2016年3月28日月曜日

思い出す歌など

「お山の杉の子」という歌、はて、これは童謡か、唱歌か、なんて考えてると、少国民愛唱歌と分類されていた。『戦争が遺した歌【歌が明かす戦争の背景】』長田暁二著 全音楽譜出版社 2015年、という本でのこと。敗戦直後だったような戦時中だったような、時期に微妙な記憶のある歌。
著者の説明では昭和19年に募集した懸賞に応募された作品の中からサトーハチロー氏がいいバラードになると採り上げて補作したのが大東亜戦争最後の子供向けレコードになった。作曲はコロンビアの佐々木すぐる。ビクターの中山晋平と競作になったあげく、佐々木作が明るく積極的で子どもを湧き立たせるとして決まった。

安西愛子の歌唱指導でラジオで盛んに放送された。「NHKうたのおばさん」で有名になった安西さんの「杉の子こども会」の名前は「お山の杉の子」と杉並区にあることにかけたのかなと想像する。
ともかく「お山の杉の子」は大ヒットだったのだろうと思う。戦後になると進駐軍GHQのお達しで歌詞が戦意高揚的として禁止された。こんないい歌をもったいないとサトーハチロー氏に改作を頼んで三番以下がいまの歌詞になってようやく許可になったらしい。再版の時期は明示されていない。

歌詞の全部は覚えていないがメロディーはいつでも頭に浮かんでくる。出だしの「椎ノ木ばやし」を 「檜ばやし」と覚えていたが違っていた。「お日様ニコニコ声かけた、声かけた」を「肥(こえ)かけた」とはやして、ワー、クサァッ、たまらんなーと笑ったのを鮮明に覚えている。わが家は和歌山人だから「こえ」といえば「しもごえ(下肥)」だったのだ。汲み取りの時代だ。時期が微妙に違う記憶はどちらも正しかったのでした。
いまどき杉のお山は花粉のもととして嫌われそうだが、この歌を戦禍を忘れないためにカラオケで歌ってると投稿している年配者もいる。 

「汽車 汽車 ポッポ ポッポ」の「汽車ポッポ」は、もと「兵隊さんの汽車」(昭和15年)という題だったそうだ。富士山麓は陸軍の演習場だったために御殿場駅は明治43(1910)年には全国でも珍しい軍隊ホームになり、毎日のように戦車や大砲が貨物列車で搬入されたそうだ。昭和12(1937)年になると支那事変が始まったので兵隊を満載した列車が毎日のように御殿場駅を通過した。当時の兵隊輸送は東海道でなく御殿場線回りだったという。この出征風景を題材にして小学校の先生で詩人の富原薫が詞を書いた。

昭和20年12月31日、「NHK紅白音楽試合」で川田正子が歌うのに戦時用の歌詞では使えないから、4日前になって急遽、富原に改作を頼んだ。放送に間に合った歌詞は車中で汽車を見てはしゃぐ子どもの光景がイメージだそうだ。旧作の「兵隊さんを乗せて・・・」を覚えているが、今の歌詞のほうが明るくていい、嬉しくなってくるような調子だ。作曲の草川信の前奏はシューベルトの「軍隊行進曲」にヒントを得たとあるが、シューベルトのメロディはすぐ出て来ても、汽車ポッポの前奏は記憶に無い。今更聞いてみたとて今の私の壊れた耳ではなぁ。シュッポ シュッポの蒸気機関車は時折汽車キチ、カメキチのためだけにしか走らないようになってしまった。

ついでながら、紅白音楽試合というのは非公開だったそうで、わが家はまだ疎開先の間借り生活で、ラジオは大家さんのうちにしかなかったから聞くことはなかった。水の江滝子と古川ロッパが司会だというから古いねぇ。大晦日の現在形式は5年後から定着したらしい。当時の放送リストを見ると、確かに川田正子「汽車ポッポ」と出ている。

草川信は「夕焼けこやけ」「ゆりかごの歌」などの作曲者。長野県松代の同郷の弟子、海沼実は音羽に児童合唱団「音羽ゆりかご会」をつくった。「お山の杉の子」を思い出していた時、同時に浮かんだのは『鐘の鳴る丘』(放送ドラマ、昭和22年)である。主題歌も同じ名前と思っていたが、「とんがり帽子」が正しいそうだ。とにかく毎日夕方どこからともなくこの歌が聞こえてきた。中学3年だったが当時住んでいた家の構造から記憶をたどれば、午後5時過ぎの自分の居場所にはラジオがなかった。しかしあの声は川田正子だったのだ。「かもめの水兵さん」もそうだったと考えたが、調べると、こちらは河村順子だ。まぁどちらも似たような声だからごっちゃになっても仕方ない。川田は昭和21年の「みかんの花咲く丘」がヒット、翌年の「とんがり帽子」も大はやりで大スターだったが、声変わりで進学してから指導者になったそうだ。
「汽車ポッポ」が脱線してしまった、『鐘の鳴る丘』が今でも敗戦直後の空気を運んでくるような気がするもんで。

『戦争が遺した歌』には253曲収録されているそうだ。無責任なようだが数えるのは大変だから二つほど新聞書評で確認した。

「雪の進軍」という歌、第一章 維新より日清戦争(1865~1895)の章分けに入っている。わが家にあった、というより子ども、つまり私のレコードだ。キングレコード、青いレーベルのように覚えているがどうだろう。ネットで画像を当たると、黒いニットー・レーベルだ。日東蓄音器株式会社。陸軍戸山学校軍楽隊とあるぞ。そうだ男声合唱だったから、これかもしれない。キングが青色という記憶は間違ってなかったけれど。それにしてもこの子ども、昭和生まれのつもりだが、明治の教育を受けていたみたいな気がした。日清戦争の歌があてがわれていたなんて。ま、兵隊さんだって明治38年製の鉄砲を持たされていたんだからな。それでアメリカの自動小銃に勝つ気だったのだ。

レコードが歌詞2行目の「どこが河やら道さえ知れずぅ~う」というところにくると、いつも母が字余りだねぇと言って笑っていた。「ずぅ~う」と書いたのは「ず」のあとひっぱる音だけが上がって詞がないのだ。
作詞・作曲とも永井建子(けんし)。明治28年1月、日清戦争の威海衛作戦に従軍した軍楽隊員、永井が見たままの姿をつぶさに描いた作品。四七抜きでなくファ音を使ってモダンな感じになっていると著者長田氏の解説。

四番の末尾に、もとは「どうせ生かしちゃ 還さぬつもり」とあったのを支那事変勃発直後に、皇軍兵士の思想にそぐわぬと「どうせ生きては 還らぬつもり」と自意識を持たせるとして変えさせたり、太平洋戦争突入後には「兵隊の絶望的な気分がみなぎっているので士気が沮喪する」として歌唱禁止にしたと書いてある。けれども、歌の現場に居たことのある大山巌大将はこの歌を愛好し、臨終には枕元に蓄音機を置かせて聞き入ったとの噂があるそうだ。昭和と明治の違いだと長田氏の言。

新知識を得た。
「義理にからめた恤兵真綿」と四番にあるが、これは慰問袋の中身のことだ。恤兵は軍隊で常用の言葉で金銭や品物を贈って兵隊を慰問することをいう。長田氏の解説によれば、北部戦線ではウサギの毛皮や綿でこしらえた防寒用具がとても喜ばれた、とあって唱歌「故郷」の歌詞に話が及ぶ。
「兎追いしかの山・・・」という歌詞について、恤兵用にマントを贈るため、兎を麓から山の頂上へ追いつめて銃で撃ち殺し、毛皮を剥ぎとったことを詠んだのが本来の意味だったと。

あらぁ、それでは兎が可哀想と、それと知らずにただ安易にフルサトという言葉が持つ情緒に流されて、やれ福島だの東北だのと幾度も幾度も歌った人で戸惑う人がいるかもしれない。
兎を追うというのは、本来は捕まえて食用にするとか毛皮を取るとかの狩猟でしょう。軍の要請であれば猟師は毛皮を求めたことは、おおいにあり得ることだと思う。昔は軍隊用に犬の毛皮の話もあったそうだから。遊びじゃないのだ。雪の東北でも兎狩りはあっただろう。それが故郷なのだ。
長田氏はきちんと意味を伝えてくれたのだと思う。

気ままに読み散らかしているが800ページに及ぶこの書物。ただ単に歌を集めて懐かしむだけではもったいない。歌は世につれ・・・というではないか、必ず歌にはその時代の風景が詠み込まれている。こころしてページを繰ろう。(2016/3)

2016年3月1日火曜日

宮沢賢治「なめとこ山の熊」

マタギのことが新聞に出ていた(朝日新聞夕刊2016年2月19日)。記事は連載物で「煮込みをたどって」というタイトル、全国各地の煮込み料理を紹介するのが主題である。秋田地方のクマ鍋の紹介がマタギ料理として出ていた。クマ鍋には関心はわかなかったが、マタギの家族が経営する旅館で提供されたということが耳新しく、現代のマタギ像を思わせる。マタギの存在は古くから知られているが、いまなおそういう人達がいるのは何とも不思議な感じがした。記事は秋田県阿仁集落で取材、いまは北秋田市だなどといわれると話の身も蓋もないような気もするが、いまも山深い処であることには変わりなさそうだ。
 外はしんしんと雪が降っている。宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」を思い出した。猟師の小(こ)十郎は熊にむかって言っていた。 「てめえも熊に生まれたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ」 生きるため、あるいは身を守るため、殺し、殺される関係にもなるが、人とクマは自然界の中で共存してきた。神が住まう山から命を頂くという崇高な意味を、クマ鍋から考えさせられる。
このような文章で記事は結ばれている。

「なめとこ山の熊」は自然の中で熊と人間が生きるか死ぬか、あるいは文字通り、食うか食われるかの境界にいる存在として描かれ、猟師小十郎も自然と一体化して熊の言葉がわかるようになっている。熊を殺すことによって辛うじて生業が立っている小十郎にたいして、ある熊は2年間の猶予を願い出て、約束通りの期限に小十郎の眼前で自死する。小十郎の最後は老いを感じながらも出かけた日、撃ちそこなった熊に倒されて死ぬ。冬の星空の下で凍った小十郎の死体を囲んで熊たちがじっと弔いでもするかのように座っている。頭上に天空が回って時が過ぎゆく情景を写して物語は終わる。
ありえないことだと思いながらもなにか心に響く物語である。

小森陽一氏の講義によれば小十郎が追い込まれている生計の困難が拠ってきた社会の構造的な問題や経済の理屈、果ては鉄砲にまつわる日本のみならず世界的な変動など物質的な人間の歴史と、星にまつわる思想的、宗教的な東西の哲学的思考にまで話が及ぶ。話が広がりすぎてせっかくの幻想的な童話から得た感動が乱されてしまう感じがするが、嘘が語られているわけではない、すべて人間の歴史の真実である。そのことはさておいて、新聞を読んだ時の感想に戻る。

旅館の主人はこの地で代々続くマタギ一家の跡取りの松橋利彦さん(52)と紹介されている。マタギは狩猟民とされるが、それだけではなく、「乱獲を防ぎ、どんな恵みも一番役に立つときだけいただくという神との契約を何百年も守ってきた」伝統のある人達との説明もある。
一方の「なめとこ山の熊」に登場する小十郎はマタギとは書かれていないが、描かれた様子からはマタギであろうと思う。作品の初出は1934(昭和九)年であるが、研究者によると、執筆は1927(昭和二)年とされている。物語の背景時代は大正の頃かと思われる。

ネットでWikipediaを参照すると、小十郎のモデルは、賢治が農林学校時代に跋渉した実在の「なめとこ山」を含む花巻地方で唯一マタギの家であった松橋和三郎(1852 - 1930)とその息子勝治(1893 - 1968)であるという説が紹介されている。たまたま新聞に紹介された旅館の主人が同姓だということかもしれない。ただしモデルがあったということで、童話に登場する人物がその人というわけではない。

小十郎の生業は熊の毛皮と熊の胆を町の荒物屋に売って僅かな現金を手に入れるために熊を撃つ猟師だ。強欲な荒物屋の主人は足元を見透かして買い叩く。高価な熊の胆を使うこともできないで息子夫婦を赤痢で死なせた。僅かにヒエがとれるだけの土地も、山仕事をする入会地も政府施策に奪われてしまった。九十歳になる老母と小さな孫二人を抱えながら心ならずも猟師をしている。熊を殺すのは嫌だ。心の中では済まないと思いながらも、他に暮らしの途がない。毛皮と胆が売れなければ一家が飢えるのだ。だから物語の最後に小十郎の凍った死体を前にして、たくさん輪になった熊たちがひれふして小十郎を悼む場が設定されてはいても、読者は残された老母と二人の孫はどうなるのだろうと気になる。気になったところでどうしようもなく最期を想像するだけ辛い。

これが小十郎というマタギの暮らしだとすれば、旅館を営んで観光客にクマ鍋を提供する現代のマタギとは随分な差があると感じる。営利の方策も確立され、冷凍のクマ肉は「道の駅」でも売られ、毛皮と熊の胆の販路も入札で決められるという。「自然から命をいただく」という言葉だけは同じだが格段の差がある。その格差の大きさに驚くが、童話による感動に引きずられて小十郎への愛惜と旅館経営のマタギを比べるのは意味がない。時代の差もさることながら、そもそも小十郎は創作された人物像なのだ。近代化の矛盾を浮き出させるためにその暮らし向きが作られたきらいもある。元はマタギではないかもしれない。物語は事実と架空がない混ぜになっている。このとおり気の毒な境遇にあった人たちも居ただろうから、冷たく読み捨てるわけにもいくまい。
童話は童話としてその詩や幻想を愉しめばよい。話の端々から日本の近代化の裏にある矛盾を理解するのもいいだろうが、小森氏の講義に引きずられないように読む方がいい。

「なめとこ山の熊」にも賢治童話に特有の星空の描写があり、二十八宿の一、胃宿が出てくる。「胃」には「コキエ」とヨミガナがふってあるが、これは和名だそうで穀物を貯蔵する倉庫の意だという解説があった。熊の胆の「イ」という音にかけてクマたちと小十郎をつなぐ象徴としてあるのだと思うが、ならば和名で出す意図がわからない。花巻辺ではそのように呼んでいたということだろうと思う。賢治の星好きには困らされる。「なめとこ山の熊」は青空文庫で読んだ。(2016/3)