2019年4月16日火曜日

読書感想 『生きて帰ってきた男』岩波新書 2015年

小熊英二『生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後』岩波新書 2015年。

著者が父謙二氏(以下敬称略)が88歳から89歳にかけての折に、それまでの生涯を聞き取った内容で構成した作品である。本書の副題に「ある日本兵の戦争と戦後」とある。謙二は19歳で徴兵され、20歳からの4年間を捕虜としてシベリアで労働させられた。シベリア抑留という履歴は、引き揚げ間もなく肺結核を招き、5年間の療養生活を強制したばかりでなく、大企業への復職を妨げるという追い打ちをかけた。これが副題の意味である。著者が執筆にあたって企画した前史とでも言うべき部分には、祖父の代に田畑を失って零落した素封家の次男、雄次が明治の新天地、北海道に渡って以来の一家の苦闘の物語が付け加えられた。そこには謙二が生まれる前提として同じように移住して苦労する別の一家の物語が加わる。両家は戦前戦後をつうじて、腕一本で生きるすべを身につけた家長と妻が協働して次代の一家を育んで、謙二の物語につながる。不運続きの人たちだったが、辛くも謙二の後半の人生に陽があたるようになって、読者も救われる。農民、最下級兵士、自営商業という社会の下層から浮かび上がった、平凡な会社勤め人には望むべくもないような筋金入りの男が淡々と生きている情景が描かれて終わる様子は感動的であった。2015年の出版当時お元気な様子だったから、おそらくまだご存命だと思う。書名の「生きて帰ってきた男」には、続けて「~は、このように生きているぞ」と付け加えたい。
著者は生活史、社会史だけでなく、折々の時代について、社会制度、政策、統計的データなどを挟み込んでくれている。ときに著者の主観的な色合いも感じられるが、読者にとってよく理解できてありがたい。語り部が左右の政治色に染まらず、自分ながらの考え方を主張できる能力を持っているのは聞き取り作品にとって貴重であった。逆に、訊かれなければ何も言わないタイプの人物であるかも知れない。やはり聞き手あっての聞き取りだろう。
読後感をなんとか書こうとしたが、感情移入が強くなって手に余った。参考にあたってみたネット上の文章では、図書新聞の「すすむA」氏の評が、一部知らないことが述べられてあるが、概ね自分のと似ていると感じたので、URLを記しておく。http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=457
この評者は最後に「血縁意識」が厚いことを書いている。雄次の死の2年前、不自由な体の居場所を定めてくれようとする兄妹たちの段取りの中で、山形にいる謙二の異母姉のもとに預けられることになる。その異母姉とは雄次が先妻に死なれて、店も焼け、網走で再起するために旅館の主人の世話で里子に出した下の娘だ。乳飲み子だった娘が50年の歳月をおいて引きとりを申し出てくれた。「当時は親を大事にする結びつきは強かった」と著者が書き加えているから、50年の空白があったと推察できる。ここまで読んできて筆者は娘さんたちの真情に打たれた。雄次はこのあと静岡にいる上の娘さんのもとで79歳の生を終えた。
最終章にでている中国籍朝鮮人元日本兵の日本政府への補償要求裁判で共同原告になった行為は誰にでもできることではない。この意味で謙二は普通の人ではない、変わり者だ。ただ、謙二が法廷で読み上げた「意見陳述書」は自分の言葉で綴られているだけに素直に気持ちが理解できる。全面的に同感である。陳述書を裁判官たちの前で読み上げたことについての謙二の言葉が記録されている。
勝つとも思えなかったが、口頭弁論で20分使えるというので、言いたいことを言ってやった。むだな戦争に駆り出されて、むだな労役に就かされて、たくさんの仲間が死んだ。父も、おじいさんも、おばあさんも、戦争で老後のための財産が全部なくなり、さんざん苦労させられた。あんなことを裁判官にむかって言っても、むだかもしれないけれど、とにかく言いたいことを言ってやった
そのとおりだ。法律論議はさておいても、これを国に言いたかったのだ。謙二氏が生きた時代の9割ほどを筆者も生きてきた。おじいさん、おばあさんの有り様も実によく似ている。半ば自分のことのように感じながら読ませてもらった。(2019/4)

2019年4月8日月曜日

旅の便りから

ファイルの整理中、懐かしい記事が出てきたので載せることにした。元の日付は2007年12月1日となっています。
ベルギーの蠅 
この秋グループ・ツアーに参加してベルギーに行って来ました。バスでの移動が長時間になるときには途中で休憩があります。いわゆるトイレ休憩です。 あるガソリン・スタンドで休憩したとき、男子用の小便器で発見をしました。清潔なトイレで不快な匂いもほとんどしま せん。用を足そうとしてふと便器を覗き込むと蝿が一匹止まっています。こちらが行動を起こしても動かない、よく見ると それは絵でした。タイルか陶器か材質は確かめませんでしたが、要するに便器に印刷してあるのです。ずらりと並んだど の便器にも大きめの黒い蝿が一匹ずつ描いてあります。ここに披露するのは 少々不躾ですが写真を撮ってあるのでご紹介します。百聞は一見にしかず。 同行の人も「面白いですねぇ」「アイデアがいいなぁ」と感心して います。


そのあとベルギーのほかの場所でも見た記憶があります。 帰宅して写真の整理の必要上いろいろな人のブログも参考にしたりしますが、 ドイツやオランダの話としてこのトイレの蝿が登場します。発祥の地はアムステ ルダムのスキポール空港だとも書いてあります。理由や目的を煎じ詰めると清 潔に保つための工夫であると、つまりこの蝿を標的にすれば便器の外にこぼさ ないからだというのです。 
ヨーロッパやイギリスの街を歩いて感じるのは、白人たちの足が長いことです。腰がかなり上についています。そして、その せいであることが歴然としているのが男性トイレの小便器の高さです。短足の日本人観光客はたいてい多少は苦労し て用を足しているはずです。このことを考えると、ようやくの思いでたどり着いたトイレで勢いよく放出したとき、高い位置 からなら思わず狙いをはずしてしまうことも十分ありえます。ようやっとの思いで漏斗の中に落とし込む態の日本人には あまり生じない現象でありましょう。
さて、便器に蝿の絵がある理由は分かったとして、トイレに蝿がいることから人はどんなことを連想するでしょうか。蝿 は汚いもの、汚いところにいる虫、便所には蝿がいるなど日本人ならたいてい刷り込まれた感覚です。ですからオランダ やベルギーのように、清潔を保持するために蝿を利用するなどとは考え付かないでしょう。
一見ユーモアがあるように見える便器の蝿の絵ですが、清潔を保つためという目的とは何かちぐはぐな感じがします。ト イレには蝿がいるものという常識がかの国々の人々にもあったがために生まれた発想ということも考えられます。そうであ れば、便器に蝿の絵があることは不快な思いをする人もいるかもしれません。いったいどういうことであのような絵が描か れることになったのか、ちょっと興味深い現象ではあります。 かつては往来に各自の家の屎尿をぶちまけて過ごしていた人たち、糞だらけのぬかるみを歩くことからハイヒールの発 想が生まれたとか、そのままの靴で家に入ってベッドに入るまで靴は脱がないなどなど。きっと彼らは四六時中蝿と共 存していたに違いない。臭気芬芬のパリから逃げ出したのはどの皇帝でしたっけ。モンテーニュにもパリの臭気に触れた 文章があるようです。ま、こんなことをも考えながらこの秋の旅行を思い出しています。 
ゲントのからし(mustard)
ベルギーのゲントという町でマスタード(西洋からし)を 買いました。ベルギーで 17 年生活している日本人女 性のガイドさんがその町の名品として教えてくれたのです。教わらなければ営業しているかどうかも分からないような店で す。もっともそれは当日に限って店の表を工事していたからのようです。あとでインターネットで探してみると表に向けて 商品も陳列してあるし、古風なサインも軒を飾っています。


店の名は Yve Tierenteyn Yerlent 、どう読むのか分かりません。現在は 1890 年から2代目の家が継いでいるそうで す。 からしは 1 種類だけ、瓶の大きさを指定するとマダムが奥にある樽から掬って 詰めてくれます。つまり量り売りです。本来は陶器に紺青の絵と店名が入った容 器に入れてコルクで栓をするのですが、飛行機の荷物室では気圧が変化する ため栓が抜けて漏れ出してしまいます。ですからマダムは私たちにははじめから 瓶のサイズを選ぶように言ったようです。トロ~っと流れる程度のやわらかさです。 保存は冷蔵庫でするように注意してくれました。
無事に持ち帰って、味わいながらつくづくと瓶を眺めました。ラベルには店の名と 住所とロゴが白地に黒く印刷してあって、1790年とありますから200年を超す老舗ということになります。日本なら寛政 2 年創業というところです。ゲントの 1790 年はフランス革命の翌年で、ナポレオンがこ のあたりを占領したといいます。つまりフランス領になったわけです。それまではハプスブ ルグ家のネーデルランドでした。ですから瓶のラベルの書体はオーストリア風の書体が 使われているそうです。製法は当時のままだそうですが、ナポレオンの侵入とともに兵 隊が製法を伝えたとも、あるいはマスタードで名高いフランスのディジョン(Dijon)で働 いていた当地の住民が持ち帰ったとも、店の創始についてはいくつか説があるらしいで す。店のロゴになっている日本の花王のマークのような顔についていわれを知りたいのですが、まだ分かりません。
さて、近頃日本では消費期限や賞味期限の表示について規則違反がさかんに咎め立てされていますが、ゲントの からしの瓶には「Keep Cool」とタイプされた手作り紙片が張ってあるだけです。これはもちろん観光客向けの保存につ いての助言であって日本のような法律とは違うようです。ゲントの店では週に 2 回造りこむことになっているので、いつも 製造後 3 日以内の製品を売っています。冷蔵庫で保管して 3 ヶ月日持ちするとはニューヨーク・タイムズのサイトで得 た情報ですが、こういう商品は地元では銘々自分の舌で味を確かめながら消費するのですから、政府による取り決め に頼る必要はないのが当然でしょう。 日本で問題になった伊勢の「赤福」や崎陽軒のシューマイなどの表示違反は規則あるがための違反であって、品物 を賞味する上ではなんら問題にする必要はないと思うのですがどうでしょうか。生ものにカビが生えるとかした場合に、 食べてよいか悪いかなどは本来買い手が判断すべきことでしょう。まして材料の表示順など賞味することとは無関係な ことではないでしょうか。 ただ、ゲントのマスタードは世界中でここでしか買えない商品で、卸はおろか出店もしない、まさに売り手も買い手も 良識と常識で長く続いている店という思いがします。 
オランダ語のメニュー
ブルージュの街では昼食を各自で摂る事になっていました。そ の前にレースの店を探したりしていたために 1 時半近くになって しまいました。日本語のメニューもあると教わっていたあたりの店は早くも掃除など始めたので、広場から少し離れた、 一日中やっている風情の店に入ってみました。ベルギーはどこでもオランダ語(このあたりのはフラマン語と呼ばれます)、 フランス語だけでなく英語も通用すると聞いていたので、言葉の障害など忘れていたのですが、メニューを見てギョッ! オランダ語しか書いてないのです。ありゃ困ったなぁと思いながら、じっと読めない文字面を眺めていると、オムレツが読め た。しめしめこれにしよう、何のオムレツだかが次に書いてある。トマトが読めた。妻はすかさずそれにすると言います。そ れじゃぁ、自分は読めないヤツをと思って Kaasとあるのを頼んでみたら、若いウエイター君はチーズだねと念を押してくれ ました。そうだ、カースだよなんて分かった振りして注文したのでした。内心では、そうかカースがチーズかとほっとしました。 その前にビールを頼んだのでしたが、銘柄も知らないし、量は 20 とか 40 とか数字があるだけ、身振り手振りで小ジョッ キぐらいのをもらって正解でしたが、ウエイターも必死で緊張しています。はじめメニューをもらったあたりで隣の席のばあ 様がウエイターにパトリックと呼びかけていたのを聞いていたので、まずビールを持ってきたときにサンキュー、パトリックとや ってみました。彼一瞬ビックリしてこっちの顔をまじまじと見つめてから、ああ、隣の伯母さんのを聞いたのかと、とたんにニ コニコ顔になって、さっきまでの緊張はどこへやら、うまいか、とか何とかいっぺんに親しくなったのは面白い経験でした。 
(2019/4)


2019年4月1日月曜日

国中平野ーー奈良盆地のこと

地域を指す言いかたにくんなかというのがあちこちの地方にある。文字に書くと国中または国仲であるが、もともとは口頭語のようだ。盆地をいう言葉だ。精神医学の中井久夫氏の文章に教わったのは奈良盆地についてである。生まれ故郷の奈良には、盆地の周辺部ばかりに遺跡があって、平野部にはほとんど見るべきものがないのを不思議に思ったとある。この平野部を氏は国中平野(くんなかへいや)とよぶ。
元来の「倭(やまと)」は磯城郡のあたりだけである。「東の野にかぎろいの立つ見えて……」というあのあたりを倭といい、国中平野は「大倭(おおやまと)」と言っていた。オオヤマトに「大和」の字を当てていたのが、そのうち全体としてのヤマトを指すようになった。大和神社だけはいまだにオオヤマト神社と呼んでいる(あそこは元来国津神である。つまりこの地域の神様だったものである。明治維新の時に祭神をかえさせられたのである)。[…]当時の支配者は奈良の南東部を中心、平野部を辺境と考えていたと推定してよかろう。[…]国中平野は辺境のまた辺境ということになる。
なぜ国中平野がそのように辺境とされたか、それには自然的理由があるだろうと氏は推定されている。初瀬川、竜田川が合流して大和川になるあたりはもともと湿地帯でマラリアがはびこっていたはずである。琵琶湖南部には20世紀後半までマラリアが残っていたくらいで、一般に日本の低湿地にはマラリアがあったと考えてよい。イタリアやネパールの村が丘の上にあるのは谷のマラリアを避けてのことである、と述べられてある。 私は以前、貧しい人は低地に住み、富裕階級は高地に住むと考えて、これは世界共通の傾向だろうと思っていた。私はその理由について深くは考えず、せいぜい日当たりや見晴らし、水はけ程度にしか思っていなかったが、中井氏は医学者らしくマラリアを持ち出されたので、私説にも一つの根拠ができた。 ここに引用した文章はあるシンポジウムでの発言に手を加えたものでごく軽いものである。私はそこから自分の関心を惹くことを拾っている。 

京都に都が移ったあとの奈良盆地は寺の荘園が多く、大名は出なかった。武士の侵入を防ぐための環濠集落が発展した。江戸時代には篤農・豪農から商業との結びつきが生まれた。ここでは換金作物を栽培することから商業がでてきたように書かれていてなるほどと思った。製薬会社はほとんど全部が当麻寺の荘園だった村の出身だと書かれているのは面白い。宋の国定処方薬をお坊さんに読ませてそこの百姓に薬草をつくらせ、百姓はそれを担いで堺へ売りに出た。やがて境に店を持ち、これが大阪の道修町に移される、とあった。薬屋ではないが社会人第一歩が道修町に始まった私にはその名が懐かしい。

氏は奈良盆地の東の山地から天理教の中山みき、平野部から中村直三が出たことに着目する。私はよく知らないが後者は篤農の農業指導者らしい。そして前者は世直し型、後者を立て直し型の指導者としてみればどうだろうか、といったていの考えを述べる。結論は立て直し型は盆地の考え方であったとする。盆地の中の平野部には水害が多いが、人々はそれにめげずに懸命に復興に励む。三年も頑張れば立ち直る、その繰り返しであると。地域の特徴をいえば河川下流の扇状地だ。酒匂川の扇状地で名を成した二宮尊徳を例に引いている。 盆地に育った考え方は元のように復興することを目標に頑張ってやり遂げるものの、出来上がったその先を考えないのだという。

こういう話から発展して、海に囲まれた日本も盆地のようなものだと考える。海という防壁がなくなった時のことを考えようとしないのではないかと危ぶむ。氏は別にこういうことを主張して一家の説を立てようというのではなく、精神のあり方を考えていて思いついたようだ。この考えを述べようとする際に、氏は「日本人は辺地に共振する」と書いた。共振とはどういう意味であるかの説明はない。何か精神的な影響を意味されたのだろうと想像する。心を寄せるとか離れがたい思いがするとかを考えてみれば、氏の意味されるところがわかるようにも思える。このように考えると辺地に住まう人々にとってそこはひとりでにフルサトになるであろう。「やまとはくにのまほろば」という表現に通じることになるのでなかろうか。「まほろば」は「すぐれたところ」を意味する古語である.

それはそれとして、平野部が湿地帯であったという話は古代の大和湖という淡水湖の存在につながることがわかった。これは中井氏の話と関係はない。いまわかっている大和湖の規模はそっくり国中平野に重なるだけでなく、探求家によれば地名などから古代日本人と中央アジアのつながりが考えられている。こういう話は証拠になる文物がないために学術的には問題にされないけれども夢がある。
 読んだ本:中井久夫『時のしずく』みすず書房(2005)所収、Ⅲ 「山と平野のはざま」(1995)より。

(2019/4)