2020年9月20日日曜日

随想 戦争判断と昭和天皇

 天皇が戦争を続けるか、やめるかを決める基準は何であったか。国民の死亡や被害の規模ではなく、皇統が絶えるか続くかにあった。先の大戦でサイパンが軍民ともに全滅し、沖縄も全島が戦場になって人間の居場所がなくなっても止めるとは言わなかった。米軍が伊勢湾に上陸したらとの仮定に思いを致したとき、伊勢神宮と熱田神宮の神器が失われる怖れを感じて戦の負けを悟っておののいた。

天皇が憲法に定められたように輔弼によって上奏された案件をそのまま認める形式的な手順を破って反対することはできないことではなかったはず。昭和天皇は頑なに憲法にとらわれた、これを遵守したというのであるが、嫌ならいやと意思をむき出しにして独裁者として振る舞えないこともなかったろう。憲法上は天皇主権だったのである。

1940(昭和16)年9月6日の御前会議、米国に対して外交交渉を続けて和平の道を探る案と開戦準備に取り掛かる案のいずれをとるかが主題であったが、永野・杉山両統帥部長の「帝国国策遂行要領案」について、天皇の意を汲む形で、枢密院議長原嘉道が戦争が主で外交が従であるかのようだが、と質問したのに対して両統帥部長は答えなかった。天皇は発言しないのが御前会議の決まったパターンだったと田原は書く。なおも天皇は説明を求めていたようだったが、両統帥部長は黙っていた。すると天皇は、それまでの慣例を破って、「両統帥部長が何ら答えないのは甚だ遺憾である」と発言し、明治天皇が日露戦争開戦を決めた御前会議で詠んだ歌、「四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」を詠み上げた。次いで「朕は常にこの御製を拝誦して大帝の平和愛好の精神を紹述せんと努めているのだ」と述べて日米開戦に反対の意思を示した。その結果、両統帥部長が詫びて、会議はあらためて允裁を仰ぐべしと決まった。会議の後、天皇は木戸を呼び、統帥部に外交工作に協力させよと求めた。

会議に同席していた近衛首相や木戸内大臣が、天皇の意志がわかっていながら、なぜ開戦に反対しなかったのか。

その理由について木戸内大臣は、天皇は憲法上は主権者であっても、「最高権力者」ではなく、御前会議とは統帥部が決めた筋書きを天皇の前で形式的に論議してみせる儀式に過ぎなかった。天皇は反対意思を表示できないのだと説明している。儀式に過ぎなかった御前会議の決定を天皇が覆した唯一の例外は「終戦の聖断」であった。木戸によれば、この聖断も天皇は「誤った」つまり「やり過ぎ」だったと後に捉えていたという。筆者はここに引っかかる。

この御前会議の時期にあっては、ワシントン在の日本大使あての電報はすべて米国に解読されていたが、米国はそしらぬフリで交渉破綻の時を待っていた。日本の開戦路線は変わらないままに、近衛に代わって東条が大命を受けて首相になる。その前に御前会議の結論を覆して平和路線に戻れるのは皇室関係者のほかなしとして東久邇宮を首相にする案が東条陸相から出されたが昭和天皇は拒否した。

木戸と天皇の言葉を辿ると、国の命運が懸かっているいわば非常(のとき)には皇族が直接責任を負う地位には就くべきでない、つまり国家の命運よりも「万世一系の皇室」を傷つけない方が大事だと考えていた。木戸や天皇は、日本が負ける場合のことを想定していて、敗戦の責任を負わされて皇室が崩壊することを何よりも恐れたということになる。

天皇の意思を絶対と受け止めて遂行できる人物は東条が最適だとして木戸が推したことになっているが、実は天皇の意志でなかったろうかと田原は疑う。東条を信頼することでは天皇以上の人はいなかったと後々判明する。

最終的に11月5日の御前会議で開戦路線は変わらず、12月8日の開戦をみることになる。この間、9月の会議の結論に反対した「聖慮」を活かす努力をしたが、対米交渉や陸海軍の意向、さらに国内世情の動静から東条はやむなく天皇に開戦を報告する。このとき天皇の面前で東条は大泣きに泣いたそうだ。天皇は報告に反対しなかった。

日米開戦に至った道筋は、戦後75年のあいだに検討された巷間多数の論考と田原の論述はほぼ同様であるが、田原は開戦に至るまでの時期における世論を要因として重要視している。戦時態勢下にあって日々困難を強いられる物資欠乏など生活の窮屈さをつうじて米英敵視と、皇紀2600年を寿ぐ皇室尊重は幕末の尊皇攘夷をも思わせるような世論の盛り上がりがあった。米英撃滅のスローガンも勇ましく日々の新聞も事態の切迫を報じていたことについては当時のメディアもおおいに責任がある。

1990年末、世上を賑わせた『昭和天皇独白録』は東京裁判で天皇を訴追させなくする目的があったが、そのなかでも開戦を決定した御前会議の運営に、天皇は敗戦を見越した場合、皇室が国民の怨嗟の的になると国体が危うくなることを考慮したとある。この国民の怨嗟の的という場合の国民、平たい言い方をすれば普段あまり物事を考えない一般庶民が暴動を起こし内乱状態になるということを空想し仮想し恐れるのは近衛公爵の言葉にも記録されているが、貴族や上層階層の通念でもあったようだ。上下の秩序を重視した戦前の教育勅語の主旨もここにあった。陸軍を抑えているはずの東條でさえ、開戦を抑えてしまえば主戦派の中堅将校連が反乱を起こし国内は手のつけられない内戦状態になると予想していた。

あとがきに田原はいう。「そして何より、あの戦争が始まった原因は軍部の暴走ではなく、世論迎合だった。なぜ、戦後われら日本人は戦争責任を曖昧にしてきたのか。この間、いろいろいわれてきたが、この作業をやってきて、わたしは、はっきりそれを理解した。」なるほど、国民のみんなに責任があるから、だれもが言い出せずに、万事進駐軍に任せておしまいにした。

筆者はこの最終場面の御前会議にいたるまでの間に密かに検討された日米間の物量比較に基づく戦争能力研究を復習した。かつての猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』 を思い出し、今回は「2020年新版」を中公文庫のキンドル版で読んだ。まことにあの戦争のバカバカしさが肚にしみる。

『日本の戦争』は『SAPIO』1998年7月22日号~2000年10月25日号連載が初出であるが、内容は今も新しい。明治維新の富国強兵から八紘一宇の大東亜戦争までを7章に分けて、それぞれに疑問を立て、おおよそ150年間の日本を簡略にまとめながら語ってくれている。近頃のテレビ出演での語り口はやや言語不明瞭のきらいがあるものの、文字の上では健在である。知らないことがたくさんある、ものごとは疑ってかかれ、ジャーナリストだという。田原氏は筆者と1歳違い、学年で1年の違い、物の見方考え方がよく似ている。同類の感じがして、ふだんはこの人の著作は読まないが、たまたま本棚の奥に眠っていた一冊、最近は文庫版になっている。読んだのは、2001年第4刷、小学館出版である。(2020/9)