最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。
駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。
本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。
ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。
最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。
読んだ本:工藤美代子著『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』 岩波書店 1991年(2020/7)
※筆者より:7月13日付の同文ブログ「H・ノーマンの不運」は、たいそう読みにくいので修正してここに改題して再掲します。
2020年7月14日火曜日
2020年7月13日月曜日
感想 H・ノーマンの不運
本稿はたいそう読みにくいので、別掲「悲劇の外交官」(7月14日付)でお読みください。筆者より。
最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
最近少しずつ読み進めている書物にカナダ人日本史学者のハーバート・ノーマン(1909-1957)の著書がある。比較的短い『日本の兵士と農民――徴兵制度の起源』を一通り読み終えて『近代における日本国家の成立』に取り掛かっている。浅学のため両書ともに知らないことがたくさん出てくるのでなかなか進まない。著者は外交官で歴史学者、ハーヴァード大学の博士号を持つ。1987(明治30)年に来日したメソジスト派の宣教師を父に持ち軽井沢で生まれている。10歳まで母の手元で教育を受けて神戸のカナダ学院に入学、以後は英国ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ、トロント大学大学院、ハーヴァード大学燕京インスチチュートなどで研究を続け、1939年、職業として外交官を選択し、カナダ外務省に入省した。ほぼ同時にハーヴァード大学から博士号を受けたが、一方で外務省三等書記官の資格も得ている。若干30歳、輝かしい人生の出発といいたいところであるが、この謙虚な心優しい人物にはそぐわない表現である。敬虔な信者の父母の教育が徹底して実に静かな心の持ち主であったが、時代が悪かったとでもいうべきか。
こういう人物が人生半ばでみずから命を絶ったという事実を知って、その立派な事績とは関係なくとも何があったのだろうかという疑問は抑えようがない。少々古い著作であるが工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(1991)に目を通してみようと思い立った。
駐エジプト・カナダ大使のハーバート・ノーマンは1957年4月4日47歳で自ら命を絶った。赴任先エジプトのカイロで建物の屋根からの墜落死で、墜落の様子を地上から見ていた多くの目撃者によれば、ノーマンは後ずさりして転落したのだという。彼を自殺させた原因は、彼が共産主義者でソ連のスパイであったという嫌疑である。
工藤美代子氏は、このノーマンの死の謎を性急に追い求めるよりその生をたどるほうが、あの不可解な自殺の行われた時空に近づけるのでないかとの考えにたって、まず生涯を追うことをはじめている。ノンフィクションであるからには当然であるが、慎重に事実を積み重ねていく。制約の多い公文書資料文献はすべてファイル番号を付して参照しなくてはならないなど、準備に2年半、執筆に2年を要したそうである。それでもなお未公開資料があるので、おいおい新事実も発見されよう。筆者が参照したのは1991年刊行岩波書店版であるが、2007年にちくま文庫でも出ている。
本書を執筆する発端となったのはノーマンの謎の死であるが、この死は「ギルト・バイ・アソシエーション」に負けたためだと著者は書いている。兄夫妻に宛てた遺書に、ここまで大きくなったギルト・バイ・アソシエーションが私を押しつぶしてしまいました、との言葉が見出されているのである。これを工藤氏は「連想による有罪」としているが、筆者なりに乱暴に言うなら、つながりのあるやつはみなクロだぞと決めつける言葉だと思う。ことは「赤狩り」と呼ばれたマッカーシー旋風のせいである。
共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって始められたスパイ摘発の政治活動である。第二次大戦では同盟国であったソ連との関係が戦後まもなく冷戦に変わり、1950年に至って朝鮮戦争が始まったことで熾烈化した。
長期にわたって執拗な喚問を繰り返すアメリカ上院の委員会が撒き散らす害毒が犯した殺人と言えるかもしれない。同じように自殺した人たちが何人もいるとも聞く。大戦中から案じていたソ連のスパイ活動に対するアメリカの疑惑はその後の国際関係の動きとともに自国の安全にかかわる脅えともいえるような感じになっていたのだろう。マッカーシー委員会の調査活動はハリウッドの映画関係者に対する摘発行動で一躍有名になったが、その調査方法は荒っぽいずさんなものであったようだ。彼らには共産党員やそのシンパはほとんどソ連のスパイであるという論理がある。摘発する対象はスパイであるが、その前に共産主義者を洗い出すことが広く行われていた。彼らのいう共産主義はマルクス主義も社会主義もひっくるめた感じで、さながら我が国戦時の特高警察を思い出させる。巧みな誘導尋問技術で20年ほども前の交友関係などを執拗に問いただされることが繰り返されると、普通の人間は相当に参るはずだ。
ノーマンの友人たちに共産主義者がいれば、その連想でノーマンも共産主義者にされる。国際的な非政府団体の太平洋問題調査会がソ連側のスパイの集団だと言い立てる人間がいて、ノーマンが調査会に深い関わりがあればノーマンもスパイになる。すべてが連想ゲームではあるが、それがやがて力を持って社会に浸透しだしてついにはノーマンを押しつぶすまでになる。
ノーマンが疑わしい人物とともにスパイ活動をしたという「ハード・ファクツ」はどこにも存在しない。あるのは「ギルト・バイ・アソシエーション」ばかりである(工藤氏)。
ノーマンはひとつだけミスを犯している。実際に共産党員だったことがあったのだ。1937年に兄への手紙に友人だった詩人ジョン・コンフォードの死に触れて、ケンブリッジ時代に影響を受けて入党した、と書いていたのだ。忘れていたのか、故意に否定したのか、1950年10月20日に同僚からの尋問を受けた際に、共産党員だったことは一度もなかったと答えている。工藤氏は、尋問に否定したのはノーマンの弱さがもたらしたと考えている。
もしもノーマンの中に、「確かに自分は若い頃は共産主義者だった、入党もした。だからといってカナダに対する忠誠心は誰にもひけを取らない」と、大声で言い放つだけの図太さがあったなら、あるいは、あの狂気の時代を生き抜くことができたかもしれない、と考えるのである。[…] 党員であったことを、ひたすら否定したところに、ノーマンの悲劇の原点があったとも言えるのである。(298頁)
ちなみに手紙にいうジョン・コンフォードはノーマンより6歳年下の学生であるが、当時のケンブリッジ大学にあって花形の最も有能な共産党のオルガナイザーである。1933年にヒトラーが政権を取り、ファシズムの脅威を人々が恐れ始めた時期、学生たちはマルクス主義に救済を見出した。コンフォードはトリニティ・カレッジでは成績抜群の学生であり、それが社会主義協会の会員を200人から600人に増やして、それをマルクス主義で支配した、とは工藤氏が紹介するリチャード・ディーコン著『ケンブリッジのエリートたち』の記事の受け売りである。このコンフォードはスペイン戦線で戦死するが、その時の悲しみを兄ハワードに書き送っていたのである。国際旅団に参加した義勇兵を送り出したケンブリッジにあって、しかも心酔した年若の友人に入党を伝えた情熱を後のノーマンは忘れるはずがない。
最近では、2014年、イギリス公文書館が所蔵するM15の秘密書類に「ノーマン・ファイル」が存在することが公表された。「1935年にノーマンがイギリス共産党にふかく関係していたことは疑いようがない」とM15副長官から連邦騎馬警察(RCMP)長官宛の1951年10月9日付書簡で明らかにされている(Wikipedia)。
後年、ケンブリッジ大学のコミュニスト・グループの中から、ガイ・バージェス、アンソニー・ブラント、キム・フィルビー、ドナルド・マクリーン等が、ソ連に亡命し、密かに英国で諜報活動をしていた事実が明らかになった。[…] そして、彼らとノーマンが、どのような関わりがあったのかが、取り沙汰されるようになる。[…]1950年代になって、ノーマンにかけられたスパイ嫌疑の原点は、このコミュニスト・グループから発している。(101頁)
ノーマンに関する公文書は、まだ解禁になっていないもの、削除されたものなどがあって完全な調査は不可能であると工藤氏はいう。1990年4月にカナダ外務省はノーマン・ケースを再調査して、彼がソ連のスパイであった事実はないと、改めて声明を出した。ノーマン自身からは先に紹介した兄夫妻に宛てた遺書の中で、「私は決して秘密を守る誓いを裏切ってはいません、と書いている。工藤氏の解釈は外交官が任命されるときの宣誓であろうとする。筆者もそう信じる。(2020/7)
2019年3月10日日曜日
百姓と国学と剣客ーー宮和田又左衛門のこと
宮地正人の『幕末維新変革史』では民衆の動向を検討する場合、平田篤胤の国学の影響度が重視される。平田国学が人々のあいだで最も盛んだった地域は東濃と南信地方であったとして、これは「島崎藤村の『夜明け前』の世界」としてとりあげられてれる。次いで盛んだったのは東国の下総相馬郡であったとする。ここでは平田国学の動向と時代の関係は本書に譲り、読み物的に面白かったことをひとつ取り上げる。本書下巻、「第33章 幕末期の東国平田国学者」の内容は宮和田又左衛門充胤という人物とその一家のことで占められている。用いられた史料は、宮和田保編『宮和田光胤一代記』非売品 2008年、と注記されている。
宮和田又左衛門充胤(文化13(1816)年-明治21(1888))。この主人公の名は幕末史に詳しくない人にはまず知られていないだろうし、多少知識のある人には、足利三代木像梟首事件(文久3 (1863)年)での宮和田勇太郎や、大村益次郎暗殺未遂事件(明治2(1869)年)の宮和田進が思い出されるだろうと著者は述べている。
勇太郎は光胤の実子、進は養子だが、この二人がしでかした事件はサムライの仕業にみえる。では宮和田親子はサムライだったのかといえば、全くそうではなく百姓の身分であった。これは百姓の宮和田又左衛門の物語である。
下総国相馬郡宮和田村、今日では茨城県取手市藤代町に編入されている。物語のそのころ、下総と常陸の国ざかいは利根川ではなく、まだ小貝川だった。小貝川は名だたる暴れ川であって流域一体は長年氾濫原であったが、1620-30年代の大改修工事の成功によってようやく開発され、水田地帯に村々が成立していった。
小貝川や利根川のもたらす洪水は、これで一段落したわけでなく今に至ってもなお続いている。現在では台風や大雨によって堤防決壊などが繰り返されるが、その被害が河川の沿岸に限られるように変化しただけである。昔は利根川水系の洪水は江戸市中まで被害がおよんだそうだ。
寛永期より宮和田村の名称が出現するが、それは開発地主、宮和田氏の姓が村名になったからである。当然宮和田氏は郷士・名主となる。
又左衛門が剣を握ることになったきっかけは、弘化3(1846)年の関東一円の大洪水にあった。数十年に一度という大水害で村全体が海のようになった。又左衛門初めての経験であったが、名主としては村の百姓を翌年の収穫まで食い継がさなければならない。これ以前、領主旗本内藤家(総高4500石)は支配村々五カ村から、屋敷替えのため2000両を上納させていた。又左衛門は百姓救済のために屋敷替えを延期して上納金を下戻すよう出願する。ところが内藤家では、この金を貸付資金にして利子を稼いでいたため具合が悪く、逆に又左衛門を江戸屋敷に召喚して不正の件ありとして投獄してしまった。家は閉門処分にされ、祖母の重病にも対面が許されず、翌年の死にも帰宅が許されなかった。又左衛門は幼くして母を失ったので、この祖母が父親と相談して名主の家を継げるよう厳しく育ててくれた大恩があるのだ。12月から翌年4月まで入牢させられた上に30両を納めて帰宅を許された。怒り心頭とはこのことであるが、帰宅して不正の筋と言いがかりをつけられた件を調べてみれば、逆に内藤家に680両もの貸付があることが判明した。幕府に訴えでたが、役人どもは結託して言を左右し、埒のあかぬままその年も12月になった。これで、地頭糾弾も手立てがなくなったと自覚した又左衛門は、この上は、なんとしても内藤一家を切り殺して、自決するほか道なしと思いさだめた。おりしも、嘉永元(1848)年12月9日、水戸藩剣客跡部主税之助が宮和田の家に泊まったとき、主税之助に本心を打ち明けて、率直に質問した。
「幕吏共不正わいろ送答むつび合い、えこひいき、如何共致方なし、此上は相手も其旗本の一人なり、又用人共迄一家一類切り尽し、快く割腹と決心致し居、壱人にて幾人位い切り殺せ出来べくや」と。
相手は剣客、いとも簡単に「稽古次第」との一言。この一言で剣術を稽古し始め、やがて江戸の千葉周作の玄武道場館に入門、一人息子の勇太郎も嘉永2年11月より千葉道場に入門させ、父子ともにメキメキと剣術の腕を上げていった。
宮和田又左衛門充胤(文化13(1816)年-明治21(1888))。この主人公の名は幕末史に詳しくない人にはまず知られていないだろうし、多少知識のある人には、足利三代木像梟首事件(文久3 (1863)年)での宮和田勇太郎や、大村益次郎暗殺未遂事件(明治2(1869)年)の宮和田進が思い出されるだろうと著者は述べている。
勇太郎は光胤の実子、進は養子だが、この二人がしでかした事件はサムライの仕業にみえる。では宮和田親子はサムライだったのかといえば、全くそうではなく百姓の身分であった。これは百姓の宮和田又左衛門の物語である。
下総国相馬郡宮和田村、今日では茨城県取手市藤代町に編入されている。物語のそのころ、下総と常陸の国ざかいは利根川ではなく、まだ小貝川だった。小貝川は名だたる暴れ川であって流域一体は長年氾濫原であったが、1620-30年代の大改修工事の成功によってようやく開発され、水田地帯に村々が成立していった。
小貝川や利根川のもたらす洪水は、これで一段落したわけでなく今に至ってもなお続いている。現在では台風や大雨によって堤防決壊などが繰り返されるが、その被害が河川の沿岸に限られるように変化しただけである。昔は利根川水系の洪水は江戸市中まで被害がおよんだそうだ。
寛永期より宮和田村の名称が出現するが、それは開発地主、宮和田氏の姓が村名になったからである。当然宮和田氏は郷士・名主となる。
又左衛門が剣を握ることになったきっかけは、弘化3(1846)年の関東一円の大洪水にあった。数十年に一度という大水害で村全体が海のようになった。又左衛門初めての経験であったが、名主としては村の百姓を翌年の収穫まで食い継がさなければならない。これ以前、領主旗本内藤家(総高4500石)は支配村々五カ村から、屋敷替えのため2000両を上納させていた。又左衛門は百姓救済のために屋敷替えを延期して上納金を下戻すよう出願する。ところが内藤家では、この金を貸付資金にして利子を稼いでいたため具合が悪く、逆に又左衛門を江戸屋敷に召喚して不正の件ありとして投獄してしまった。家は閉門処分にされ、祖母の重病にも対面が許されず、翌年の死にも帰宅が許されなかった。又左衛門は幼くして母を失ったので、この祖母が父親と相談して名主の家を継げるよう厳しく育ててくれた大恩があるのだ。12月から翌年4月まで入牢させられた上に30両を納めて帰宅を許された。怒り心頭とはこのことであるが、帰宅して不正の筋と言いがかりをつけられた件を調べてみれば、逆に内藤家に680両もの貸付があることが判明した。幕府に訴えでたが、役人どもは結託して言を左右し、埒のあかぬままその年も12月になった。これで、地頭糾弾も手立てがなくなったと自覚した又左衛門は、この上は、なんとしても内藤一家を切り殺して、自決するほか道なしと思いさだめた。おりしも、嘉永元(1848)年12月9日、水戸藩剣客跡部主税之助が宮和田の家に泊まったとき、主税之助に本心を打ち明けて、率直に質問した。
「幕吏共不正わいろ送答むつび合い、えこひいき、如何共致方なし、此上は相手も其旗本の一人なり、又用人共迄一家一類切り尽し、快く割腹と決心致し居、壱人にて幾人位い切り殺せ出来べくや」と。
相手は剣客、いとも簡単に「稽古次第」との一言。この一言で剣術を稽古し始め、やがて江戸の千葉周作の玄武道場館に入門、一人息子の勇太郎も嘉永2年11月より千葉道場に入門させ、父子ともにメキメキと剣術の腕を上げていった。
著者いわく。「非法非道な領主への百姓又左衛門の憤怒は幕府倒壊まで決して消えることはなく、領主は又左衛門に精神的に見限られたのである」と。
他方領主殺害の場合、連座制により息子に累が及ぶことを恐れ、勇太郎の保護を水戸藩士に依頼する。百姓としては家を存続させなければならない。嘉永4年1月、又左衛門は勇太郎を水戸藩士で千葉周作の高弟、北辰一刀流の使い手、海保帆平に預ける。また勇太郎に対しては、筆道を秋山長太郎に、漢学を会沢正志斎に、習字を東湖の高弟原田成之助に学ばせた。これ以降、万延元(1860)年海保塾を離れるまで、宮和田勇太郎は水戸藩士の庇護のもとにあった。
又左衛門の剣の筋が良かったため、嘉永3年からは近辺の村々の人々を門弟として取り立て始め、安政元(1854)年には宮和田村に文部場という道場を建てるまでになった。さらに安政4年からは江戸日本橋近く、ヘッツイ河岸に道場を進出、諸藩のサムライ、旗本の家来、町人や大店の奉公人などにも教え、史料のある文久3(1863)年までに、江戸と在方あわせて300人以上の人々を門弟にしている。こうした道場の経営にもなかなかの才能を発揮していた。
又左衛門のような豪農には元来鋭い経営感覚が求められた。義兄弟の関係を結んでいた川崎長左衛門という旗本用人がいた。元来宮和田村の少し北、牛久に所領を持つ旗本由良家用人だったのが、安政4年には1500石の旗本で典薬頭今大路右近の用人となっていた。ところが上総の所領で5年越しの村方騒動があって、安政2年の江戸安政大地震で破損した今大路家江戸屋敷の修理も出来ない窮状、困りぬいた長左衛門が又左衛門に助けを求めてきた。川崎に代わって上総東金に出向いて村方の騒動をおさめて修復金を拠出させるまでに事を納めた。それでも今大路家の財政は逼迫、京都の所領に主人名代を名乗って家来二人と槍持を従えて乗り込み、金子調達の段取りをつけて戻ってきた。名主としての豊かな経験と能力と人物がこの課題を果たさせたのだと著者は述べている。
ところで、弘化3(1846)年から名主役を離れた又左衛門は、内藤家主従一家皆殺しの決意をしたものの、ペリー来航後はさすがに国事に関心が移り、「内藤家の当主を自分の家来にでもするか」というレヴェルまで精神的圧迫度が緩和してきたとはいえ、思い出すのも、嫌悪感の湧き出る相手、この内藤家が以前の通り、名主役を務めてくれと頼み込んできたものの、又左衛門は言を左右にして、いっこうに引受けようとはしなかった。
又左衛門は元来熱烈な水戸藩支持者であり、水戸学を信奉していた。ところが安政5年来の条約勅許問題以後の動きが水戸藩存亡の危機を招いたので、会沢正志斎に自説の強硬論を申し入れたが、応答がなく、別ルートから会沢の対幕府方針を聞き出した。その結果朝廷よりも宗家を重んじ、たとえ亡ぶとも徳川宗家次第との考えがわかり、会沢の人となりは藩士でありながら副将軍を自称し、人を使って手柄を立てるだけと見極めた。単に幕府を維持するがための尊王攘夷論であること、水戸学もただ幕府存続のための政治論だったことに失望して、安政6年9月28日、同郷人の師岡節斎の紹介で平田国学の塾、気吹舎(いぶきのや)に入門する。
平田国学はサムライも百姓も学び入門するが、百姓が学んだ場合には特にその歴史の論じ方が心にくい込んでゆく。神武天皇以来の日本歴史の中では、武士階級が全く存在しなかった上古の時代が長らく続き、しかもこの時代は安定し繁栄したものであり、社会的には朝廷を下から支える60余州の国々があり、それぞれの国の主体は「御国の御民(みくにのみたみ)」、つまり生産者である百姓だったという主張である。又左衛門も百姓だ、武家の時代は永遠ではなく終りもあるはずと理解した。君臣の大義とは封建領主と家臣との主従関係ではなく、仁政を施す天子と全国60余州の生産者としての「御国の御民」との関係なのだ、という見通しがついた。
幕府倒壊後の明治3(1870)年の又左衛門の歌がある。
もののふと いかめしき身も いにしえに かえりてみれば すめらみたから
みたからと いやしめられて のきし身も 今かえりては たのしみもあり
こうして又左衛門は多数の剣術門弟の中で見どころのある青年たちを積極的に気吹舎に入門させる紹介者の役割を果たすようになった。彼がのちに泉州堺に移住してからは、彼が入門させた若者たちが周辺の青年を気吹舎に入るように努めた。
幕末期の平田国学の地域的拠点は、なんといっても東濃・南信の『夜明け前』の世界だが、それに次いで、この下総相馬郡が活発な平田国学者を生み出していった。
又左衛門の紹介した若者の一人に高木英一郎(維新後は宇佐美比古雄)がいるが、この男はのちに足尾銅山鉱毒事件で名をあげる田中正造が慶応元(1865)年に気吹舎に入門する際の紹介者となる。
文久2(1862)年12月、将軍家茂が奉勅攘夷を誓約して上洛することになったので、京都に充満する浪士たちを統御する重圧が幕府にのしかかってきた。このとき、平田篤胤生前からの気吹舎門弟の旗本松平主税之助が浪士組を編成するための浪士取扱いの命を受ける。浪士組は新選組の前身になった市中見廻り役の集団である。京都に集まっている有力浪士を束ね得る優れた力量の人材を徴募・採用の対象としていた。松平は早速、同門のよしみで又左衛門を片腕と頼んで浪士取り立てに協力を依頼してきた。しかし、松平が幕府を支えつつ朝廷との結合を強める立場であったがために又左衛門は婉曲に断っている。
同じ気吹舎にあっても門弟たちの幅はひろく、考え方には相当のヴァリエーションがあり、そして各々が自分の信じるところが先師篤胤の思想だと確信していて、当主平田銕胤はそれを裁定する意図はなかった。
同じ文久2年には息子勇太郎が上京して国事運動を行いたいとのたっての願いを聞き入れて、その上京活動資金捻出に、本格的に宮和田家の土地田畑等の財産処分をおこなった。勇太郎出立にあたって与えた又左衛門の訓戒は平田国学解釈の見事な又左衛門ヴァージョンとして著者は紹介する。
大君につかえまつらんに忠なるは論なし、命を全くし、己れ死しても我が子に又忠を尽くさせんこそ心掛けなるべし、右を全うせんには、第一子孫をふやすも忠の一なるべし、大君には御国に敵はあらじ、然れば忠孝を思う益良雄は生を全うし仕え奉らむ心得専一也、己れの武勇に誇り少しの義気に迫り命惜しまぬは忠孝にならざると知るべし、(中略)、己れ一身の義勇に迫る勿れ、時としては早く関東に下り、外々にも士気引起こし、父母親族をも養い、必其方迄男子不絶の我が家を子孫絶やさぬ様、皇大御神に祈り奉れ、(中略)今世の人は三百年の少恩は知れど、三千年の大恩をしらず、えみしらに皇国を汚さるをも心とせぬえせつかさのみ多ける中に、賤が男ながら神の御末に生まれいで、えみしらに皇国をあなづられるをむなしく見て、産みの親にのみまめまめしく仕えるをとて、心ある親のなどかうれしと思わん
家の存続と家の繁栄を中核とする百姓の論理が貫かれ、三百年の主従関係にかわり三千年の天子と御民の関係が国家論の骨子となっている。外圧に屈しつづける幕府と諸大名は「えせつかさ」であって新たなものに換えられなければならないと規定される。
等持院足利三代木像梟首事件は文久3(1863)年2月22日に起きた木造の首が三条河原にさらされた事件だ。犯人たちの主流は平田門下の人たちであった。その中に京に向かった勇太郎が入っていたのだった。京都所司代松平容保は事件を倒幕思想の表れと見て、それまでの緩やかな方針を転じて厳罰でのぞんだ。勇太郎は伊勢の菰野藩に預かりの身となってしまった。世の動きは激しく、いつ処刑されぬともわからず、子煩悩の又左衛門は不安の中に置かれてしまった。遂に夫婦で少しでも近くにいてやろうと移住を決意した。
文久4(1864)年1月のこと、行き先は泉州堺、旧知の渡り用人の川崎長左衛門がこの年から1300石の旗本今井家用人となっていたのを頼った。肩書は旗本今井彦次郎家来となった。ここでも北辰二刀流の道場を開いて手広く門弟を取り立てたという。さまざまな形での尊攘志士たちの働きかけには決して乗らなかった。国事活動にはいっさいかかわらず慎重に日を過ごしていた。いっとき疑われて新選組に連行されたこともあったが、この慎重さのために難を免れた。平田門人としての活動はしっかりおこない東西の気吹舎間の情報取次にあたっていた。
勇太郎は幽閉されたまま当面死罪にならなかったが、先行きはどうなるか。万一を慮った又左衛門は養子を迎えることにして、門弟の中から真面目で腕のある三河国長篠出身の金子真平を選び、宮和田進と名乗らせた。慶応3(1867)年、江戸に出向いた際、進は気吹舎に入門した。
慶応4(1868)年1月3日戊辰戦争が始まって幕府軍は大敗し、将軍慶喜は大阪から船で江戸に逃げ帰った。1月7日の朝又左衛門夫婦と進が堺の自宅に居るとき、故郷宮和田村の領主内藤鉢之丞ら主従5人が落ち武者となって現れ、食物を求めた。主従を斬り殺し自分は切腹して果てようと心に決めて剣術を習い、今まで怨恨が心中深くつかえたまんまの又左衛門の眼前に現れたのだ。しかし、夫婦はこの5名に飯・肴・餅を与えて事情を聞いた。
「1月6日の夜中、急登城を触れられ登城するに、上様は先立って紀州に御出立、それ故紀州路に早々出立致すべしと荒々しく申し渡され、その身そのままにて逃げ来たりし故、今に食事も取れず空腹」との事、又左衛門にとっての御一新とは正にこの瞬間になった。53歳にして彼の胸のつかえを歴史の激動が見事に氷解し去ったのである。怨恨はここに一洗され、疲労の極にあった鉢之丞には駕籠をやとい紀州に落ちのびさせてやった。
6日後の1月13日、又左衛門は大納言中山忠能の御召により今井屋敷から乗馬で出立、槍一筋を持たせ、門弟3、40名を従えて大阪に向かい上京する。一方、勇太郎は無事釈放されて堺に来たが父は出立のあと、京に上って6年ぶりに父子対面がかなった。
又左衛門の心の悦びの様子を伝える手紙が遺されている。慶応4年2月、故郷宮和田村親族に宛てている。「誠に心よき時節に相成申候、一同只今死に候ても、是外にのぞみ無之事と申居候、此段御一笑可被下候、余りうれしくて何も何も出来不申」
さて、それでは養子の宮和田進はどうなったか。残念なことに死亡した。大村益次郎暗殺に加担し、乱闘のさなかに闘死している。大村は長州に諸隊と呼ばれる組織をつくりあげて民衆のエネルギーを解き放つことによって幕府軍を敗退させた功労者である。新政府では新しい軍制を建てる構想を進めていたが反対者も多く、暗殺には遺恨説もある。宮和田進が何故加わっていたかについて、著者は伝えていないが、又左衛門夫婦が東京に戻ったあとも中山家に仕えていたとある。進には夫婦約束を交わした女性がいた。お光という。明治2年10月「ご両親様、御兄上様」に宛てた見事な筆跡の書状をしたためている。
進義、先達て申上候通り、九月四日夜打死被致候故、両人の約束の義、今更申上候て誠に誠にすまぬ事と存候得共、何卒何卒前以御相談申まいらせ候、後また此地にて両人の心にて夫婦と相成候義、幾えにも御免被成度、私義は進存命中に両人とも申合せ、何程のかんなんもいとい不申、たとえ米のかゆすすれ不申とても、麦かゆより食事出来不申とてもかまい不申と、両人申合、夫婦約束いたしたる故、此末はいか成苦労致し候事一切くるしからず候
著者は、この書状の返事がどのようであったか不明だとしながらも、又左衛門はこの娘のいたわしい気持ちに打たれ、二人の間柄を許したものと思われると記す。
著者による又左衛門の物語はこれで終わっている。その後の人生については知らない。Wikipediaには維新後は刑法官、のち富岡八幡宮神職となっている。
平田国学にとっての明治維新はよい結末にならなかったようであるが、又左衛門の心を捉えた天皇を60余国の御民が支える国の形という部分は、現在でも多くの日本人の心に遺されているものであろうと思う。(2019/3)
2019年2月4日月曜日
讀書ノート 岩倉使節団の条約改正ーー宮地正人『幕末維新変革史』より
著者は通史を書こうと思った。史料をもとに幕末維新期の政治過程を筋を通して叙述してみたい、と考えたそうだ。あとからの解釈をできるだけ挿入せず、当時の日本人男女がどのように彼らの現代史をとらえ、理解し行動したのかを、当時の史料から再構成することを本書の目的とした、とあとがきにある。「すべての歴史は現代史である」という格言があるそうだ。いつの時代もその時代の人々にとっては現代史だ。百姓名主が領主の非行横暴に怒り、報復に一家皆殺しを決意して剣術を学んだ結果思いがけない生涯を送る話があったり、文字に縁のない漂流民による海外風説がどのようにして蒐集されたかとか、興味深い事実が紹介される。
筆者は岩倉使節団が目指した条約改正問題について、どのように書いてあるかに興味を持った。結論を言えば、この著者の記述によるだけでは納得のゆかない箇所がある。確実な史料が得られない結果だと筆者は理解しているが、通史であるからには細部にこだわる必要はないとも思う。全体は上下巻で千頁を超える大部の記述で圧倒される。それでもこの時期についての記述は終わっていないのだそうだ。いずれ別の形の作品が現れるのであろう。
廃藩置県断行によって中央統一政府の形をととのえた王政復古功績旧四藩連合政権は、できるだけ早く、自らの手で万国対峙の実を挙げ、政府の権威を国内に確立しなければならなかった。「廃藩置県への即時的反抗・反乱が勃発しないことを確認した政府は、岩倉右大臣(明治4(1871)年10月8日就任)を総責任者とし日本政府そのものを代表する形態の一大使節団を米欧に派遣し、国内での条約改正を回避、直接相手国首脳と条約改正予備交渉を行なって日本側の主張の正当性を認めさせ、他方で国内体制を整えることにより、可能な限り早期に条約改正を実現しようとした。その結果、政府首脳部の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らも随行するという中央政府中枢総出の対外使節団となり、太政大臣三条実美・参議西郷隆盛らを中心とする留守政府の面々は、条約改正を可能とさせる国内改革遂行に従事することとなる」。(下巻331-332頁)
このあとに続けて著者は、使節派遣に関する諮問の文書を引用しながら上記の方針に若干の解説をつけている。文書の出典は注記に、歴史学研究会編『日本史史料4 近代』岩波書店、1997年、64-66頁、とある。この書物の編者は宮地氏自身である。残念ながら手近に現物がない。幸い国会図書館のデジタルコレクションで該当の諮問文書が「岩倉公実記 下巻1」にあったのを参照できた。現物は漢語とカタカナの文章で、漢字を睨んでいれば、おぼろげに内容がわかる、といったものだが、宮地氏は本書では現代の漢字とひらがなの文語で部分的に引用している。
要約すれば、旧政権が締結した条約は使いものにならないという現状が述べられ、我が国が東洋の国の一種とみなされて、我が国の法制・権利・規則・税法など一切が通用しない。甚だしくは公使の喜怒によって談判ができないなど、対等であるべきはずのことが何もない不自由さである。こういう事情が王政復古の後も未だに改善されていないが、ようやく万国対峙・独立不羈の国家を創出するため条約改正を実現できる統一政府が成立した。
しかし、現行条約は来年の西暦1872年7月4日より条約改正協議ができることになっているが、それに対する準備ができていない。諸外国が要求して改正を迫って来れば対応できかねるから当方より申し出る形にしたい。万国公法に従って条約を改正するには、我が国の「國律民律貿易律刑法律税法」等のうち公法と相反するものの改正案をつくり、実際に施行していなければならない。それには三年の期間は見ておかなくてはならない。したがって、一方で全権使節を各国に派遣して和親の意を伝え、併せて条約改正の暫時延期を打診すると同時に条約改正の具体的内容を当方より持ちかけて商議するならば、必ず我論説を至当な事とし同意が得られるであろう。それとともに、列国公法に依って国内改革を行うために「欧亜諸州開化最盛の国体諸法律諸規則等」を実見し調査する(「 」内は原文中の用語ーー筆者)。
明治4年10月8日、使節団が任命され、同日付で岩倉は外務卿を罷め右大臣となる。同月14日、日本政府は岩倉大使が帰国するまで条約改正交渉を延期すると在日各国公使に通告、遣米欧使節団は11月12日、サンフランシスコに向け横浜を出港した。
「米国政府と交渉に入った岩倉は、日本の望む条約改正の骨子は次の通りだと説明する。
❶司法制度の確立に伴い領事裁判を廃止すること
❷外国通貨の日本国内流通を停止すること
❸局外中立規定を確立すること
❹関税決定権を日本側に回復すること
❺犯罪人を相互に引き渡す制度を確立すること
❻両国間の紛争を国際仲介制度により解決すること
❼平和時においては外国軍隊を日本国内に駐留させないこと
正に堂々たる全面的な条約改正要求である。米国政府は逆提案する。条約改正交渉を米日間でおこなうならば、改正交渉に関する日本政府からの全権委任状を提示せよ、と。予備交渉を本交渉に切りかえられるとあって、ただちに大久保と伊藤が委任状受領のため帰国、米国に戻る直前の1872年5月6日(明治5年3月29日)、伊藤は駐日英国代理行使アダムス(パークス公使は本国での日本使節との交渉のため帰国中)を訪問、『十分な権限を有していなかったので、委任状を取りに帰国した』と帰国理由を説明する。」(下巻335頁)
この部分の記述は、まるで答弁書を棒読みする政治家のようである。著者は細部を知っているはずだが書けなかったのだろうと推測する。このあと、アダムスとの問答で、委任状がいる理由は、何らかの成果がほしいからと答え、なぜ成果が今必要かと問えば、国務省と話した結果だと答える。
そこで、「アダムスは本國外務省宛公電で、こう結論づける。当地ではなく海外の地においてすべての条約を締結するため、使節に全権が賦与されるべきだというのが彼らの考えだ、と」。(注記:F/O 46/153.NO.82,7/5/1872、英国外務省宛公信)
「英国代理公使アダムスもドイツ公使フォン・アダムスもブラントも日本の思い上がりに激怒する。日本側の不遜な行為を中断させなければならない。両名は米国経由で帰国、6月26日(明治5年5月21日)にワシントンに到着、この日ブラントは岩倉に面会、こう忠告する。現行の普日条約に規定されている最恵国条款に従い、日米改正条約により米国が獲得するだろうすべてのものはドイツも獲得できる、と同時に、日本がかち得ることになる米国からの譲歩に関しては、その中のいかなる譲歩も日本に与えることに、おそらくドイツ政府は同意しないだろう、と。
ブラントの話を本国外務省に伝えるアダムスは、自分の驚きをこう表現している。
これが信じられるだろうか?使節たちは最恵国条款など聞いたことがないと言明し、岩倉は英日条約中にそれが存在していることを否定した、ということを。しかしそれは事実だ。(注記:F/O 46/154.Adams to Hammond 11/7/1872, confidential.)(ハモンドは外務次官ーー筆者)
英独両使の公然たる介入により、岩倉使節団は米国との条約改正交渉を中止した。1872年9月17日(明治5年8月15日)付の公信で、帰国するアダムスの後を引き継いだ英国臨時駐日公使ワトソンは、日本国内の状況を本国外務大臣にこう伝えた。
日本政府と一般の輿論は、使節団の米国長期滞留とそこで費やされた約40万ドルに見合った成果がないことに関し、彼らが感じている失望をなんら隠そうとしていない。」(下巻第43章 P336-337、注記:F/O 46/155, No.112. 17/9/1872)
「アダムスが米国経由で帰国する出発直前の1872年5月16日、三条太政大臣が送別会に彼を呼び、昨日政府は、新条約を交渉するため条約締結諸国をヨーロッパの地に招集することが決定された、と告げた。」そのような決定がなされた理由は、使節団出発の頃には廃藩置県という大処置がどのような結果を生むのか定かでなく、国民の同意が得られるまで時間がかかると予想されたが、いまや平和裡に受け入れられている。条約改正を延期する必要はなくなったから、早いほうがいいとなったからだという。(注記:F/O 410/14, 20/5/1872, Adams to Granville. 英本国グランヴィル外相宛の公信)(下巻348頁)
この記録は、「華族・士族層の反発」という小見出しで廃藩置県に対する世情を記述する節に挟み込まれているが、ワシントン滞在中の岩倉たちをさしおいて留守政府が決めた情報を知らせている。アダムスは早速本国に知らせ、自分もこの情報を知った上で岩倉たちと会談することになる。
ワシントンでの使節団の行動を記述した文章はここまでに紹介した以外にはない。
注記として書き出したF/Oに始まる記号番号は、英国国立図書館の外務省関係文書であることを示す。現在のところデジタル処理がまだできていないため、内容を読むためには閲覧室まで出向かなくてはならない。著者はそれを読んでいるのであろう。
ブラントはプロイセン王国の初代駐日領事として来日し、後、ドイツ帝国成立でドイツ公使となる。日普修好通商条約は1861年に締結され、1871年ドイツ帝国成立時にそのまま引き継がれた。
米国との交渉を中止したあとの状況を著者は次のように記述する。
「日米条約改正交渉を挫折させられた以後の岩倉使節団にとっては、彼らの欧州回覧は、逆にキリスト教弾圧を避難され、日本側の要望を納得させるどころではない形勢逆転の失意の旅行となった。彼らの回遊全体をよく見ていたのは、生誕期の日本ジャーナリズムよりも、在日欧米社会の方であった。1874年1月17日付の "The Japan weekly Mail" は次のように総括するのである」(下巻337頁)。
引用が長いので、適宜要点を拾って記すことにする。
「使節団の指導的メンバーたちは、彼らの最も切望していた課題」即ち「外国人に対する司法権問題」が、「そこに自分たちが現れることだけで瞬時に解決される」かのような「希望に満ちあふれて旅立った」。「自国の進歩が条約締結諸国(Treaty Powers)に対し公正な司法行政への保証を与えるとの考えにそそのかされたのだ。この、公正な司法行政の存在なしに、外国人と外国人の諸権利を外国の司法権から日本国の司法権に移すという提案は一瞬たりとも外国人によって聴き入れられないものである。彼らは相当浅薄なお雇い外国人たちに惑わされたのだ。」「また彼らは某国外務大臣に騙されたのだ。この人物は、彼と同じ官職にある人々が当該問題に関しとっている立場を愚かにも放棄してしまったのだ(その処置はあとになって彼の政府により完璧に否認されたのだが)。」「日本人のプライドを傷つけ、その虚栄心をさいなんできた文明諸国(the more civilized nations)に対する劣等性の刻印(the mark of inferiority)が除去されて、何の不思議があっただろうか。」しかし「訪問した各国の外務大臣たちは彼らを暖かく歓迎したとはいいながら、問題をただちに在日外交代表に委ねてしまった。これは使節団にとっては苦い下剤を飲まされたものとなった。」「各国在日外交代表団がどのような見解を[…]いだいているかを、あまりにもよく知っていたからである。」日本人は外国の膨大な法典を翻訳・解釈・自国への適合を研究する外国人・専門家を雇って十分な準備をした。しかし在日外交代表団の立場は確乎たるものだ。「日本人は、彼らと外国人との間において、一時的にせよ司法制度に対するヨーロッパ人の要求を満足させ、また中立公平な司法行政への微小なりとも保証を与えうる裁判所も法律も訴訟手続も、何一つ有していないのである。」(注記:FO 46/176,18/1/1872,Parkes' private letter Encl.)
第44章に著者は、条約改正が予想を遥かに超える至難の大事業であることが判明したと、岩倉公が帰国直後、明治6(1873)年9月13日に明治天皇に告白した記録を採り入れている( 下巻357頁)。内容はお詫びの弁明で具体的な事柄は書かれていない。ここでは省略して出典を記しておく。「東京大学史料編纂所所蔵「修史局雑綴」第28冊」。
次いで著者は使節団が条約改正交渉に失敗した要因を明かしてくれる史料を紹介する。
「欧米キリスト教諸国が日本に押しつけている治外法権と低率協定関税は、日本に対してだけのものでは全くなく、不平等条約体制という国際的法秩序そのものだ、という苦い真実を使節団は米欧回覧の中ではじめて理解した。
パリの公使館に顧問として勤めていた英人マーシャルは英国外相の求めに応じ、74年5月6日付で次のような覚書を提出している。
使節団がヨーロッパに来るまで、いかなる日本人も、日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった。使節団がヨーロッパに着いてのち、特にパリに滞在する間に、はじめて彼らはこの問題を徹底的に学ぶことができた。彼らはようやく理解できた、日本の諸条約は、ヨーロッパがトルコとのカピチュレーション以来、東方諸国家との取りきめに際し適用しつづけてきた諸規定・諸規範の単なる応用に過ぎないのだということを。彼らは発見した、日本は他のアジア諸国と同様、明瞭な劣等性の原則の上にのみ取り扱われていること、諸条約は国家的自由の最も重要な表象たる独立と法権という国家主権を部分的にであれ剥奪しているのだということを(注記:F/O 410/14,6/5/1874,Marshall to Derby)」。(下巻 358頁)
著者は「岩倉をはじめとする使節団のメンバーはこれ以降、現行条約以上の譲歩を締結諸国に絶対に認めないこと、条約改正実現には日本国家の国際的実力を強化する以外に途がないことを心に誓い、行動に具体化していく。」と述べてこの件を終わっている。
ところで、カピチュレーション(capitulation)という用語が登場するが、これについては上巻第4章に不平等条約世界体制の起源として説明されている。治外法権・領事裁判制度の起源となったオスマン帝国の制度。キリスト教徒を二等国民として帝国臣民のイスラム教徒と差別した支配体制。オスマン帝国側からの特恵的条約であって、いつでも帝国側から停止、廃止可能であった。帝国内で交易するキリスト教徒との紛争に備える裁判制度として機能していた。マーシャルの覚書での言及は条約上の治外法権に関することであるが、「日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった」という表現こそ使節団が最恵国条款の存在を知らなかったことを指している。このことも著者が第4章の東アジア外交をリードする英国の政策の中で説明している。
「イギリスが、この不平等条約世界体制を実現するために最も重視したのが条約締結諸国(ただしロシアは除外されている)との共同要求・共同行動という行動パターンであった。英語ではTreaty Powersという名称で頻繁に登場する。他の欧米列強を共同の要求と行動に巻き込み、欧米列強の外交力・軍事力を総結集することにより、自由貿易体制を貫徹深化させ、最恵国条款により、勝ちとる権利を均霑させ、しかもその中で自国が自動的に最大の受益者となるという論理がそこに貫かれていた」(上巻62頁)。
(「均霑(きんてん)」の字義は「等しくうるおう」であり、語義は「平等に利益を得る、または与える」ことをいうーー筆者)
筆者は岩倉使節団が目指した条約改正問題について、どのように書いてあるかに興味を持った。結論を言えば、この著者の記述によるだけでは納得のゆかない箇所がある。確実な史料が得られない結果だと筆者は理解しているが、通史であるからには細部にこだわる必要はないとも思う。全体は上下巻で千頁を超える大部の記述で圧倒される。それでもこの時期についての記述は終わっていないのだそうだ。いずれ別の形の作品が現れるのであろう。
廃藩置県断行によって中央統一政府の形をととのえた王政復古功績旧四藩連合政権は、できるだけ早く、自らの手で万国対峙の実を挙げ、政府の権威を国内に確立しなければならなかった。「廃藩置県への即時的反抗・反乱が勃発しないことを確認した政府は、岩倉右大臣(明治4(1871)年10月8日就任)を総責任者とし日本政府そのものを代表する形態の一大使節団を米欧に派遣し、国内での条約改正を回避、直接相手国首脳と条約改正予備交渉を行なって日本側の主張の正当性を認めさせ、他方で国内体制を整えることにより、可能な限り早期に条約改正を実現しようとした。その結果、政府首脳部の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らも随行するという中央政府中枢総出の対外使節団となり、太政大臣三条実美・参議西郷隆盛らを中心とする留守政府の面々は、条約改正を可能とさせる国内改革遂行に従事することとなる」。(下巻331-332頁)
このあとに続けて著者は、使節派遣に関する諮問の文書を引用しながら上記の方針に若干の解説をつけている。文書の出典は注記に、歴史学研究会編『日本史史料4 近代』岩波書店、1997年、64-66頁、とある。この書物の編者は宮地氏自身である。残念ながら手近に現物がない。幸い国会図書館のデジタルコレクションで該当の諮問文書が「岩倉公実記 下巻1」にあったのを参照できた。現物は漢語とカタカナの文章で、漢字を睨んでいれば、おぼろげに内容がわかる、といったものだが、宮地氏は本書では現代の漢字とひらがなの文語で部分的に引用している。
要約すれば、旧政権が締結した条約は使いものにならないという現状が述べられ、我が国が東洋の国の一種とみなされて、我が国の法制・権利・規則・税法など一切が通用しない。甚だしくは公使の喜怒によって談判ができないなど、対等であるべきはずのことが何もない不自由さである。こういう事情が王政復古の後も未だに改善されていないが、ようやく万国対峙・独立不羈の国家を創出するため条約改正を実現できる統一政府が成立した。
しかし、現行条約は来年の西暦1872年7月4日より条約改正協議ができることになっているが、それに対する準備ができていない。諸外国が要求して改正を迫って来れば対応できかねるから当方より申し出る形にしたい。万国公法に従って条約を改正するには、我が国の「國律民律貿易律刑法律税法」等のうち公法と相反するものの改正案をつくり、実際に施行していなければならない。それには三年の期間は見ておかなくてはならない。したがって、一方で全権使節を各国に派遣して和親の意を伝え、併せて条約改正の暫時延期を打診すると同時に条約改正の具体的内容を当方より持ちかけて商議するならば、必ず我論説を至当な事とし同意が得られるであろう。それとともに、列国公法に依って国内改革を行うために「欧亜諸州開化最盛の国体諸法律諸規則等」を実見し調査する(「 」内は原文中の用語ーー筆者)。
明治4年10月8日、使節団が任命され、同日付で岩倉は外務卿を罷め右大臣となる。同月14日、日本政府は岩倉大使が帰国するまで条約改正交渉を延期すると在日各国公使に通告、遣米欧使節団は11月12日、サンフランシスコに向け横浜を出港した。
「米国政府と交渉に入った岩倉は、日本の望む条約改正の骨子は次の通りだと説明する。
❶司法制度の確立に伴い領事裁判を廃止すること
❷外国通貨の日本国内流通を停止すること
❸局外中立規定を確立すること
❹関税決定権を日本側に回復すること
❺犯罪人を相互に引き渡す制度を確立すること
❻両国間の紛争を国際仲介制度により解決すること
❼平和時においては外国軍隊を日本国内に駐留させないこと
正に堂々たる全面的な条約改正要求である。米国政府は逆提案する。条約改正交渉を米日間でおこなうならば、改正交渉に関する日本政府からの全権委任状を提示せよ、と。予備交渉を本交渉に切りかえられるとあって、ただちに大久保と伊藤が委任状受領のため帰国、米国に戻る直前の1872年5月6日(明治5年3月29日)、伊藤は駐日英国代理行使アダムス(パークス公使は本国での日本使節との交渉のため帰国中)を訪問、『十分な権限を有していなかったので、委任状を取りに帰国した』と帰国理由を説明する。」(下巻335頁)
この部分の記述は、まるで答弁書を棒読みする政治家のようである。著者は細部を知っているはずだが書けなかったのだろうと推測する。このあと、アダムスとの問答で、委任状がいる理由は、何らかの成果がほしいからと答え、なぜ成果が今必要かと問えば、国務省と話した結果だと答える。
そこで、「アダムスは本國外務省宛公電で、こう結論づける。当地ではなく海外の地においてすべての条約を締結するため、使節に全権が賦与されるべきだというのが彼らの考えだ、と」。(注記:F/O 46/153.NO.82,7/5/1872、英国外務省宛公信)
「英国代理公使アダムスもドイツ公使フォン・アダムスもブラントも日本の思い上がりに激怒する。日本側の不遜な行為を中断させなければならない。両名は米国経由で帰国、6月26日(明治5年5月21日)にワシントンに到着、この日ブラントは岩倉に面会、こう忠告する。現行の普日条約に規定されている最恵国条款に従い、日米改正条約により米国が獲得するだろうすべてのものはドイツも獲得できる、と同時に、日本がかち得ることになる米国からの譲歩に関しては、その中のいかなる譲歩も日本に与えることに、おそらくドイツ政府は同意しないだろう、と。
ブラントの話を本国外務省に伝えるアダムスは、自分の驚きをこう表現している。
これが信じられるだろうか?使節たちは最恵国条款など聞いたことがないと言明し、岩倉は英日条約中にそれが存在していることを否定した、ということを。しかしそれは事実だ。(注記:F/O 46/154.Adams to Hammond 11/7/1872, confidential.)(ハモンドは外務次官ーー筆者)
英独両使の公然たる介入により、岩倉使節団は米国との条約改正交渉を中止した。1872年9月17日(明治5年8月15日)付の公信で、帰国するアダムスの後を引き継いだ英国臨時駐日公使ワトソンは、日本国内の状況を本国外務大臣にこう伝えた。
日本政府と一般の輿論は、使節団の米国長期滞留とそこで費やされた約40万ドルに見合った成果がないことに関し、彼らが感じている失望をなんら隠そうとしていない。」(下巻第43章 P336-337、注記:F/O 46/155, No.112. 17/9/1872)
「アダムスが米国経由で帰国する出発直前の1872年5月16日、三条太政大臣が送別会に彼を呼び、昨日政府は、新条約を交渉するため条約締結諸国をヨーロッパの地に招集することが決定された、と告げた。」そのような決定がなされた理由は、使節団出発の頃には廃藩置県という大処置がどのような結果を生むのか定かでなく、国民の同意が得られるまで時間がかかると予想されたが、いまや平和裡に受け入れられている。条約改正を延期する必要はなくなったから、早いほうがいいとなったからだという。(注記:F/O 410/14, 20/5/1872, Adams to Granville. 英本国グランヴィル外相宛の公信)(下巻348頁)
この記録は、「華族・士族層の反発」という小見出しで廃藩置県に対する世情を記述する節に挟み込まれているが、ワシントン滞在中の岩倉たちをさしおいて留守政府が決めた情報を知らせている。アダムスは早速本国に知らせ、自分もこの情報を知った上で岩倉たちと会談することになる。
ワシントンでの使節団の行動を記述した文章はここまでに紹介した以外にはない。
注記として書き出したF/Oに始まる記号番号は、英国国立図書館の外務省関係文書であることを示す。現在のところデジタル処理がまだできていないため、内容を読むためには閲覧室まで出向かなくてはならない。著者はそれを読んでいるのであろう。
ブラントはプロイセン王国の初代駐日領事として来日し、後、ドイツ帝国成立でドイツ公使となる。日普修好通商条約は1861年に締結され、1871年ドイツ帝国成立時にそのまま引き継がれた。
米国との交渉を中止したあとの状況を著者は次のように記述する。
「日米条約改正交渉を挫折させられた以後の岩倉使節団にとっては、彼らの欧州回覧は、逆にキリスト教弾圧を避難され、日本側の要望を納得させるどころではない形勢逆転の失意の旅行となった。彼らの回遊全体をよく見ていたのは、生誕期の日本ジャーナリズムよりも、在日欧米社会の方であった。1874年1月17日付の "The Japan weekly Mail" は次のように総括するのである」(下巻337頁)。
引用が長いので、適宜要点を拾って記すことにする。
「使節団の指導的メンバーたちは、彼らの最も切望していた課題」即ち「外国人に対する司法権問題」が、「そこに自分たちが現れることだけで瞬時に解決される」かのような「希望に満ちあふれて旅立った」。「自国の進歩が条約締結諸国(Treaty Powers)に対し公正な司法行政への保証を与えるとの考えにそそのかされたのだ。この、公正な司法行政の存在なしに、外国人と外国人の諸権利を外国の司法権から日本国の司法権に移すという提案は一瞬たりとも外国人によって聴き入れられないものである。彼らは相当浅薄なお雇い外国人たちに惑わされたのだ。」「また彼らは某国外務大臣に騙されたのだ。この人物は、彼と同じ官職にある人々が当該問題に関しとっている立場を愚かにも放棄してしまったのだ(その処置はあとになって彼の政府により完璧に否認されたのだが)。」「日本人のプライドを傷つけ、その虚栄心をさいなんできた文明諸国(the more civilized nations)に対する劣等性の刻印(the mark of inferiority)が除去されて、何の不思議があっただろうか。」しかし「訪問した各国の外務大臣たちは彼らを暖かく歓迎したとはいいながら、問題をただちに在日外交代表に委ねてしまった。これは使節団にとっては苦い下剤を飲まされたものとなった。」「各国在日外交代表団がどのような見解を[…]いだいているかを、あまりにもよく知っていたからである。」日本人は外国の膨大な法典を翻訳・解釈・自国への適合を研究する外国人・専門家を雇って十分な準備をした。しかし在日外交代表団の立場は確乎たるものだ。「日本人は、彼らと外国人との間において、一時的にせよ司法制度に対するヨーロッパ人の要求を満足させ、また中立公平な司法行政への微小なりとも保証を与えうる裁判所も法律も訴訟手続も、何一つ有していないのである。」(注記:FO 46/176,18/1/1872,Parkes' private letter Encl.)
第44章に著者は、条約改正が予想を遥かに超える至難の大事業であることが判明したと、岩倉公が帰国直後、明治6(1873)年9月13日に明治天皇に告白した記録を採り入れている( 下巻357頁)。内容はお詫びの弁明で具体的な事柄は書かれていない。ここでは省略して出典を記しておく。「東京大学史料編纂所所蔵「修史局雑綴」第28冊」。
次いで著者は使節団が条約改正交渉に失敗した要因を明かしてくれる史料を紹介する。
「欧米キリスト教諸国が日本に押しつけている治外法権と低率協定関税は、日本に対してだけのものでは全くなく、不平等条約体制という国際的法秩序そのものだ、という苦い真実を使節団は米欧回覧の中ではじめて理解した。
パリの公使館に顧問として勤めていた英人マーシャルは英国外相の求めに応じ、74年5月6日付で次のような覚書を提出している。
使節団がヨーロッパに来るまで、いかなる日本人も、日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった。使節団がヨーロッパに着いてのち、特にパリに滞在する間に、はじめて彼らはこの問題を徹底的に学ぶことができた。彼らはようやく理解できた、日本の諸条約は、ヨーロッパがトルコとのカピチュレーション以来、東方諸国家との取りきめに際し適用しつづけてきた諸規定・諸規範の単なる応用に過ぎないのだということを。彼らは発見した、日本は他のアジア諸国と同様、明瞭な劣等性の原則の上にのみ取り扱われていること、諸条約は国家的自由の最も重要な表象たる独立と法権という国家主権を部分的にであれ剥奪しているのだということを(注記:F/O 410/14,6/5/1874,Marshall to Derby)」。(下巻 358頁)
著者は「岩倉をはじめとする使節団のメンバーはこれ以降、現行条約以上の譲歩を締結諸国に絶対に認めないこと、条約改正実現には日本国家の国際的実力を強化する以外に途がないことを心に誓い、行動に具体化していく。」と述べてこの件を終わっている。
ところで、カピチュレーション(capitulation)という用語が登場するが、これについては上巻第4章に不平等条約世界体制の起源として説明されている。治外法権・領事裁判制度の起源となったオスマン帝国の制度。キリスト教徒を二等国民として帝国臣民のイスラム教徒と差別した支配体制。オスマン帝国側からの特恵的条約であって、いつでも帝国側から停止、廃止可能であった。帝国内で交易するキリスト教徒との紛争に備える裁判制度として機能していた。マーシャルの覚書での言及は条約上の治外法権に関することであるが、「日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった」という表現こそ使節団が最恵国条款の存在を知らなかったことを指している。このことも著者が第4章の東アジア外交をリードする英国の政策の中で説明している。
「イギリスが、この不平等条約世界体制を実現するために最も重視したのが条約締結諸国(ただしロシアは除外されている)との共同要求・共同行動という行動パターンであった。英語ではTreaty Powersという名称で頻繁に登場する。他の欧米列強を共同の要求と行動に巻き込み、欧米列強の外交力・軍事力を総結集することにより、自由貿易体制を貫徹深化させ、最恵国条款により、勝ちとる権利を均霑させ、しかもその中で自国が自動的に最大の受益者となるという論理がそこに貫かれていた」(上巻62頁)。
(「均霑(きんてん)」の字義は「等しくうるおう」であり、語義は「平等に利益を得る、または与える」ことをいうーー筆者)
読者として知りたいと思った疑問に、史料によってのみ記述する著者が答えてくれたのはこれで全部だと思う。しかし、まだもやもやした気分が残っている。岩倉への使節派遣諮問にみられるように、新政権は万国対峙・独立不羈を標榜して世界の中に位置する国家という日本を自覚している。したがって条約改正には世界を相手にしなくてはならず、そのためには「万国公法」に従わなくてはならない。だから「万国公法」を研究したうえで新政府の政策万般を策定しているつもりでいる。それなのに条約改正交渉は列国に相手にされない。鍵は「不平等条約体制」というシステムにあった。「万国公法」はアメリカ人ヘンリー・ホィートン(Henry Wheaton)が著した「The element of the international law」が清国でウイリアム・マーティン(漢字名「丁韙良」)によって漢訳された『万国公法』と、オランダのライデン大学のフィッセリング(Simon Vissering)の講義を留学生西周と津田真道が筆録したものを翻訳した『万国公法』の二種があり、日本では同時期に出回ってベストセラーだったらしい。それにもかかわらず、岩倉たちは自国の締結した条約に最恵国条款があることを知らなかった。ある書物に、ホィートンのころは 文明の國(civilized nations) とキリスト教国(Christian nations)は同じ意味に扱われていて、国際法はキリスト教国にしか妥当しなかったのが事実であった、と書かれてあった(丸山真男氏の発言、『翻訳と日本の近代』岩波新書、加藤周一氏共著、1998年)。このことと当時の日本人に最恵国条款についての知識がないこととがあるいは関係しているのかもしれない、などと考えている。いずれにしろ、宮地正人氏は史実にしたがって歴史を記述されたことには違いない。
ふと思いついて、萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』を読んでみた。新聞連載中から気になっていたこの著作、全14巻にもなってしまってからいよいよ手が出ず、今に至る。ようやくこの一冊を手にしてみると、読まずば死ねまいという気になった。この岩倉使節団の巻はいい勉強になった。
英国外交団内部で交換された情報記録のほかに木戸孝允日記ほか日本の外交文書など広い範囲の史料が駆使されていて、宮地氏の叙述とは別種の刺激を与えられる。
岩倉たちがワシントンで会談した米国側はフィッシュ国務長官であった。岩倉使節団が発遣されたことをうけてロンドンに帰国していたパークスは英国駐米公使サー・エドワード・ソーントンとの交信によってワシントンの情勢をつかむ。以下は「ソーントンよりグランヴィル外相への報告、1872年3月15日付、ワシントン発」にしたがって萩原氏が記している内容に沿って述べる。
ソーントンは3月14日、フィッシュに会って使節団の目的など尋ねた。既に二度日本側と会談していた。日本側は諸外国との条約を改正したい一般的な意向を持っており、その新条約の基礎とすべく、アメリカ政府と何らかの協定に到達したい意向を表明した。他の条約締結国も類似の基礎案に同意することを希望しているとも。日本側が提出した信任状には、交渉をおこなって調印する権限をあたえられていないこと、日本に帰る以前に交渉を開始する意向が記されていないことが確かなように思えたので、調印する権限を確認したところ、権限は持っていないが、議定書を作成し、そこに双方の見解を書き留めておくことはできるのではないかとのこと。これに対してフィッシュが、その議定書をやがて締結される条約の基礎ないし草案にするのなら、その文書に調印することが必要であるとのべると、必要な権限を取り付けるために、一行のうち2名が近く日本に帰るとこたえた。
つづいて日本側は条約改正に関して日本政府が希望する大筋のところを説明した。(筆者注:前述❶~❼参照)以下はフィッシュの返答である。
第一の領事裁判廃止については、しっかりした司法制度がじっさいに導入され、かつ十分に機能していることが判明した場合にはアメリカは廃止に異議を唱えないであろう。第二の外国貨幣の流通については、財務当局に打診することになろう。第三の中立問題は非常に難しく国際法の専門家の意見を徴することが必要。日本側の見解を文書にして提出されたい。第四項以下についてソーントンはフィッシュとの応答を記していない。
治外法権の撤廃と、関税自主権の獲得とを中心とする日本側の要求が、明確に提示され、日本大使の発言は、全体として、独立諸国家間における日本の地位を高め、上昇させたいという強い願望に貫かれていたという。フィッシュは、日本側が口頭で表明した見解を文書にまとめて提供するよう希望した。
つづいてフィッシュは、アメリカ政府の希望として、次の諸点を表明した。
すなわち、第一に、より多くの日本の港、できればすべての港が外国貿易のために開放されるべきこと。第二に、旅券を所持する条約締結国の国民は、商業上の目的で、日本全土を旅行することが許可されるべきこと。なお、同氏は、この旅券の発行に際して、それら諸国の公使は判断力と鑑識力を必要とするであろうと付け加えた。第三に、言論、出版、良心の自由の原則が承認され、この原則が日本において永久に確立されるべきこと。第四に、キリスト教の物的な象徴は尊重されるべきであり、キリスト教徒は日本政府によって迫害されないばかりでなく、私人による迫害をまぬがれるため、日本政府によって保護されるべきこと。第五に、日本が他の諸国にあたえる一切の利益と特権を、アメリカも同等に享受することを期待するものであること。
萩原氏は、この最後の項目は、いわゆる最恵国待遇の要求である、と付記している。(163-166頁)
ついでながら、日本側が画策していたヨーロッパの一国での合同会議案はフィッシュは拒否し、日本の改正要望の実現可能性についても否定的であった。
ブラントがワシントンに到着して岩倉に忠告する。日本が今般米国と即刻条約を結ぶようなことになれば、ドイツが最恵国条項を適用し、日本が米国に対して行う一切の譲歩を要求するが、同時にドイツは日本が米国から獲得するかもしれないいかなる譲歩も日本に与えないと説明した。宮地氏の叙述のとおりである。岩倉がそのような条項を知らぬと言ったに対してブラントは、日本とオーストリア・ハンガリーとの修好通商条約(明治2年9月14日(1869年10月18日)調印)の、第20条の写しを翌日届けたそうである。次にその条文を示す。
「日本天皇陛下、他国の政府及人民に与え、或は爾後与えんとする総て別段の免許及び便宜は、墺地利及洪牙利政府並に其民族にも、此条約施行の日より免許あるべきを今爰(ここ)に確定せり。」(『条約改正関係・日本外交文書』第一巻)
萩原氏は木戸日記を参照している(170頁)。
「2月18日(陽暦3月26日)雨、終日内居、条約一条を集議せり。此度俄に大久保、伊藤帰朝して条約改正の勅許を乞わんとす。今此挙動反顧いたし候に、余等伊藤或は森(有礼)弁務使等の粗(ほぼ)外国事情に通ぜしに託し、怱卒其言に随い、天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪也。」(『木戸孝允日記』二、日本史籍協会版)
「木戸が後悔しているのは、年少の伊藤と森にひきずられて、不覚にも使節団の目的変更に同意したことであり、その結果すぐ明らかになったのは、日米双方の立場の相違の大きさであり、交渉を継続した場合『彼の欲するものは尽(ことごと)く与え、我欲するものは未(いまだ)一も得る能わず』という事態を招く恐れである。ここにおいて嘆息すべきものは、開国を思い、人民を顧みるよりも、また『功名の馳せるの弊なきにしもあらず』ともいっているが、ここにいう功名の弊は、伊藤と森についてばかりでなく、使節団と同船で帰国したアメリカの駐日公使デ・ロングと、使節団をワシントンで迎えた国務長官フィッシュについても、同じく言えたことかもしれない。フィッシュとデ・ロングの場合、「功名」を競う相手とは、当然イギリスであり、パークスであろう。」
ちなみに意見の齟齬をきたした彼らの年齢を記す。岩倉47歳、木戸39歳、大久保42歳、伊藤31歳、森26歳。
この萩原氏の著書によって、宮地氏の記述では腑に落ちなかった大久保と伊藤が取りに戻った委任状の役割が、議定書の草案に調印するためのものであったこと、そしてアメリカの逆提案の内容も読者は理解できた。予備交渉のはずが本交渉まがいになったかのような事態は、伊藤と森の英語遣いの二人が大使・副使たちをさしおいて会談を進めたようにもとれるが、ソーントンの報告に徴しても確かな事実は不明である。宮地氏が事の次第を記さなかったのは記録がないからであろう。
木戸は5月25日(陰暦)の記述に「森(有礼)大に旧条約の趣旨を誤り」と記しているが、森が最恵国条項についてブラントやアダムスが指摘するような危険を認めなかったという意味であろうと萩原氏は指摘している。
「7月22日、大使岩倉以下、副使の木戸、大久保、伊藤、山口は、三条太政大臣、参議、外務卿輔にあてて、滞米交渉中止にいたる事情について連名の最終報告を作成したが、そこでくりかえし強調されているのは、最恵国条項の問題である。」「アメリカやイギリスの反対により、その合同会議を海外でひらく見込みがない以上、『我使節一行帰朝の上、我国にて会同条約の挙を起(おこし)候方上策に可有之候』というのが、その結論であった。」「そして片務的最恵国条項の重みをかみしめる如く、つぎのように記している。」として、『条約改正関係・日本外交文書第一巻』よりアメリカからの最終報告書を引用している。
続く引用文は煩雑を避けて省略する。日英修好通商条約を例に取り、その23条(最恵国条項)を説明してある。日英修好通商条約第23条について、米国との条約を改正して新条約がなった場合、英国は旧条約のままで利点だけ獲得することになるとその効果を説明している。日英修好通商条約をふくめて、「安政の諸条約」が片務的であるゆえんは、この点にある。
萩原氏は次のように記してこのくだりを結ぶ。
条約改正交渉の前途に最恵国条項という難題が待ち構えているという認識こそ、使節団が痛切に思い知らされた教訓であった。
二日後の7月24日(陰暦6月19日)、別れの挨拶に来訪した岩倉にたいして、フィッシュもこの点に言及するのを忘れなかった。
「フィッシュ 今般条約改正の義は、素より帰国の御所望に付、此方にても之を引受、談判に取掛候処、其後貴政府の御議論も有之趣にて、遂に半途にして立消いたし候に至る上は、合衆国政府は依然旧条約を固持するの権理は有之義に候。」
「フィッシュ 若し欧州において新条約御取結の上は、合衆国は矢張旧条約を固持し、新条約にて他国へ御差許の箇条は之を占むるの権里有之候。」(216頁)
岩倉使節団がアメリカ側に申し入れた基本的な要求のうち、治外法権の撤廃が明治22年(1889)、関税自主権の獲得が明治44年(1911)と、それぞれ明治の大半をついやして漸く実現の日を迎える。
今回筆者が参照した書物にはあまり書かれていないが、米国代理公使であった森有礼が条約改正問題だけでなく、それ以前からの米国における個人的な行動・思想が大いに関係している。森がキリスト教信者であり、キリスト教解禁要求には立場が難しかったこと、『日本の教育』(英文)、「英語国語論」などの著者・論者であること、秩禄奉還を私有財産を侵す人権問題ととらえて公然と政府方針に反対していたこと、これらすべてを通じて米国政府内に森に好意をいだく者が多かったこと等々が遠因・近因としてあったと思う。ただこういう問題が明示の記録に出ていないので、研究論文の範囲まででしか公にならないのであろうと考える。森有礼は不幸にも暴漢のために横死する結果になったが、暴漢でなくとも彼の周囲には日本人という壁があったと思うし、その壁は今日でも日本人の間にあるのではないか。岩倉使節団の当時も現在も日本人の風景というのは変わっていないように思える。
読んだ本:宮地正人 『幕末維新変革史(上)(下)』岩波現代文庫 2018年
萩原延壽 『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』朝日新 聞社 2000年
2018年2月24日土曜日
読書雑感 『はてしなき荒野』ギュンター・グラス
ギュンター・グラスの本の表紙はいつも著者自身の手になるカットで飾られている。この本の場合には何やら黒っぽい塊が描かれている。本文を
すこし読み進んだあとで見直してみれば、なるほど二人の人だ。ベルリンの街なかを歩くふたりづれ、長身で痩躯、そのわきに恰幅のよい短足、黒っぽいフェルトと灰色の混毛の帽子とコートの輪郭がひとつに溶け合って進んで行く。画の中に隠された顔つきはわかりようもないが、筆者は失礼ながら大阪漫才のオール巨人・オール阪神のコンビを連想した。単に体つきだけのことだけど。
本題に戻って、長身のほうはフォンティの愛称で呼ばれるテオ・ヴトケ、100年前の大作家・ジャーナリスト、テオドール・フォンターネ(1819-1898)をこよなく敬愛し、誕生日が同じの故人の生まれ変わりとしてまっとうに生きていこうと早くから訓練を積み重ねてきた。だから、たちどころに故人の句や文を豊富に引用できて、まったく間違いがないところから原作者の顔をしていられる。ために東ドイツの民主的刷新を目的として結成された団体、文化同盟の依頼で旅回りの講演をする。となりにピッタリついて歩いているのは影の男と言われるルートビッヒ・ホーフタラーだ。1986年にハンス・ヨアヒム・シェートリッヒの小説『タルホーファー』で西側の書籍市場に登場した秘密警察の刑事の名を変えてグラスが連れ出した。タルホーファーは反権力的言動をしたフォンターネにつきまとったが、ホーフタラーは空軍一等兵で戦場リポーターを務めたテオ・ヴトケの行動を探っていた。東西ベルリンを分断していた壁が崩壊して間もなくの頃からこの小説は始まっている。二人の行動を読者に知らせてくれるのは「わたし」と「われわれ」、ファンターネ資料館で脚注を書くなどの仕事をしている。資料館の所在は旧式な個人用昇降機パタノスタが動いている元空軍省の壮大な建物、全部で部屋が2千もある。ボンの西独政府官庁がそっくりベルリンに引っ越すことになって、この建物の中も大混乱の最中だ。フォンティは書類運びの臨時仕事に駆り出され、ホーフターラーは表に出されると困る書類をソファの詰め物にして隠している。おおかたの仕事は半日勤めだ、何しろ政府に金が無い。
余談はさておき、物語の進行はフォンティと家族や縁者の過去を洗い出すようにして進むと言えば簡単そうだが、なにかといえばフォンターネをはじめ叙事詩、シェイクスピアなど古典の引用が出てくる。訳者の説明によれば、「1848年革命時代を含めると140年、ビスマルクの『上からのドイツ統一』からでも120年の近現代史の文化、社会、芸術、政治の各分野からおびただしい人物が登場する。[…]フォンターネの長・短編の作品から占めて17編、作品の登場人物となれば、122名の主役や脇役が総動員されている」のだ。知識に欠ける筆者にとっては字面を追うだけで精一杯、言われていることが頭に入らないことはいうまでもない。危うくハンバーガーのマクドナルドがスコットランドから出てきたと思い込みそうになった。
ナチに占領されたパリの女の子がドイツ兵と仲良くなったあげく、戦後は売女と罵られて頭を丸坊主にされた話は聞いたことがある。ホーフタラーが探し出して連れてきたフォンティの孫娘が、じつはおばあちゃんがそういう目にあった人だが純真な女性だったと語り、ヴトケ一等兵は当時レジスタンスを支援していたのだと明かし、その功績に授与されたと勲章をフォンティに持ってきた。おばあちゃんが戦後ひっそり隠れ住んでいた山地はかの迫害されたユグノー教徒が隠れた場所であり、フォンティはユグノーを祖先に持つ誇りを示すために愛称の末尾にイ音を付けたという。筆者も職人集団でもあったユグノーのことを知ってはいたが、あらためて調べるとブランデンブルグ選帝侯が勅令によって2万人ものユグノーを受け入れ、うち5000人がベルリンに落ち着いて、30年戦争で荒廃したこの街の復興に貢献したという。これが1685年のことだから、ドイツの難民受け入れの歴史に感慨を深めた。本書の最終章には行方がわからなくなったフォンティからユグノー博物館の葉書が届いたとしている。
何しろ知らないことがいっぱいのため、個々のエピソードを傍証を固めながら読み解くのが筆者には面白かった。研究者でもある訳者、林 睦実氏によるあとがきには、1986年にカルカッタを訪れていたギュンター・グラスが、妻とひとりの老人が樹の下で親しげに談笑しているのをアトリエから目撃した。嫉妬にかられながらなおも観察していると、その老人が実はフォンターネであることを発見した。妻は昔からフォンターネの愛読者であったがグラスはそうでもなかった。その時をきっかけに、グラスはフォンターネの作品や伝記を読みあさり、この屈折した作家の生涯に限りない愛着を抱くようになったと述べる。グラスは、プロイセンの首都ベルリンの社会生活を特有の饒舌な文体で書きつづけた長編作家のフォンターネを作品の中では「不滅の人」と設定してついにその実名を出さなかった。
「はてしなき荒野」という表題にこめられたグラスの意図は『エフィ・ブリースト』の中でエフィの父親ブリーストが口癖にいう「そりゃあまりにも厄介な問題だな」からドイツ語をもじって得られている。このドイツ語単語は確かに荒野を意味するが、グラスは、「ビスマルクの血にまみれた上からの統一」(林)と、1990年の無血による「ドイツ基本法」による再統一に対して懐疑的、さらには否定的な眼差しを向けている、このあたりが彼の意図でなかったかと林氏は言われる。
筆者はここしばらくの間、『ブリキの太鼓』『玉ねぎの皮をむきながら』『箱型カメラ』『蟹の横歩き』と通読してきて、語り部グラスには強烈な愛郷心を感じるとともに、その物語には強い土着性だけでなく民族の多様性と寛容の精神が込められていると考えている。とりわけプロイセンや東プロシアをはじめとするいったんは大ドイツ圏に取り込まれた東方の国々での差別や人種に特に敏感であった。東側に多く住んでいたユダヤ人やロマについて親しみを持っていたことも見受けられる。西ドイツ社会民主党に賛同していた政治活動とは別に、みずからの出自に根を持つ土着性はその精神に強く反映していたであろう。カルカッタでフォンターネを目撃したという話題について林氏は白昼夢とだけしか述べていないが、作家の精神作用にそのような性向があったのだろうか。
そのことはさておいても、いったいグラスの作品には夢想・幻想的な部分が多く、わたくしたちが子供の頃に経験した老人に聞く昔語りを思い出させる。作品には出していないがこの人の心の底には、人間の生命体の歴史、いうなればDNAに刻まれた歴史を書くようにしてみずからの育った環境に思いを探っているようにも思える。
それはそれとして、東側と呼ばれた共産圏諸国の解体以来現在まで落ち着いた時世はなく世界は混沌としている。これはまさに文字どおりの荒野の風景ではないか。
この一冊は900ページを超える大部であるので繰り返し読むには休息がいる。わからない部分のほうが多いのではあるが、それにもかかわらず面白く、もう一度読みたい。
ギュンター・グラス『はてしなき荒野』原書1995年、共訳: 林 睦実・石井正人・市川 明、大月書店1999年刊 (2018/2)
すこし読み進んだあとで見直してみれば、なるほど二人の人だ。ベルリンの街なかを歩くふたりづれ、長身で痩躯、そのわきに恰幅のよい短足、黒っぽいフェルトと灰色の混毛の帽子とコートの輪郭がひとつに溶け合って進んで行く。画の中に隠された顔つきはわかりようもないが、筆者は失礼ながら大阪漫才のオール巨人・オール阪神のコンビを連想した。単に体つきだけのことだけど。
本題に戻って、長身のほうはフォンティの愛称で呼ばれるテオ・ヴトケ、100年前の大作家・ジャーナリスト、テオドール・フォンターネ(1819-1898)をこよなく敬愛し、誕生日が同じの故人の生まれ変わりとしてまっとうに生きていこうと早くから訓練を積み重ねてきた。だから、たちどころに故人の句や文を豊富に引用できて、まったく間違いがないところから原作者の顔をしていられる。ために東ドイツの民主的刷新を目的として結成された団体、文化同盟の依頼で旅回りの講演をする。となりにピッタリついて歩いているのは影の男と言われるルートビッヒ・ホーフタラーだ。1986年にハンス・ヨアヒム・シェートリッヒの小説『タルホーファー』で西側の書籍市場に登場した秘密警察の刑事の名を変えてグラスが連れ出した。タルホーファーは反権力的言動をしたフォンターネにつきまとったが、ホーフタラーは空軍一等兵で戦場リポーターを務めたテオ・ヴトケの行動を探っていた。東西ベルリンを分断していた壁が崩壊して間もなくの頃からこの小説は始まっている。二人の行動を読者に知らせてくれるのは「わたし」と「われわれ」、ファンターネ資料館で脚注を書くなどの仕事をしている。資料館の所在は旧式な個人用昇降機パタノスタが動いている元空軍省の壮大な建物、全部で部屋が2千もある。ボンの西独政府官庁がそっくりベルリンに引っ越すことになって、この建物の中も大混乱の最中だ。フォンティは書類運びの臨時仕事に駆り出され、ホーフターラーは表に出されると困る書類をソファの詰め物にして隠している。おおかたの仕事は半日勤めだ、何しろ政府に金が無い。
余談はさておき、物語の進行はフォンティと家族や縁者の過去を洗い出すようにして進むと言えば簡単そうだが、なにかといえばフォンターネをはじめ叙事詩、シェイクスピアなど古典の引用が出てくる。訳者の説明によれば、「1848年革命時代を含めると140年、ビスマルクの『上からのドイツ統一』からでも120年の近現代史の文化、社会、芸術、政治の各分野からおびただしい人物が登場する。[…]フォンターネの長・短編の作品から占めて17編、作品の登場人物となれば、122名の主役や脇役が総動員されている」のだ。知識に欠ける筆者にとっては字面を追うだけで精一杯、言われていることが頭に入らないことはいうまでもない。危うくハンバーガーのマクドナルドがスコットランドから出てきたと思い込みそうになった。
ナチに占領されたパリの女の子がドイツ兵と仲良くなったあげく、戦後は売女と罵られて頭を丸坊主にされた話は聞いたことがある。ホーフタラーが探し出して連れてきたフォンティの孫娘が、じつはおばあちゃんがそういう目にあった人だが純真な女性だったと語り、ヴトケ一等兵は当時レジスタンスを支援していたのだと明かし、その功績に授与されたと勲章をフォンティに持ってきた。おばあちゃんが戦後ひっそり隠れ住んでいた山地はかの迫害されたユグノー教徒が隠れた場所であり、フォンティはユグノーを祖先に持つ誇りを示すために愛称の末尾にイ音を付けたという。筆者も職人集団でもあったユグノーのことを知ってはいたが、あらためて調べるとブランデンブルグ選帝侯が勅令によって2万人ものユグノーを受け入れ、うち5000人がベルリンに落ち着いて、30年戦争で荒廃したこの街の復興に貢献したという。これが1685年のことだから、ドイツの難民受け入れの歴史に感慨を深めた。本書の最終章には行方がわからなくなったフォンティからユグノー博物館の葉書が届いたとしている。
何しろ知らないことがいっぱいのため、個々のエピソードを傍証を固めながら読み解くのが筆者には面白かった。研究者でもある訳者、林 睦実氏によるあとがきには、1986年にカルカッタを訪れていたギュンター・グラスが、妻とひとりの老人が樹の下で親しげに談笑しているのをアトリエから目撃した。嫉妬にかられながらなおも観察していると、その老人が実はフォンターネであることを発見した。妻は昔からフォンターネの愛読者であったがグラスはそうでもなかった。その時をきっかけに、グラスはフォンターネの作品や伝記を読みあさり、この屈折した作家の生涯に限りない愛着を抱くようになったと述べる。グラスは、プロイセンの首都ベルリンの社会生活を特有の饒舌な文体で書きつづけた長編作家のフォンターネを作品の中では「不滅の人」と設定してついにその実名を出さなかった。
「はてしなき荒野」という表題にこめられたグラスの意図は『エフィ・ブリースト』の中でエフィの父親ブリーストが口癖にいう「そりゃあまりにも厄介な問題だな」からドイツ語をもじって得られている。このドイツ語単語は確かに荒野を意味するが、グラスは、「ビスマルクの血にまみれた上からの統一」(林)と、1990年の無血による「ドイツ基本法」による再統一に対して懐疑的、さらには否定的な眼差しを向けている、このあたりが彼の意図でなかったかと林氏は言われる。
筆者はここしばらくの間、『ブリキの太鼓』『玉ねぎの皮をむきながら』『箱型カメラ』『蟹の横歩き』と通読してきて、語り部グラスには強烈な愛郷心を感じるとともに、その物語には強い土着性だけでなく民族の多様性と寛容の精神が込められていると考えている。とりわけプロイセンや東プロシアをはじめとするいったんは大ドイツ圏に取り込まれた東方の国々での差別や人種に特に敏感であった。東側に多く住んでいたユダヤ人やロマについて親しみを持っていたことも見受けられる。西ドイツ社会民主党に賛同していた政治活動とは別に、みずからの出自に根を持つ土着性はその精神に強く反映していたであろう。カルカッタでフォンターネを目撃したという話題について林氏は白昼夢とだけしか述べていないが、作家の精神作用にそのような性向があったのだろうか。
そのことはさておいても、いったいグラスの作品には夢想・幻想的な部分が多く、わたくしたちが子供の頃に経験した老人に聞く昔語りを思い出させる。作品には出していないがこの人の心の底には、人間の生命体の歴史、いうなればDNAに刻まれた歴史を書くようにしてみずからの育った環境に思いを探っているようにも思える。
それはそれとして、東側と呼ばれた共産圏諸国の解体以来現在まで落ち着いた時世はなく世界は混沌としている。これはまさに文字どおりの荒野の風景ではないか。
この一冊は900ページを超える大部であるので繰り返し読むには休息がいる。わからない部分のほうが多いのではあるが、それにもかかわらず面白く、もう一度読みたい。
ギュンター・グラス『はてしなき荒野』原書1995年、共訳: 林 睦実・石井正人・市川 明、大月書店1999年刊 (2018/2)
2014年6月12日木曜日
読書随想 『夏目金之助 ロンドンに狂せり』 末延芳晴著(2004年青土社)
著者は1942年生まれ、東大文学部中国文学部卒業、1973年から98年までニューヨーク在住、アメリカの芸術・文化についての評論活動、永井荷風や夏目漱石など明治時代文学者の探求を続け、現在は京都在住で著述評論活動を行なっているそうです。
http://profile.ameba.jp/donta61/
図書館で何気なく手にしたこの著書はノンフィクション的作品で小説をあまり読まない私も最後まで興味深く読みました。
単独で見知らぬ土地に出掛けて住み着く者が抱く孤独感のような感覚が生きている著作でもあると思いました。
狼群の中のむく犬のごとく
本書の表題は「夏目狂せり」という電文めいた文言が伝わっているのを借りたものでしょうが、金之助は倫敦滞在の最後の時期に極度の神経衰弱の状態で『文学論』の仕上げに集中していました。日本人関係者が心配しているときに、往路同じ船でドイツに留学した藤代禎輔が文部省から「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」との電報を受け取ったと回想しています。しかし金之助は準備が出来ていないことを理由に同行して帰国するのを断り、藤代も金之助の状態から、別段心配するほどのことはないと判断して先に帰国の途に就きました。(藤代禎輔はのちに京都帝大教授、ドイツ文学者)
81, The Chase 夏目金之助が狂気のように苦闘した止宿先、
屋上のサンルームは近年追加されたもの。金之助の部屋は3階だった。
というわけで夏目金之助は狂するところまではいかなかったが、紙一重の手前で『文学論』の執筆と闘いながら引きこもりの状態にありました。漱石自身も「神経衰弱と狂気とは否応なく自分を創作の方面に向かわせる」ものとして感謝の意さえ表していると『文学論』の「序」をひいて著者は強調しています。これらの事情は最終の第十八章に自我のよりどころを求めてとして述べられています。
著者が眼目にして底流とした金之助の精神の状態は幼児期の体験から不幸が始まっています。富裕な名主の家筋も時代が下がって没落した結果5人兄弟の末子として生まれた金之助は里子に出されたり、養子にやられたり、養家の塩原姓のまま生家に戻ったりののち21歳で夏目家に復籍しました。研究者はこの間の漱石の記憶には捨て子にされたとの強い心の傷が残ったとします。著者もこれを認めて後の作品での反映に触れています。さらに帝大入学前後に長兄、次兄、親しかった義姉を相次いで失い、続いて肺結核にかかる不幸が続いて、この頃から神経衰弱の症候が強くなったと伝えられています。
また、三歳の頃に患った疱瘡によりかなり目立つあばたが顔に残ったことはずっと漱石を悩ませます。留学の4年前熊本で結婚しますが、鏡子夫人は環境や家事に不慣れでうまく対応できないことから川に身を投げて自殺未遂となるなど、この結婚生活は留学中も円満ではありませんでした。
数えたてれば不幸のかたまりであるような金之助に政府派遣留学生の重圧がかかることになるのです。熊本第五高等学校で英語講師をしながら教師が嫌になっていた時期にあたったそうで、留学生を拝命すべきかどうか迷います。指定された留学目的が英語教授法の研究だったからです。いったんは辞退しますが、留学目的の変更を認められることになり、英文学研究を目的として承諾することにしました。1900(明治33)年5月のことでした。
さて、準備なって9月8日横浜から船上の人となった金之助は往路のほとんどを船酔いはげしく、食事も十分にとれない状況にあったらしい。他の船客がすっかり慣れてからも、ひとり金之助は船室で寝込んでいたといいます。著者はこれを船酔いだけではなく、生来の神経症を病んでいたためだとしています。
欧州に渡ってから汽車に乗るとコンパートメントは白人ばかり、皆じろじろと金之助の顔を見るのですが、彼はこれを顔のあばたのためだと思いこみます。ところが倫敦に行き着いて町を歩くと、自分の皮膚の色が周囲と違うことに気がつきます。日本出立前に新調した洋服は船上でも西洋人の服装に見劣りしないことを確認していましたから、服装には自信がありました。ところで金之助は立派な八字ひげを蓄えていました。街頭で行き交う婦人達が金之助を見ながら、チャイニーズかな?とかチャイニーズらしくないわね、などと噂するのが耳に入ってびっくりします。
漢文で教育を受けた彼にとってシナは尊敬する国です。ところが英国人達は見下しているのです。夏目金之助もここに至って自分は黄色の皮膚を持った東洋人で、この国では差別されていることを自覚します。そしてこのことがまた精神状態に作用するのです。
この頃日本でも英国でもシナ人は軽侮される存在でしたが、漱石はシナびいきだったのです。それでも自分がシナ人とみなされると、その心情は面白くありません。このあたり先進の英国にある日本人の心情は複雑です。
帝国大学英文科卒業で政府派遣留学生とあれば晴れやかな肩書きであるはずですが、ここロンドにあっては何の効力もありません。目に映る街の壮麗さに圧倒され、背の高い英国人の間に紛れ、地理不案内で再三迷子になる不安も重なって、金之助の精神は萎縮する一方でした。そんななかでケンブリッジなど勉学先や個人教授などを捜し求めたあげく、独学で英文学を研究する途を選びます。そしてしばらくはシェイクスピア研究のクレイグ先生に就きますが、やがて自らに課した『文学論』をまとめる時間を惜しんで独り止宿先にこもります。このあたりから自閉症的傾向が強くなったようです。
留学目的を英文学研究に変えてはみたものの、ひたすら英文を読むばかりでは充実感が得られない一方で、何か創造的な課題に取り組みたい衝動も感じていました。それは書くという行為で自分を表明する、後に作家の途を選ぶことになる自己解放の願望でした。けれども留学生としての使命を優先させて自己の願望は押さえ込んで文学を研究することにしたのです。
漢文の文学と英文の文学は同じか、文学とはいかなるものか、などという大きな命題に強引に取り組もうとしたのでした。留学二年目に入ってから猛然と英文のノートつくりに励み、そのノートの厚みは5、6寸に達したそうです。
先に述べたようにロンドンに来てからの暗い心持ちのままでのこのような無理な自己鞭撻が、もともとそれほど頑丈ではない金之助の精神生理に狂気をもたらしたのでありましょう。
たまたま同じ止宿先に短期間滞在した化学者池田菊苗(後に味の素の創始、功労者)と議論を重ね楽しく交流した金之助は科学的な方面にも興味を惹かれています。寺田寅彦には普遍性のある科学研究への憧れを書き送っています。文学にも科学的な研究方法を探ったのかもしれませんが、できあがった結果は気の毒なものであったようです。
帰国後帝国大学でこの研究をもとにして講義をしていますが、学生相手の英文学の講義にすぎない結果となったそうです。
のちに講演「日本の開化」などの文明論に表明されたような、日本は内発的に発展すべしという漱石の高い理想などが展開されていればと惜しまれます。
私は漱石のよき読者ではありませんので、末延氏が綿密に追及されている作品への反映をひたすら感心しながら読ませて頂きました。随想とはいえこのような印象記しか書けませんが、漱石の心の奥深く隠れていた精神生理の流れを作品に追うという手法には深く敬意を表します。
(止宿先の写真は http://kazekaoru.hanamizake.com/ にお借りしました。)
本書には金之助が日本に出した絵葉書が多数色刷りで収録されています。ここにはネットで拾った街頭風景を参考までに提示します。堂々たる建物が並ぶ街路であっても実は馬糞だらけだったようですから、実際にはかなり匂う街であったと想像します。写真は匂わないから幸いです。
http://profile.ameba.jp/donta61/
図書館で何気なく手にしたこの著書はノンフィクション的作品で小説をあまり読まない私も最後まで興味深く読みました。
単独で見知らぬ土地に出掛けて住み着く者が抱く孤独感のような感覚が生きている著作でもあると思いました。
狼群の中のむく犬のごとく
本書の表題は「夏目狂せり」という電文めいた文言が伝わっているのを借りたものでしょうが、金之助は倫敦滞在の最後の時期に極度の神経衰弱の状態で『文学論』の仕上げに集中していました。日本人関係者が心配しているときに、往路同じ船でドイツに留学した藤代禎輔が文部省から「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」との電報を受け取ったと回想しています。しかし金之助は準備が出来ていないことを理由に同行して帰国するのを断り、藤代も金之助の状態から、別段心配するほどのことはないと判断して先に帰国の途に就きました。(藤代禎輔はのちに京都帝大教授、ドイツ文学者)
81, The Chase 夏目金之助が狂気のように苦闘した止宿先、
屋上のサンルームは近年追加されたもの。金之助の部屋は3階だった。
というわけで夏目金之助は狂するところまではいかなかったが、紙一重の手前で『文学論』の執筆と闘いながら引きこもりの状態にありました。漱石自身も「神経衰弱と狂気とは否応なく自分を創作の方面に向かわせる」ものとして感謝の意さえ表していると『文学論』の「序」をひいて著者は強調しています。これらの事情は最終の第十八章に自我のよりどころを求めてとして述べられています。
著者が眼目にして底流とした金之助の精神の状態は幼児期の体験から不幸が始まっています。富裕な名主の家筋も時代が下がって没落した結果5人兄弟の末子として生まれた金之助は里子に出されたり、養子にやられたり、養家の塩原姓のまま生家に戻ったりののち21歳で夏目家に復籍しました。研究者はこの間の漱石の記憶には捨て子にされたとの強い心の傷が残ったとします。著者もこれを認めて後の作品での反映に触れています。さらに帝大入学前後に長兄、次兄、親しかった義姉を相次いで失い、続いて肺結核にかかる不幸が続いて、この頃から神経衰弱の症候が強くなったと伝えられています。
また、三歳の頃に患った疱瘡によりかなり目立つあばたが顔に残ったことはずっと漱石を悩ませます。留学の4年前熊本で結婚しますが、鏡子夫人は環境や家事に不慣れでうまく対応できないことから川に身を投げて自殺未遂となるなど、この結婚生活は留学中も円満ではありませんでした。
数えたてれば不幸のかたまりであるような金之助に政府派遣留学生の重圧がかかることになるのです。熊本第五高等学校で英語講師をしながら教師が嫌になっていた時期にあたったそうで、留学生を拝命すべきかどうか迷います。指定された留学目的が英語教授法の研究だったからです。いったんは辞退しますが、留学目的の変更を認められることになり、英文学研究を目的として承諾することにしました。1900(明治33)年5月のことでした。
さて、準備なって9月8日横浜から船上の人となった金之助は往路のほとんどを船酔いはげしく、食事も十分にとれない状況にあったらしい。他の船客がすっかり慣れてからも、ひとり金之助は船室で寝込んでいたといいます。著者はこれを船酔いだけではなく、生来の神経症を病んでいたためだとしています。
欧州に渡ってから汽車に乗るとコンパートメントは白人ばかり、皆じろじろと金之助の顔を見るのですが、彼はこれを顔のあばたのためだと思いこみます。ところが倫敦に行き着いて町を歩くと、自分の皮膚の色が周囲と違うことに気がつきます。日本出立前に新調した洋服は船上でも西洋人の服装に見劣りしないことを確認していましたから、服装には自信がありました。ところで金之助は立派な八字ひげを蓄えていました。街頭で行き交う婦人達が金之助を見ながら、チャイニーズかな?とかチャイニーズらしくないわね、などと噂するのが耳に入ってびっくりします。
漢文で教育を受けた彼にとってシナは尊敬する国です。ところが英国人達は見下しているのです。夏目金之助もここに至って自分は黄色の皮膚を持った東洋人で、この国では差別されていることを自覚します。そしてこのことがまた精神状態に作用するのです。
この頃日本でも英国でもシナ人は軽侮される存在でしたが、漱石はシナびいきだったのです。それでも自分がシナ人とみなされると、その心情は面白くありません。このあたり先進の英国にある日本人の心情は複雑です。
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| 76 Gower st. ようやくの思いでたどり着いた最初の宿。家賃が高いので二週間で引き払いました。 当時造船所を訪れる日本海軍軍人の定宿だったそうです。 |
漢文の文学と英文の文学は同じか、文学とはいかなるものか、などという大きな命題に強引に取り組もうとしたのでした。留学二年目に入ってから猛然と英文のノートつくりに励み、そのノートの厚みは5、6寸に達したそうです。
先に述べたようにロンドンに来てからの暗い心持ちのままでのこのような無理な自己鞭撻が、もともとそれほど頑丈ではない金之助の精神生理に狂気をもたらしたのでありましょう。
たまたま同じ止宿先に短期間滞在した化学者池田菊苗(後に味の素の創始、功労者)と議論を重ね楽しく交流した金之助は科学的な方面にも興味を惹かれています。寺田寅彦には普遍性のある科学研究への憧れを書き送っています。文学にも科学的な研究方法を探ったのかもしれませんが、できあがった結果は気の毒なものであったようです。
帰国後帝国大学でこの研究をもとにして講義をしていますが、学生相手の英文学の講義にすぎない結果となったそうです。
のちに講演「日本の開化」などの文明論に表明されたような、日本は内発的に発展すべしという漱石の高い理想などが展開されていればと惜しまれます。
私は漱石のよき読者ではありませんので、末延氏が綿密に追及されている作品への反映をひたすら感心しながら読ませて頂きました。随想とはいえこのような印象記しか書けませんが、漱石の心の奥深く隠れていた精神生理の流れを作品に追うという手法には深く敬意を表します。
(止宿先の写真は http://kazekaoru.hanamizake.com/ にお借りしました。)
本書には金之助が日本に出した絵葉書が多数色刷りで収録されています。ここにはネットで拾った街頭風景を参考までに提示します。堂々たる建物が並ぶ街路であっても実は馬糞だらけだったようですから、実際にはかなり匂う街であったと想像します。写真は匂わないから幸いです。
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| ピカデリー 1900年 |
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| ピカデリー・サーカス 1900年頃 |
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| リージェント・ストリート 1900年 |
2014年5月7日水曜日
リギ山のこと
世界最初の登山鉄道
写真はスイス、ルツェルンのカペル橋と湖の向こうにそびえるリギ山(標高約1800米)です。(Photo by Luzern Tourismus)ルツェルンからリギ山へは,船でフィッツナウへ行き、登山鉄道で登ります。今年2014年は日本とスイスの国交樹立150年を記念する年です。私が訪れたのは1996年9月16日でしたが、世界最古の登山鉄道であるフィッツナウーリギ山の登山鉄道開通125周年を祝っていました。日曜日には昔の蒸気機関車も活躍しているそうですが、私たちが訪れたときにはフィッツナウの車庫に入っていて運行していなかったので写真は絵葉書で我慢しました。
帰宅後新聞(10月30日)に記事があり、旅を振り返る楽しみがありました。山頂駅リギ・クルム駅まで全通した1873年に、わが岩倉使節団が大統領に招待されて記念式典に列席していたとあります。手元の岩波文庫の久米邦武編『米欧回覧実記』には1873(明治6)年6月23日の記録があります。同書には銅版画でリギ山の風景や鉄道が掲載されていてこの機関車が写っています。
私たちが登ったその日の山頂は雲が降りていて展望が利かず残念でした。帰りの船を待つ間、フィッツナウの港近辺はこれ以上ないほど静かで、湖をわたってくるカウ・ベルの音が時たまカランカランと聞こえるだけ、人声も空に吸い込まれていくようなすてきな経験をしました。
ターナーの「青のリギ」
英国の画家ターナーはその水彩画で私たちの子どもの頃から人気がありました。つい先日までの神戸での展覧会も終って作品たちも英国に帰っていったようです。19世紀の英国人の間では、リギ山はQueen of mountainsと呼ばれ、「リギに登ったか」が旅行者の合い言葉になるほど人気が高かったそうです。画家J.M.W.ターナーはルツェルン湖とリギ山の光と水蒸気のあやなす雰囲気をこよなく愛し、多くの作品が遺されています。ロンドンのテート美術館はターナーの遺贈作品を多く所蔵しますが、評判の高いスイス物が少なかったために、その蒐集に力を入れていました。そういうさなかの2006年、個人所蔵の名品「青のリギ」がクリスティーの競売に出され、ロシアの石油成金に580万ポンドという破格の値で落札されてしまったのです。ルツェルン湖とリギ山を描いた数多い作品の中でも「赤のリギ」「暗色のリギ」との姉妹作3点はいずれも1840年頃の水彩画で、なかでも「青のリギ」は最高傑作と言われていました。この国民的財産の国外流出を何とか食い止めるべく国を挙げての努力も買い戻し資金が調達できずに困っていたところ、美術館ファンドが案出した新機軸で不足資金獲得に成功して絵は無事に英国民の手に戻ったということです。2007年当時その快挙は資金集めの方法と共に大きく報道されました。案出された資金獲得方法は、インターネット上の絵の画面をたくさんの区画(ピクセル)に分割し、1区画あたり5ポンドで寄付金を募ったのです。名付けて「Buy a Brushstroke キャンペーン」、日本語で言うなら「ひと筆購入」でしょうか。応募者はその部分に名前が のこります。テートのサイトで「青のリギ」の絵をはじめ公募の詳細が分かります(英文)。
http://www.artfund.org/savebluerigi/Introduction.html
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| 記名されたピクセルの例 |
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