蓄が多すぎるくらいの語であるからだと、7世紀の渡来人の官僚の心遣いまで思いやって述べているのである。
ねぎといふ語は禱(いの)るのもそれである、犒(ねぎ)らふのも無論それである、願ふのもそれであるが、和(な)ぎ、和ぐ、和(なご)し、和む、和(にぎ)ぶ、にぎはふ、なだむ、なぐさむ、撫(な)づ等の語と聯(つら)なってゐる語で、そして祈禱願求犒労等の意にもなり、神に仕ふる者をねぎ、なぎなどともいふのである。参出べき筈の皇子が参出られぬのは、何かいぶせく心晴れぬものが有るからなのであらう、それを然様(さう)で無いやうに、泥疑教へ覚せと宣うた」わけであるから、ここは「和(なご)しく優しくといふやうに解したい。」「泥疑の一語が含蓄甚だ多くて、禱、願、犒等の字を用ゐただけでは其の意義景象を盡し難い趣が有り、且邦語其儘を用ゐた方が、写し得て霊活なので、そこで文面上には見づらく無くも無いが、泥疑と借音文字を敢てしたのであらう。
大碓皇子の大御食不参にまつわる逸話の結末は曖昧朦朧として霞の彼方である。不参の理由も父天皇の命に背いた行為をしてしまった大碓皇子自身の心のとがめにあったことが後に語られてはいるが、ただ読み過ごすだけで面白ければいいようなことだ。
何がどうしたところで、すべてがおそらく伝承である。岡田英弘著作集「日本とは何か」によれば、ヤマトタケルは天武天皇の影であると断じる。壬申の乱の出来事がすべて二重写しに記されていると明らかにする。古事記は日本書紀より後に書かれた。古事記にあって日本書紀にない事柄は日本書紀が求めた風土記が日本書紀完成時に間に合わなかったためであり、そのため日本書紀にない事柄が古事記に載せられることになった。大御食にまつわる変事もいまは失われた風土記の何処かにあったのかもしれない。岡田氏は『古事記』は偽書であると断言されている。ここに詳しく引用することは出来ないが、平安朝の作品だそうである。平安朝文学の傑作と評しているが古代の真実に迫る手掛かりとしては役に立たない。兄、天智天皇の息子である大友皇子を、実力で倒して皇位を奪った天武天皇が着手した国史の編纂は、681年から39年かかって720年に完成した。これが『日本書紀』である。日本最古の古典であるが、最古は必ずしも真実ではない。ちなみに『古事記』の序文の日付は和銅5年、すなわち712年、太安万侶の名はここにだけ出ている。風土記の編纂が命じられたのは713年だ。あとから書いた『古事記』にはより多くの風土記の内容が盛り込まれている。「因幡の白うさぎ」の言い伝えもその例である。

露伴がいくら詳しく考証しようとも伝承が史実に変わることはないが、考証してくれている事柄はおそらくどこかにあったはずのことであろう。その考証の過程から地名の変遷、言葉の意味の変化、伝承芸能の誕生、まつりの発生、暮らしの習俗の変化などが生じてきたことなどが考えられる。日本文化の探求として興味がそそられる。筆者はもっと直接的に露伴の遺した文章表記に興味がある。ことば、音声、文字、漢字、漢語、など。明治の頃に西洋知識を吸収しようと西洋文字の文章に取り組んだ人々は漢英辞典を利用したと聞く。ならば以後日本文に使われている漢字の熟語には本来和語であるべきものに漢語が当てられていることもあるだろう。西洋語が意味した内容を日本語用の頭脳で考えて日本語にした場合とのずれもあるはずだ。露伴の文字の使い方にはそのあたりがうまく出ているように思えるので深く読んでみたい。たまたまヤマトタケルに出逢ったが、筆者にとっては話の中身は史実でなくても構わないのである。この度はこのような関心から書き出したのであったが、あれこれと目移りがしてまとまりのないことになってしまって残念であるがこのままにしておく。
そうそう、『日本書紀』景行天皇紀の「二年春三月丙寅朔戊辰」がどうして今でいうところの「二年春三月三日」であるとわかるのか。これまでは詮索するのが面倒だからフンフンと読みすごしていたのだったが、今回リクツを勉強した。十干十二支をあわせた六十干支表を教わった。インターネットは誠に重宝な道具であるにしても、それを使って細かく説明してくれる方もいること、原文の提示も同じく、本当にありがたいことに思う。
読んだ本:『露伴全集 第17巻』(岩波書店 昭和54年第2刷、第1刷昭和24年)(2018/12)





2018年11月27日火曜日

渋沢栄一と幕末の農村ブルジョアジーの世界

山本七平著『近代の創造』(1987年 PHP研究所)。「渋沢栄一の思想と行動」という副題がついている。先般来読んできた黒船関係の事柄のうち、日米通貨交換比率の問題を通じて徳川幕府の金銭感覚に疑問を感じた。この本には社会史のように日本の農村経済の秘密が書かれている部分がある。ただし、自分が知らなかったというだけの秘密だが。
渋沢栄一の伝記ではなく、前半生の銀行を設立する頃まで、当人と影響を受けた人たちの暮らしと時代を描く。著者の意図は明治時代を生んだ前時代に胚胎されていた「何か」を探ろうとしたという。筆者はこの著者になんとなく親しみを感じているので七平氏と呼ぶことにする。
初出は雑誌『Voice』、昭和59(1984)年1月号から昭和61(1986)年3月号(但し、昭和60年4月号は除く)に連載された。章立ては雑誌の号を追って立てられているようで26章ある。ここには筆者の関心に沿ってはじめの二章から話題を拾って記すことにする。山本七平氏はこの本を上梓して4年ののちに膵臓がんで亡くなっている。69歳だった。小さな出版社を趣味のように営みながら読書と執筆を重ねていた。生前、大評判になった『日本人とユダヤ人』をはじめとして、かなりの量の著作が上梓されているが、書評や著者評に本書が取り上げられていることは殆どない。これはどういうわけだろうか。しかし、話題が各方面にわたって、それぞれに面白く、本好きの著者だけに一様でない分野からの引用も楽しめる。
尾高藍香と生家(埼玉県深谷市)

 渋沢栄一の若き日に薫陶を受けた尾高藍香という人物が登場する。藍香は世界遺産に登録された富岡製糸場の建設から携わった初代場長尾高惇忠である(以下藍香でとおす)。学問によく通じていた藍香の経済哲学は独学であるが、その貨幣論は栄一が民部省(大蔵省)に出仕したときに参照した米国の経済学者ケリーの貨幣原論とよく似ているので驚いたという。藍香が幕府の崩壊を予想した「伝馬制度」と「貨幣制度」が紹介されている。金銭に関する話題では領主から命じられる御用金の用立てが本書第一章の逸話にある。


栄一が17歳のとき領主陣屋から呼び出しがあり、父の代理で出向くと代官に御用金を命じられ、宗助には千両、栄一の家には500両が割当てられた。すでに2千両あまり調達している、つまり貸しがある上でのことだ。栄一は父の代理で出頭しているため、御用の趣を持ち帰り、父に申し聞かせた上であらためてお受けに罷り出ますと答えたところ、17歳にもなっていながら、わからないやつだ。その方の身代で300両や500両は何でもなかろう。この場で直ちにお受けせいと迫られたという。散々叱られ愚弄されたが、ともかくもそのまま戻って父に話すと、それがすなわち泣く子と地頭で仕方ないから、受けてくるがよろしいと言われた。『雨夜譚』*からの話である。
 *岩波文庫『雨夜譚』のカバーには「あまよがたり」と振り仮名がある。七平氏は「うやものがたり」とルビを付けている(20ページ)。

ここに登場する宗助は藍香の父であり、下手計(しもてばか)村の名主、一番の物持ちと言われていた。次が栄一の父市郎右衛門である。栄一は19歳で妻を迎えているから、この時代の17歳はもう子供ではない。それでも100両といえば大金だ。この逸話に合わせて七平氏は明治の政治家星亨の父親の左官屋が娘を女郎屋に売った値が1両2分だったという文書が遺っていることを引き合いに出している。そもそも庶民の暮らしは銅銭であって、文の単位だ。両というお金の重みは庶民、百姓にとっては大変なことだった。それが300両、500両は何でもなかろうという言いぐさである。ずいぶん勝手なものだが、それが泣く子と地頭の俚諺である。ときの領主、岡部藩主は安部(あんべ)摂津守といい、所領は武州と參州にあった。武州分は5千2百石だったとある。調べてみると、安部家は関ヶ原の勲功で所領を安堵され、所替えなどのことは末代までなかったというから、悪い藩主ではなさそうだ。それでもこの幕末には例に漏れず窮乏していたのであろう。御用金とはていのいいタカリであって、領地に居る代官が言いつければ御用達を受け持っている名主が届けてくる仕組みで年貢とは別である。

いっぽう領民の方はどうだったか。栄一の村、血洗島(ちあらいじま)の当時は戸数約50、石高346石2斗9升5合の小村だったから、五公五民として、半分を税金に取られれば173石1斗5升弱の収入となる。これで50軒が生活するとなれば、とうてい足りるはずがない。それでも暴動もなく平穏であったのだろうか。
血洗島村や下手計村は地図で見てもわかるように利根川に近い。昔は堤防がないから増水すると辺り一面が水浸しになる。いわゆる低湿地帯だ。いつの頃からかわからないが、この近辺では藍を栽培することと桑を植えて養蚕をしていた。生活の知恵がそのようにさせたのであって、米作はしても少なかったはずだ。水が出るのはいわゆる「二百十日」前後つまり台風時期が一番危険である。米が稔るのはこの時期である。藍は収穫が7月だそうだから洪水は関係ない。桑の木は少しくらいの水かさには耐えられるし、蚕は天井裏で飼う。現代の洪水のように急激に襲ってくる水ではないから、防ぐ方も大層な工事にならない。藍玉の小工場は土盛りをして石垣があれば大丈夫であった。従って、産物は米でなく、藍と養蚕、麦、菜種等だった。七平氏は書いていないが、網野善彦氏によれば、この地方の年貢は米でなく、布や絹の産物で納めたようである。利根川の水運は藍の肥料にする銚子からの干鰯搬入に有利だった。産物でわかるように農業製品でありながら商業資材である。百姓であっても商人の働きが要る。尾高や渋沢は経営型農民(郷土史家 吉岡重三氏の分類命名)であって、経営に失敗すれば倒産する。どちらの家も先々代のときに倒産しそうになっている。藍の葉を熟成発酵させてつくる藍玉は染料である。片や養蚕は絹糸つくりだ。彼らの業種は繊維・染料メーカーである。藍玉は買い集めた藍に発酵技術で高い付加価値をつけて染屋に売る。買い集めには栽培技術や施肥の良否を見極める鑑識眼と経験が必要である。藍の仕入れは現金で、収穫期に集中する。藍玉を売った紺屋から代金を回収するまでの期間が長い。つまり一時に大量の資金が入用になり、時機を外すと仕入れ機会を逃すというやや投機的な要素が濃い。従ってこの仕事には運転資金の保有運用に細心の留意をしなくてはならない。頭脳明晰で人をそらさない才気と信用が要るこの商売は教養がないと難しい。彼らの学問は読み書き算盤に加えて実学である。体験から得る学問が要る。栄一の父の市郎右衛門は分家の尾高元助が渋沢本家に養子に入った人であるが、その父親の尾高宗助(宗久)がこの仕事の経営の名人であった。こういう次第で尾高、渋沢両家ともに高い手腕を持った経営型農家であったため、村の特産である藍と絹を外部の消費者に売って村を富ませてくれる位置にいた。これが乏しい石高でも無事に過ごせていた理由であった。御用金にも応じられたわけである。もちろんはじめは貧しかったであろうが、作物に知恵をはたらかせて営々と農作を営む傍ら、肥料や油を売る雑貨商(昔は百貨店といった)的なこともするし、余裕ができれば質屋を営む。このような手法は室町時代にもあったことは、角倉の事業を調べたときにも土倉と酒屋ができていたことでわかった。すべて百姓の知恵である。

栄一は6歳のときから父の手ほどきで読み書きを習い始めた。『雨夜譚』に、「最初は父に句読を授けられて、大学から中庸を読み…」とあるが、何もはじめからいきなり難しいものにかかったわけではない。露伴によれば、「それは古状揃・消息往来の類であった。いづれも当時の寺子屋、即ち、小学校で用いられた教科書であって、無論暗誦的にてんひつするのであった」となっている。これは七平氏の幸田露伴著『渋沢栄一傳』からの引用である。漢字から意味がわかると言いたいところだが「てんひつ」
はパソコンに文字がない。引用にはルビがないが、岩波書店がルビを付けてくれている。でも、意味を載せた大きな辞書が手元にない。多分、ブツブツと小声でつぶやくように言いながら暗誦したということだろう。閑話休題。


栄一が7、8歳のときに父は藍香に教育を任せた。藍香の教え方は独特で、四書五経など読みたければ読んだらいいが、それよりも好きなもの何でも読んでみよ、というやり方だった。「一字一句を初学の中に暗記させるよりは、寧ろ数多の書物を通読させて、自然と働きを付け、ここはかくいう意味、ここはこういう義理と、自身に考えが生ずるに任せるという風」であったという。おかげでずいぶん読めるようになって、通俗三国志とか里見八犬伝など面白さに惹かれて読んだそうだ。年をとって世の中の事物に応じる上で初めて難しい漢書の読みの働きが生きる、とは後年の栄一の理解である。読書に働きをつけるには読みやすいものから入るが一番よろしいと教わったという。なるほどいい先生だ。

用立て金の命を受けて領主の陣屋からの帰り道にいろいろ考えた。幕府の政治が良くない。人それぞれ財産はめいめい自身で守るべきはもちろんの事、人の世に交際するうえでは「智愚賢不肖によりて、尊卑の差別も生ずべきはず」である。いまの領主は年貢をとったそのうえに返済もせぬ金を、用金とか称して取り立てて、おまけに人を軽蔑したように愚弄し、貸したものでも取り返すように命令する、この道理はどういうところから生じたことなのか。あの代官は物の言い方からして教養ある人のようにも思われない。一体すべて「官を世々する」という徳川政治からこうなったので、もはや弊政の極度に陥ったのである。これでは先々百姓をしていると、彼らのような虫けら同然の知恵分別のない者たちに軽蔑されねばならない。なんとしてもバカバカしい。早晩百姓はやめたほうが良い。こんなことが心に浮かんだけれども父には言わなかった。

文久3(1863)年、藍香たちは徳川の世に反対して武装蜂起を計画するが、そのときに書いた「趣意書」には、封建の弊だとか世官の害だとか、上に述べた栄一の想いに似たような言葉が見られる。藍香は栄一の10歳年長のいとこであり、気心が通じて仲も良かった間柄である。ともに学問をするうちに世の中批判の精神が同じように生まれてきた。書物を読む働きから現実に対応して考える力が備わってきたともいえる。「趣意書」はまだ7,8年近く先のことであるが、この二人にはすでに徳川の世が変わり始めていることが感得されたということだろう。こういうわだかまりが発酵して封建制打倒の気運へと向かう。「趣意書」には「公平の制度を立て、公明の政治をしきて、民と共にこの国を守らむには、郡県の国体ならざるべからず…」とあって、いまの封建制を改めて郡県制度の国民国家にしなくてはならないと主張する。漫然と代々同じ仕事を継いでゆく制度がよくないというのが世官の害であり、これを打破して能力次第に人を用いる制度も必要という。このように単なる権力転覆などでない改革の思想を藍香はどこから得たかについて七平氏は藍香の蔵書を克明に点検して論じている。難しくて煩わしいからここには書く余裕がない。とにかく藍香という人は我が家に遍歴学者の菊池菊城という人を呼んできて塾を開いていたという学問熱心な人であり、その思想の動きはこの地方が水戸に近いということから、いわゆる水戸学に影響されやすいこともあった。ただし、水戸学に傾倒したわけではなく極めて合理的に判断していたようだ。

さて、「趣意書」をものして決起しようとした武装蜂起であるが、結末を言えば直前になって中止した。原案は高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜に繰り出して外国商館を焼き討ちしようとしたのであった。総勢36名、指揮官は藍香だった。折からの京都における長州藩の勢威に合わせたつもりの一策で、事前に様子を探りに出した親戚の長七郎が、一夜のうちに長州が逆賊になって、錦旗を奉じるはずの天誅組が大和で崩壊した事実を聞き込み、形勢不利と判断して大急ぎで戻ってきた。報告して中止を訴えたがすでに明日にでも打って出ようとしていた者共は聞かず、紛糾したのを藍香が冷静な判断でことを収めて、みなが無事に散ることが出来た。栄一ももちろん一味であって、後日一橋家に仕官がかなってから、役所から疑いがかかって問い合わせが来たが、用人の平岡に救われた一事がある。七平氏によれば、このときの藍香は、むしろ開港派であって、幕府体制のままでは屈辱開港が免れまいから、国民国家が樹立できてから開港すべしとの意見だったそうだ(『新藍香傳』)。

尾高藍香という人は早くから貨幣の価値が下がってきて物価に影響していることを見抜いていたと渋沢栄一はその見識に感心している。徳川の貨幣は慶長の頃が一番良質であった。以後改鋳によって大きさが変えられたり、品位が下げられたりの改悪が重ねられた。権力によって通貨の価値を保つ方式である。これでは政権が崩壊すると藍香は早くから話していたが周囲の人々は、はじめのうちはなかなかこのことが理解できなかったらしい。このことを説明するのに御伝馬の賃銭を引き合いに出したそうだ。御伝馬は五街道に用意された宿駅ごとに人や馬を準備して次の宿駅まで運送する制度である。人足や馬は近隣の農村から提供される。これは徴発と言ったほうがいいかもしれない。運送にかかる賃銭はおそらく慶長の頃に定められた、御定め賃銭、公定相場である。貨幣にだんだん変化が生じて、実質が粗悪になったために、運送の賦役に出る農村の人たちは大いに迷惑した。初期の頃は御伝馬の賦役は喜ばれた。農作業よりも馬を曳いたり駕籠を舁いたりの方が幾分か割が良かったのが、次第に迷惑がられるようになった。お定めの賃銭では引き合わなくなったからだ。渋沢の『新藍香論』から七平氏は引いている。

「慶長の当時では、小判1両が永楽銭で1貫文、京銭(鐚(びた)銭ともいう)では4貫文、銀で50匁替えと、このような相場であったと見える。右の伝馬の賃銭は両に4貫の鐚銭で、江戸日本橋から品川までが26文。同じく板橋までが30文であった。慶長16年制度のままである。慶長の1両が4貫文。それから割り出した26文、30文である。その額は改定されないで肝要な目標である慶長小判は1両が5両にも7両にも昇ってしまった。逆に言えば、当時の小判1両の購買力は慶長小判1両に比して5分の1、又は7分の1となってしまう。その上、両に4貫の銭が、6貫文と相場が下がると、これもまた5割の購買力下落で、昔30文を得た所へは、210文か240文を貰わねば、以前と同じ勘定にはならぬのに、御定め相場と称して、容易に改正されない。300年前と同じく26文、30文であるから宿駅は、甚だしく難儀をし、村方も大迷惑を感じてきた。」

引用が長くなるから少し端折るが、こうなると、御傳馬の通知が来ると、私共の馬も人も減らしてくれ、農事が務まらない、と苦情が続々でてくる。宿駅で足りないときはその周りの村、それでも足りないとその奥の村というように、助郷とか加助郷という制度にしたが、誰が遠く離れた里からこんな賃銭目当てに来るものか、といった具合で、論争やら竹槍、むしろ旗の乱闘さえ出る始末。渋沢がいうには、藍香はこの伝馬制度をいつも批難して、貨幣制度を誤った弊害が実にここに至ったのだと痛嘆していたそうだ。
それにしても、300年もの間、御伝馬賃銭を同じ金額のまま変えずにいたという神経には呆れる。変化のない世の中とはこういうことなのか、どうもわからない。

しかし、七平氏はさらに指摘する。伝馬制で苦しんだ農民はインフレ被害者だったが、このことだけを喧伝すれば典型的な「戦後史観的な徳川時代論」になって、すべての人が悲惨のどん底にいたような結論になってしまうと。一方でインフレ利得者もインフレ便乗利得者もいた。それが皮肉なことにその中に渋沢・尾高という農民もあったことを栄一は淡々と記しているとして、更に『新藍香論』を引用している。

「ところが村方では一面に田畑の税が永楽銭で定められて居ったから、畑一反について、永楽銭250文、即ち年に金一分(1両の4分の1)位であった。御伝馬助郷の賃銭が10分の1に価値が減ったと同時に、取られる方も10分の1程度で済むように相成った。田畑については知らず知らずの間に、税が10分の1に減じたと言うわけになる。減税はよいとは言いながら、上下とも当然取るべきもの、買べきものを、受けず与えずという会計の紊乱に陥ったのも、貨幣制度の乱れが原因で、この紊乱は、政治上の大欠陥だと藍香翁が唱え始めたのは、まだ安政に至らぬ前で、天保の末か弘化頃のことで、維新になるまで常に慨嘆しておられたようです。とにかく徳川幕府の滅亡は、他にもいろいろ原因がありますが、財政の紊乱、貨幣製の不整理が確かに一つの根本で、翁の先見の明が不幸にして的中したと申すより外ありません」

七平氏が解説している。「畑1反について永楽銭250文」は所得税というより固定資産税のようなものだ。「五公五民」は元来は所得税のはずだったが、幕府は、吉宗のときに、豊凶に関係なく、一定の税を田畑に課す定免税に切りかえた。これではその畑で粟や稗を作ろうと、付加価値の高い藍を作ろうと、税金は同じ250文ということになる。さきの伝馬の例で人足代から、渋沢家や尾高家が払っている税金がどのくらいの負担になるものか計算してみると、250文は鐚銭に直せば1千文である。人足代をインフレ考慮して
実質賃金を慶長時代と同じくらいに上げようとすれば、240文。つまり畑1反1年分の税金が4人分の日当相当ということになる。これは非常に安い。徳川幕府は妙な善政を施していたわけで、インフレ利得者としての渋沢・尾高両家が見えてくる。「五公五民」であればこうはならなかったはずだが、彼らは何も便乗したわけでも脱税しようとしたわけではなかった。幕府の無為無能のおかげだった。無為無能政策が農村ブルジョア階級を生み出していたということになる。
けれども彼らが安い税金を恩典と感じ得るのは利益が上がったときだけである。普段は布木綿を着て雑穀を食えと幕府に干渉されていた農民の生活であるから浪費はしない。それどころか経営者として極めて勤勉だったのである。その上ここに書く余裕はないが、自分が得た新知識や技術は独り占めにせず、広く皆に広めて全体が富むように仕向けた辺りにこの人たちの賢さがある。渋沢栄一の生涯の真実は論語にあったようで道徳の伴う経営理念が真髄であったし、西洋流でない資本主義精神に七平氏が見たのもこういう一面だったろうと思う。

ここまで渋沢栄一が傾倒した尾高藍香の一面を紹介しながら、と書きかけて気がついたが、傾倒したのは七平氏も同じだということである。藍香の蔵書は震災で消失したと言われるが、わずかにどこかに残っていて、その中に『蠶桑輯要』という書物がある。清人沈秉成著とあるからには著者は清国の人だ。桑を植えて蚕をそだてるについての教本のような書で漢文である。行間や余白に朱で藍香が賛否の意見や注釈を入れてあるという。書き込みのある本の画像が80ページに載せてある。この他にも政治に関する書物もいくつか見つかっていて、そういう書物を探し出して読んでいる七平氏は同好の士を見出した心境でなかったろうか。

まったくの余談である。渋沢栄一の一生には農民から武士になって一橋家に仕官する期間がある。徳川慶喜の用人平岡円四郎に見込まれたのであったが、その平岡が京都で水戸の人間に暗殺される。後任の用人で栄一の面倒を見てくれたのが黒川嘉兵衛という人だった。さきにペリーの「日本遠征記」を読んだとき日本側の応接役人に下田奉行所の組頭、黒川嘉兵衛がいたことを思い出した。同姓同名なのでもしやと思って調べたら、まさにそれ でペリー艦隊の応接をした人物だった。偶然の再会のような気分で愉快だった。この人にはアメリカ人が写した銀板写真が日本人を撮影した現存最古の写真として残されている。重要文化財に指定されているそうだ。角川ソフィア文庫でも見ることができる。
Wikipediaでは生没年不詳、生まれもどこかさっぱりわからない。下田奉行所のあと安政の大獄で免職になり、5年ほど後に一橋家に取り立てられて慶喜に仕え、鳥羽伏見の戦に破れた慶喜の助命嘆願に上洛したとある。栄一が一橋家の手兵を募集するため関西へ行った折には地方代官が、黒川のような下賤の者が…、などと言ったことなど書かれてあるから、素性のわからぬ流れ者の見方をされていたらしいことがわかる。不遇なサラリーマンの悲哀が感じられて気の毒に思えるだけに、なんとかもう少し人となりなど知りたいと思う。

正味510ページはかなり読みでがある。繰り返し読むのも、後戻りして読み返してまた前に進むのも大変だ。あれこれ書くのはこの辺でやめておこう。何かの折に題材として使える材料も多い。
(2018/11)




2018年11月13日火曜日

日米為替レート、和親条約から通商条約まで

貨幣の実質価値と通用価額
天皇陛下御在位30年記念金貨というのが発行されるそうだ。額面1万円、重量20グラム、売価13万8千円。金の純度はわからないが、現在の金相場ではグラムあたり4900円弱のようだから、24Kとして考えれば9万8千円見当になる。
通貨として使えば1万円にしかならないから、誰も使わないだろう。資産としてならば所有する値打ちはあると考える人もいるだろう。これが記念となる所以だ。記念金貨には貨幣の価値をどのように考えるかの問題が含まれている。折から黒船時代に日米間で交渉された通貨の交換価値にわたしの関心が向いていたところだったので、この機会にもう少し調べてみることにした。
在位30年記念金貨

1853年3月、来日中のペリー艦隊が神奈川(横浜)に滞在しているとき、一人のアメリカ人従軍牧師が制限区域を超えて歩きまわり、川を渡る寸前に捕まったが、途中、神奈川町で商店に入り込み、硬貨を見せてくれと強引に頼んだ。牧師は秤を出させて、「銀貨をいくつか取り出して一方の皿に載せ、もう一方の皿に日本の金貨と銀貨を一緒に積み重ねて計量し」たそうである。「遠征記」には、貨幣の交換は国法を犯す大罪だとあった。後にそれぞれ無事に返却されたので犠牲者を出さずにすんだ。交換されたのは、米貨3ドル50セントと日本貨で金貨6枚銀貨6枚銅貨6枚だったという。
この従軍牧師はコイン収集の趣味があったのかもしれない。自分の所有している貨幣を提供して交換するという発想は異国を経験していないと考えつかないと思う。秤で目方をはかって同じ重さの貨幣を交換しようとした意図がみえる。このとき交換されようとした貨幣の重量を考えてみよう。
米貨は当時発行のSeated Liberty(女神坐像)のデザインの1ドルと半ドルの2種4枚で111グラム強となる。邦貨は一分金と一分銀と、銅銭は寛永通宝を仮定すれば、全部でおおよそ100グラム近い値が得られる。 牧師士官殿は良心的であったといえよう。(26.73*3+12.5=111.1337gr.、 一分金4.5*6 + 一分銀8.62*6 +銅銭 3*6=96.7gr. )
慶長小判一両は4.75匁(約17.8グラム)、一分はその4分の1で4.45グラム。一分銀は天保一分銀で計算した。
アメリカ1ドル銀貨Seated Liberty 
条約交渉で、交換比率が合意されたのは、1857年の領事ハリスとの協議によってであり、「同種同量」の原則に基づくことが決まった。日米和親条約を補完するものとして日米追加条約とか下田協約とかよばれる約定に含まれる。
具体的な条文がどこにも見当たらないのが不審であったが、その内容が日米修好通商条約(1858年7月29日調印)第5条に引き継がれて、同じく第12条に本条約にすべてが含まれる下田協約の約定は破棄すると明示されているので、条文が見当たらない疑問は解けた。
日米修好通商条約第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし 金は金、銀は銀と量目を以比較するをいふ」との文言が記されている。
(出典:安政雑記第一冊、次のURLを参照した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_harris2_main1.html

ペリー艦隊は日本を去るにあたって、それまでに購入した物資の代金を清算した。そのため必要になった通貨交換比率を協議することと、石炭の価格についての調査を提督が指示し、その報告書が「遠征記」に記載されている。協議は日本側2名の委員と艦隊の主計官2名でおこなわれた。通貨に関しては、その時限りの暫定的な決定であることが提督の指示に明示されている。
通貨交換比率については日本側の1ドルあたり1600文とする主張に米国側は同意できないままに協議を終えて必要な精算を済ませているが、計算根拠については彼らなりに不当であると述べている。この報告書は非常に難解なうえに貨幣論を専門とする学者のなかにはアメリカ人たちの誤解もあるという。当時唯一の貿易市場であった長崎で用いられた通貨及び重量単位であるテール、マースなどが使われている。これらはそれぞれ、両と匁を指すと考えられるが、これの使い方にも誤解もあるようだ。彼らの思考を追うよりも、ここはまず幕府の定めた比率の根拠から探ることにしよう。

銀貨1ドルあたり1600文という比率の根拠は、艦隊から預かった金銀貨350ドルを江戸で分析した結果に基づいている。得られたデータが「受け取った1ドル銀貨(量目7.12匁)を分析し,品位(千分比)865,純銀量6.16匁)」であったことがわかっている。「遠征記」に残された記録には換算要素として「地金銀10匁の価額22.5匁」が使われていること、古文書に当時の幕府内文書で地金公定買上げ相場に二六双替(そうがえ)制度が使われていたこともみえていることがあるために、いくつかの試算ができる。どれが事実だったかわからないが、どれをとっても米通貨の1ドル1枚につき日本通貨x個で表す比率を求めるのには近似値が混じることもやむを得ない。日本貨幣が年々価値が低下したこと、論理的に一貫しない換算率の設定など、管理政策の不十分なことが混乱の元凶だと思う。したがって研究者も確言できない題材である。仮に一つの試算をするなら、次のような答えが出てくる。
1ドル銀貨の量目を7.12匁としているから、米ドルのようだ。洋銀は地金として取り扱う定めであり、銀地金10匁は秤量通用貨幣22.5匁とする公定率があるから、7.12*2.25=16.02匁の値が得られる。つまり洋銀1ドルは日本の通貨としては16匁すなわち1600文と同じ価値になる。1匁が100文に相当する、というのは、金1両は銀60匁、または銭6000文という換算があるからである。余計なことだが、「匁」は国字だそうで、もとは文目、「文」の略字に由来するとの説がある。
実際に流通する形での16匁の通貨はなく、近似の貨幣は15匁の一分銀である。一分銀4枚で金1両(銀60匁)となる。この場合の一分銀は天保一分銀が相当したはずで8.63グラム(2.3匁)であった。
結局、洋銀1ドル1枚は一分銀一枚と交換されることが条約以前の公定比率になった。米ドル26.73グラム、メキシコドル(8レアル銀貨)約27グラムと比べて3分の1の重さしかないのがハリスの主張する論拠になった。
ちなみに純銀量で比較すれば、アメリカ銀6.16匁、天保一分銀2.274匁で2.7倍。7.2匁のメキシコ銀では3倍強となる。東洋で流通していたのはメキシコ銀が最も多かったそうである。
天保一分銀


うえに述べたように、公定相場に2種類ある。銀を地金で政府が買い入れる価額は10匁につき22.5匁である(7.12*2.25=16.02匁)。しかしその一方で、地金銀を鋳造した流通貨幣に換算するときは銀10匁につき26匁と評価する26双替という公定相場もある(純銀6.16*2.6=16.016匁)。これも買い上げ相場だという。前者は品位にかかわらずの重量で計算し、後者は品位で検出された純銀重量で計算するということでいいだろうか。ここではそれぞれの論説にみられる表面からの解釈にすぎない。どちらの場合も端数付きの16匁だから切り上げて1ドル1枚が邦貨16匁とすることには変わりない。

検討する資料として次の諸作を主に参照した。
「ペリー提督日本遠征記」(翻訳は岩波文庫、角川ソフィア文庫とも誤記、誤訳があるので信頼性は弱い)。
東北学院大学の経済学論集第184号記載の論文、高橋秀悦氏、
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2015/pdf/no05_02.pdf
大阪経済大学の論考、山本有造京大名誉教授。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_110010006810.pdf?id=ART0010566662
「にちぎん」No.18 2009夏号 
https://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin18-7.pdf
幕末千夜一夜
http://onjweb.com/netbakumaz/essays/essays51.htm
  
黒船来航時の日本国内では、金貨幣は数量で計算する計量貨幣として流通し、両、分、朱を単位とする4進法を使用した。銀貨幣は地金とみなされて重さで価値を定める秤量貨幣としてあつかわれていた。単位に両はなく、匁が基本だった。大多数の人がいる庶民社会で通用する貨幣は文を単位とする銅銭であった。銀1貫は1000匁、銭1貫は1000文。
三貨制度
ここまで1ドル1600文の謎ときにこだわったが、あまり意味がなさそうに思える。ハリスが主張したように重量の比で決める方法が簡単明瞭で理屈も通っている。何も回りくどい計算を繰り返す必要はないのではなかろうか。しかしハリスの方式がいつどこでも妥当と言えるかどうかは、もっと学識を深めてみなければわからない。わかりやすいということが取り柄だ。
神奈川宿でコインを交換しそこなった従軍牧師は秤を持ち出した。ハリスもメキシコドルの重量にばらつきがあるために100枚を天秤にかけたという。
ギリシャの昔から秤は公正の象徴である。公正の女神は秤を手にしている。

ギリシャ神話法の女神テミス像

日米修好通商条約は同種同類の貨幣の比率で交換することを規定した。洋銀1ドルは一分銀3枚と交換されることになった。目端の利く人は日本に持ち込んだ銀貨を金小判に替えて外国に持ち出せばもとの銀貨が3倍に増える。そのため日本から金が大量に流れ出したという。結果的に徳川体制が破綻する原因の一つになった。
それまでの日本は武士階層が支配していた。彼らは金銭を厭うべきものと考えていたから、知識が不足していたのだろう。おかげさまでこちらは今頃彼らの不勉強を少しは埋め合わせるよう勉強しているが、どうしても西洋人にシテヤラレタとの気分が抜けない。
三倍儲かるカラクリ
1ドル銀貨4枚→一分銀12枚→1両小判3枚→1ドル銀貨12枚

(2018/11)
  

2018年10月14日日曜日

無線LAN(WiFi)ルーターを新しくしよう

ある日PCのひとつがインターネットに繋がらなくなった。タスクバーには飛行機アイコンが出ている。つまり、無線LANが無効だ。再起動してみてもなおらず。
アクションセンターのSSIDを調べると3つとも接続できない。LANケーブルで接続してみると繋がった。問題は無線の関係にありということがわかったが、どうすればいいかわからない。このPCはまだ3年目。内部の無線部品が故障と言うにはまだ早い。原因をさぐる方法がわからないし、内部の故障なら手におえないと考えて出張修理を依頼した。午前中に依頼して、2時頃来訪、3時には終了した。修理業者のことと修理内容について、おおよそのことを記録しておく。
大塚商会のサイトから拝借

依頼したのはネットで見た広告先。コールセンターにかけて、当方の電話番号と住所を伝える。折返し担当店から連絡が来て来訪予定時間が決まった。やって来たのはスーツ姿の青年紳士。千葉市からだった。本人名が入った名刺を見ると、ドクター・ホームネットという名前になっていて電話も別の0120と普通の加入電話の番号があった。

料金は事前にホームページでわかるが、来訪して最初に説明があった。彼はタブレットを持参で、いろいろな場面で使うのが当方には珍しかった。出張5,000円、診断3,000円。ここまでは来てもらったからには必須である。修理については個別の作業別に細かく決まっている。インターネットに接続できない場合は12,500円となっている。全体に8%の税金がかかる。この種のサービス料金は大抵横並びで、個人が一人でやっているのは少し安い感じだと思う。知り合いの個人業者もいるが、今回は連休中であることと、今後の参考にするため頼んでみることにした。今回の業者は土日祝日も営業とあった。

一通り症状を説明したあと、ルーターを見たいとのこと。案内すると、機器に貼りつけてあったパスワードを目ざとく見つけて、タブレットで写真を撮った。こちらは今度の不調原因がルーターにあることは全く頭になかったから、抜かったなと思ったりした。はじめに症状を説明したとき、無線ではつながらないが、ケーブルではつながること、再起動しても回復しないこと、WiFiは無効でも電波はPCに届いていることなど伝えたから、残る問題はルーターだと見当をつけたのかとも思う。
アクションセンターでSSIDの接続を試しているようだったが、その辺りで接続ができたらしい。このルーターはいつ頃からですかと訊かれて、調べてみたら説明書に2010年とあった。新しいのに替えることをおすすめしますと言われた。問題のPCは3種類表示される無線規格のうち一番古いので接続回復したようだった。なんとかつながっていたものが、何かの折に切れた可能性があるような説明だった。ルーターはバッファローかNECをお勧めしますと言いおいて帰っていった。

終わったとき、ルーターの管理画面が出ていたことと、撮影したパスワードを入力していたのを見ていたので、これを手がかりにして修復の仕方を再現してみようと考えた。
まず管理画面はどうすれば出せるか。探すと、バッファローのサイトにピッタリの答えがあった。「無線LAN親機(WiFiルーター)の設定画面を表示する方法がわかりません」という表題の画面だ。
IEを起動してアドレスバーに「192.168.2.1」と入力する。Windowsセキュリティ画面のユーザ名、パスワードの両方とも初期値「admin」 を入力する。(以上はWindows10 の場合で、メーカーを問わず共通と思う)。管理用画面が開く。「詳細設定(上級者向け)」をクリック。左側の「無線LAN設定」→「基本設定」でチャンネルを試して変更する。「適用」をクリックする。(どのチャンネルにするか試すには、1,6,11がおすすめだそうだ。)設定保存画面で更新→OKをクリックして終わり。ケーブルを外して無線を試す。
「SSID検出されない」「無線接続安定しない」場合は同じ手順で他チャンネルを試す。この適合するチャンネル探しが難しい技かもしれない。
来訪の技術者もこの方法で接続成功したのだと思う。ルーターはelecom-logitec製だったので、http://qa.elecom.co.jp/faq_detail.html?id=2845を参考にした。
大塚商会のサイトから拝借
機器の寿命などについて調べてみると、競合する電波が混雑している場合など自動で選択する機能などは新しいほうが良く働くようだ。機器の寿命は4-5年とされている。物理的には10年程度だが、電波規格の変化が激しいから、古くなると適合させるのに手間がかかる。今回も時期的にWindowsの秋季更新プログラムが各PCに到着しているから、自動でダウンロードされる際に不安定さが影響して切れた可能性もあろうかと思う。
NECのWG1200HP3を早速買ってつないだところ至極簡単に接続できた。他のPCも問題なくできた。古い方は買った当時でもこんなに簡単ではなかった。いまではどこの機器にもついている「ラクラク設定」のボタンもなかった。プリンターの接続もこれで楽だったが、キャノン複合機の場合はメーカーの説明の要領がよくない。

はからずもルーターとの接続を回復する手法を学んだが、PCメーカーのサポートページはルーターに原因を指摘するとは限らない。現に今回のヒューレット・パッカードはそうであったから、原因は突き止められない。修理費と新しいルーターを買う費用が今回の合計支出となったが、ルーターを疑うことを知っていれば、そしてルーターを新しくすることに気がついていれば、新規購入だけで済んだかもしれないなどと、一寸唇を噛んでいる。ルーターの性能、最近の周波数のことなど、あとづけで勉強したが、とにかくも良い勉強になった。それにしても、あの小さいルーターで外部回線から取り込んだ電磁波を無線化できる原理は不思議だと思う。高校物理にあるようで興味が湧いたが、とてもそれまで手を広げる力量は今のところない。スマホとかモバイルルーターとか新しい知識が要るし、ルーターは何年ももつなど古い知識は捨てなくてはならない。(2018/10)

2018年10月11日木曜日

雑感 世代は移り変わる

「百年河清を俟つ」という言葉がある。気長に物事の移りゆくままに待つ、という意味だと思っていた。もとになった故事は、政策を決める際の判断についての教えの言葉だそうだ。「俟河之清、人壽幾何。兆云詢多、職競作羅。(『春秋左氏伝』 襄公八年)」。河が澄むのをまつも、人の命はいくらもない。占いに問うても提案が競い合って判断がつかない、というような意味だ。要は、決断は自分で決めろという教訓だった。百年という言葉は原典にはないようだ。
黄河 Wikipediaより

じつは100という年数や年齢にかこつけて何か書こうとしたのだったが、もともと100が関係しないのでは話にならない。出典を知っただけで良しとしよう。河は黄河のことであるのは言うまでもない。
故事をいう言い回しに、いつどこで「百年」が付いたのかわからないが、遠い将来を指すときに使われたように見える。いまの世は100歳時代と呼ばれるように変わってきた。期待を含んだ100が現実の齢の表現になってしまった。「俺の目の玉の黒いうちは…」という言い草を常とする人物がいたとすると、100歳を意識しているのかもしれない。
こういう類の人の人生は昔通りせいぜい50年程度であってほしいと思う。

インターネットであれこれ記事を楽しんでいると、南方熊楠さんを知っていますか、という文があった。知っていますかって、何を言ってるんだ、という思いをしながら読んでみると無理もない。昔こんな風変わりだけど偉い人がいたんだぜ、という人物紹介記事だ。こっちは同郷のよしみもあって大人たちが話すエピソードを子供の頃から聞いている。世の中みんなが知っているという感覚でいた。それが「知っていますか」という質問が堂々と出てきた。これはいまや熊楠さんを知らない新しい人間が世の中にいっぱいいる証拠だ。昔は三世代が一つの家に住む、というのはたくさんあったけど、年寄りなしの世帯が増えた。母子家庭とか、おひとりさまとかもあって、とにかく単位あたりの人数が減った。こうなると昔からの言い伝えだとか、語り草だとかが世代を超えて伝わることがなくなってしまう。昔話というのもそうだ。図書館に行くと「〇〇県の昔話」などという本が並んでいる。ああゆう本にはおばあさんから聞いたというような、地方訛りで方言が交じる話は入っていない。昔話は本来語られるものだから口語だ。口語は本になると消える。訛りは文字で表せない。だから本になった昔話はあまり面白くない。物語は耳から聞くにまさることはないから、新しく生まれた世代は気の毒だと思う。いま達者でいる年寄りでさえも既に知らないことが、本を見ればあるというのがせめてもの救いだろう。

6月に大阪地方で地震があって、高槻市の4年生の女の子がブロック塀の下敷きになってなくなった。ブロック塀は地震に弱いから危ない、と大騒ぎになった。そんなことはとっくに知っていたから、どうして世の人々は知らなかったのかと不思議だった。1980年に造成地に家を建てたとき、町内の申し合わせにブロック塀は危ないからやめましょうとなった。当時はそれより古い頃の地震の経験から、そういう申し合わせが住民の間でできたのだった。その時建った団地の家々で生まれた子供はブロック塀が危ないことを知っただろうか。いま思えば大きな疑問である。口頭による申し伝えはいつかは消える。文書で残す、それが法律だろう。しかし法律は必ずしも災害防止とか安全とかが考えられるとは限らない。これからつくる塀には適用されても既存のものはお構いなしということもある。既存不適格という問題だ。事故が起きた高槻市では壊す費用に補助金が出ることになった。こういう事が全国的に行われたかどうか知らない。ブロック塀だけでなく、ほかにも危険をもたらすものは千差万別いたるところにあるだろう。大風が吹けばあれはアブナイヨ、と誰もが考えていても、実際に倒れるまでなんにもしないのはよくあることだ。大岩が落ちてきそうな崖下に「頭上注意」の看板というのは全国にある。どう注意すればいいのか、不思議に思いながらその下を通り抜ける。あれもお役所仕事の典型である。
高槻市の現場 news.gooより
寺田寅彦さん(知っていますか?)は災害に対する考え方を早くから書いていた。あちこちによく書いているのは、小学校の教科書に書いておけという意見だ。子供に危険の知識を早くに入れておけという。少し時代が進んで、戦前、昭和12(1937)年、「稲むらの火」が国定教科書に入った。戦後については、2011年の「道徳」副教材に載っているという(愛知大学「『稲むらの火』の教材化をめぐる考察」2011年)。また、同年2月14日にはNHKスタジオパークが「教科書に復活した稲むらの火」で2011年度小学5年生の国語教科書を紹介している。これは震災学者の河田恵昭氏作「百年後のふるさとを守る」であり、実在の濱口儀兵衛(濱口梧陵)の伝記に「稲むらの火」の一部が引用されているそうだ。梧陵は災害後の窮民対策を兼ねて自費で長大な堤防を作った。現存する広村堤防だ。実際に後世の三度の津波に役立ったが、将来想定される津波にはいまの5メートルの高さでは不十分と指摘されている。東日本大震災の直後に教科書に入ったのは偶然だったが、2015年には本文が修正されたそうだ。http://web.archive.org/20110616031242/http://www.nhk.or.jp/Kaisetsu-blog/200/72609.html
河田氏は、地震や津波は時が来れば必ずやってくると書いているし、寺田寅彦氏は「科学の方則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである」という(昭和8年5月『鉄塔』 青空文庫『津波と人間』)。両氏ともに人間はあてにならないとの諦観に似たものがあるが、これも真実だ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html
ヒロ村の堤防、右は波除石垣
昭和10年代の写真 気象庁
「稲むらの火」はラフカディオ・ハーンの『生き神様』(原文は英語、"A Living God")を、学校教師の中井常蔵氏が翻訳編纂したのが懸賞に入選して国語教科書に採択された。題材にとられた津波は1854年の安政南海大地震だ。安政東海大地震と連続した大災害で、12月に日米和親条約の批准書を持ち帰ったアダムス中佐が下田でその惨状を目にしている。ハーンは津波襲来の様子を明治29年の三陸津波を参考にした模様で、広村での実際の状況とは違うらしい。元来この小説は日本の神について書こうとしたものだから、読者が汲み取るべきは濱口梧陵の精神と偉業であって、津波の様子の真偽ではない。それでも津波という自然現象についての知識普及には役立った。2005年にインド洋大地震があったとき、シンガポール首相に、日本では小学校で津波対策を教えているらしいがと問われて、戦後派の小泉首相は知らなかったことがニュースになった。文科省の役人も知らなかったという尾ひれが付いた。寺田寅彦は「児童教育より前にやはりおとなであるところの教育者ならびに教育の事をつかさどる為政者を教育するのが肝要かもしれない」と書いた(『柿の種』岩波文庫)。その甲斐があったのか、東日本大震災をうけて「津波防災の日」がきまり、それが2015年には国連決議による「世界津波の日」に出世した。日本が唱導したと外務省が鼻高々と公式サイトに謳い上げた。「SDGs(持続可能な開発目標)の2030年までに達成すべき17の目標」もあげられて標語の好きな国のお祭り騒ぎになった。忘れっぽい国民がいつまで覚えていることか密かに心配している。早い話が「世界津波の日」って何月何日だったかな、既にしてすぐには思い出せない。それにしても「TSUNAMI」は世界語になったけれども「ブロック塀」はどうなったのか。「喉元すぎれば・・・」もかなり年季の入った俚諺であるが。
世界津波の日 ロゴ
読んだ本:寺田寅彦『柿の種』岩波文庫。『津波と人間』青空文庫。   (2018/10)

2018年9月28日金曜日

読書閑談 条約の原本がない!『ペリー提督日本遠征記』より

日米和親条約は異文化間の交渉事であるからいろいろ厄介なことがつきまとう。『ペリー提督日本遠征記』(以下「遠征記」と略す)はアメリカ人の保護と、外国人を閉め出している日本の港をアメリカ人に開くよう、掛け合いにやって来たときの往路と日本および近海での見聞を一切のこらず盛り込んだ語り物である。今回は物語の中から交渉にまつわる言葉の問題に話題を絞って綴る。
「遠征記」は角川ソフィア文庫(以下角川版という)からの kindle版による。

英語国のアメリカと日本語の国とのやりとりだから、お互いの言葉は相手に通じない。はじめての出会いは、小舟に乗った幕府の役人が軍艦の甲板にいる士官に向かって「アイ キャン スピーク ダッチ」と叫んだ。見事な英語だったが、彼の英語はそれだけで出尽くしたみたいだ、と書いてある。
そこでオランダ語通訳のポートマン氏がでてきて、互いにオランダ語で話し始めた。これが1853年7月8日のことだった。
口頭のやりとりは、英ー蘭ー日、日ー蘭ー英の二重通訳、文書のやり取りには漢文が加わる。ペリーは漢文・シナ語通訳にウイリアム氏を雇っていた。日本語通訳は見つけられなかった。
いっそくとびに条約調印の様子にうつる。1854年3月31日、横浜、ペリーたちが条約館と呼んだ応接所。
(以下の引用文中【 】は本稿で問題とする訳語を示し、( )はその訳語の原文該当語を示す)
ペリーは到着すると早速英語で書かれた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通に署名し、通訳のウイリアム氏とポートマン氏が認証した漢文とオランダ語文の【訳文の写し3通】(three copies of the same)と共に、委員たちに手交した。同時に日本委員は、日本語、漢文、オランダ語で書いた【条約の写し】(drafts of the treaty)3通を提督に手交した。そこには4人の委員の署名が入っていた。 次にあげるのが【承認された】(agreed upon)条約である。
こういう記述に続いて条約条項が列挙され、最後の第12条の文章が続く。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく【調印された】(signed)うえは、アメリカ合衆国および日本、並びに両国の市民及び臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18カ月以内、または可能ならば、さらに早期に交換されるものとする。
以上を証明するため、われわれ、すなわち前述のアメリカ合衆国および日本帝国の各全権委員は、【この書類に署名捺印した】(signed and sealed these presents)。主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。
以上で条約条項は終わって、平文の記述になる。
「この条約の【写し】(copies)に署名し、交換すると、提督はさっそく第一委員の林侯にアメリカ国旗を贈呈し……」以下略。

全権委員の役職と氏名は条約の前文に挙げられてある。遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーと林大学頭、井戸対馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔である。上述のように条項末尾に氏名はない。
最初に読んだときにはなんとなく変だと感じた。何が変なのかよくわからなかったが、そのうちにこの条約には原本に相当する文書がないことに気がついた。そこで原文にあたってみると、うえの文中に示したとおり訳語が適切でないことがわかった。ペリーが到着後に早速サインしたのは写しではなく草案だった。となればこの場の進行は草案を検討して、すべてが合意されれば調印の運びとなるはずだ。

ところで、合意されたら最後に連名で署名して終わるのが普通のやり方だろうと思うが、ここは違う。最後の署名はないのである。会合の最初に署名した草案が取り交わされている。これですべてだとすれば、草案のとおりに合意された場合、そのまま草案が条約の原本になるのだろうか。草案に修正が加えられたら、どうなるのか。そこだけ部分訂正するのか。何かおかしいぞと思ったわけであるが、たまたま手許にあった加藤祐三『黒船異変』を覗いてみて、その時の事情がわかった。
双方がその場で署名して交換をするという現在の流儀ではない。事前に双方が署名しておいた条約正文(条約の条文解釈で基準とされる、特定の言語で書かれた文)を交換するという方式である(153ページ)。
続く文章にヒントがあった。
それがまさに終わらんとする最後の段階で林が口を開いた。「われわれは外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない。」ペリーは一瞬虚をつかれたが、反論する間もなく、儀式は終わってしまった(154ページ)。
こうして、英文版にはペリーの署名のみ、日本語版には応接掛の署名のみで、双方の責任者の署名が揃った条約文は一つもないという結果になった。だからわたしは原本がないと思ったのだ。正文は何語にするかの交渉は行われなかった。双方で自国語こそ正文と思い込んだが、どちらのにも相手方の署名はなかった。

加藤氏は専門家だからいろいろと資料があるようだ。ペリーは気になったらしく翌日海軍省宛に公信を書いたそうだ。「……それから彼は、日本の法律は、その臣民が外国語で書かれた、いかなる文書にも署名してはならないと規定していると述べた。」「条約の英文版に署名がなされなくても条約の効力をいささかも妨げないと考えたので、彼らが申し出、かつすでに決定しているらしい方針にたいして、さしたる異議も出さなかった」「彼らは代わりに、証明つきの翻訳版、三通を出した。これですべての規定が合意されたこと、また彼ら自身の方法で規定を実行するであろうことに私は満足している」。
加藤氏は論評する。
「アメリカで悪意の反対者がいれば、この部分に噛み付き、条約の正当性を疑うこともあったであろう。ちなみに上院に提出された公的な報告書(『ペリー提督日本遠征記』)はこの辺りをさらりと流し、日本語版、漢文版、オランダ語版に応接掛四名の署名があると述べている」。
そのとおりだ。こっちは、さらりと流された「遠征記」を一生懸命読んだけれども、誤訳のためもあって、わけがわからなかったのである。

もうしばらく加藤氏の解説をお借りする。ペリーは応接掛にも書簡を届けた。
「貴政府は、これまでの法令どおり双方別紙に名判を押されたが、双方で内容に相違があった場合、問題を生じる」。
書簡を受理した応接掛の方は返答をせず、黙殺した、とある。
このことについて応接掛は老中への上申書に、通常は連判だが、今回は双方が別紙に署名し、連判を断った。調印の翌日ペリーから書簡で、連判がないのは不都合だと言ってきたが、そのままで押し通した。「御国威を相立て申候」。
彼らは彼らでペリーの失態と考えることにしたのかもしれない。けれども放置すれば将来まずいかもしれない。

2ヵ月後に下田で追加条項の取り決め調印がなされた。先の条約交渉で持ち越された下田と箱館における行動範囲の設定ほかの条項である。
付加条項の形式は角川版によると、最初に「ペリーと日本側委員(7名の氏名、略す)との間に両国政府に代わって定めた付加条項」と記されたあと全12条の条文が列挙され、末尾に、
「以上を証するため、英語及び日本語による本付加条項の謄本に両当事者は署名捺印し、かつオランダ語に翻訳し、米日両国委員がこれを交換するものである。1854年6月17日 日本、下田にて」
とあって、ペリーの肩書と氏名が記載されている。なぜか日本委員の氏名はない。これはどういうわけだろう。加藤氏は林とペリーが揃って同じものに署名した、(177ページ)と書いているが、角川版によるかぎり、そのことは確認できない。

また条約の正文についての問題は、角川版で付加条項第7条に、
「今後、両政府間に公式告示において中国語を用いないこととする。ただし、オランダ語通訳のいない場合はその限りではない」
とある。ところが加藤氏は、条約における正文の使用問題については、「今後は両国の言語すなわち日本語と英語とを正文とし、オランダ語を訳本として、双方の言語で解釈に相違のある場合にはオランダ語に依拠することとした。ここで国家関係を決める条約言語のなかから、漢文が姿を消した」と書いている(177ページ)。
ということで加藤氏は、これで当面の懸案問題はすべて解決した、と喜んでおられるのであるが、こちらは全然すっきりしない。
  
追加条項の最後の部分、訳語はこれでいいのだろうか。原文ではcopiesとあるのを「謄本」としてある。わが国では、謄本は原本の内容と相違がないことを証明された写しである。英語の辞書には、英法での用法として謄本とあるのがまぎらわしい。写しには違いなかろうと思う。
「謄本」の話をしよう。3月31日和親条約の調印が終わると、すぐさまペリーは、条約に上院の批准を得るため、アダムズ中佐を帆船サラトガ号で派遣した。ハワイまでの間に石炭補給ができないから帆船なのだ。批准を得るために持参する条約文は原本だろうと思うがはたしてそうか。この部分の記事にはそのことには触れていないが、無事に批准された文書を交換するために下田に戻ってきたアダムズを迎えた記事がある。ついでだから参考までに旅程も書いておこう。「遠征記」の補章である。ぺりーはすでに1854年7月11日帰国の途についてミシシッピー号で那覇を離れている。
アダムズ中佐が1854年4月4日サラトガ号に乗り込み、条約の謄本を携えて故国に急派されたことはご記憶のとおりである。5月1日中佐はホノルルに到着すると、サンフランシスコに向かう最初の船に乗り、通常の航路をとってパナマを経由し、7月12日にワシントンに到着、3ヵ月と8日を費やして日本からわが国の政府所在地までの旅を終えたのである。その条約は大統領によって上院に提出され、さっそく満場一致で批准され。9月30日にアダムズ中佐がこの批准された条約を持ってニューヨークを出発し、日本へ向った。イギリスに到着すると、次は陸路をとって、1855年1月1日香港に到着した。ポーハタン号はアボット提督の命によって直ちにアダムズ中佐を下田へ運び、中佐は日本当局と条約の批准を交換する合衆国代表としての全権を帯び、1855年1月26日に下田に到着した。下田に引き返すのに3ヵ月と27日かかったので、条約調印の日から、大統領及び上院によって正式に批准され、それが日本に到着するまでに9ヵ月と22日経過したわけである。
なんとも冗長な、旅路と同じように長い文章である。
アダムスが持参した条約は謄本になっている。そんなことはあるまいと元の英文を探ると the copy of the treatyだ。この訳者は謄本が好きだ。持ち帰ってきたのも、批准された謄本(the ratified copy)だそうだ。謄本は英語でどういうか、authorized copyとかcertified copyではないのか。
よくわからないが、角川版を読むときに謄本とくれば、もともとの原本だと考えることにした。英語のcopyの用法はわからないままだが、実態を考えれば写しではおかしい。

最後にいまひとつ署名捺印と訳されるsign and sealについて、どなたかに教わりたいことがある。
黒船騒ぎのなかで、日本がアメリカ大統領の新書を受け取る場面である。1853年7月14日、久里浜(浦賀)に急造された応接所だ。
親書だの国書だのと日本語で書いてあるが、「遠征記」の英文ではただのletterにすぎない。しかし、ことごとしい、たいそうな容れものに収められてある。
礼服を着た二人の少年が提督の先に立って、緋色の布に包まれた、提督の信任状と大統領の親書を収めた箱を運んだ。この文書は二つ折り型の羊皮紙に美しく書かれたもので、折らずに青い絹のビロードの表紙の中に綴じてあった。それぞれの印章は、金糸と絹とを織り交ぜて、端が金の房になった紐に取りつけられ、直径6インチ、深さ3インチの純金細工の円形の箱に収められていた。それぞれの文書は印章とともに、長さ約12インチの紫檀の箱に収められ、箱の錠や蝶番などの金具はすべて純金だった。
ここにあらわれている印章とは原文ではsealである。外国文学の中に封蝋と訳されているものは、現物を見たことがないけれども、なんとなくわかったつもりでいたが、このように箱に収められるシールの使われ方は知らないので戸惑うだけである。サインをした同じ用紙に粘土細工みたいな平ったい盛り上がりを置いて型印を押す。印面だけが重要なのかと思っていたが、印章そのものも文書といっしょに届けられるのだ、と読める。

今回は原本だの写しだのという公文書の書式についての知識がないため、なんとも頼りない読み方になった。そのうえ、「遠征記」はごった煮のようにいろいろなことを次から次と拾って書かれてあるので、同じ箇所を何度も読むことになったりして、いつまでたっても読み終わる気がしない。このへんでこの大著は措くことにする。今後、折に触れて部分的にでも読めば面白いと思うが、紙の本と違って電子版では簡単にページをアチコチひっくり返しにくいのが辛い。それにしてもアメリカの図書館サービスはありがたかった。偶然に見つけたが、pdfファイルを読む電子ファイルはこれが一番良かった。
読んだ本:『ペリー提督日本遠征記 上 下』kindle版 底本 角川ソフィア文庫 平成26年
参照した本:加藤祐三『黒船異変』岩波新書 1988年
      『Narrative of the expedition of an American squadron to the China       seas and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854, under       the command of Commodore M.C. Perry, United States Navy』(1856)       Volume One.
      https://library.ucsd.edu/dc/object/bb73408443 
      米国サン ディエゴ図書館電子サービス
(2018/9)

2018年9月7日金曜日

読書閑談 鎖国と抜荷

気分転換に、ある日『銭形平次捕物控』を読んでいたところ大塚御薬園というのが出てきた。御薬園はオヤクエンと読む。幕府直轄の薬用植物園のことで、三代将軍家光が麻布と大塚に開いたのがはじめという(寛永15年(1638))。のちに統廃合があって現在の小石川植物園に続く。大塚御薬園はいまの護国寺の場所であると野村胡堂さんが正確に教えてくれ、園内は薬草の匂いが満ち満ちているとして名高い薬草の名をズラリと並べ、まるで見てきたようなふうに書いている。ちなみにこの作品は「平次捕物控」の第一作で、銭形の名のいわれも説明があって楽しい。

長々と続くために少々飽きが来て読者として気分転換が必要になった「ペリー遠征記」。日本遠征計画立案に際し、避難港として食料供給に役立ててもらいたいと園芸種子を用意したと、計画の周到ぶりが述べられていた。国内農業はペリーに心配させるほど貧弱なものではなかったが、漢方の薬草は日本に必須の輸入品だった。種子といえば、享保四年(1719)、対馬の宗家から献上された朝鮮人参の種6粒を日光御薬園に植えたところ、50年後に1万株に増えたという(長崎大学薬学部)。人参は江戸時代には万病の薬として重用されたというが、現代でもその効用は、万病かどうかは別として、引き続き広く認められている。シンガポールへ初めて行ったとき、ピープルズ・パークのそこかしこで売られているその種類や商品の多様さにびっくりしたものである。これらは華人市場での根強い需要を物語っていたが、日本人観光客もよく買っていた。値段は決して安くはない。
幕府の御薬園は将軍家が服用する薬草を植えて育てている。たやすく出入りできるところではないから銭形親分が活躍する舞台となる。町中で漢方薬は手に入ったであろうか。富山の薬売りは来ていたであろう。原材料は輸入品のはずである。
長崎出島
ペリーの使命だった「開国」に対する言葉は「鎖国」であるが、この言葉、字面の意味とは違って、四周を海に囲まれて城門があるわけでもない日本の沿岸は物理的に出入り自由であった。「鎖国」とか「鎖国令」とかは、後の世の人たちが使いだした言葉で、徳川幕府では明国にならって「海禁」の語を使っていた。海禁は領民の海上利用を規制する政策のことだ。鎖国令という法律もあったためしはなく、1632年から39年に至るまでに幕府が出したいくつもの布告があっただけのことである。ところで「鎖国」中の日本には対外窓口が四つあったとは、近頃学校でも教えるらしい、とはインターネットにそれらしい質問が出ているので知った。神国日本の国史でさえろくに覚えていない私は何十年もの間そんな事は考えもしなかった。とにかく長崎天領が唐船とオランダ東インド会社船、対馬藩が朝鮮貿易、薩摩藩は琉球貿易、松前藩は蝦夷地の窓口を受け持った。

秀吉の朝鮮出兵は秀吉の死によって終結したが、これで明国との貿易ができなくなった。家康はそれを回復しようと苦心する。そこでまずこれまで朝鮮貿易で得た物品の中継によって島民の命を食いつないできた無石高の対馬藩が利用された。対馬藩は関ヶ原戦役で西軍についたが、戦後も領土が安堵されたのは家康の配慮だったといわれる。藩主宗義智は朝鮮に貿易回復を懸命に働きかけ、家康が豊臣家を滅ぼしたことに明が好感をもったことも手伝って1609年己酉条約(きゆうじょうやく)の締結に成功した。途中、何度か国書改竄など大それた山場を超えてのめでたしめでたしである。これによって徳川幕府は対馬藩を介在させた間接的な明国貿易が再開できることになった。朝鮮との貿易の特徴は薬用人参の輸入である。

琉球王国は14世紀に明国と冊封関係に入り朝貢していた。薩摩藩は1601年琉球を支配下に収めたが明国との関係をそのままにしておいたのは悪賢い。幕府は幕府でこのことを利用して、明との関係は琉球のことであるからと薩摩はお構いなし。幕府は薩摩藩を中継した明国との間接貿易ができた。琉球では日本人は外国人に姿を見せてはいけなかったらしいが、ペリーの遠征記には那覇港にはシナの船はないが日本船は数多くいたと書いてあったように思う。すでに明ではなくて清の時代であったからかもしれない。

明と清では格が違う。シナには華夷秩序があり、日本の大陸との交渉では大昔からの中心概念である。シナが華で周りは野蛮国で夷である。明は江戸時代の日本にとっては大先生だから華であった。清は蛮族が建てた国だから夷である。華が滅ぼされて夷がとってかわった。これを「華夷変態」という。清は夷の国、敬うことはない。いまや日本が華であるぞと「日本主義」が芽生えた。
朝鮮は江戸に将軍就職の賀として通信使を派遣した。正副使はじめ500名ほどの行列だった。朝鮮は日本人に国内観察の機会を与えることを好かないため答礼には行かなかった。琉球は「江戸上り」をおこなった。将軍就職の際の慶賀使と国王襲封の際の謝恩使があった。一行は正使・副使以下約100名だったが、参勤交代で出府する薩摩藩主が警固するため行列は4千名余りとなった。薩摩の行列に迷惑する宿場の有様はよく話の種になった。
オランダ東インド会社の商館長(カピタン)も年に一度は江戸に「参府」して、将軍に貿易の礼を申し述べた。カピタンのほか、2名の書紀と1名の医師が付くが、日本側が通詞や護衛その他従者を付けるため一行は100ないし150名になった。カピタンの「参府」は幕府にとって「入貢」であり、献上物は「貢物」であった。こうして華夷秩序から自立した日本主義で幕府は自己中心に華夷秩序を想い描いていた。

松前藩はいまの北海道西南端、渡島半島の先っぽにあった。北海道という名はまだなくて、島全体が蝦夷地とよばれていた。幕府もそこが領土とは考えもしていなかったが、土地があるからには住民がいた。主にアイヌという名の原住民。沿岸地方に紅毛人の船がやってきたり漂着したりするようになってきた。住民は助けてやったり脅されたりの交流がうまれる。時間がたってからそういう話が伝わってくる。そのあたりから土地の帰属や外来人の身元やらを考えるふうが出てきた。蝦夷地全体を松前藩が担当せよとか、幕府直轄地とするとか、中央の腰はなかなか定まらなかった。北海道として日本領土であると自認したのは明治政府だった。鎖国の時代、輸入物品の見返りに出すものがない幕府は、ふんだんにあるものと思いこんでいた金銀銅で支払った。次第に手元不如意になって俵物を当てるように変わる。いりこ(干しなまこ)、干し鮑、ふかひれの俵物三品と「諸色」の昆布である。松前藩は原住民アイヌからこれら物資を集め長崎会所に送る役目をしていた。松前藩も対馬と同じく米の穫れない無石藩で、アイヌ交易物品の中継が実入りとなっていた。幕府は形式を調えるために一万石としていた。

長崎は唯一の開港場で幕府の天領である。交易のための会所を設け物資の受払をおこなった。会所が扱う物資は統制品であるから、その裏には必然的に密貿易、当時の用語での抜荷があった。数量、品目どの項目をとっても統制が厳しくなれば、抜荷が増えるのは理の当然であり、結局は鎖国体制の限界を示すようになった。長崎港に出入りを許されていたのは唐船とオランダ東インド会社船だけであった。前者がもたらす品物は生糸・薬種・書籍、後者は黄糸(南方産の生糸)、薬種、香料、砂糖があった。日本から輸出される産品は銀と銅が主である。銀、銅の枯渇とともにシナ相手には俵物が使われた。

生糸は日本各地でも養蚕が昔から農家の自家消費でおこなわれていた。シルクロードの起点のシナからの生糸は白糸と呼ばれる上質の生糸だ。博多や堺、京都西陣で高級絹織物に織られて流通した。貴族や上流階級が身につける奢侈品である。幕府は「君臣上下」の関係を明らかにするために衣服を統制していた。絹織物は平民では名主庄屋以上の衣類であり、平百姓は綿織物か麻織物を着なければならなかった。
新井白石がおそまきながらも金銀銅の垂れ流し経済の行く末におそれを感じて流出を止めようと、「量入為出」(いるをはかっていずるをなす)を貿易の原則とした。奢侈品を追いかける「奢侈経済」から自分たちの暮らしに沿った「国民経済」に転換すべく自給自足を図り密貿易を禁圧した。薬種だけは輸入に頼るほかないため決済手段に金銀に代わって俵物三品と昆布を推奨した。白石をクビにした八代吉宗ではあったが、理の当然をわきまえて白石の考えにしたがった。薬種の自給化を中心課題として殖産興業政策をすすめ、抜荷の取締り強化と同時に貿易規模を縮小した。貿易規模を縮小すると、それだけ抜荷が増加する。俵物の横流しを防ぐために長崎会所直仕入れにすれば、買い付け値段が不当に安くなる。それを嫌って、場外取引の抜け荷が増えるという具合だった。

輸入代金の支払いに困るから輸入を減らそうというのは当たり前の考えではあるが、人の命に関わる物品として薬は止めるわけにはいかなかった。近世史家山脇悌二郎によれば、天明のころ(1780年代)には正常なルートで入ってきた薬の輸入量は80万斤であったが、四分の一に当たる20万斤ほどが密輸入であった。この例によって薬の輸入量の規模がどの程度だったのかはわかるにしても、どれだけあれば十分なのかは別の話。貿易量に制限があってもなくても商人は市場を大きく占有したいと考えるだろうから、需要には制約がないのはどの商品にも共通する。したがってどの商品にも抜け荷の可能性は常にあるが、統制品であるからには違反に罰則がつく。抜け荷には死罪から流刑、鼻削ぎまで重刑が並ぶ。それでも抜荷はやまず、中でも薬種にいちばん多かった。

大名の抜荷で有名なのは薩摩藩ついで長州藩だった。商人では薬の抜荷が富山の売薬商に多かったようだ。新井白石や吉宗が志向した国民経済とは、そこかしこの村落同士が集まって市(いち)をつくり、お互いの地域の産物を育てて、次第に商圏を広げ、更に大きな市場圏へ拡大しながら、自分たちの特産品が国民的生産品に成長するような発展である。白石は金銀銅の流出を止めることに懸命で、つくりだした輸出品の代金を金銀銅で受け取って国内に還元することに考えが及ばなかった。吉宗も自給によって国産品開発を志向しながらも農業生産の範囲でしか考えられなかった。

現実には鎖国制度によって折角の輸出志向を抑えられてしまった「日野絹」や、シナの明清交代期に生産が止まった景徳鎮産物の代替品としてしか使われなかった「伊万里焼」、福井藩の専売統制にされた「越前和紙」のような工業生産物などは白石はとりあげなかった。余談だが、伊万里焼の場合、半世紀も続いた東インド会社の注文が途絶えた後、苦境に耐えかねた二人の陶商富村某と嬉野某が密貿易を試みて発覚し、富村は自殺、嬉野は刑死している。

「日野絹」の場合、決済金銀の枯渇から減り始めた輸入白糸に替えて、近江商人が東北・関東から和糸を集荷して西陣に送り込んだ。西陣は国産生糸への依存を高めて地方の養蚕を一層刺激し、同時に絹織物の生産も各地にさかんとなった。桐生・足利は西陣からの技術導入によって織機を転換して西陣と肩を並べる機業地になった。近江商人は地方の生産地が自前の生糸で織り上げた絹織物を「日野絹」として各地に売り歩き、ついには輸出を計画して鎖国の修正を要求するまでになったが、輸出することが禁止された。この事実は『長崎県史』に「日野類」が唐船に売り渡し禁止の「御停止物」の品目に含まれていることから判明している。ちなみに「日野類」とか「日野絹」は近江の日野でつくられた品物を意味するのではなく、日野出身の商人が知恵と足で各地の産業をつないで、まとめ上げた絹織物を指す総称である。

鎖国はローマ教会の宣教師が日本にやってきてキリスト教を広めはじめた結果、しだいに各地領主層まで入信する様子をみた統治者が、自己の統治支配秩序が崩れることを怖れたこと、民衆のうちに統治者を超える権威の意識が育つことを怖れたことにはじまる。したがって、まず支配下の人間がキリスト教に染まる機会をなくす方策がとられた。それがキリシタン布教・信仰の禁止であり、宣教師追放であった。宣教師は外国からの渡来人であったから外国人一切の入国禁止となり、日本人が出国して外国の気風に染まらぬよう出国禁止となった。キリスト教とはまったく無関係にすでに海外にあった日本人の帰国までも禁止したのは行き過ぎの嫌いはあったが、人間の心の内の見定めが難しいことを考えれば、やむを得ない安全策であったろう。

古くから日本の先生格としての位置にあったシナは明・清ともにキリスト教とは関係しない国柄とみなされ、海外情報源としての役割は大きかった。宣教師もローマ教会に続いて新教の各国からも来日し、互いに競争する立場からの情報を統治者に吹き込むことに余念がなかった。真偽の程はともかくとして、秀吉は、ポルトガル人は宣教師が民心を慰撫した後に武力で領土を乗っ取ることを国是とすると耳にした結果、即刻キリシタンを追放したと伝えられる。ポルトガルがスペインと世界を二分する裁量をローマ教皇がおこなっていた事実を知れば、そういう国との断交が、日本が西欧の植民地とならなかった理由のひとつにはなるが、徳川の太平の眠りに入る前の日本の武力は当時のスペイン遠征軍よりも強かったとの話もある。
秀吉も家康もキリシタンは禁じても通商は続ける意向をもっていたが、人の心に戸はたてられない理屈で、信仰心に凝り固まった宣教師の執拗な日本潜入は、隠れキリシタンを生み、領主の暴政とあいまって島原の乱を引き起こしたあげくに鎖国となってしまった。三代将軍家光の時代だった。出島にいたオランダ人はオランダ国の代表ではなくオランダ東インド会社の社員だったが、島原事件では幕府に加担して大砲を提供して心証を良くした結果、宗教には関係しないと誓約して貿易を許された。鎖国下の日本でのオランダ人の振る舞いをヨーロッパの国としての行動と考えるのは間違いである。

一時期倭寇という厄介者の存在があった。元の時代に初めて記録に現れる。倭寇は日本、朝鮮、シナ大陸沿岸の出身者で海賊行為、人身拉致と売買、密貿易などをした集団である。まだ人を捕らえて奴隷に売るような行為が世界共通的におこなわれていた時代だった。秀吉も人身売買禁止の触れを出していたという。それはともかく、貿易に関していえば倭寇は政府公認の公貿易からはみ出した業者だった。
日本の貿易は遣唐使が廃止された9世紀から、室町幕府の明国との勘合貿易までの間、官による公貿易が途絶え、日元、日宋は私貿易で結ばれていた。明国との勘合貿易は明が海禁政策をとったためであるが、北九州沿岸の松浦、壱岐、対馬、五島あたりから生まれていた倭寇が一層激しく活動を始めた。ために明は繰り返し取り締まり方を頼んできたという。商売の世界にはどこにでも隙間業者が発生する。日元貿易のころに交換取引された物品を、ネットに紹介されている例で見ると、「交易品は、日宋貿易と基本的には変わらず、元からの輸入品は銅銭・香料・薬品・陶磁器・織物・絵画・書籍などであり、日本からの輸出品は、金・銀・硫黄・水銀・真珠・工芸品(刀剣・漆器)など」とある(「世界史の窓 日元貿易」)。
余談になるが、倭寇の扱う品物に刀剣が多かったそうだ。名にしおう日本刀は海の向こうでも評判で、倭寇に対抗するにはこれがいちばんだとか皮肉な話だ。ついでながら、琉球は日本刀を仕入れて鞘に朱の漆を塗ったり、柄に螺鈿の細工を施したりして再輸出したそうである。日本刀の好評をうけて刀鍛冶は大忙しだったが、時とともに粗製乱造が増えてきたという。また、とばっちりを受けて鉄製の農機具の発展がどれほど阻害されたか想像に余りあると嘆く研究者もいる(佐々木銀弥「岩波講座日本歴史7、1976」)明が海禁をやめると次第に倭寇は消滅したようだ。

鎖国とは何であったかを物品の流通関係から見てみると、うえに述べてきたようにいろいろな実態が透けて見えてきてなかなか面白かった。文藝春秋6月号に出口治明氏が「交易から見れば通史がわかる」という記事を載せている。生保の社長さんだから、時代ごとの細目では学者さんたちと少し違う部分はあるけれども、似たようなことを考える人がいるものだと思った。倭寇であれ、御朱印船貿易であれ、東南アジア辺での交易結果をも日本にもたらしていたことから、鎖国といいながらも実態は世界貿易につながっていたことに、いまわたしの関心は向いている。ペリー遠征記は魔法の玉みたいにいろいろな風景を見せてくれたものだと思う。
今回読んだ本:信夫清三郎『江戸時代 鎖国の構造』新地書房 1987年(2018/9)

2018年8月8日水曜日

読書閑談 太平洋航路の補給港  ペリー日本遠征記(その5)

1853年、ペリー提督は日本へ行く途中で琉球諸島と小笠原諸島に立ち寄っている。この度の遠征目的がいわば太平洋航路開設の準備であって、蒸気船が就航するには、避難・給水はもとより、何よりも石炭を補充する中間港を必要としたからである。マデイラ島停泊中に海軍長官に宛てて書いた文書にも、米船の避難および物資供給のための入港を求めても、もし日本が武力に訴えて拒否するならば、南の島々にその便宜を求めることにすると明言している。日本が異国船打払令によって米船モリソン号を砲撃した事件(1837年)ののち態度を改め、1842年以降は天保の薪炭給与令を施行していたが、遠征記の記事からは、まだその情勢変更が伝わっていないように読める。ペリーが来日して交渉の結果、長崎のほかに下田と函館の開港が実現した。そのためであろうか、現代日本の社会では黒船来航に大騒ぎしたことは長く話題にされているが、ペリーが、日本との交渉が不調の場合、琉球や小笠原に補給港獲得を目論んだ事実は霞んでしまったようだ。

1853年6月に、滞在中の那覇を一時離れて、ペリーはサスケハナ号とサラトガ号の2隻でボニン諸島(現小笠原諸島)を探検した。ボニンは無人の訛りで、島々の帰属はまだ決まっていなかった。事前の資料調査でこの諸島の位置が補給に適当と見定めたペリーは、是非とも実地に地形水深等を調査したいと願っていた。ピール島(現在の父島)の二見港の位置に良好な碇泊地を見つけて、その奥に事務所、波止場、石炭集積所を建設する場所が選ばれ、土地の所有権を入手した。土地を購入した相手はナサニエル・セイヴォリー、マサチューセッツ生まれ。最初の移住者の一人で、移住者たちの首長的存在だったようだ。ちなみにナサニエルから5代目に当たる子孫のセーボリー孝氏が米国図書館でこのときの土地契約書を発見してwebに公開している。
https://www.50colors.anniv-ogasawara.gr.jp/46

ペリーは当時の米国郵船事業にも関わった経験もあり、その観点から上海とカリフォルニアを結ぶ郵船航路開設を計画し、中間港にボニン島を適当と定めて植民地を建設することを提案している。英国からインド洋経由で米国東海岸までの所要日数など詳しく計算して遠征記に含めているほか、任務を終了して帰還後に編者ホークスに手渡された計画文書も第10章の終わりに付記されている。なお、植民地建設といえば、アフリカ艦隊時代のペリーは解放奴隷をアフリカ西岸に植民してリベリア国を建設する事業にクェーカー教徒の志を燃やした経験を持っている。第2章で西アフリカ沿岸の航路に詳しかったことが思い出される。

母島については、プリマス号のケリー艦長が1853年9月の日付で報告しているところによれば、同島を占領したことと住民組織ができていることが記述されている。ケリー艦長が提督から受けた指令にナサニエル・セイヴォリーとジョン・スミスについて調査することが述べられてある。後者については父島のセイヴォリーたちの後見人として残した水兵らしいが、ほかに記述がない。セイヴォリーについては、「『ピール島植民地』という名称で自治政府を組織していることがわかった」とあるが、これは6月にペリーが訪れたときにセイヴォリーに託した計画であろう。この自治組織は「文明および未開の国々から訪れた放浪者による憲法制定の独創的な試みに関する興味深い見本として、以下の文書を付記する」として規約が付記されている。この規約の文言もあるいはペリー氏の手になるものかと想像する。遠征記は編集されてあるため後世に残さない事情や記録もあったことが考えられる。
小笠原諸島は1876(明治9)年に日本領有が確定した。

琉球諸島に補給所をもうける案件については、石炭500トンを収容できる貯蔵所を建設することが琉球当局に同意され実行されている。遠征記の最終部分にすでに積み荷の置き場として利用されているように述べられている。ペリーが最終的に琉球を離れるときまでに、日本と締結した友好条約と同様の協約が締結され、避難および補給についての課題は解決された。
この協約の案文検討の段階で、米国が琉球を独立国として認めるとの文言を提示したのに対して、摂政は清国に服従する義務を負っている立場上、あからさまに独立を意味する文言は避けるよう求めた。この場面が意味することは、ペリーたちには最後まで琉球が置かれている国際的な状況が理解しにくかったということである。それは無理もないことで、当時の琉球は王制を遺しながら、薩摩の島津氏の支配下にあって、同時に清国に朝貢していたのであった。これを徳川幕府からいえば、対外通交の禁止の例外として島津家には琉球を通じてのみ対外通商を黙認していたわけである。協約文言で独立が認められてしまえば、清国は朝貢を拒否するだろうし、ひいては幕府も薩摩経由の交易ができなくなって、王制の危機を招く。ここはなんとしても現状維持で凌ぐほかないのであった。
ペリーたちの現地観察でもわかったように清国船の入港は一切なかったし、シナ人の存在も見られなかった。外国排斥はしっかり守られていたのである。別の資料によると薩摩の役人も僅かの人数だけが常駐していたらしい。遠征記の記事中日本人の登場は一箇所一人だけである。清国との交易は常に琉球船が往来していた。那覇港には日本船が数多く入港していたと記事にある。鎖国とはいうものの薩摩と幕府はこうして適当に利益を得ていた。

さて、琉球の国際的立場に関連して、遠征記には宣教師ベッテルハイムという琉球にとっては厄介な存在が述べられている。
「艦隊が入港すると、町の北の、奇妙な形につき出した岩の上にある一軒の家のそばの旗ざおに、突如としてイギリス国旗が揚がった。その家は、宣教師のベッテルハイム氏の住居だった。彼はユダヤ教からの改宗者で、イギリスで結婚し、信心深いイギリスの紳士たちや、イギリス海軍士官たちの庇護のもとに5、6年前からこの島に住んでいたのだが、琉球人たちはこのことをまったく快く思っていなかった。」
「ベッテルハイム博士は日本の小舟に乗って艦を訪れた。彼と島民との関係はうまくいっていなかったため、博士は艦隊の到着を喜んで迎え、すくなからぬ興奮が態度に現れていた。彼は提督の部屋へ案内され、2、3時間ほど話し込んだ…」
次の出番では迎えのボートが出されて、博士は提督、ジョーンズ牧師、通訳のウェルズ・ウイリアム氏と朝食をともにする。そのあとはいろいろな場面で博士の家が利用されたり、博士が立ち会う場面があったり、はては琉球当局がペリー一行の立ち入りに強く抵抗を示した王宮訪問の際に博士も同道している。
初対面のはずの博士に対してペリーはどうしてこうも簡単に心を許して仲間扱いをしたのか。まして住民に快く思われていない人物をあえて王宮にまで連れて行くとはどういう神経なのだろうか。住民との融和を考えている立場ならこれはないだろう。読者としてはこのように思える。

第11章に島民の宗教に関する考え方とベテルハイム博士が島民の間に暮らし始めた事情についての説明がある。
1846年のこと。「信仰熱いイギリス海軍士官たちが、この島にキリスト教の宣教師を派遣する目的で「琉球海軍伝道団」を結成して、最初に送り込んだのがハンガリー生まれの改宗ユダヤ人ベッテルハイム博士だった。帰化してイギリス臣民となりイギリス女性と結婚した。医師であり、言語学者であり、偉大な精神力と活発な体力、不屈の精神力の持ち主であり、宣教師の資質を多く備えていた。当初はローマ教会の宣教師も二人いたが、布教を断念して去った。ベッテルハイム氏は滞在し続け、活動の手を緩めなかった。」
1850年に琉球に滞在したヴィクトリア(香港のこと)の元主教による情報。
英国汽船レイナード号の船長が現地当局者から受け取った2通の文書のうちの1通に島民の宗教思想が述べられてあった。そこには、
「われわれの生活のあらゆる状況を律しているのは孔子の教義のうちの修身斉家の原理である。国政は孔子が伝えた規則と原則に従っておこない永遠の平和と安寧の確保を心がけている。わが国の上流社会も庶民も天性の能力に不足があり、儒教に専念しているにもかかわらず、いまだ完全に習得するに至っていない。このうえ儒教に加えて天帝の宗教(キリスト教のこと)を学ぶことになれば、その試みはわれわれの能力を超えるものとなって、それに心が傾くことはないであろう」
とあった。

これに対してヴィクトリアの元主教も語ったそうであるが、キリスト教徒の見方は、孝行を徳とする家父長制は奴隷制の根源とみなすということである。
虐げられている人たちは思想と行動の自由が束縛されなければ福音に耳を傾けるはずである。はじめのうちはみんな話を聞いてくれた。ところが支配者の日本の当局者は、キリスト教の形跡が国内に少しでもあることを許さず、日本の制度を崩壊させるとして警戒した。はじめは穏やかに対応した琉球当局もベッテルハイムの執拗な布教活動に次第に先鋭になっていった。こうして対立が完全に敵対関係になったところにペリーの登場だった。

琉球限りで通交は黙認するが、キリスト教は認めないとの日本の支配姿勢は具体的には目に見えなかった。日本の本土であれば転向か殉教のどちらかを選ばされたはずだがベッテルハイムにはわからなかったのだろう。ペリーは文献を通じて本土での宣教の実態を知っていたと思うがどうだろうか。
琉球当局は日本の法律の執行はできなかったから、上記のような穏やかな文面でしかキリスト教を拒否できなかったと考える。
1854年7月10日付の琉球当局から提督宛の文書には、ペリーの帰国に当たって同氏を連れ帰るよう嘆願してあった。その願いを聞き届けたのか、提督はミシシッピ号にベッテルハイム氏を乗せて那覇を去ったのであったが、なんと後任の宣教師がすでに着任していたらしいのは琉球には気の毒なことであった。

それにしてもペリーがベッテルハイムに向けた好意的と思える処遇はどういうところに根があったのだろうか。8年間嫌がらせを受けながらも住民の間に住み込んでいた実績から、かなりの生きた情報が得られたと考えられるから、重宝な人物だったことは理解できる。あとは琉球人対キリスト教徒という枠組みでペリー自身の行動を律していたということかも知れない。

とにかく厄介事がひとつ片付いたことを読者としても喜びたいところではあるが、ペリーが日本に出かけている間に留守番役のプリマス号の水兵が不祥事を起こして殺された事件が起きていた。酒に酔って住民の家に入り込んで婦女凌辱というお定まりの犯行に及びかけたところで男たちに追われたあげく海中に逃れて溺死したという事件だった。提督は水兵の処分は米国側でおこない、加害者となった住民は琉球当局の処置に任せることで落着した。
この時代、米国海軍は誰でも入れる状況にあり、海賊まがいの連中もかなり混じっていたというから、そういう手合を規律で縛って働かせる提督以下の士官たちも大変だったことだろう。それにしても、いまに変わらぬ沖縄問題が160年も前から始まっていたとは、遺憾に思うどころではないが、世界中の軍隊の課題であると思えば、ことは人間の問題に行き着いてしまいそうだ。なにをか言わんや、である。(2018/8)

2018年7月23日月曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その4)気ままに拾い読み

第3章から第6章 那覇入港まで

第3章には希望峰を目指してと題されて、まずセント・ヘレナからケープタウンまでの航路と海の様子が述べられる。
当初の提督の考えでは、マデイラからケープタウンに至る蒸気船にとっての最良の行程は、石炭が十分にあれば、ヴェルデ岬からまっすぐアフリカ沿岸のケープ・パルマスに向かい、それから海岸に沿ってテーブル湾に至る航路であった。ところが途中で、風の具合が思わしくなくなったために、念の為に石炭を補充したほうがよいとの判断にしたがって舵をセント・ヘレナに向けたのであった。
ところが、ジェームズ・タウンを出帆してみると、南東貿易風と逆波の速い流れが進度を阻害した。蒸気力を増やすのはたやすいことであったが、この船の効率は一日あたり石炭26トンで最大になることがわかっていたし、この海域での石炭の入手が難しいことと、値段や積み込み費用と荷役時間を計算すれば、石炭を多く消費するより速度を上げないほうが得策と考えられた。だからそのようにして進んだという意味の文章。

この海域での石炭入手の可能性については、イギリス 人 が セント・ポール・ド・ロアンゴ に、 アフリカ 海域 の 蒸気 巡洋艦用の石炭貯蔵所を設けている 。ある英国会社がヴェルデ岬諸島のセント・ヴィンセントのポート・グランドに石炭貯蔵所を設けて、立ち寄る蒸気船に妥当な値段で供給されるという。
以上調査の結果として。いまのところ、アメリカ船が確実に石炭を補給できる保証はない。それなら、合衆国を出港する蒸気船に先立って、まず石炭船を先に送リ出すことだ。と、ここに書きながら実は、遠征隊のアメリカ出発に先立って2隻の石炭輸送船を送り出したことがのちに明かされる。
最良の航路は、マデイラからセント・ヴィンセントを経て、ケープ・パルマスを通り、海岸沿いに南下してケープタウンに向かう。海岸沿いの航路をとれば、陸からも、海からも微風であり、海流も都合よく南向きである。
今回は、こののち、ケープタウンでファニュール・ホール号から石炭の補給を受けた記述がある。
訳文に表示された地名・島名はグーグル地図ではそのままの検索では見つからないことがある。例えば、ヴェルデ岬とあるのは、原文にCape de Verd islandsとあり、現在ではポルトガル発音のカボ・ヴェルデで通用している。1975年にこの名称の共和国ができた。遠征記の当時は一群の島々を指す。
セント・ヴィンセントは、サン・ビセントで見つかる。セント・ポール・ロアンゴは遂に見つけられなかった。パルマス岬はリベリアにあるチッチャな岬だ。

1月24日本船はテーブル湾のロベン島と本土の間を通過して碇泊する。この島はハンセン病患者の隔離と政治犯を収容する刑務所であったが、1853年当時はどうだったのだろう。マンデラ大統領も27年の獄中生活のうち18年間をここに収容されていた。1999年、人種隔離政策の記憶を伝える負の世界遺産になった。ケープタウンの記事を読んでいる折も折、7月18日は生誕100年に当たり各地で記念の催しが行われた。この読書のいい思い出になりそうだ。
ケープタウンは1650年にオランダ人によって建設されたが、1759年にイギリス人の手に渡り、アミアン和約のあとオランダに返還された。遠征記は1806年以後イギリスに占領されて今日に至っていると書いている。アパルトヘイトの問題はまだ先のことだ。
暑さと強風とホコリの町、あまり楽しくなさそうだが、町は繁栄している。ケープタウンの人口は22,500、それを除いた植民地人口は20万、うち白人は7.6万、有色人種10万人とある。原住民のホッテントットはもはや純粋種はいなくなったとか、ヨーロッパ人に滅ぼされた原住民はわずかにブッシュマンが残っているとある。ホッテントットは子どもの頃よく耳にした。ブッシュマンとどちらもいまや差別語になった。
「しかし、我々アメリカ人には、他国の国民が、征服した国々の、原住民に加えた非道を罵る権利はない。厭わしい偽善でその行為を取り繕うイギリス人に比べればまだしもましかも知れないが、我々も土着の原住民を欺き、残忍に扱ったことについては彼らと大差はないのである」(ペリーのことば)。

2月3日午前11時出港、18日、モーリシャスのポート・ルイス着。途中難しい風向と採るべき針路についてサスケハナ号の記録と比較して最良航路を探っている。とにかくアメリカ海軍では蒸気船の経験がまだないからいつも調査しながら進む様子がみえる。
英海軍のステイクス号と遭遇したときの相手船の外輪操作に触れている。同船は帆で進んでおり、エンジンから切り離された水受けを全部付けたままの外輪が船の動きに連れて回転するにまかせていた。イギリスの蒸気艦はしばしば燃料の節約のために、簡単な操作でエンジンから外輪を切り離す。この接続と切り離しの作業はわずか2、3分で完了する。 合衆国海軍の蒸気艦の場合は、エンジンを取り外すことがほとんど不可能であり、帆だけを使うための実地の方法といえば、水に浸かっている水かき板を取り外すしかない。この作業は穏やかな天気のときしかできないうえに、約2時間を要し、再び取り付けるにはその2倍の時間がかかる。このことだけでなく一般的にアメリカの艦船が各国に遅れを取っていることを嘆いている。

ポート・ルイス港ではハリケーンの猛威に耐えられるよう水先案内人が活躍し、すべての入港船舶が係留用の錨に軍艦用の鎖で繋がれる。強風の脅威と戦いながらも、知識と絶えざる気配りによって見事に管理されている港湾運営を称賛した提督は港務長のイギリス海軍大尉に感謝の覚書を送った。

第4章モーリシャスからセイロン、シンガポールへ。
モーリシャスと隣接するブルボン島は1505年にポルトガル人によって発見され、のち、オランダ人、フランス人、イギリス人と領有が代わっている。ペリー提督が訪れたのはイギリス領時代である。ブルボン島は正確にはレユニオン島と改名されていたはずである。記事は気象条件と植生に触れ、近年大増産中の砂糖を特筆している。しかし、農園労働の人手不足は1833年のイギリス政府の奴隷制廃止以後、植民地各地の共通問題であった。モーリシャスの農業労働も黒人奴隷がいなくなった。それに一般的に黒人は働きたがらないのである。しかし当地では移民でクーリーと呼ばれる労働者がそれを補って港湾荷役と農園労働に従事していたとある。クーリーとあるだけで人種は書いていないが、ふつうはインド人とシナ人をいうはずだ。
島の全人口は18万人、そのうち10万人近くがマダガスカルやアフリカからの黒人、マレー人、マラバールからの漁師、ラスカル人(インド人船員か)、シナ人とある。白人は9千ないし1万人。大部分はフランス系のクレオールという。そして役所関係のイギリス人。

モーリシャスといえば『ポールとヴィルジニー』の悲しい物語があるそうだが、どれくらいヒットしたものやら、私は縁がない。遠征記には、この物語はフィクションで、題材はここの港で遭難したフランス船サンジェナール、ときは1744年8月14日、作者は当地に在任したフランス士官だったと明かす。遭難者の中には二組の恋人らしい男女がいたのは事実だそうである。大いにもてはやされた物語にあやかって、さる別荘の持ち主が亡き恋人たちのための記念碑を庭園に作った。自分の別荘に人寄せの名物を付け加えた人物はもてなし好きだったそうであるが、100年以上も経って訪れたミシシッピ号の乗員たちには、荒れた墓碑があるだけで挨拶もなく、ちゃっかり見物料をとられたそうである。ちなみにセントヘレナのナポレオンの墓でも見物料をとっていたそうで、こういう習慣はイギリスのものだと書いてある。

モーリシャスでは12月から4月までの期間はもっぱらサイクロンやハリケーンが話題になるという。ネットで調べてみると次のようだ。どちらも熱帯低気圧、発生場所によって名前が違う。サイクロンはインド洋北部または南部、太平洋南部、ハリケーンは大西洋北部、太平洋北東部、太平洋北中部。日本人に馴染み深い台風は太平洋北西部で発生する。
ミシシッピ号はサイクロンの季節にセイロンに向かおうとしている。数名の経験ある船乗りの勧告に従って、150海里迂回する次の航路をとった。「カルガドス諸島の西を過ぎ、アガレガ島とラヤ・ド・マーラ砂州の間を抜けた。それから砂州の北端を回航し、モルディヴ群島の南端であるポナ・モルクに向かって東に舵を取り、そこを過ぎると、セイロン島のゴール岬を目指した。」

ここで再び石炭の話が出る。「合衆国を出発する前、提督の提案に従って、ニューヨークのホーランド・アスピンウォール商会は石炭を積んだ二隻の船を、一隻は希望峰に、もう一隻はモーリシャスに向けて出発させていたが、結果的にこの措置は賢明だった。」これがなかったら、後続のポーハタン号とアレガニー号は燃料調達に多大の困難をきたしただろうと書いている。
約500トンの石炭を補充したミシシッピー号は2月28日にポート・ルイスを出港し、モーリシャスで積み込んだ石炭でシンガポールに達することができそうなら、シンガポールかゴール岬(セイロン島)のどちらかに寄港して燃料を補給することにした。
13日後の3月10日夕方にゴール岬に着いた。セイロンの名は遠くなった現代でもスリランカの港はコロンボだ思い込んでいるので、ゴール岬といわれてもピンとこない。英語表記はPoint de Galle、コロンボの100kmあまり南にある。歴史のある港のようだが、調べればわかること、先を急ごう。ゴール岬の港はイギリスーインド間の郵便汽船の共同集結地で、紅海との往復だけでなく、喜望峰回りでインド・中国に行く船も寄港する。大量の石炭がイギリスから運ばれて貯蔵されているが、立ち寄る船が多いため、時には不足することもある。そのためオリエンタル汽船海運会社は外国軍艦には1トンたりとも供給してはならないと厳命を出しているので、ミシシッピ号は政庁から僅かな供給を受けただけだった。ここでも先回りの石炭船計画が図に当たったことがわかる。
この港町では、スコットランド生まれの合衆国通商代理人が債務不履行で処罰され自宅監禁されていて、提督と士官たちは面目を失ってきまり悪い思いをした。原因は合衆国の領事制度に不備があるためであり、不適格な人選と衣服費をまかなうにも不足する報酬ではやむを得ない面もある。何やら西部劇のシェリフの安直さを思い出す。
ここの歴史についてはポルトガル人による発見のあとオランダ、イギリス、フランスの争いが続き、1815年以降は住民の要望により全島がイギリス国王の領有になったと書く。不幸なシンハラ人に対して誰が最も残忍な圧政を行ったか判断するのは難しいが、どの支配者もおのれの欺瞞と背信に言い逃れはできまいと痛烈である。ヨーロッパ人が来る前は自然が美しく、産物が豊かな島であったのにと残念がっているのは、明治の岩倉使節団一行が東南アジアに来てみて、ヨーロッパ人の実態を見抜いたことを思い起こさせる。島の産業について自然の恵みの豊富さの割に産業が発展しないと報告される。魚・米・ココヤシを常食とする島民がそれ以上求める必要がないからという皮肉な理由が挙げられる。まさに天国のような土地柄であれば、資本主義だの商業主義だのといわずに、そっとしておきたい気分になる。
野生動物については象の多さに触れ、象刈りの話が面白いといえば象に悪いが、あまりにも多いのに驚く。ライフルでの倒し方も教えてくれる。インド象よりは小型で牙を持つものは少ないそうだ。尻尾一つ持っていけば、7シリング6ペンスの報奨金がもらえるという話は昔の日本のネズミ捕りみたいだ。
蛇は20種類しかいないというが、それだけいれば十分だろうに、こっちは蛇が大嫌いだ。アナコンダ、ボア、ニシキヘビなど、人が乗った馬を丸呑みしたとか、話のタネだけの言い伝えもあるが、鹿を丸呑みして腹がふくれて簡単に捕まる話もある。落語の蛇含草はここにはないらしい、とは私の勝手な付け足しである。真面目な話では毒蛇に噛まれたときの応急処置が紹介されている。
セイロン島の人口144万余、うち白人8275人、141万人余が有色人種、2万余りが外国からの居住者とある。暮らしと言語、宗教も簡単に触れている。原住民を原文ではアボリジニーと表記してあるが、話すのは独自のことばで、書くときにはサンスクリットかパーリ語を用いるとある。特記事項としてシャム軍艦との遭遇のことが記され、1836年に結ばれた条約が死文化されていたのを復活させるべく交渉したと記録されている。

3月15日シンガポールに向けて出港した。大ニコバル島とスマトラ島北端にあるプラウ・ウエーの間を通過して、マラッカ海峡に入る。難所で知られる同海峡も夜間に一度投錨しただけで無事に抜けたようだ。海峡通過中イギリス軍艦と礼砲を交換した。3月25日シンガポール入港。

第5章シンガポールから中国海域へ
数年前に自由港とした方策が大成功して一大商業港として繁栄している港の状況を記している。シナの交易は注目すべきだ。ジャンク船によって行われるが、彼らは北東モンスーンに乗って訪れ、茶、絹などを小売しながら港内にとどまり、南西モンスーンが吹き始めると戻って行っては次の航海に備える。彼らが持ち込む積み荷は大量のシナ人移民、多額のドル、茶、絹、磁器、煙草、桂皮、南京木綿、オウレン(薬草)、精巧な細工物など大量、持ち帰る品々はアヘン、ツバメの巣、ヨーロッパ製品などである。街の様子を述べた部分で港に面した住宅に比べて、マレー人やシナ人の粗末な住まいが目をひいた。郊外の道路や小路に近い沼沢地を選んで、杭の上に木造の家を作り、出入りのために一枚の板を渡すのだ。この方式は150年後のいまでもブルネイなどの海岸に見られる水上住宅と変わりないことに驚いた。ミシシッピ号が訪れた当時の人口は8万人だそうだが、イギリス領有前は200人だったという。シナ人は6万人をくだらないそうで、その他はユダヤ人、マレー人、アラビア人、近隣諸国の土着人という。ラッフルズの優れた手腕によってこの地を領有できたイギリスと東インド会社は、その手順が公正であったことは特筆されるべきと強調している。ラッフルズはジョホールとシンガポールのラジャからこの島の主権と領地とを規定の金額と年金とによって購入し、その支払も適正に行われてきた。これは一般に、立派な国々を暴力によって平然と奪い取り、住民を隷属状態に置くヨーロッパ政府の中で、極めて稀有のことであるとしている。
シンガポールはイギリスの郵便船にとって、寄港地、また石炭貯蔵地として重要な拠点である。積極的な東洋汽船海運会社は町から2マイル半のところに新港を建設し、巨大な石炭貯蔵所をつくった。シンガポール港では、船舶に必要な大抵の物資が適正な価格で手に入る。水は良質で、港務長が管理している貯水タンクから供給される。
イギリスが領有した当初、島は全く開拓されていなかった。それがペリーが訪問したいまではかなり奥まで開拓されてるが、シナからの勤勉な移民の努力によるものである。
ヨーロッパ産の様々な動物が輸入されている。馬はずんぐりした気の荒い種類で、大きさの割に素晴らしく丈夫である。簡易な馬車に繋がれて利用されているが、台に乗って手綱を取る御者は稀で、大抵が馬の先に立って走っている。これなら自然に馬と人とに仲間意識が生じるから酷使することもなく、動物愛護な観点からは良い方法である。(馬が一歩歩けば人は2歩歩くから、自然に馬に優しくなるとは面白い風景ではないか)。明治以後に同地を旅した日本の作家たちにも馬車に乗る話はあるが、このことは初耳だ。マレーの虎とはよくいわれるが、実際に人食い虎が多くいたことが書かれている。さらに、ラッフルズは虎だけでなく、マレー人のバッタス族という人食い族は互いに食い合う部族だそうだ。それでいて読み書きができ、古代から法典も作っていたから全くの未開人とは言えない存在だ。
遠征記のシンガポールに関する記事は、100年の時を隔てたはいえ、リー・クヮンユー大統領の独立国シンガポールとはあまりにも様子が違いすぎる。

さて、必要な燃料を積み込んで3月29日に出発した。4月6日にはマカオの錨地、更に翌日夕刻香港に錨を下ろした。この間インド洋と南シナ海の海の様子は船乗りには興味深いことのようで、成長の早いの速いサンゴ礁のため変化する水深などの記述がある。
香港に着いてみると、僚艦プリマス号、サラトガ号、輸送船サプライ号が碇泊していたが、政府からペリー提督の旗艦に指定されたサスケハナ号が見当たらない。清国駐在弁務官や公使館付き書記官、広東駐在の合衆国領事などを乗せて2週間前に上海に向かったと聞く。提督は驚き、落胆したと書いてあるが、実際はかなり怒ったはずだ。国務省と海軍当局の仲の悪さの象徴のような事件だろう。とりあえず、サスケハナの指揮官ブキャナンに上海でミシシッピ号を待つよう命令を出した。到着を歓迎する英仏各国士官たちから厚遇されることに触れているが、提督のことばをひいて「長い間の外国での勤務のうち、私が厚遇を受けなかった試しは一度もなかった。実際、合衆国政府を除くあらゆる国の政府は自国の士官たちに公式の饗応に使うテーブル・マネーを潤沢に与えているため、士官たちにとって、その金を使ってもてなすことは義務であり、また喜びであることも間違いない」と記述のあるのは著者の大いなる皮肉であろう。イギリスが領有した12年前には不毛の地であったヴィクトリア市に14,671人住んでいるそうだ。インドと香港の間では大量のアヘン取引が行われており、アヘンは香港に輸入されてから海岸伝いにシナに密輸される。街頭のいたるところにある市場で、中国商人が外国人を呼び込み、巡回商人たちが忙しそうに回って歩く光景が見られる。彼らは独特の服装と奇抜な道具で人目を引く。わが隊の画家は香港の少年理髪師の肖像をいきいきと描いた。

香港を発ったミシシッピ号はマカオを経由して広東河(珠江)の黄埔(ワンパオ)に錨を下ろした。大型船はここまでで、あとはボートで広東に行く。この道程の風景はアメリカ人が絵や話で想像していたものと雲泥の差で、まことにみすぼらしい光景の連続だったらしい。提督の心の広東とのギャップと記している。交易に重要な土地であっても、広東は風景も人心も荒れた土地で海賊や強盗も多く外国人も被害にあう。
第6章 マカオ・香港、上海、そして琉球へ向かう
広東を去る際、合衆国領事フォーブス氏の僚友スプートナー氏のはからいでマカオにある氏の邸宅を3名の士官とともに使わせてもらった。衣食は自前でまかなうが、細々した買い物を頼めばたちどころに取り揃えてくれる。細かいことまでよく気を配り、余分な金は一切受け取らず、ひたすら商売相手を快くもてなす東洋商人の気風だと感嘆頻りである。私はこの箇所を読んで、コンラッドの小説『ロード・ジム』に登場する船長相手のもてなしの 仕事を連想した。上海でも提督が滞在した邸宅の持ち主、このラッセル商会というアメリカの会社は、早くから清との貿易に携わっている会社でアヘンも扱っていたようだ。船長相手どころではない大物らしい。前出のフォーブス氏などもアメリカの富豪に列する人物と考えられる。いずれ調べてみたい材料だ。
4月28日の夕方、ミシシッピ号は再び海に乗り出した。サラトガ号は通訳に任命されたS.W.ウィリアム博士を待ってマカオに残る。上海に向かう途中のシナ沿岸は安全な航路ではないし、上海へ行く揚子江の入り口も砂州が多くて危険である。サスケハナ、プリマス、いずれも軽い座礁を経験した。ミシシッピもパイロットのミスで水路から外れたが、エンジンを使って自力脱出できた。サプライ号はなんと22時間後に風向きが変わって助かった。広くて美しい道路や建物が揃っている景色が紹介される。二つのゴシック風の教会、英国国教会とアメリカのプロテスタント監督派、いずれもこの地での布教の努力の実りとしてキリスト教徒たちに、この信仰の発展への希望を抱かせる、とあるのは、この遠征記の編者が牧師さんでもあったことを思い出させる。
マカオで滞在したラッセル商会の邸宅にここでも世話になった。ソーダ水はお好きですかと丁重に聞かれた提督は、自分の欲しいのはサラトガのコングレス鉱泉のミネラル・ウォーターだけだと答えた。翌朝、その召使いは、なんとその瓶を持って現れたのであった。滞在中ひっきりなしに晩餐会と舞踏会が催され、士官たちはいたるところでこの上なく親切な饗応にあずかった。街の印象は外国人居留地以外は、シナ人街特有であまり良いものではないが、アヘン戦争後の発展は間違いなく進んでいる。道台(タオタイ)というのは知事兼司令官で大変な仕事を受け持っている高官である。挨拶に出向いたために答礼を受けた。大層な服装で身を固め天蓋付きの輿に乗って銅鑼の響きで到来が告げられる。こちらが訪問するときにも輿に乗せられて行列である。折からシナは太平天国の内乱中で事態は刻々と動いていた。提督も関心は深く、1853年5月の日付で洪秀全の主張と情勢を記録している。提督は危機に直面しているアメリカ市民の利権を考慮して、アメリカ人とその財産を守るためと、遠征隊の目的をないがしろにしないように、プリマス号1隻を残すことにした。
アメリカ領事館と上海港

ミシシッピ号は5月4日に上海港に到着し、17日までの間に、旗艦乗り換えや石炭食料等通常の積み込みを行った。今回は特に琉球諸島で使用する予定のシナのキャッシュ(銅銭)5トンあまりも積み込まれた。1853年5月16日朝、ミシシッピ号が、次いで翌日提督がサスケハナ号で河をくだった。プリマスは事変の経過を見るため残され、財産保護の見通しがつき次第あとを追うことになった。出港のときに出会ったカプリス号が加わった。
サスケハナは揚子江河口に到着すると錨を下ろして3日碇泊した。ミシシッピとサプライはその両側に碇泊した。ミシシッピ号に積む予定の石炭を運んできたジャンクが砂州に乗り上げた。―ーそれでどうなったんだ。わからない。
5月23日、那覇に向けて出発した。ミシシッピはサプライを曳航した。航海中戦闘準備の演習と、琉球を訪れたときの艦上の規律、どこで日本の住民に会っても友好的関係を保つこと、緊急の場合以外は武力に訴えないことなどの確認と命令などが読み上げられた。25日陸地が見えるようになり、26日夕刻那覇沖合に到着、マカオから来たサラトガ号と合流して入港した。

今回から角川ソフィア文庫『ペリー提督日本遠征記(上)』kindle版、原文参照にはインターネット・アーカイブのPDFを利用することにした。(2018/7)














2018年7月14日土曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その3)拾い読み

読みやすくて気に入っていた角川版のペリー遠征記、図書館へ行って借り出し延長を頼んだら、残念、予約が入っていた。遠征記の続きを読むには当面古めかしい岩波版に逆戻りするほかはない。とにかく序論部分は通過したから、しばらく航海の記録を楽しもう、というのは早計で、海事については疎いから、読んでもわからないことを調べる楽しみだ。いくつか翻訳が出版されているペリー遠征記には抄訳が多い。出版社は、読者としての日本人は、日米の交渉そのものに関心が向いていると考えるからだろう。江戸湾に入っていく記事が始まる第12章までは省略されている版もある。それに対して私の関心は、そこに至るまで長々と克明に述べられている森羅万象にも向いている。さいわい岩波版は言葉遣いは難しくても記録されたすべてが翻訳されている。正直に言えばこの翻訳の日本語には理解できないものもある。そういうのは原文で考えるか、角川版の翻訳で補うことにする。原文参照は今まで参照したe-Pubはスキャナーによる読み違いが多いから利用をやめた。かわってInternet ArchiveというフリーサイトのPDFを読むことにした。

第1章にはアメリカ国内で日本遠征が議論されるようになった背景事情と遠征計画が提案・決定されてペリー提督が出発するまでの状況が概括されている。
1848年にメキシコとの戦争が終わり、締結された条約によってカリフォリニア地域がアメリカに帰属することになった。この土地が太平洋に面していることで人びとはまず商圏が広がるだろうと考えた。アメリカが大西洋から太平洋にまたがって位置することは、ヨーロッパからアジアへの道筋にあたる。蒸気の時代にあって、東アジアと西ヨーロッパを結ぶ最短ルートになれば、それは世界の街道になるに違いない。時を前後して、この土地が金を産出することが知られたために、こういう発想がいよいよ膨らんだのである。シナが好んで自国を「中国」(the Middle Kingdom)と呼ぶように、アメリカこそ「中国」というにふさわしい、とまで書いている。

私たち日本人は、真ん中に大きく太平洋と日本、右端にアメリカ大陸が描かれているような世界地図を見慣れているので、ここに述べられている西ヨーロッパから東アジアへの道筋という概念を直ちには思い浮かべにくい。そして彼らが、すでにその半世紀以上も前から喜望峰・インド洋経由で中国貿易を行っていた事実を知らなければ、そのルートが最短になるという明るい希望にまでは考えがおよばない。アメリカ人はそれまでも大西洋を横切る距離だけイギリスに負けていると認識していた。
彼らがあらためて太平洋の彼方にみたのはシナであって、日本ではなかったことがこの章から読み取れる。蒸気の時代の最短ルートとなれば、蒸気船の石炭の入手がまず課題になる。シナに行くまでの中間のどこに石炭があるのか。どうしても中間に石炭補給港が要る、となって日本が浮上する。さてその日本だが、知らないわけではないが、日本の中の情勢がわからないのだ。この部分の訳文には、原文の表現「 terra incognita in Japan」をもって未開国としているが文意を表していない。ペリーは資料を沢山渉猟して研究している。シーボルトの『日本』も全巻読んでいる。文化のある国と知っているが、外國に戸を閉ざした理由を知りたいと、調べた。ヨーロッパ諸国の過去の交渉と失敗も知った。序論に述べられてあるとおりだ。アメリカはまだ無傷だ。なんとかなりそうだ、との気分でなかったか。
ペリー提督は日本に開港を求める交渉をすることを提案して、政府に受け入れられた。その使命は最終的にはペリーに委ねられて全権を与えられた。避難港と石炭補給地を確保すること、可能ならば、平和裡に通商関係を開く努力をすることが使命になった。技術士官だったペリーは職業的な意向から、麾下の海軍士官に科学的観察と研究を行う機会を与えて将来の科学者への道を開くことも計画した。当時陸軍ではすでに多数の科学者を育てた実績があったのに比べて海軍は遅れていた。
日本遠征計画が1年前に公表されると、随行希望が殺到した。軍律に従う要のない民間人はいっさい断った。なかでも、フォン・シーベルトは関係者を通じて懇請してきたが、日本の法を犯した事件に関わって国外追放された人物であるため断固として拒否したことは特筆されるべきとある。
10隻以上の艦隊編成計画は艤装整備の進捗が遅れに遅れた。プリンストン号は期待された新しい機械が不調でポウハタン号に替えられた。数隻は東インド艦隊の駐在地にいる。その場所は明らかにされていないが、だいたいインドネシア海域らしい。提督は全部が揃うのは待ちきれず、どこかで一緒になれれば良しとして、お気に入りのミシシッピ号だけで出かけることに決めたのだった。他の資料によれば、ペリーはアメリカ海軍に蒸気船の採用を勧め、この艦の建造から関わっていて知り尽くしていたという。
ミシシッピ号:建造1841年、外輪船、排水量3230トン、蒸気機関、速力8ノット、吃水19ft(5.8m)、兵装10インチ砲2基、8インチ砲8基。
ミシシッピ号の経路
1852年11月24日、ペリー提督はミシシッピ号単艦でノーフォークを出港した。太平洋に石炭補給地をもたないために航路は外回り、すなわちマデイラ、希望峰、モーリシャス、シンガポールを経由する。
少し横道にそれながら第2章の記事を追う。

蒸気船について。
先のことを言えば、上海で旗艦の蒸気船サスケハナ号に移乗して、ミシシッピ号とともに、汽缶を持たない帆船サラトガ号とプリマス号を曳航して4隻で浦賀沖に入っていった。この時代、後にも出てくるが、蒸気船と帆船の混合艦隊では戦列編成には曳航が常態であったようだ。
帆船しか見慣れていない日本人は蒸気船を見てびっくりした。しかも真っ黒だ。黒は不吉だ。じつは外装が黒かったのはコールタールを塗っていたからで、実は木造船だったための防腐目的だった。序論にでてきた長崎でのフェートン号事件。強引に入港したイギリスの武装帆船を追い払う策謀は焼き討ちにする計画だった。相手が木造船なればこその作戦だ。これは実行される前にフェートン号が出港してしまった。木造船をやっつけるには燃やすに限る。
黒船を見て慌てて築いたお台場に大砲を据えたが、当時の日本の大砲が撃ち出す弾丸は、ただの鉄の玉で爆発はしないから目標を毀すだけだった。黒船の大砲が撃ち出す弾は爆発したらしい。

蒸気船は外輪の水掻き板で推進する。外輪の構造は日本の田舎でよく見られた水車と同じだ。板で水を掻いて進む。よく考えてみると、水車の全体が水の中だと下半分が前に進む力、上半分は後ろに行く力が働いて、結果としては前に進めない。だから外輪船は水車の上半分は水上にある。水車を回す動力は蒸気機関、水を蒸気に変える熱源には石炭を使った。初期の蒸気船は帆と蒸気動力を併用した。いまでいうハイブリッドだ。ミシシッピやサスケハナはこの型だ。帆走するときには、水かき板が抵抗力になってしまうから引き上げる。脱着作業は波の穏やかなときに行うなど条件があるうえに、時間がかかったようだ。蒸気船で先行していたイギリスは簡単に脱着する方式を間もなく開発したが、アメリカ海軍は、ようやく蒸気船を採用したばかりで、そこまでの装備はない。帆走と機関による推進力を使ってどのように操縦したのか、航海を専門とする記録ではないから。そのあたりはよくわからない。けれども海域ごとの潮流の様子や季節の風向きはペリー自身も記録していた。蒸気船による航海資料は、アメリカ海軍総出で蒐集中だったかも知れない。記録された資料は遠征記の本記には載せなくとも付帯された3巻のうちには含まれているはずだ。
汽罐はミシシッピの場合、12基据え付けられていた。最高出力毎時8ノット、平均7ノットで航行している。1ノットは約1.852km/h。ミシシッピは1日26トンほどカンバーランド石炭を消費したとある。カンバーランドはアメリカの石炭産出地、または積み出し地を指す。

マデイラ島
ノフォークを出てすぐに航路は大西洋を横断する。最初に見る陸地はマデイラ島だ。出発後17日目、12月11日。石炭と水を補給する。
マデイラ島にて
海軍長官への手紙
マデイラに停泊している間に、提督は自分の任務について計画と見通しを国務省に示すべきと考えて海軍卿宛てに書き送った。その内容が航海記事の間に置かれた手紙の写しで判明している。
日本遠征の目的は、まずフィルモア大統領の親書を手渡し、難破船員の救護と 食料、水、石炭供給のためのアメリカ船の入港を求め、更に出来れば交易のための開港を望み、こ れらを条約にまとめることであった。砲艦外交という言葉がペリーの来訪に際してよく使われるが、国務省からは厳然たる実力の誇示を背景として行うよう指示が出ていた。ペリーは武力行使は避ける意向だった。この手紙にも、もし日本が本土に避難港を設けることを拒否するなら南の島々にそれを求めようと書いている。具体的には琉球列島の名を挙げて、支配者の薩摩候によって武装を認められていない島に避難・給水の港を獲得して、穏やかに、思いやりある態度で接すれば住民の心を開いて、いずれは交流を可能にすると記している。
避難港には食料供給の能力が必要であるから、そのためには作物栽培能力を増やすこと。当艦には園芸種子を準備してある。さらに耕運機、脱穀機など簡単な農具を供給すればなおよい。オランダ人の陰謀・誣言を暴き、日本人の知識を開くため、世界やアメリカの民情、政情を示す印刷物その他刊行物。活字と材料を備える小印刷機。このようなものを用意したい。日本人は言語に関心深く、翻訳は問題ない。こうして予め避難・給水港が確立され、労働、食料の対価支払いに不平等のないようにすれば自ずから親睦も可能になる。日本政府との親しい理解が生じるなら、円滑な関係が進むであろう。
そうなれば、カリフォルニアとシナの間を往復する船に安全が得られる。イギリスの「併呑」策がまだおよんでいない日本はアメリカにとって重要な通商路の途中に横たわっている。避難港を獲得することは急務であると述べてイギリスへの対抗を明瞭にしている。
1852年12月14日、マデイラにて、と締めくくっている。
注釈にいわく、長時間かかってペリーのもとに届いた国務省の回答には要望された農機具、印刷物、印刷機などを調えてヴァーモント号で送るとあった。
国務省のいう厳然たる実力の誇示について、実際に江戸湾内にあっては、然るべき交渉相手が出てくるまでは、日本の立ち退き要求に頑として応じないで、ペリー自身は姿も表さず、黒船の威容をもって圧力をかけつづける演出をしたのであった。一説には、日本のお偉方は勿体を付けて最後に姿を見せる習慣があることを、ペリーが逆手に取ったのだとするがどうだろうか、なかなかのユーモリストでもあったようだ。

さて、私たち読者もマデイラ島をゆっくり見てみよう。当時は保養地、いまも観光地として人気がある。
このあたり岩が多い上に冬場は風が強くて、碇泊には苦心する。12日夜にようやく碇泊できた。石炭と水を受け取るのに、供給側の仲買人が希望した港に近い岩影の碇泊地は、提督が地勢を観察した結果、出航の際には蒸気船でさえも困難があることに気がついて拒否したということがあった。それほどうねりと風に悩まされる島だが、非常にきれいな風景で、雨季が丁度過ぎたために渓流が美しい滝となっているのを船から見ることができた。主要産物はぶどう酒、また保養地としてよくイギリス人が多く利用するという。記述によれば港町フンチャルの街路は舗装されていて、車輪付きの輸送車の使用が禁止されている。まだゴムタイヤがなかった時代だ。島を訪れた人は最近まで輿(原文にはsedan chairsとある)やハンモックを利用していた。原著の挿絵にみえるハンモックは二人の男に前後を担がれたハンモックに仰向けに寝そべって運ばれている。病人ででもなければ、あまりお世話になりたくない乗り物だ。これらの乗り物は不便なため代用物がつくられた。それは重い荷物やぶどう酒の樽を運ぶソリで、上に華やかな飾りの車体がついていて牛に曳かせる。他の乗り物には馬もロバもある。坂が多いこの島の道路にはロバが一番適していそうだ。
この記事を読んで私は現在のマデイラ島、フンチャルをインターネットで観光してみた。なんと今でもソリがある。柳行李のような材料で作られた籠の箱に二人用の座席がついている。トボガンというが、これは明らかに観光用だ。操縦(?)は男二人が曳いたり押したりで乗客を運ぶ。観光客が写して投稿した動画もあって愉快だった。もちろん現代のことだからバスも自動車もある。なかなかの風景美、リスボンから空路1時間45分。残念ながら行きそびれたなぁ。
マデイラ島の乗り物;ハンモック(左)とソリ運搬(右)
テネリフェ近辺の貿易風帯の変化観測を特に記録。
12月15日、本艦は錨を揚げて、17日にはカナリー諸島西方を航行している。間もなく北東貿易風の吹く海域に入ると期待して、両舷の水かき板を引き揚げ、汽缶の火を落とし、完全に船は帆にまかされた。
12月22日に提督はお触れを出して、艦隊の行動に関して故国の公刊物へ通信することを禁じ、また友人あての私信を通じても報告を禁止した。これは海軍長官の命令なのだ。隊員の日記すらも海軍省によって許可あるまでは政府に属するとされた。その半面、乗員の将来、研究者などへの道筋を考えて、乗員全部に航海中に得ることができる資料を収集し研究することを奨励する。こうして科学的な訓練指導を行った。

カナリー諸島、パルマ、イエロ島、フェロ島、テネリフェ、ブラヴァ島、フォゴ島。本船がケープタウンに向けて南下する途中の記事にはこういう島々がある。地図の上で頭に入れないと、なにか落ち着かないからグーグルマップで調べる。
余談になるが、グーグルで島名を入力しても大洋の青色の中に何も表れない。目星をつけたあたりをどんどん拡大してゆくと、島が現れ、作業を続けると地形や集落などが見えるようになる。これは面白く楽しい経験だった。
どれも皆、絶海の孤島のような感じがするが、それぞれに町があり人が住む。ホテルもあったりする。そこへ行く空路を調べたり結構楽しい。こういう島の名前をつなぐ文章では風向きや潮流について、いつどのように変わったかとかが書いてある。煩雑であまり面白くない。こちらがそういうことに慣れない人間だから仕方ない。それでも潮流を調べている人にはどのへんの緯度で何がどうなるということは大事なことのはずだ。

ハーマタンというサハラ砂漠の塵を巻き上げて吹く強風についての記事もあった。ときにはモヤと思えるほどの風。ケープ・デ・ヴェルデ諸島付近でみられる。12月30日まで北東貿易風が吹き続いた。それが変わる方向やうねリが起こる様子が興味深そうに述べられてある。
「29日に北東貿易風は弱くかつ不定になり、、時々は静まったので、水かき板が再び車輪に取り付けられて船は蒸気で運転されたが、わずかに後方の蒸気缶二つを使用しただけであった。軟らかい風と穏やかな海ならば、この二つで1時間7ノットの速度を出すに十分なことが明らかとなった。けれども追波を伴う南東貿易風が全く落ちてしまったとき、速力は4ノット半ないし5ノットに減じた。けれども、更に二つの蒸気缶を使用し毎日石炭26トンを消費して、たちまち速力は7ノットに達した。」「蒸気船にあっては、風のために起こされる高波に阻まれるようには逆風によってその運動が阻まれない」、「穏やかな海上にあっては汽船がやや勢いのある軟風に逆らって比較的速く進行することもしばしばある。なぜならば、前方から吹いてくる風は、罐の通風を増してくれるからである」
このような記述や、その後にも海流と風向、水理学上の理論と実際など述べられている。このような観測・実験記事は、これまで帆船が往来していたこの海域を今後蒸気船が代わるについて調査資料を収集・研究するためだろう。

貿易風が予想より早く止まってしまったため、喜望峰まで直行の予定を変えてセント・ヘレナで念のために石炭を入手することに決まったとある。この島はずっと長くそういう役割を務めてきたようだ。寄港するからにはナポレオンの後を偲ぼうということにもなるらしい。
1853年1月10日正午、セント・ヘレナのジェームスタウンに到着した。1502年にポルトガル人によって発見されたこの島は、オランダ人とイギリス人の領有が二、三度交代し、1773年からイギリス東インド会社が所有して1833年に会社からイギリス皇帝に移譲された。町の人口2,500とある。気候がよく、作物、水産、牧畜に恵まれた結構な島だ。会社によって道路・設備も行き届いている。牢獄とは思えないこの島だが、ロングウッドにある百姓屋のような建物のみすぼらしさは地上の栄誉の無常を感じるに十分であったようだ。
セントヘレナの古い家

提督はナポレオンが居住した当時に構築された島の防備体制について検討し、帆船の時代には風と潮流の助けも借りて難攻不落であった島の防御態勢も蒸気船による攻撃には対抗できないことを、具体的な戦術を展開して論評した。蒸気力がもたらす世界情勢の変化がどれだけ重大なことであるかを一例をもって示したわけである。この章の初めの項目見出しに「ナポレオン奪回作戦?」と銘打ってあるのが愉快だ。もちろんナポレオンはこの30年前にここで亡くなっている。
1月11日午後6時、希望峰に向かって出帆した。

第2章はここで終わるが、私はまだ、ここに至るまでに文章化しなかった記事の細部を苦心して読み続けている。
第3章以降の記事に含まれる経路と日時を次に紹介しておこう。
 マデイラ島(12月11日 - 15日)第2章
 セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
 ケープタウン(1月24日 - 2月3日)第3章、
 インド洋のモーリシャス(2月18日 - 28日)第4章、
 セイロン(3月10日 - 15日)、
 マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)第5章、
 マカオ・香港(4月7日 - 28日)第6章
 上海(5月4日-23日)旗艦サスケハナに変更。
(2018/7)