2020年11月29日日曜日

随想 朝河貫一のこと

東電福島原発の大事故(2011.3.11) は起こるべくして起きた人災であった、と国会事故調査委員会の報告書は断定した。報告書の冒頭に置かれた「はじめに」に黒川清委員長は次のように書いた。

100 年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。

この報告書が公表されたとき、どれだけの人が朝河貫一の名を知っていただろうか。100年前の書物を読んだ人はもっと少ないだろう。かくいう私にしても、前回話題にした松本重治氏がエール大学入学当時に、大学内に居住していた朝河講師に親しく接してもらったこと、また、阿部善雄『最後の「日本人」』が発刊されてようやく日本人に知られるようになったとの話でその名を知ったのだった。

朝河貫一は日露戦争当時は31歳、すでにエール大学Ph.Dを取得している歴史学者で、ダートマス大学の講師を勤めていた。日露対立に至った事情と日本の立場を説明するべく、『日露衝突』(英文・1904)を英米において刊行し、更に数十回にわたる講演を行うなどして日本を弁護した。そこには満州では清国の主権を認め、列国の東洋での機会均等を目指すとの二大原則をもって条約締結にのぞむとあった。この姿勢が非キリスト教国の日本に必ずしも好意的でなかったアメリカを主とする列国の好感をよんだのであった。ところが戦後になると日本外交の姿勢は反転して大陸侵攻一辺倒になったのはいかにも世界正義に反することで、とくに清国に関心の強いアメリカといずれ敵対する結果をもたらしかねないと日本人に警告したのが『日本の禍機』(1909 実業之日本社)なのであった。結果は日中戦争、太平洋戦争につながり、日本の破滅に終わった。

朝河は日本人が自国を客観視する習性を身につける必要を説いている。原発事故調も、原子力安全委員会が「規制の虜」になっていて、人の安全を護るべきところが施設の安全を守ることを図るように働いていたと観測する。日本は変わることができるか、と問う黒川委員長は日本の通例として、一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造を挙げ、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」が「変われなかった」要因とする。これらのことが海外の人の目には奇妙に映ることを日本人は気が付かない。人間一生のうちには生きる上での考え方も変わりうるのに、なぜ出発点と同じ過ごし方でいられるのか不思議だと外国の人は思う。日本人も役所や会社の紐付きでなく個人として海外で暮らしてみれば、この不思議に気がつく。朝河も独り外国にあってこういう日本のシステムに気がついていた。『日本の禍機』の終わりに「日本人の愛国心」の章をもうけて、「余は欧米人と日本人とを多年比較観察したる結果、小児も成人も反省力において我が彼に秀ずること少なからざるを証し得たりと信ず。今や日本国民が要するところは、これを人民の性格のみならず、また国民的性格として極力増進せんことにあり」と述べて国の上下を挙げて教育の改革を実現せよ、と説いたのであった。

黒川氏はアメリカの大学のはじめ2年間は理系文系の関係なく、リベラル・アーツのクラスであり、プラトン、アリストテレス、マッキャベリ、マルクスなどをテキストにして前もって読んできたことを議論するマイケル・サンデル方式だと紹介する。阿部も朝河のクラスは事前に読んできたことを議論する形式で行っていたと書く。教育が上から下への方向に教えるのでなく、互いに話し合うことでなされるから正解は一つではないだろうし、まず疑ってかかることを覚える。朝河が東京大学ではなく、東京専門学校に進んだのは、賊藩の出身のためだったかと考えるが、かえってそのためにキリスト教に、そして自由思想に近づくことができたと考える。

二本松藩士だった父正澄は極貧の中で幼児から漢学を教え、息子もよくこたえて小学校・中学すべて首席を通す秀才であった。早くから語学に関心が強く、中学卒業に際し卒業生答辞を英語で演説して、その文章で英人教師ハリファックスを感動させたという。家庭の事情では到底望めない大学進学には自力で進む決心をして東京専門学校に進む。縁あって本郷教会の牧師、横井時雄を知り、文章力が評価されて『六合雑誌』に寄稿するようになった。やがて受洗してキリスト教徒になるが、このあたりから運が開けた。専門学校二年のとき、横井が友人のダートマス大学の学長タッカーに朝河の優秀さを話してその留学希望を伝えた結果、学費・滞在費の面倒を引き受けてくれた。さらにタッカーの手引きにより、ダートマス大学のあと、エール大学の大学院の給費生となって朝河の学問の道が決まる。

ダートマス大学の頃から日欧の社会と制度の比較を自分の使命だと自覚していた彼が、大学院の学位論文の課題に選んだのは大化改新の研究であった。この論文『六四五年の改革の研究』(A Study in the Reform of 645 A.D.) が完成したのは1902(明治35)年6月16日、貫一28歳、Ph.D (哲学博士)の学位授与が決定した。翌1903年5月、この論文は日本で英文346頁の単行本として出版された。アメリカの歴史科学の洗礼を受けて生まれた大化改新の研究は、ただちにアメリカの学会から高い評価を受け、彼は最も優れた東洋解釈者として迎えられた。朝河の論文は、当時の日本の学会の水準をはるかに越えたものであり、わが国の古代史に対する彼の自由で科学的な考察は、日本の一部の学者たちのひそかな羨望の的とさえなったと阿部は書く。

朝河が日本に帰ったのは二度だけである。その二度目の帰朝は東京大学史料編纂所への留学であった。このとき『薩藩旧記雑録』所収の『入来院文書』が日欧封建制比較研究の最適な素材であることを見抜いて、1919(大正8)年5月に鹿児島の入来村まで実見に赴いて原本調査し、自分で筆写したり滞在日数の制約から系図等の写し作成を依頼したりして米国に戻った。

『入来文書』("The Documents of Iriki")(1929(昭和4))は、日英両文(合冊)の形でエール大学とオックスフォード大学各出版会から一斉に刊行された。世界的に有名になった封建時代の記録研究である。古文書の原文を格調高い中世英語を用いて英訳しただけでなく、訳注のすべてが英語で記述されている。朝河が『入来文書』の本文のなかに繰りひろげた論証のもとに述べた結論の大意は、次のようなものであった(阿部154-5頁)

フランスで九世紀より十一世紀までの内乱の時代に発生した領主と民衆のあいだの相互的な封的契約は、イギリスに輸入され大憲章として花咲き、人民の合意による自由獲得の足場に発展していった。これに反して、日本では中国の伝統を引く官僚統治の遺制が、相互的な封的契約の成長を妨げ、さらに豊臣秀吉以後の専制政治がその機会を圧殺するにいたった。ヨーロッパにあっては、自由と正義と義務の観念がやがて近代社会を支配するようになるが、日本で近代を開いたのは、ほかでもなく、武士の忠義心と百姓の平均的な富裕さであった。

つぎに阿部が引用するわが国ヨーロッパ中世史専攻の堀米庸三氏の評価を引き写しておこう。

朝河氏は完全にヨーロッパ的な学問の方法を身につけた少数の日本人であったばかりでなく、完全にヨーロッパの中世専門家の言葉をもって思考し叙述し、しかも日本の封建制度関係の文書を日本の専門家と同様に理解し、かつこれを英訳できたまったく稀有の人物だった。氏の英文は簡潔澄明で、しかも緻密犀利な論理をそなえている。(中略)『入来文書』のコメント(訳註)は、アメリカのアンダー・グラデュエートの学生の能力をはるかにこえるものであり、それはまたわが国の日本史研究家の理解をこえたものであるばかりでなく、そのコメントを自由に使いうる人は、わが国西洋中世史家のあいだにも、けっして多くはないと思われる。(中略)朝河が十分に日本で理解されてこなかった責任の過半は、むしろ自分たち西洋中世史家が負うべきものであろう。(堀米庸三『歴史の意味』)

朝河は自由主義政体こそは、人類が到達した最高度のものであるとともに、最も困難な政体でもあると考えていた。そしてなぜ困難な政体であるかといえば、それはこの政体の地盤となっている個人個人の責任感が、すこぶる緩みやすいからであると説明し、民主政体は根本的に常に道義的であることが正しく、個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、公民的であるかを自省する必要があると強調する。さらに「自由憲法ヲ造レバ。ソレニテ能事ガ畢ルニアラズ。自由ハ毎日個人ノ責任犠牲ヲ以テノミ買イ得ベキ最高価ノ貨物也」といい、なお、こうした自由政体を妨げるもろもろの困難に打ち克つところにこそ、最も進歩した政治と文化が存在するのだと力説したのであった。この見識は、もはや朝河においては不抜のものであり、彼はこの考えに立って、世界各国の情勢と推移を判断し、ときには一国・一民族の運命をさえ予断したのである(阿部194頁、出所不明であるが、おそらくエール大学の図書館所収の書簡集他から得たものと推測する)。

こうして彼は1939年10月に友人への手紙でヒトラーの自殺を予言し得たのであった。ヒトラー自殺敢行の実に6年前である。その論考を阿部が提供してくれている(阿部188-192頁)が、長くなるのでここでは省略する。1940年9月日独伊三国同盟が調印された。なんと馬鹿げたことであったことか。

1905年、朝河貫一はアメリカ女性を伴侶としたが、わずか8年で死別、子はない。晩年はニューヘヴンのエール大学の大学院塔に宿舎をもっていたが、毎夏訪れる山のホテルで疾患のあった心臓の麻痺で急死した。生前に決められていたニューヘヴン市内の大学墓地に葬られた。彼は終生日本国籍であった。命日の1948年8月11日、伝えられるところでは、AP電もUPI電も、「現代日本がもった最も高名な世界的学者朝河貫一博士が」と打電しながらその死去を世界に伝えた。また日本占領のアメリカ軍の新聞『スターズ&ストライプ』は長い弔意記事を掲載し、横須賀基地では半旗をかかげた。これに反し、日本の新聞界は、右の訃報電文を新聞の片隅に三、四行をさいて載せたものの、その名前を「浅川」と誤っていた。

数々の文化財、建築・施設が空爆から護られたこと、占領行政で間接統治を選択させたこと、民主的に天皇制度が続いていることなど、米国内にあって米国政府に説明参画した貢献は忘れられてはならない。

(参考)

朝河貫一『日本の禍機』1987年 講談社学術文庫

阿部善雄『最後の「日本人」――朝河貫一の生涯』(岩波書店 1983、現在は岩波現代文庫)。

国会事故調査委員会報告書は次のサイトで読める。https://www.mhmjapan.com/content/files/00001736/naiic_honpen2_0.pdf

山内晴子、博士論文『朝河貫一論:その学問形成と実践』(2007)。単行本もあるが、早稲田大学リポジトリから博士論文、山内晴子を検索してダウンロードできる。

2018年には朝河貫一没後70年記念シンポジウムが国際文化会館主催で行われた。このときの記録が公開され、以下に示すサイトからダウンロードできる。

https://www.i-house.or.jp/pdf/symposium20181020/kouenroku_PDF.pdf

黒川氏はここにも出席されていて、ペンシルバニア・ロー・スクールでの関連スピーチに触れているが、それは次のサイトからダウンロードして読むことができる(英文)。ここには日本人以外には理解し難い「文化的背景」も語られている。https://scholarship.law.upenn.edu/alr/vol13/iss2/2/

(2020/11)














 

2020年11月6日金曜日

読後感想 『昭和史への一証言』松本重治

 買い置きの本の中に『昭和史への一証言』毎日新聞社昭和61年刊、というのがある。著者は松本重治となっているが、國弘正雄氏による聞き書きである。


『週刊エコノミスト』1985年4月2日号から12月10日号までの35回連載をまとめてある。松本氏には有名な『上海時代』という著書があるが、入手できなくて代わりに買い込んだのがこの本、末尾のページ隅に鉛筆で ’87-3-4と小さく書き付けてある。それを見るまではまったく初めて読むような気持ちで読んでいた。毎度のことながら記憶は頼りにならないものである。この本の中身は文章ではなく口頭による「はなし」であるから読みやすく、わかり易く、そして話題が広くて興味深い。

重治氏は祖父松本重太郎を終生敬愛している。丹後の間人(たいざ)村出身、十代で奉公に出て、若くして独立、関西財界で重きをなすに至った人物。南海電鉄の前身の阪堺鉄道は私鉄の創始であった。紡績業界の不況により百三十銀行が破綻したために身代限りで引退した。財界を応援するため、大阪朝日新聞に対抗する大阪毎日新聞に肩入れしたことで終生相談役であったのが、この対談につながっている。『週刊エコノミスト』は毎日新聞の雑誌である。本著の編集は同誌の記者河合達雄が担当し、末尾に一文を寄せている。

通信社『同盟』の上海支局長であった松本重治は蒋介石・汪兆銘・毛沢東の間の内戦と日中戦争の競合によって難渋する中国の国民を救うために日中の和平工作を画策する。何度も挫折を繰り返した挙げ句、ようやく蒋介石の気持ちを和平交渉に向けるまでいくが、日本軍部は和平案に「撤退」を盛り込むことを拒否し、交渉の前準備の停戦をすることにさえ応じなかったがために相手に信用されなかった。大本営の内部からも和平協力者が出ているのにこのざまなのだ。世によく言われる関東軍の横暴というのは、我が事だけにかまけて周囲の事情を判断する知能に欠けていたためであった。また、撤兵を説く人を暗殺しようとする右翼の隠然たる存在も無視できない。

日本敗戦の戦後になって占領軍GHQは松本を公職から追放した。本人は一切弁明をしなかったが、高木八尺教授など内実をよく知る周囲はGHQの判断は誤りとして追放解除を運動した。そのことを編集者の河合は特筆している。高木がマッカーサーに直接事情を説いた4ヶ月後に追放解除されたと書く。

中国国内の一致を図って国共合作で抗日戦を優先しようとして、国共戦優先を唱える蒋介石を張学良が西安で監禁した西安事件は松本の世界的スクープとしていまに有名であるが、この当時の全体状況はいかにもわかりにくい。南京政府の主席となった汪兆銘は日本の傀儡とされるのが定説になったが、それほど単純な話でないことが本書の談話でよく理解できる。どんどん逃げて奥地へ日本軍を誘いこむ冷徹な蒋介石の作戦に引きずられた結果の南京事件も、入城式で「お前たちは何ということをしてくれたのだ、皇軍の恥だ」と松井石根司令官が叱責しても、後の祭りでどうしようもなく日本軍の汚名が世界中に轟いた。当時の現地を知る松本の実見では、いわゆる虐殺の被害者数は3万人ほどだそうだ。

松本は戦前米欧に留学しているが、帰国後1929年に京都で開かれた太平洋問題調査会(IPR)の太平洋会議に参加したことが、松本の民間国際交流の原体験であると河合は書いている。国際会議での交流の表裏を間近に体験して驚いたのは後々に役に立った。余談だが、このIPRは後にマッカーシズムの嵐に遭い、エジプトで自死したカナダの外交官、A・H・ノーマンも深く関係していたのを思い出した。

戦後の松本の国内における最大の功績は国際文化会館の設立とその運営であり、その結果の及ぶところはおそらく世界的に裨益したことだろう。政界官界など多方面からの誘いには乗らず一民間人として徹底した生き方はその功績とともに見上げるべきものだと思う。

国際文化会館ができた翌年1956年に歴史家のアーノルド・トインビーを招聘した。前の年に松本がロンドンに行って直接招待した。このときトインビーは、大著『ア・スタディ・オブ・ヒストリー』の改訂版を考えているとの話があったそうだ。この著書は日本では『歴史の研究』とされたが、原題には不定冠詞の「A」がついているから『歴史の一研究』が本当だ、非常に控えめなタイトルでいて、内容は非常に豊富、つまり著者の謙虚さがここによく出ているので松本は日本式の書名を残念がっている。なおこの招聘した時の講演集は松本監訳で『歴史の教訓』(岩波書店 1957)であるが、いまでは古書になった。

現在は国際ジャーナリストとの肩書がもっぱらの松本は、大学を出るまで進路を特には定めていなかったというが、弁護士、新聞記者、大学講師などの自由職業を漠然と考えていたらしい。それがエール大学に行ってチャールズ・ビーアド教授に出会い、多くの人に紹介され、各所で講演したり雑誌に寄稿する経験をしたことでジャーナリズムへの興味が深まったという。そういうことを可能にしたのが英語力だろうが、そのことを、一高の畔柳芥舟先生に「英語を本当に習った」と表現している。畔柳先生は英語を叩き込むという流儀で、リーダーにディ・クインシーの『オピアム・イーター』を使って、一学期に3ページぐらいしか進まない授業をした。出てくる言葉の意味はどんな小さな言葉でも、全部知らなくてはいけないから予習には大きな辞書を使わなくてはならず図書館ではウエブスターの取り合いだったという。文脈が変わると言葉の意味も変わるということを徹底的に仕込まれた。このような授業方式ではクラス編成は小人数にならざるを得ないからクラスは二つに分けられた。学期末に1、2番と、びりっけの名前が発表され、二つのクラスの一番がそれぞれ松本氏と憲法学の宮沢俊義氏だったそうだ。『阿片吸引者の告白』は、調べてみると初出が 『ロンドン・マガジン』 (1821)だからなんとも古めかしい。さて、初めてアメリカに行って、最初に英語を使って、あぁ通じたなと思ったのは、グランド・キャニオンに着いた朝、ホテルの食堂でウエートレスに「ハム・アンド・エッグス・プリーズ」というと、「オーライ」と静かに応えてくれた。わかってくれたと本当に嬉しかったと書いてある。それからまもなくニューヨークで多くの人と交歓し、講演までして原稿を書き、読者と交流したなどと聞けば、舌はそれほど滑らかではなかったかもしれないが、立派なものだと感銘する。英語でも自分の考えを表現できるようになって書いた最初の原稿が『ザ・ネーション』に載ると、いろいろな人から熱心な手紙が来た。そのとき、ジャーナリストになりたい気持ちが胸にこびりついたそうだ。その同じ1925年3月25日号にビーアド教授の論文が載っていた。その要旨は、日米戦争が起こるなら、それは中国市場の取り合いからである。戦争の原因になるのは、結局中国の問題である、というものだった。その時以来日米関係は日中関係であると考えるようになった。それと前後して滅多にこない父親からの手紙が来て、それには中国人留学生と友人になるように努めよとあった。当時中国人留学生は義和団事件への清国の賠償金(団匪賠償金)でおおぜい送られてきていてエール大学だけで7、80人もいた、そのうち十数人と友人になったという。なかでも教授の気配りで東洋人同士だからと世話をしてくれた何廉(ホーリェン=1897-1975、財政学者)とは50年以上の交友が続いた。留学当時は、1915年に日本政府が出した「対華二十一か条要求」への中国人の反感が強く1919年には5・4運動が起きていた。松本が、アメリカ人より中国人と話すほうがボキャブラリーやスラングが少なくて聞きやすかったので、生地のままの自分を率直にぶつけていくと、中国人留学生はふだん日本留学生とは付き合わないのに自分には例外的に付き合ってくれたそうだ。リベラリズムが生地であったわけだろう。本書では、松本の主著『上海時代』の内容ははずすようにしたと國弘は説明しているから、中国問題はそちらに多く記述されているはずだ。筆者は未読である。

話題は豊富で、國弘氏がふる話題にこたえての談話は妙味が尽きない。一説には、上海時代の松本について、『同盟』が国策会社であるため経費の多くを国に負うていた、そのためキレイ事ばかりではないと伝える書物もあると聞くが、私はこの本が気にいっている。もちろん、『上海時代』も、開米潤著『松本重治伝』(2009年)も参照しなくてはと考えている。(2020/11)