2018年1月17日水曜日

読書雑感 『ブリキの太鼓』

またギュンター・グラスだ。『ブリキの太鼓』を読んだ…。
はじめに異議を申し立てておく。訳注、387ページ下段:マウントバッテン将軍。「1900-79。アメリカ軍司令官。1944年アメリカ軍のビルマ反攻がつづいていた。」とあるが「アメリカ軍」は誤りだろう。そもそもが大英帝国の伯爵だ。ビルマ戦線では英軍劣勢の後、アメリカが協力して反攻に転じた。1943年8月東南アジア連合軍が結成され、マウントバッテンが総司令官、その下に英陸軍中将が補佐についた。

さて、終わりまで読んで、ふと初めの章に戻ると、つい今しがた話題になっていた友人二人が最初からいるではないか。つまり、この小説は尻尾と頭がつながっているのだ。訳者、池内さんの解説にもA-ZがZ-Aになるとか書いてあった。
初章の場面は精神病院。看護人ブルーノ・ミュンスターベルクが登場。目がブラウン、紐細工が得意、週一度の訪問日に客が帰ったあと、お土産品の紐をベッドに腰かけて整理する、紐を石膏で固めて造形する静かな人間。いつもドアの覗き穴からオスカルを見ている。記録用の白い紙は彼が買ってくる。けがれのない紙、という言い回しで言うように頼んだが、戻ってきたブルーノは、けがれのない紙と言うと店の女は真っ赤な顔をしたと考え深げに話した。なんのこと??おっと女の話題じゃなくて紙だったとオスカルが後悔する。
精神病院はオスカルが「やっと手に入れた終のすみか」だそうだ。青い目のオスカル。看護人のブラウンの目はオスカルを見、ぼくの青い目はぼくを見る。オスカルもぼくもどちらも主人公で、ドアが開かれるときどちらも孤独と友情に包まれる。
病院に許され毎日3-4時間ブリキの太鼓に語らせるーーどうやって語らせるのか?たたくだけのようだがわからない!すべてを太鼓が記憶している。太鼓の原理に説明はない。ま、いいか。

物語全部が病院にいながらの回想である。読んだことは読んだがページは尽きても頭の中は物語の出口がわからずうろうろしている。オスカルが生まれてから30歳になるまで、時代と人々の光景が46のエピソードに分けて語られる。時代は違うがブリューゲルの絵を連想する。一枚の絵にてんでばらばらな動きの大衆が大勢描かれている。それぞれの本能に任せてのあるがままの生活ぶり。反教養小説とはうまい表現だ。
主人公の特異な人物オスカル・マツェラート。生まれるときに3歳までは成長しようと決める。3歳になったら太鼓を買ってやろうと母親が言ったからだ。耳ざとい赤子で両親の話をしっかり聞き取って自分の意志を決めている。父親は家業の食料品店を継がせようと言うが、それはお断りする。身体は成長しないが、精神的発達は生まれたとき既に完了しているのだそうだ。
94センチの小さな体形で世渡りするとどういうことになるか。ある時は幼児ぶりを発揮するし、別の時には大人の知恵を使う。幼児の機嫌を損ねると怒りだして叫ぶ。その高い声には強烈な破壊力が伴う。ガラスを割り、切り取り、粉々にする。良くも悪くも使える小人の武器だ。
小人はどこでも意地悪い世間の目にさらされる。むかしから世界共通だ。道化役、笑いの対象…つまり見世物、差別の対象にされる。どっこい、それなら小人もそのことを利用してがっぽり稼いでも見せようぜ。グラスは何気なく被差別民や障碍者の暮らしを描く。現実の社会ではロマを支援しているという。教育の行き届かない無教養の社会では古代人と同様に性におおらかになる。だからこの物語にも奔放な性が横溢する。父母がいて子供ができる。母親はまず間違えようがないけれど、父親はあやしげだ。たいていの生き物のオスは役目がすめばどこかへ行ってしまう。オスカルにも推定上の父親と父親ぶってるだけの父親がいる。オスカルの息子らしきクルトにも同じ問題がある、でもそれだけのことで、だからどうってこともない。
物語の中心となる地域は戦間期のダンツィヒだ。現在はポーランドのグダニスク。ヴェルサイユ条約によって自由都市などという妥協の産物ができた。
自由都市におけるポーランド郵便の切手
もともとはポーランドなのに第二次大戦の幕開けにナチドイツは、何気なく泊めてあった軍艦からの砲撃で取り返しに来た。戦後はポーランドに返され、ドイツ人は難民や東ドイツ人になった。ドイツでもポーランドでもない人たちもいた。いろいろあるが、この作品にはカシューブ人が登場する。バルト海沿岸の漁民が多かったはずだ。ナチの時代には帝国ドイツ人に対する民族ドイツ人だった。政治が鉛筆ねぶって国境を左右したとき、オスカルの祖母アンナはでんとして動かなかった。カシューブ人はいつもカシューブにいるのだと。

メルケル首相もカシューブの血を引いている。だからつよいのか、難民に理解あるのも関係しているか、などと思わず考えた。
ギュンター・グラスはダンツィヒに生まれた。母親がカシューブ人だった。故郷を想う心情は相当に強烈とみる。カシューブ人の土地に対する思い入れは、わが東北育ちの人と似ているのではないかと思う。井上ひさしが独立を考えたように。田圃を守る、墓があるなどというのは結果の話で、根っこがあるのだろうと考える。オスカルの物語に「黒い料理人」が登場する、言葉でだけだが。何のことかわからない。子供たちの歌う歌に出てくるということは相当に古い言い伝えでもあるのかな。
この物語には民族の心を秘めた歴史が土台にあるとみる。物語は時に荒唐無稽、奇怪な出来事に読者を引きずりまわすが、背景時代についての歴史はきちっと記述している。ただし、ときに表現はくだいていることもある。
カシューブの海辺で漁師が馬の首を引き揚げた。まだ腐ってはいない、きのう、おとといあたりの首。中から大小たくさんの緑色のウナギがにょろにょろ出てきた。馬の首も人の死体もウナギは好きなのだと漁師は言う。読者はだれしもしばらくウナギを食う気になれないだろう。この事件をきっかけにオスカルの母親アグネスは過食症が拒食症に、そしてまた過食に。挙句に死んでしまう。料理好きの父親はそのウナギを料理する。もちろんのこと、父母は食え、食べないのいさかいになる。読むほうも辛い場面だ。
母アグネスは、祖母アンナがジャガイモ畑で祖父になるヨーゼフ・コリャイチェクを4枚重ねのスカートの中に匿ったことから生まれたとか。ヨーゼフはなんと政治がらみの放火犯だった。それがどうなるかここには書かないが、この話が冒頭に出てきてめっぽう愉快だ。なんでもポーランドの国を想うあまりか、製材所の塀を片っ端から赤と白に塗り分けたとのこと、それを怒った親方が赤と白を引っぺがしてヨーゼフの背中を殴りつけた。その夜ヨーゼフが新築の製材所に火をつけたのだという。赤と白はポーランドの国旗の色だ。オスカルの太鼓も赤と白に塗り分けられていたようだ。グラスは特に説明をしていないが言わずもがなのことだからではないか。
エピソードそれぞれの主題はばらばらで一貫していない。中世ヨーロッパには「ほらばなし」というのがあったそうだし、わが国にも『今昔物語』その他があった。この作品もそういう系統に数えられるのかもしれない。庶民の暮らしを細かく綴ることで本当の民族の歴史ができてくる。国家にとらわれた大きな歴史では世間がどうだったのかさっぱり見えない。本作は社会史である。随所にちりばめられた比喩や皮肉やもじり、親切な訳注はあるが当方の知識不足は埋められない。だから読み終わった気分からは遠い。なかなか去りがたい思いがする。いつまでたっても、まだ帰ってはいけない気分。映画の方はまだ見ていないが、見ないほうがよさそうだ。
『ブリキの太鼓』グラス 池内 紀 訳 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅱ-12 河出書房新社 2010年 (2018/1)