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2018年1月17日水曜日

読書雑感 『ブリキの太鼓』

またギュンター・グラスだ。『ブリキの太鼓』を読んだ…。
はじめに異議を申し立てておく。訳注、387ページ下段:マウントバッテン将軍。「1900-79。アメリカ軍司令官。1944年アメリカ軍のビルマ反攻がつづいていた。」とあるが「アメリカ軍」は誤りだろう。そもそもが大英帝国の伯爵だ。ビルマ戦線では英軍劣勢の後、アメリカが協力して反攻に転じた。1943年8月東南アジア連合軍が結成され、マウントバッテンが総司令官、その下に英陸軍中将が補佐についた。

さて、終わりまで読んで、ふと初めの章に戻ると、つい今しがた話題になっていた友人二人が最初からいるではないか。つまり、この小説は尻尾と頭がつながっているのだ。訳者、池内さんの解説にもA-ZがZ-Aになるとか書いてあった。
初章の場面は精神病院。看護人ブルーノ・ミュンスターベルクが登場。目がブラウン、紐細工が得意、週一度の訪問日に客が帰ったあと、お土産品の紐をベッドに腰かけて整理する、紐を石膏で固めて造形する静かな人間。いつもドアの覗き穴からオスカルを見ている。記録用の白い紙は彼が買ってくる。けがれのない紙、という言い回しで言うように頼んだが、戻ってきたブルーノは、けがれのない紙と言うと店の女は真っ赤な顔をしたと考え深げに話した。なんのこと??おっと女の話題じゃなくて紙だったとオスカルが後悔する。
精神病院はオスカルが「やっと手に入れた終のすみか」だそうだ。青い目のオスカル。看護人のブラウンの目はオスカルを見、ぼくの青い目はぼくを見る。オスカルもぼくもどちらも主人公で、ドアが開かれるときどちらも孤独と友情に包まれる。
病院に許され毎日3-4時間ブリキの太鼓に語らせるーーどうやって語らせるのか?たたくだけのようだがわからない!すべてを太鼓が記憶している。太鼓の原理に説明はない。ま、いいか。

物語全部が病院にいながらの回想である。読んだことは読んだがページは尽きても頭の中は物語の出口がわからずうろうろしている。オスカルが生まれてから30歳になるまで、時代と人々の光景が46のエピソードに分けて語られる。時代は違うがブリューゲルの絵を連想する。一枚の絵にてんでばらばらな動きの大衆が大勢描かれている。それぞれの本能に任せてのあるがままの生活ぶり。反教養小説とはうまい表現だ。
主人公の特異な人物オスカル・マツェラート。生まれるときに3歳までは成長しようと決める。3歳になったら太鼓を買ってやろうと母親が言ったからだ。耳ざとい赤子で両親の話をしっかり聞き取って自分の意志を決めている。父親は家業の食料品店を継がせようと言うが、それはお断りする。身体は成長しないが、精神的発達は生まれたとき既に完了しているのだそうだ。
94センチの小さな体形で世渡りするとどういうことになるか。ある時は幼児ぶりを発揮するし、別の時には大人の知恵を使う。幼児の機嫌を損ねると怒りだして叫ぶ。その高い声には強烈な破壊力が伴う。ガラスを割り、切り取り、粉々にする。良くも悪くも使える小人の武器だ。
小人はどこでも意地悪い世間の目にさらされる。むかしから世界共通だ。道化役、笑いの対象…つまり見世物、差別の対象にされる。どっこい、それなら小人もそのことを利用してがっぽり稼いでも見せようぜ。グラスは何気なく被差別民や障碍者の暮らしを描く。現実の社会ではロマを支援しているという。教育の行き届かない無教養の社会では古代人と同様に性におおらかになる。だからこの物語にも奔放な性が横溢する。父母がいて子供ができる。母親はまず間違えようがないけれど、父親はあやしげだ。たいていの生き物のオスは役目がすめばどこかへ行ってしまう。オスカルにも推定上の父親と父親ぶってるだけの父親がいる。オスカルの息子らしきクルトにも同じ問題がある、でもそれだけのことで、だからどうってこともない。
物語の中心となる地域は戦間期のダンツィヒだ。現在はポーランドのグダニスク。ヴェルサイユ条約によって自由都市などという妥協の産物ができた。
自由都市におけるポーランド郵便の切手
もともとはポーランドなのに第二次大戦の幕開けにナチドイツは、何気なく泊めてあった軍艦からの砲撃で取り返しに来た。戦後はポーランドに返され、ドイツ人は難民や東ドイツ人になった。ドイツでもポーランドでもない人たちもいた。いろいろあるが、この作品にはカシューブ人が登場する。バルト海沿岸の漁民が多かったはずだ。ナチの時代には帝国ドイツ人に対する民族ドイツ人だった。政治が鉛筆ねぶって国境を左右したとき、オスカルの祖母アンナはでんとして動かなかった。カシューブ人はいつもカシューブにいるのだと。

メルケル首相もカシューブの血を引いている。だからつよいのか、難民に理解あるのも関係しているか、などと思わず考えた。
ギュンター・グラスはダンツィヒに生まれた。母親がカシューブ人だった。故郷を想う心情は相当に強烈とみる。カシューブ人の土地に対する思い入れは、わが東北育ちの人と似ているのではないかと思う。井上ひさしが独立を考えたように。田圃を守る、墓があるなどというのは結果の話で、根っこがあるのだろうと考える。オスカルの物語に「黒い料理人」が登場する、言葉でだけだが。何のことかわからない。子供たちの歌う歌に出てくるということは相当に古い言い伝えでもあるのかな。
この物語には民族の心を秘めた歴史が土台にあるとみる。物語は時に荒唐無稽、奇怪な出来事に読者を引きずりまわすが、背景時代についての歴史はきちっと記述している。ただし、ときに表現はくだいていることもある。
カシューブの海辺で漁師が馬の首を引き揚げた。まだ腐ってはいない、きのう、おとといあたりの首。中から大小たくさんの緑色のウナギがにょろにょろ出てきた。馬の首も人の死体もウナギは好きなのだと漁師は言う。読者はだれしもしばらくウナギを食う気になれないだろう。この事件をきっかけにオスカルの母親アグネスは過食症が拒食症に、そしてまた過食に。挙句に死んでしまう。料理好きの父親はそのウナギを料理する。もちろんのこと、父母は食え、食べないのいさかいになる。読むほうも辛い場面だ。
母アグネスは、祖母アンナがジャガイモ畑で祖父になるヨーゼフ・コリャイチェクを4枚重ねのスカートの中に匿ったことから生まれたとか。ヨーゼフはなんと政治がらみの放火犯だった。それがどうなるかここには書かないが、この話が冒頭に出てきてめっぽう愉快だ。なんでもポーランドの国を想うあまりか、製材所の塀を片っ端から赤と白に塗り分けたとのこと、それを怒った親方が赤と白を引っぺがしてヨーゼフの背中を殴りつけた。その夜ヨーゼフが新築の製材所に火をつけたのだという。赤と白はポーランドの国旗の色だ。オスカルの太鼓も赤と白に塗り分けられていたようだ。グラスは特に説明をしていないが言わずもがなのことだからではないか。
エピソードそれぞれの主題はばらばらで一貫していない。中世ヨーロッパには「ほらばなし」というのがあったそうだし、わが国にも『今昔物語』その他があった。この作品もそういう系統に数えられるのかもしれない。庶民の暮らしを細かく綴ることで本当の民族の歴史ができてくる。国家にとらわれた大きな歴史では世間がどうだったのかさっぱり見えない。本作は社会史である。随所にちりばめられた比喩や皮肉やもじり、親切な訳注はあるが当方の知識不足は埋められない。だから読み終わった気分からは遠い。なかなか去りがたい思いがする。いつまでたっても、まだ帰ってはいけない気分。映画の方はまだ見ていないが、見ないほうがよさそうだ。
『ブリキの太鼓』グラス 池内 紀 訳 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅱ-12 河出書房新社 2010年 (2018/1)

2017年8月20日日曜日

NHKスペシャル インパール作戦に思う

8月15日NHKスペシャルで「戦慄の記録インパール」を見た。前にも何度かインパール作戦のドキュメンタリーを見ているので大筋は変わらないが、証言される元兵士の生存者の方々の年齢が高くなったのが気になった。つまりかけがえのない実態記憶の証言者が減ってきているということで、今回は私より一回り上の年齢96歳が多かったのが印象深かった。たまたま1993年6月放送の同じ題材の記録が現在でもネットで見ることが出来るが、証言者は80歳代が多い。今回は編集も新しく資料も補充されているが、現地の映像は前回と同じものもある。証言者は全く別の方々だった。
96歳にもなると大抵の人は喋り方が円滑でなくなる。言おうとすことが言葉にならなかったり、口がうまく回らなかったり、同じことを繰り返したりで、聞いていてまざまざと老いを感じたものであった。戦争についての語り部がいなくなる、次の世代が語ってほしいとの声が強くなっている昨今であるが、まさにその通りであった。ちなみにビルマの奥地の人たちからも証言が得られていたが、こちらもやはり90歳代、中には100歳の人もいたが、放映は日本語になって聞こえるので喋る機能の衰えは判断できなかった。

番組が訴えるのは軍という組織の体質の異常さであるのはいつもながらであるし、見るほうが感じるやるせなさも同じだ。インパール作戦といえば牟田口廉也第15軍司令官の名前が代名詞のようになっている。節穴のような眼で現実を見て、頭の中で希望と作戦構想が格闘して空回りの実戦を実現させるのが得意であった。これは何も牟田口だけでなく日本皇軍の上級軍人の大部分に共通であったと思うが、インパール作戦の現場が極端に悪い条件だったために浮き彫りにされた感が強い。遺された国民的記憶は往路のジンギスカン作戦とか退路の白骨街道とかであった。兵は屍体を野生動物と細菌に食われ、将の大部分は責任不問のまま生を全うした。なんど見ても、なんど読んでも不思議な軍隊である。花谷某という牟田口よりひどいのもいたらしいが、もうそんなのは知りたくもない。

大東亜戦争の開戦当時マレー・シンガポール・ビルマではイギリス軍があっという間に敗けてしまったのは、おそらくイギリス人の日本人を見る見方が間違っていたのだろうという気がする。人間の性能を見誤ったとでも言おうか、山本五十六元帥のはじめの一年ぐらいは勝ってご覧に入れましょうというのは、戦備力からの発言だが、これと違っていわゆる線香花火的戦闘はできても長期戦は不得意である。まさに桜花の大和魂だ。インパール作戦を始めてみたら、初戦の敗退時から様変わりしたイギリス軍の装備と戦力に驚いたと聞く。番組でもそう言っている。一般に白人はしつこい、執念深いのである。ビルマのイギリス軍は機械力も大量に投入しているし、物資は空輸だ。これだけでも日本は勝てない。日本軍はすべてが人力だ。たとえ始めてしまった作戦でも、あとで彼我の戦力差に気づいたならば中止するのがホントだろうが、これができない。やめられない人たち、決められない人たち。軍隊ではここで精神力優先が顔を出す。

ビルマに限らず太平洋でも全部にわたって兵站軽視の悪弊が明白に出た。結果は餓死。15軍司令部付きの少尉が記録しているが、高級参謀たちの会話には、どこそこを取るには何人殺すという言葉が交わされたという。敵方の基地を占領するには兵を何人消費するかの意味だそうだ。インパールは3万人殺しても撤退しかなかったし、停戦してからの斃死の方が多かった。
兵站軽視は陸軍士官学校に淵源があるそうだ。教科としてほとんど教えなかった。陸軍大学まで同じ路線だったから、出来上がった将校の頭には物資補給作戦などあるはずがない。大欠点だ。欠陥軍隊である。「腹が減っては戦ができぬ」いつごろから云われているのだろう。
日本陸軍には食糧は敵地で手に入れるものという考えがあったとも言う。それは大陸戦線の話だ。人が住んでいる土地に侵入するから食糧があった。インパール作戦は人跡未踏の山の中を470キロ歩くのだ。ガダルカナルは補給のリスクを考えなかったから餓死した。制海権と制空権を維持できると考えたのが間違いだった。敵戦力の誤算と兵站軽視の結果だった。だが、ビルマは補給の手立てがつかないことが事前に明白であった。山は緑だから野菜の代わりに食えると言ったらしいがアホかいな。この無能司令官を叩き殺して食えばよかったのだ。

作戦中の三つの師団の長をいちどに更迭した。軍当局はそれを認めたらしいが、およそ統治されていない軍であった。天皇だけが牟田口の横暴を止められたとするなら、なぜ天皇はそれをしなかったか。天皇は何も知らなかったとでも言うか。知らされないことを知らないで済ませる統治者は統治者ではない。統治者たるものは組織の他に統治に必要な情報と手段を持たなくては統治者でありえない。輔弼者の決めたことに反対しないという決まりがあったというが、それを馬鹿正直に守っていたというのはやはり無能である。敗戦を認め戦争をやめさせられなかった天皇はやはり無能だったとしか思えない。おとうさんはお人好しだった、ホンマにムチャクチャでござりまする。

戦後○○年…、繰り返し繰り返し言い続けて、ことし戦後72年。実は政治の体制などは変わったけれども戦前も戦後も日本は同じだ。それぞれに運不運はあったけれども、なぁ~んにも変わっていないのです。考えている間にどんどん日が過ぎていきます。こういうのを「あわれ」というのかもしれません。(2017/8)

2014年7月30日水曜日

読書随想 『粕谷一希随想集 Ⅰ忘れえぬ人びと』 (藤原書店2014年)

粕谷一希(かすや かずき1930年-2014年)、評論家。東大法学部卒、55年中央公論社、67年編集長、78年退社。雑誌創刊編集経営など、著書多数。
著者粕谷氏は心不全のため5月30日に亡くなった。奇しくも随想集Ⅰの奥付の日付と同じ日である。
忘れえぬ人びと、たとえば目次の「Ⅱ先人たち」には小林秀雄と丸山真男、保田与重郎と竹内好、中山伊知郎と東畑精一、林達夫、田中美知太郎・・・などの名が並ぶ。私は名前は知っていてもそれらの人物の業績や学識には不案内である。粕谷一希氏は東大法学部を卒業したが、ジャーナリストを志して中央公論社に入った。編集者として名が高い。世間との交流は広いし、なかでもここに例示した人たちには親しく接して教わることも多かったのだろう。
さて、この機会に少し勉強してみようと考えて読み始める。小林秀雄だけは学生時代少しかじってみたが文章が難しくて目は字面を追うだけで理解が出来なかった。それでも読んだつもりでいたのだから若いというのはいい気なものだ。今読んでも同じ程度に分からない。だから諦めた。

ほかの人たちについても著者が評する内容には当時の用語がたくさん含まれる。有名な言葉には「近代の超克」がある。一時勉強してみたがもう忘れているし、今はもういいやという気分になる。そんなわけで「Ⅱ先人たち」に挙げられたなかで真面目に読んだのは竹山道雄の項だけである。この人の芯のある自由主義を今知ろうとしているから読める。そう、関心があるから読めるのであって、気を惹かれないことは読みづらい。それでも京都大学と東京大学の学風の違いだとか、個々の人物論的な部分は興味が持てる。それでいいではないかと思っている。

「Ⅱ先人たち」に採用された粕谷氏の文章は主として雑誌『諸君!』等に載った評論である。その対象は取り上げられた人たちの思想であり論考である。だから当然論評された中身を知らなくては理解が難しい。粕谷氏の言い分を理解するためには批評の対象になった文章を読むしかない。
ここで『諸君!』に初出の文章はのちに『対比列伝―戦後人物像を再構築する』(新潮社1982)に収められていると末尾の初出一覧にある。この本についてのブログがあった。ラッキー!
戦争知識人と言われる哲学者・思想家・文学者・評論家・批評家・大学教授たちが、日中から真珠湾攻撃を経て太平洋戦争にのめり込んで行く日本国家に対して、戦争中にはどのような立ち位置で臨んでいたのか、そして敗戦後にその自らの戦中の言論に対してどう対応したか簡潔にまとめられています。(http://hp.shr-horiuchi.com/?eid=1421620)
こういう親切なブログは大変助かる。いわれてみればこの『粕谷一希随想集Ⅰ』は全体を通じて戦中戦後の世の風潮の移り変わりに対して個々の人物がどう対応したかが底流になっていることに気がつく。そこで、そんならもういっぺん読んでみようか、と思いが新たになる。

「Ⅲ同時代を生きて」と「Ⅳ教えられたこと」は人物についての話が多くなるので読みやすい。

冒頭の「Ⅰ吉田満の問いつづけたもの」は『戦艦大和ノ最期』の著者と粕谷氏の思いが重なることについて記されている。構成は「『戦艦大和ノ最期』初版の跋文について」(『吉田満著作集上巻』の月報)と「吉田満の問いつづけたもの」(『鎮魂吉田満とその時代』文春文庫2005の序章)である。跋文を寄せた5人は吉川英治、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫、小林秀雄であるが。今この名前を見たときにどれも右翼ですねという評を下す向きもある。しかし、粕谷氏は、
戦後の風潮に同調しなかった人びとであり、自らの生を生き抜いた人びとである。そして吉田満という存在、『戦艦大和ノ最期』という作品が、この人びとと響き合っていることが、巧まぬ暗号であり、日本人がアイデンティティを貫いて生きることの意味を、豊かに語りかけているのである。
と記している。

アイデンティティを貫いて生きるということばは吉田満自身が書いている。
戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティそのものが、抹殺されたのである。(中略)苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務に縛られていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さの中に埋没した。(「戦後日本に欠落したもの」)
こういうくだりになると同時代人である私はすんなりと理解できるし、日ごろのもやもやが晴れるような気分になる。
『戦艦大和ノ最期』は占領軍の規程によって発禁処分とされたが、その理由は戦争肯定、軍国主義鼓吹の文学であるという判断であった。それを当然と受け止めた当時の進歩的知識人、ジャーナリズムの評価は粕谷氏のひそかに反対するところであったようだ。吉田満はこういう当時の風潮を経験して、ともに闘いながら死んでいった仲間達の死の意味を考え続けていたのである。

戦後まもなく出版されて大きく話題になった『きけわだつみの声』の編集態度について粕谷氏は疑問を呈している。
「戦争目的を信じて死んでいった学生の手記はあまりに無惨であるから」という理由で除外され、懐疑的あるいは批判的な手記だけが収録されている。やがてそれは反戦平和の運動体、日本戦没学生記念会(わだつみ会、昭和25年結成)へと発展してゆく。そこには当然、一定の戦争観が前提とされていたのである。
あの本がこのように偏向していたとは、知るよしもなかったし、騙されていたというより操作されていたのだ。遅まきながら怒りを覚える。
ポツダム宣言に盛られた勝者のイデオロギーをそのまま、無条件に真実としており、やがてこの姿勢は東京裁判という勝者の裁きを文明の裁きとして受け入れる態度につながってゆく。これでは戦争で死んでいった者たちは浮かばれまい。あの克己心と自己抑制に満ちた吉田満がときとして間歇的に激情的ともいえる口振りで、
一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?
と書いた。

多くの死傷者を抱え、家や資産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人びとの立場を考えると、8月15日を迎えたときの解放感や腹の底からの笑いは違和感を拡大させる。それぞれの解放感は抑制して死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。その通りだと私も思うがその当時はそんなことは考えられなかった。

敗戦国民として日本人は当初、占領軍を迎えるに当って緊張感、悲壮感に満ちていた。終戦の詔勅の「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍」ぶのが運命であり、占領の現実であろうと考えた。
しかし、占領軍のとった建前は解放であった。帝国の解体と軍事能力の除去を狙いとしながら、他面で日本社会の民主化であった。「抑圧と解放」という二重の作業を遂行しようとした。日本人自身による敗戦を終戦と言い換えた二重性、占領軍による抑圧と解放という二重性、
おそらくこの二つの二重性こそ、戦後日本の歴史解釈をめぐっての根源的矛盾であり、困難さなのである。吉田満に代表される問いかけと鎮魂への祈りは敗戦と占領の一九五〇年代を通して、ほとんど掻き消されるようなかぼそい声にすぎなかった。

このように粕谷氏に言われてみれば、そのころ、社会人への入り口に立とうとしていた自分の生活態度もやや苦々しく思えてくる。『鎮魂吉田満とその時代』は読んでみなくてはなるまい。



『戦艦大和ノ最期』は著者の吉川英治氏との面談に始まって原稿が一晩で書かれたという伝説的な話、小林秀雄による絶賛、占領軍による発禁を経て出版されるまでの経緯をめぐって研究もされている。私が見ることの出来た範囲の資料で多少の記録をつけ加えておきたい。
執筆の契機について粕谷氏は吉川英治氏のことから始めている。
吉川英治は昭和期の代表的国民文学の形成者であると同時に、満州事変を”日本の曙“と期待した素朴な庶民感情の持ち主でもあった。日本の大多数の庶民が素朴に”日本の正義”を信じたように、吉川英治も真面目に國を憂え、敗戦によって傷ついた。しかし吉川英治はその傷を糧として後半生を生きる器量を持っていた。
『新平家物語』を通じて、世の無常、敗者の美学を謳い上げることで吉川英治は戦後に復活したのであった。

吉川英治は戦中・戦後、都下吉野村に疎開していた。吉田満の父もたまたま同じ村に疎開していて吉川家をよく訪れていた。あるとき吉田満は父に連れられて吉川に会った。
 
初対面であったものの 吉田満青年は吉川英治の穏やかな人生談義を聴いているうちに 引き出されるままに苛酷だった戦艦大和の艦上における生死をかけた戦闘場面を語り 多くの戦友を失った感懐などを迸るように語っていた。端座して身じろぎもせず 相槌も打たずに耳を傾けていた吉川英治の 吉田満を見つめる瞳に涙が湧き上がってきたという。聴き終わってから吉川英治は言った。 「君はその体験を必ず書き記さねばならない 。それは自分自身に対する義務であり 、また同胞に対する義務である 。それは日本の記録であり 世界の記録だからである。」
(古屋三郎;Otsuka Forum No.29 http://www42.tok2.com/home/otsukaeigo/forum/otsukaforum29.pdf)
 「——あなたの通ってきた生命への記録を書いておくべきだ。」自らの傷を癒やしていた大作家は、若者に語りかける真率な言葉を失っていなかった。そして奇蹟の生還を遂げた青年はその言葉に応えて『戦艦大和ノ最期』を一夜にして書き上げたのであった。(粕谷;「初版跋文について」)

さて、この一夜にして書き上げられた原稿は大学ノートに書かれていたらしいが確証はない。
Ohmura-study netには改稿の軌跡と戦後というサイトがあり、江藤淳氏の『閉ざされた言語空間』の内容にも言及している。脚色の多そうな古屋三郎氏のサイトと合わせて読まないといけないが、結局はホントのことは分かりそうにない。占領軍の検閲の問題のほかに吉田氏の原稿がいくつかの段階を経て初稿から変化していたり、吉田氏の記憶違いが指摘されていたりもする。
よるべき資料も十分でない一般読者としては枝葉にとらわれず著者の心を読み取ることで満足すべきであろう。その意味で私は粕谷氏を頼りたく思う。

随想集Ⅰの編集者は新保祐司氏である。いくつか作品を拝見しているが、優れた評論家であると思う。生前の粕谷氏も高く買っていたらしいことが、序文「この随想集について」に述べられている。本書が良書であることは間違いない。(2014/7/30)






2014年5月13日火曜日

『空の神兵』


高齢の方々が発信されるサイトやブログを参考にしたいと思っていろいろ探していると、応召して戦地で経験されたことを書いたホームページに出逢いました。戦場体験や戦記物の出版物には信頼性の薄いのもあるので私は敬遠していますが、この記事は素直に受け止められました。
戦争を語ろうとかよく言われますが、出征経験のある世代は総じて口が重く、自発的に語られることは多くありません。ましてパソコンを操ってホームページをつくってまで発信されることは数少なく貴重な存在です。
若い世代に戦争の実態を語り継ぐためにもITを強みにして、おおいに発信していただきたいところですが、時すでに遅く当の世代はまもなく人生を終えようとしています。
ここにご紹介する方も大正8(1919)年生まれの81歳とプロフィルにありますから、お元気ならいまや95歳におなりです。記事は1年だけで終ったままですが、ご健在を祈ります。
ご隠居さんのホームページは、homepage1.nifty.com/jiyjiy-80/hyoushi.htm です。

さて、このホームページの第8回にスマトラ島パレンバンへの落下傘部隊降下の見聞が載っています。落下傘とはパラシュートのことです。パレンバンと聞けば『空の神兵』という歌が反射的に脳裏に浮かびます。落下傘部隊が大戦果を収めた功績をたたえるようにニュースの後を追いかけて大ヒットしました。このたびもご隠居さんの話を読んで同時に歌を懐かしんでいましたが、途中でショックを受けました。

私はパレンバンの作戦は大成功とばかり信じていましたが、影に隠れて気の毒な部隊もあったことを知ったのです。当時も報道されたのかどうか、おそらく無視にちかい扱いだったろうと思います。ですが、お話には全滅のような形で終ったとあります。それなら遺族がいたはずです。どんな形で遺族に伝えられたのか。内地では戦捷に沸き立って流れる『空の神兵』を遺族はどのような思いで聞いたのか。そういうことにいままで私はまったく思い至りませんでした。爽やかな快感をもたらした歌に今の今まで酔わされていたのかもしれません。迂闊なことでした。

当時の情勢を補足しておきます。
昭和16年に戦争を始めた日本軍には燃料とする石油がありません。そこで、オランダ領インドネシア(当時)のパレンバンで操業されていたロイヤル・ダッチ・シェル石油の油田と精製設備を乗っ取ることを画策して攻撃します。昭和17年のことです。下手に攻撃すればオランダ軍が自ら設備を破壊する危険があり、そうなってしまっては作戦が無意味になるだけでなく、石油がなくては戦争を続けられなくなります。そこで、空からの奇襲作戦が立案されました。
落下傘部隊は陸軍、海軍ともに創設され、1月にまず海軍がメナドを攻略して成功しました。しかし続くパレンバン攻略が最重要目的のため海軍の落下傘部隊の戦果は秘匿され、パレンバンの陸軍の成功ののちに報道されました。
2月14日マレー半島から飛び立った輸送機から陸軍の落下傘部隊は飛行場近辺に降下して、戦闘の後、飛行場を確保、あとに続く部隊と合流して18日に目的を達しました。石油が手に入った大戦果です。新聞は大見出しで報じ、2月15日のシンガポール陥落が一緒になって日本中が湧きました。


ご隠居さんは詳しい背景事情など抜きで熊さんに落下傘部隊の話をしています。陸軍の落下傘部隊はまたたく間に無傷で油田を手に入れたが、可哀想なのは海軍やったなぁと語ります。日本軍に追われたオランダ軍が「椰子林に集結しておった、丁度その中へ落ちてきたとこういうわけや、これはもうたまったもんではないわなぁ、下から狙い撃ちされるもんでどうしようもない、ほとんど全滅のような形で終ってしまった(以下略)」。たったこれだけの文章ですが、ここには陸軍の成功の影に隠れてしまった海軍の部隊があり、しかもそれはほぼ全滅という結果だった事実が遺されています。

大戦果の報道に続いて、4月にはビクターレコードから国民歌『空の神兵』が発売され、当時の昂揚した気分にのって大いに歌われました。作曲した高木東六氏は作詞の梅木三郎氏の詩を見て、たちまちイメージが湧き音符を書く間の15分でできたと書いています(高木東六『高木東六「愛の夜想曲」』2003年日本図書センター)。
高木氏はフランス留学でピアノと作曲を勉強された人、勇ましい歌は嫌いで軍歌はこの1曲が例外です。歌詞の一番のさわやかさに飛びついた形で曲ができたが、いくらヒットしても軍歌をつくった恥ずかしさがいつまでも抜けなかったとも書いています。高木東六さんは2006年8月、肺炎で亡くなりました。享年102歳、正教徒(ニコライ堂)でした。



写真は「ぶひんたろう」さんのをお借りしました

今は昔、落下傘部隊と『空の神兵』は昭和の日本のいじらしいような光景の一つですが、可哀想な海軍の部隊のことは記録が分かりません。しかし、戦果を挙げた陸軍部隊にしても、予定した武器が入手できずに僅かに拳銃と手榴弾で攻撃したと記録されています。まるで万が一の時の自殺用の武器じゃないかと思いましたが、調べてみると落下傘兵用の武器がまだ開発できていなかったとか、兵は身一つで降下して攻撃用の武器は別の輸送機が投下する計画だったそうで、それが離れた地域に落ちてしまったようです。また部隊編成も二連隊のはずが、一つの連隊は輸送船の発火沈没で装備すべてを失ったのだと。だから予定の半数の兵がまるで丸腰で戦ったわけです。これでよく勝てたものだと思います。奇襲攻撃であったことと幸運の賜物としか思えません。
戦場では何事も作戦どおりにはいかないものだそうですが、そもそも、この戦争自体が已むに已まれぬとかいって、燃料もないのに始めた無謀で粗雑な計画であったと思います。こういうことも含めて後世に伝えるようにしたいものです。

2014年5月6日火曜日

旭日大綬章

 先日、春の叙勲受賞者が発表された。旭日大綬章6名の中に参議院議員の石井一氏がいる。永年在職議員が受賞理由らしい。政治一筋にみえるこの人に数年前に意外なことを発見して嬉しかった。ブログがあったのだ。そして記事のなかではジャズコンを主催していることやら、1953年のJATPのエピソードなどが語られる。政治家には清濁併せのむ器量が求められると言うが、この人にも怪しげな話が時折つきまとう。それでも私はジャズが好きだという人には芯からの悪人はいないと信じている。叙勲という習わしはうさんくさいと私は考えていますが、まずはおめでとうさん。石井氏のブログURLは次の通りですが、最近の投稿がないのが気になります。会長をしていた音楽家協会も不祥事が伝えられていますし。ご健在を祈ります。
http://ishiihajime.blog95.fc2.com/blog-entry-76.html




さて、旭日大綬章という勲章の名前を聞くたびに私は怒りを覚えるのですが。3月10日の東京大空襲、下町をなめ尽くした大火炎。いかに焼夷弾に弱い木造家屋が集まっていたとしても、あのようにうまく人間の集団を蒸し焼きにできるものではありません。そうなるように考えて実行したのです。計画した張本人はアメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍です。無差別絨毯爆撃の創始者でドイツのドレスデンなど多くの実績を誇ります。その実績が買われて東京空爆の指揮官になったのです。
1964年の勳一等旭日大綬章がこともあろうにこのルメイ将軍に贈られました。聞くところによると、天皇が反対したのに、佐藤内閣が決定したとのことです。どういういきさつがあったのか知りませんが、こういう人に勲章を出す神経が私には理解できません。そしてたとえば、『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也著)に描かれたような無垢で純真な善人たちの家族が焼き殺された情景を思い浮かべると共に、ルメイと勲章が悪い夢のように脳裏に映されるのです。「鬼畜米英」はほんとでした。既に多くのブロガーが書いていることですが、やはり黙っていることはできません。