2018年5月26日土曜日

読書随想 辻邦生『嵯峨野明月記』

辻邦生の作品をこれまで読んだことがない。いつぞや新聞に水村美苗氏と往復する手紙形式の連載でなにか書かれていたのを記憶しているが、なんとなく堅苦しそうで敬遠していたきらいはある。気がつけば心臓の病で急逝されていた。それもすでに20年ほど前のことだった。それが今頃どうして、と言えば、先日読んだ柳広司の『風神雷神』に案内されたからだ。絵とか書とかの才能に欠ける自分から遥か遠くにある美術の世界、そしてその時代背景の様々という題材がわたしの好みなのです。インターネットで作品を見たり用語を調べたりしているうちに辻氏の『嵯峨野明月記』の存在が知れた。
読まず嫌いだった文章は読んでみるとわかりやすく、事柄の中身も面白くて存分に楽しめた。
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」より(重文)
本阿弥光悦、俵屋宗達、角倉与一(素庵)*がそれぞれ一の声が私、二の声がおれ、三の声がわたしとして一人語りに物語る筋の運びが改行のない文章に綴られる。各節に古めかしい表現で題がつけられている。この雰囲気、モデルは何だったろう。どこかで見た気がするが思い出せない。三者の協働が嵯峨本、またの名、光悦本とよばれる製本美術に凝集する話は先に柳氏の作品で承知していたが、成り立ちや協働の具合が別様に仕立てられているし、耳新しいエピソードが織り込まれている。柳作品に比べれば辻作品ははるかに長編重厚であり筋の運びも凝っている。
  *筆者注:角倉家では代々の当主が与一を名乗る。特定の時期の当主を指す場合には字(あざな)を用いる。

第一部一から六までと第二部一から六までとに分かれている。
第一部は、「一、闇の中より三人の声 つぶやきはじめる事」と題して始まる。これが物語の発端かと思えばさにあらず人生の終幕にある主人公たちの独白だった。つまりここは幕開きの序章で物語の進む先を示し、第二部の終りにつなげられて幕が閉じる仕掛けである。
さて一の声の私。
光悦は鷹ヶ峰に移住してよりはや20年、夜の闇の中で過ぎ去った波瀾の時代の出来事と人々を思い出している。それは自ずから生涯を再度歩むに似るが、それらを訓戒を含まずに、この世の鏡として語ることは、あとに続く家族への遺訓となるだろう。第二部六の後半「太虚庵風雅に関する条々」での光悦は太陽や木々花々の中に解き放たれて存在している自分を感じる。死と生をまるごと包み込む太虚のなかに存在するのだ。太虚の中でこそ自然の美しさが生命を取り戻す。私の仕事は太虚を完成させることにあると自覚した。

三の声のわたし、角倉素庵はいま嵯峨野の別邸で竹叢を鳴らして過ぎる風の音を聞いている。南国の波の音にも聞こえる。船頭弥平次は一度だけ安南行に誘ってくれたことがあったが、父が反対した。その年の角倉船は帰途に遭難して弥平次は船とともに沈んだ。大半の乗組員は救助されたが、あのとき行っていれば、わたしも弥平次と行をともにしていただろう。父は率先挺身して仕事をする人間で、河川開鑿には自分も水を被りながら土嚢を積んだし、家業の土倉の業務にも身をすり減らしていた。夜も暗い燈芯のもとで遠方からの仕訳帳を読んでいた。幼い頃から祖父の遺した蔵書に没頭していた私はそうした父になにか後ろめたい気がしたものだ。長じてからもわたしは父に劣らず治水事業も、廻船も鉱山開発もやったけれども結局最後はこうして書斎にこもってしまった。どうにもならない病気のせいでもあるけれども、やはり死ぬ前に好きなことを思うだけやりたい気持ちがあったのだ。どっちが本当の生き方だったのか、この盲目の男が朝を待つ間の闇の中でもう一度検討してみよう。
本能寺の変、北野の茶会、醍醐の花見、いまや豊臣の威信を伝えるものはどこにもない。全ては風のごとく去る、跡形もなく、いや跡形を刻んで時の流れをこえているものはある。この紙束の山だ。師の藤原惺窩に教わって書き続けてきた達徳録がある。これこそわたしの生活の跡だ。
第二部六の前半「角倉与一嵯峨野隠棲の事」の舞台は第一部の一と同じである。波の音と紛う竹叢の風を聴きながら回想が続く。大阪夏の陣の前、富士川の舟運が不能になった。赤仁王といわれた頑健な父ももう力はなく、替わってわたしが再開鑿にあたった。工事途中で父がなくなった。膨大な量の仕事が一挙にわたしの肩にのしかかってきた。徳川殿とのあいだもうまくいき、事業は続けられたが、やはり気になったのは学問の成果の乏しさだった。思い切って一切を弟と息子に委託して書物の世界に戻る決意をした。5,6年経ってある日、腕に赤い斑点が見つかった。医師の弟意安の顔は蒼白になった。それで綺麗さっぱり隠棲することになったのだった。やっと書院に閉じこもることができた。すぐれた詩文を読み、心に触れるものをそこに見出してゆくからこそ肉の汚辱と苦悩の中にあっても生きつづける力が得られる。詩文と経学の道が生を形づくることが理解できた。一生かかって解ったことはこれだけかも知れぬが、これ以上何を求めることがあろうか。

二の声はおれだ。宗達だ。やることがいくらでもある。年のせいで目が少し霞むが、それよりも燈芯のあかりでは色の輝きが狂う。これがもどかしい。おれは闇の中で夜明けを待ちながら自分の心の中で絶え間なく喋りつづける言葉に耳を傾けている。第二部五の後半「風神雷神由来に関する条々」では流れ者の又七のあくどい色彩の絵を思い出す。あの男の絵には憎悪から奔出する激情があった。絵が手段で実体は激情だった。あれでわかったのだ、おれの身体の中にまだ掘り尽くされずに待っている何かがあると。おれも金銀泥だけでなく彩色の筆をとることにした。世の中すべてこれ背理であると気づいたとき、おれの絵ができた。おれはもともと底抜けに明るい、踊り跳ねる現世の賑やかな気分が好きだった。それが背理に気づいて受け入れた。生命が自分を自覚したときには高らかに笑えるのだ。湧き出すような哄笑なのだ。又七の描いた雷神は黒雲の中から震えおののく下界をうかがっていた。その雷神を使って背理を哄笑する画題に取り組むことにした。そして雷神と対にして風神も描く。これができあがるとき、真に、おれが絵師として完成すると信じているのだ。だからおれは夜明けが待ち遠しいのだ。「おれはまだまだ描きつくすものがある。絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘りすすむ人間だ。くそっ、こんなところで、おれが足踏みしてたまるか。おれという人間なぞ、どうでもいいのだ。風神雷神の前で、おれなど、いったい、何だろう……おれなど、この俵屋宗達という男などは……。」

こうして三者三様の人生が終わってゆく。それぞれに何と天賦の才能と運に恵まれた人たちであったことか。その仕事の跡が今に残っているのは現代に生きる私たちの幸運でもある。
太虚(だいきょ)という言葉が出てくる。太虚庵は茶室の名であるが、光悦の別号でもある。人も自然界の一部、死んでいようが生きていようが関係なく、ただ存在するという風に感じることを言うらしい。こういう哲学は著者がいくら言葉を重ねてくれても、読者が自分で納得できる言葉を見つけるまではわかったとは言えない。巻末に著者は「太虚への旅 太虚からの旅――自作解題風に」を付けている。著者と日本文化との別離と復縁をパリ経験を絡めて述べている。生を安全圏に置いて死を語る西欧文化圏という言い方が出てくる一方で、豊国祭で踊り狂う民衆と戦や切腹など理不尽な死の日常性の同居という日本文化が語られる。この解題を読み終えて作品の生成過程は理解できても、著者が抱いた太虚または生命観はわかった気がする程度にしかわからない。これは読者がお粗末なせいもあるだろうが。

3つの声が代わる代わる語る物語は読者を退屈させない。歴史の実体を聞かされる気分だ。わたしが格別の興味を惹かれたのは角倉の事業だ。金融業でなした資産を使っての世のために尽くす事業、ことに水運舟運に大きく貢献した河川開鑿はすごいものだと感心する。大堰川(保津川、桂川)、富士川、そして高瀬川。家系の中には医師もあり、現に与一(素庵)の弟の意安が医師として登場する。素庵の不治の病は、ただ二の腕にできた赤黒い斑紋という程度に述べられるだけだ。病名は明示されていないが、素庵の生涯についての通説ではハンセン病だ。水系調査に赴いた殿田の里で交渉を持った女にもこれが認められたことをわざわざ書いた作者の意図はわからない。現代医学では接触感染はないはずだなど余計なことを考えてしまった。この女性は素庵に「真如堂をご存知ですか」と訪ねたことがある。後に再会を願って訪れてみると消えていた。素庵が光悦、松花堂昭乗と並ぶ洛下三筆の一人と知ったがために姿を消したとのこと。注意深い読者には分かるミステリーだ。それはともかく嵯峨野一円に根を張った角倉一族に俄然興味が湧いた。また知りたいことが増えた。
終幕の素庵は学問に満足を見出した境地にある。医師であった祖父の血筋が生きていたのだろう。受け継いだ家業の外にはみ出して夢中になった仕事に出版がある。俵屋と光悦を結んだ仕事だった。旧来の木版技術の上に紙屋宗二の新工夫の料紙を使った芸術品だった。時代は進んで南蛮印刷術による版本の印行が始まる。朝鮮や天草のキリシタンが先行していた。書籍商駿河屋宋仁の案内で原田アントニオを知って南蛮印刷術の実際を見た。文字も版画も簡単に入れ替えられて、多量に書物が印行できる。まさしく素庵が夢見ていた実務と学問が結合した事業に思えた。この道筋は嵯峨本の刊行という業績につながった。わたしは、史記百五十巻の刊行などで、天秤が学問に傾くことで素庵は満足できたのだろうと考えていたが、著者の描く素庵の終幕の心境は純粋学問についての満足だった。文中には時折「達徳録」とか「綱要編纂」とかの語が出現するが詳しくはない。儒学への貢献から見れば、師の藤原惺窩の「文章達徳録」百余巻及び「綱要」は大事業であったはずだ。素庵は「綱要」の編纂補佐を委嘱されて自分の学問が活きることを喜んだ。終幕ではまだ「綱領」編纂は道半ばにあるように感じられる。素庵が満足したのは仕事の完成ではなく、学問にも生きる力の源泉があることが理解できたことにあった。それにしても不治の病は眼にも及んで遂に視野が奪われてしまった。その不幸な環境で詩文を読んで抜書きして註解する仕事を誰かの手助けが得られたとしても、その心のうちは想像しても余りある。

著者によると光悦については「本阿弥行状記」のほか研究書もある。素庵は光悦の資料をあたるに連れて関係づけられてきた印象があると書いている。ところが宗達には資料が殆どない。さいわい東大美術史山根教授の研究論文「絵屋について」が発表されたことで関ケ原合戦前後の京都町衆の絵画需要の姿がわかってきたとある。だが宗達の思想はその描いた絵でしか読むことができない。辻氏は笑う雷神のイメージをどこから得たか。三十三間堂の雷神立像がモデルだと定説はいうが、これは笑ってはいない。ほかにも実在する雷神像はいくつもあるが笑い顔は一つもない。著者は第二部三で宗達が伯父の家で北野天神縁起絵巻を見る場面を書いている。清涼殿の上に現れた雷神は黒雲のあいだから凄まじい形相でこちらを睨みすえていたとある。宗達以前には笑う雷神はいない。だから著者は宗達がおのれの笑いを雷神の笑いをもってあらわしたとみることができた。宗達の考えはどうであったかは別にして著者は幸運だった。宗達の溢れんばかりの活力、生命力の根源が哄笑にあらわれたと見立てた。この着眼は非常に良かったのであるまいか。
辻氏の考えた宗達の雷神観は一応それと認めた上で、別の考えもありえると思う。遊びである。愉快なことの好きな宗達はここでちょっといたずら気分をだした。与一には遊びは考えにくいが光悦ならあるかも知れない。本作には登場しないが光悦に舟橋という蒔絵硯箱がある。国立文化財機構のe国宝サイトで見ることができる。その説明を借りる。


斬新な意匠の効果をさらに高めているのが、銀の板を切りぬいて散らし書きにした文字である。文字は「東路乃 さ乃ゝ かけて濃三 思 わたる を知人そ なき」と散らされ、『後撰和歌集』源等(みなもとのひとし)の歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき」から、「舟橋」の字を省略して表している。つまり「舟橋」は箱の意匠から読み取る仕掛けである。
光悦 舟橋蒔絵硯箱 (国宝)


欠けている文字は「舟橋」であって、よく見れば金地に小舟の列が線描きされていて、上に渡された銀の板とで舟橋がつくられている。これは頓智であり、遊びなのだ。茶人にはこういう遊びがよくあった。わたしは自分勝手な好みで光悦もいたずら心を出したように考えている。これも突きつめれば著者の考えにつながるのかも知れない。

角倉素庵が目撃した秀吉の朝鮮征伐における前線本部の実情が描かれている。太平洋戦争で勝算もなく、はるかニューギニアまで将兵を送って大半を餓死させた大本営そのままのような日本軍のお歴々がいた。正論を訴え続けた小西家の重臣伊澤主税の命を素庵が偶然の機会に密かに助けることになったことが述べられている。この挿話を取り込んだ目的は何だろうか。太閤秀吉という空っぽの人物を書こうとしたのか、権威にすがるだけの取り巻き連中という日本人の一つの典型が書きたかったのか、想像では理解し難い素庵の苦労を伝えるためか、物語の本筋には直接関係があるとも思えない。けれどもこのようなバカバカしい戦をしたことも歴史の実体ではあるし面白い。「洛中洛外図」や「豊国祭礼図」に描きこまれた民衆が生きた時代の一面、しかも都の狂騒から遠く離れた彼方で同時に起きていた事実はこうだったという説得力はあると思う。金銀泥に極彩色という豪奢な美術工芸を生んだ桃山日本文化はまことにおかしな環境に生まれたものだった。

繰り返して読むほどに著者が織り込んだ味わいが幾重にも出てきそうな作品である。

『辻邦生歴史小説集成 第三巻』 岩波書店 1992年 所収、初出 第一部1968年、第二部1971年、いずれも『新潮』。
(2018/5)