同書より |
そんなところへ著者は旅行してきた、しかも3回も行っている。何をしに行ったのか。あとがきに打ち明けているが新しい翻訳をするにあたって原作者の生地などを見るなど取材が主であった。根っからの旅行好きだから未知の土地を訪れる楽しみのほうが大きかったかもしれない。翻訳を引き受けるためとはいえ、だから自費にした。仕事以外に関心が広がったのが3度にわたった理由だと書いている。著者は英語よりドイツ語のほうが得手であるというが、そのため「追われた人々」についての当時や事後の様子を聞き出す人材に出逢うこともできた。読む側の楽しみとしてはグルメとか景色とかではなく、著者とともに未知に出逢い、歴史の奥に消えた人々の暮らしや、時代の変わり目の出来事に想いを馳せる。筆者がこれまでの迂闊さによって驚かされたことは、ドイツという国は過去に大量の「難民」をつくりだしたことだった。
「国の選別」という言葉遣いが出ている。著者は「おぼつかない東プロシアという消えた『国』のなかに、すこぶる現代的な『国の選別』のヒナ型を見た」と書く。生まれた国と育った国、いまや、人が国を選び、あるいは捨てる。国そのものが人によって選びとられ、また捨てられる。第二次大戦末期に力ずくで国を捨てさせられたとき、千二百万人を超えるドイツ難民が生まれている。シレジア一帯から320万、ズデーテン地方から290万、北西ポーランド一円から300万、東プロシアから200万、その他を合わせるとこういう数字になるのだそうだ。土地、建物、財産すべてを残して出ていかなくてはならなかった。
船の話がある。ヴィルヘルム・グストロフ号、1937年進水の当時世界一の豪華客船。ナチスが労働者階級のため建造した8隻の一つ。安価な海外旅行を宣伝して党員獲得に貢献した。それが1万人にも及ぶ避難民を載せて出港間もなくソ連潜水艦の魚雷に沈められた。1945年1月の事件だった。死者9千人以上と伝えられるが実数は不明だ。グダニスク(当時はダンチッヒ)の港にほうほうの体で殺到した東プロシアのドイツ系住民だった。2千人ほどの被害だったタイタニック号の悲劇を遥かに上回る大惨劇であるにも関わらず事件は長らく秘匿された。大戦中にナチス・ドイツが犯した数々の犯罪のために戦後ドイツが加害者の役割を務めなければならない時期にみずからの被害者の立場を表沙汰にできなかったという事情があった。この事件を題材に取り上げてギュンター・グラスがものしたのが『蟹の横歩き』(2003)、池内さんが翻訳を依頼された作品だった。ギュンター・グラスはダンチッヒの生まれ。
「狼の巣」、ナチス総統部の対ソ連戦作戦本部だ。東プロシアのへそのあたり、と池内さんはいうが現ケントジンという土地。低地らしい。ヒトラーが蚊に悩まされたという話があった。大本営の周りに大きな湖がひろがり、南と北にも沼が点在している。そんな場所の沼や湿地を埋め立てて巨大な地下壕をつくったのだそうだ。目の前のソ連国境に気を取られて事前調査の連中が蚊の存在を忘れていたか。池内さんが見せてもらった写真には見張りの兵士が頭から肩にかけてすっぽりと網をかぶっているのだそうナ。「ヒトラーはしばしば、顔や首すじを襲ってくる蚊をたたきつぶしながら、調査隊の隊長だった人物の名をあげて罵ったという」とある。沼地にはカエルがいる。初夏を待って、何万、何十万と生まれてくる。夜ごとにカエルの大合唱。総統の安眠を図ってか、沼地に石油を注ぎ込んで一挙に退治したことがあった。
『なんというタワケどもだ!』ヒトラーはまっ赤になって怒った。愚かなこと。蛙は毎日、何十匹もの蚊を食べる。何万もの蛙が、どれほど蚊の猛威を防いでいたか気づかなかったのか。ヒトラーはもともと、オーストリアの片田舎に生まれ、そこで育った。蛙が蚊を食べるといった生活上の知識は、貧しい少年時代に仕入れたものにちがいない。琥珀、コハクと読む。’70年代の終り、筆者が初めてハンブルグのデパートをのぞいてみたとき、大してめぼしい品も並んでいない中でひと際目立っていたのが、茶色っぽいガラスのようなものの中に虫などが閉じ込められている石みたいなものがあった。宝石かな、何かな、と考えながらウインドウの中を眺めていた。あとで聞くとそれが琥珀だということを知った。松脂の化石だそうだが、あんまりいい趣味のものではないなぁというのが正直な感想だった。しかしそれがバルト海の特産品で古来非常に珍重されている。ハンブルグで売られているのも意味があったわけだ。宮廷を飾って琥珀の間があったりしながらいつの世にか相当量が行方不明になった宝探しミステリーが紹介されている。
東プロシアの首都ケーニッヒベルクはカントが生まれた町だ。ここに生まれ、ここで育ち、ここで教え、ここで死んだ。この街をほとんど離れず、東プロシアから生涯一歩も出ることなかった。1724年の生まれ、皮革職人の息子だが勉強好きを見込む人がいて、ギムナジウムから大学に進んで数学と哲学を学んだ。図書館司書をしていたところ大学に招かれた。46歳で教授、57歳のときに発表したのが主著の『純粋理性批判』だった。バルト海沿いの辺鄙な町から知識人の目をむくような新しい哲学がヨーロッパの知的世界に送り出された、と池内さんは誇らしげであるように感じる。なんとなく、すみません、と言いたい。あまり縁がないもので。
コペルニクスも東プロシアの人、1473年ドイツ騎士団の町トルン生まれ。歴史に名を残した天文学は趣味だったそうで、行政官だったから各地を転々とした。本業はカトリックの司祭だった。異民族が一緒に住む緩やかな共存体を支えたのは宗教の力が大きかったようだと池内さんは観測する。
ところで、はて「コペルニクス的転回」って何だったろう。思い出せなくてネットで調べたが、地球中心の宇宙像が一般的だった時代に太陽中心だとの見方を主張したのだった。池内さんは、ローマ教会がたまげるような新説だから我が身の死を見極めてから印刷に出したと書く。世俗以上に世俗的な聖職者の世界と正面切って衝突する愚を避けたのだそうで、鮮やかな身の処し方と賞賛する。
また、ネットのWikipediaには、「コペルニクス的転回」はカントが自らのの哲学を評した言葉だったともでている。カントのほうがあとの時代だから、コペルニクスの説をたとえとして説明したわけだろう、なんて言っても中身がわかっているわけではないけども。
余談になるが、地球中心の宇宙像というのは天動説という方が通りがいいかもしれない。ああ、それなら聞いたことがあるという人も多いはずだ。昔話になるけれど、あれは戦後ほどない昭和の頃。『週刊朝日』の「問答有用」で徳川夢声と対談した薬師寺管主橋本凝胤師が天動説を唱えて、その面白さに世間は喝采した。思えば、あれはコペルニクス的逆転回だったわけだ。懐かしくこんなことを思い出して池内さんに申し訳ないが、池内さんもこんな話がお好きなはずだ。
コペルニクスにちなむ天文台のあるアレンシュタインという町を訪れた著者はエールンスト・ヴィーヒェルトという作家の足跡をたしかめたかったのだそうだ。小さな町や村を舞台にした素敵な小説を発表しているというのだが、どうも我が国には翻訳がないようだ。「街の起源は、一頭の豚が逃げ出したのにはじまる」という出だしのある小説、などと書かれると読んでみたいとの願望が湧く。音もなく、ひそかな変動のきざしがこの小さな町にもあった、とその小説の舞台の雰囲気が紹介されているが、東側の話にはよくある空気だ。
権力ゃ政治から遠い高校教師兼作家だったはずだのに、1933年5月、ベルリンのオペラ広場でナチスによる「焚書」があったとき、好ましからざる作家」として、ヴィーヒェルトもまた、トーマス・マンやブレヒトやフロイト、ケストナーなどとともにブラックリストに入れられた。1938年には警察の訊問を受け、ブーヘンヴァルト強制収容所に入れられた。友人たちの奔走で釈放後にスイスへ亡命、1950年、チューリヒで死んだ。続いて短編の紹介と街の様子が詩情豊かに伝えられる。池内さんはエッセイストとしての評価も高い。滋味あふれるという表現が似つかわしい人に思える。こうして日本人の余り知らない土地の知らない様子がいろいろな町について語られている。
普通の日本人は沖縄と満州のほかでは地上戦の恐ろしさを知らない。鉛筆一本で国境が変えられる政治の非情さも知らない。池内さんは巧みな表現で郷愁を帯びる東プロシアという歴史の街の訪問記を提供してくれるが、想像をたくましくすれば、その時人々はどんな状況だったかが読み取れるように書いてくれている。だから繰り返して目を通すごとに新しい光景がみえてくるようだ。手にとる人は多くないかもしれないが貴重な書物だ。
池内 紀『消えた国 追われた人々 東プロシアの旅』2013年 みすず書房刊
追記:エールンスト・ヴィーヒェルトの作品はいくつか翻訳されている。根気よくネットで探せば見つかる。(2017/11)