2017年8月20日日曜日

NHKスペシャル インパール作戦に思う

8月15日NHKスペシャルで「戦慄の記録インパール」を見た。前にも何度かインパール作戦のドキュメンタリーを見ているので大筋は変わらないが、証言される元兵士の生存者の方々の年齢が高くなったのが気になった。つまりかけがえのない実態記憶の証言者が減ってきているということで、今回は私より一回り上の年齢96歳が多かったのが印象深かった。たまたま1993年6月放送の同じ題材の記録が現在でもネットで見ることが出来るが、証言者は80歳代が多い。今回は編集も新しく資料も補充されているが、現地の映像は前回と同じものもある。証言者は全く別の方々だった。
96歳にもなると大抵の人は喋り方が円滑でなくなる。言おうとすことが言葉にならなかったり、口がうまく回らなかったり、同じことを繰り返したりで、聞いていてまざまざと老いを感じたものであった。戦争についての語り部がいなくなる、次の世代が語ってほしいとの声が強くなっている昨今であるが、まさにその通りであった。ちなみにビルマの奥地の人たちからも証言が得られていたが、こちらもやはり90歳代、中には100歳の人もいたが、放映は日本語になって聞こえるので喋る機能の衰えは判断できなかった。

番組が訴えるのは軍という組織の体質の異常さであるのはいつもながらであるし、見るほうが感じるやるせなさも同じだ。インパール作戦といえば牟田口廉也第15軍司令官の名前が代名詞のようになっている。節穴のような眼で現実を見て、頭の中で希望と作戦構想が格闘して空回りの実戦を実現させるのが得意であった。これは何も牟田口だけでなく日本皇軍の上級軍人の大部分に共通であったと思うが、インパール作戦の現場が極端に悪い条件だったために浮き彫りにされた感が強い。遺された国民的記憶は往路のジンギスカン作戦とか退路の白骨街道とかであった。兵は屍体を野生動物と細菌に食われ、将の大部分は責任不問のまま生を全うした。なんど見ても、なんど読んでも不思議な軍隊である。花谷某という牟田口よりひどいのもいたらしいが、もうそんなのは知りたくもない。

大東亜戦争の開戦当時マレー・シンガポール・ビルマではイギリス軍があっという間に敗けてしまったのは、おそらくイギリス人の日本人を見る見方が間違っていたのだろうという気がする。人間の性能を見誤ったとでも言おうか、山本五十六元帥のはじめの一年ぐらいは勝ってご覧に入れましょうというのは、戦備力からの発言だが、これと違っていわゆる線香花火的戦闘はできても長期戦は不得意である。まさに桜花の大和魂だ。インパール作戦を始めてみたら、初戦の敗退時から様変わりしたイギリス軍の装備と戦力に驚いたと聞く。番組でもそう言っている。一般に白人はしつこい、執念深いのである。ビルマのイギリス軍は機械力も大量に投入しているし、物資は空輸だ。これだけでも日本は勝てない。日本軍はすべてが人力だ。たとえ始めてしまった作戦でも、あとで彼我の戦力差に気づいたならば中止するのがホントだろうが、これができない。やめられない人たち、決められない人たち。軍隊ではここで精神力優先が顔を出す。

ビルマに限らず太平洋でも全部にわたって兵站軽視の悪弊が明白に出た。結果は餓死。15軍司令部付きの少尉が記録しているが、高級参謀たちの会話には、どこそこを取るには何人殺すという言葉が交わされたという。敵方の基地を占領するには兵を何人消費するかの意味だそうだ。インパールは3万人殺しても撤退しかなかったし、停戦してからの斃死の方が多かった。
兵站軽視は陸軍士官学校に淵源があるそうだ。教科としてほとんど教えなかった。陸軍大学まで同じ路線だったから、出来上がった将校の頭には物資補給作戦などあるはずがない。大欠点だ。欠陥軍隊である。「腹が減っては戦ができぬ」いつごろから云われているのだろう。
日本陸軍には食糧は敵地で手に入れるものという考えがあったとも言う。それは大陸戦線の話だ。人が住んでいる土地に侵入するから食糧があった。インパール作戦は人跡未踏の山の中を470キロ歩くのだ。ガダルカナルは補給のリスクを考えなかったから餓死した。制海権と制空権を維持できると考えたのが間違いだった。敵戦力の誤算と兵站軽視の結果だった。だが、ビルマは補給の手立てがつかないことが事前に明白であった。山は緑だから野菜の代わりに食えると言ったらしいがアホかいな。この無能司令官を叩き殺して食えばよかったのだ。

作戦中の三つの師団の長をいちどに更迭した。軍当局はそれを認めたらしいが、およそ統治されていない軍であった。天皇だけが牟田口の横暴を止められたとするなら、なぜ天皇はそれをしなかったか。天皇は何も知らなかったとでも言うか。知らされないことを知らないで済ませる統治者は統治者ではない。統治者たるものは組織の他に統治に必要な情報と手段を持たなくては統治者でありえない。輔弼者の決めたことに反対しないという決まりがあったというが、それを馬鹿正直に守っていたというのはやはり無能である。敗戦を認め戦争をやめさせられなかった天皇はやはり無能だったとしか思えない。おとうさんはお人好しだった、ホンマにムチャクチャでござりまする。

戦後○○年…、繰り返し繰り返し言い続けて、ことし戦後72年。実は政治の体制などは変わったけれども戦前も戦後も日本は同じだ。それぞれに運不運はあったけれども、なぁ~んにも変わっていないのです。考えている間にどんどん日が過ぎていきます。こういうのを「あわれ」というのかもしれません。(2017/8)

2017年8月4日金曜日

『改版 日本の橋』を読んでみた(つづき)

前回は枕草子、「誓へ君遠つあふみの神かけてむげに濱名のはし見ざりきや」の和歌にみえるはしのかけことばの理屈で引っかかって進行が停滞した。保田のいう「そぶりのはし」に戸惑ったためだった。考えてみると身振りや動作について「(~の)はしばし」という使い方はよくある。「ことばのはしばし」もある。手許の辞書には「はし」にも「はしばし」にもこのような使い方に合う語義は出ていなかったので戸惑っていたのだ。辞書になくても、こういう「はしばし」の「はし」を提題の浜名の橋に当てはめて「チラとでもみざりきや」のように解釈することもできるのではないかと考えた。保田は奈良の櫻井の人、あのあたりではこういう言い方も普通かもしれない。研究者によれば保田は方言を文章に使うことが多いとの言もある。いずれにしろ、この歌のはしには二重の意味があることはわかっているから、それはそれとしてよいのであるけれども、「そぶりのはしを云ふことが、長い間に、ものの奥やさらに我と汝の関係の表現になってゐたのである」という説明は納得出来ない。
さて、保田の論考ははしの用いられ方を神代の頃にまで遡って語義が多様に広がる表現を例証してきて、つぎに王朝の和歌の世代には我と汝の関係のつながりに想いをかける用いられ方を検証する。このエッセイの主題は人と人、人と自然のつながりを橋にかけて歌った文芸上の美しい感傷が日本の橋のいのちだと謳い上げるかのようである。以下に適宜例示された橋の歌をあげることで保田の作業を追うことにする。

古今六帖から浪速の橋を拾っている。
  津の国のなにはの浦のひとつ橋君をしおもへばあからめもせず
保田は「これはひとつばしの橋である」とだけ付言する。浪速の浦に丸木橋は変な具合だから、君だけだよ、というひとつばしなのかと思う。
  我が戀は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな       通盛
  たゞ憑(たの)め細谷川の丸木橋ふみ返しては落る習ひぞ    上西門院
これには上西門院が通盛のために仲だちをしたと経緯を説明している。文と踏みのことよりも、ただ一すじの思いが丸木橋だろうか。

次は万葉集巻九の、河内大橋を独り去く娘子を見る歌一首竝びに短歌。
  しなてる片足羽河(かたしはがは)の さ丹塗りの大橋の上ゆ
  くれないの赤裳すそひき 山藍もち摺れる衣(きぬ)きて
  ただ一人い渡らす児は  若草の夫(つま)があるらむ
  かしの實のひとりか宿(ぬ)らむ 問はまくの欲しき我妹(わぎも)が
  家の知らなく
            反歌
  大はしのつめに家あらば心悲(うらがな)しく獨り行く児に宿かさましを

「一寸あらはになつかしい想像も出来るけれど、河内あたりの風光を知ってゐる私には、風景の聯想からも妙にうきうきしたノスタルヂアに似た心のあこがれさへ味はへるのである」と書いている。以下カギ括弧内が保田の説明である。
「枕草子の、橋は、の冒頭にもひかれてゐる、あさむづの橋は、[……]その橋が王朝の人々になつかしまれたのは、催馬楽にうたはれたやうな、古拙な地下のひゞきのなつかしさのゆゑであらう」

  あさンづの橋の とゞろとゞろと 降りし雨の ふりにし吾を たれぞこの
   なかびとたてゝ みもとのかたち せうそこし とぶらふにくるや  さきんだちや

「さきの萬葉が男の飾らないあらはの聲に對し、これは哀愁にとみしかも全く新鮮な地下の女の、鄙びて艶のあるかん高なくどきである」

  あさみづの 橋は忍びて渡れども ところところに なるぞわびしき
  
「夫木和歌抄の橋のなかにある。あさンづ、あさむづ、浅水のことである」

  かみつけぬ 佐野の舟橋 とりはなし 親はさくれど 吾()は離(さか)るがへ
  萬葉集の東歌

この東歌のあとに保田は、こういう歌を繰り返しながら橋をイメージしていた時代を考えたいのだという。イメージを観念でいじるほどに、「こんな歌は複雑な発想を一つの言葉の中にたたみ込む抒情を暗示するだろう。来るべき日になって日本のことばで行われてゆく政治も文化も苦しく、そのことばが大へんな重荷になることと思はれる。」と書き、この複雑なことばはやがて日本の政治をこわしてしまうだろうけれども、「この重荷は光栄の父祖の歴史」だ。「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で豊富な心理と象徴の世界を描き出した。王朝の長い時代に女性教育によって作り上げられた日本の美学は、エリヂウム思想(筆者注:悲劇的成分を優先して考える特性)から、片戀、失戀、うらみわびなど終末感を歌い出すように発達した。こういう美学を橋について語ってみたい」のだ、と説明する。
ことばと言葉を使い分けているのは、融通無碍に解釈できる日本のことばで日本は政治をしているという意味だろうか。はしはことば、橋は言葉としている。短くつづめたのでわかりにくいかもしれないが、かなしく、あわれな日本の美が橋にあらわれている様子をみたいのだ、と云っているものと考える。ついで歌枕の三河八ツ橋のことに話がすすむ。

「古い人々のおしつめていった、人間生成の理法や、人生と愛情の生活の、複雑な分岐の仕方は、くもでにものをおもふと歌はれた、八つ橋の歌でみても、一端の明しとなりさうに感じられる。この八つ橋も往古のものはすでに早くなくなった。伊勢、古今、古今六帖に見える八つ橋と、更級日記以後のものとは實物として異るとは、もう多く云はれたことであった。
伊勢物語に『水ゆく川のくもでなれば橋を八わたせるによりてなん八つはしと云ひける』とある、古の業平はその澤の木かげでかれひを食ひつゝ、澤のかきつばたをみて。その七つの文字をおいた一首の歌をよんだ。」

  から衣 きつゝなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞおもふ

「八つ橋からくもでの方が表面に出るやうになり、多くの歌がつくられたのは、もう八つ橋を知らないころであろう。」

  うちわたし ながき心は やつ橋の くもでに思ふ ことはたえせじ

「この歌はつらき男にと題して、 
  たえはつる 物とはみつつ さゝがにの 糸を頼める 心ぼそさよ
といふ歌を送られた男が女に答へたものである」

  戀せんと なれるみかはの やつはしの くもでにものを 思ふころかな
「さきのくもでに思ふとは、その内容の異ること今さらの註をまつまい。」

「更級日記の作者は、東国に下る時黒木を渡した濱名の橋を見たが、長暦年中上京のをりは、もうその橋はあとかたもなく、この度は舟にて渡るとかいてゐる。同じ旅の記に『八はしはなのみして、橋のかたもなし、なにの見所もなし』とある。しかもこの八つ橋が古い八つ橋でないとの説はすでに云った。十六夜の作者阿佛尼は、まだ少女のころに海道を下ってゐるが、その記『うたゝね』には『これも昔にはあらずなりぬるにや、はしはたゝ一つぞ見ゆる、かきつばたおほかる所と聞しかども、あたりに草もみなかれたるころなればにや、それかとみゆる草木もなし、なりひらのあそんの、はるばるきぬるとなげきけんも思ひよらるれど、つましあればにや、さればさらんと、すこしをかしくなりぬ』とかいてゐる」
ここで保田は、「うたゝねの記」をわが愛誦の物語として懐かしんでいる。十六夜の八つ橋の條では一首の歌をつけて、くらさに橋も見えずなりぬと誌しているそうだ。なんだかんだ云っても、「古来よりの海道の名橋では、やはりこのわびしい八つ橋が、一ばん日本のふるさとの匂ひにみちていた。」

木橋に触れている箇所がある。「史上で云ふ大化年間の初めて作られた宇治大橋も弘仁の時の長柄橋も今の文明観からいへば、云ふまでもなく心細い木橋であろう。」と書いたついでに浮世絵を攻撃している。「支那の石造橋を模して木のそり橋を考へた不敵な日本人である。何にその理由あったかも知らないが、こんな橋が十九世紀の紅毛畫家を感動させたことは、何かしら我がことのやうに私にはなさけなく思はれた。」今の浮世絵支持の芸術関係者たちは「今日の日本のために日本の前世紀を克服しようとはしない」と言ってけなしている。

「橋につきまとふ人柱も橋が激しい人工である意味を象徴してゐる。人柱こそ河上の橋のさきに、神と人との間に架けられた橋であり、犠牲であった」とするのは、これもはしの言霊のはたらきか。
「萬葉集に、
  小墾田(おはりだ)の板田(さかた)の橋のくづれなばけたよりゆかんなこひそ吾妹、
と歌はれてゐるやうに、日本の橋は哀れに脆く加へて果敢ないものだった。」「ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡した橋のやうに、代々の詩人旅人の驚異の情緒を織りこんだ永代の橋は求める方が無理である。」

「文書に初めてあらはれる仁徳紀の十四年冬十一月の條の猪甘津(ゐかひつ)に架橋した小橋(おばしー筆者注)は[…]、小野小町が、しのぶれど人はそれぞと御津(みつー筆者注)の浦に渡り初めにしゐかひ津の橋、と歌ったゆゑになつかしい。その床しさはまことに我らの思ひ描いたはしをうたってゐるやうにも見える。」何か著者は独りで詠嘆しているような気配である。

「大化二年の道登・道昭の宇治橋、宇治の橋姫の橋は、古今集に、
  さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫、
などと歌はれてゐる。日本の橋に較べるなら、支那の古代の石橋は極めて立派で文人畫の橋さへまことの矼であるから、それが私に不思議であった。」

「古い由緒の長柄橋も、今では所在も様式もわからない、明月記には、その朽廃した橋柱で、後鳥羽院が文臺を作られた由をしるしてゐる。この詩文に一等多く歌はれた名橋も、大方の人は知りもせず、見もせず、たゝなつかしい名のまゝに口にしたのであろう。公任のころにも、栄花物語の頃にも、既に「おとにきくながらのはしはなかりけり」のさまだったらしい。
 ありけりと はしはみれども かひぞなき 船ながらにて わたるとおもへば、
と、和泉式部は、親しくここにきて歌ったものであろう。公任のみたのも橋ばしらだけだった。

まだまだ続く橋ものがたり、すべて付き合うのは大変であるが、著者の知識豊かなために省略するところは、別途参照するなりして読み込めばなかなかに面白い読み物ではある。著者が橋の所在や伝説を語るところはまことに興味深い。取ってつけたような高説を承るのは御免被りたい。「日本の橋」は理屈をこねさえしなければいい読み物だとおもう。

本作は著者のデビュー作と聞くが、のちに日本浪漫派を提唱してグループが出来、それがために軍部に睨まれ、懲罰的とみられる召集で病床から満州に引っ立てられた挙句に、戦後は反動としてだれからも相手にされない不運を招いた。古代の日本を愛好した精神は生涯変わっていなかったはず、まことに人の目はあてにならない。この作品も著者が好きでたまらなく感じる橋伝説や和歌についてのことだけに徹して語ってくれればよかったと思う。

発刊当時は他の作品も合わせた単行本として池谷賞を受けたが、「日本の橋」だけについての批評は少ない。原日本的なものの象徴を橋に求めたのが保田の論考とするなら、橋の機能、構造、地勢、民俗を含めて日本の橋を論じた著作に上田篤『橋と日本人』(岩波新書1984)がある。同じ原日本を考えるにしても、こちらはより大きな見方をして納得させられる。
日本の橋の特殊性格を、男と女にかけて美的かつ情緒的に論じた人に、日本浪漫派の詩人・保田與重郎(1910-1981)がいる。保田は、日本の橋は日本の歌に似ている、という(『日本の橋』)。日本の歌が、ようするに「男女相聞のかすかな私語」であるように、日本の橋もまた「愛情相聞の現象」なのである。あるいは、わたし流にまたは空間的に保田の趣旨を付会すると「男女の密会場所」とでもいうべきか。そして相聞を主とする日本の歌の「私語性」が無限大へと拡大するように、哀れっぽい日本の橋の「密会性」もまた永遠の生命を獲得する、というのが保田の論旨である。(同書8-9ページ)
まことに適切簡明に解読してくれている。だから保田の文章には余分な部分が多いと感じるのである。
小石川後楽園の八つ橋

 なお、上田氏はかつては無数に存在した道路橋としての八つ橋は、小石川後楽園にその姿が忍ばれるとしているので図を出しておく。まことに日本的な橋、すなわちカケハシの典型としている。
(2017/8)