2018年7月14日土曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その3)拾い読み

読みやすくて気に入っていた角川版のペリー遠征記、図書館へ行って借り出し延長を頼んだら、残念、予約が入っていた。遠征記の続きを読むには当面古めかしい岩波版に逆戻りするほかはない。とにかく序論部分は通過したから、しばらく航海の記録を楽しもう、というのは早計で、海事については疎いから、読んでもわからないことを調べる楽しみだ。いくつか翻訳が出版されているペリー遠征記には抄訳が多い。出版社は、読者としての日本人は、日米の交渉そのものに関心が向いていると考えるからだろう。江戸湾に入っていく記事が始まる第12章までは省略されている版もある。それに対して私の関心は、そこに至るまで長々と克明に述べられている森羅万象にも向いている。さいわい岩波版は言葉遣いは難しくても記録されたすべてが翻訳されている。正直に言えばこの翻訳の日本語には理解できないものもある。そういうのは原文で考えるか、角川版の翻訳で補うことにする。原文参照は今まで参照したe-Pubはスキャナーによる読み違いが多いから利用をやめた。かわってInternet ArchiveというフリーサイトのPDFを読むことにした。

第1章にはアメリカ国内で日本遠征が議論されるようになった背景事情と遠征計画が提案・決定されてペリー提督が出発するまでの状況が概括されている。
1848年にメキシコとの戦争が終わり、締結された条約によってカリフォリニア地域がアメリカに帰属することになった。この土地が太平洋に面していることで人びとはまず商圏が広がるだろうと考えた。アメリカが大西洋から太平洋にまたがって位置することは、ヨーロッパからアジアへの道筋にあたる。蒸気の時代にあって、東アジアと西ヨーロッパを結ぶ最短ルートになれば、それは世界の街道になるに違いない。時を前後して、この土地が金を産出することが知られたために、こういう発想がいよいよ膨らんだのである。シナが好んで自国を「中国」(the Middle Kingdom)と呼ぶように、アメリカこそ「中国」というにふさわしい、とまで書いている。

私たち日本人は、真ん中に大きく太平洋と日本、右端にアメリカ大陸が描かれているような世界地図を見慣れているので、ここに述べられている西ヨーロッパから東アジアへの道筋という概念を直ちには思い浮かべにくい。そして彼らが、すでにその半世紀以上も前から喜望峰・インド洋経由で中国貿易を行っていた事実を知らなければ、そのルートが最短になるという明るい希望にまでは考えがおよばない。アメリカ人はそれまでも大西洋を横切る距離だけイギリスに負けていると認識していた。
彼らがあらためて太平洋の彼方にみたのはシナであって、日本ではなかったことがこの章から読み取れる。蒸気の時代の最短ルートとなれば、蒸気船の石炭の入手がまず課題になる。シナに行くまでの中間のどこに石炭があるのか。どうしても中間に石炭補給港が要る、となって日本が浮上する。さてその日本だが、知らないわけではないが、日本の中の情勢がわからないのだ。この部分の訳文には、原文の表現「 terra incognita in Japan」をもって未開国としているが文意を表していない。ペリーは資料を沢山渉猟して研究している。シーボルトの『日本』も全巻読んでいる。文化のある国と知っているが、外國に戸を閉ざした理由を知りたいと、調べた。ヨーロッパ諸国の過去の交渉と失敗も知った。序論に述べられてあるとおりだ。アメリカはまだ無傷だ。なんとかなりそうだ、との気分でなかったか。
ペリー提督は日本に開港を求める交渉をすることを提案して、政府に受け入れられた。その使命は最終的にはペリーに委ねられて全権を与えられた。避難港と石炭補給地を確保すること、可能ならば、平和裡に通商関係を開く努力をすることが使命になった。技術士官だったペリーは職業的な意向から、麾下の海軍士官に科学的観察と研究を行う機会を与えて将来の科学者への道を開くことも計画した。当時陸軍ではすでに多数の科学者を育てた実績があったのに比べて海軍は遅れていた。
日本遠征計画が1年前に公表されると、随行希望が殺到した。軍律に従う要のない民間人はいっさい断った。なかでも、フォン・シーベルトは関係者を通じて懇請してきたが、日本の法を犯した事件に関わって国外追放された人物であるため断固として拒否したことは特筆されるべきとある。
10隻以上の艦隊編成計画は艤装整備の進捗が遅れに遅れた。プリンストン号は期待された新しい機械が不調でポウハタン号に替えられた。数隻は東インド艦隊の駐在地にいる。その場所は明らかにされていないが、だいたいインドネシア海域らしい。提督は全部が揃うのは待ちきれず、どこかで一緒になれれば良しとして、お気に入りのミシシッピ号だけで出かけることに決めたのだった。他の資料によれば、ペリーはアメリカ海軍に蒸気船の採用を勧め、この艦の建造から関わっていて知り尽くしていたという。
ミシシッピ号:建造1841年、外輪船、排水量3230トン、蒸気機関、速力8ノット、吃水19ft(5.8m)、兵装10インチ砲2基、8インチ砲8基。
ミシシッピ号の経路
1852年11月24日、ペリー提督はミシシッピ号単艦でノーフォークを出港した。太平洋に石炭補給地をもたないために航路は外回り、すなわちマデイラ、希望峰、モーリシャス、シンガポールを経由する。
少し横道にそれながら第2章の記事を追う。

蒸気船について。
先のことを言えば、上海で旗艦の蒸気船サスケハナ号に移乗して、ミシシッピ号とともに、汽缶を持たない帆船サラトガ号とプリマス号を曳航して4隻で浦賀沖に入っていった。この時代、後にも出てくるが、蒸気船と帆船の混合艦隊では戦列編成には曳航が常態であったようだ。
帆船しか見慣れていない日本人は蒸気船を見てびっくりした。しかも真っ黒だ。黒は不吉だ。じつは外装が黒かったのはコールタールを塗っていたからで、実は木造船だったための防腐目的だった。序論にでてきた長崎でのフェートン号事件。強引に入港したイギリスの武装帆船を追い払う策謀は焼き討ちにする計画だった。相手が木造船なればこその作戦だ。これは実行される前にフェートン号が出港してしまった。木造船をやっつけるには燃やすに限る。
黒船を見て慌てて築いたお台場に大砲を据えたが、当時の日本の大砲が撃ち出す弾丸は、ただの鉄の玉で爆発はしないから目標を毀すだけだった。黒船の大砲が撃ち出す弾は爆発したらしい。

蒸気船は外輪の水掻き板で推進する。外輪の構造は日本の田舎でよく見られた水車と同じだ。板で水を掻いて進む。よく考えてみると、水車の全体が水の中だと下半分が前に進む力、上半分は後ろに行く力が働いて、結果としては前に進めない。だから外輪船は水車の上半分は水上にある。水車を回す動力は蒸気機関、水を蒸気に変える熱源には石炭を使った。初期の蒸気船は帆と蒸気動力を併用した。いまでいうハイブリッドだ。ミシシッピやサスケハナはこの型だ。帆走するときには、水かき板が抵抗力になってしまうから引き上げる。脱着作業は波の穏やかなときに行うなど条件があるうえに、時間がかかったようだ。蒸気船で先行していたイギリスは簡単に脱着する方式を間もなく開発したが、アメリカ海軍は、ようやく蒸気船を採用したばかりで、そこまでの装備はない。帆走と機関による推進力を使ってどのように操縦したのか、航海を専門とする記録ではないから。そのあたりはよくわからない。けれども海域ごとの潮流の様子や季節の風向きはペリー自身も記録していた。蒸気船による航海資料は、アメリカ海軍総出で蒐集中だったかも知れない。記録された資料は遠征記の本記には載せなくとも付帯された3巻のうちには含まれているはずだ。
汽罐はミシシッピの場合、12基据え付けられていた。最高出力毎時8ノット、平均7ノットで航行している。1ノットは約1.852km/h。ミシシッピは1日26トンほどカンバーランド石炭を消費したとある。カンバーランドはアメリカの石炭産出地、または積み出し地を指す。

マデイラ島
ノフォークを出てすぐに航路は大西洋を横断する。最初に見る陸地はマデイラ島だ。出発後17日目、12月11日。石炭と水を補給する。
マデイラ島にて
海軍長官への手紙
マデイラに停泊している間に、提督は自分の任務について計画と見通しを国務省に示すべきと考えて海軍卿宛てに書き送った。その内容が航海記事の間に置かれた手紙の写しで判明している。
日本遠征の目的は、まずフィルモア大統領の親書を手渡し、難破船員の救護と 食料、水、石炭供給のためのアメリカ船の入港を求め、更に出来れば交易のための開港を望み、こ れらを条約にまとめることであった。砲艦外交という言葉がペリーの来訪に際してよく使われるが、国務省からは厳然たる実力の誇示を背景として行うよう指示が出ていた。ペリーは武力行使は避ける意向だった。この手紙にも、もし日本が本土に避難港を設けることを拒否するなら南の島々にそれを求めようと書いている。具体的には琉球列島の名を挙げて、支配者の薩摩候によって武装を認められていない島に避難・給水の港を獲得して、穏やかに、思いやりある態度で接すれば住民の心を開いて、いずれは交流を可能にすると記している。
避難港には食料供給の能力が必要であるから、そのためには作物栽培能力を増やすこと。当艦には園芸種子を準備してある。さらに耕運機、脱穀機など簡単な農具を供給すればなおよい。オランダ人の陰謀・誣言を暴き、日本人の知識を開くため、世界やアメリカの民情、政情を示す印刷物その他刊行物。活字と材料を備える小印刷機。このようなものを用意したい。日本人は言語に関心深く、翻訳は問題ない。こうして予め避難・給水港が確立され、労働、食料の対価支払いに不平等のないようにすれば自ずから親睦も可能になる。日本政府との親しい理解が生じるなら、円滑な関係が進むであろう。
そうなれば、カリフォルニアとシナの間を往復する船に安全が得られる。イギリスの「併呑」策がまだおよんでいない日本はアメリカにとって重要な通商路の途中に横たわっている。避難港を獲得することは急務であると述べてイギリスへの対抗を明瞭にしている。
1852年12月14日、マデイラにて、と締めくくっている。
注釈にいわく、長時間かかってペリーのもとに届いた国務省の回答には要望された農機具、印刷物、印刷機などを調えてヴァーモント号で送るとあった。
国務省のいう厳然たる実力の誇示について、実際に江戸湾内にあっては、然るべき交渉相手が出てくるまでは、日本の立ち退き要求に頑として応じないで、ペリー自身は姿も表さず、黒船の威容をもって圧力をかけつづける演出をしたのであった。一説には、日本のお偉方は勿体を付けて最後に姿を見せる習慣があることを、ペリーが逆手に取ったのだとするがどうだろうか、なかなかのユーモリストでもあったようだ。

さて、私たち読者もマデイラ島をゆっくり見てみよう。当時は保養地、いまも観光地として人気がある。
このあたり岩が多い上に冬場は風が強くて、碇泊には苦心する。12日夜にようやく碇泊できた。石炭と水を受け取るのに、供給側の仲買人が希望した港に近い岩影の碇泊地は、提督が地勢を観察した結果、出航の際には蒸気船でさえも困難があることに気がついて拒否したということがあった。それほどうねりと風に悩まされる島だが、非常にきれいな風景で、雨季が丁度過ぎたために渓流が美しい滝となっているのを船から見ることができた。主要産物はぶどう酒、また保養地としてよくイギリス人が多く利用するという。記述によれば港町フンチャルの街路は舗装されていて、車輪付きの輸送車の使用が禁止されている。まだゴムタイヤがなかった時代だ。島を訪れた人は最近まで輿(原文にはsedan chairsとある)やハンモックを利用していた。原著の挿絵にみえるハンモックは二人の男に前後を担がれたハンモックに仰向けに寝そべって運ばれている。病人ででもなければ、あまりお世話になりたくない乗り物だ。これらの乗り物は不便なため代用物がつくられた。それは重い荷物やぶどう酒の樽を運ぶソリで、上に華やかな飾りの車体がついていて牛に曳かせる。他の乗り物には馬もロバもある。坂が多いこの島の道路にはロバが一番適していそうだ。
この記事を読んで私は現在のマデイラ島、フンチャルをインターネットで観光してみた。なんと今でもソリがある。柳行李のような材料で作られた籠の箱に二人用の座席がついている。トボガンというが、これは明らかに観光用だ。操縦(?)は男二人が曳いたり押したりで乗客を運ぶ。観光客が写して投稿した動画もあって愉快だった。もちろん現代のことだからバスも自動車もある。なかなかの風景美、リスボンから空路1時間45分。残念ながら行きそびれたなぁ。
マデイラ島の乗り物;ハンモック(左)とソリ運搬(右)
テネリフェ近辺の貿易風帯の変化観測を特に記録。
12月15日、本艦は錨を揚げて、17日にはカナリー諸島西方を航行している。間もなく北東貿易風の吹く海域に入ると期待して、両舷の水かき板を引き揚げ、汽缶の火を落とし、完全に船は帆にまかされた。
12月22日に提督はお触れを出して、艦隊の行動に関して故国の公刊物へ通信することを禁じ、また友人あての私信を通じても報告を禁止した。これは海軍長官の命令なのだ。隊員の日記すらも海軍省によって許可あるまでは政府に属するとされた。その半面、乗員の将来、研究者などへの道筋を考えて、乗員全部に航海中に得ることができる資料を収集し研究することを奨励する。こうして科学的な訓練指導を行った。

カナリー諸島、パルマ、イエロ島、フェロ島、テネリフェ、ブラヴァ島、フォゴ島。本船がケープタウンに向けて南下する途中の記事にはこういう島々がある。地図の上で頭に入れないと、なにか落ち着かないからグーグルマップで調べる。
余談になるが、グーグルで島名を入力しても大洋の青色の中に何も表れない。目星をつけたあたりをどんどん拡大してゆくと、島が現れ、作業を続けると地形や集落などが見えるようになる。これは面白く楽しい経験だった。
どれも皆、絶海の孤島のような感じがするが、それぞれに町があり人が住む。ホテルもあったりする。そこへ行く空路を調べたり結構楽しい。こういう島の名前をつなぐ文章では風向きや潮流について、いつどのように変わったかとかが書いてある。煩雑であまり面白くない。こちらがそういうことに慣れない人間だから仕方ない。それでも潮流を調べている人にはどのへんの緯度で何がどうなるということは大事なことのはずだ。

ハーマタンというサハラ砂漠の塵を巻き上げて吹く強風についての記事もあった。ときにはモヤと思えるほどの風。ケープ・デ・ヴェルデ諸島付近でみられる。12月30日まで北東貿易風が吹き続いた。それが変わる方向やうねリが起こる様子が興味深そうに述べられてある。
「29日に北東貿易風は弱くかつ不定になり、、時々は静まったので、水かき板が再び車輪に取り付けられて船は蒸気で運転されたが、わずかに後方の蒸気缶二つを使用しただけであった。軟らかい風と穏やかな海ならば、この二つで1時間7ノットの速度を出すに十分なことが明らかとなった。けれども追波を伴う南東貿易風が全く落ちてしまったとき、速力は4ノット半ないし5ノットに減じた。けれども、更に二つの蒸気缶を使用し毎日石炭26トンを消費して、たちまち速力は7ノットに達した。」「蒸気船にあっては、風のために起こされる高波に阻まれるようには逆風によってその運動が阻まれない」、「穏やかな海上にあっては汽船がやや勢いのある軟風に逆らって比較的速く進行することもしばしばある。なぜならば、前方から吹いてくる風は、罐の通風を増してくれるからである」
このような記述や、その後にも海流と風向、水理学上の理論と実際など述べられている。このような観測・実験記事は、これまで帆船が往来していたこの海域を今後蒸気船が代わるについて調査資料を収集・研究するためだろう。

貿易風が予想より早く止まってしまったため、喜望峰まで直行の予定を変えてセント・ヘレナで念のために石炭を入手することに決まったとある。この島はずっと長くそういう役割を務めてきたようだ。寄港するからにはナポレオンの後を偲ぼうということにもなるらしい。
1853年1月10日正午、セント・ヘレナのジェームスタウンに到着した。1502年にポルトガル人によって発見されたこの島は、オランダ人とイギリス人の領有が二、三度交代し、1773年からイギリス東インド会社が所有して1833年に会社からイギリス皇帝に移譲された。町の人口2,500とある。気候がよく、作物、水産、牧畜に恵まれた結構な島だ。会社によって道路・設備も行き届いている。牢獄とは思えないこの島だが、ロングウッドにある百姓屋のような建物のみすぼらしさは地上の栄誉の無常を感じるに十分であったようだ。
セントヘレナの古い家

提督はナポレオンが居住した当時に構築された島の防備体制について検討し、帆船の時代には風と潮流の助けも借りて難攻不落であった島の防御態勢も蒸気船による攻撃には対抗できないことを、具体的な戦術を展開して論評した。蒸気力がもたらす世界情勢の変化がどれだけ重大なことであるかを一例をもって示したわけである。この章の初めの項目見出しに「ナポレオン奪回作戦?」と銘打ってあるのが愉快だ。もちろんナポレオンはこの30年前にここで亡くなっている。
1月11日午後6時、希望峰に向かって出帆した。

第2章はここで終わるが、私はまだ、ここに至るまでに文章化しなかった記事の細部を苦心して読み続けている。
第3章以降の記事に含まれる経路と日時を次に紹介しておこう。
 マデイラ島(12月11日 - 15日)第2章
 セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
 ケープタウン(1月24日 - 2月3日)第3章、
 インド洋のモーリシャス(2月18日 - 28日)第4章、
 セイロン(3月10日 - 15日)、
 マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)第5章、
 マカオ・香港(4月7日 - 28日)第6章
 上海(5月4日-23日)旗艦サスケハナに変更。
(2018/7)