2017年12月30日土曜日

スピーチバナナ——「聞こえ」について・難聴と認知症

スピーチバナナは知らなかった。聞こえの話だ。人が話すときの音声を聴力検査の図に当てはめるとバナナに似た形に表現される。次の図が一つのモデルだ。
シニア安心相談室のサイトから
図の黄色の部分が人の音声の範囲を示す、つまりスピーチバナナだ。縦軸は音の強弱をデシベル(db)で表し、上に行くほど弱くなる。横軸は音の高低を周波数ヘルツ(Hz)で表す。右のほうが高い。日本語の場合はアイウエオ(母音)が低音、サ行音や若い女性の声が高音になる。

図のピンクの部分が難聴者一般の傾向を表しているが、高い音が聞こえにくいことが示されている。

この図では黄色部分に含まれない音に対する聞こえ具合も示されている。犬が吠える音や大きな歌声の絵がある。比較的に低くて強い音だ。鳥の声などは高くて弱い、つまり耳の遠い人には聞こえにくい。人の声以外は自然音、あるいは話の邪魔になるのは雑音と呼ばれる。
先日補聴器センターで聴力を測ってもらったが、左右ほとんど同じで見事に黄色部分から外れる結果であった。補聴器は聞こえない音を補強してくれる装置だ。人間の耳は実をいうと体外の音を脳に伝える役目をするだけで、音を認識するのは脳であって耳ではない。聞こえにくい現象は耳の細胞が不調になるために起こる。鼓膜の奥にある有毛細胞の毛がなくなると音が受け入れられなくなる。年齢とともに高音部を受け持つ毛から消えてゆき、再生はしない。補聴器は耳が受け止めない音を拾うための集音と拡声の役目をする。つまり小さな声と高い声を大きく聞こえるようにする機能がある。人間の脳は雑音の中での会話であっても必要な話声を認識する機能があるが、補聴器はあらゆる音を拾って拡大するだけだ。そのため聞こえない声を聴く目的の補聴器であっても、不要な音も同時に大きくなって耳に入る。本人にとってはうるさいだけで役に立たない。向かい合っている人との会話も周りの人がしゃべっている声も、全部一緒に耳に入ってくる。何が何だかどの人の声も雑音に変わって苛立つばかりになってしまう。この点はまだ技術ができていない。相当改善できた補聴器もあるようだがまだ値段が一般的でない。両耳で百万円と聞いている。それでいてまだ十分ではないはずだ。今のところ難聴者はまめに補聴器を整備してもらうことと、話しかける健聴者の協力に頼るしかない。
そうはいっても補聴器なしで聞こえないのを我慢しながら日常を過ごすのは、ストレスにもなるし、人と話をしなくなることから脳のコミュニケーション機能が衰えてくる。つまりこれは認知症の始まりである。脳の活性を保つことが認知症の予防になる。体全体の血流をよくすれば脳の血流もよくなるから、運動が認知症予防に推奨される。そのことと脳のコミュニケーション能力を維持することとは別物だろうと考える。ただ黙々と筋トレや体操をするだけでは足りないと思われる。人との交流と会話がいちばん、文字を書いたり料理をしたりするのもよい。孤独死に高齢男性の一人暮らしが非常に多いのは当然の結果を示しているのであろうし、その手前に認知症がある。聞こえが悪くなるのは、その程度と年齢が人さまざまであるから一概に言えない。はやいうちから聞こえの問題に敏感になることと、耳を大切に使う心掛けが必要だ。ヘッドフォンは快適ではあるが大音量は絶対にいけないし、長時間の使用も細胞の損耗につながる。耳が悪くなって、はじめていかに世間の人たちが聞こえに関する知識がないか痛切に感じている。(2017/12)

2017年12月28日木曜日

ギュンター・グラスは古~いジャズがお好き

『玉ねぎの皮をむきながら』を読んでいる。前半生の自伝、2015年に88歳で亡くなっている作家が2006年に上梓した。訳者の依岡氏によれば、1959年までの自分について書いてあるそうだ。であれば、それは『ブリキの太鼓』刊行がその年にあたる。作家と書いたがこの人の人物像は一様でない。たとえば、wikipediaにはドイツの戦車兵、小説家、劇作家、版画家、彫刻家、と並べてあって1999年にノーベル文学賞受賞とある。小説を書く以前、早くから詩を書いていた。身過ぎ世過ぎの手段としていろいろな仕事を経験している。いつも貧乏暮らしで社会の低層にあった。
著者自筆4ページ見開きより

途中まで読んだ限りでは、決して自分の自由にならない暮らしにありながら自由に生きた人という感じがする。つまり自分に正直な人だ。
相変わらず、というのは先に『蟹の横歩き』を読んでその作文法の奔放な緻密さに、普通なら辟易という言葉が出るところが、そうではなく面白く読めた。半生の間に出逢った様々な人間が後々の作品の中に姿を変えて出ているらしいことを知れば、この自伝を先に読むのは惜しむべき失敗だったかもしれない。読みさしであるが、ここにこの文章を書いておこうと思ったのはわたしにとってうれしい場面に出くわしたからだ。

「ラグタイムとブルースへの飽くなき喜びゆえに」友人とジャズバンドのトリオを結成した。いろいろな楽器を鳴らすフルート吹きのホルスト・ゲルトマッハー、ギタリストでバンジョー奏者のギュンター・ショル。そして、「私には打楽器として、初期のジャズ時代(ニュー・オーリンズ!)以来使用されてきてお馴染みのウォッシュボードが割り当てられた。その波打つブリキの楽器から、指貫をした八本指でリズムを叩き出した」

この個所を書いているときグラスは楽しくて仕方なかったと想像できる、それがニュー・オーリンズ!とビックリマークが付いた理由だろう。このとき彼らはデュッセルドルフの国立美術アカデミーの学生だった。頃はたぶん1947年。ほかの二人は絵描きだが、グラスは彫刻の修行中だった。ハンガリー風を気取った雰囲気の「チコス」というレストラン、二階家でウナギの寝床のように細長い旧市街、そこの階段下がステージだ。週に3回、夜中まで成金の聴衆相手に演奏してヘトヘト、食事はただで、給料はまあまあ、終わってから腹いっぱい食べたというグーラシュ…と書いているがうまそうだなぁ、あれはうまい。それはともかく、彼らは遅い時間帯になるころ、有名人の訪問を受けたのだ。


 数週間前から売り切れだった、大観衆を前にしてのジャム・セッションの後、我々の往年のアイドルが、お供を連れて、「チコス」にやってきた。テーブル四つ、五つ分くらいへだてた後ろの方で彼は私たちのジャズのレパートリーを聞いていたが、ゲルトマッハーのフルートの甲高く噴火する音が気に入ったらしい。たしかにそのサウンドは並外れていた。
 その著名なゲストは、後で聞いたのだが、タクシーで自分のトランペットをホテルから取ってこさせて、突然、まごうことなく我々のいる階段下を見て、(今や私も彼の姿が見える)唇に楽器をあて、酒場でキーキーという雑音のなかで安い報酬で演奏している私たちのところに、トランペットをまるでシグナルを鳴らすように明るく吹きながら上がってきて、フルートちゃんの荒々しいフルートの切れ切れの音を捉え、目をぐるぐる回してソロ演奏した。それに我らがソリストであるゲルトマッハーが今度はアルトフルートで応え、管楽器と木管楽器の二重奏をやったが、それはまさしく、我々が熱狂的に買い求めたレコードで、ラジオで、光沢付き白黒写真で知っているあのサッチモ(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)だったのだ。今や彼はトランペットの音を弱音機で弱めて引き下がり、自分のサウンドを、永遠にも感じられる短時間に、ふたたび私たちの合奏に結びつけ、私と私の指貫に別のリズムを演奏させてくれたかと思うと、ショルのバンジョーを励まし、観客の歓声を煽り我々の「マネーメーカー」(訳注;ゲルトマッハーの英訳)がその綱渡りを、今度はピッコロフルートでやり終えるや、お馴染みのトランペットの叫びを響かせながら私たちから離れていき、ひとりひとりに優しく、いくらかおじさんぽくうなずいて去っていった。

フルートちゃんと呼ばれていたゲルトマッハーは音楽家でもあって、かなりの編曲の技を持っていたらしい。ドイツ人が古くから歌っている民謡をアレンジして演奏するのが常だったようで、この時も「あっさりと、短いメロディーを響かせてからドイツの民謡を、遠い地を目指していく移民のように、アラバマへ移住させることに成功した」見事にサッチモの耳を捉えたわけだ。「大胆に、しかし、夢見るような確かさで、このカルテットは息を合わせた。たしかに、私たちは五分ないし七分のごく短いあいだだけ、四人で演奏したのだが(幸福がそれ以上続くことがあるのだろうか?)、フラッシュ写真一枚残っていないこのハプニングのことはいまだに耳に残り、目に浮かぶようである」グラスはこの場面を回想しながら自分たちのこれ以上ない最高の名誉として綴っている。奥泉光はこれはほんとうだろうかという。回想には嘘が入るという考えを披瀝しながら、虚構でないかと書くが。

残念ながらこの書物の翻訳はあまり上等ではないように思える。ドイツ語は分からないけれどもグラスという書き手は豊かな語彙とひねりのきいた言い回しで原文を綴っているのだろうと想像する。ま、文章のことは措くとして、飛び入りで演奏してくれたサッチモの演奏を、グラスは「トランペット・ゴールド」と評しているようであるけれども、そのことがうまく読者に伝わらない。おそらく彼自身はいま思い出してもウキウキしてくるのではないだろうか、もう彼はいないけれど。

代わりに私がウキウキした。この場面を読んでしばらく想いにふけっているとイントロがひとつ頭に浮かんだ。West End Blues 、1928年の曲だ。音源を全部処分してしまったからyoutubeで聴いた。いまのわたしにはホントの音は聞こえない、半分は脳の記憶で聴いている。でも感激した。ギュンター・グラスを読んでこんな音楽を聴くことになろうとは予想していなかった。


彼らのハプニングのあったレストラン、彼らの演奏がない日には「コントラバスも持っているシンバル奏者のロマが息子連れで出演していた」そうであるが、どんな音楽を聞かせたのだろう。東欧を旅行すると、いまでもロマの演奏に出逢うし、休日のプラハのカレル橋では町内の中年四人組が「ハロー・ドーリー」をやっていた。これはわたしの勝手な思い出だが、グラスの世界は時代が違っても庶民がいるという実感がする。

最終章にまたもや懐かしいモノがでてきた。タイプライター、オリヴェッティのレッテラ。シンガポールで駐在員をしていた時、街を歩いていて見つけて買った。ブルーグレイのボディ、そうだ、グラスが書いているのと同じだ。もっともこちらは文学作品ではなく、面白くもない仕事の通信文。まだテレックスがホテルにしかなくて、原稿をたたいては持っていった。90年代の終わり、リボンが販売されなくなったころ、グラスは知人が新品を一パック送ってくれた。こっちは買い置きもなく、時代はワープロからコンピュータへ移りつつあったから、わがレッテラはむなしく押し入れで眠っていた。グラスは最後まで高机で『はてしなき荒野』とか『私の一世紀』をたたき出したろう。彼は塑像制作の延長でいつも高机で立って仕事をした。


負傷してアメリカ軍の捕虜収容所に入れられ、命は助かったが飢餓に襲われた。生きてゆくだけは食わせてくれるが、一日850キロカロリー、体重は50キロに減ったそうだ。これはモーゲンソー・プランの実践にふさわしいとあった。はて、なんだこのプランは。
アメリカのユダヤ人政治家発案の懲罰的ドイツ占領政策だそうだが、これはネットで得た知識。知らなかったなぁ。結局はこのモーゲンソー政策は全ヨーロッパを共産主義に渡しかねないとの反省から47年に修正された。グラスのこの体験は、のちに難民政策議論に活かされたそうだ。

17歳のナチ戦車兵、戦後60年経ってのこの自伝で、初めてそういう経歴が明かされて非難ごうごうだったというが、少年時代に国を思う至誠の情熱は、軍艦やらなにやらのカッコよさに惹かれて燃え上がるのが万国共通かもしれない。
グラスが収容所で聴いた「最新の流行歌、リリー・マルレーン」の元歌をはじめに歌ったドイツの歌手、ララ・アンデルセンは、ナチスが14歳まで徴兵年齢を引き下げようとしたとき、まさに14歳のわが子をはるか北海の島に逃がしたと読んだことがある。かくいうわたしとても昭和20年は12歳、翌年には中学2年生で鉄砲磨きでもさせられたはずだ。原子爆弾は悪だが、他方で救われた命のあるのも事実だ。ひとごとではない。
グラスは人生の一コマでそういう巡りあわせになったが、幸い生きのびた。戦後、アメリカや東西ドイツの政治のすることを黙ってみていたわけではない。すべて人はその一生の丸ごとを見るべきだろう。大江健三郎の、グラスの文学丸ごとを信じるとの意見に賛成だ。それはそれとして、この自伝には事実が述べられている。事実の経過は面白い物語になるし、歴史が語られる。訳者は解説でゆっくり読もうと提唱している。ぜひもう一度読み直そう、知らないことがいっぱいあるから、ゆっくり読もう。
ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら(2006年)』依岡隆児 訳 集英社2008年 (2017/12)


 

2017年12月14日木曜日

ギュンター・グラス『蟹の横歩き』池内 紀訳 集英社(2003)

本書には「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」という副題がついている。訳者解説によれば、原書には副題はないそうだ。ドイツ語の表題は『蟹の横歩きで』と「で」がついているという。このノーベル賞作家は寛大で、訳書に「で」は省いてもよいし、それで読者がつかなそうなら、然るべき添え書きをつけたらいいだろうと助言してくれたという。はて、それではドイツでは副題がなくても読者がつくのだろうか。これがわからない。なにか諺でもあるのだろうか。
ヴィルヘルム・グストロフ号はドイツの客船の名である。1938年竣工、2万5千トンほどで周遊クルーズを目的に作られた。ナチス党員の拡大を目的に乗客定員1500名足らずに広い娯楽設備用の空間が大きいつくりだ。1945年、東部戦線が崩壊してソ連軍の猛追に押し出されるようにして西へ向かうドイツ人避難民がゴーテン・ハーフェン港(いまのポーランド、グディニヤ)に殺到した。ドイツ政府はありとあらゆる船舶を動員して軍民の輸送に追われていた。1月30日、本船には1万人以上が乗船したと伝えられているが確かなことはわからない。乗船名簿を書き入れる用紙が6千6百名でなくなったからだ。悪天候をついてキールに向けて出港した夜、ソ連潜水艦の魚雷3本に沈められた。気温マイナス18度のバルト海でおよそ9千人が死亡した。女子供が7千人ほどを占めた。男たちは戦闘要員として乗船を拒否されていたのだ。奇跡的に降ろされた救命ボートに臨月の妊婦が混じっていた。3発めの魚雷で陣痛が起こり、駆逐艦に移乗されたあと暗闇の手探り状態で無事出産した。これは実話であって、生まれた男の子がこの物語の語り手になっている。その母が主人公でさらに孫が登場してくる。

遭難者の多いことでは海難史上まれに見る事件であったが報道はされなかったようだ。戦後になっても伏せられていた。東西に分割されたドイツのいずれの側でも人は口をつぐんでいた。西ではナチスの悪行が断罪され、東ではソ連は友好国だった。ドイツ人が自分たちの悲劇を被害者面して訴えられる空気ではなかったということだろうか。ギュンター・グラスは本書の見返しに「忘レヌタメニ」と掲げている。


乗組員の生き残りにハインツ・シェーンという人がいる。小説にしばしば登場する。1926年生まれ、18歳で会計係助手として乗り組んだ。その後の人生をあげて事件の究明にかけてきたと訳者は書く。この人のお陰で悲劇の真相がわかりはじめ、ほぼ事実と思われる姿がとどめられることになった。上記の出産に立ち会った船医リヒターの証言も収録されている著書があるそうだが、日本語訳がないためだろうか本書には紹介されていない。Wikipediaに記載のハインツ・シェーン(著)、 Die Gustloff Katastrophe, Motorbuch Verlag, Stuttgart, 2002 がそれと思われる。

船の名になった人物、ヴィルヘルム・グストロフ氏がいた。スイスはダヴォスでナチ指導員として活動していた。1850年北ドイツはシュヴェリーン生まれ。中学を卒業して保険会社の勤勉な社員だった。喉頭炎と肺を病んでいたため1917年、会社はダヴォスに送った。高地ダヴォスは世に名高い療養地、やがて首尾よく癒えて後も彼はシュヴェリーンに戻らず天文台の事務員として働く。副業に家財保険のセールスをしてスイスを隅々まで知ることができた。持って生まれた組織能力が芽を出しはじめた。ナチ党に入って1936年までにドイツ人、オーストリア人より5千人の党員を獲得した。組織担当のナチス幹部グレーゴール・シュトレッサーが指導者に任命した。

1936年2月4日、グストロフ氏は若者の訪問を受けた。氏が廊下で電話中だったので夫人が書斎に通した。若者は外套を着たまま椅子にすわり、帽子を膝にのせ書き物机を眺めていた。やがて主人が入ってきた。がっしりとして健康そうだった。数年来かつての結核の気配もない。私服だった。客に向かって進んだ。客は腰を上げず、外套のポケットからピストルを取り出すやいなや、座ったまま撃った。胸と首と頭。狙ったとおり4発を命中させた。相手は額入りの総統の肖像の前で声も上げずに崩れた。
若者は帽子をかぶり犯行現場を離れた。電話ボックスから電話をして、犯人だと名乗り出た。近くに駐在所を見つけ自首して出た。

若者の名はダヴィト・フランクフルター、1909年セルビアの町ダルヴァルに生まれた。父はユダヤ教のラビ(教父)、家ではヘブライ語とドイツ語を話し、学校でセルビア語を身につけた。毎日のようにユダヤ憎悪にさらされていた。生まれも虚弱、骨髄を病んで五度の手術でもよくならない。医学を志してドイツで勉強を始めたが、病身のためか成績が上がらない。生計は父親の財布、自身は洒落者気取りでヘビースモーカーだった。フランクフルトでユダヤ人作家の書物が焼かれ、実験室の机にユダヤの星が描かれる。アーリア人種を誇る学生から罵られる。スイスへ逃れ、ベルンで勉学を続けたが母が死んで勉学は中断する。親戚に手づるを求めたベルリンでも迫害された。こういったことはユダヤ人作家エミール・ルートヴィヒ『ダヴォスの殺人』に語られている。1935年の終わりごろ自殺を考えるようになった。のちの裁判に提出された弁護側の鑑定書がある。「被告はその本性にともなう精神的理由から情緒不安定な状態に陥り、ついには自らを解放せんとした。うつ状態が自殺願望を誘導。しかるに各人に内在する自己保存本能が働いて、銃弾をわが身より他の犠牲者へそらしたものと考えられる」。法定はスイス東部の町クールで開かれた。最終的な言い渡しは18年の刑と、そののち国外退去。戦後に彼は恩赦を申請し容れられてパレスチナに向かい、イスラエルの国防省に勤務した。慢性とされていた骨の病気は獄中にいる間に完全に治っていた。結婚し、やがて二人の子供ができたという。

ナチ指導員がユダヤ人に殺された。ナチスは大々的なキャンペーンを行った。ダヴォスではプロテスタントの教会で簡素な葬儀が催された。スイス各州から200名ほどの党員が参列した。第三帝国の全ての放送局が中継した。しかし、ダヴィト・フランクフルターの名は一言も言及されなかった。つねに「ユダヤ人暗殺者」だった。棺のための特別列車が用意され、第三帝国内の各駅に臨時に停車し、各管区指導者と党の名誉評議員らが礼を捧げた。シュヴェリーンでは雲の上からの司令で遺骸が運ばれてくると同時に華やかな行事が繰り広げられて人々の記憶に刻みつけられた。ヴィルヘルム・グストロフはメクレンブルクでは殆ど知られていなかった党員だったが、死とともに得難い人物に祭り上げられた。シュヴェリーン湖の南岸に御影石に楔形文字で名前が刻まれた記念碑が建てられた。

折しもハンブルグのブローム&ヴォス造船ではドイツ労働戦線とその下部組織「歓喜力行団(KdF)」より発注された豪華客船が建造中であった。新しい客船は進水にあたり総統の名をいただくはずであった。その総統はスイスで暗殺された党員の追悼式に夫をなくした夫人と並んで列席した際、一つの決断をした。計画中のKdF船を殉教者にちなんで命名する。ひきつづき火葬のあとには、全ドイツの広場や通りや学校に同じ名がつけられた。
KdF歓喜力行団については、すべての労働組合を単一の労働戦線に組織し直した実力者ローベルト・ライが進水式の演説でその理念と発案者総統が命じたことを伝えた。「ドイツの労働者が健やかにいられるように面倒をみてくれ給え。労働休暇に配慮してもらいたい。自分は好むところのことをなせるし、させることができる。しかし、ドイツの労働者が健やかでなければ、何の意味もない。ドイツの民衆、ドイツの労働者は、わが思想を理解するために、十分に強靭でなければならぬ」
1937年5月5日、進水台の上でヒトラーは寡婦と対面した。1923年のミュンヘン一揆が失敗したころ、寡婦ヘトヴィヒ・グストロフはヒトラーの秘書をしていた。ヒトラーが監獄に収容されているあいだに、彼女はスイスで職探しをして夫を見つけた。
寡婦グストロフが船に呼びかけて式典を締めくくった。「ここにおまえをヴィルヘルム・グストロフと命名します」

物語の作者はトリオを形成するもう一人の人物を呼び出す。アレキサンドル・マリネスコ。1913年、オデッサの生まれ。進水式のシャンパンの瓶が打ち割られているころ、マリネスコはレニングラードもしくは主要都市で司令官訓練を受けている最中だった。命令を受け、黒海からバルト海東部に配置換えになった。その夏バルチック艦隊の幕僚部にもスターリンによる粛清の嵐が吹きすさぶなか、潜水艦司令官に任じられた。M96号。やや古い船体、沿岸警備と攻撃用。250トン、長さ45メートル、乗務員18名の小型潜水艦。長らくフィンランド湾に投入され、2隻の水雷艇をそなえた船団の司令官だった。繰り返し沿岸海域で浮上攻撃と急速潜水の訓練に明け暮れていたはずだ。酒好きで陸にあるときは酔っ払っていた。43年ごろか、新しい潜水艦S13号の艦長になった。水雷を10発搭載していた。
1944年12月末までS13号はドックに入っていた。修復が終りすべての準備がととのって出港して戦闘につくはずのところ司令官がいなかった。酒と女のせいで任務に復帰するのが遅れた。1月3日シラフに戻って出頭したがスパイ嫌疑をかけられた。ソ連における粛清の大義名分である。救いの道は大手柄しかない。一等船長の努力で戦時法定開催は引きのばされ、乗組員の恩赦請願もきいたのか、なんとか海に送り出された。海に出ると勤勉だった艦長は2週間獲物と出会わなかった。手ぶらで帰還することを想像して背筋が寒かったはずだ。近隣の港口を監視していたS13号は30日早朝にポンメルン海岸にコースを変えた。やがて艦は遠くの標識灯に気付いた。マリネスコは直ちに見張りの塔に入った。追尾した。大物だ。4発の水雷が発射台に据えられた。ドイツ時間で21時4分、命令がくだされ3発が発射された。マリネスコにしてみれば名の知れぬ船だった。次々に命中した。
ドイツ側では救助に当たった駆逐艦「獅子号」が31日早朝コルベルク港に着いた。避難者で混雑している港では生存者がどこから来たか誰も知らなかった。かつて人気の的だった船の沈没は秘密にされた。士気に差し支える。噂だけが広まっていた。

アレクサンドル・マリネスコ艦長はグストロフ号のあと蒸気船シュトベイン提督号1万5千トンを沈めた。避難民千人と負傷兵2千人、上部デッキに並べられた寝台から重傷者が、船が傾いた途端、次々に海に落ちていった。生存者は約3百人。二隻目の手柄だ。
ソ連軍司令部には、潜水艦S13号と艦長の大手柄を赤旗艦隊の報告に公表しない理由があった。基地に帰ってきた艦長と乗組員は恒例の祝賀の宴を虚しく待ち続けた。上司は差し止めになっている裁判を危惧しながらも部下の叙勲を申請した。S13号には赤旗艦隊旗が授けられ、乗組員全員に祖国防衛勲章、星とハンマーと鎌をあしらった赤旗勲章が授与された。しかし、マリネスコ艦長は「ソ連邦英雄」の称号を拒まれた。バルチック艦隊の公式記録にはヴィルヘルム・グストロフ号もシュトベイン提督号も撃沈されたことが記載されていない。計1万2千にも及ぶ死者たちは数に入っていない。幻になってしまった。
マリネスコは誰はばからず自分の大手柄を公言して執拗に訴え続けた。しだいに海軍の厄介者になっていった。1945年9月、司令部はマリネスコを潜水艦勤務から解き、大佐に降格、翌月ソ連海軍から罷免した。勤務に誠実を欠き、極めて投げやりで云々。職を失った彼はやがて誰かにはめられたかのようにして告発され3年の重労働でシベリアに送られた。強制収容所での日常記録が残っているそうだ。スターリンの死後2年してようやく帰還した。1960年代に名誉回復、再び第三等艦長の位階に定められて、軍人恩給付きの年金生活者になった。

ここまで事件の名にかかわる三人の物語を述べてきた。数奇な運命はそのまま歴史になる。多くのことを省略したほんの概略でしかないのだが、作者はもっと詳しく細部を語りながら、それらを全体の中に細かく散りばめている。わたしはそれをここにまとめ直すまで随分時間がかかったが、結末に向けてはまるで映画作りのような気分でもあった。だが物語はこれからなのだ。小説の主人公は沈没した船から助け出されて、子供を産んだ女性ウルズラ・ポクリーフケ、愛称トゥラである。奇跡のように災厄の夜に生まれた赤ん坊パウルが語り手として母を語ろうとするのだけれども、うまく言葉が出ない。職業は大きくいえばジャーナリストだが実は文才の乏しい三文記者。母の周囲のどの男性が父親だかわからないまま、母子家庭のようにして東ドイツに育った。この母たる人物は一本気にして頑なといえばかっこよく聞こえるが、ちゃらんぽらんでもある。スターリン時世下にあって指物師の産業戦士で幅を利かす。結構長生きして東ドイツで年金暮らし、余裕のある生活をするようになる。パウルと離婚した妻との間にできた息子コニーことコンラートがおばあちゃんに可愛がられて運命の夜の出来事に詳しくなってゆく。

息子の時代は、もはやインターネットが世論形成に力を持つ。ソ連とドイツ、スターリンとヒトラー、共産主義とファシズム。ダヴォスの殺人事件はナチ党評議員のヴォルフガング・ディーヴェルゲによれば「卑劣きわまる殺害」であるが、ユダヤ人作家エミール・ルートヴィヒでは旧約聖書の「巨人ゴリアテに対する少年ダヴィデの闘い」と評された。このまるきり対蹠的な評価がデジタル化の進んだ現代にも続いている。パウルが母から聞かされて育ったヴィルヘルム・グストロフ事件がいつの間にやらインターネットでネオナチとユダヤ主義の間で大議論になっている。あるときそれが、わが子が一方の発信者ではないかと気がついてから、事は複雑になる。ことの推移が二重になって沈没事件とは別のとんでもない事件に発展する。ここに作者は、ネット社会で根無し草のようなあやふやな論争を重ねる現代への批判を込めている。こういう傾向はネットの技術が進んで、いまの日本にもそのまま当てはまる。

わたしはギュンター・グラスの有名な『ブリキの太鼓』の映画も小説も知らないし、その他の小説も何一つ読んだことはない。池内紀さんの旅行記『消えた国、追われた人々』に教えられて本作に近づいた。うえに書いたように細かなことがアチラコチラに分かれて書かれていて、一体どんなことになるのやらと思わせられた。読み進むにしたがってだんだんに面白みが増してくる、実に巧みな仕掛けであった。
1930~40年代のハナシのつもりで読み始めると、いきなりインターネットだ、コンピュータだ、ときたので一体何をいうのだろうと奇妙な気分ではあった。どんな小説でもそうだろうが2度めには新しい発見がある。本作のように入り組んだ仕組みの物語はなおさらである。いつまでも去りがたい思いのする作品だ。

奇妙な表題の「蟹の横歩き」は、出たりひっこんだりする蟹の動きに似せて、ハナシを分かりにくくする目眩ましの役目らしい。まともに書くとネオナチどもにたかられるのを避けたとかいうことらしいが、解説にあったように、そこに「で」がつくとどういう効果があったのか知りたいものだ。
池内さんは旅行記にも書いていたがパソコンには縁のない作家だと自己申告されている。それがネットでのやり取りで事が進む筋書きを訳すことになった。文中にチャートでどうこうというのがしばしば出ている。どうやらネットでのおしゃべりのチャットであるようだ。ドイツ語でもほぼ同じだと思うが、日本語に訳せばどうしてもチャットになるはずだろう。ここは池内さんよりも編集の方に責任があると考える。ちょっと残念なことであった。(2017/12)

2017年11月29日水曜日

雑感 池内 紀『消えた国 追われた人々』を読んで

副題に「東プロシアの旅」とある。プロシアは英語読みでドイツ語はプロイセン、1871年成立のドイツ帝国はプロイセン王国が母胎だった。北ドイツとポーランドにまたがるバルト海沿岸の地方が領土だったが、第一次大戦の敗戦でベルサイユ条約により国境線が変わった。ドイツ領土は縮小されプロシア地方は分割された。ポーランド領とダンツィヒの自由都市が間に入り込み、飛び地のように取り残された地方が東プロシアだ。
同書より
もともとローマ・カトリック教会公認のドイツ騎士団がやってきて征服した土地柄、700年来ドイツ人主体の土地であった。池内氏によれば東プロシアのドイツ系人口は200万人ぐらいらしいが、町ごとに人種が違う変わった国だと書いている。ポーランド人、リトアニア人、ロシア人、カシューブ人、ユダヤ人など期せずして異民族共存の国だったようだ。ユンカーと呼ばれる農業貴族が統治する体制。プロシア王の次男三男がやってきて宮廷を造り、臣民を統治し、官僚が書類を作った。そして長い歳月が過ぎた。そんな国が1945年1月に消えてしまった。首都のケーニッヒベルクはロシアの飛び地カリーニングラード州の州都カリーニングラードになっている。現代の地図にはない国。歴史地図とか、それ用のを探すしかない。
そんなところへ著者は旅行してきた、しかも3回も行っている。何をしに行ったのか。あとがきに打ち明けているが新しい翻訳をするにあたって原作者の生地などを見るなど取材が主であった。根っからの旅行好きだから未知の土地を訪れる楽しみのほうが大きかったかもしれない。翻訳を引き受けるためとはいえ、だから自費にした。仕事以外に関心が広がったのが3度にわたった理由だと書いている。著者は英語よりドイツ語のほうが得手であるというが、そのため「追われた人々」についての当時や事後の様子を聞き出す人材に出逢うこともできた。読む側の楽しみとしてはグルメとか景色とかではなく、著者とともに未知に出逢い、歴史の奥に消えた人々の暮らしや、時代の変わり目の出来事に想いを馳せる。筆者がこれまでの迂闊さによって驚かされたことは、ドイツという国は過去に大量の「難民」をつくりだしたことだった。
「国の選別」という言葉遣いが出ている。著者は「おぼつかない東プロシアという消えた『国』のなかに、すこぶる現代的な『国の選別』のヒナ型を見た」と書く。生まれた国と育った国、いまや、人が国を選び、あるいは捨てる。国そのものが人によって選びとられ、また捨てられる。第二次大戦末期に力ずくで国を捨てさせられたとき、千二百万人を超えるドイツ難民が生まれている。シレジア一帯から320万、ズデーテン地方から290万、北西ポーランド一円から300万、東プロシアから200万、その他を合わせるとこういう数字になるのだそうだ。土地、建物、財産すべてを残して出ていかなくてはならなかった。

船の話がある。ヴィルヘルム・グストロフ号、1937年進水の当時世界一の豪華客船。ナチスが労働者階級のため建造した8隻の一つ。安価な海外旅行を宣伝して党員獲得に貢献した。それが1万人にも及ぶ避難民を載せて出港間もなくソ連潜水艦の魚雷に沈められた。1945年1月の事件だった。死者9千人以上と伝えられるが実数は不明だ。グダニスク(当時はダンチッヒ)の港にほうほうの体で殺到した東プロシアのドイツ系住民だった。2千人ほどの被害だったタイタニック号の悲劇を遥かに上回る大惨劇であるにも関わらず事件は長らく秘匿された。大戦中にナチス・ドイツが犯した数々の犯罪のために戦後ドイツが加害者の役割を務めなければならない時期にみずからの被害者の立場を表沙汰にできなかったという事情があった。この事件を題材に取り上げてギュンター・グラスがものしたのが『蟹の横歩き』(2003)、池内さんが翻訳を依頼された作品だった。ギュンター・グラスはダンチッヒの生まれ。

「狼の巣」、ナチス総統部の対ソ連戦作戦本部だ。東プロシアのへそのあたり、と池内さんはいうが現ケントジンという土地。低地らしい。ヒトラーが蚊に悩まされたという話があった。大本営の周りに大きな湖がひろがり、南と北にも沼が点在している。そんな場所の沼や湿地を埋め立てて巨大な地下壕をつくったのだそうだ。目の前のソ連国境に気を取られて事前調査の連中が蚊の存在を忘れていたか。池内さんが見せてもらった写真には見張りの兵士が頭から肩にかけてすっぽりと網をかぶっているのだそうナ。「ヒトラーはしばしば、顔や首すじを襲ってくる蚊をたたきつぶしながら、調査隊の隊長だった人物の名をあげて罵ったという」とある。沼地にはカエルがいる。初夏を待って、何万、何十万と生まれてくる。夜ごとにカエルの大合唱。総統の安眠を図ってか、沼地に石油を注ぎ込んで一挙に退治したことがあった。
『なんというタワケどもだ!』ヒトラーはまっ赤になって怒った。愚かなこと。蛙は毎日、何十匹もの蚊を食べる。何万もの蛙が、どれほど蚊の猛威を防いでいたか気づかなかったのか。ヒトラーはもともと、オーストリアの片田舎に生まれ、そこで育った。蛙が蚊を食べるといった生活上の知識は、貧しい少年時代に仕入れたものにちがいない。
琥珀、コハクと読む。’70年代の終り、筆者が初めてハンブルグのデパートをのぞいてみたとき、大してめぼしい品も並んでいない中でひと際目立っていたのが、茶色っぽいガラスのようなものの中に虫などが閉じ込められている石みたいなものがあった。宝石かな、何かな、と考えながらウインドウの中を眺めていた。あとで聞くとそれが琥珀だということを知った。松脂の化石だそうだが、あんまりいい趣味のものではないなぁというのが正直な感想だった。しかしそれがバルト海の特産品で古来非常に珍重されている。ハンブルグで売られているのも意味があったわけだ。宮廷を飾って琥珀の間があったりしながらいつの世にか相当量が行方不明になった宝探しミステリーが紹介されている。

東プロシアの首都ケーニッヒベルクはカントが生まれた町だ。ここに生まれ、ここで育ち、ここで教え、ここで死んだ。この街をほとんど離れず、東プロシアから生涯一歩も出ることなかった。1724年の生まれ、皮革職人の息子だが勉強好きを見込む人がいて、ギムナジウムから大学に進んで数学と哲学を学んだ。図書館司書をしていたところ大学に招かれた。46歳で教授、57歳のときに発表したのが主著の『純粋理性批判』だった。バルト海沿いの辺鄙な町から知識人の目をむくような新しい哲学がヨーロッパの知的世界に送り出された、と池内さんは誇らしげであるように感じる。なんとなく、すみません、と言いたい。あまり縁がないもので。

コペルニクスも東プロシアの人、1473年ドイツ騎士団の町トルン生まれ。歴史に名を残した天文学は趣味だったそうで、行政官だったから各地を転々とした。本業はカトリックの司祭だった。異民族が一緒に住む緩やかな共存体を支えたのは宗教の力が大きかったようだと池内さんは観測する。
ところで、はて「コペルニクス的転回」って何だったろう。思い出せなくてネットで調べたが、地球中心の宇宙像が一般的だった時代に太陽中心だとの見方を主張したのだった。池内さんは、ローマ教会がたまげるような新説だから我が身の死を見極めてから印刷に出したと書く。世俗以上に世俗的な聖職者の世界と正面切って衝突する愚を避けたのだそうで、鮮やかな身の処し方と賞賛する。
また、ネットのWikipediaには、「コペルニクス的転回」はカントが自らのの哲学を評した言葉だったともでている。カントのほうがあとの時代だから、コペルニクスの説をたとえとして説明したわけだろう、なんて言っても中身がわかっているわけではないけども。
余談になるが、地球中心の宇宙像というのは天動説という方が通りがいいかもしれない。ああ、それなら聞いたことがあるという人も多いはずだ。昔話になるけれど、あれは戦後ほどない昭和の頃。『週刊朝日』の「問答有用」で徳川夢声と対談した薬師寺管主橋本凝胤師が天動説を唱えて、その面白さに世間は喝采した。思えば、あれはコペルニクス的逆転回だったわけだ。懐かしくこんなことを思い出して池内さんに申し訳ないが、池内さんもこんな話がお好きなはずだ。

コペルニクスにちなむ天文台のあるアレンシュタインという町を訪れた著者はエールンスト・ヴィーヒェルトという作家の足跡をたしかめたかったのだそうだ。小さな町や村を舞台にした素敵な小説を発表しているというのだが、どうも我が国には翻訳がないようだ。「街の起源は、一頭の豚が逃げ出したのにはじまる」という出だしのある小説、などと書かれると読んでみたいとの願望が湧く。音もなく、ひそかな変動のきざしがこの小さな町にもあった、とその小説の舞台の雰囲気が紹介されているが、東側の話にはよくある空気だ。
権力ゃ政治から遠い高校教師兼作家だったはずだのに、1933年5月、ベルリンのオペラ広場でナチスによる「焚書」があったとき、好ましからざる作家」として、ヴィーヒェルトもまた、トーマス・マンやブレヒトやフロイト、ケストナーなどとともにブラックリストに入れられた。1938年には警察の訊問を受け、ブーヘンヴァルト強制収容所に入れられた。友人たちの奔走で釈放後にスイスへ亡命、1950年、チューリヒで死んだ。
続いて短編の紹介と街の様子が詩情豊かに伝えられる。池内さんはエッセイストとしての評価も高い。滋味あふれるという表現が似つかわしい人に思える。こうして日本人の余り知らない土地の知らない様子がいろいろな町について語られている。
普通の日本人は沖縄と満州のほかでは地上戦の恐ろしさを知らない。鉛筆一本で国境が変えられる政治の非情さも知らない。池内さんは巧みな表現で郷愁を帯びる東プロシアという歴史の街の訪問記を提供してくれるが、想像をたくましくすれば、その時人々はどんな状況だったかが読み取れるように書いてくれている。だから繰り返して目を通すごとに新しい光景がみえてくるようだ。手にとる人は多くないかもしれないが貴重な書物だ。
池内 紀『消えた国 追われた人々 東プロシアの旅』2013年 みすず書房刊 
追記:エールンスト・ヴィーヒェルトの作品はいくつか翻訳されている。根気よくネットで探せば見つかる。(2017/11)

2017年11月22日水曜日

ブルーレイレコーダーと格闘した話

しばらくぶりにBDレコーダーに録ってあった放送録画をDVDディスクにダビングしようとしたが、「ディスクを読み取れません」というメッセージとともにディスクが吐き出されてきた。BDとはブルーレイディスクのことであるけれど、機器の名前だけでずっとDVDで利用していた。耳が聞こえなくなって映画にもあまり興が乗らないままに長らくレコーダーを放置していた報いがきたようだ。
この現象はディスクや読み取り装置に汚れなどがある場合や装置の故障によって生じるという。汚れの対応にはレンズクリーナーというディスク状の道具があることを知った。アマゾンで600円ほどなので注文したら翌日到着した。レンズクリーナーをトレイに置いて挿入する。しばらくして、やはり「ディスクが読み取れません」と来た。繰り返してもだめ。クリーナーの説明には10回ほど繰り返してだめなら読み取れない理由が他にあるのだから修理しなくてはならないとある。
知り合いのパソコン修理の技術者の方に問い合わせた。BDドライブの不調は交換することになるが、部品代だけでも1.5万円はかかる。修理に出すよりも、新しくBDレコーダーを買って録画を移行してダビングするほうが合理的でないかとの助言をもらった。

そういうことならと、テレビがシャープ製なのでシャープ製のBDレコーダーを買った。機種を選ぶときにわかったことは、前に買ってから7年もたっていることだった。これでは光学ディスクの読み書きなど、もろい構造の機器は不調になるのもやむなしと思う。その一方で画像の精細さを追う技術の進化には一驚した。またユーザーの方も進んでいる(?)とみえて、ドラ丸という聞きなれない用語がレコーダーの使い方にあった。連続ドラマを自動的に予約して録画できる機能のようだ。チューナーも一つだけでなくダブルで使えるというのもあった。当方はつつましい使い方しかしないので、それなりの機種にした。ダブルチューナーで、ストレージは500GB。
さて、新しく得た知識と苦心の作業過程を記録しておこう。本人以外にはまことにつまらない記事になること請け合いだが書くことにする。
【作業1】新しいレコーダーをテレビに繋ぎ、初期設定をする。後知恵であるが今度の故障とは関係なく、レコーダーを新規に買い求めたのと同じように接続その他を先に終えてしまうのがよい。いちばん苦手なアンテナ接続は新旧レコーダーの端子を見比べて繋げばいいから楽だった。
新しいレコーダーの「B-CASカード」挿入が必要。これがないとデジタル放送が受信できない。作業終了後、カードの説明書に添付の「BSデジタル受信機器設置連絡票」はがきを郵送する。
買い換えお引っ越しダビング

【作業2】古いレコーダーのHDDから録画を新しい機器のHDDに引越しするための接続。「買い換えお引越しダビング」という名がついている。2台をルーターに接続する方法と、LANケーブルで直結する方法がある。ルーターは別の部屋にあるため後者を選んだ。2台の機器をそれぞれ「ホームネットワーク設定」にするのがポイントだが、ここに落とし穴があった。何度やってもうまくいかない。取扱説明書は一字一句薄い表示も含めて確実に読むことが鉄則である、とはこれも後知恵の教訓。
[ダビング元の機器設定]リモコンの「ホーム」を押し、ホームメニュー表示⇒設定⇒ホームネットワーク設定で「決定」という手順が説明されている。あとでよく見ると、小ぶりの文字で、下記の設定は例示であって、お使いの機器と異なる場合があるから、お使いの機器の取説を見よ、と書いてある。つまり古い機器の説明に従って設定せよということであるが、こっちは何しろ故障で起きた手違いの挽回に頭がいってしまっているからそんな物は見もしないし、だいいちこの但し書きに気が付かなかった。結果は「サーバーが見つかりません」と表示される。
弱い頭で考えたあげく、新旧それぞれに「ホームネットワーク設定」をするが、テレビに繋いでいるHDMIケーブルをいちいち繋ぎ変えて、古い機器は古いホームメニューで、新しいのは新しいホームメニューで行う。リモコンも使い分けるということもした。これはこれで正解であったが、[ダビング先の設定]でもわからないことがあった。
ネットワーク設定の段階で説明書には、有線を選んで設定する、という画面があるがそういう画面は表示されない。書いてないものはシャーナイな、とばかりその手順を飛ばして設定を終えた。なんとこれで全部できてしまった。
無事にダビング元の録画リストが表示されて、ディスクにダビングする手順に移れるようになった。
実は、さんざん考えあぐねているときに疑問点を書き出してシャープにメールしたのが、一日おいて回答が来た。この箇所については、当方の機種は「無線に非対応なので有線LANでネットワークに接続いたします。有線/無線選択画面は表示されません」ということであった。そんなことはどこに書いてあったのかと、よくよく取説を見れば「本機のネットワーク設定」のページに機種名とともに有線接続と書いてあった。結局接続がうまく出来ない原因は当方が説明を見落としていたからだ。シャープには丁寧にお礼を申し上げておいた。
【作業3】引っ越しダビングの操作。ダビング元の名前が表示されたら、クリックしてフォルダー、タイトルの順に表示させて引っ越すタイトルを選ぶ。個別に選んでも一括して選んでもよい。一度に100タイトルまで選択できる。今回は80ほど。ダビング先とHDDにダビングすることを「確認」して開始。全部終わるまで数時間以上必要だったので、こちらが就寝中にレコーダーに働いてもらった。これでようやく所期の目的の、ディスクへのダビングができるようになった。
【作業4】試運転。新レコーダーの内蔵HDDからディスクにダビングする。はじめはブルーレイディスクを試す。110分の録画は高速であっという間に終わった。次はDVD-RWに試みる。DVDは初期化が必要、VRフォーマット。1倍速で無事終了。さてPCで見るためにはファイナライズが要るが、自動でやってくれるのかどうか、念のために実行した。自分の悪い癖は新しい機器の取説を見ないでいきなり動かそうとすることだ。ファイナライズもどこでどうするのか、当てずっぽうでそれらしい設定を選んだら正解だった。ファイナライズはダビングとは別途の独立した作業だった。無事終了。新しいレコーダーで放送のHDDへの録画はまだ試していないが、まず大丈夫だろうから、試運転はこれで終了とする。
【作業5】つぎはダビングができたディスクをパソコンで見ること。これぞこの度の騒動の根源となった目的なのだ。現在常用しているPCはhpの15インチノート型、昨秋来使っているが、Windows10の大きなアップデートが既に2度もあった。使用者が年老いて画面の読み書きに文字が読みにくくなってきたので、22インチのモニターを繋いでいる。映画にはこれが効果を発揮する。
DVDは無事に再生できた。しかし我が工房ではブルーレイディスクの録画をパソコンで楽しむことは出来ない。
パソコンにはDVD/CD-ROM ドライブと再生ソフトのCyberlink Media Suitが入っていてブルーレイには対応していない。ブルーレイディスクが出はじめた頃、価格が高かったので使わないことにして以来ブルーレイには関心がなかった。しかし今回の経験でブルーレイディスクがずいぶん安くなっていることを知って気が変わった。この際、外付けドライブを買うことにした。バッファローのにしたが、これにもCyberlinkが入っている。今度はフルバージョンで、次世代ディスクのウルトラ何とかにも対応している。インストールすると前のBDなしのバージョンと置き換えられた。おまけのようにいろいろな機能がついているがよくわからない。ともかくこれでブルーレイディスクの再生ができるようになった。めでたしめでたし。
BDレコーダーの不調で買い換えたうえに、さらに外付けドライブも買うことになり、先行き短いご老体が思わぬ投資をした。まだ当分はこの世にいることにして、せいぜい映画も楽しもうと欲を出している。
(2017/11)
*【追記】外付けドライブ バッファローBRUHD-PU3にはCyberlink PowerDVD14が付属していたが、最近録画したNHKBSをダビングしたBDは再生できなかった。PowerDVD18にアップグレードしなくてはならないようだ。たぶんNHKの仕様が変わったためだろうと想像している。バカバカしいのでBDはBDレコーダーで見ることにする。PCで見ながら静止画ショットが撮れないのが残念だ。(2018/9)

2017年11月7日火曜日

雑感 映画『クレアモント・ホテル』

久しぶりに映画を見た。レコーダーにのこっているタイトルの中から選んだ一つ、『クレアモント・ホテル』(2005年)。米英合作扱いではあるが、原作も俳優もイギリス映画、監督がアメリカ人。

長年連れ添った最愛の夫に先立たれたパルフリー夫人は雑誌で見つけたロンドンの居住用ホテルにやってくる。恋人であり、妻であり、母であった生活から解放された残りの人生を楽しもうと期待に胸膨らませてやってきたのだ。だが、着いてみるとどうも様子が違う。ええい、ままよ、万事受け入れての日常がはじまる。

相客つまりご近所さんは家族に見放されて住み込んでいる風変わりなご老人ばかり、単調な日々に何かが起こるのを待っている。公文書館に勤めているという孫に電話してみるがいつも留守番電話。ある日歩道でころんだ彼女を部屋で見ていた若者に助けられ、お礼に夕食に招待する。作家志望の若者はホテルの住人にとっては願ってもない見世物になる。夫人は窮余の一策で彼を偽物の孫に仕立てたことから奇妙な友情物語がはじまる。

若者は友人の留守中の部屋を借りて毎日タイプライターを叩く貧乏暮らし、夫人の人生を聞きながら作品に仕立てることを思いつく。物語は進んで、どんな映画が好きだったか、で、『逢びき』(1945)が話題になるが若者は当然見たことがない。レンタルビデオ屋で見つけたが、棚に先に手を伸ばしたのは若い女性。譲り合いから話が決まりプレイヤーのない彼は彼女の部屋で見ることになった。こちらのカップルについて話はお決まりの筋を追ってコマ写で進む。近頃若者が訪ねて来なくなった夫人に突然面会人があらわれて、住人一同目をみはる。公文書館があらわれたのだ………。

落ち着いた調子で進行する物語は人をそらさないうまい作りだ。脚本の良さがでているのだろうと思った。原作はエリザベス・テイラ―。ハリウッド女優ではない、1912年生まれで75年に亡くなっている過去の人だが、イギリスでの文名は高く日本人にはおなじみのジェーン・オースティンにも比べられるほど、かの国ではよく知られているそうだ。なるほど古い人の作品はわれら古い人間の心に直接伝わる。
「ホテル・クレアモントのパルフリー夫人」というのが原著の題だ。1971年の作品。映画の封切りは2005年だが、日本では2010年12月4日、岩波ホールが初日となっている。劇場プログラムを探しても見当たらない。おそらくその頃見に行ったのだろう。
車の幅に対する感覚が鈍くなって運転に危険を覚えて車を手放した。あとで気がついたが、これも難聴のせいだ。愛車とのお別れの写真の日付が2011年になっている。まだ耳がいまほど悪くないころだから、音楽もふつうに聞こえていた。映画の中でローズマリー・クルーニーが歌う "For all we know" が聞こえるはずだし、若者ルードことルードウィッヒもギターを手にして口ずさむ。向かい合っている夫人の目が潤む。でも実際にはこの曲は、夫人の良き時代ではなく、原作執筆の頃の流行だ。
1970年公開のアメリカ映画『Lovers and Other Stranger(邦題:「ふたりの誓い」)』の挿入歌で、歌手 ペトラ・クラークがアカデミー歌曲賞を受けている。71年にカバーしたカーペンターズがミリオンセラーズの大ヒットとなった。いずれにしろ今の筆者には音楽はただの音の響きでしかない。字幕だけが頼りの映画鑑賞(?)だから若者の口ずさむ歌詞などわかるはずはない。それでもこの映画はいい映画だ。

ホテルの住人の中で夫人は際立って上品なしっかり者風につくってある。80歳も過ぎたらどの人も似た感じになるかと思っていたが、そうでもない。パルフリー夫人の気持ちの持ちようが違うという設定だろうか。一人で前向きに生きて行こうとの気骨だろう。
原著に翻訳はないが、アマゾンのキンドルで原作のはじめの部分がお試しで読める仕組みになっている。そこで発見した。パルフリー氏は植民地行政官だったという設定、それもビルマだ。作者の友人の批評家が役つくりにヒントを出した思い出を序文で語っている。現地の土着の人々の前では、新婚の若奥様でも「わたしは英国女性よ」という気概をみせるイメージが必要だと。なるほど、そう考えれば、ひときわ印象的な女性につくられているわけがわかる。
それはそれとして、パルフリー夫人を演じた俳優はジョーン・プロウライト、なんとローレンス・オリヴィエの3人目の夫人、いまや未亡人だそうだ。これは情報通の人のブログで知った。
劇中で熱弁を振るってプロポーズする老オズボーン氏はロバート・ラング、これはオリヴィエの仲間だとか。1934年生まれ。2004年11月、本作完成の2週間前に亡くなったと聞けば、なんだか劇が進行中みたいな気分になる。皆さんなかなか芸達者の俳優さんばかりで楽しめる。
印象的だったのはベルボーイのサマーズを演じたティモシー・ベイトソン。首なしさんのような背が曲がった体形、いつも口の中でモゴモゴ言っている鈍重な感じ。パルフリー夫人が入口の階段でころんだときは、取り囲んだ人たちを尻目にマネジャーに向って「救急車をはやくッ!」、びっくりするような大声ではっきりと叫んだのには笑わされた。達者な性格俳優、内に滑稽味を帯びた役を得意とするとか。1926年生まれだから80歳を目前にしたお芝居だ。2009年に亡くなっている。

ところで、このパルフリー夫人、朝食にはご持参のお手製ママレードを召し上がる。ほかのママレードではだめ。そこで思い出すのは大英帝国にはママレードにするオレンジも、それどころか砂糖すら生産できないということ。それが裕福な階級に属する人たちの朝食に必須の食品になったのはバレンシアからのオレンジとカリブ海植民地のおかげだ。サトウキビのプランテーションには奴隷労働が必要だった。いまどきホテルが個人用に食品を預かってくれるサービスがあるかどうか知らないが、古き良き時代のイギリスの伝統がのぞく一場面、テーブルの大瓶に入ったママレードが印象に残る。

良き時代と言えばパルフリー夫人の思い出の地に若者のカップルと三人で出かける。今や日本でも知られているらしいが、ビューリューの城と公園が出てくる。故地の物語は知らないがきれいなところだ。この映画の楽しみの一つだ。

インターネットでいろいろ個人的な感想を探ってみたが、なるほどと思えたのはアメリカ人の元校長先生の受け止め方。オスカーには無縁の映画だが、撃ち合い、殺人、車の追っかけっこ、ビルの屋上から屋上へジャンプする人間などなど、そんなアクション・シーンは一つもない、いや待て、パルフリー夫人が転ぶ場面がひとつある、ルードに出逢うきっかけだ…。とあって、ひたすらビューティフル、なんど見ても素敵だと書く。この人は聖書の講座も持っているような人だ。70歳を越した老人。
こういう静かな空気が流れる作品はアメリカでは得難いかもしれない。とくに老齢の人には気持ちが落ち着く、ゆったりした気分になる。古いモラルに合うとでも言えばいいか。『逢びき』の話が登場するのだから、まだ人々が自分の行いに恥ずかしいという感情が強くあったころの気分に合うとでも言えようか。若い人は別の感想を持つのは当たり前だけれども、ガサガサする世に棲む老人にはうれしい清涼剤だ。ときどき繰り返し見るのがおすすめ。108分。
言い忘れたけど、パルフリー夫人の偽のお孫さんはイカスネェ。ルパート・フレンド。
筆者のDVDは機器不調で作成できていない。YouTubeの予告編を借りることにする。
「クレアモント・ホテル」岩波ホール 予告編
(2017/11)




2017年10月14日土曜日

ナチスのユダヤ人政策とキリスト教

キリスト教は随分身勝手で攻撃的な宗教だと思う。
信者でなければ人間ではない、獣と同じというのが基本にある。スペイン人は南米まで出かけて先住民を入信させようとした。入信しないものは人間ではないから殺してもよいとして、殺戮し、彼らの土地を奪い、土着の高い文化を絶滅させた。この時代、ヨーロッパ人の宗教帝国主義が米大陸全般に及んだ。
ダンテの『神曲』では、ソクラテス・プラトン・アリストテレス以下のキリスト教以前の哲人たちが地獄に入れられている。サビエルはあたらしくキリシタンになった日本人たちに「お前たちの両親や先祖はキリスト教のゴッドを知らなかったから、永遠に地獄で焼かれる」といった。そしてその理由を説明して、「それも当然である。ゴッドの道は天然自然の法であって、人間は正しく考えればかならずそこに達すべきものである。それをしなかった思考怠慢のために、罰をうけるのである」と説き、日本人が泣くのを見て、サビエルも心をいためた。
ピサロやコルテスならともかく、ダンテやサビエルがどうしてこのような無理無法なことを考えたのかと、われわれは怪しむ。
われわれというのは、著者竹山道雄(1903-1984)がいうのだ。わたしはいま同氏の「聖書とガス室」という論考を読んでいる。1963年の文章である。書かれている事実についてわたしの知らないことがほとんどである。だからここに書くことは受け売りである。
竹山は続ける。しかしこれも、ダンテやサビエルの側からいえば、十分の理由があることである。ロマ書の1の18以下につぎのようにある。「それ神の怒は、不義をもて真理(まこと)を阻む人のもろもろの不虔と不義に対(むか)ひて、天より顕る。…(以下略)」
読んだだけではわからないし、竹山も説明していない。調べて大雑把につかめた意味は、すべての人は神の前では罪人である。ロマ書またの名、ローマ人への手紙でパウロが福音を説明している文章の第1章18。その文は最初に神の怒りがあることを宣言する。神を敬わない不敬虔と不正を行うことに対しての怒りであって、信仰することにより怒りから救われると説明する。(竹山はゴッドを神と訳すのは誤解をうむのでゴッドのままで使うが、引用文にある神は神とするとことわっている)
かくて、キリスト以前に生きていた者も、かつてその教えを聞いたことがなかった者も、ゴッドの怒りにふれて地獄で焼かれる。
われわれは神意にしたがって異教徒を改宗させる。キリスト教に改宗させることがすなわち救済することである。救済するためには力をもってしても改宗させるべきだ。――こういう信念が他人にとって迷惑であるということは知らなかった。
歴史を読むと、まことにそのとおりだったように思う。帝国主義時代の布教インペリアリズム(これは竹山語)だった。両次大戦後やんだという。
次ぎにユダヤ人のことについて聖書はただならぬ存在だったことが述べられている。
 なんじらユダヤ人たちよ! なんじらは悪魔の子であり、悪魔の欲望を遂行しようとしている。 なんじらの父ははじめから人殺しである。いかなる真実をももっていない。つねに自発的に嘘をいう。彼は虚偽者であり、虚偽者の父である!
これはヒットラーの『わが闘争』からの引用ではない、と竹山はことわっているが、新約聖書ヨハネ伝8に記された、イエスの説教だそうだ。竹山は文章をセリフに変えているが、あとに元の文ものこしている。ヨハネ伝は紀元1世紀末ごろ、ユダヤ人とキリスト教徒とがはげしく対立していた時代に書かれた。ユダヤ人はキリスト教の敵として蛇蝎のごとくに考えられた。ヨハネ伝はその相手を永遠に棄てられた不信仰者とするために、キリスト教会成立後の思想をイエスの口を通じていわしめたものだそうであると解説してある。
このようなユダヤ人に対する悪口が聖書にはいたるところにたくさん書かれていて、なかでもイエスを殺した罪が強調されている。
マタイ伝27章、裁判の場面。ピラトは群衆に問う。「この人の血につきて我は罪なし、汝等みづから当れ」民みな答へて言ふ「その血は、我らと我らの子孫とに帰すべし」
つまりユダヤ人の群衆はその人の血は自分たちの子や孫の代までも引き受けると答えたので、ゴッドの子の血はユダヤ人の子々孫々にまで帰することになった。
まことに聖書の物語はむずかしいが、わかったつもりになっておく。要はユダヤ人は永遠に救われなくなったということだ。竹山は「中世はもとより、近世にいたるまで、ユダヤ人があれほどにも憎まれ、迫害され差別されたのはこのためかと、聖書を読んで案外に簡単に分った気がした、と書く。著者竹山氏にしてからこういうことだから、わたしにわからなくてもまあ許されようか。

聖書に記された一語一句すべてゴッドや聖者の言葉であり、批判をゆるさぬ権威として、千幾百年も教育してきたのだから、それが人々の心の底に集合的無意識的な沈殿をのこしたのはあたりまえだ。根の深い土俗的感情として定着した。ユダヤ人は、悪魔の子であって、つねに陰謀を企て害を加えようとねらっている。罪の塊、人間の皮を着た獣であって、人間ではなかった。キリスト教国で反ユダヤ感情のないところはないし、歴史上に凄惨な迫害の記憶のないところはない。この潜在した感情が危機にあたって爆発的に表に出ることとなった。
竹山はヨーロッパ人のユダヤ人観と聖書の關係をこのようにとらえる。
最後の「爆発的に表に出ることになった」というのはナチスの絶滅作戦発動を指すのかもしれないが、1938年11月の反ユダヤ暴動「水晶の夜」事件ではないかとわたしは推察する。後者について竹山はふれていないが、ナチ政権とポーランドによる理不尽なユダヤ抑圧であった。ドイツもポーランドもユダヤ人が存在することを嫌っていた。パスポートを無効にするポーランドの法改正をきっかけにドイツ在留のポーランド系ユダヤ人がポーランドに向けて流れ出し、ナチ政権も便乗してポーランド系1万7千人を一挙に送り返そうとした。この措置に対してポーランドもまた正当な理由なく入国拒否したためにユダヤ人たちが中間の無人地帯で宿無しになった。困窮した家族の一人がパリ在住の息子に事情を伝えたところ、怒りに燃えた息子はドイツ大使館に行って応接の書記官を射殺した。この事件でドイツのナチ政権が動き出し、非公式に突撃隊を使って各地のユダヤ人街を破壊した。街路に散らばったキラキラするガラスの破片から水晶の夜の名がついた。

ヒットラーの演説や遺言、またヒムラーその他無数の反ユダヤ主義は、かれらにとっては自明のことだった.聞いていた聴衆も、子供の頃から教えられたこと、また中世近世の祖先の感情の復帰から、これが当たり前と疑わず、熱狂して喝采したのであったろう。
ナチスにとって、ユダヤ人は戦争の敵ではなかった。このことはユダヤ人絶滅事件について判断する際に明記さるべきである。ドイツ周辺の国々に住んでいるユダヤ人はドイツに対して何の害をもしたことはなかった。数代前から静穏な市民生活をしていた人々を、ただユダヤ人という類概念に属するからといって駆りだして、裸にしてガス室に詰め込んだ。それは全く戦争と關係のないことであり、戦力増強には役立たず、マイナスでさえあった。宗教に起因する土俗的感情からだったというほかない、と思う。竹山はこう書くが、わたしも同感だ。
歴史的にふかく感情に無意識的に染み込んだ感覚が蘇った結果だと思う。まさにDNAが覚えていたような感じである。

ナチスははじめからガスによる絶滅収容所を計画したのではなかった。まだ平和な1939年にナチ政府はゲルマン民族の若さと健康を維持するため不治の病人や精神病者を安楽死させる政策をとった。41年までに5万人ほどがガスか注射で処置されたという。いくつかある国内の施設で続けられた政策はやがて非難がはげしくなって中止された。おりしも対ソ戦が開始されるとガス施設はポーランドの占領地に移された。安楽死対象者の「病的・劣等」という属性はユダヤ人にも当てはまることから組織的な大量殺人に変貌した。
健全で優秀な北方ゲルマン民族の社会でおこなわれた消毒事業だから、本質的には戦争と關係のないことである。
ユダヤ人には人間としての存在価値を認めないということは、聖書からはじまっていた。ヒットラーはキリスト教の愛の教えには背いたが、その呪詛には忠実だった。

わたしはヒットラーの『わが闘争』を読んだことはないが、そこにあらわれた人種説は通俗的なもので竹山氏は噴飯物と書いている。けれどもヒットラーの強い信念と巧妙な人心操縦術が彼に政権をもたらし、戦争を起こし、結果は第三帝国が灰燼に帰した。その経過の中でユダヤ人種の生物的絶滅事業が遂行されて600万人ものユダヤ人が殺された。途中経過を探れば戦果の拡大によって占領地が増えて、対象となるユダヤ人の数も増える。対仏蘭西に勝利した一時期、計画されたマダガスカル島に送り込む案も対ソ戦で、めどが立たなくなって破綻するなど齟齬が多くなった。直接戦闘とは無関係の人種政策のために政権は随分と忙しかっただろうと思えば滑稽でさえある。

竹山氏は焚殺という表現をとるが、どうしてこのようなことが行われてしまったのだろうとの疑問解明に取り組んだ。その考察が「妄想とその犠牲」「聖書とガス室」にまとめられている。わたしは氏が土俗的とよぶ一般大衆の社会心理や生命のDNAが維持する記憶の神秘性などに関心が強い。ドイツにはハーメルン伝説やグリム童話など、キリスト教に覆われてしまったゲルマンの古い信仰や伝説が多いことに惹かれる。ナチの犯罪としてのユダヤ人絶滅収容所の実態は時とともに明らかにされ、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は広く読まれているようだ。竹山氏はパリでこの映画を見たそうで、内容を「妄想とその犠牲」の中に綴っている。現場としてはダハウの収容所を訪れた記録も残された。わたしは「夜と霧」の本も映画も見ていないが、あらかたそこで何が行われたか知ったつもりになって、もう見る気もしない。しかし、今回竹山氏の筆になる諸記録を読んでみて、そのあっけらかんとした残虐さもさることながら今や世界中に広まったキリスト教、そして法王の功罪についてなども勉強させてもらった。自分が住んでいる実社会が何やら架空か仮想の世界に思えてきた。何がホントなのか、すべてを疑って過ごさなければならない気になっている。
今回読んでいるのは『竹山道雄セレクション Ⅱ 西洋一神教の世界』平川祐弘編 藤原書店 2017年刊である。(2017/10)

2017年9月17日日曜日

圓生の「高瀬舟」を聴く 

六代目圓生「高瀬舟」、森鷗外原作
youtubeで六代目三遊亭圓生が語る「高瀬舟」を聞いた。なかなかの聴きものであった。
圓生は随分前に亡くなっている。圓生百席とかいう全集がCDであることは知っているが、このようなビデオになっているのを知ったのは偶然でこんどが初めてだ。27分余りの作品で形ばかりの出囃子と水の音や船が岸に当る音かドスンという音などが入っている。ギーィという艫の音が何度か聞こえて、夜のしじまの中を行く舟の情景がよく出ているのだが、これには疑問がある。
京都の高瀬川は水深が浅く、数十センチほどといわれる。森鷗外が自作の「高瀬舟」に続いて遺した「高瀬舟縁起」には「そこを通う舟は曳舟である」と明記してある。ビデオではあるが背景映像は一つっきりの静止画であるから物語の中の動きは音で演出するより仕方がない。
https://www.youtube.com/watch?v=3xXnw4ZmZ7k

復元された高瀬舟
http://www.ebookcafe-kyoto.com/news/003.html
苦肉の擬音というところかと思う。さらに、舟の形が違うように思える。川船だから舳先は波を切る必要のない形のはず、それにこの船頭は竿を使っているかに見える。真ん中の柱があるのも変だ。提灯を掛けてあるようにも見える。ま、贅沢は言うまい、肝心なのは語りの方だから。
youtubeを聴きながら眼はKindleで岩波文庫版の「高瀬舟」の文字を追った。圓生の語る内容は鷗外が「高瀬川縁起」に記したより少しばかり多く聞き手にサービスしている。高瀬川という運河について、鷗外はただ角倉了以が掘ったものだそうだとするだけだが、圓生は、慶長年間に秀吉が東山に大仏殿を造営したときに、材料を運ぶため角倉了以に命じて作らせた掘割であると語る。秀吉を持ち出したのは角倉よりも聴衆の気を引きやすいと考えた工夫だろうか。現在では宇治川に流れ込むまでの経路を見ることはできないが、要領よく説明してくれる。高瀬舟は罪人を送る舟に使われたと説明するくだりでも遠島になる罪人は凶悪犯だけでなく気の毒な身の上の可哀想な人間も多かったと本筋の話に前触れをつける。
また、護送する役目が奉行所の同心仲間で嫌われていた、という実情を同心夫婦の所帯じみた話のやり取りで表現する。これは朗読ではなく噺家の語りならではできない藝だ。こうして原作の構成をすこし入れ替えたあとに送りの場面に移っていく。
言葉に気を使うのは圓朝を思わせるが、心中を相対死(あいたいじに)と言ったとか江戸時代の用語もきちんと伝える。政柄を執ると鷗外が書き言葉で書けば、老中であったとしたりする。
圓生は落語もうまいが人情噺が聴かせる。噺家というのがふさわしい。いつの頃鷗外の「高瀬舟」を語ることに決めたのだろうか。「高瀬舟」もいい語り手を得たものだ。圓生の声調も、よどみなく運ぶ語り口も申し分なく、実にしんみりする絶品であった。
「高瀬舟」の昨今の扱いは安楽死か殺人かという問題を考える材料に採り上げられるようだ。医者としての鷗外も江戸期の随筆「翁草」に題材を取った興味もそこにあったかと思うが、圓生は問題をただ庄兵衛の心中の迷いを語ることで話を終えている。「…殺したのは罪に違いないが、それにしても……。庄兵衛はどうしてもその疑いを解くことができなかった。」
ちなみに鷗外は「高瀬舟縁起」でユウタナジイという外来語を使っていて、これは現代でいう安楽死である。しかしこの物語では、橋田壽賀子氏がわたしは安楽死で逝きたいという場合のとは違う。ユウタナジイには死ぬと殺すとの二通りの意味があるようだ。ここでは後者であって、安らかに死なせる意味となるが、さすがの鷗外も適訳がなかったとみえる。
久しぶりに圓生を聞かせてもらった。Youtubeの作者にお礼を申し上げる。(2017/9)

2017年9月5日火曜日

アメリカの教科書がつくるアメリカ人像

毎日のようにニュースを賑わせているトランプさんの発言に、白人主義、人種差別など批判が強い。大統領一人だけで大多数の国民はそうでないのだという声もあるけれど、わたしはもともとアメリカ白人の心の底にある心情が表面に出てきたのだと考えている。このことはこの頃アメリカの歴史教科書について読んだりしているので一層そういう風に思えるようになった。

『アメリカの歴史教科書問題 先生が教えた嘘』(2003年明石書店)という書物が8月中ずっとおんぶお化けになっていた。別に教科書問題を研究するつもりなどなかったが、本書の副題を書名とする原書のペーパーバックが本棚にあったのを何気なく読み出したのが始まりだった。
Lies My Teacher Told Me(1995)、著者はジェームズ W ローウェン、1942年生まれの社会学者、歴史学者で人種差別問題などを専門とする。

さて辞書を頼りに読み始めたはいいが、細かいことで用語や知識不足のために引っかかる箇所が出てきたので訳本に頼ることにした。ところが、こちらは日本語の文章がこなれていないので非常に読みにくい。結局、著者の意のあるところは原書にたよるという読み方で、いっこうに系統立って頭に残らなくて困った。

12章それぞれのトピックは当方にしてみれば聞いたことはあるが、そんなこととは知らなかったという、池上彰さんじゃないけれど、そうだったのか!ということばかりで面白い。
結局、学者ばりのまわりくどい言い方に引きずられないように、単刀直入、面白いと感じることだけを読み取るように努めた。

ネットで調べると、ベストセラーズになって版を重ねた原著は2008年に装丁も新しく再販になった。内容も書き直したところもあるらしいが、何よりも911同時テロに言及しているというから気をそそられる。
旧版は全米の高校教科書のうち12種を取り上げて検討した研究に基づいているが新版は6種追加されたうえでの研究だそうだ。

朝日新聞に編集委員の曽我豪さんが下町の中学校の先生の話を紹介していた
93日「日曜に想う」)。
生徒は授業の中身より先生自身の生活に即した経験談に何よりも聞き入るということだった。ローウェンも全く同じことを言っているので、なるほどと納得した。

さて、第1章はアメリカ人の英雄とされる人間が、教科書によってどのようにつくられるか事例研究の話だ。この作業を教科書による英雄化と呼んでいる。ヘレン・ケラーの例とウイルソン大統領の場合があげられている。

ヘレン・ケラーについて学生たちは三重苦をのりこえて大学さえ卒業したことを知ってはいても、その後の人生については人道主義者などと簡単に片付けられて、何をしたか、どういう生涯であったかは知らないのだそうだ。
ローウェンが指摘するのはヘレン・ケラーが急進的な社会主義者だったことが、教科書では抜け落ちていることが問題だという。

1909年にマサチューセッツ州の社会党に入党し、1917年のロシア革命に賛同した。社会党左派になり、ウイルソン大統領が迫害していた急進的な世界産業労働者組合(IWW)のメンバーになった。こういう経歴は彼女が身体障害と社会階級の関連に気付いたことに由来する。
後半生の大半を視覚障害者財団の募金活動に捧げ、他方で自由な言論のために戦うため黒人解放運動組織を支持し100ドルを寄付した。それは1920年代のアラバマ出身の白人としては急進的な行動だった。女性運動にも熱心だったし、晩年にはマッカシーの赤狩り時代の犠牲者で、惨めな刑務所生活を送っていた共産党指導者エリザベス・フリンに誕生祝いに激励の手紙を書いたりもした。ヘレン・ケラーという人の本質はこういう一面にあったのだ。

このような彼女の活動は、たとえ同意できない人がいたにしても、今となっては素朴である。一般的に賞賛されてきた彼女の存在しか知らない人は当惑するかもしれない。けれどもヘレン・ケラーはもともと急進的だったのであって、家庭教師アン・サリバンとの美しい物語の中だけの人ではなかったのだ。教科書が事実を書かなかったからアメリカ人が知らなかっただけのことだ。

ここで、筆者のわたしが思うのは、教科書がヘレン・ケラー像の一部を欠落させているためにアメリカ人一般が真実を知り損なっているとローウェンが批判する意味はわかったが、なぜ教科書が書かなかったか、腑に落ちないのである。もう昔のことなのに。

もう一人の事例はウッドロー・ウイルソン大統領だ。こちらは国際連盟創設に尽力したが根は人種主義者だ。日本人には人種差別撤廃を国連憲章にうたうことを提唱したが否決された思い出がある。この人物はアメリカ大統領として問題がありすぎるが、教科書は英雄として扱っている。

アメリカが日本と同時期にシベリア出兵をしたことを堀田善衞の「夜の森」で知ったが、時の大統領がウイルソンだったのだ。帝政ロシアを応援したために、ロシアはいまだにこの事を根に持っていると聞く。米露関係がうまくいかないはずだ。これは単なる個人的な思い。ウイルソンについてローウェンに付き合うのは長くなりすぎるので書ききれない。
教科書が真実を避けることへの疑問に移る。

結論を言えば教科書は社会通念にしたがうのだ。国民的英雄の人物について人々はわかりやすいことを望む。議論はしたがらない。
ヘレンキラーは自分の努力でなんでも出来るようになったと思ったが、人生半ばで自叙伝に、私の成功は恵まれた生まれと環境のおかげであることを知ったと書いている。ローウェンによれば、教科書はこの思想に触れたがらない。
アメリカでは機会は不平等であるとか、誰もが「世間で成功する力」を持っているわけでないという考え方は教科書執筆者や教師に嫌われているのだそうだ。そこで教科書はケラーの生活から当たり障りのないことだけを取り出して、彼女に出来ることは君にも出来るというふうにする。このために彼女の成人後の生活は省かれてしまう。貧者のための情熱的な闘士は消されてしまうのだ。
この他に教科書制作側にはさまざまな社会的圧力があることを本書は説明している。

これでは勇気のある教師が出ない限り学生が関心を持つ歴史の授業はできないだろうと思う。ローウェンをはじめ、かなりそういう教師がいるらしいが、教科書自体を改良する道は遠そうに思える。日本と違って学習指導要領などはないだろうから、IT時代の歴史授業は面白く出来るとも思える。
ちなみに教科書出版業というのは全米各州各自治体すべての顔色を見て編纂するから、盛りだくさんの内容になって教科書は平均900頁近く、重さ2キログラムにもなるという。


2章以下にはなぜコロンブス・デーという祝日があるのか、ピルグリムズが建国神話になっていること、先住インディアンたちの運命、最初の定住者はスペイン人に連れてこられた黒人だということ、奴隷制と人種差別、そして「風と共に去りぬ」のことなど興味は尽きない。

学校教育とは関係なくこれらの話柄を考えるのは、なかなか魅力がある。
堅苦しい書名と読みにくい文章が難であるが、読んで損はない。

向こうの教科書が代表しているアメリカの社会通念がアメリカの国やアメリカ人の姿を歪めていることがわかった。長年にわたって流れ込んできた多くのメディアやニュースによって形成された日本人が抱くアメリカ像も正像とは限らない。せっかくローウェンが真実のアメリカの姿を教えてくれるのだから、日本人にはありがたいことだ。おおいに利用してアメリカ理解の一助にしようではないか。(2017/9

2017年8月20日日曜日

NHKスペシャル インパール作戦に思う

8月15日NHKスペシャルで「戦慄の記録インパール」を見た。前にも何度かインパール作戦のドキュメンタリーを見ているので大筋は変わらないが、証言される元兵士の生存者の方々の年齢が高くなったのが気になった。つまりかけがえのない実態記憶の証言者が減ってきているということで、今回は私より一回り上の年齢96歳が多かったのが印象深かった。たまたま1993年6月放送の同じ題材の記録が現在でもネットで見ることが出来るが、証言者は80歳代が多い。今回は編集も新しく資料も補充されているが、現地の映像は前回と同じものもある。証言者は全く別の方々だった。
96歳にもなると大抵の人は喋り方が円滑でなくなる。言おうとすことが言葉にならなかったり、口がうまく回らなかったり、同じことを繰り返したりで、聞いていてまざまざと老いを感じたものであった。戦争についての語り部がいなくなる、次の世代が語ってほしいとの声が強くなっている昨今であるが、まさにその通りであった。ちなみにビルマの奥地の人たちからも証言が得られていたが、こちらもやはり90歳代、中には100歳の人もいたが、放映は日本語になって聞こえるので喋る機能の衰えは判断できなかった。

番組が訴えるのは軍という組織の体質の異常さであるのはいつもながらであるし、見るほうが感じるやるせなさも同じだ。インパール作戦といえば牟田口廉也第15軍司令官の名前が代名詞のようになっている。節穴のような眼で現実を見て、頭の中で希望と作戦構想が格闘して空回りの実戦を実現させるのが得意であった。これは何も牟田口だけでなく日本皇軍の上級軍人の大部分に共通であったと思うが、インパール作戦の現場が極端に悪い条件だったために浮き彫りにされた感が強い。遺された国民的記憶は往路のジンギスカン作戦とか退路の白骨街道とかであった。兵は屍体を野生動物と細菌に食われ、将の大部分は責任不問のまま生を全うした。なんど見ても、なんど読んでも不思議な軍隊である。花谷某という牟田口よりひどいのもいたらしいが、もうそんなのは知りたくもない。

大東亜戦争の開戦当時マレー・シンガポール・ビルマではイギリス軍があっという間に敗けてしまったのは、おそらくイギリス人の日本人を見る見方が間違っていたのだろうという気がする。人間の性能を見誤ったとでも言おうか、山本五十六元帥のはじめの一年ぐらいは勝ってご覧に入れましょうというのは、戦備力からの発言だが、これと違っていわゆる線香花火的戦闘はできても長期戦は不得意である。まさに桜花の大和魂だ。インパール作戦を始めてみたら、初戦の敗退時から様変わりしたイギリス軍の装備と戦力に驚いたと聞く。番組でもそう言っている。一般に白人はしつこい、執念深いのである。ビルマのイギリス軍は機械力も大量に投入しているし、物資は空輸だ。これだけでも日本は勝てない。日本軍はすべてが人力だ。たとえ始めてしまった作戦でも、あとで彼我の戦力差に気づいたならば中止するのがホントだろうが、これができない。やめられない人たち、決められない人たち。軍隊ではここで精神力優先が顔を出す。

ビルマに限らず太平洋でも全部にわたって兵站軽視の悪弊が明白に出た。結果は餓死。15軍司令部付きの少尉が記録しているが、高級参謀たちの会話には、どこそこを取るには何人殺すという言葉が交わされたという。敵方の基地を占領するには兵を何人消費するかの意味だそうだ。インパールは3万人殺しても撤退しかなかったし、停戦してからの斃死の方が多かった。
兵站軽視は陸軍士官学校に淵源があるそうだ。教科としてほとんど教えなかった。陸軍大学まで同じ路線だったから、出来上がった将校の頭には物資補給作戦などあるはずがない。大欠点だ。欠陥軍隊である。「腹が減っては戦ができぬ」いつごろから云われているのだろう。
日本陸軍には食糧は敵地で手に入れるものという考えがあったとも言う。それは大陸戦線の話だ。人が住んでいる土地に侵入するから食糧があった。インパール作戦は人跡未踏の山の中を470キロ歩くのだ。ガダルカナルは補給のリスクを考えなかったから餓死した。制海権と制空権を維持できると考えたのが間違いだった。敵戦力の誤算と兵站軽視の結果だった。だが、ビルマは補給の手立てがつかないことが事前に明白であった。山は緑だから野菜の代わりに食えると言ったらしいがアホかいな。この無能司令官を叩き殺して食えばよかったのだ。

作戦中の三つの師団の長をいちどに更迭した。軍当局はそれを認めたらしいが、およそ統治されていない軍であった。天皇だけが牟田口の横暴を止められたとするなら、なぜ天皇はそれをしなかったか。天皇は何も知らなかったとでも言うか。知らされないことを知らないで済ませる統治者は統治者ではない。統治者たるものは組織の他に統治に必要な情報と手段を持たなくては統治者でありえない。輔弼者の決めたことに反対しないという決まりがあったというが、それを馬鹿正直に守っていたというのはやはり無能である。敗戦を認め戦争をやめさせられなかった天皇はやはり無能だったとしか思えない。おとうさんはお人好しだった、ホンマにムチャクチャでござりまする。

戦後○○年…、繰り返し繰り返し言い続けて、ことし戦後72年。実は政治の体制などは変わったけれども戦前も戦後も日本は同じだ。それぞれに運不運はあったけれども、なぁ~んにも変わっていないのです。考えている間にどんどん日が過ぎていきます。こういうのを「あわれ」というのかもしれません。(2017/8)

2017年8月4日金曜日

『改版 日本の橋』を読んでみた(つづき)

前回は枕草子、「誓へ君遠つあふみの神かけてむげに濱名のはし見ざりきや」の和歌にみえるはしのかけことばの理屈で引っかかって進行が停滞した。保田のいう「そぶりのはし」に戸惑ったためだった。考えてみると身振りや動作について「(~の)はしばし」という使い方はよくある。「ことばのはしばし」もある。手許の辞書には「はし」にも「はしばし」にもこのような使い方に合う語義は出ていなかったので戸惑っていたのだ。辞書になくても、こういう「はしばし」の「はし」を提題の浜名の橋に当てはめて「チラとでもみざりきや」のように解釈することもできるのではないかと考えた。保田は奈良の櫻井の人、あのあたりではこういう言い方も普通かもしれない。研究者によれば保田は方言を文章に使うことが多いとの言もある。いずれにしろ、この歌のはしには二重の意味があることはわかっているから、それはそれとしてよいのであるけれども、「そぶりのはしを云ふことが、長い間に、ものの奥やさらに我と汝の関係の表現になってゐたのである」という説明は納得出来ない。
さて、保田の論考ははしの用いられ方を神代の頃にまで遡って語義が多様に広がる表現を例証してきて、つぎに王朝の和歌の世代には我と汝の関係のつながりに想いをかける用いられ方を検証する。このエッセイの主題は人と人、人と自然のつながりを橋にかけて歌った文芸上の美しい感傷が日本の橋のいのちだと謳い上げるかのようである。以下に適宜例示された橋の歌をあげることで保田の作業を追うことにする。

古今六帖から浪速の橋を拾っている。
  津の国のなにはの浦のひとつ橋君をしおもへばあからめもせず
保田は「これはひとつばしの橋である」とだけ付言する。浪速の浦に丸木橋は変な具合だから、君だけだよ、というひとつばしなのかと思う。
  我が戀は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな       通盛
  たゞ憑(たの)め細谷川の丸木橋ふみ返しては落る習ひぞ    上西門院
これには上西門院が通盛のために仲だちをしたと経緯を説明している。文と踏みのことよりも、ただ一すじの思いが丸木橋だろうか。

次は万葉集巻九の、河内大橋を独り去く娘子を見る歌一首竝びに短歌。
  しなてる片足羽河(かたしはがは)の さ丹塗りの大橋の上ゆ
  くれないの赤裳すそひき 山藍もち摺れる衣(きぬ)きて
  ただ一人い渡らす児は  若草の夫(つま)があるらむ
  かしの實のひとりか宿(ぬ)らむ 問はまくの欲しき我妹(わぎも)が
  家の知らなく
            反歌
  大はしのつめに家あらば心悲(うらがな)しく獨り行く児に宿かさましを

「一寸あらはになつかしい想像も出来るけれど、河内あたりの風光を知ってゐる私には、風景の聯想からも妙にうきうきしたノスタルヂアに似た心のあこがれさへ味はへるのである」と書いている。以下カギ括弧内が保田の説明である。
「枕草子の、橋は、の冒頭にもひかれてゐる、あさむづの橋は、[……]その橋が王朝の人々になつかしまれたのは、催馬楽にうたはれたやうな、古拙な地下のひゞきのなつかしさのゆゑであらう」

  あさンづの橋の とゞろとゞろと 降りし雨の ふりにし吾を たれぞこの
   なかびとたてゝ みもとのかたち せうそこし とぶらふにくるや  さきんだちや

「さきの萬葉が男の飾らないあらはの聲に對し、これは哀愁にとみしかも全く新鮮な地下の女の、鄙びて艶のあるかん高なくどきである」

  あさみづの 橋は忍びて渡れども ところところに なるぞわびしき
  
「夫木和歌抄の橋のなかにある。あさンづ、あさむづ、浅水のことである」

  かみつけぬ 佐野の舟橋 とりはなし 親はさくれど 吾()は離(さか)るがへ
  萬葉集の東歌

この東歌のあとに保田は、こういう歌を繰り返しながら橋をイメージしていた時代を考えたいのだという。イメージを観念でいじるほどに、「こんな歌は複雑な発想を一つの言葉の中にたたみ込む抒情を暗示するだろう。来るべき日になって日本のことばで行われてゆく政治も文化も苦しく、そのことばが大へんな重荷になることと思はれる。」と書き、この複雑なことばはやがて日本の政治をこわしてしまうだろうけれども、「この重荷は光栄の父祖の歴史」だ。「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で豊富な心理と象徴の世界を描き出した。王朝の長い時代に女性教育によって作り上げられた日本の美学は、エリヂウム思想(筆者注:悲劇的成分を優先して考える特性)から、片戀、失戀、うらみわびなど終末感を歌い出すように発達した。こういう美学を橋について語ってみたい」のだ、と説明する。
ことばと言葉を使い分けているのは、融通無碍に解釈できる日本のことばで日本は政治をしているという意味だろうか。はしはことば、橋は言葉としている。短くつづめたのでわかりにくいかもしれないが、かなしく、あわれな日本の美が橋にあらわれている様子をみたいのだ、と云っているものと考える。ついで歌枕の三河八ツ橋のことに話がすすむ。

「古い人々のおしつめていった、人間生成の理法や、人生と愛情の生活の、複雑な分岐の仕方は、くもでにものをおもふと歌はれた、八つ橋の歌でみても、一端の明しとなりさうに感じられる。この八つ橋も往古のものはすでに早くなくなった。伊勢、古今、古今六帖に見える八つ橋と、更級日記以後のものとは實物として異るとは、もう多く云はれたことであった。
伊勢物語に『水ゆく川のくもでなれば橋を八わたせるによりてなん八つはしと云ひける』とある、古の業平はその澤の木かげでかれひを食ひつゝ、澤のかきつばたをみて。その七つの文字をおいた一首の歌をよんだ。」

  から衣 きつゝなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞおもふ

「八つ橋からくもでの方が表面に出るやうになり、多くの歌がつくられたのは、もう八つ橋を知らないころであろう。」

  うちわたし ながき心は やつ橋の くもでに思ふ ことはたえせじ

「この歌はつらき男にと題して、 
  たえはつる 物とはみつつ さゝがにの 糸を頼める 心ぼそさよ
といふ歌を送られた男が女に答へたものである」

  戀せんと なれるみかはの やつはしの くもでにものを 思ふころかな
「さきのくもでに思ふとは、その内容の異ること今さらの註をまつまい。」

「更級日記の作者は、東国に下る時黒木を渡した濱名の橋を見たが、長暦年中上京のをりは、もうその橋はあとかたもなく、この度は舟にて渡るとかいてゐる。同じ旅の記に『八はしはなのみして、橋のかたもなし、なにの見所もなし』とある。しかもこの八つ橋が古い八つ橋でないとの説はすでに云った。十六夜の作者阿佛尼は、まだ少女のころに海道を下ってゐるが、その記『うたゝね』には『これも昔にはあらずなりぬるにや、はしはたゝ一つぞ見ゆる、かきつばたおほかる所と聞しかども、あたりに草もみなかれたるころなればにや、それかとみゆる草木もなし、なりひらのあそんの、はるばるきぬるとなげきけんも思ひよらるれど、つましあればにや、さればさらんと、すこしをかしくなりぬ』とかいてゐる」
ここで保田は、「うたゝねの記」をわが愛誦の物語として懐かしんでいる。十六夜の八つ橋の條では一首の歌をつけて、くらさに橋も見えずなりぬと誌しているそうだ。なんだかんだ云っても、「古来よりの海道の名橋では、やはりこのわびしい八つ橋が、一ばん日本のふるさとの匂ひにみちていた。」

木橋に触れている箇所がある。「史上で云ふ大化年間の初めて作られた宇治大橋も弘仁の時の長柄橋も今の文明観からいへば、云ふまでもなく心細い木橋であろう。」と書いたついでに浮世絵を攻撃している。「支那の石造橋を模して木のそり橋を考へた不敵な日本人である。何にその理由あったかも知らないが、こんな橋が十九世紀の紅毛畫家を感動させたことは、何かしら我がことのやうに私にはなさけなく思はれた。」今の浮世絵支持の芸術関係者たちは「今日の日本のために日本の前世紀を克服しようとはしない」と言ってけなしている。

「橋につきまとふ人柱も橋が激しい人工である意味を象徴してゐる。人柱こそ河上の橋のさきに、神と人との間に架けられた橋であり、犠牲であった」とするのは、これもはしの言霊のはたらきか。
「萬葉集に、
  小墾田(おはりだ)の板田(さかた)の橋のくづれなばけたよりゆかんなこひそ吾妹、
と歌はれてゐるやうに、日本の橋は哀れに脆く加へて果敢ないものだった。」「ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡した橋のやうに、代々の詩人旅人の驚異の情緒を織りこんだ永代の橋は求める方が無理である。」

「文書に初めてあらはれる仁徳紀の十四年冬十一月の條の猪甘津(ゐかひつ)に架橋した小橋(おばしー筆者注)は[…]、小野小町が、しのぶれど人はそれぞと御津(みつー筆者注)の浦に渡り初めにしゐかひ津の橋、と歌ったゆゑになつかしい。その床しさはまことに我らの思ひ描いたはしをうたってゐるやうにも見える。」何か著者は独りで詠嘆しているような気配である。

「大化二年の道登・道昭の宇治橋、宇治の橋姫の橋は、古今集に、
  さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫、
などと歌はれてゐる。日本の橋に較べるなら、支那の古代の石橋は極めて立派で文人畫の橋さへまことの矼であるから、それが私に不思議であった。」

「古い由緒の長柄橋も、今では所在も様式もわからない、明月記には、その朽廃した橋柱で、後鳥羽院が文臺を作られた由をしるしてゐる。この詩文に一等多く歌はれた名橋も、大方の人は知りもせず、見もせず、たゝなつかしい名のまゝに口にしたのであろう。公任のころにも、栄花物語の頃にも、既に「おとにきくながらのはしはなかりけり」のさまだったらしい。
 ありけりと はしはみれども かひぞなき 船ながらにて わたるとおもへば、
と、和泉式部は、親しくここにきて歌ったものであろう。公任のみたのも橋ばしらだけだった。

まだまだ続く橋ものがたり、すべて付き合うのは大変であるが、著者の知識豊かなために省略するところは、別途参照するなりして読み込めばなかなかに面白い読み物ではある。著者が橋の所在や伝説を語るところはまことに興味深い。取ってつけたような高説を承るのは御免被りたい。「日本の橋」は理屈をこねさえしなければいい読み物だとおもう。

本作は著者のデビュー作と聞くが、のちに日本浪漫派を提唱してグループが出来、それがために軍部に睨まれ、懲罰的とみられる召集で病床から満州に引っ立てられた挙句に、戦後は反動としてだれからも相手にされない不運を招いた。古代の日本を愛好した精神は生涯変わっていなかったはず、まことに人の目はあてにならない。この作品も著者が好きでたまらなく感じる橋伝説や和歌についてのことだけに徹して語ってくれればよかったと思う。

発刊当時は他の作品も合わせた単行本として池谷賞を受けたが、「日本の橋」だけについての批評は少ない。原日本的なものの象徴を橋に求めたのが保田の論考とするなら、橋の機能、構造、地勢、民俗を含めて日本の橋を論じた著作に上田篤『橋と日本人』(岩波新書1984)がある。同じ原日本を考えるにしても、こちらはより大きな見方をして納得させられる。
日本の橋の特殊性格を、男と女にかけて美的かつ情緒的に論じた人に、日本浪漫派の詩人・保田與重郎(1910-1981)がいる。保田は、日本の橋は日本の歌に似ている、という(『日本の橋』)。日本の歌が、ようするに「男女相聞のかすかな私語」であるように、日本の橋もまた「愛情相聞の現象」なのである。あるいは、わたし流にまたは空間的に保田の趣旨を付会すると「男女の密会場所」とでもいうべきか。そして相聞を主とする日本の歌の「私語性」が無限大へと拡大するように、哀れっぽい日本の橋の「密会性」もまた永遠の生命を獲得する、というのが保田の論旨である。(同書8-9ページ)
まことに適切簡明に解読してくれている。だから保田の文章には余分な部分が多いと感じるのである。
小石川後楽園の八つ橋

 なお、上田氏はかつては無数に存在した道路橋としての八つ橋は、小石川後楽園にその姿が忍ばれるとしているので図を出しておく。まことに日本的な橋、すなわちカケハシの典型としている。
(2017/8)

2017年7月27日木曜日

『改版 日本の橋』を読んでみた

『日本の橋』、保田與重郎という人が書きました。80年ほど
前の世の中では好評で池谷信三郎賞というのを受けています。文藝春秋社の賞ですがまだ芥川賞はありませんでした。この作品は評論で小説ではないので菊池寛社長は受賞に反対だったそうです。著者はこのとき26歳、それ以前からのいろいろな短い想念をいくつかまとめたもののようで、構想は20歳のころだとかいう話です。若いのに厄介な文章でできています。
東京帝国大学の美術史科を卒業していますから、文士ではなく美学の徒であり哲学の人であるようです。それでも生まれが畝傍ですから、ふるいふるい日本の土と水と空気の中で育ちました。そのためでしょう、とにかく記紀と万葉集なのです。日本の古典はこれだけしかないのだそうです。こういう人ですから、書いたものについては、国粋主義、日本主義などと評されて敗戦後には進駐軍命令で公職追放されました。本人のつもりとは関係なく周りがそのようなレッテルを貼ってしまったのでしょう。もともとお金に困らない人だったから、1981年に72歳で亡くなるまで執筆活動を続けました。『保田與重郎のくらし』という写真集に載る、終の棲み家として京都に建てた身余堂は素敵です。
さて、「日本の橋」ですが、簡単に言えば橋についてのエッセイです。むずかしく言えば橋にまつわる思想と哲学を日本の文学に読み解きます。根本はことばです。
保田氏は橋を道と関連付けて考えることから始めます。橋は道の延長か、それとも道が橋の延長かと考えるとき西洋と日本を比べてみます。保田氏は西洋の橋を写真で見ています。今の時代でなく昔のこと、1930年頃のことです。仏蘭西のポン・ド・ガールというのを例に出しています。わたしも写真で見てみました。ローマ人が作った水道橋、石造りの三層です。高さも幅もとにかくでっかい。人が渡る橋の例は出していませんが、ローマ人がつくったのは征旅の軍隊や凱旋の獲物を車輌で運ぶに適した橋だと考えて、それだけでなくキリスト教の伝道のための殿堂の延長でもあったろうとしています。水道橋も軍隊を通す橋も頑丈な建造物です。だからローマ人の道はそういう建造物の延長だと考えます。それに比べると日本で普通に見られる橋は粗末です。そもそも日本の道は、もとは山道や野原の道、人が行き来することでひとりでに出来てきた道、自然の道です。道がなくなったところに橋ができます。橋は道の延長なのです。心細い道の先にできた橋もやはり心細い橋です。保田氏は日本の橋は哀つぽいと書きました。これは見かけのことのようですが、保田氏はこの哀つぽいというのは、ありきたりの修辞ではないのだといいます。では何だ、というのが読んでいてもなかなか出てきません。
日本語のはしには橋、箸、端など同音異義語がたくさんあります。道の終りに橋を作りましたが、はしは道の終りでもありました。「しかしその終りははるかな彼方へつながれる意味であった」と書きます。はるかな彼方へつながれるって、どこへつながるのか。答えは書いていません。
「日本の言葉で、はしは端末を意味するか、仲介としての専ら舟を意味するかは、かつてから何人かの間で云い争はれてきた主題であった」ことについて自らの答えを述べています。「二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない」といいますから、どちらにもはしを使ってよしとするのでしょう。「しかもゆききの手段となれば、それらを抽象してものの終末にすでにはしのてだてを考へることも何もいぢけた中間説ではない。」ここの意味はわかりませんが、ものの終末に舟やはしごを持ってきても、それもはしというのだということでしょうか。続く文章もなかなか理解できません。古典に表現される現象の意味は恒に象徴であること、神典時代の抽象を理解せよということなのですが、それがどういうことか。どうもすべてが架空のことになります。「古典は過去のものでなく、ただ現代のもの、我々のもの、そしてついには未来への決意のためのものである。神代の日の我国には数多の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を限りなく感興させるのである」と保田氏は吐露しています。
また、本居宣長は「神代には天に昇降る橋こゝかしこにぞありけむ」と述べてはしの語義を教えているとあります。上の感興はこのことを踏まえているのでしょう。このような夢の中のような世界を空想することも楽しいことには違いありません。ここで思い出すのは、保田という人は日本浪漫派という文芸思想を提唱した人です。浪漫は翻訳語かもしれませんが、日本語として使われるぶんには夢想の中身とあまり変わらないかと思います。それはそれとして、わたしはことばの変遷に面白みを感じています。
太古の諺を引いています。「神の神庫も梯立のままに」というのですが、神庫はホクラと読み食料や武器を入れる倉、梯立はハシタテ、はしごのことです。次のように紹介しています。
垂仁記に『八十七年春二月丁亥朔辛卯の日、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、妹大中姫命(いろとおほなかつひめのみこと)に謂ひて曰く、我れ老いぬ。神寶を掌ること能はず。いまより以後は必ず汝主(つかさど)れ。大中姫命辞(いな)びて曰く、吾は手弱女(たおやめ)なり。何ぞ能く天神庫(あめのほくら)に登らむや。五十瓊敷命曰く、神庫は高しと雖も、我れ能く神庫の為めに梯(はし)を造(た)てむ。豈庫に登るに煩あらむや。故れ諺に神の神庫も樹梯(はしたて)のままにと曰う、これその縁なり』と出ているのである。

次に記の下巻高津宮の世の條の速総別王(はやぶさわけのおう)が宇陀に落ち延びる際の御歌を引いて枕詞になった例を出しています。「日本の歌の枕詞を知る人はこれらの歌に古人の説き得ぬ意味を知るべきである。」と書き添えています。二首のうち一首を出しておきます。
 梯立ての、倉椅山を、嶮しみと、岩搔きかねて、吾が手取らすも。(はしだての くらはしやまを さがしみと、いわかきかねて、わがてとらすも。)
さらにもう一例を神代紀の国譲り伝説から引いて、「海に遊ぶ具の為に、高橋、浮橋、及び天鳥船また供造らん、又天安河にも亦打橋造らん」の箇所を出しています。
さきの宣長の教えからこの例まで、保田ははしということばが抽象されてきた順序を考えているのだと述べています。総括して次のように述べています。
高橋、浮橋と紀に誌された橋も、まことに日常の舟と考へて安心すべき卑近のことばでなく、日本の橋であった。ましてはしが何うであろうと上下へのゆききのための橋だてと、前後左右へのかけはしを思って、はしを考へた上代人のあったことだけは動かぬゆゑに、はしが仲介の具としてつひにはかなたへと結ばれる終りと端を意味したといふことは、抽象的に人文的に諾はれるのである。ものの終りのはしはどんなものの終りでもなかったのである。『神の神庫も樹梯のままに』といふ諺は、ここに於てはからずも深い意味がある。だから太古の諺でもあった。そしてかういふ諺があったことは、はしといふ言葉が當時既に單なる端でも舟でもなくさらに以上な抽象語としてもあったといふことを瞭らかに教へる。
随分むずかしい言い回しです。日本語の音節数は少ないから同音多義語が多くなるし、掛詞もたくさんできた、と単純に考えてもいいだろうと思いますが、この人の場合は太古の昔に惚れ込んでいるわけでしょう。
日本の橋は道の延長であった。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである。ただ超えるということを、それのみを極めて思い出多くしようとした。築造よりも外観よりも、日本人は渡り初めの式を意義ふかく若干世俗的になった楽しみながら、象徴的に楽しもうとした。
飛鳥川の石橋
これは現代の観光写真です。歌の頃はもっと荒れた感じだったでしょう
萬葉集に出てくる飛鳥川の石橋(いはばし)は、水中に小石を投じてその上をとび越えてゆく、きわめて原始のものでありました。日本の橋は、材料を以て築かれたものでなく、組み立てられたものでした。人麿の歌に残された石橋でさえ、きのうまでここをとび越えていった美しい若い女の思い出のために、文字の上に残されたのでした。
日本の文化は回想の心理のもの淡い思ひ出の陰影の中に、その無限のひろがりを積み重ねて作られた。内容や意味を無くすることは、雲雨の情を語るための歌文の世界の道である。日本の橋は概して名もなく、その上悲しく哀つぽいと私はやはり云はねばならぬ。
やっと哀つぽいが出てきました。さて、わたしはこれをいじらしい感情に似ていると感じます。今の世にいうかわいいとも近いと思います。いじらしいという心情を催させる状態が哀つぽいと考えておきます。
枕草子の「誓へ君遠つあふみの神かけてむげに濱名の橋見ざりきや」の歌を出して、「橋をそぶりのはしとことばの音の上だけで通わせたものではない。ことさらそぶりのはしをいふことが、長い間に、ものの奥やさらに我と汝の關係の表現になってゐたのである」と説明してくれています。
残念ですが、わたしはこの説明をよく理解できないでいます。あいにく手許には気の利いた参考書を持たないので、この歌は枕草子の316段に出ていることをネットでようやく探し出して、物語の背景はわかりました。しかし、この場合の橋が暗示するのは女性をいうのだと直感で判断するほかなく、橋には下ゆく水があることから下心を指す言葉になっているなどの優雅な隠し言葉まではわかりようがありませんでした。それでも保田氏の掛詞式の解釈はわからない。「そぶりのはし」とはなんだろう、いまも疑問です。「はしが我と汝の關係の表現にも使われるようになっていた」のは、つなぐ、おもいをかける、などからはわかりますが、保田式の論理はわかりません。
(「そぶりのはし」はたぶん「動作のかすかな動きや様子」をさすとき「はし」と言ったのだと、何日も考えて結論しましたがどうでしょうか。それから浜名の橋の歌には「下ゆく水に影やみゆると」とついたのもあったりして、まごつきます。後日追加)
ここまでに語られてきた主題は、はしということばの使われ方に古代人の見方を探り、そこには言霊への信仰によってことばの音が内容をふくらませていった道筋でした。その間を縫って保田氏は東西文化の行き来について歴史を振り返り論評するのですが、そういう経緯についてわたしの記憶は薄らいでいますので復習してから読み直そうと思います。ただ保田氏は歴史に関して、とかくに西洋は征服に力づくであるに対して東洋、ことに日本には勝利の裏に先んじて悲哀を見る哲学があったとして、そのことが道にも橋にも反映されていると考えていたようです。
渡ること飛ぶこと、その二つの暫時の瞬間であった。もののおはりが直ちに飛躍を意味するそんなことだまを信仰した国である、雄大な往還の大表現を日本の文学さへよう書き得なかった。大戀愛小説の代りに、日本の美心は男と女の相聞の道に微かな歌を構想した。[……]ことばはたゞ意思疎通の具でなかった、言霊を考へた上代日本人は、ことばのもつ祓ひの思想を知り、歌としてのことばに於て、ことばの創造性を知っていた。新しい創造と未来の建設を考へた。それがはしであった。日本人の古い橋は、ありがたくも自然の延長と思はれる。飛石を利用した橋、蔦葛の橋、さういふ橋こそ日本人の心と心との相聞を歌を象徴した。かゝる相聞歌は久しい傳統と洗煉と訓練の文化の母胎なくしては成り立ち難い。だから日本の橋の人文的意味は、長い間に亙り、なほ万葉の石橋にあらはれてゐる限りの哀つぽいものであるのもふさはしい限りである。(後略)
ここにあげたのは、このあとに橋に関する歌とことばについて展開するためのつなぎの文章です。何ともむずかしい文章です。このあとに案内してくれる歌の数々を読めば自ずとわかってくるとは思います。この「おのずと」がはからずも保田思想であるかもしれません。
ま、こんな程度の理解で読んでいこうと考えています。おそらく地の文の意味が取れるまで何度も読み返さなくてはならないでしょう。実にことばの使い方のむずかしい書き手であります。途中ですが本稿はこのあたりで措くことにします。
こんなにくたびれる本はめったにありませんが、著者が次々と繰り出す各地の橋の謂れと、関連した和歌は旅の案内のようでなかなか楽しめます。巻末に出されている尾張熱田の裁断橋は擬宝珠に彫られた銘文が有名ですが、著者もさすがに、かな文を本邦金石文の第一としてその名文を紹介しています。
読んでいる本:『保田與重郎文庫1 改版 日本の橋』、新学社 2013年。
(2017/7)





2017年6月20日火曜日

『1491』を読んで(3)トウモロコシの話

さて前回はティスクヮンタムのことでトウモロコシが登場したが、トウモロコシはコロンブスが「新世界を発見」したときにスペインに持ち帰り、ヨーロッパに伝えたことになっている。この植物は世界三大穀物と呼ばれて小麦・コメと並んで食糧としてだけでなく重要農産物でありながら、素性が知れない不思議な植物である。原産地も起源もわからないので、宇宙から来たとさえ言われている。

メソアメリカという用語がある。メキシコと中央アメリカ中西部のあたりの地域を指し、この前書いたオルメカ文明やマヤ文明などを産んだ古代歴史の宝庫である。定住農耕文明と神殿文明が栄えた地方でトウモロコシはこの文明から出てきた気配がある。何しろ神殿に祀る神にトウモロコシの神が出てくる。メキシコの主食でさえあるのだから神として祀られるのも当たり前かも知れない。(右図)

最近の旅行記には食べ物の話が多いが、この本『1491』にはメキシコはオアハカ市のトルティーヤの店「イタノニ」と、店主の先住民にして農学起業家ラミレス・レイパ氏が紹介されている。このオアハカあたりがトウモロコシの原産地と目されている地域で、狭いテワンテペック地峡に山、海岸、熱帯雨林、乾燥したサバンナなどのさまざまな環境が集中し、多様な生態系の混在する地域になっている。100メートルほどのあいだに標高が海抜0メートルから2,700メートルまで変化し、住民の構成と農耕形態の発展に貢献しているという学者の言もある。トルティーヤ店「イタノニ」は世界でもっとも重要な文化的・生物学的遺産を守るための画期的な試みの一環として2001年に開店したのだそうだ。その遺産とは言うまでもなくたくさんの品種のトウモロコシ(学名Zea mays)だ。イタトニはトウモロコシの花のこと。この店では加入農家から8品種の乾燥トウモロコシを仕入れ、その粒を丁寧に挽いて粉にし、手でこねてトルティーヤの種をつくってその場で焼いて客に出す。地場産のトウモロコシしか使わないのはここだけだろう。


1万年ほど前に気温の上昇などで動物がいなくなった頃、原住民は食糧を採集と農耕に頼ることになった。サボテン、リュウゼツラン、野生のカボチャ、トウガラシなどなんでも食べられるようにする方法を見つけて食料に変えた。その後にトウモロコシが登場したが、自力では繁殖できない植物、つまり増やすためには種を植えるしかない。野生が発見できないから祖先植物がわからない。原種がわからないから品種改良も難しい。テオシントというよく似た種類の野生植物があるが、外見が全く違うだけでなく食用にならない。1960年代、考古学者が50もの洞窟を探査して、5つの洞窟からタバコの吸いさしぐらいの大きさのトウモロコシ穂軸を見つけた。23607本!これが発端で二人の学者による起源論争が始まった。植物学者と遺伝学者。どのように交配すればいまのような穂になるか、分かれば品種改良も出来て増産もできる。しかし、未だに決着がつかない。

歴史家の観点からすれば、どちらの説も、6千年以上も前にメキシコ南部で――おそらく高地で――インディオがはじめてトウモロコシの祖先種を栽培したと言っているのだ。そして双方とも、現代のトウモロコシが生まれたのは、意図的に生物学的操作をするという大胆な試みがみごとに成功した結果だとしている。「まちがいなく人類初の、そしてもっとも高度な遺伝子操作がおこなわれたのである」2003年、ペンシルヴェニア州立大学の遺伝学者、ニナ・V・フェデロフはそう記した。

普通われわれがよく食べているトウモロコシは穂軸にふっくらとした黄色い粒が並んでいる。メキシコのはそうでなく、赤、青、黄、乳白色、黒などバラエティに富んでいる。これは祖先種の多様性を示しているのだそうだ。色だけでなく形や大きさも異なる。通常、栽培化された植物は、不要な遺伝形質が除かれるため、遺伝子的には野生種ほど多様ではない。メキシコでは遺伝子的に異なるトウモロコシの在来品種が50種以上確認されている。それぞれの在来品種には、栽培によって生まれた「栽培変種」が数多くある。メソアメリカ全体では5千種近い栽培変種が存在すると考えられている。ついでだが筆者がネットで見ている中に「グラスジェムコーン」という七色トウモロコシがあった。食用で、遺伝子操作ではなく、品種改良したものだそうだ。これがそういう栽培変種に当るものだろうか。
メキシコ産のトウモロコシ

トウモロコシは他家受粉作物だそうだ。花粉が広い範囲に飛び交雑する。耕作者が次期に蒔く種を丁寧に選抜して、雑種を取り除くから全部が均質になる可能性は少ないという。それでも在来種のあいだでは常に遺伝子のやり取りがあるわけだろう。グアテマラとの国境近くの村では、トウモロコシ農家のほとんどは親と同じ在来種を栽培しているそうだ。先祖代々の受け継いだ品種だ。そうであれば勝手な交雑はおきないわけだ。
              
インディオの農民は「ミルパ」と呼ばれる畑でトウモロコシを作る。たいていは新たに土地を開墾して、一度にたくさんの種類の野菜を作付けする。トウモロコシ、数種類のカボチャ、アボガド、マメ、メロン、トマト、トウガラシ、甘藷、クズイモなどを一緒に栽培する。これは自然の状態で多種が混じり合った状態の再現を図る方法だ。ここでとれる作物は栄養的にも環境的にも補い合える関係になる。どれかに不足する成分は他のどれかが補うのだそうだ。「人類史上もっとも大きな成功をおさめた発明のひとつ」とマサチューセッツ大学のウイルクス氏が言っている。一般に、連作すると土地が痩せる場合、休耕するか肥料を補給するかという問題が生じる。それをメソアメリカでは4千年の昔から繰り返し耕作されてきて、いまだに土地の生産力が衰えないといえるシステムを作り出した。
メソアメリカの原住民は穀物のみのる作物の新種を作り出し、それを育てる環境も創造したわけだ。考古学の研究結果はトウモロコシが大量に成育した場所に高度な文明が栄えたことを立証できている。ミルパを作るために大規模な開墾がおこなわれた証拠が現れる紀元前2千年から1500年ころ、メソアメリカ最古の文明、オルメカが登場した。低い山脈をはさんでオアハカの反対側に栄えたオルメカの人々はトウモロコシによってもたらされた文明を享受していた。トウモロコシに対する賛美を芸術で表現し、それを教化に用いようとした。石碑や彫刻にトウモロコシのシンボルが盛んに使われている。 

ピルグリムが北米にやってきたころには、様々な種類のトウモロコシやマメ、カボチャの畑がニューイングランドの海岸地方を彩り、ところによっては内陸部に向かって何キロメートルも広がっていた。いっぽうで南米に伝わったトウモロコシは、ペルーやチリにまで達した。アンデスでは、ジャガイモを中心とする独自の農耕システムが発達したが、そこでもトウモロコシは食糧として高い地位を得た。

トウモロコシはコロンブスによってヨーロッパに紹介され、それ以後は世界各地に影響を与えることになった。とりわけ深く関わるようになたのは中央ヨーロパで、19世紀頃には、セルビア、ルーマニア、モルダヴィアの家庭で毎日のようにトウモロコシが食卓に上ったのだそうだ。アフリカへの影響はことのほか大きく、歴史学者アルフレッド・クロスビーによれば、アメリカからトウモロコシとピーナッツやキャッサバなどの穀物が伝播したことによって、アフリカの人口が大幅に増加したようだ。余剰人口が奴隷貿易を可能にしたのだという。つまりトウモロコシがアフリカ大陸を席巻しつつあったころ、アメリカ大陸では、疫病が先住民社会を壊滅に追い込もうとしていた。ヨーロッパ人は労働者不足に直面し、アフリカに目を転じた。アフリカでは部族間抗争が絶えず、これが何百万もの人々の流出を助長する一因となった。互いに敵対する部族の人々を捕えては、ヨーロッパの商人に売ったためだ。トウモロコシによって人口増加が続いていたので、商品が品切れになる気遣いはなかった。だからこの忌まわしい貿易が途切れることなく続いたのだと、クロスビーは考えている。
ところで、メキシコの主食はいま危機に見舞われているようだ。トランプ攻勢にまつまでもなく、はやくからアメリカのトウモロコシ進出に脅かされている。メキシコの在来種のトウモロコシは全市場を賄えるほど多くはない。アメリカ企業は量産できるハイブリッド種を安く売り込んでくる。そのうえに遺伝子組換えの問題がある。メキシコでは遺伝子組み換えトウモロコシの栽培は禁止されている。ところが、農民が食用にするために買った米国産トウモロコシを遺伝子組み換え作物と知らずに植えるという不祥事が出来している。アメリカ産には遺伝子組み換えという表示がない。この問題は2001年に報告されたが現状はどうなっているだろうか。世の中にはいいことと悪いことがいつも裏表になって訪れるようだ。
『1491』チャールズ・C・マン著 布施由紀子訳、2007 日本放送出版協会。トウモロコシは第6章で扱われている。
参考:インターネットでは次のサイトが役に立つ
http://www.biodiversidad.gob.mx/usos/maices/maiz_cartel.html
メキシコの生物多様性保護機関の公式サイト。日本語翻訳に難があるが、「レース」をクリックすると、種類別の画像が見られる。「トウモロコシ」で動画がみられる。
公式サイトにあるメキシコ産の画像

(2017/6)

2017年6月19日月曜日

『1491』を読んで(2)先住民とピルグリム

前回オルメカ人頭像の表題で書いたときに参照した
のは『1491』という書物だ。日本語の本文だけで600頁あまり、それに訳注と文献目録が90ページほどある。分量をこなすだけでも大ごとだが、内容がもりたくさんなので次々に読み進むだけでは記憶に残らない。少しずつでも何かの形で残しておきたいと考えて、また書き始めた。
著者はチャールズ・C・マン、アメリカの有力雑誌に拠るジャーナリストだ。副題に「先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見」とあるように、考古学、人類学、地理学などの分野で新発見が相次ぎ、歴史の見直しが進められているアメリカの研究成果が紹介されている。見直しは当然新旧の学説の論争がつきまとうから、新しい歴史の教科書は研究のスピードに追いつかない。著者の子息が歴史を教わる学齢に達しても、著者が習ったとおりのことが繰り返されているのを見るにしのびず本書を書くことにしたのだとまえがきにある。
1章から11章まであるのを3部に分けてある。章ごとの見出しをみても内容は汲み取れないが、まえがきに重要と考える新発見を3つに絞ったとある。第1部はどれほどの人間が住んでいたかという問題で、アメリカ大陸には何千年も前から多様な人で溢れかえっていたという説が有力になっていること。第2部には発見された古い骨の研究で1万5千年前ごろに起源をもとめられること。そして第3部はアマゾンの原生林などというのは間違いで、人が生態系を壊しているだけでなく、埋もれていた巨大な古代遺跡がハイウエイ建設で破壊されているという話になる。南北合わせてアメリカ大陸にはコロンブス以前にはどれほど多くの人間が生活していたことか、それがどうして誰もいなかったかのように考えられたのか。知るということが、知らないことがどれほど多かったかを知ることになるという立証の記録をサイエンス・ライターの著者が綴ってくれている。

それにしても材料が多すぎるし、何もかもを一度に話してしまおうと勢い込んだのか、どうしてこんなに急いだのか。早く話してしまわないと次の発見物語に進めないとでも言いたげである。筆者のように回転の遅い理解力の持ち主には向かない書物だ。通読しても上滑りに終わりそうだから、一つずつ興味が持てる事柄について、ほかの資料をも参照しながら読み進むのがよさそうに思った。
たとえば、第2章にあるティスクヮンタムについてのエピソードが面白かった。イギリスを体験してきたアメリカ先住民のことだ。
メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリムの一行102人のうち半数は飢えと寒さと病気のため最初の冬を越えられずに死亡した。この団体はもともと生活力があったのかしらと思いたくなるほど開拓地に向かう準備をしていないようにみえる。船にはたいてい冷蔵庫代わりに生き物を載せていくはずが、牛も羊も連れていない。始め2隻の計画が狂って全員が1隻で航海することになったために狭かったという理由があるにしてもだ。で、最初に行き着いた場所に上陸して食料を探す。たまたまそこは原住民の村だったが無人だったから、家の中やら墓までもあばいて、貯蔵してあったトウモロコシなどをいただいて船に持ち帰った。これは泥棒だ。のちに総督になったウイリアム・ブラッドフォードが書き残した手記「Of Plymouth Plantation」には略奪したと明記してある。もっとも、のちに土地問題でもめた際にこの時の代価を支払うと申し出たそうだが。この時の村はコッド岬の海岸でノーセット族の土地、おそらく彼らの習慣で冬場は少し内陸の住まいに移っていたために無人だったのだろう。
入植地と決めた土地、のちのプリマス、に落ち着いてからピルグリムは先住民に農耕を教わった。彼らは農耕を知らず、トウモロコシも知らなかったので、先住民に植え方や肥料をやることを教わった。教えたのは植民地に住み込んだティスクァンタムという名の男。友好的な先住民としてスクヮンタムとして教科書に載っているという。著者も教室でそのことを教わったひとりだ。ティスクァンタムは肥料として種のそばに魚を埋めることを教えた。これは収穫を増やすためのインディアンの方法で、その後2百年にわたってヨーロッパ人入植者に受け継がれていった。しかし著者に言わせれば教科書の書き方は誤解を招くかもしれないという。インディアンが魚を肥料に使った証拠はないようだし、彼らの野焼き農法ではその必要もないはずだ。実は、ティスクァンタムは拉致されてヨーロッパに連れていかれた過去がある。逃亡する旅の途中ヨーロッパの農民に学んだとの説もある。魚を肥料にするのはヨーロッパでは中世からやっていることだったと著者は書いている。教科書には簡単に触れているだけだが、著者はこの友好的な先住民についてかなり詳しく紹介している。それはヨーロッパ人が来る前の先住民の暮らしと文化が後世に伝わったイメージとおおきく違っていて、自然豊かな土地で農耕しながらの定住民だったことがわかるからだ。著者の記述から大略を書いてみる。
ニューイングランド地方
ティスクァンタムは現在のプリマス付近にあった集落群のひとつパタクセットに生まれた。ワンパノアグ部族だ。このあたり、マサチューセット語ではニューイングランド海岸地方を「日の出の国」と表現し、そこの住人は「暁の人々」と呼ばれた。厚さ1500メートルもの氷床に覆われていたこの地方に人が住み始めるのは1万1千年ほど前、コッド岬がいまの形状になったのが紀元前千年ごろという。「日の出の国」は色とりどりの布を継ぎ合わせたキルトのように種々の生態系が展開していたのだそうだ。十世紀末
には農耕が広まり、多くの共同体が生まれ海岸沿いには定住型の集落が増えていったらしい。16世紀の終わり頃に生まれたティスクァンタムが幼年時代を過ごした家(ウェトゥとよばれる)は、ドーム型に組んだ骨組みにイグサのマットやクリの樹皮のシートを重ねた構造で、家の真ん中にはいつも火が焚かれ、煙は屋根に開けた穴から出ていった。イギリスでもようやく煙突が使われるようになった頃であったので、イギリス人もウェトゥは自分たちの家より暖かく、激しい雨にも耐えると賞賛している。食文化もかなり高度で食材も多様で、一日の熱量は2500キロカロリーもあったことがわかっている。子どもたちは野山で過ごして自然への耐久力を鍛えられ、人格教育を施され、勇敢で忍耐強く、正直で不平を言わないことを求められた。ティスクァンタムは首長たちの相談役兼ボディーガードをつとめるプニースという役目の候補に選ばれたので、特別頑健な体躯と精神づくりを強要されて育った。
1523年にフランス人に命じられて探検に来たイタリア人水夫ジョヴァンニ・ダ・ヴェラツァーノが残した「暁の人々」についての最古の記録には、「長身でたくましく、言葉で言い表せないほどに美しかった」とナラガンセット族の首長の姿が記されているそうだ。逆に先住民からみれば、ヨーロッパ人は不潔だけでなく臭かったそうだ。

1614年夏、パタクセットの沖にヨーロッパ人が2隻の船で現れた。捕鯨の目的で来たものの、獲物がなかったので代替品として干し魚と毛皮を手に入れるためだった。船長は先住民女性ポカホンタスにいのちを救われたことで有名なジョン・スミスだった。この航海を終えてイギリスに戻ったスミスはチャールズ王子に地図を示してインディアン集落全てにイギリス名をつけるように進言して王子の機嫌を取り結んだ。スミスは経験をもとに本を書き、地図を載せた。このとき、パタクセットはプリマスと名づけられたのだそうだ。
スミスは帰国にあたって一隻をトマス・ハントに預けて干魚の積み込みを任せて現地に残してきた。ハントはスミスに相談もなくパタクセットを訪れて、夏の一日インディアンたちを船に招待した。数十人がカヌーで船に近づいたとき何の警告もなく乗組員たちはインディアンたちを捕らえようとした。抵抗するものには小火器で掃射し「大量虐殺」におよんだ。生き残った者に銃口を突きつけ船底に追い込んだ。ティスクヮンタムもこうして捕まってほかの20人以上と共にヨーロッパに連れていかれた。
この事件にパタクセットのコミュニティは激怒し、ほかの部族も全てが外国人と戦争状態になった。ハントの蛮行の2年後、フランス船がコッド岬先端で難破した。乗組員は粗末な小屋を建て防護柵をめぐらしたが、ノーセット族が、ひとり、またひとりと密かに乗組員をさらっては殺した。ボストンに着いた別のフランス船は乗組員を皆殺しにされ、船を焼かれた。
ハントの船はイギリスに戻る途中でスペインのマラガに立ち寄り、積み荷を売りさばこうとした。積み荷にはインディアンも含まれていた。1537年教皇パウロ三世は「インディアンはほんものの人間である」と宣言し、ローマ・カトリック教会とスペインの教会はインディアン虐待に強く反対していた。修道士たちはまだ売れていないインディアンを保護した。どのようにしたのか、説明はないのでわからないが、ティスクヮンタムはなんとかロンドンにたどり着き、造船業者ジョン・スレイニーの家に住み込んだ。こういうことは原注に紹介してあるニューファンドランド投資家の研究という書物でわかるようだ。当時のロンドンはアメリカ大陸をめぐる投機マニアの中心地だったらしい。スレイニーは骨董品代わりにティスクヮンタムを家に置いて英語を教え込んだ。やがてスレイニーを説得して漁船で北アメリカに帰れるように取り計らってもらって、ようやくのことにニューファンドランド南端の小さな漁業基地までたどりついた。その先パタクセットまでは1500キロメートルも続く岩だらけの海岸と敵対勢力の支配地域が続いていた。スミスの部下のダーマーという男に出逢ったことで、ここには詳細は省くが、ともかく1619年、ようやくティスクヮンタムは故郷に戻れた。ダーマーの報告にはメイン南部からナラガンセットまでの海岸地域は空っぽで「まったく何もなかった」とあるそうだ。かつて活気にあふれたコミュニティが連なっていた土地には、廃屋が並び、畑は荒れ放題で、野ざらしにされて白くなった骸骨が散らばっていた。沿岸は長さ300キロメートル、奥行き50キロメートルに及ぶ墓場になってしまっていた。5年ぶりに見るパタクセットは何か尋常でない力に打ちのめされて、ティスクヮンタムにとってすべてであった世界そのものが消滅してしまっていた。
いたるところに死体が転がっている間を通って、ティスクヮンタムはようやく数家族に会えた。彼らは大首長のマサソイトを呼んできた。大首長はティスクヮンタムの留守の間に起きた一部始終を語ってくれた。その次第は、のちにメイン州歴史保存委員会が記録から医学的に研究してウイルス性伝染病の蔓延にあったことがわかった。はじまりは病気を持ったフランス人船員を捕虜にしたことだった。記録に残された症状から、汚染された食物を介して感染するA型のウイルス性肝炎らしかった。家の中でインディアンたちが折り重なって死んでいたとの記録もあった。1616年から3年以上たって流行は自然に終息したが、ニューイングランド海岸地方に住む人々のおよそ90パーセントが死んでしまった。当時の人々はヨーロッパ人もインディアンも伝染病を知らず、すべては精霊のせいだった。マサソイトは数千人を擁するコミュニティを直接統括し、2万人からなる部族同盟を支配していたが、部族民が60人に減り、同盟全体も千人を下まわった。ワンパノアグ族は「白人の神々が同盟を結んで自分たちに災いをもたらした」という合理的な結論に達したのだった。ピルグリムも同じような考えかたによって、ブラッドフォード総督は「神のご加護が多くの先住民を排除して土地を明け渡させて、自分たちの最初の一歩を踏み出させる手だすけをしてくださった」と感謝した。
マサソイトにいきさつを聞いたティスクヮンタムは伝染病を知って動揺し、ダーマーと共にメイン南部に行こうとした。途中ダーマーはイギリス人に敵対するインディアンに殺され、ティスクヮンタムはマサソイトのもとに送られた。マサソイトに敵対していたナガランセット族はワンパノアグ族と絶縁状態だったがために伝染病の災厄を免れていた。その攻勢を怖れていたマサソイトに、ティスクヮンタムは渡航先のイギリスで知ったことどもを巧みに語ってイギリス人と同盟させようと計画した。マサソイトは別の考えでこれまでの方針を変え、イギリス人たちと協同しようと考えて交渉を始めた。後年総督になるウイリアム・ウインズローの決断により同盟が結ばれ、以後の入植が急速に進んでイギリスからの移民が大挙して押し寄せることになった。1621年のことだ。
ティスクヮンタムはピルグリムにとっての通訳だけでなく、パタクセットの生き残りを集めて故郷を再建しようという考えも持っていた。するどいマサソイトがこういうことに気が付かないわけはなく、ついにはティスクヮンタムを反逆者扱いする。ティスクヮンタムは一生プリマス植民地で過ごすようになった。住み込んで農業を教えたのはこういうことからであった。しかし彼はあるとき、コッド岬での条約締結交渉にブラッドフォードに同行した帰途に体の具合が悪くなって数日後に死亡した。1622年11月30日マサチューセッツ州チャタムにて、とWikipediaにあった。
条約は50年以上効力を持ち続けたが、1675年にマサソイトの息子の一人メタコムが入植者に反逆しようとして戦争になり、イギリス人の完勝に終わった。ちなみにワンパノアグ族と敵対していたナラガンセット族は、1616年のウイルス伝染病を免れたものの、1633年に天然痘が大流行して壊滅状態になった。結局、ニューイングランドに残った先住民の数は半分ほどに減ってしまった。マサソイトが結んだ同盟はナラガンセット族から自分たちを守ることには有効に働いたが、先住民社会をヨーロッパ人から守るには大失敗であった。

以上はティスクヮンタムの存在と、先住民と入植者の関係について著書の記述から大幅に省略して述べた。1675年の戦争については、Wikipedia「ワンパノアグ族」の説明では若干違う様子が述べられている。ヨーロッパ人は銃と大砲で先住民を虐殺したように説明している。チャールズ・アン氏の筆はすこし遠慮したのだろうか。
読んだ本:『1491』チャールズ・C・アン著 布施由紀子訳 日本放送出版協会 2007年
(2017/6)