2018年5月26日土曜日

読書随想 辻邦生『嵯峨野明月記』

辻邦生の作品をこれまで読んだことがない。いつぞや新聞に水村美苗氏と往復する手紙形式の連載でなにか書かれていたのを記憶しているが、なんとなく堅苦しそうで敬遠していたきらいはある。気がつけば心臓の病で急逝されていた。それもすでに20年ほど前のことだった。それが今頃どうして、と言えば、先日読んだ柳広司の『風神雷神』に案内されたからだ。絵とか書とかの才能に欠ける自分から遥か遠くにある美術の世界、そしてその時代背景の様々という題材がわたしの好みなのです。インターネットで作品を見たり用語を調べたりしているうちに辻氏の『嵯峨野明月記』の存在が知れた。
読まず嫌いだった文章は読んでみるとわかりやすく、事柄の中身も面白くて存分に楽しめた。
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」より(重文)
本阿弥光悦、俵屋宗達、角倉与一(素庵)*がそれぞれ一の声が私、二の声がおれ、三の声がわたしとして一人語りに物語る筋の運びが改行のない文章に綴られる。各節に古めかしい表現で題がつけられている。この雰囲気、モデルは何だったろう。どこかで見た気がするが思い出せない。三者の協働が嵯峨本、またの名、光悦本とよばれる製本美術に凝集する話は先に柳氏の作品で承知していたが、成り立ちや協働の具合が別様に仕立てられているし、耳新しいエピソードが織り込まれている。柳作品に比べれば辻作品ははるかに長編重厚であり筋の運びも凝っている。
  *筆者注:角倉家では代々の当主が与一を名乗る。特定の時期の当主を指す場合には字(あざな)を用いる。

第一部一から六までと第二部一から六までとに分かれている。
第一部は、「一、闇の中より三人の声 つぶやきはじめる事」と題して始まる。これが物語の発端かと思えばさにあらず人生の終幕にある主人公たちの独白だった。つまりここは幕開きの序章で物語の進む先を示し、第二部の終りにつなげられて幕が閉じる仕掛けである。
さて一の声の私。
光悦は鷹ヶ峰に移住してよりはや20年、夜の闇の中で過ぎ去った波瀾の時代の出来事と人々を思い出している。それは自ずから生涯を再度歩むに似るが、それらを訓戒を含まずに、この世の鏡として語ることは、あとに続く家族への遺訓となるだろう。第二部六の後半「太虚庵風雅に関する条々」での光悦は太陽や木々花々の中に解き放たれて存在している自分を感じる。死と生をまるごと包み込む太虚のなかに存在するのだ。太虚の中でこそ自然の美しさが生命を取り戻す。私の仕事は太虚を完成させることにあると自覚した。

三の声のわたし、角倉素庵はいま嵯峨野の別邸で竹叢を鳴らして過ぎる風の音を聞いている。南国の波の音にも聞こえる。船頭弥平次は一度だけ安南行に誘ってくれたことがあったが、父が反対した。その年の角倉船は帰途に遭難して弥平次は船とともに沈んだ。大半の乗組員は救助されたが、あのとき行っていれば、わたしも弥平次と行をともにしていただろう。父は率先挺身して仕事をする人間で、河川開鑿には自分も水を被りながら土嚢を積んだし、家業の土倉の業務にも身をすり減らしていた。夜も暗い燈芯のもとで遠方からの仕訳帳を読んでいた。幼い頃から祖父の遺した蔵書に没頭していた私はそうした父になにか後ろめたい気がしたものだ。長じてからもわたしは父に劣らず治水事業も、廻船も鉱山開発もやったけれども結局最後はこうして書斎にこもってしまった。どうにもならない病気のせいでもあるけれども、やはり死ぬ前に好きなことを思うだけやりたい気持ちがあったのだ。どっちが本当の生き方だったのか、この盲目の男が朝を待つ間の闇の中でもう一度検討してみよう。
本能寺の変、北野の茶会、醍醐の花見、いまや豊臣の威信を伝えるものはどこにもない。全ては風のごとく去る、跡形もなく、いや跡形を刻んで時の流れをこえているものはある。この紙束の山だ。師の藤原惺窩に教わって書き続けてきた達徳録がある。これこそわたしの生活の跡だ。
第二部六の前半「角倉与一嵯峨野隠棲の事」の舞台は第一部の一と同じである。波の音と紛う竹叢の風を聴きながら回想が続く。大阪夏の陣の前、富士川の舟運が不能になった。赤仁王といわれた頑健な父ももう力はなく、替わってわたしが再開鑿にあたった。工事途中で父がなくなった。膨大な量の仕事が一挙にわたしの肩にのしかかってきた。徳川殿とのあいだもうまくいき、事業は続けられたが、やはり気になったのは学問の成果の乏しさだった。思い切って一切を弟と息子に委託して書物の世界に戻る決意をした。5,6年経ってある日、腕に赤い斑点が見つかった。医師の弟意安の顔は蒼白になった。それで綺麗さっぱり隠棲することになったのだった。やっと書院に閉じこもることができた。すぐれた詩文を読み、心に触れるものをそこに見出してゆくからこそ肉の汚辱と苦悩の中にあっても生きつづける力が得られる。詩文と経学の道が生を形づくることが理解できた。一生かかって解ったことはこれだけかも知れぬが、これ以上何を求めることがあろうか。

二の声はおれだ。宗達だ。やることがいくらでもある。年のせいで目が少し霞むが、それよりも燈芯のあかりでは色の輝きが狂う。これがもどかしい。おれは闇の中で夜明けを待ちながら自分の心の中で絶え間なく喋りつづける言葉に耳を傾けている。第二部五の後半「風神雷神由来に関する条々」では流れ者の又七のあくどい色彩の絵を思い出す。あの男の絵には憎悪から奔出する激情があった。絵が手段で実体は激情だった。あれでわかったのだ、おれの身体の中にまだ掘り尽くされずに待っている何かがあると。おれも金銀泥だけでなく彩色の筆をとることにした。世の中すべてこれ背理であると気づいたとき、おれの絵ができた。おれはもともと底抜けに明るい、踊り跳ねる現世の賑やかな気分が好きだった。それが背理に気づいて受け入れた。生命が自分を自覚したときには高らかに笑えるのだ。湧き出すような哄笑なのだ。又七の描いた雷神は黒雲の中から震えおののく下界をうかがっていた。その雷神を使って背理を哄笑する画題に取り組むことにした。そして雷神と対にして風神も描く。これができあがるとき、真に、おれが絵師として完成すると信じているのだ。だからおれは夜明けが待ち遠しいのだ。「おれはまだまだ描きつくすものがある。絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘りすすむ人間だ。くそっ、こんなところで、おれが足踏みしてたまるか。おれという人間なぞ、どうでもいいのだ。風神雷神の前で、おれなど、いったい、何だろう……おれなど、この俵屋宗達という男などは……。」

こうして三者三様の人生が終わってゆく。それぞれに何と天賦の才能と運に恵まれた人たちであったことか。その仕事の跡が今に残っているのは現代に生きる私たちの幸運でもある。
太虚(だいきょ)という言葉が出てくる。太虚庵は茶室の名であるが、光悦の別号でもある。人も自然界の一部、死んでいようが生きていようが関係なく、ただ存在するという風に感じることを言うらしい。こういう哲学は著者がいくら言葉を重ねてくれても、読者が自分で納得できる言葉を見つけるまではわかったとは言えない。巻末に著者は「太虚への旅 太虚からの旅――自作解題風に」を付けている。著者と日本文化との別離と復縁をパリ経験を絡めて述べている。生を安全圏に置いて死を語る西欧文化圏という言い方が出てくる一方で、豊国祭で踊り狂う民衆と戦や切腹など理不尽な死の日常性の同居という日本文化が語られる。この解題を読み終えて作品の生成過程は理解できても、著者が抱いた太虚または生命観はわかった気がする程度にしかわからない。これは読者がお粗末なせいもあるだろうが。

3つの声が代わる代わる語る物語は読者を退屈させない。歴史の実体を聞かされる気分だ。わたしが格別の興味を惹かれたのは角倉の事業だ。金融業でなした資産を使っての世のために尽くす事業、ことに水運舟運に大きく貢献した河川開鑿はすごいものだと感心する。大堰川(保津川、桂川)、富士川、そして高瀬川。家系の中には医師もあり、現に与一(素庵)の弟の意安が医師として登場する。素庵の不治の病は、ただ二の腕にできた赤黒い斑紋という程度に述べられるだけだ。病名は明示されていないが、素庵の生涯についての通説ではハンセン病だ。水系調査に赴いた殿田の里で交渉を持った女にもこれが認められたことをわざわざ書いた作者の意図はわからない。現代医学では接触感染はないはずだなど余計なことを考えてしまった。この女性は素庵に「真如堂をご存知ですか」と訪ねたことがある。後に再会を願って訪れてみると消えていた。素庵が光悦、松花堂昭乗と並ぶ洛下三筆の一人と知ったがために姿を消したとのこと。注意深い読者には分かるミステリーだ。それはともかく嵯峨野一円に根を張った角倉一族に俄然興味が湧いた。また知りたいことが増えた。
終幕の素庵は学問に満足を見出した境地にある。医師であった祖父の血筋が生きていたのだろう。受け継いだ家業の外にはみ出して夢中になった仕事に出版がある。俵屋と光悦を結んだ仕事だった。旧来の木版技術の上に紙屋宗二の新工夫の料紙を使った芸術品だった。時代は進んで南蛮印刷術による版本の印行が始まる。朝鮮や天草のキリシタンが先行していた。書籍商駿河屋宋仁の案内で原田アントニオを知って南蛮印刷術の実際を見た。文字も版画も簡単に入れ替えられて、多量に書物が印行できる。まさしく素庵が夢見ていた実務と学問が結合した事業に思えた。この道筋は嵯峨本の刊行という業績につながった。わたしは、史記百五十巻の刊行などで、天秤が学問に傾くことで素庵は満足できたのだろうと考えていたが、著者の描く素庵の終幕の心境は純粋学問についての満足だった。文中には時折「達徳録」とか「綱要編纂」とかの語が出現するが詳しくはない。儒学への貢献から見れば、師の藤原惺窩の「文章達徳録」百余巻及び「綱要」は大事業であったはずだ。素庵は「綱要」の編纂補佐を委嘱されて自分の学問が活きることを喜んだ。終幕ではまだ「綱領」編纂は道半ばにあるように感じられる。素庵が満足したのは仕事の完成ではなく、学問にも生きる力の源泉があることが理解できたことにあった。それにしても不治の病は眼にも及んで遂に視野が奪われてしまった。その不幸な環境で詩文を読んで抜書きして註解する仕事を誰かの手助けが得られたとしても、その心のうちは想像しても余りある。

著者によると光悦については「本阿弥行状記」のほか研究書もある。素庵は光悦の資料をあたるに連れて関係づけられてきた印象があると書いている。ところが宗達には資料が殆どない。さいわい東大美術史山根教授の研究論文「絵屋について」が発表されたことで関ケ原合戦前後の京都町衆の絵画需要の姿がわかってきたとある。だが宗達の思想はその描いた絵でしか読むことができない。辻氏は笑う雷神のイメージをどこから得たか。三十三間堂の雷神立像がモデルだと定説はいうが、これは笑ってはいない。ほかにも実在する雷神像はいくつもあるが笑い顔は一つもない。著者は第二部三で宗達が伯父の家で北野天神縁起絵巻を見る場面を書いている。清涼殿の上に現れた雷神は黒雲のあいだから凄まじい形相でこちらを睨みすえていたとある。宗達以前には笑う雷神はいない。だから著者は宗達がおのれの笑いを雷神の笑いをもってあらわしたとみることができた。宗達の考えはどうであったかは別にして著者は幸運だった。宗達の溢れんばかりの活力、生命力の根源が哄笑にあらわれたと見立てた。この着眼は非常に良かったのであるまいか。
辻氏の考えた宗達の雷神観は一応それと認めた上で、別の考えもありえると思う。遊びである。愉快なことの好きな宗達はここでちょっといたずら気分をだした。与一には遊びは考えにくいが光悦ならあるかも知れない。本作には登場しないが光悦に舟橋という蒔絵硯箱がある。国立文化財機構のe国宝サイトで見ることができる。その説明を借りる。


斬新な意匠の効果をさらに高めているのが、銀の板を切りぬいて散らし書きにした文字である。文字は「東路乃 さ乃ゝ かけて濃三 思 わたる を知人そ なき」と散らされ、『後撰和歌集』源等(みなもとのひとし)の歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき」から、「舟橋」の字を省略して表している。つまり「舟橋」は箱の意匠から読み取る仕掛けである。
光悦 舟橋蒔絵硯箱 (国宝)


欠けている文字は「舟橋」であって、よく見れば金地に小舟の列が線描きされていて、上に渡された銀の板とで舟橋がつくられている。これは頓智であり、遊びなのだ。茶人にはこういう遊びがよくあった。わたしは自分勝手な好みで光悦もいたずら心を出したように考えている。これも突きつめれば著者の考えにつながるのかも知れない。

角倉素庵が目撃した秀吉の朝鮮征伐における前線本部の実情が描かれている。太平洋戦争で勝算もなく、はるかニューギニアまで将兵を送って大半を餓死させた大本営そのままのような日本軍のお歴々がいた。正論を訴え続けた小西家の重臣伊澤主税の命を素庵が偶然の機会に密かに助けることになったことが述べられている。この挿話を取り込んだ目的は何だろうか。太閤秀吉という空っぽの人物を書こうとしたのか、権威にすがるだけの取り巻き連中という日本人の一つの典型が書きたかったのか、想像では理解し難い素庵の苦労を伝えるためか、物語の本筋には直接関係があるとも思えない。けれどもこのようなバカバカしい戦をしたことも歴史の実体ではあるし面白い。「洛中洛外図」や「豊国祭礼図」に描きこまれた民衆が生きた時代の一面、しかも都の狂騒から遠く離れた彼方で同時に起きていた事実はこうだったという説得力はあると思う。金銀泥に極彩色という豪奢な美術工芸を生んだ桃山日本文化はまことにおかしな環境に生まれたものだった。

繰り返して読むほどに著者が織り込んだ味わいが幾重にも出てきそうな作品である。

『辻邦生歴史小説集成 第三巻』 岩波書店 1992年 所収、初出 第一部1968年、第二部1971年、いずれも『新潮』。
(2018/5)

2018年5月13日日曜日

2つの『象は忘れない』

小説家柳広司氏の作品には世間周知の有名作家の名や題名を借りたものが多い。漱石の「坊っちゃん」、シートン「動物記」、小泉八雲「怪談」、コナン・ドイルの「ホームズ」などなど。表題でなくとも中身に名作を借りる場合もある。文学の用語でパスティーシュというらしい。いずれも作者が次に書くものを考案中に、好みの赴くままに到達した結果だろう。このたびは『象は忘れない』(2016)を読んだ。柳氏の作品以前に同名作品が非常に有名だった。いうまでもなくアガサ・クリスティのポワロものだ。原作は1972年。ついでなので両方読んでみた。ついでのついでながら、テレビドラマにつくられたこの作品には原作にないエピソードが付け足されている。

「象は忘れない」というのは英国のことわざだそうだ。起源とされている小話は、あるとき仕立屋が象に針を突き立てた。忘れていたが後々のあるとき、象に水を頭からぶっかけられた、というものだ。忘れない、覚えている、恨みを返す、執念深い、などの気質表現に応用される。
英語では、”An elephant never forgets” が本来のようだが、クリスティは “Elephants Can Remember”としている。古い事件の真相を探り出すために、当時の事実を覚えていそうな老人たちを訪ね歩くミセス・オリヴァは、思い出してくれる象たちを見つけ出す。ポワロが事実をつなぎ合わせて、なぁるほどという物語だ。構成の無理筋を突っつくことはしないでおこう。
柳氏はどうしたか。作品はフクシマの原発事故がもたらした理不尽な不幸を語る5つの短編である。中の一つに「象の足」が出てくる。爆発したチェルノブイリ原発現場に遺る燃料デブリにつけられたニックネーム。放出されている放射性物質中に含まれるプルトニウムの半減期は2万4千年だ。「象の足」はいつまでもいつまでも毒を放射し続ける。表題「象は忘れない」に添えられている英語は ”The Elephant Never Forgets” とある。

さてと、柳氏の『象は忘れない』に戻ろう。5つの物語につけられた題はそれぞれ「道成寺」、「黒塚」、「卒塔婆小町」、「善知鳥」、「俊寛」となっていて、これらはすべて能楽の演目だ。通底するのは3.11と通称される東北大震災で起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故によって被害を被った人々に起きた出来事である。あれから7年とかいって回顧したり変遷を伝えたりするメディアに日本の大衆は目を塞がれているのではないか。もっと目を凝らして見つめて、なにがいけなかったのか、どうしなくてはならないのか、よく考えようではないかと警告を送って啓発している作品なのだ。この作家らしく言葉はやさしく内容もわかりやすい。この人の人気の源泉みたいになっているミステリー小説を期待すると間違う。かつての『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』の広瀬隆氏や『日本の原発地帯』の鎌田慧氏たちを読んでいた世代の次の世代、つまりいまの人たちに向けて書かれた作品だ。ノンフィクションではない。

作品を読んでいるうちに物語とは別に苛立たしい気持ちが湧いてくる。いまに始まったことではない、フクシマの事故を考えるときはいつも同じだ。
地震と津波は自然災害だが、原発に起きた爆発事故は自然災害から護ることができなかった。これは人災なのだ。想定外の自然災害だから護れなかったのではない。世界でも類を見ない地震大国日本で原発を動かすのであれば、地震や津波、あるいは火山活動、巨大台風といったものは、当然予想すべき事態だろう。たとえ原因が自然災害だとしても、一度事故を起こせば当事国日本のみならず世界規模で甚大な被害が出る原発に関して、「予想を超えた」や「想定外」などという言葉は通用しない。これは著者の意見であり、筆者の意見でもある。

さて、能楽の演目で提供された物語を読む愉しみは、物語とは別に演目とのつながりをさぐる謎解きにもある。
「道成寺」の題で出されたのは原発現場の下請け作業員純平と、親しくなった奈美子のことだ。
地元育ちの純平は幼い時から電力会社による原発立地地域への便利供与サービスや安全意識教化を存分に享受してきた。何があっても壊れはしないという宣伝に対して信仰のような思い込みがあった。奈美子の方は事情があって他所から来て、やむなく飲み屋の手伝いをしている人間で、部屋を覗いても本がたくさんあるという人柄。ある時から原発や放射能の危険性にこだわりはじめて純平と話し合おうとする。純平にはそんな話は地元のタブーでもあったし、事実なんの心配もなく仕事ができていたから奈美子の心配がバカバカしく思える。うるさいっ、思わず手が出た。
奈美子が姿を消して2週間ほどして地震がやってきた。つづいて原子炉冷却装置が作動しなくなった。炉の圧力が高まり、ついに手作業による圧力排出弁開放という決死作業が求められる。純平にも順番が来て線量計が激しく鳴る中、現場に入ったがヘルメットの中で朦朧としてきた。頭の中で奈美子の声で三匹の子豚と狼のやり取りが聞こえてくる。なんとか作業を終えて脱出したときに3号炉が爆発して意識を失った。狼の息で子豚の家が吹き飛んだ、いや原発の壁は何があっても壊れないのだ。わからない。気がつけば入院させられていた。仲間に会いたい。「高い被曝量の人が近くにいると、互いに線量を高めあってしまうのです」。そうか、おれは被爆したんだ。壊れないはずの建屋が紙の家みたいに吹っ飛んだ。何がほんとか、どれが虚構か。唯一、外の情報はテレビだけだ。レベル7が宣言された。チェルノブイリ原発事故以来の高いレベルだ。陸も海も汚染されている。

さて、この話の中のどこに「道成寺」があるのだろうと考えた。恨みに思った女が火を噴く蛇身となって僧の隠れた鐘に巻き付いて鐘もろとも僧を焼き殺す。答えはこれしかなさそうだ。安珍と清姫という道成寺にまつわる伝説の二人にとらわれると間違える。原子炉が溶け落ちて塊になった「象の足」がここでも落ちた鐘が溶けることと通じるということだろう。

次は「黒塚」。能楽のあらすじ。山奥の一軒家に宿を求めた山伏の一行。主の老婆が薪を取りに出た隙に覗くなと言われた奥の間を覗く。死骸の山。驚いて逃げ出す一行を追いかけてきたのは鬼婆だった。

青年団の慶祐は海岸の瓦礫の方からタスケテという女の声を聞いた。辺りは暗闇。消防団のいる処に行って助けに行こうと誘うが夜明けまで待てという。その夜明けになると原発が爆発しそうだから10キロ圏内から避難せよと命令が出る。女をほうっておけないと主張するが、団長は全員を避難させるのが先だと命令する。やむなく慶祐は町のマイクロバスで隣町まで町民を運ぶ。その避難所からさらに二度目の避難をさせられた。30キロの距離にあった。自分の車で陽一郎が一緒だった。家が近所だっただけの腐れ縁の仲間だ。東京の大学院を中退して町に戻ってきた。
ある晩、車で寝ていた二人は白装束の男たちをみる。彼らの車の中を覗くと線量計があった。すかさずそれを持ち出して測りはじめた陽一郎は怖ろしい顔をして逃げようと言い出した。30キロ圏ではありえない線量だという。じゃみんなに知らせなきゃ。
そんな暇はない、俺達だけでも逃げようとしつこいから同意した。測りながら走ったが、どこまで行っても線量が下がらない。ようやく線量計の音が鳴り止んだ。50キロ圏に来ていた。

二ヶ月もたってからわかったことは、爆発で放出された放射性物質が風に乗って運ばれる方向に沿って移動してきたのだった。避難になっていないどころか、本来浴びなくてもよい放射線を浴びたはめになる。どこからも何の情報もなかった。
政府や、県や、警察は、原発が爆発する2時間前に、どの方向に放射性物質が流れるか知っていた。あのとき見た白装束はそれを知っていたから、自分たちは被爆しないようにあの格好で来ていたのだった。地元住民に一切知らされなかったのはパニックを起こされては困るからだったという。住民には知らせずにいてアメリカには知らせていたというから呆れる。こういう事実は役所からではなくてテレビの報道でわかったのだ。結果的にF町が避難指示区域に指定された。意味は住める町でなくなったということだ。

海岸近くの瓦礫の山の中から死体が発見されたという報道を耳にしたが慶祐は詳しい話はあえて聞かなかった。
あのタスケテの声が耳について離れない。生きていた。原発の爆発がなければ助けられたかもしれない命の声だ。「原発で死んだ人はいない」と言った国会議員にあの声を聞かせてやりたい。

謎解きにかかろう。白装束の人達を見た夜、慶祐は夢を見ていた。
開けるなと言われた扉を開けようとする。開けると二度と戻れなくなる。扉の向こうでタスケテと声がする。あの声だ!我を忘れて扉を開ける。ありとあらゆる生き物の死骸の山。その死骸の山からタスケテとかすかな声。恐ろしくなって逃げ出す。足音が追いかけてくる。死骸が次々と鬼女の姿になって追ってくる。
このあと謡曲の文句らしいのが連ねてあるが省略する。

初めと夢のくだりと結末を見れば、「黒塚」の物語を重ねていると分かるから謎にもならない。
要するにこれは追いかけられて逃げる話だ。
津波の被害者のうちには原発事故がなければ助かったかもしれないのに、実際には原発事故があったために助かる機会を失った不運な人もいた。
タスケテの声の主は逃げられなかった人だ。「黒塚」とどう結びつくのか筆者にはわからない。原発事故は非情であるとでもいえばいいのだろうか。

「卒塔婆小町」あらすじ。道ばたで朽木の卒塔婆に腰を下ろしている老婆に僧が仏を粗末にしないよう説教すると、逆に老婆が言葉を返して言い負かす。僧はこの老婆は只者でないと知り素性を訪ねると、小野小町の成れの果てだと答えるが、次第に様子が変わり、かつて小町を恋い慕いながら恋を成就できなかった深草少将の怨霊がのり移って狂乱状態になる。やがて狂乱が鎮まると小町は後世の成仏を願って悟りの道に入ろうと志す。

フクシマで家庭を築き順調だった靖子は、原発事故のあと漁獲が汚染されてしまって漁師の夫が荒れてしまう。ボランティア団体に支援されて夫の暴行を逃れて幼児を連れて東京に移った。原発と放射能の勉強会グループに入ってみたものの難しすぎるうえに、フクシマからの人ということで特別な視線を感じる。表面の親しげな様子と裏腹な疎外感に耐えられなくなっていたところに救いが現れる。公園でぼんやり座っているときにやさしく声をかけてくれた上品な婦人。周りにいる女性たちは仲間らしいが、みな普通の人たちにみえる。誘われるままに翌日のお散歩会に行くことにした。美しい日本を取り戻すのだそうだ。教えられるままにその集まりに顔を出す。靖子は知らなかったが、それはヘイトデモだった。そこは居心地が良かった。みんなと一緒になれるから。

この謎は簡単だ。公園で落ち込んだ様子で座り込んでいる靖子が小町だ。能楽の小町は救われるが、靖子小町は別種の泥沼にはまってしまう。幼子をもつ女性で放射能を避けて東京まで避難した人は少なからずいる。大なり小なり皆別種の被害に泣いているのが現実だ。そのうえフクシマで避難すれば受け取れる支援金などもない。水俣病でも見られた線引きという同種の不公平政策の被害者でもある。

「善知鳥(うとう)」。この演目は善知鳥という名の鳥が親子で異なる鳴き声をする特性を利用して子を捕獲する猟師の話。旅の僧が立山で猟師の亡霊に出逢って、故郷の陸奥国外ヶ浜の我が家に行って弔ってくれと頼む。言われたとおりに弔っていると地獄に堕ちた猟師が化鳥となった善知鳥に苛まれて苦しむ様子が見え、助けてくれと頼んで消える。

フクシマ事故では米海軍によるトモダチ作戦が実施された。作戦の中には極秘に行われた原発事故現場の海の調査が含まれていて、従事した兵の中からトラウマを受けて心身不調者が出ている。その一人が日本人カウンセラーによって原因を探り治療を受けようとしている。
この兵は駆け寄ってくる5歳の息子を突き飛ばした。子煩悩な父親が子どもに手を出したことに驚いた母親が軍に電話して相談した結果クリニックに来ることになった。医師と兵の会話から物語が進む。
トモダチ作戦の支援物資を手渡す作業でその兵は楽天イーグルズの帽子をかぶった10歳位の男の子に出逢う。一人ぽつんと膝を抱えて座っていた。通訳を通して話を聞いた。少年の父は原発作業員だった。地震の日以来帰ってこない。一緒に野球を見に行く約束があるという。だから探してほしいと言った。少年はアリガトウといって銀色のバッジをくれた。手の中のバッジが焼けるように熱かった。この兵は少年の父親を知っていたのだった。でも、少年に報いてやることができなかったのだ。
実は極秘作戦でその兵は海中に浮遊するたくさんの屍体を見た。その一つは楽天イーグルズの帽子をかぶっていて銀のバッジを付けていた。作戦では屍体を収容することはできなかった。それはゆっくり流れていった。
以来目を閉じると屍体が波間に浮かんでくる。屍体の目が動いて右手に掴んだ野球帽を差し出す。トモダチと言う。逃げようとしても逃げられない。今度は銀色のバッジを差し出す。アリガトウと言う。あの場所は地獄だ。そこで叫び声を上げて目が覚める。

この話には謎解きはいらない。生き別れた親子の運命だ。著者が最後に付け足したことは、カウンセラーの医師が、この患者の治療には薬は効かないから、非難すべき対象を見つけることを勧める。東京電力相手に賠償請求をすることだ。福島第一原発の運転管理において本来果たすべき責任を怠った。さらに事故直後、彼らが情報を故意に隠蔽することで被害が拡大したのだ。もし深刻な原発事故が起きず、通常の人的活動だけであれば、あなたはPTSDを発症することはなかったはず…と。上に述べた著者の意見がここで展開されているが重複を避ける。

最後は「俊寛」だ。能楽のあらすじ。僧都俊寛は平家打倒の陰謀を企てた罪により、藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島に流される。しばらく経ってのち都では清盛の娘、中宮徳子すなわち高倉天皇后の安産祈願のための大赦が行われ、都から迎えの船が来るが、俊寛だけが赦免にならず置いてゆかれる。

柳作品の「俊寛」では、俊寛(としひろ)、経成(つねなり)、康頼(やすより)という現代の青年三人の物語になっているのが可笑しい。小さい頃からの近所仲間。高校卒業後しばらくしてそれぞれ地元に戻っていた。ツネは自動車販売会社に勤め、ヤスはクリーニング業を開いた。トシは実家の農家を継いで有機栽培に挑戦している。2011年3月11日。住んでいる地区はたいてい避難区域に指定された。割り当てられた避難地域に建てられた仮設住まい。住民はばらばらになった。トシは昔から行われていた獅子舞を復活して住民の心をつなぎたいと思った。一人で走りまわってようやく目鼻がついてきた。稽古場にN市の公民館も借りることができたし、子どもたちを集めて笛や太鼓の練習をした。あちこちから稽古を見に来る住民たちも、ぎこちない獅子舞や笛や太鼓の音に喜んでいる。
それが、あるときからツネとヤスは来なくなった。避難地域の除染が進んで線量が小さくなったから自宅に戻らされたのだ。役所が来て帰ってくれといった。慰謝料も避難支援も打ち切り、仮設の家賃を払えないから帰るしかない。俊寛の家の場所は「居住制限区域」にある。ツネとヤスの家は「特定避難勧奨地点」だ。よくわからないが扱いが違う。制限解除する基準は規定線量が年間20ミリシーベルト以下だそうだ。復興を進めるために線量が下がった世帯は住み慣れた自宅に帰っていただいたいのだと。早期帰還住民には一人あたり90万円の賠償金が上乗せされるそうだ。
俊寛の家はヤスの家からせいぜい50メートル、ツネの家とは背中合わせで20メートルしか離れていない。お互い夕飯の献立が匂いでわかるくらいの距離だ。放射性物質は風や雨に乗って飛散する。三軒の家が線引きで区別される理由が理解できない。
20ミリシーベルトのことだってしっかりした根拠はない。国際基準は年間1ミリシーベルト以下だ。こうした線量による区別が住民の間に壁を作る。仮設住民の間にも諍いが多くなった。
ツネから仮設を引き揚げると連絡があったので、俊寛は引っ越しの手伝いに行った。ツネとヤスのいる仮設の近くに来て驚いた。引越し業者の大きなトラックが集まっている。全部業者がやってくれるのだという。費用も電力会社が持つそうだ。あっという間にツネの出発準備ができた。
「……じゃあな」クラクションが鳴った――象の鳴き声にも似た短い音だ。動き出した。俊寛は道端に立って呆然と見送っていた。すぐにトラックは見えなくなった。

「俊寛」には謎解きは全くいらない。俊寛と聞けばおいてけぼり、と日本人にはわかりきったことになっている。ここでも著者は国のやり方――施策などという立派な言葉に値しない――について事故発生時から時を経るにしたがってどんどん変わっていることをいくつも例示しながら批判している。はじめは住民の分断を避けるため線量に区分を設けないと言っていたのが、結局線量で区別した。除染なんていう作業は箒でゴミを掃くのと同じことで、放射能物質を移動させるに過ぎない。黒い袋に詰めて置いておくだけ。いつまでも片付かない。いやもうやめよう、きりがない。

はじめに書いたようにこの作品で著者は原発に対する為政者の姿勢をよおく見るように読者を啓発しているのだ。もっともっと広く読まれることを期待する。
             *******
読んだ本:アガサ・クリスティー 『象は忘れない』中村能三訳 早川書房  2003年
     柳 広司 『象は忘れない』 文藝春秋 2016年
(2018/5)

2018年5月9日水曜日

読書雑感 ジョージ・オーウェル『ビルマの日々』

ジョージ・オーウェル『ビルマの日々』宮本靖介・土井一宏訳 晶文社 1984年 オーウェル小説コレクション2
訳者による解題に、この版は1980年に音羽書房から上梓された本邦初訳の翻訳の改訂版だとある。
原著"Burmese Days" 初版 Harper and Brothers, USA, New York, in October 25, 1934
1934年初版のカバー、扉紙に献辞があり、本名エリック・ブレアの署名がある
$55,000の値がついている
1922年からの5年間を帝国の警官としてビルマで過ごしたオーウェルではあったが、やっと20歳そこそこの青年の体験がそのまま小説になったわけではない。それにしても現地在住のイギリス人の描写はなるほどそうであったに違いないと思わせるようにうまくできている。しかし、植民地ならどこでも同じようなものだと言われれば、それもそうだなと思う。

この小説の時代のビルマは植民地インドの属州という二重隷属の立場にあった。そのせいで登場する現地在住のイギリス人の会話にもインド人とビルマ人との区別が混在している。
物語の大筋は、ビルマ人の治安判事が、刑務所長でもあるインド人の民間医師を失脚させようと企て、目的を達するために医師の友人である民間イギリス人をだしに使う。その計画が進行する過程で起きる在住イギリス人の間の葛藤や事件、また人間関係を描きながら植民地の状況を浮き出させる。
のちの評論で明確になるオーウェルの反帝国主義や当時理想とされた社会主義的な考え方が、登場人物の会話あるいは地の文に表現されるのがオーウェルらしい。小説にしてはすこしナマにすぎないかとも思える。
わたくしの好みから言えば筋書きの運びもさることながら、そこここに描かれる暮らしの背景やイギリス人たちの言動に興味が惹かれた。
現地人の服装についても、ロンジーとかパソーとかの衣装の名前を知ったが、かつてはビルマの人が着けているあれ、とか腰巻みたいなとか、呼び方を知らなくて歯がゆい思いをしたものだった。いまならネットで探せばすぐにわかることでも、あらためて教わると嬉しいものだ。

冒頭に、でっぷり太って立ち居振る舞いに下僕の手を借りなくてはならないような治安判事ウ・ポ・チンが屋敷内でロンジーを着けてキンマの葉を噛みながら昔を思い出している情景がある。1880年代のころ裸で太鼓腹の子供だった彼は、イギリス軍がマンダレーに行進してくるのを眺めていて怖くなった。大きな図体をした肉食人種、長いライフル銃、軍靴の響き。子供なりに自国民はこの巨大人種にとてもかなわないと分かった。そしてイギリス側に立って戦い、その寄生虫になることが子供のころの強い野望になった。
20歳のとき運よく恐喝で400ルピーの金が転がりこんだので、ラングーンへ行って政府の書記の地位を買った。国営店を私物化して収入を得る。これが当時の書記一般の生き方だったが、このあと下級役人に何人かが登用されるとの情報をつかんで仲間を密告して監獄送りにした。その報酬として地区助役に任命された。以来着実に昇進して、いま56歳。こういうワルが裏でいろいろ画策するのを上に立つイギリス人は見て見ぬふりだったのだろう。イギリス式統治法。
話の冒頭からこういう実情を明かして、言外にオーウェルは正義の味方に立つわけである。だから小説が講談になって安っぽくなった。

小説の舞台はビルマ奥地のチャウタダ、これは架空の地名であると解説にある。1910年、政府はこの町に鉄道の終点を置き、この地方の本拠地とした。裁判所、病院、学校、大監獄。いま人口4000人、うちインド人2300人、中国人100人余り、白人7名。付け足しのように書かれているのは混血児が二人いること。フランシス氏とサミュエル氏、一方はアメリカのバプティスト派の、もう一方はローマ・カトリック派の宣教師の息子だと。これがいいことか、いけないことか。ここにもオーウェルの皮肉が含まれているのかもと考えたりする。いずれにしろ、この二人はイギリス人からは白人とみられていない。本人たちはキリスト教徒だと喜んでいる。
その白人の集まるクラブが町の中心にある。木造の平屋づくりだ。朝早くから男どもが談話室に集まってくるが談笑しているという雰囲気ではない。とりわけこの朝は皆がぎこちない気分だ。
原因はヨーロッパ人に限るという会員規則が破られそうになったからだ。このころ、よその土地のクラブは次第に現地人を会員に迎えるように変わってきていた。副総弁務官でありクラブの名誉幹事をしているマグレガー氏が掲示板に通知書を出したのだ。人種差別主義者のエリス氏が怒ってほかの会員を煽っている。
それはそれとして、皆がみな、入ってくると、氷が溶けてしまわないうちに一杯やろうなどと言う。
氷は2週に一度来るそうだ。ウイスキー、ジン、ビール…。泥酔してテーブルに突っ伏しているラッカースティーン氏は材木商の支店長。ブランデーをくれとわめく。
酔っぱらうのは自由だけれど、どうして朝早くから酒を飲むのか。昼間は飲むべからずとの町の掟があるというのに。マグレガー氏だけはそれを守ってレモンスカッシュを飲む。
彼らは一通りの話が終わるとめいめい自宅に戻って朝食をとる。そのころには陽が高くなって暑さもいよいよ耐え難くなっている。
この時代、冷房装置はない。そのかわりに椰子の葉の揺りうちわが緩く動いて生暖かい空気を動かしている。外でボーイが綱を引いて動かしているのだ。たしか映画『インドへの道』の裁判所の場面で似たような風送り装置を見た。
クラブならコーヒーも紅茶もあろうにどうして酒なのか。水さえも飲まないのは衛生上の問題かもしれない。
「ボーイ長、氷がとけぬうちにビールを少し持ってこい」、そのうちエリスも皆とならんテーブルに向かい、冷たいビール瓶をなでまわしていたーーこういう表現から推理すると、氷でビール瓶を冷やしている、溶けた氷の水はそのまま流れてしまう、と判断できる。水はどうなのか。そのまま飲めない可能性が大きい。
たとえビールでも水分補給の足しにはならないと今どきの保健知識は教えてくれるが、この人たちはまだそんな知識は持ち合わせていなくてもやむをえない。

木材会社員フローリー、35歳の動きが物語を作る。左目から頬にかけての三日月形の大きな黒い痣が精神の平衡を邪魔している。生まれながらの不運で、そのことでずいぶん虐められながら育った。独り者で丘の上に家があり、黒いスパニエル種の犬フローがいつもお供している。ビルマ在住はすでに15年になる。従僕コ・スラが世話をしている。若い地元の女がいつも出入りしている。
木材会社の務めは、3週間ほど密林中の野営地で過ごしては町に戻って休養することの繰り返しだ。どちらにいても暑くて汗まみれの生活に変わりはない。24歳になるとき大戦がはじまったが、ビルマの生活に慣れてしまって、いまさら退屈な軍隊に入ることは避けていた。いつの間にか孤独と精神の堕落が始まっているのに気が付かなかった。ウイスキーと召使とビルマの女に明け暮れる生活と軍隊とを取り換える気にはならなかった。
その一方で読書に取りつかれ、自分でものを考え始めてもいた。遊び暮らして育ってきた頭脳が遅れて発達した挙句に帝国主義的雰囲気に対する憎悪の念が深まってきた。すでに間違った生活様式にはまり込んでしまった身にとっては悲劇である。イギリス人と大英帝国の本当の姿が今頃わかったのだ。周りの白人全体が専制機構の歯車になってしまった中で、現地人との友情をはぐくむことは勇気が要った。優柔不断の臆病者になってしまっているフローリーには顔の痣が邪魔になった。反論しようとすると痣にまつわる惨めさが思い出されて口ごもってしまう。こうしてインド人の医師ベラスワミとの友情を仕上げることができずにいるままにウ・ポ・チンの仕掛ける罠にかかってゆく。

ある程度答えがわかっている小説だからほめそやすほどには面白くない。繰り返すようだがオーウェルらしい話だといえよう。彼は「まことの紳士」という言葉を使っている。専制政治の手先で犯すべからざる一連のタブーによって、僧侶や未開人以上に強く縛られているイギリス人たちのことだ。個の自由がないのだ。対するにフローリーのように自分を偽り慰めながら不毛の世界で生きるのを「立派な紳士」という。イギリス贔屓のベラスワミの造語だ。フローリーは帰国のチャンスを偶然に取り逃がしたために「立派な紳士」のままで破滅した。

アジア地域における英国植民地の実態といえばそれまでだけれども、時代が進んだ現在から見返してみれば、同時に当時の日本の姿勢も問われなくてはならないかもしれない。ベラスワミの会話の中にイギリス人がいなくなればビルマの森林はすぐ日本人に売り渡されて荒れるでしょうとあったりするのだ。他人事のような気持ちで読んでいたのが、急にわが身のことに話の矛先が変わる感じ。よく考えれば1930年代といえばすでに昭和も5歳、大日本帝国と称していたが老成王国英国に比べれば、根付きも浅い、つまり後背地としての社会の成熟度がちがう。しかしやがて本当に日本人がビルマにやってきたのだった。結末は惨憺たる事になりはしたが。

パリで孤児となり受け継いだ資産も乏しい22歳の姪がラッカースティーン夫妻の保護を求めてチャウタダにやってくる。エリザベスの行く末を心配して、ジェーン・オースティン描く女性たちと同じように、早いとこ資産か年金のある男性を掴まないとみじめな暮らしに陥るだろうと読者は心配するかもしれない。だが時代を錯覚してはいけない。英国には熟した18世紀来の空気が社会の澱のようになって遺っていたから三世代ほどの考え方が混然として世の中をつくっている。本国の社会から取り残されたような植民地だからこそラッカースティーン夫人の旧い生き方が通用していた。大英帝国といえども時間を留めているわけにはいかない。もはや世界は強国の取り合いの時代に入っていたし、国内の女性社会も変化しつつあったはずだ。
エリザベスのエピソードはオーウェルにとっては植民地点描のためには便利な材料として有用だった。単純な小説のように見えて、ここはうまく書けているのでないか。突然のようにインド人の口から日本人という言葉がとび出てきてびっくりした結果こんなことまで考えてしまった。
はじめに紹介しているように初版はイギリスではなくアメリカで出版されている。理由は『動物農場』と同様で、植民地経営を擁護する立場からの批判を避けたためだと解説されている。結局本国での出版は翌年になった。(2018/5)

2018年5月6日日曜日

読書雑感 『風神雷神』

柳広司『風神雷神』風の章・雷の章 講談社 2017年

表題の「風神雷神」とは世に有名な美術工芸品の代名詞だ。本のカバー装画はまさにそれで、風の章と雷の章の各冊にそれぞれ金色の背景に鬼に擬した風神と雷神が描かれている。デザインの出典は国宝に指定されている二双の屏風で俵屋宗達が描いたとされる。本の発売時の帯に京都国立博物館開館120周年記念展覧会割引券付き!というラベルがついているのはご愛敬だ。図書館で借りた本なので、貼り付けられたカバーによって折角の表紙装画の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」が見ることができない。これらの作品も京都国立博物館にあるが、画像で見るだけならインターネットでいつでも見られる。
今回筆者はこの本を読みながら文中に登場する宗達ほかの美術品をネットの画像を参照して、二重に小説を楽しむことができた。
風神雷神図屏風 俵屋宗達
 俵屋宗達は江戸時代初期16世紀中ごろの人と考えられているが生年没年ともに不明だ。小説は秀吉が催した伏見醍醐寺の花見の宴で幕を開ける。多忙をきわめる裏方にあって独りぼーっと立っている若者伊年(いね)、扇屋「俵屋」の跡取り。このあと家康の世になり、時代の移ることざっと五十年、鎖国に至るまでの間の物語。伊年は天下の宗達となって最後の仕事「舞楽図屏風」を納めて逝く。遺されたのは無印無署名の「風神雷神図屏風」。華やかな催しを世々引き継いでいる醍醐寺の花見の宴のその日、ゆかりの女性三人が屏風絵を前にしてそれぞれの思いを語る場面で終わる。しゃれた構成だ。話もおもしろい。読む人をそらさない作品だった。

この作品は、『小説現代』に2016年11月号より2017年6月号まで連載された「風神雷神」に加筆修正されて刊行されたと後付けのページに書いてあった。文章が総体に軽くて読みやすいのはそのせいであろうし、またそうでなくては雑誌向けの用をなさない。マンガを読みなれている向きには、随所に出てくる用語の説明がうるさいと感じられるかもしれないが、筆者はこういう作者の親切をありがたいと思う。本作の主題は人物であるとともに美術工芸にかかわる物でもあるから、物についての知識を得てから人物に近づくのがほんとだろうが、娯楽として読む分には適当でいいともいえる。
たとえば、嵯峨本またの名を光悦本、あるいは角倉本についてはこう書かれている。
「主に木活字を用いた本朝初の本格的平仮名印刷出版物の一群を指して用いられる名称で、表紙には色変わり料紙、本文は具引きした上質の鳥の子紙に雲母摺りの下絵が施されているのが特徴だ。」
いまの時代この説明を読んで嵯峨本の実物がわかる人は少ないだろうが、目で見るだけならインターネットで画像を参照すればおおよそ見当がつく。鳥の子紙とか雲母摺りの用語も、大きな百科事典にはかなわないかもしれないがネットであらかたわかる。
幼い伊年は実家の唐織屋にいるころは作業場の隅で日がな一日着物の柄となる様々な図案・図版を紙切れに描いて飽きなかったという。扇屋の主人仁三郎が見込んだのは伊年の書く図案に扇絵に必要な配置の妙を見たからだそうだ。
ネットで「唐織」を検索して画像を見ると、当然様々な模様が見られる。それらを扇面に移そうとするなら、図案の向きやら切り方やら組み合わせやらを考えることになる。なるほどと納得する。長じた伊年は板戸や屏風の絵を手掛けるようになり、さらには絵巻物にも描いた。今度は小から大への転換だ。デザインするのは楽しかったろうと思う。
話を戻して嵯峨本だが、角倉与一(のち了以)、紙屋宗二(のち宗次)と伊年(のち宗達)の三人が光悦の依頼に挑戦した結果の産物だ。光悦の文字、宗二の紙、伊年の下絵(模様)に与一が印刷で格闘した。すべて材料は国産品で、純粋日本技術の粋ではないか。柳広司氏は淡々と書いているが、内容をよく吟味すると、すごいことを当時の人はしたものだと思う。その結果をもてはやして町衆が金に糸目をつけようがつけまいがそれは二の次。いまなら文化勲章だ。
日常生活で扇子を使う人は少なくなった。筆者の会社員時代、外回りをする営業担当者には夏の必需品だった。相手の社屋にはまだ冷房という言葉で呼ばれていたエアコンが効いていたとしても、お邪魔してしばらくは汗が引かない。扇子の出番だ。習慣で夏場はいつも持って歩いた。世紀が変わってからの欧州観光旅行、列車の中で扇子を使った。一行の中の女性に「落語家みたい」と笑われた。
筆者がいた会社、夏になると得意先に扇子を配った。京都の名の通ったお店の品だった。いまはそんなサービスは無駄になった。
落語家、能楽、舞踊、茶道などいまでも扇子が要る職業や芸事は多い。醍醐寺の場面、扇は手に持つことができる唯一の装飾品だったと柳氏は書く。主催者秀吉は招待客の女性に、二度衣装を替えることを要求した。招待客は千三百人、前田利家のほかはすべて女性なのだ。それぞれにおつきの女性が複数ついている。それがみな着物の柄に合わせた扇を持つ。だから扇屋は数千本の需要に合わせられる絵柄の扇を取り揃えて宴の場所に持ち込んだ。扇子を含めた衣装代は全部主催者持ちだったという。俵屋を筆頭に京都中の扇屋が集まったわけだ。えらいことをしてくれはりましたな太閤はん。
満開の桜の下、道筋に緋毛氈を敷いたところに狩野派描くところの金屏風がきらきらと輝くなどと書かれている。へぇ、屋外で屏風をねぇ。これも醍醐の花見の段であるが、外の風に当てると傷みが早いじゃないかと心配するのはやはりこっちが貧乏性のせいだろう。
狩野派は御用絵師。権力の保護の下でお城や屋敷、寺の襖絵など大きな画面の絵を手掛けた。この時代の絵は大体が模写であり、お手本のとおりに描くことを代々続けていたようだ。その範囲でのデザインの工夫がなされたということだろう。画題には奇抜さはありえなかっただろう。伊年も大きな画面に挑戦した。筆者が好きなのは養源院の杉戸に描いた絵だ。これなら怨霊を鎮める効果があったろう。白象と唐獅子、どちらも想像上の動物だが絵柄は面白い。材質として厄介な杉板に使える絵具と筆にも工夫した。できた!途中でずらかった狩野派の連中よ、見たか!とは書いてないが筆者は胸の内で快哉を叫んだ。実は実物をまだ拝見したことはない。京都に近く住んでいたころに知っていればなぁと慨嘆するばかりであります。
話が脱線気味なってきた。こんな風に筆者はこの小説を楽しんだということである。
養源院杉戸白象図 俵屋宗達
余談になるがネットで色々調べているうちに『週刊モーニング』に宗達が登場していることを知った。山田芳裕氏描くところの「へうげもの」は古田織部のことを書いているらしいが、そこに宗達も出てくるようだ。たまたま『風神雷神』が刊行されたと同じころにマンガの宗達が活躍するらしく思われるので、ひょっとして同じ講談社だからコラボ出版を狙ったのかと勘繰るわけである。もしそうであればかなりの発行部数を狙えるのではないかと。
というのは岩波文庫『仙境異聞・勝五郎再生記聞 』という本、著者はなんと平田篤胤だが、今年の2月から爆発的に売れ出したという。そのブームの火付けがツイッターらしいといわれているがよくわからない。もともと天狗の世界を見てきたという少年の話だから面白いのかもしれないが、それにしても今の人たちはどうなってんだろう。これもネット効果だ。
同じ岩波では『君たちはどう生きるか』がマガジンハウスでマンガ化されて発売されるとどちらも爆発的に売れ出した。
これ以上ここには書くつもりはないが、筆者が『風神雷神』をネットの知識で二重に楽しめたのとは別の様相で異種メディアが相互にコラボし始めた現象に注目したい。(2018/5)