2020年7月14日火曜日

感想 工藤美代子著『悲劇の外交官』

最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。

駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。

本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。

ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。

最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。
読んだ本:工藤美代子著『悲劇の外交官  ハーバート・ノーマンの生涯』 岩波書店 1991年(2020/7)

筆者より:7月13日付の同文ブログ「H・ノーマンの不運」は、たいそう読みにくいので修正してここに改題して再掲します。

2020年7月13日月曜日

感想 H・ノーマンの不運

本稿はたいそう読みにくいので、別掲「悲劇の外交官」(7月14日付)でお読みください。筆者より。


最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。
駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。
本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。
ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。
最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。(2020/7)