2019年12月22日日曜日

「雑感『方丈記私記』」の補足として『増鏡』

堀田善衞の『方丈記私記』には再三「増鏡に出て来る老婆」という表現があらわれる。誰のことかと『増鏡』を開いてみれば、上巻序の数行も経ないうちに登場している。「大鏡、水鏡、今鏡に倣いて、老尼の物語を筆録した有様に作ったものである」と校訂者の緒言にある。つまり『増鏡』の語り部であるが名はない。『増鏡』の著作者は不明である。
堀田さんの書く老婆の呟き、「これより日本国は衰へにけり。」とは言い回しが少し違うが、岩波文庫で言えば次の箇所に記されている。
「その年十一月九日、権大納言になされて、右近の大将をかねたり。十二月の朔日ごろ、よろこび申して、おなじき四日、やがてつかさをば返し奉る。この時ぞ、諸国の総追捕使といふ事うけたまはりて、地頭職に、我が家のつはものどもをなし集めける。この日本国の衰ふるはじめは、これよりなるべし。さて東(あづま)にかへり下るころ、上下いろいろのぬさ多かりし中に、年比も祈など行(し)給ひし吉水僧正(慈圓)、かの長歌の座主、のたまひつかはしける、
 あづまぢのかたに勿來の關の名は君をみやこにすめとなりけり
御かへし、頼朝、
 都には君にあふさかちかければ勿來の關はとほきとをしれ」(第二 新島もり p28-9)

「その年」は建久元年、頼朝は権大納言になって右近衛大将を兼任する。十二月一日にお礼言上したものの四日にはその官職を返上してしまった。宮廷の護衛たる近衛職は都に常駐するべきで、鎌倉には戻れないのが理由らしい。
諸国追捕使は本来、義経や行家を捜索・逮捕するべく設けられた臨時の役目だったから、その用がなくなれば停止される。それを一般的な警察権に切り替えたのが、この時の措置だった。新たに地頭職が含まれたようで、正確には翌年三月から新制度として、諸国に守護と、荘園・国衙に地頭ができる。この辺の事情が簡略化されて老婆の語りとしたのであろう。
『増鏡』は過去に華やかであった公家社会を理想とする基準でものされた歴史である。したがって老婆が今を語るとなれば、嘆き節がでるのはやむを得ない。ここにいう「日本国」は当然貴族社会を指している。「この時ぞ」という表現が生きている。地頭に勝てなくなった恨み節である。
「上下いろいろのぬさ」とある「ぬさ」は幣であり祈願に用いる御幣であるから、安全祈願の意味があるかと考えられるが、餞別、贈り物の意味もあったようである。「勿來の關」の勿來は文字通り「来るなかれ」の意味で使われている。返歌は都はちかいことをいう心らしい。
慈圓のことを「かの長歌の座主」と書いてあるのは、「第一 おどろのした」に後鳥羽院が水無瀬殿で催した清撰の歌合わせにおいて慈円が実に長い長歌を詠んだことを指しているようである。この長歌に対して院が定家に返しをせよと命じたところ、たちどころに長い返歌をつくったことが述べられていて、その両者の歌も載っている。誠に恐れ入った技の持ち主たちであったことよと驚くだけで、当方は歌の素養もないので、元歌を探るなど出来ずに唖然とするのみである。
さて、堀田さんとは関係なく、この『増鏡』という歴史物語を読んでみようと、あらためて上巻の序の文章にとりかかると、「鶴の林に薪尽きにし日なれば」と故事を引いている句が出てくるのを始めとして、調べて初めてなるほどとなる文章なのである。これは大変なことであるな、と続けて読むのをためらっている。老尼が鳩の杖に寄りかかっているというのはどんな杖かと思えば、食べものにむせないため杖に鳩の飾りをつけた、というお守りであると分かる。鳩はむせることがないからだそうで、これは古代中国で老齢の功臣に与えられたそうだ。となれば、この老婆「百歳にもこよなく余り侍る」そうなから宮中から頂いたのであろうか、そこまではわからない。こんなふうに面白いのではあるけれども、ま、時折開いてみる程度にしよう。
読んだ本:『増鏡』岩波文庫(1931)(1997第13刷)  (2019/12)





2019年12月7日土曜日

雑感 堀田善衞『方丈記私記』

堀田善衞『方丈記私記』(以下「私記」と略記する。)を「ちくま文庫」で読んだ。
著者は、この作品で語ろうとしていることは、『方丈記』の鑑賞でも解釈でもなく、「それは、私の、経験なのだ」とはじめに断っている。
『方丈記』は1212年に成った鴨長明の述作とされている。堀田さんは1945年に、700年以上もの昔に書かれた文章に、生きづらく感じていた当時の身の処し方について何か得るところがあるのではないかと期待して、何度も読み返すようになったそうだ。
「私記」の記述を通じて、まず読み取れた趣旨は、天皇制に関する疑問と鴨長明が人生の終わりに感得した生きがい観である。そうして、それらについての説明のうちに日本の中世で乱世とよばれる時代の様相について語られる。
読者の私は中世についての知識が少ないうえに著者が引用する古典類にも不案内だ。堀田さんの文体はともかく、使われる用語なども目新しい。わからないところはあるにしても、全体としては知識の宝庫として大変にありがたい著作である。近頃の本ではあまり機会のない文章解読の訓練にもなったことは、細胞の減りつつある脳に有益であった。

著者として堀田さんは、「『方丈記』一巻が自分の経験となり、かつは自分の魂に刻みつけて行ったものを記そう」とした。使用するテキストを読者がもっとも入手しやすい岩波文庫をと予定していたのが、「展望」誌連載の印刷の際に急遽、別のテキストに変更された。事情はいくつかあるが読者の読みやすさが考慮されたわけであった。このために大いに閉口したことが明かされている。
安元3年大火の火元、富小路の仮屋が「病人ヲヤドセルカリヤ」(病人はヤマウドと読む)から「舞人ヲヤドセルカリヤ」になってしまった。堀田さんはこの舞人をダンサーと想定して、病人とは対称的に足腰の頑丈な人間と考える。青白い顔の病人が足腰も自由でなく、何かの拍子に火の不始末をしでかした結果バラックに火がついて大火となったという具体的なイメージが、テキストが変更されるまでの長い間に、「確たるものとして、またなみなみならず親しいものとして心に定着してしまっていた。」スペイン在住の間に自宅と資料を火事で焼いてしまった経験といっしょに、顔つきさえ思い浮かべられるこの病人が心のバラックに棲息していたのだそうである。そういう病人だから、ダンサーが来たからといって簡単には出て行ってくれなくて閉口したというのである。
通読して感じられることの一つは、この著者が『方丈記』の作者に相当親しみをもっていることである。上述の病人のイメージについての文につづいて、「長明に対する親近感は、私の場合、ほとんどがそういう具体的なところから出て来ていて、実はあまり無常イデオロギーには関係がないらしいのである」と明言されてもいる。この親近感は両者がもつ気質が似ているからでもあると思う。どこにでも出かけて現場で考えたことを伝える遊軍記者風であり、社会的事象に関心を持つジャーナリストでもあるのは共通している。
鴨長明はなんにしろ何かが起こると、その現場へ出かけて行って自分で確かめたいという実証精神の持ち主だと著者は見ている。他の文献には火元が樋口富小路だとあっても、舞人の仮屋と特定したものはないそうで、これは長明が足で確かめたものと著者は考えている。「近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり…」と、火焔の凄まじさを伝える文にしても、燃え上がるのでなく上から焔が吹き付けるのは東京都の戦災記録に言う「合流火災」に特有の現象だから現場を見た人でなければ書けないだろうと考える。大風、遷都、地震、飢饉、どの記述にも文献や伝聞ではなく現場観察の記録がなされている。
堀田善衛氏は大正7年(1918)生まれ、慶応大学仏文科時代から詩の同人にも参加し、詩人としての出発を志されていたようだ。昭和17年(1942)、戦時の勅令で9月に繰り上げ卒業させられる。卒論には大急ぎでボォドレェルを書いたそうだ。国際文化振興会という団体に就職したが、19年2月に召集された。内地での訓練期間中に病気になり、三カ月の陸軍病院生活の後に招集を解除され、田舎で療養をし、19年半ば頃にふたたび上京をした。彼のいた部隊は、米軍の攻撃直前に、サイパン島補強のために送られ、到着前に輸送船の大半を沈められて全滅をしてしまったと書いてある。
昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折は、洗足池近くの寄宿先であった友人宅から燃え上がる空を遠望した。ときに堀田さんは27歳。この世代の人はみな兵役が課せられていたが、末期症状にあった戦時の日本では、召集は死に直結していた。「聖戦」が叫ばれていた時代、どの人も天皇と天皇制に関しては特別な思いを抱いている。当時の堀田さんの認識では、特に昭和天皇は中学生の頃の満州事変以来のすべての戦争運営についての最高責任者であり、神とされていた。
「私記」には3月18日、東京大空襲の焼け跡に出かけた際に、富岡大神宮の境内で偶然その昭和天皇に遭遇したことが衝撃として語られている。昭和天皇がこの日視察に出たことは写真とともに報道されているが、しめった灰のなかに土下座した人々がすすり泣きをしながら申し訳ないと呟いていた内容の記録はあるのだろうか。堀田さんはそれを書いている。
「涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。(p60)
この人たちの口から出たことばについて、帰る道に歩きながら考えたが、理屈の筋が立たずに混乱した。
こんなに焼き尽くされるまでに焼かれるようになった責任を、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあると考える。こういう奇怪な逆転がどうして起こるのか。
堀田さんは、戦争を始めた責任者が謝るなり、処罰されるなりするべき、との考えであったろう。しかし、世の中には天皇陛下があって、国民がある、何がおかしいのかというふうに、何も考えないまま何ら疑問を持たない人もある。
著者としての堀田さんは優情という語をもちだした。やさしさである。土下座した人たちには優情がある。政治はそれに乗っかるのだと。そうでなければ焼け跡視察になど出てこられる筈がない。日本の政治はこういう心情を利用するのだ。無常観の政治化だという。これがあるために結果責任は有耶無耶になってしまう。政治がもたらした災殃に対しては、支配者にも人民の側にも極めて便利に用いられてきたものがこれである。こういう無常観は俗論であろうけれども、思想的形成の真最中である日本中世から、すでに使われ、今や日本人の骨絡みまで行っていると述べる。
土下座した人たちが生命を捧げまして、というのは何だろうか。その頃喧伝されていた「大義に死ぬ」ということばを爽やかに感じることもあった。この国には長い思想的な蓄積のなかに、生ではなくて死が人間の中軸に居座るような具合にさせるものがあるはずだともいう。読者の私は「海行かば」の曲や歌詞を思い出した。堀田さんのことばに、あれだ、と思った。音楽好きの堀田さんでも、きっとこの曲が嫌いだったろうと思う。毎日のようにラジオから聞こえてきたものだった。開戦当初は「軍艦マーチ」が多かったけれど、戦局が不利になるにつれて、「海行かば」が多くなっていった。

「私は大空襲の期間中に、とくに1945年3月10日の東京大空襲のあとに、ああいう大災殃についての自分の考え、うけとり方のようなものが、感性の上のこととしてはついに長明流のそれを出ないことを口惜しく思ったものであったが、そのことと、そういう人災、大災殃を招いた責任者を人民が処刑をする、あるいはリコールをする政治的自由、思想的自由のない長い長い歴史とは並び立つものであろうと思う。(p166-7)」

  “羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。”(この世から逃れるすべはないのだ。)
  “世にしたがえば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、
  しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。”
  (世の中に合わせれば自分一個の立つ瀬がない。さりとて世に楯突けば変人扱いにされる。どこかで自分なり  に、なんとか落ち着いて心を休ませることはできないものか。)
(上の( )内は筆者の注記。)
「こういうことばを何度か念仏のようにとなえていると、いつか、なーるほど、そういうものか、というところから、そうでもあるだろう、その通りだ、というところまで運ばれていってしまい、身を起ててデモに行こう、あるいは戦わねばならぬという意志をそらしてしまう作用をもたらす。(p67-8)」
「戦時中に、私がはじめたわけでもない戦争によって殺されるかも知れぬことを思うとき、[…]歴史を捨象する以外に、私に法がなかったのだ。あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきであることほどに明らかなことはないであろう。それを人民一般が支持したか否かは別の問題である。そうして、歴史を捨象するとは、自己自らを運命と見做すことであり、おのれ自体を、ニーチェの言う、AMOR FATI 運命愛として愛する他ないということであろう。それが、このAMOR FATI が戦時中においての自己救済の方法であった。おそらく、現在の若者たちからは、そういう自己救済は、汚らしい、と難ぜられるものであろう。しかしそういう若者たちもまた、われわれの『日本』の業*の深さを知りはしない者である。p232」( *「業」は後述参照。)
筆者はニーチェとの付き合いはないので、AMOR FATIが何であるか知らない。要は、現実を見失わず、個として自立して自由を守ろう、ということだと解釈する。ついでだが、ここに使われた「汚らしい」はどういう意味だろうか。ちょっと古い使い方のようだが、自己中心的の意味かもしれない。
戦時下の著者がとったこの解決法は、おのれ一人が胸のうちに収め、かつ自立心を失わないで自分を大切にする。著者がいう長明流とは、この運命愛とほぼ同じ意味であろうと思う。しかし、1970年の著者は、自らが災殃から逃れるだけでは納得できないので、次のように書いた。
「私は長明氏の心事を理解し、彼の身のそばに添ってみようとしてこれを書いているのだが、同時に私は長明の否定者でもありたいと思っているのである。けれども、この現代においてすら、彼の死後750年以上もへた現代においてすら、長明の否定者であるためには、われわれの全歴史の否定者でもあらねばならぬという至難の条件がともなっているのである。そういう万貫の盤石を持ち上げて歴史の根石もろともに投げ捨てるにひとしい強力な否定者というものも、『主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。』と、叩きつけるように言った親鸞以外には、なかなかに見出しがたいのである。p166-7」
親鸞のこのことばは、浄土仏教の流行に対抗する旧仏教側の画策によって35歳で越後へ流罪になったときの気持ちを、50歳の時に記したもの(『教行信証』)だそうだが、古来天皇に怒りをぶつけた人物は他にいないということだ。堀田さんは口惜しい気持ちをいだきながらも、自身はその後も作家、表現者にとどまっていたということであろう。

堀田さんは、天皇制の根源は和歌の本歌取り思想にありとみた。唱導した藤原定家は次のように書き残している。
  ことばはふるきをしたひ、心はあたらしきを求め、をよばぬたかきすがたをねがひて、寛平以往の哥にならはゞ、をのづからよろしきこともなどか侍らざらん。ふるきをこひねがふにとりて、昔のうたのことばをあらためず、よみすへたるをすなはち本哥とすと申す也。
これは古詩新情といわれる歌論、寛平以往というのは定家の頃より300年余前を指している。つまり300年前のことばで詠めという論である。詞は昔のものを改めず、それを土台に詠めとなれば、どうなるか。当代の日本語を拒否し、現実を拒否しなくてはならない。すべては虚構になる。これは芸術至上主義ではなく、伝統憧憬にすぎない。
伝統憧憬によって現実を拒否する思考は七百年の昔のことだけではないと著者は経験を語る。
 1945年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらに転がっていた頃にも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラという真剣であると同時に馬鹿馬鹿しい話ばかりが印刷されていた時期は他になかった。生者の現実が無視され日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に憧憬された時期はなかった。天皇制というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災殃を人民は無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根付いているのである(p221)。
この本歌取り文化は、連綿としてわれわれの文化と思想の歴史のなかに生きつづけた。創造よりも伝承を尊重する自衛本能にもとづく閉鎖文化集団になってしまった。そこでは創造は拒否され、伝統とされるものが尊重されて権威になる。鎌倉幕府によって地頭職がおかれ、貴族の荘園経済が崩壊しようとしていたとき、貴族たちが抵抗手段としたものは有職故実という先例主義であり、それを伝える日記、古典の収集と完成をめざした。すなわち集団の外側では何の意味もない先例を規範とした、生活自体が本歌取り化した閉鎖集団が出来上がった。これを地下(じげ)の生活と比べたならば、まったく無関係の虚構の世界である。

朝廷という閉鎖集団を構成する公卿という人種は昭和の政権にも総理大臣として現れた。著者は近衛文麿が書いた「上奏文」(1944年2月14日)の内容をやや詳しく紹介しているが、ここには一般国民は完全に無視され、資本家と貴族のほかはすべて共産主義者と分類して排斥無視する。兼実が頼朝の要請で地頭職設置が荘園に認められた折に『玉葉』に書きつけた「言語ノ及ブ所ニアラズ、日本国ノ有無タダ今明春ニアルカ。」とのことばにおいて「日本国」が貴族たちだけの領域に限られている心持ちと同じである。
「歴史と伝統に本歌取りをすることのみを機能とし、伝統的権威として、存在するから存在し、存続だけが自己目的と化したものをどう処理するか。存在し、存続だけが自己目的と化したものに、他に対する想像力はありえない。人民の側としても、災殃にあえぎ、いやたとえ災殃にあえがなくても、彼らもまたその日その日を食いつなぐだけの、ここでも存続、生存だけが自己目的と化している。存続、生存だけが自己目的と化したものに、ここでも他に対する想像力はありえない。p228」
「私たち自身もまた、かの戦時に、特にその末期に於いて、まったく同じ状況におかれていたのであった。明治維新のときはどうであったか。/権力は敵と妥協し、敵に通じても自己保存をはかることを自己目的とする。/「日本」の業は深いのだ。/深く、根強く、業の如くに、業と化して、歴史と伝統に根づいているのだ。(p229、/は改行を示す)」

「本歌取り宮廷美学と相対して、私は、彼らの宮廷の美を認める者だ、認めざるをえない、そうして、しかもなお私は、認めた上で長明とともにかかる「世」を出て行く。無常の方へ行く。それが逃避であると見える人は、この国の業の深さを知らない人なのだ。p229」
嘘っぱちの虚構の夢を追う世間に用のない実際家の二人は「世」を出て行くわけである。ここにいう無常とは現実のことだ。

“予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、やゝ度々になりぬ。” 
“身を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞしづかなるを望とし、憂へ無きをたのしみとす。”

朝廷一家が各自の自己を捨てて「芸」の世界に籠もるとき、長明は「私」に帰ったのである。彼の無常感の実体は社会的、政治的関心なのである。散文によって政治への関心と時世の変転のさまを『方丈記』に表したのであった。庵の生活は単純な隠栖ではなく、誰にも邪魔されず安らかな気分で居て、世の中の移り変わりに目を凝らす。
ここの「私」は自由な自己、自由人としての個人を意味するのであろうと思う。

ところで、堀田善衞氏は「私記」を1970年頃に25年前を回想することからはじめている。戦時下で西行論を書きはじめたが、中世の文学を書くにはどうしても天皇制にぶつからざるを得ないことがわかって中断したという。おっかなくて書けなかったのだとあった。天皇が神とされていて、日常生活に思想統制の網が張り巡らされ、言舌に制約があったからだと思う。「私記」にレーニンを英語で読んだという話があるが、官憲の眼をそらせる奇策であった。
米軍占領下に天皇は人間宣言をされたように私は記憶していた。昭和21年の元日だ。いま、念のために人間宣言のことを確認しようとしたが、ネットの各種記事によると、そんなものはなかったようだ。
連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇のお言葉があり、略称を「新日本建設に関する詔書」と呼ぶそうだ。お言葉には正式の表題はない。お言葉のなかにも人間宣言に当たる言い回しはなく、次の文が織り込まれている。

  「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ。天皇ヲ以(もっ)テ現(あきつ)御神(みかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」

この詔書の文言を決定するにあたっては、アメリカ側の草案に「神の子孫に非ず」とあった表現に侍従次長の木下道夫が反対し、「現御神に非ず」ならよいと判断した。天皇も神の子孫否定には反対だったと「側近日誌」に書き残してあるそうだ。神性を否定してしまうと、文字通りただの人間になってしまって、それがどうして天皇なのかという議論になるからということを危惧したらしい。
また天皇が宗教的存在であることは憲法の政教分離原則に抵触する恐れも残っている。
こうことであれば、平成、令和と時代が変わっても即位礼や、大嘗祭儀式、大嘗宮建設など、皇室の存在がフィクション性を多分に帯びていることには変わりがなさそうである。
先日の即位の礼の儀とやらで、三種の神器が納められているという箱がうやうやしく運ばれる光景を見た。『増鏡』には三種の神器は平家とともに海に沈んだ。後鳥羽さんは神器なしの即位になってしまって、後々まで気に病んでいたとあった。また、堀田さんも、打ち続く火災で伊勢神宮も焼けた、何度神器が作り替えられたことやら、と書いている。テレビを見ながら何を空々しいことを…という思いであった。納めた税金が惜しいわけではないが、大掛かりなフィクション劇に大金が費消される…秋篠さんでさえもオカシイと考えているのに。世界の眼が「日本」は金持ちだとみるのも当然だろう。いや、ただのお人好しなんですが。
読んだ本:『方丈記私記』ちくま文庫(2019第20刷)(1988)
     『新訂 方丈記』岩波文庫(2000第24刷)(1989)
(2019/12)


 

2019年8月23日金曜日

津田左右吉ーー記紀と皇室

津田左右吉著『古事記及び日本書紀の研究』新書版 毎日ワンズ(2018)が図書館にあったので借りてきた。表紙には「建国の事情と万世一系の思想」の文字がやや小さく添えられている。これは独立した一文であり、本書の第9ページから46ページまでを占める。編集部の説明に、

 本書は、昭和十五年に政府が発売禁止にした『古事記及び日本書紀の研究』(津田左右吉著・岩波書店)並びに月刊誌『世界』第四号(昭和二十一年・岩波書店発行)に掲載された「建国の事情と万世一系の思想」(津田左右吉著)を底本とし、編集に際し『津田左右吉全集』第一巻(昭和六十二年・岩波書店)をも参考にしました。 「建国の事情と万世一系の思想」は全文を掲載、『古事記及び日本書紀の研究』については編集部において割愛したところがあります。また難解な表現を一部現代風に改め、ルビも施しました。
とある。
元東大総長の南原 繁氏が「津田左右吉博士のこと」という前書きを寄せている。ここに発禁当時の事情が簡潔に述べられている。
昭和十四年東大法学部に東洋政治思想史の講座が新設され、早稲田大学から津田博士が出講したことが事件の引き金になった。翌十五年二月、博士の主著『神代史の研究』ほか三冊(編集部注:『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』)が発禁となった。起訴、予審を経て皇室の尊厳を冒涜するという罪名の下に公判になり昭和十六年十一月から翌年一月まで続く。五月に下った判決は『古事記及び日本書紀の研究』のみが有罪で、禁固三カ月(執行猶予)であった。これに対して検事控訴があったが、裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われると記されている。
続いて南原氏の見解が述べられているのでそのまま引用する。
 博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。
また南原氏は津田博士の姿勢について、「戦後の学界、思想界にはあるイデオロギーからする極端な解釈が流行したことがあるが、博士はわれわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった」と付言している。

昨年、本書出版の新聞広告を目にしたときから一度内容に触れてみたいという気持ちがあった。理由は「発禁」という刺激的な事件の源だということである。戦前のことだから、不敬罪のようなことであろうとは考えていた。本書の265頁に「津田博士起訴」という見出しの新聞記事の部分が小さく載せられている。普通にはとても読める大きさの文字ではないのを拡大鏡で見ると、出版法26条に該当するものとして起訴…四冊は内容中に不穏のものがあると発禁処分に附されたので司法権の発動となった…などと見える。出版法は新憲法下では有名無実となったので廃止されたが、ちなみに第26条は「皇室ノ尊厳ヲ冒瀆シ、政体ヲ變壊シマタハ国権ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ「軽禁錮」ニ処シ「二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ付加ス」とある。

「建国の事情と万世一系の思想」(以下では<万世一系>と略す)の執筆が上記発禁に関連していることを筆者は何かで見たことがある。上記発禁書物の4冊すべてが岩波書店発行であって、社主岩波茂雄もともに起訴され有罪にされた。このことと、『古事記及び日本書紀の研究』(以下では<研究>と略す)および<万世一系>が一書として、岩波ではなく毎日ワンズから出版されていることとが、なにか関連があるらしく想像している。このことは一旦棚上げにしておくが、<万世一系>が岩波書店『世界』編集長の吉野源三郎氏の依頼に基づいて執筆されたことはわかっている。
インターネットに「津田左右吉氏の大逆思想」という物々しい見出しの記事がある。これは蓑田胸喜というこの事件の引き金を引いた人物が出版した文書の国会図書館デジタルコレクションであるので、蓑田が津田博士の著作のどの部分を問題としているか、一々の文章が参照できる。これでみると、津田博士の著作からの引用文が多数あり、傍点やら記号やらで蓑田が攻撃している箇所が示されている。文献指摘という言葉でたくさんの引用がなされているが、主張の内容は全く脈絡の不明な文ばかりであって中身がない。有罪と判定された実質が一切不明なので裁判官の考えもわからないままに時効・免訴に終わった事件であるからには問題にすることは無用と考える。

津田左右吉は<研究>の結論部分にいう。「『古事記』と『日本書紀』をその語るがままに解釈すると、その説き示そうとすることは、わが皇室及び国家の起源である。上代の部分の根拠となっている最初の『帝紀』『旧辞』は六世紀の中頃のわが国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想をもって、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。それは少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えをもって幾度も潤色せられ、あるいは変改せられて記載されることになった。だから、種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることはできない。しかし、それに見えている思想や風俗が物語の形成せられた時代の厳然たる歴史的事実である。全体の結構の上にも、それを貫通している精神の上にも、当時の朝廷及び朝廷において有力なる地位をもっていた諸氏族の政治観、国家観が明瞭にあらわれているのであるから、そういう人々の思想に存在している国家形態の精神を表現したものとして、それが無上の価値を有する一大宝典であることはいうまでもない。物語が実際に起った事件の経過を記したものでないことは、それでもって記紀の価値を減ずるものではない。『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくて物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。」津田の記紀についての考えはここに言い尽くされている。

併載された<万世一系>はそういう津田の思考のいわばダイジェスト版である。簡単に記録しておこう。

一 上代における国家統一の情勢
皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が述べられている。日本の国家は「日本民族」と称し得られる一つの民族によって形づくられた、とあって、この民族は近いところにその親縁のある民族を持たない。異民族が過去にいたとしても、時とともに同化され融合されただろうとの見方である。それより前の、この民族の先史時代は全くわからぬ長い長い年月であったろうと述べる。
先史時代の末期に想像される主たる生業は農業で、親子、夫婦の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられる。これら村落を包含する小国家が多く成り立ち、政治的には日本民族は多くの小国家に分かれていた。小国家の君主は政治的な権力とともに宗教的権威をもち、神の祭祀など行って、それを配下の民衆のために行うことも政治のうちであった。
前一世紀の末頃、九州西北部地方の小国家のいくつかが朝鮮半島西南の海路に沿って進み、その地方に広がっていたシナ人と接触することで、日本民族の世界的存在意義が始まる。津田は二つのヤマトを東と西とに想定している。西のヤマトは九州西北の邪馬台で、ある時期にヒミコが君臨し、東のヤマトは近畿地方の大和である。いずれも朝鮮半島及びその先にいたシナとの接触で勢力を伸ばしていたが、四世紀に大陸東北部の遊牧民族の活動によリシナ勢力が覆され半島にも力がなくなると邪馬台は勢いを失う。この機に東の大和が九州でも力を得て、半島から瀬戸内航路、近畿まで支配領域を広めることができた。この間、三世紀には強力であった出雲地方をも得て、五世紀に入ってからは九州南部の熊襲もほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国が大和の国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方において九州の南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべては大和の国家の範囲に入っていたことが推測せられる。それはほぼ今の関東から信濃を経て越後の中部地方に至るまでである。
「皇室の御先祖を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられたとき、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられたときを建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるにしても、確かなことはやはりわからず、またそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、当たっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれともまったくかけ離れたものであることは、なおさらいうまでもない。」
「昔は、神代の説話に基づいて皇室ははじめから日本全土を領有していたように考え、皇室のはじめと日本全土領有という意義での建国を同じと思い、またこの島における日本民族のはじめをも混雑して考えてきたようなところがあるが、それは上代の歴史的事実を明らかにしないからであった。上に述べたヤマト国家による統一の過程には一々の根拠があるが、これが事実に近いものとするなら、ジンム天皇東征物語は決して歴史的事実ではないことがわかる。それはヤマトの皇都の起源説話である。」
皇室の権威が次第に固まってきた時代が六世紀はじめと津田は考える。権威を一層固めるために朝廷において皇室の由来を語る神代の物語がつくられた。それには皇祖が太陽としての日の神とされて天上にあるものとしたために、皇孫がこの国に降ることを語らねばならず、降られた土地がヒムカとされたために、現に皇都のあるヤマトを結びつける必要が生じて東征物語がつくられたのである。ヤマトに皇都がある理由もいつからかもまったく不明であったから、この物語はおのずから皇都の起源説話になったのである。「東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」(編集部注:アマテラスの系統の継承)を受けられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまたジンム天皇によってヤマトに遷されたことを語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によってつくられたものである。だからそれを建国の歴史的事実としてみることはできない。」
それから後の政治的経営として『古事記』や『日本書記』に記されていることも、チュウアイ天皇の頃までのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ、スシン(崇神)天皇からあとは、歴史的存在として見られよう。それより前のについては、系譜上の存在がどうあろうとも、ヤマト国家の発展の形成を考えるについては、それは問題の外に置かれるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことは何らかの形でのちに言い伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何事かがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の末において、既に知られなくなっていたので、記紀にはまったくあらわれていない。
記紀についての以上の説明は非常に明快で合理的だと思う。「真の上代史はまだできあがっていない。すなわち『何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない』ということである。史料批判が歴史家によって一様でなく、したがって歴史の資料が一定していないことがその一つの理由である。」と付言されていて、ここに述べるところは私案であると断っているが、学界並びに一般世間に提供するだけの自信は持っていると書く。

二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情
津田はこれまで万世一系の皇室が続いてきた事情を各時期について、それぞれ要因を語ったのちに現代の問題に移っているが、記紀の内容が繰り返される部分もあり煩雑になるので時間的な推移は省略して、筆者が読んだ限りでの結論部分について記すことにする。
この万世一系という言葉、子供の時から聞き慣れているせいで、意味を考えたことがない。あらためて確認すると、一つの血統が永久に続くことを意味し、血統は皇室の血統のことであるので皇統という用語が使われる。本書で津田左右吉が表題に用いているが、議論するに当たってあらためて意味を確認することはしていない。したがって文章の中では長く続く、続ける、続いた、ことに論点を絞り、その対象は近世までは存在としての皇室であり、近現代では制度としての皇室すなわち天皇制の問題となっている。
章立ての表題は「万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情」として歴史的事情を述べるようにはなっているが、内容としては歴史的事情に重ねて発表時における著者の思想を説いている。この論文は昭和21年(1946)発行の雑誌『世界』第四号に記載された著作で、発売は3月半ばであったろうと推測するが、この年は1月から4月にかけては占領軍当局と政府の間で新憲法の内容に関する議論が重ねられていた最中であった。戦時中の神がかり的な軍部の暴走が破滅的な敗戦を招いたことで、神と祀り上げられた天皇にも社会的批判がおよび、民主主義と天皇制との共存可否などがかしましく論議されていた。こういう中にあって論文で津田は民主主義と皇室は共存できることを強調した。
すなわち、「現代に於ては、国家の政治は国民みずからの責任をもってみずからすべきものとされているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立して外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。」と説き、さらに、「具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そして国民の内部にあられるが故に、皇室は国民とともに永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民とともに万世一系なのである」と付言する。
こうして津田は新憲法に先んじて皇室を国民結合の象徴とうたい万世一系と結論した。そうして締めくくりに次の文章を掲げる。
「国民自ら国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」は我らが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐(こころ)にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民とともにせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しく、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくの如く皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大いなる発露でもある。」

これはこれで立派な文章ではあるが何か書きすぎの感がしないでもない。本書の中に「われらの摂政殿下」の声が沸き起こったことが国民が皇室を敬愛することの一例に挙げられている。1921年、昭和天皇が皇太子時代に洋行して戻ったのち11月に摂政となったのであった。上にいう「われらの天皇」の津田の内部での具体像は「われらの摂政殿下」の延長ではなかったか。昭和になって天皇が国民から引き離された事態を痛恨の思いで見ていたのでなかったろうか。津田は皇室ファンなのだ。もとよりこれは筆者の直感にすぎない。

筆者の個人的な感触として津田は昭和天皇を敬愛していたと察している。上に述べた皇室を愛する云々の言葉も対象は昭和天皇に思えてならない、と同時にあるいは津田はもともと皇室ファンではなかったのかという疑問に似た感情をもつように至った。それは前半の皇室が長らく存在し得た諸事情についての説明も、国民の心情に拠るところが多く感じられるからである。根底に皇室愛をもって論じたのでないかという疑念である。それは悪いことではないが説明が論理ではなく感情的だという意味である。
論文が発表された頃の日本社会の人口構成は戦争によって異常に歪まされていた。数年後に出生数が動き出す。「国民が父祖子孫相承けて継続する」という観念は、当時静かな平泉にあった津田がまだ昔ながらに持続していたものかも知れない。いまこれを読む現代の読者は、少子高齢化、人口減少という事態を迎えていて、天皇の生前退位も経験した。先例に従っての即位の礼やら大嘗祭やらも予定されている。万世一系は国民が皇室を敬愛する限りは安泰であろうとは思うものの、この論文にはすこし考えさせられた。
『建国の事情と万世一系の思想』は青空文庫で読める。https://www.aozora.gr.jp/cards/001535/files/53726_47829.html
(2019/8)

2019年8月4日日曜日

感想 まだ記紀の周りをうろついて…

神野志隆光『古事記と日本書記 「天皇神話」の歴史』講談社現代新書 1999年を読む。
著者の姓の珍しさに惹かれて近づいた本。駒場教養学部現役教授だった頃には、テキストの読みにたいする厳しさを、学生たちは教師への最高位評価の「大鬼」を捧げることでこたえたという。著者の姓は「こうのし」とお読みする。
出版されてはや20年、この間、学界の研究にも新しい知見が数多くあっただろうから、本書に述べられた言説はもはや古くなっているかもしれない。しかし、1700年も前の時代の文献について教わるに当たって、読者たる筆者にとってはなんであれ新しい知見であることに変わりはない。
さて読みはじめて戸惑ったのは易しい言葉遣いであるのに理解が難しいことだった。記紀二書のそれぞれの成り立ちを追う過程が説明される文章を、実に緻密に読まなくては趣旨が会得できないという、ひとえに読み手に負わされた課題に立ち向かわされた。けれども、西洋哲学を説く日本語文章の難解さなどとはまったくちがう愉しさがあったことは特記できる。

記紀、あるいは記紀神話という言い方でどちらも同じ神話をもつと思われている。『古事記』と『日本書紀』は当然に別個の書物であって、それぞれがもつ世界観によって異なる物語がつくられている。これが神野志博士の説く基本前提である。たとえば、『古事記』上ッ巻と『日本書紀』巻一・巻二の神話物語をくらべる場合の一例。『古事記』ではイザナミは死んで黄泉の国へ行ってしまう。黄泉の国から逃げ帰ったイザナキは禊(みそぎ)して穢れを祓う最終段階で、天照大御神、月讀命、建速須佐之男命の三貴神を得る。
『日本書紀』ではイザナミは死ぬことはなく、黄泉の国もない。二神が共同して、大八州に続いて山川草木を生み、さらに日の神、月の神、ヒルコ、スサノオまで生む。日の神は大日孁貴(オホヒルメノムチ)と名づけられ、その霊異を褒められて天界を統べるようにと天上に送られた。スサノオはその無道のゆえに二神は根の国に追放してしまった。

天孫降臨に例をとればアマテラスの役割はまったく別物として語られている。『日本書紀』第九段に、天照大神の子、アマノオシホミミノミコトがタカミムスヒノミコトの娘タクハタチヂヒメを娶ってニニギノミコトをうまれた、とある。アマテラスの登場はこれだけであって、以後何もしない。地上平定を意図してニニギを送り出すのはタカミムスヒである。更にタカミムスヒが発意しただけでは地上世界の君主となることは保障されない。天の世界に属するだけでは条件不足で、地上においてタカミムスヒの発意を実現するためには、降った神とその子孫による経営が必要だった。よって五代のち(*)のカムヤマトイワレビコ、つまり神武天皇の働きがヤマトにあって天下を治めることになった。『古事記』で降臨したニニギがはじめから葦原中国を支配するよう決められていたのとは違う(*タカムスヒータクハタチヂヒメーニニギーヒコホホデミーウガヤフキアエズーカムヤマトイワレビコ)。『日本書記』では降った神たちが自力で天皇への道を開いた。これを著者は「経営」と評する。

著者、神野志隆光氏は『古事記』『日本書記』をそれぞれの世界像(コスモロジー)によってつくられたと説く。『古事記』はムスヒの、『日本書紀』は陰陽のコスモロジーだという。ムスヒは「万物を生成する根源的霊力(エネルギー)を意味する」。ムスヒの神は『古事記』の核心をなす。ムスヒ二神と記述されるのは高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)と神産巣日神(カムムスヒノカミ)だ。要所要所で他の神の仕事を助けに出現している。天地はすでに成り立ち、高天原という天の世界にムスヒをはじめとする神々が出現するところから『古事記』は始まる。『日本書記』が陰陽のコスモロジーだというのは、天地が分かれ、イザナキ・イザナミにいたる神々が出現する第一段から第十一段まで徹底して陰陽の原理すなわち男神女神の共同によって天皇の世界が成り立った物語であるからだ。ちなみに『日本書記』には高天原はない。

記紀はそれぞれ、断片的にあったかもしれない伝承を世界観にしたがって別個に構成してできている。であるのに、二つの神話を同一であるかのように考える習慣から理解に混乱が生じる。一例を、著者は『万葉集』の読み方で、柿本人麻呂の草壁皇子挽歌(巻2・167)にみる。草壁皇子が天武天皇の崩御のあと、皇太子でありながら即位することが叶わずして早世したことを歌の意味に込めている部分の解釈である。
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分かち 分かちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合いの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かき分けて 神下し いませまつりし高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄みの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と  天の原 岩戸を開き 神上がり 上がりいましぬ (後略)
これは前半部分である。「神下」した「日の皇子」が「神上」がった、という。「日の皇子」は誰かというに、上からの続きでは天孫降臨のニニギとも、下への続きからは天武天皇とも考えそうになる。著者は、万葉集注釈家が記紀に、ニニギが降臨したとあるのを動かせない前提にして解釈しようとするとして批判する(142-8ページ)。そして、素直に読めば天武天皇が降臨したのだと断言する。
神々が集まって神の領分を分けたとき、天は日女の命、地上は神の命が統治するのだと決まって、神降ろして行かせ奉った高照らす日の皇子が飛鳥浄御原宮に神として御殿を構えられ…と読む。素直に人麻呂が歌う通りに読めという、厳しいテキスト理解を強いる。

既に書いたが、天武天皇が降臨したのだ。「すべての神々が関わった定めに根拠づけられて、世界のある限り貫かれる秩序を実現する存在として、天武天皇があらわれる」。先立つ天皇たちは存在したけれども、天武天皇こそ、正統な、永続する秩序のはじまりをになうという。「柿本人麻呂は天武天皇を始祖として神話化したというべきなのである」。

『日本書記』天武2年8月25日条に、新羅の弔喪使(前の天皇の弔いの使い)を受けず、賀騰極使(新天皇の即位の賀の使い)だけを受け入れたとある。対外的に、前王朝と断絶した新王朝であることを明らかに表明したのだ、と文献(秋間俊夫1976)を参照している。また天武が歴史上はじめて「天皇」と称したとの文献(東野治之1977)も参照している。だから天武天皇は始祖と言える。

このように著者は『古事記』『日本書記」に現れた神話にこだわることなく、人麻呂の歌を素直に読むことを教えてくれる。ただし、この歌の途中にわずかに引っかかる部分があるという。すんなりと読み下せたはずの文脈に、何かつじつまの合わない箇所があることにわれわれも気がつく。「途中に落差をつけて重なっている、二段式の滑り台を滑降するような」と卓抜な比喩で説明した研究者(粂川光樹「試論・人麻呂の時間」1973)を紹介しながら、このような遡っては辿れない文脈は、古代の歌の口承的性格として理解することができようと記している。

著者は古代の歌の口承的性格と書くが、筆者はこれを古代に限らないと考えている。口頭で長い話を伝える時に、ときとしていま口の端に乗せているのとは別のアイデアが閃くことがある。いつの間にか話が別の軌条に移っていると気がつく経験は誰もがあると思う。口から出てゆく言葉は単線に乗っているが、脳の中では複線が走っている。口頭によるコミュニケーションの特徴だろうと思う。歌には抑揚と拍子の調子が伴うから、こういう特徴が発生しやすいだろうと思う。そのために、口頭で読み下すときには抵抗を感じない箇所も、テキストではつながりが悪いということも起こり得る。この人麻呂の挽歌の前半の終わりから後半に移る箇所にはそういうことが認められる。よって筆者は著者の説明を少し広げて、ここに掲げた前半につづく「わが大君」が歌の前後半をつなぐ働きをしていると解したいが叱られるであろうか。
 …神上がり 上がりいましむ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと…

さきに記したように、著者は、人麻呂の挽歌をもニニギが降臨したかのように説明する万葉注釈があると批判する。注釈家が、記紀の成立は人麻呂歌より20年以上も後であるにかかわらず、人麻呂も記紀が基づくのと同じ神話を踏まえて歌ったと見るからだ、としている。言い換えれば、ニニギ伝説は記紀以前にも知られていたのかもしれないが、そうであるとしても論拠が何もなく単に注釈家がもつ刷り込みをもとに論じていると批判するのだ。著者の立場で言えば、『古事記』と『日本書記』は異なる世界の神話であるから、そこに「同じ神話」を見ようとすることがすでに無効であるということである。

そういうことよりも、著者がこの人麻呂の挽歌で強調するのは、上に記したように人麻呂はこの歌で、天武天皇を神にしてしまったことである。記紀を二つに分けて考えることで、この考察が可能になった。そして著者はこのことを人麻呂による新たな神話であるとしている。これも含めて多元的な神話を見るべきであろうと主張する。

長くなるのでここには触れないが、本書で著者は「祭祀と神事」「二つの神話」の一元化などが『古事記』と『日本書記』の合成などで作為的に行われてきた歴史を文献に拠って明らかにする。章立てでは、本居宣長を最初に置いて、『古事記伝』によって古典としての『古事記』の確立を果たしたと評価する。それは「古昔より世間おしなべて、只此書紀をのみ、人たふとび用」いる中世の状況を宣長は転換したと見るからである。次いで遡って古代神話を論じ、順次、天武期の中国を模倣した国家創始、平安期の六度に及ぶ「日本書記講筵」などによる書紀作り変え、中世の神道・仏教・儒教をあわせて論じる中心に置かれる書紀、明治憲法での古事記神話による記紀一元化をそれぞれ簡潔に括って、天皇神話がつくられてきた様子を論じている。『日本書記』はこのように利用されてきたのだとあらためて思い知る。新天皇即位や大嘗祭儀式などをひかえている昨今の状況から一段と興味がそそられる。気がつけば、本書の副題は「天皇神話の歴史」であった。(2019/8)


2019年7月22日月曜日

『古事記』序文が曲者だった

三浦佑之『「古事記」のひみつ』2007年を読んだ。記紀についての研究は新しい発見や見解が次々に発表されているので、筆者のような素人が書物で得る知識は、すでにかなり古くなったものだろうと思う。当方は学問追求ではなく知識を楽しむために読むのであるからそれでも一向に構わない。
少し前に長部日出雄『「古事記」の真実』(2008年)を読んだが、この著書の基本は、天武天皇が修史事業を始めたが、出来てくるものはすべて文字資料による史実だけで、口頭伝承が含まれないことに気づき、その欠陥を埋める作業の必要を感じたとする。口承による過去を再現できるのは宮廷巫女たちであったから才能豊かな稗田阿礼に口承による故事収集を命じたというのである。当然に阿礼女性説を採ることになるが、このことは専門の歴史学者の間に男性説と女性説の両論があることで、女性説が誤りとして排除されることはない。
長部氏の考える基本には、天武天皇が、公式編纂の『日本書記』とは別に、口頭伝承を集めた『古事記』を個人的に編纂することを計画したに違いないとする。結果として『日本書記』は漢文体で記述され、『古事記』は和漢混交体の漢字文になった。太安万侶は文字のない社会で話されていた言語を漢字に写す作業に苦心したと序文に書いている。難事業にもかかわらず、わずか4ヶ月で完成した。短期間で完成という不思議を解く鍵は、天武天皇と稗田阿礼との共同作業によって「原古事記」とでも言うべき形が作られていたことだと長部氏は想定する。
天武天皇は非常に和歌に長じた人物であったので、歌謡を多く含む伝承の語りを朗々と読み上げる技にもすぐれていたとする。そういう天皇が読み上げるのを阿礼が誦習した。25年後に元明天皇の命によリ、かつて天武天皇の読み上げたとおりに阿礼が読み上げ、音声聞きわけに長じていた安万侶が漢字を選んで書き写した。こうして古事記が出来上がったというのである。
筆者は25年という時の経過が気になっている。阿礼がそれまで元気に生きていただろうか、53歳のはずである。また、記憶力はどうか、各地から集めた伝承を天皇がすべて一人で朗唱できたものでもあるまいなど、なにか便宜的な結論であるようにも感じられる。だから一つの愉しみとして読んだ。
長部氏が本居宣長に導かれるように、文字のない頃に伝えられていた日本語による伝承ということに視点をおいたことには賛同する。日本語の音韻を主題とする「上代特殊仮名遣」学説を完成した有坂英世を紹介し、その「古事記におけるモの仮名の用法について」の学説、つまり漢字で日本語の音を表記するに当たって、「モ」を「毛」と「母」の二通りのほかは使われていないのが『古事記』の特徴とした。古事記が後世の偽書ではなく、非常に早い時代の作であることを証する材料である。8年後に完成したとされる『日本書記』では、もはや漢字による和語音韻表記は乱れていると言われる。

三浦佑之氏は『図書』に「風土記博物誌」を連載されているのでお名前は存じ上げている。誌上では古代文学研究者となっている。歴史学者のお仲間に入れて考えてはいけないのかよくわからないが、文章は親しみやすい。で、氏の考えに沿って『古事記』を考えてみることにした。
長部説にいうように天武天皇が同時に二つの歴史書を企図したなどとは、とても考えられない。『古事記』と『日本書紀』の二つの存在に惑わされるのに比べて、三浦氏の主張は『古事記』に別の存在場所を与えようとする。後世の我々を惑わす曲者が「序」であるとみなし、本文にそれなりの位置づけを与え、「序」がつけられたのは後世の偽装であるとする。その「序」が「臣安萬呂言(しんやすまろまをす)」で始まるのは上表文の形式だそうだが、本来上表文は一枚物の用紙が単独に添えられるもので、「古事記序」のように本文に先立つ文としてあるものではない。三浦氏はこの上表文の形式が時代が下がるにしたがい崩れたと考える。「古事記序」は上表文の形式が忘れられてしまった時代に書かれたと考える。古事記本文は漢字を日本語に当てた「上代特殊仮名遣」の研究によって7世紀半ばから後半の成果と考えられている。これは現在の学界が等しく認めている。
『日本書記』には『古事記』序のように自らの成立を述べた箇所はない。弘仁4年(813)に行われた日本書紀講筵の記録、いわゆる「弘仁私記」の序には天武天皇第五皇子の一本舎人親王が太安万侶等と勅を奉じて撰したとある。続けて、これに先立って天武天皇は稗田阿礼に帝王本記及先代舊事を習わせた。先代舊事とは推古天皇28年に、聖徳太子や蘇我馬子たちが共同で議録した天皇記・国記ほか天地開闢より推古天皇までの古い出来事をいうと文中にある。未完に終わって時代が移った。元明天皇の年、天皇は安万侶に詔して阿礼の読むところを編纂させた。和銅五年正月廿八日のことで、古事記三巻であると記されている。
この講義をしたのが安万侶の子孫の多朝臣人長である。講義の機会を利用して、『古事記』が『日本書記』の先駆をなすものとうたいあげて権威付けしたと考えられる。しかも安万侶は『日本書記』の撰にも携わっている。三浦氏は権威付けとされるが、それは『古事記』が顧みられなくなっていたからだ。
この時代には「氏文(うじぶみ)」とよばれる諸氏の家々の由来と系統の記録が盛んに作られた。天皇家や藤原氏との軋轢などが原因で、律令体制確立の段階で古来の自家の伝統が黙殺されたり、強圧されたりして、止むなく暫時雌伏していたことへの反動かとも考えられる。特に祭祀に関係する氏に氏文作成が多かったという。『古事記』の内容は真偽を問わない神代の物語であるから、祭祀関係というのはうなづける。
この「弘仁私記」が『古事記』の名が世に出た最初であると知った。筆者は『古事記』がどうやって世に知られたのか知りたいと思っていたので、これには単純にびっくりした。100年もの間、知られることがなかった、ここに秘密があるように感じる。
「弘仁私記」序文に、「書紀」の撰に関係した安万侶のことを「王子-神八井耳命之後也」と書いてある。これは神武天皇の皇子の末裔を指しているが、結局は多氏の系譜を示していることになる。三浦氏の見解のように、律令制度に適応しがたい記事は載せないのが『日本書紀』であるとすれば、『古事記』は伏せなければならない書物だった。三浦論では「記」と「紀」に描かれるヤマトタケルの人物像を比較例として引いている。『古事記』は多氏に伝わる物語の書物であったのだろう。諸家の氏文が種々あらわれるような時世になったので、多朝臣人長は日本紀講筵の博士をつとめる機会を得て、ここで自家に伝承される「フルコトブミ」に陽の目を見せようと決心をした。もっとも三浦氏はここまで明確に断じているわけではない。律令制度という枠を『日本書記』にはめて考える三浦氏の思考を筆者が延長したまでである。この本『「古事記」のひみつ』には著者の結論を出してはいない。古代日本にはわからないことが多すぎる。
筆者はよくブログを参考にしている。春野一人の名で「太安万侶、古事記を作った人の秘密」という題の連載がある。一人の名でのグループ研究らしい。小説仕立てで書いているが、資料探索の範囲が広くて当方の知識も増えてありがたい。長い話の末に、多氏は渡来系であって、その過去が筑紫に根を張る倭国(ヤマト)、百済も含める領域で出雲国も関わっている。そんな家の歴史は飛鳥・平城の大和朝廷の歴史の邪魔になるから禁書にされた。『日本書記』は朝廷の都合に合わせて書かれた史書であって、安万侶の漢字知識が発揮されて、密かに内緒のことが織り込まれる。よく調べてある。
というわけで、今回の結論は、古事記序文が偽造であって、『古事記』自体は立派な国民資産。愉しめばよろしいということにしておこう。
読んだ本:長部日出雄『「古事記」の真実』文藝春秋(2008)
     三浦佑之『「古事記」のひみつ』吉川弘文館(2007)(2019/7)





2019年7月7日日曜日

安岡章太郎『鏡川』を読んで

北小路健氏の『古文書の面白さ』を読むうちに、その「面白さ」につい誘い込まれて『鏡川』を読んでみることになった。といっても誰に強制されたことでもなく、自分勝手に心はやるままに図書館から借りだしたまでのことだけども。他にやりかけのこともあるので、そちらの方の休み時間にという考えだったが、甘かった。大佛次郎賞作品ということは、それなりに重みのするものであった。作家の母方の先祖をたどって、往時の時々に姿を見せる人々に想いをはせる文章は、なまなかなことでは読み過ごせない。そんな作品について感想を書こうとしている。

作者は日頃多摩川の土手や河原の路を散歩する。多摩川べりを歩いているという感覚ではなく、幼児から体験したいくつかの川が脳裏に明滅する。4、5歳の頃、女給さんのいるカフェーでハヤシライスを食べた江戸川沿い、連れてくれた中学生に口止めされた。母と途中で別れて一人で家に向かったとき、市川の真間川は不気味な淵に見えた。関西の旅で淀川が目に入ると、一時大阪に住んだと語る母の話を思い出す。途端に無意識のうちに高知の母の実家の前を流れる鏡川が目に浮かぶ。城の外堀の役割を持った川の左岸の一部は築屋敷という名の屋敷地となっている。気分はいま、築屋敷の土手を歩いている。母の実家の前の河川敷は一面桑畑だ。座敷に座ったままで、桑の葉ごしにチカチカ光る鏡川の流れが見える。
川の対岸に柳の木が一本あって、水面に枝を垂らしていたのを、私はかすかに覚えている。そして私は、そこに、
  一軒の茶見世の柳老いにけり
という蕪村の句をあらためて憶い描いてみる。
ここから作家は与謝蕪村の「春風馬堤曲」の叙景とともに蕪村の心を写しだす。これは蕪村の生家あたりの風景なのだ。摂津国毛馬村。藪入りで母のもとに急ぐ娘とのしばしの道行きを織り込んで18首の句と漢詩でつづった稀代の名作。シメククリには次のようにある。
君見ずや故人太祇が句
  藪入りの寝るやひとりの親の側
作家は多摩川の河川敷の一劃に、暮れ残ったすすきの原に揺れる白い穂先の波をながめて、ふと白髪の頭髪を乱した母の姿を思い出す。
蕪村は父母の氏名も出自も不明、育った場所や地名も不確定で、転々として掴み難く、天涯孤独を偲ばせる。
「丸山主水(応挙)が黒き犬を描きて賛せよと言ひければ」という前書きがあって、したためられた一句、「おのが身の闇より吠えて夜半の秋」、この句がいかにも蕪村らしいという。ただし、この絵をまだ見たことがない。応挙はきっとおびえた痩せ犬を出したろうが、蕪村が自分で描けば野太い声で闇夜に吠える剛直な黒い尨犬(むくいぬ)にちがいないと勝手に思い込んでいる。
ところが、文中にそれらしい図の写真が載せられている。読者から送られたから収めることにしたという。
己が身の闇より吼て夜半の秋 蕪村

住まいを転々と変わる暮らしを重ねてきたところから、作家は二葉亭四迷が評したロシア小説の主人公の性格「本領が浮薄で、万事浮足で、踏みごたえ足溜りがない」気質を母親から自分が受け継いでいるように思っている。作品全部を読み終えてあらためて考えると、登場人物のうちの西山麓に思い当たり、そこに作家自身の気質の一部がみえるように思える。黒犬の図はその表象ではないのだろうか。仮に蕪村が描いたならば黒い犬には「おのが身の闇よリ吠えて」反発する剛直さがなければならないと作家は見るからである。

冒頭に系図がある。そのうち小説に登場するのは15、6人ほどだ。世間に知られている事績や資料のほかに私蔵されていた書簡や文書があったはずだ。作家はこれを古文書解読の専門家北小路健氏(故人)の助力を得て、パズルを解くようにして人々の動きを探った。
西山麓という人物、高知では知られているはずの人であるが、才能ある漢詩人として、または奇人としてである。詩の才能は独学だそうだが、名の通っている漢詩人横山黄木がその才を保証している。小鷹の号をもつ。小説には、はじめ「葬式の旗持ち」として落ちぶれた人の代名詞で出てくる。日常的に家の中ではなんにもしない。寝転んでいるだけという怠け者である。ただし他人が見ればのことで、芯に密かに勁いものがあるように書かれている。上に述べた黒犬の図の登場は、この人を意識した作家の作為ではないかとも思われる。
丸岡莞爾という冒険ロマンのような実話をもつ人がいる。脱藩して長崎商会の帆船に乗ってカムチャッカへ行ったり、五稜郭で戦ったり、宮内庁に勤めたり、沖縄県知事をしたりしている。麓の母親は莞爾の妹千賀である。莞爾自身は和歌を得意としていて、沖縄は尚氏の一族とよく歌会を催した。政治詩の多い当時の漢詩界にあって花鳥を詠み込む作詞が多いのは麓の特色であったから、県庁職員にしてもらって文化交流では役立っていたのであろう。夫に先立たれた千賀と麓を莞爾が援助していた。莞爾の死後、未亡人は一年祭をすませると早々に東京に引揚げてしまったから、母子家庭が遺された。千賀は宮中で湯殿の下働きを勤めたらしく、天皇の使い捨ての浴衣を大量に頂戴して戻った。暮らしのたずきになっていたことは、作家も母親から聞いている。50歳過ぎの千賀が母子の行く末を案じながら山路を墓に詣でる途次、耳の奥に謡曲『角田川』を聴く。莞爾が一時住んだ敷舞台のある家で稽古に招いた師範の声だ。謡曲『角田川』は子を思う母の物狂いが主題だ。謡の中の子の年が12歳。父に死に別れた西山麓も12歳。片親で育つことの容易ならぬ苦労をいまさらながら感じ入ったうえでの作家の幻聴だ。苦労する麓よりも、いつもそばでハラハラしながら眺めていた千賀のほうが辛さが多かったであろうという思いやりである。母千賀は明治34、5年頃亡くなっている。
独り身の麓は50歳半ばから、夜は養老院一燈園で泊まるようになっていたらしい。昼間は友人の家に上がり込んで蝿帳の残りものを食したり漢詩を詠んだり見たり、そうでなければ寝転んでいる。逸話はいろいろ記されている。最後は独り、養老院一燈園で亡くなる。安政6年ー昭和3年 享年70。

何しろ系図を追って15人ほどの人物を書き分けるには、縦に年代をみて、横の関係も必要になる。縦は親子、横は夫婦の関係、子の年長順は右から左へ。途中の空隙にポンと養子が現れる。それぞれの生きた間に起きた事柄、世の中のこともあれば、個人的なこともある。系図全般をにらんで見渡せば、映画のフィルムの回転と走馬灯の絵柄を同時に眺める気分である。頭の中でこの作業をすると遠景を眺めるような心持ち、しかしこれを平面に書き写すとなると言葉の一回性のせいで、行ったり来たりすることになる。その間に人物が交代したり再来したりということになって、ページを追うにしたがって記憶が怪しくなる。で、感想が切れ切れになって霧散しそうな気分である。

安岡氏の母上、恒は日本橋区瀬戸物町11番地、日本生命保険会社の扣家(ひかえや)で生まれた。明治28年。扣家は予備の家屋のことらしい。「こう見えたって、わたしはレッキとした江戸っ子だからね」といばっていたのを作家は憶えている。「にんべん」の隣家である由、と注記してあるのが庶民の耳にはうれしい。
恒は入交千別(いりまじりちわき)の三女である。千別は明治9、10年頃、郷士の生活と縁を切り、同志数人と印刷所を始めた。経営資金が不足し民権団体立志社の援助を仰いだ結果、当然のことながら民権派の機関紙になってしまった。土陽新聞といったが、社長は片岡健吉、これが立志社の社長でもある。周知のように幕末から維新にかけて土佐藩は動乱の只中にあったが、維新後も廃藩置県、議会開設、衆議院選挙、各地騒擾事件が続く。このようなことはこの作品にはほとんど触れられていない。
入交千別は明治23年第一回国会が開設されたのを見物するために上京して新聞社を退社した。話の順が変だ、退社して上京ではないのかと疑っても事情はわからない。上京した折に日本生命社の副社長の職にあった義弟の片岡直温(なおはる)に就職の斡旋を依頼したふしがある。すぐには叶えられなかったようだが、翌年12月中旬、東京支店長に月額30円ほかに賞与つきという好条件で諾否打診の書状が築屋敷宛に来ている。千別は即答せず推移は不明に終わったが、明治36年春に家族帯同での東京転入が寄留届で判明して、東京支店長におさまったと知れた。新聞社退職から保険会社入社までの2年半ほどの間に何が起こったのか、安岡探偵の古い書状発掘探索では、同姓の人物、年号なしの書状数通に惑わされて明確な解決は見られなかった。この間に何が起きていたかがその後に語られる。第2回衆議員選挙で大荒れの高知県では死亡者10名負傷者66名の動乱状態にあったのである。こういうなかで、はじめ片岡直温が当選、片岡健吉が落選であったが、逆転の結果となった。直温は揉みくちゃにされて、千別の就職問題どころでなかったのだというのが結論。端折って言うが、新聞社の会計担当者で月給5円だった千別が、30円の月給に飛びついたわけでもなく、そのうえ、わざわざ大阪まで出かけて、さる人に保険事業に無知な自分でいいのだろうかとまで念押しした。そうまでした入社も、事情は不明だが10年ほどで辞職して、あとは建て直した築屋敷で悠々自適の無職生活を楽しんでいた。
辞職後の48歳の時、第5女、久が生まれたことが当時冷やかされながら祝福されたと書いてある。しかし、その結果とでもいうか、妻の竹が肺結核で亡くなった。大正4年55歳。問題はその後、50日祭がすむかすまないかのうちに千別が再婚を宣言する。まだ21歳だった恒が猛反対したが、結局千別の意志が通った。そうなると恒が後妻と同じ屋根の下に住まうことは、三者の間に四六時中険悪な空気が張り詰めることになった。解決策は駒場の農学部に進んだ章に嫁がせることになったという。これとても、はじめは養子の必要のない入交の家に章を婿に迎える話がまず進められたというから、昔の家のしきたりには理解できないことがあるものである。

まだ寺田寅彦に関係することなど作家が提供する話題は尽きないが、実は繰り返して読むほどに新しい発見が見つかるような気がして、読み収める気分にはなかなかなれないでいる。縦横に入り組んだ事柄を実にうまく読者を惹きつけるように書き得たものと、当然のことながら感心する。名品である。歴史は人間が作るということが身にしみるように理解できる。いまは家の制度が変わり、大家族が減り、人間の質が急速に変わってゆく。少子化が云々されたかと思う間もなく高齢化が追い打ちをかけてくる。介護保険が出来てはいるが高齢者用施設も増えている。それでいて役場には孤独死した人の骨壷が大量に埋葬を待っている時代である。安岡章太郎氏は2013年に92歳で亡くなられた。それでよかったというのは、おかしく響くが、もっと生きておられたなら哀しい思いをされたかもしれない。氏は個人的には大変なご苦労をされたが、ユーモアを忘れず人をあたたかく包み込むようなお人柄である。この歴史があってこの人があるという、言い表しがたい感銘が残る名品である。その反対にこの人だからこの作品が残せたと言えるだろう。
読んだ本:安岡章太郎『鏡川』2000年 新潮社、新潮文庫2004年 (2019/7)

2019年6月22日土曜日

『古事記』の序文を読んで。

『古事記』は、筆者が参照している岩波文庫の校注者、倉野憲司氏の解説によれば、書名をこのように名付けるという説明はないそうである。もとの読み方はわからないままに、コジキと音で読みならわされているとある。原本は失われており、現存するのはすべて写本である。内容は上中下の三巻に分かれている。上巻のはじめに序文があり、原文では「古事記上巻 幷序」とあって、幷と序との間に返り点がついている。この返り点は底本が解読の便宜を考慮したためと考えられる。倉野氏の読み下し文では、「古事記上つ巻 序を幷(あはせ)たり」と読ませる。現存する最古の写本「真福寺本」の影像には、「古事記上巻 序」と見える。この序文は漢文であるが、写本の「幷」は正格の漢文でなく崩れた語順だそうである(三浦佑之氏)。時は和銅5年(712年)正月、書いたのは太安万侶、女帝元明天皇に奉った上表文の形をとって、古事記撰録の由来が述べてある。
国宝真福寺本 国立国会図書館蔵
太安万侶の墓誌が1979年1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から発見された。当時海外にあった筆者は後々までこの事実を知らなかった。1980年に帰国してより週末ごとに奈良近辺を訪れていたが、安万侶の墓があるとはつゆ知らず、行きそびれてしまった。ブログなどを通じて発見者の茶農家の話などを読むと、千二百年余もの時を隔てて、よくもまぁ、という感動にうたれる。過去には実在を疑われたりした安万侶について、世間の見方はこの発見によってどのように変わったのだろうか。参考までに墓誌発見にかかる記事のURLを下記しておく。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c12/
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c13/

倉野氏の解説は、「序文は四句六句を基調とした四六駢儷体(べんれいたい)の気品の高い漢文で書かれていて、必ずしも達意の文ではないので、その解釈は学者によって区々であり、今日もなお定説を見ないありさまである」と述べている。語り出しは、臣安萬侶言(臣安萬侶まをす)で、これは別として、続く文は夫(それ)とか、然(しかれども)のあとは対句になっている。
夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。
然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。
達意の文ではないというのは、意味がわかりにくいのである。たとえば、読み下してみて「神倭天皇、秋津島に經歴したまひき。化熊川を出でて、天劔を高倉に獲、生尾径を遮りて、大烏吉野に導きき。」とあれば、何のコッチャとなるだろう。これは神武天皇が東征した伝承のうち、熊野から吉野に至るありさまを述べている。神の化身の熊が川を下って、高天原から降された劔をタカクラジという人から手に入れ、尾のある人が路に溢れて歓迎し、八咫烏が吉野に導いた、となるのだそうである。これまた、何のコッチャであろう。
「參神」とか「二靈」にしても、これだけで前者がアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの三神、後者がイザナギ、イザナミのことだと注記されているが、こんな語り方はないだろうと思う。ここには書かないが、この序文の成り立ちに大きな疑問があるようだから、こんなところにボロが覗いているのかも知れない。ま、こんな具合であるから、序文はいい加減にわかったつもりにして読み進めるとしよう。
倉野氏は序文に見出しをつけてくれている。はじめの部分には「序第一段 稽古照今」とある。読み下し文に「古(いにしえ)を稽(かむが)へて…今に照らし…」とある部分からとっている。要するに第一段の内容を指していて、すべて神代の伝承である。「序第二段 古事記撰録の発端」、読んで字のとおり。天武天皇が即位して帝記を撰録して旧辞の誤りを正して後代に伝えんと思うと詔して、稗田阿礼に勅語して日継(ひつぎ)、舊事(ふること)を誦み習わせたが、未完に終わる。「序第三段 古事記の成立」。元明天皇が和銅四年9月18日、臣安萬侶に詔して稗田阿礼の誦む所の勅語の舊事を撰録して献上せしむと言われた。お言葉にしたがって詳しく記録したが、云々(後述)、ともかく三巻を録して献上奉る。とある。日付が和銅5年正月28日 正五位上勲5等太朝臣安萬侶。位階を見ると墓誌に從四位とあったから、古事記完成後に昇格したとみえる。古事記で賞せられたか他の功績のためかはわからない。
さて、ここに筆者が云々としておいた部分であるが、文字を持たない神代の伝承を阿礼が口頭で伝えるところを和銅の世に用いられている漢字によって記録することの難しさにほとほとまいりました。そこで、ひと工夫したのであります、と述べて具体例を示しているのである。
たとえば、一句の中に音と訓を交えて用いたり、あるいは一事をすべて訓で表したりした。言葉の筋道がわかりにくいものには注をつけたが、意味の取りやすいものはそのままにした。また、姓で日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)といい、名で帯(たい)の字を多羅斯(たらし)というなどはそのままにしておいた。このようにして、天地開闢より始めて推古天皇の御代で終わっています、という具合に書き終えている。
このように古事記の序文を読んで見れば、文字を持たない日本の大昔に漢字が到来して、それが字音と字訓を持つ文字であることをうまく利用して日本独特の「ことば」、つまり日本語が表記されたことを知り得るのである。
倉野氏は歌謡の表記などに字音のみで表記した箇所がかなりあることに注意を喚起する。序文にあげられた用例はあるにしても、それだけが『古事記』に用いた表記ではないのであって、古言をさながらに伝えようという配慮から、字音のみによる表記をも採ったと思われる。安万侶はこのようにして、一層国語的表現に適する変則の漢文を作り出したことに注目すべきだとされている。
倉野氏が岩波文庫の一冊をまとめるうえでは、ここまでの説明でよいとされたのであったろうが、漢字で日本語を表す、つまり日本語の書きことばの創造という課題をこなすには、これではまだ足りないではないかと、次に記す小池清治氏はより細かく補足してくれる。
安万侶が記した「然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難」。これを読み下せば、「然れども上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」。ここに小池氏は注目する。
言語表現を「言」と「意」、すなわち音声的形態と意味に分けて考える認識方法を安万侶は『易経』に学んだとみる。それは次の文言であると。「書不尽言、言不尽意」(書いたものは話しことばを表現し尽くさない。話しことばは心に思ったことを尽くさない)(『易経』の「繋辞伝」)。小池氏は、この文言を「書」というものの実態を観察し本質を見抜いた上での諦めと決断の表明ととる。中国の広い国土に無数にある方言(音声言語)を忠実に「書」として文字化したならば、そこには無数の「書」の体系が発生したに違いない。例として小池氏は中国語での「日本人」の音声「リーベンレン」は地方によって「アーベンレン」、「イーベンレン」、「ジーベンレン」などになる。「日本人」という「書」が「言」を尽くしていない。表意文字ははじめから、言語の音声的側面を犠牲にし、切り捨てることによって成立したものである。安万侶はこの事を言いたかったのであろう。ただし、中国の例では既に文章語ができていたうえでのことであるが、安万侶には「上古之時」でも、元明帝の当代でさえも、話しことばを書きことばにするのは難しかったということである。だから、せめて『古事記』がその時の最上の答案であり、「漢字仮名交じり文」になった、と考えよう。ただし「仮名」はまだ発明されていないので、漢字の間に読むための注記をこれまた漢字で挟むことをした。こうして出来上がった『古事記』には正式漢文と変体漢文が混じる結果になった。変体漢文は、安万侶が、こうしておけば意味は通じるであろう、と考えた文である。言い方を変えれば、意味さえ通じればよし、とすることで妥協しておこうというところか。したがって、どう読んだか後人が迷うことになるのは当然である。

以上は、気まぐれに『古事記』序文に取り組んだ筆者の覚書である。先人がどう読んだか、何を見たか、を古い記録に表れた材料に探るのはいつの時代にあっても議論は尽きない。序文第二段の天武天皇のことばにある「諸家之所賷帝紀及本辭」(諸家のもたる帝紀及び本辞)と阿礼の「誦習」も議論の一つである。稗田阿礼の才能の豊かさが鍵であって、「諸家の本辭」ではなく、阿礼が誦む所の天武帝の「勅語の舊事」を撰録したとする説に筆者は味方したい。煩雑を避けて詳細は省くが参考までに北野隆(さとし)氏の名をあげておく。
なお、古事記の文章詩句に漢訳仏典の影響があることが小島憲之氏や神田秀夫氏が指摘されていることも倉野氏は付記している。これもまた筆者には刺激的な指摘である。

参照した論考:『古事記』倉野憲司校注、岩波文庫 1989年
       『日本語はいかにつくられたか?』小池清治、ちくまライブラリー 
       1989年
       北野隆「稗田阿礼の『誦習』:カタリの力」:
       ymjcp-46-00010016.pdf、このファイル名をインターネットのアドレ
       ス欄にコピーして、開いたwebサイトでPDFファイルをダウンロードし
       て読めます。
(2019/6)

2019年5月26日日曜日

雑談 江戸の便り

『彗星夢雑誌』のことに引き続いて幕末維新期の「風説留」に関連した事柄を読み散らかしている。
風説を巷の噂ととらえれば、当時ではなんと言っても黒船来航のニュースである。最たるものは「たった四杯で夜もねられず」と銘茶の上喜撰に蒸気船をひっかけて、お上のテンヤワンヤぶりを皮肉った狂歌であろう。
嘉永六年六月三十日というホットな日付の手紙の末尾におまけのようにして知らせてきた江戸の書肆山城屋左兵衛が、市中で見たか聞いたかしたものであった。この手紙の受取人は常陸国土浦に住まう色川三中(いろかわみなか)という人物、この御仁は薬種商であり、醤油醸造元であり、また国学者であった。黒船当時はすでに子息に商売を任せ、自身は国学者として門人たちと黒船情報の入手に日夜熱を上げていたほか大砲など武器の製造研究もこころみていたそうである。
句の秀逸さが面白がられて一時は教科書にまで載ったという狂歌であったが、いつ頃の作であるかが知れなかった。それがなんと2010年にもなって判明した。所在は静嘉堂文庫所蔵の色中文書、発見者は元専修大学の斉藤純さん。ネットでは神奈川新聞と読売新聞が新史料発見と報道しているが、それらによると、明治11年に史料で確認されたのが最初ということから、後世の作品ではないかとの疑念が生じていた。それがまさに黒船騒動の真っ最中の「嘉永六年六月三十日」付の手紙で伝えられていたことがわかったのである。
Peaceman氏のブログ、PORTAGIOIEから拝借
子供の頃は周りが全て明治人という環境に育った筆者は、いつの頃かこの狂歌を記憶していたが、9年前のニュースを今頃知って、へぇと改めて驚いている。古文書というあの草書体の毛筆文は、ただ眼にしただけでは何が書いてあるか、つかみにくいものではあるが、すでに故人となった色川三中研究者の中井信彦氏でさえ、一度ならず眼にしたはずの文書で見つけられなかったのかという驚きもある。

さて、狂歌発見の報道にも出ていたと思うが、発見した研究者の斉藤氏は大久保真菅を調べていたとあった。この人物は色川三中に親しく教えを請うていた人であり、黒船来航の頃にはニュースを求めて二人三脚のように記録に現れる。下総国結城郡菅谷村の名主で黒船当時は50歳過ぎだった。三中に入門してから名主を長男に譲り、国学を学びながら色中の蔵書を筆写し、郷土史を編纂しながら、仙台藩儒者とも交流し、さらに水戸藩とのつながりを持つようになった。
色川三中は本草学を学んで破産に瀕した生家の薬種商を立て直して息子に任せ、自分は醤油醸造元の経営をしながら学問に向かった。思想的には地域が色濃く反映して尊攘派だったから、大久保真菅も傾向を同じくしたようである。真菅は、菅谷村領主との関わりを通して武士階層への不信や黒船対応時の失望などから、農民武装計画を練るなどもしていたが、最後は水戸藩の天狗党に参加した結果、自刃して果てた。
名主になって間もなく大飢饉に見舞われたり、家作が残らず全焼するなど不運があったにもかかわらず、家伝の山林を開発して新田を拓くなどして再建する真面目一徹な人柄であったが、直情径行の傾きが過ぎたのかもしれない。真菅については風説留すなわち情報研究の一環として岩田みゆき氏が大量の日記を研究されている。
その岩田氏の著書を読みながら筆者は歴史上の用語知識をいろいろ勉強させてもらった。用語の知識がないと著者の文意を正確にはとれなかったからである。おかげで徳川政権の治世に対する強みと制度維持に要する管理体制の大仰さがわかった気がする。
結城郡菅谷村というのは現在の茨城県結城郡八千代町菅谷(すげのや)の地に当たる。大久保家は天正の頃に出羽国から移ってきた郷士でこの土地の開拓地主だったらしく、菅谷村の一人百姓だった。それが元禄時代に地方直し(じかたなおし)という知行再編成改革がなされて、菅谷村は相給(あいきゅう)という複数領主制の領分になり、正徳二年(1712)には壬生藩領、天領、旗本の山本領・榊原領の四つに分かたれて幕末まで続く。大久保家もそれにつれて分化し、一族の中から分家によって名主を出し、真菅自らは壬生藩領菅谷村の名主を勤めた。岩田氏の著書には「正徳二年鳥居丹波守の領分になった時、郷士の称号を剥奪され、ただの「里正」となった」と記されている。この意味は農民でありながら武士とみなされる階級から、農民階級の里正におとされた、ということであろうが、里正にかぎ括弧がつけられている理由がわからないし、一般的に里正の職分もこのころになると地域によっても異なっているようで判然としない。いずれにしろ村方のまとめ役、年貢を納める責任者としての名主の職分を勤めていたとの理解で良さそうである。
ところで、この鳥居丹波守は下野壬生藩の初代として近江水口から移封されて三万石を与えられた。一方菅谷村の村高はどれくらいであったか、資料がないので不明であるが、岩田氏は大久保家の所持高を120石あまりと記している。壬生藩の領地は下野、下総を中心に大和、播磨にもわたり合計91カ村に及んでいる(Wikipedia、壬生藩「幕末の領地」による)。3万石と120石と91カ村を結ぶパズルを解く鍵を持たない筆者には見当がつかないが、藩主たるもの、それぞれの領地を代官で治めて、どのように財政を管理したのか謎だけが残る。わかっているのは時代が進むにつれて、武士階層が生活を維持できなくなるとともに、農民が年貢と夫役に困窮したことである。領主が村から先納金、御用金、調達金などの名目でする前借りが横行し、年貢収入で追いかけても返済ができなくなると「此度上ゲ金」と称して一部帳消しが行われたというから呆れるではないか。「上ゲ金」とは本来献納金のことだ。黒船来航の際には内陸の藩でも武具武器の調達に高額の御用金を申し付けたらしい。ということは時代はすでに変わっていて、農村には金があったということになる。自然のうちに商業的な動きが盛んになり農民層は才覚があれば作物の換金だけでなく余剰金を生み出すこともできていた。こういう趨勢は、さきの渋沢栄一の物語で学んだことでもある。大久保真菅は火事で家作を失って困窮した際には村全体の財政再建を図るために家伝の山林開発とともに尊徳仕法の導入を計画している。尊徳仕法、またの名、報徳仕法は言うまでもなく二宮尊徳が各地で教導して成功していた財政再建策である。「分度」と「推譲」という用語が使われるが、分に応じた金の使い方をして、余剰を生み出し、他を助けるというやり方だという。地元の小田原で家老の家の借財を整理して余剰金を差し出して有名になった逸話があるそうだけれども、見方を変えれば質素な節約生活の勧めみたいなことで、武家がいかに家計運用に暗かったかということではなかろうか。大久保家の場合は尊徳仕法に領主が関心を示さず、やむなく民間のつてを頼って尊徳翁の指導を願ったが、最後は真菅のほうが不信感を抱いたとかで実現はしなかった。
風説留関連でまとめるつもりの文章が思わず横道にそれたが、武家階層の没落、農村上層及び町方商人、一般知識層から起こった気運は、社会的革新をもたらすに至る。明治維新の評価は別にして、そこに至る道筋で風説留をめぐる人間関係が醸し出した「公論」世界(宮地正人氏)は至極まっとうなものだった。まだ情報という用語がなかった頃、歴代名主が文書を隠蔽している疑惑から揉め事が起こる事例や、文字に暗いことがバレた名主の事例やら、一揆の発端になりかねない事例など、現在の政治家・官僚にみられるような事象が多く見出される。筆者は非力無知のため、肝心の問題検討に到達する以前でもたついているが、政権に対する民衆の力という観点で見ると江戸時代、徳川の治世はなかなか興味深い。
参照した本:岩田みゆき『幕末の情報と社会変革』吉川弘文館 2001年
      中井信彦「色川三中の黒船一件記録について」三田史学会『史学』50号
      1980年、慶應義塾大学レポジトリ PDF オンラインAN00100104-
      19801100-0005.pdf
      神奈川新聞、読売新聞等の記事は以下の他、諸ブログによる。
      https://www.kanaloco.jp/article/entry-135851.html 
(2019/5)

2019年5月6日月曜日

南方熊楠と『彗星夢雑誌』


幕末維新の歴史を宮地正人氏の著作について読むうちに風説留という用語を教わり、典型の一つとして『彗星夢雑誌(すいせいゆめそうし)』の名があげられ、紀州日高郡の羽山某という人物を知らされた。日高郡の羽山と聞けば南方熊楠が再三夢にまで見た親友の若き兄弟がある。さては、と感じて調べにかかった結果が以下の拙文である。

柳田国男に宛てた書簡中に、熊楠が『彗星夢雑誌』の存在を知り、相当に執心であったことがわかるので引用する。
大正2年12月14日午後8時。(…)次の件は、他人に利害を及ぼすこと大なる惧れあるにつき、地名、人名、書名は一切略し申し候。また、さるべきことあるべき虞れなけれども、当分は他人にお話しなきよう願い上げ候。小生父出で候家といささかの縁ある者、ある村にて有名なる医たり。受領ごとき名前を付き、謂わば土豪にて、その人の一言にて近郷ことごとく騒ぎ立てたり。この人、安政か嘉永か、世の騒がしくなるべき前に、大彗星出でたる年あり。至って筆達者な人にて、世上騒がしくなるにつけ、いろいろ聞き込みたることども日々記し付け、また近地の風俗、その他いろいろ雑多のこと、大は将軍家の起居より小は長命丸の製剤方まで記し付けたるもの、和とじ百五十冊(中本)あり。小生、明治19年洋行前一宿し見たことあり。(中略)今も現存する由なり。小生洋行のとき一宿して少々写し抜きしもの今に存するを見るに、世に公にならぬ徳川幕末の記事珍しきこと多し。地方風俗、伝話等のことは、一つも抄しなきもいろいろ記しありしなり。(中略)しかるにまことに惜しきは、件の随筆百五十巻にて、小生当県で多く見たる文書中、かく巨細にかき集めたるものを見ず。(たしか艮斎、拙堂等との往復文、それより奇兵隊の隊長したる人などとも交際広かりし人ゆえ、いろいろの内実、今日に知れぬことども多く扣えあり。)かの一族死に絶えるは止むを得ぬとして、何とかこの書だけは写してでも抄してでも一本を内閣文庫辺に保留いたしたしと存じ候。(以下略す)以上は平凡社版全集第8巻より。
南方熊楠は「疾を脳症に感ずるをもって」大学予備門を退学した後、しばらく故郷の和歌山で保養していた。父親弥兵衛の実家、日高郡入野の向畑家をよく訪れ、またその足で遠縁に当たる北塩屋の羽山家を訪れている。羽山家には和歌山中学で親友だった1歳下の繁太郎と4歳下の蕃次郎がいた。熊楠がブラブラしていた明治19年春から秋にかけて何度か泊りがけで遊びに行っている。
『彗星夢雑誌』を遺した人物は羽山大学(1808~78)、名は維碩(いせき)、大学は号である。蘭方医で嘉永初頭に牛痘接種を日高郡内に広めた先覚者でもある。熊楠が交際した当時の羽山家の当主は大学の養子で医家を継いだ直記であったが明治35年に死去。六男二女の子沢山だったが男子は「将棋倒しのように」次々と肺病で亡くなり、四男茂樹がどうにか生き延びたが、昭和4年に卒中で死去して同家は断絶してしまった。熊楠は洋行したため一族との往来は絶えていたが、大正2年、田辺に寄宿していた末娘の季(すえ)と妻松枝が出逢ったことから、羽山家のその後の様子を知ることになる。大正5年5月には『彗星夢雑誌』を借りて抄録を始め、同7年3月に一応終わると年譜にあるが、筆者はその経緯を知らない。長女信恵は塩屋の豪家山田栄太郎に嫁いでいたが、熊楠が昭和2年、栄太郎に宛てた書簡には『彗星夢雑誌』の出版について触れた箇所がある。そのことから、『彗星夢雑誌』の管理はすでに山田家に移っていたと思われる。上述の次女季は御坊の材木商中川計三郎に嫁いだ。
昭和12年10月に『彗星夢雑誌』を抄録するために雑賀貞次郎を山田栄太郎に紹介している。この人物は熊楠を敬愛する地元の新聞記者で、はやくから著述関係の整理や外部交渉などを手伝っていた。雑賀によれば抄録は翌年秋に完成したという。現在この現物はどこにあるのだろうか。
以上のように熊楠は『彗星夢雑誌』の存在を知り、その歴史的な価値もよく理解していながら、どのようにしてこれを世に役立てられるか模索するだけで、内心は焦りながら終わってしまった。自分で処置ができない状況にあっただけに、まず保存の状態を心配し、つまらぬ商人などの手に落ちないよう山田家の人々に注意をし、せめて写しだけでも手元に置きたいと念願した様子がわかる。1941(昭和16)年12月29日午前6時30分、熊楠は逝った。腎萎縮、75歳。

筆者は冒頭に書いたように、宮地正人氏の著書の記述から『彗星夢雑誌』と南方熊楠の関係を知ったわけであるが、そのことがヒントになってインターネット上の情報をさぐると、中川木材産業株式会社の諸氏の手になるホームページに行き着いた。
そこには不完全ながらも『彗星夢雑誌』原本の影像やら羽山家の家系図まで出ている。それによって宮地氏の著書の注記にある『彗星夢雑誌』を持ち込んだ山田偉平氏とは榮三郎氏の長男であること、編纂所の目録にある現像所有者山田仁丸氏が次男であることを知り得た。宮地氏と『彗星夢雑誌』がどのようにして結ばれたのか不明であるが、同社のサイトの『彗星夢雑誌』のぺーじには、宮地氏が1988年におこなった講演の記録要旨があり、雑賀貞次郎氏が『彗星夢雑誌』の構成を説明されている記事も貴重だ。版権のことを考慮されたのか、どの資料も完全な姿で見ることができないのはいかにも残念である。原本の影像のページでは現代文訳を募っているが、奇特な有志が現れることを期待したい。

南方熊楠が衰えゆく我が身と亡国の戦に盲進した愛する故国にあって、行く末を案じた『彗星夢雑誌』は、いまやこれ以上はない最適所に安住の場を得た。そのうえ、デジタル化されて万人の目に触れることができるようになったとは、泉下で目をむいて驚いているにちがいない。羽山家縁者の諸兄姉にお喜びを申し上げる次第です。
さて、最後に羽山大学の『彗星夢雑誌』序文の一部を引用して終わることにする。黒船が浦賀に現われたことを契機に綴り始めたことを、その時分に彗星が出現したことと重ねて表題にした。嘉永6年秋7月と日付がある。
嘉永六癸丑年七月中旬ころより日々くれどきとりの下刻げこくより西北戌亥いぬいの間にあたりて奇なる星出現す、(…)箒木星ほうきぼしと唱え囂々ごうごうとしてかまびすし、(…)近き世に新に開く亜墨利伽アメリカ洲より一時いっとき千里走ると云火輪ひぐるま仕掛の船に乗り、ペルリとか云毛唐人、浦賀の港へ渡り来て、和親交易ねぎながら、国禁制度も聞入れず、暴威を振い猖獗しょうけつは、かたえに人の無き如く、吾皇国を蔑如して、もし交易を許さずば、忽ち兵を開かんと、江戸近海の人騒ぎ、かなえの沸が如くにて、又は石火矢を発射はなつとて坤軸こんじくくだきし其響き、耳を貫き目を覚ませば、只一睡の夢にして、傍をみれば蚊遣かやりの烟の中に鶏が啼吾妻の方の知己ともだちより、急の報知の雁の文章ふみとてや、遅しと封切りて読めば、不思議やあたりに、今見し夢の如くにて、彼アメリカの話聖東ワシントン、ペレシテントの国王より、使節彼理ペルリが渡来して、和親交易を願う由、吾妻の方の動揺は筆紙に尽し難しとて書誌かきしるしたる報知なれば、只ぼうぜんあきはて、(…)夢なればさめよ覚よと眼をすりて、夢路に綴る此ものがたりほうきの星もろともに掃き集めたるあくた、反故ほごかごいれられて、手巾しゅきんにならん夢紙なれば、自ら彗星夢雑紙と標号して灯下に誌す夢の記は、老て昼寝の目覚しなれば、人に見すべき文に非ず、只此上は大皇国おおみくに、かしこき君の出まして、国威を光輝てらし神風に醜の夷人えびすや箒星、船もろ共、西の海路に吹払らい、此夢はやく醒覚さませかしと、斯くいうものは紀伊の国日高川下に思う事汲て叶うる神の下に住めるあんずの宮の下の叟、夢路をたどりたどり誌す
 今上皇帝 御製
  白浪のよしよするとも なにあらむ 我秋津洲(あきつしま)は神風ぞふく     
                        (彗星夢雑誌 第一巻上)
中川木材産業(株)のサイトより。
参照した本:宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』1999年 岩波書店、同『幕末維新変革史』2018年 岩波現代文庫、『南方熊楠全集』平凡社版、津本、神坂、笠井各氏による伝記など。(2019/5)







2019年4月16日火曜日

読書感想 『生きて帰ってきた男』岩波新書 2015年

小熊英二『生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後』岩波新書 2015年。

著者が父謙二氏(以下敬称略)が88歳から89歳にかけての折に、それまでの生涯を聞き取った内容で構成した作品である。本書の副題に「ある日本兵の戦争と戦後」とある。謙二は19歳で徴兵され、20歳からの4年間を捕虜としてシベリアで労働させられた。シベリア抑留という履歴は、引き揚げ間もなく肺結核を招き、5年間の療養生活を強制したばかりでなく、大企業への復職を妨げるという追い打ちをかけた。これが副題の意味である。著者が執筆にあたって企画した前史とでも言うべき部分には、祖父の代に田畑を失って零落した素封家の次男、雄次が明治の新天地、北海道に渡って以来の一家の苦闘の物語が付け加えられた。そこには謙二が生まれる前提として同じように移住して苦労する別の一家の物語が加わる。両家は戦前戦後をつうじて、腕一本で生きるすべを身につけた家長と妻が協働して次代の一家を育んで、謙二の物語につながる。不運続きの人たちだったが、辛くも謙二の後半の人生に陽があたるようになって、読者も救われる。農民、最下級兵士、自営商業という社会の下層から浮かび上がった、平凡な会社勤め人には望むべくもないような筋金入りの男が淡々と生きている情景が描かれて終わる様子は感動的であった。2015年の出版当時お元気な様子だったから、おそらくまだご存命だと思う。書名の「生きて帰ってきた男」には、続けて「~は、このように生きているぞ」と付け加えたい。
著者は生活史、社会史だけでなく、折々の時代について、社会制度、政策、統計的データなどを挟み込んでくれている。ときに著者の主観的な色合いも感じられるが、読者にとってよく理解できてありがたい。語り部が左右の政治色に染まらず、自分ながらの考え方を主張できる能力を持っているのは聞き取り作品にとって貴重であった。逆に、訊かれなければ何も言わないタイプの人物であるかも知れない。やはり聞き手あっての聞き取りだろう。
読後感をなんとか書こうとしたが、感情移入が強くなって手に余った。参考にあたってみたネット上の文章では、図書新聞の「すすむA」氏の評が、一部知らないことが述べられてあるが、概ね自分のと似ていると感じたので、URLを記しておく。http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=457
この評者は最後に「血縁意識」が厚いことを書いている。雄次の死の2年前、不自由な体の居場所を定めてくれようとする兄妹たちの段取りの中で、山形にいる謙二の異母姉のもとに預けられることになる。その異母姉とは雄次が先妻に死なれて、店も焼け、網走で再起するために旅館の主人の世話で里子に出した下の娘だ。乳飲み子だった娘が50年の歳月をおいて引きとりを申し出てくれた。「当時は親を大事にする結びつきは強かった」と著者が書き加えているから、50年の空白があったと推察できる。ここまで読んできて筆者は娘さんたちの真情に打たれた。雄次はこのあと静岡にいる上の娘さんのもとで79歳の生を終えた。
最終章にでている中国籍朝鮮人元日本兵の日本政府への補償要求裁判で共同原告になった行為は誰にでもできることではない。この意味で謙二は普通の人ではない、変わり者だ。ただ、謙二が法廷で読み上げた「意見陳述書」は自分の言葉で綴られているだけに素直に気持ちが理解できる。全面的に同感である。陳述書を裁判官たちの前で読み上げたことについての謙二の言葉が記録されている。
勝つとも思えなかったが、口頭弁論で20分使えるというので、言いたいことを言ってやった。むだな戦争に駆り出されて、むだな労役に就かされて、たくさんの仲間が死んだ。父も、おじいさんも、おばあさんも、戦争で老後のための財産が全部なくなり、さんざん苦労させられた。あんなことを裁判官にむかって言っても、むだかもしれないけれど、とにかく言いたいことを言ってやった
そのとおりだ。法律論議はさておいても、これを国に言いたかったのだ。謙二氏が生きた時代の9割ほどを筆者も生きてきた。おじいさん、おばあさんの有り様も実によく似ている。半ば自分のことのように感じながら読ませてもらった。(2019/4)

2019年4月8日月曜日

旅の便りから

ファイルの整理中、懐かしい記事が出てきたので載せることにした。元の日付は2007年12月1日となっています。
ベルギーの蠅 
この秋グループ・ツアーに参加してベルギーに行って来ました。バスでの移動が長時間になるときには途中で休憩があります。いわゆるトイレ休憩です。 あるガソリン・スタンドで休憩したとき、男子用の小便器で発見をしました。清潔なトイレで不快な匂いもほとんどしま せん。用を足そうとしてふと便器を覗き込むと蝿が一匹止まっています。こちらが行動を起こしても動かない、よく見ると それは絵でした。タイルか陶器か材質は確かめませんでしたが、要するに便器に印刷してあるのです。ずらりと並んだど の便器にも大きめの黒い蝿が一匹ずつ描いてあります。ここに披露するのは 少々不躾ですが写真を撮ってあるのでご紹介します。百聞は一見にしかず。 同行の人も「面白いですねぇ」「アイデアがいいなぁ」と感心して います。


そのあとベルギーのほかの場所でも見た記憶があります。 帰宅して写真の整理の必要上いろいろな人のブログも参考にしたりしますが、 ドイツやオランダの話としてこのトイレの蝿が登場します。発祥の地はアムステ ルダムのスキポール空港だとも書いてあります。理由や目的を煎じ詰めると清 潔に保つための工夫であると、つまりこの蝿を標的にすれば便器の外にこぼさ ないからだというのです。 
ヨーロッパやイギリスの街を歩いて感じるのは、白人たちの足が長いことです。腰がかなり上についています。そして、その せいであることが歴然としているのが男性トイレの小便器の高さです。短足の日本人観光客はたいてい多少は苦労し て用を足しているはずです。このことを考えると、ようやくの思いでたどり着いたトイレで勢いよく放出したとき、高い位置 からなら思わず狙いをはずしてしまうことも十分ありえます。ようやっとの思いで漏斗の中に落とし込む態の日本人には あまり生じない現象でありましょう。
さて、便器に蝿の絵がある理由は分かったとして、トイレに蝿がいることから人はどんなことを連想するでしょうか。蝿 は汚いもの、汚いところにいる虫、便所には蝿がいるなど日本人ならたいてい刷り込まれた感覚です。ですからオランダ やベルギーのように、清潔を保持するために蝿を利用するなどとは考え付かないでしょう。
一見ユーモアがあるように見える便器の蝿の絵ですが、清潔を保つためという目的とは何かちぐはぐな感じがします。ト イレには蝿がいるものという常識がかの国々の人々にもあったがために生まれた発想ということも考えられます。そうであ れば、便器に蝿の絵があることは不快な思いをする人もいるかもしれません。いったいどういうことであのような絵が描か れることになったのか、ちょっと興味深い現象ではあります。 かつては往来に各自の家の屎尿をぶちまけて過ごしていた人たち、糞だらけのぬかるみを歩くことからハイヒールの発 想が生まれたとか、そのままの靴で家に入ってベッドに入るまで靴は脱がないなどなど。きっと彼らは四六時中蝿と共 存していたに違いない。臭気芬芬のパリから逃げ出したのはどの皇帝でしたっけ。モンテーニュにもパリの臭気に触れた 文章があるようです。ま、こんなことをも考えながらこの秋の旅行を思い出しています。 
ゲントのからし(mustard)
ベルギーのゲントという町でマスタード(西洋からし)を 買いました。ベルギーで 17 年生活している日本人女 性のガイドさんがその町の名品として教えてくれたのです。教わらなければ営業しているかどうかも分からないような店で す。もっともそれは当日に限って店の表を工事していたからのようです。あとでインターネットで探してみると表に向けて 商品も陳列してあるし、古風なサインも軒を飾っています。


店の名は Yve Tierenteyn Yerlent 、どう読むのか分かりません。現在は 1890 年から2代目の家が継いでいるそうで す。 からしは 1 種類だけ、瓶の大きさを指定するとマダムが奥にある樽から掬って 詰めてくれます。つまり量り売りです。本来は陶器に紺青の絵と店名が入った容 器に入れてコルクで栓をするのですが、飛行機の荷物室では気圧が変化する ため栓が抜けて漏れ出してしまいます。ですからマダムは私たちにははじめから 瓶のサイズを選ぶように言ったようです。トロ~っと流れる程度のやわらかさです。 保存は冷蔵庫でするように注意してくれました。
無事に持ち帰って、味わいながらつくづくと瓶を眺めました。ラベルには店の名と 住所とロゴが白地に黒く印刷してあって、1790年とありますから200年を超す老舗ということになります。日本なら寛政 2 年創業というところです。ゲントの 1790 年はフランス革命の翌年で、ナポレオンがこ のあたりを占領したといいます。つまりフランス領になったわけです。それまではハプスブ ルグ家のネーデルランドでした。ですから瓶のラベルの書体はオーストリア風の書体が 使われているそうです。製法は当時のままだそうですが、ナポレオンの侵入とともに兵 隊が製法を伝えたとも、あるいはマスタードで名高いフランスのディジョン(Dijon)で働 いていた当地の住民が持ち帰ったとも、店の創始についてはいくつか説があるらしいで す。店のロゴになっている日本の花王のマークのような顔についていわれを知りたいのですが、まだ分かりません。
さて、近頃日本では消費期限や賞味期限の表示について規則違反がさかんに咎め立てされていますが、ゲントの からしの瓶には「Keep Cool」とタイプされた手作り紙片が張ってあるだけです。これはもちろん観光客向けの保存につ いての助言であって日本のような法律とは違うようです。ゲントの店では週に 2 回造りこむことになっているので、いつも 製造後 3 日以内の製品を売っています。冷蔵庫で保管して 3 ヶ月日持ちするとはニューヨーク・タイムズのサイトで得 た情報ですが、こういう商品は地元では銘々自分の舌で味を確かめながら消費するのですから、政府による取り決め に頼る必要はないのが当然でしょう。 日本で問題になった伊勢の「赤福」や崎陽軒のシューマイなどの表示違反は規則あるがための違反であって、品物 を賞味する上ではなんら問題にする必要はないと思うのですがどうでしょうか。生ものにカビが生えるとかした場合に、 食べてよいか悪いかなどは本来買い手が判断すべきことでしょう。まして材料の表示順など賞味することとは無関係な ことではないでしょうか。 ただ、ゲントのマスタードは世界中でここでしか買えない商品で、卸はおろか出店もしない、まさに売り手も買い手も 良識と常識で長く続いている店という思いがします。 
オランダ語のメニュー
ブルージュの街では昼食を各自で摂る事になっていました。そ の前にレースの店を探したりしていたために 1 時半近くになって しまいました。日本語のメニューもあると教わっていたあたりの店は早くも掃除など始めたので、広場から少し離れた、 一日中やっている風情の店に入ってみました。ベルギーはどこでもオランダ語(このあたりのはフラマン語と呼ばれます)、 フランス語だけでなく英語も通用すると聞いていたので、言葉の障害など忘れていたのですが、メニューを見てギョッ! オランダ語しか書いてないのです。ありゃ困ったなぁと思いながら、じっと読めない文字面を眺めていると、オムレツが読め た。しめしめこれにしよう、何のオムレツだかが次に書いてある。トマトが読めた。妻はすかさずそれにすると言います。そ れじゃぁ、自分は読めないヤツをと思って Kaasとあるのを頼んでみたら、若いウエイター君はチーズだねと念を押してくれ ました。そうだ、カースだよなんて分かった振りして注文したのでした。内心では、そうかカースがチーズかとほっとしました。 その前にビールを頼んだのでしたが、銘柄も知らないし、量は 20 とか 40 とか数字があるだけ、身振り手振りで小ジョッ キぐらいのをもらって正解でしたが、ウエイターも必死で緊張しています。はじめメニューをもらったあたりで隣の席のばあ 様がウエイターにパトリックと呼びかけていたのを聞いていたので、まずビールを持ってきたときにサンキュー、パトリックとや ってみました。彼一瞬ビックリしてこっちの顔をまじまじと見つめてから、ああ、隣の伯母さんのを聞いたのかと、とたんにニ コニコ顔になって、さっきまでの緊張はどこへやら、うまいか、とか何とかいっぺんに親しくなったのは面白い経験でした。 
(2019/4)


2019年4月1日月曜日

国中平野ーー奈良盆地のこと

地域を指す言いかたにくんなかというのがあちこちの地方にある。文字に書くと国中または国仲であるが、もともとは口頭語のようだ。盆地をいう言葉だ。精神医学の中井久夫氏の文章に教わったのは奈良盆地についてである。生まれ故郷の奈良には、盆地の周辺部ばかりに遺跡があって、平野部にはほとんど見るべきものがないのを不思議に思ったとある。この平野部を氏は国中平野(くんなかへいや)とよぶ。
元来の「倭(やまと)」は磯城郡のあたりだけである。「東の野にかぎろいの立つ見えて……」というあのあたりを倭といい、国中平野は「大倭(おおやまと)」と言っていた。オオヤマトに「大和」の字を当てていたのが、そのうち全体としてのヤマトを指すようになった。大和神社だけはいまだにオオヤマト神社と呼んでいる(あそこは元来国津神である。つまりこの地域の神様だったものである。明治維新の時に祭神をかえさせられたのである)。[…]当時の支配者は奈良の南東部を中心、平野部を辺境と考えていたと推定してよかろう。[…]国中平野は辺境のまた辺境ということになる。
なぜ国中平野がそのように辺境とされたか、それには自然的理由があるだろうと氏は推定されている。初瀬川、竜田川が合流して大和川になるあたりはもともと湿地帯でマラリアがはびこっていたはずである。琵琶湖南部には20世紀後半までマラリアが残っていたくらいで、一般に日本の低湿地にはマラリアがあったと考えてよい。イタリアやネパールの村が丘の上にあるのは谷のマラリアを避けてのことである、と述べられてある。 私は以前、貧しい人は低地に住み、富裕階級は高地に住むと考えて、これは世界共通の傾向だろうと思っていた。私はその理由について深くは考えず、せいぜい日当たりや見晴らし、水はけ程度にしか思っていなかったが、中井氏は医学者らしくマラリアを持ち出されたので、私説にも一つの根拠ができた。 ここに引用した文章はあるシンポジウムでの発言に手を加えたものでごく軽いものである。私はそこから自分の関心を惹くことを拾っている。 

京都に都が移ったあとの奈良盆地は寺の荘園が多く、大名は出なかった。武士の侵入を防ぐための環濠集落が発展した。江戸時代には篤農・豪農から商業との結びつきが生まれた。ここでは換金作物を栽培することから商業がでてきたように書かれていてなるほどと思った。製薬会社はほとんど全部が当麻寺の荘園だった村の出身だと書かれているのは面白い。宋の国定処方薬をお坊さんに読ませてそこの百姓に薬草をつくらせ、百姓はそれを担いで堺へ売りに出た。やがて境に店を持ち、これが大阪の道修町に移される、とあった。薬屋ではないが社会人第一歩が道修町に始まった私にはその名が懐かしい。

氏は奈良盆地の東の山地から天理教の中山みき、平野部から中村直三が出たことに着目する。私はよく知らないが後者は篤農の農業指導者らしい。そして前者は世直し型、後者を立て直し型の指導者としてみればどうだろうか、といったていの考えを述べる。結論は立て直し型は盆地の考え方であったとする。盆地の中の平野部には水害が多いが、人々はそれにめげずに懸命に復興に励む。三年も頑張れば立ち直る、その繰り返しであると。地域の特徴をいえば河川下流の扇状地だ。酒匂川の扇状地で名を成した二宮尊徳を例に引いている。 盆地に育った考え方は元のように復興することを目標に頑張ってやり遂げるものの、出来上がったその先を考えないのだという。

こういう話から発展して、海に囲まれた日本も盆地のようなものだと考える。海という防壁がなくなった時のことを考えようとしないのではないかと危ぶむ。氏は別にこういうことを主張して一家の説を立てようというのではなく、精神のあり方を考えていて思いついたようだ。この考えを述べようとする際に、氏は「日本人は辺地に共振する」と書いた。共振とはどういう意味であるかの説明はない。何か精神的な影響を意味されたのだろうと想像する。心を寄せるとか離れがたい思いがするとかを考えてみれば、氏の意味されるところがわかるようにも思える。このように考えると辺地に住まう人々にとってそこはひとりでにフルサトになるであろう。「やまとはくにのまほろば」という表現に通じることになるのでなかろうか。「まほろば」は「すぐれたところ」を意味する古語である.

それはそれとして、平野部が湿地帯であったという話は古代の大和湖という淡水湖の存在につながることがわかった。これは中井氏の話と関係はない。いまわかっている大和湖の規模はそっくり国中平野に重なるだけでなく、探求家によれば地名などから古代日本人と中央アジアのつながりが考えられている。こういう話は証拠になる文物がないために学術的には問題にされないけれども夢がある。
 読んだ本:中井久夫『時のしずく』みすず書房(2005)所収、Ⅲ 「山と平野のはざま」(1995)より。

(2019/4)



2019年3月10日日曜日

百姓と国学と剣客ーー宮和田又左衛門のこと

宮地正人の『幕末維新変革史』では民衆の動向を検討する場合、平田篤胤の国学の影響度が重視される。平田国学が人々のあいだで最も盛んだった地域は東濃と南信地方であったとして、これは「島崎藤村の『夜明け前』の世界」としてとりあげられてれる。次いで盛んだったのは東国の下総相馬郡であったとする。ここでは平田国学の動向と時代の関係は本書に譲り、読み物的に面白かったことをひとつ取り上げる。本書下巻、「第33章 幕末期の東国平田国学者」の内容は宮和田又左衛門充胤という人物とその一家のことで占められている。用いられた史料は、宮和田保編『宮和田光胤一代記』非売品 2008年、と注記されている。

宮和田又左衛門充胤(文化13(1816)年-明治21(1888))。この主人公の名は幕末史に詳しくない人にはまず知られていないだろうし、多少知識のある人には、足利三代木像梟首事件(文久3 (1863)年)での宮和田勇太郎や、大村益次郎暗殺未遂事件(明治2(1869)年)の宮和田進が思い出されるだろうと著者は述べている。
勇太郎は光胤の実子、進は養子だが、この二人がしでかした事件はサムライの仕業にみえる。では宮和田親子はサムライだったのかといえば、全くそうではなく百姓の身分であった。これは百姓の宮和田又左衛門の物語である。
下総国相馬郡宮和田村、今日では茨城県取手市藤代町に編入されている。物語のそのころ、下総と常陸の国ざかいは利根川ではなく、まだ小貝川だった。小貝川は名だたる暴れ川であって流域一体は長年氾濫原であったが、1620-30年代の大改修工事の成功によってようやく開発され、水田地帯に村々が成立していった。

小貝川や利根川のもたらす洪水は、これで一段落したわけでなく今に至ってもなお続いている。現在では台風や大雨によって堤防決壊などが繰り返されるが、その被害が河川の沿岸に限られるように変化しただけである。昔は利根川水系の洪水は江戸市中まで被害がおよんだそうだ。

寛永期より宮和田村の名称が出現するが、それは開発地主、宮和田氏の姓が村名になったからである。当然宮和田氏は郷士・名主となる。
又左衛門が剣を握ることになったきっかけは、弘化3(1846)年の関東一円の大洪水にあった。数十年に一度という大水害で村全体が海のようになった。又左衛門初めての経験であったが、名主としては村の百姓を翌年の収穫まで食い継がさなければならない。これ以前、領主旗本内藤家(総高4500石)は支配村々五カ村から、屋敷替えのため2000両を上納させていた。又左衛門は百姓救済のために屋敷替えを延期して上納金を下戻すよう出願する。ところが内藤家では、この金を貸付資金にして利子を稼いでいたため具合が悪く、逆に又左衛門を江戸屋敷に召喚して不正の件ありとして投獄してしまった。家は閉門処分にされ、祖母の重病にも対面が許されず、翌年の死にも帰宅が許されなかった。又左衛門は幼くして母を失ったので、この祖母が父親と相談して名主の家を継げるよう厳しく育ててくれた大恩があるのだ。12月から翌年4月まで入牢させられた上に30両を納めて帰宅を許された。怒り心頭とはこのことであるが、帰宅して不正の筋と言いがかりをつけられた件を調べてみれば、逆に内藤家に680両もの貸付があることが判明した。幕府に訴えでたが、役人どもは結託して言を左右し、埒のあかぬままその年も12月になった。これで、地頭糾弾も手立てがなくなったと自覚した又左衛門は、この上は、なんとしても内藤一家を切り殺して、自決するほか道なしと思いさだめた。おりしも、嘉永元(1848)年12月9日、水戸藩剣客跡部主税之助が宮和田の家に泊まったとき、主税之助に本心を打ち明けて、率直に質問した。
 「幕吏共不正わいろ送答むつび合い、えこひいき、如何共致方なし、此上は相手も其旗本の一人なり、又用人共迄一家一類切り尽し、快く割腹と決心致し居、壱人にて幾人位い切り殺せ出来べくや」と。

相手は剣客、いとも簡単に「稽古次第」との一言。この一言で剣術を稽古し始め、やがて江戸の千葉周作の玄武道場館に入門、一人息子の勇太郎も嘉永2年11月より千葉道場に入門させ、父子ともにメキメキと剣術の腕を上げていった。
著者いわく。「非法非道な領主への百姓又左衛門の憤怒は幕府倒壊まで決して消えることはなく、領主は又左衛門に精神的に見限られたのである」と。
他方領主殺害の場合、連座制により息子に累が及ぶことを恐れ、勇太郎の保護を水戸藩士に依頼する。百姓としては家を存続させなければならない。嘉永4年1月、又左衛門は勇太郎を水戸藩士で千葉周作の高弟、北辰一刀流の使い手、海保帆平に預ける。また勇太郎に対しては、筆道を秋山長太郎に、漢学を会沢正志斎に、習字を東湖の高弟原田成之助に学ばせた。これ以降、万延元(1860)年海保塾を離れるまで、宮和田勇太郎は水戸藩士の庇護のもとにあった。

又左衛門の剣の筋が良かったため、嘉永3年からは近辺の村々の人々を門弟として取り立て始め、安政元(1854)年には宮和田村に文部場という道場を建てるまでになった。さらに安政4年からは江戸日本橋近く、ヘッツイ河岸に道場を進出、諸藩のサムライ、旗本の家来、町人や大店の奉公人などにも教え、史料のある文久3(1863)年までに、江戸と在方あわせて300人以上の人々を門弟にしている。こうした道場の経営にもなかなかの才能を発揮していた。
又左衛門のような豪農には元来鋭い経営感覚が求められた。義兄弟の関係を結んでいた川崎長左衛門という旗本用人がいた。元来宮和田村の少し北、牛久に所領を持つ旗本由良家用人だったのが、安政4年には1500石の旗本で典薬頭今大路右近の用人となっていた。ところが上総の所領で5年越しの村方騒動があって、安政2年の江戸安政大地震で破損した今大路家江戸屋敷の修理も出来ない窮状、困りぬいた長左衛門が又左衛門に助けを求めてきた。川崎に代わって上総東金に出向いて村方の騒動をおさめて修復金を拠出させるまでに事を納めた。それでも今大路家の財政は逼迫、京都の所領に主人名代を名乗って家来二人と槍持を従えて乗り込み、金子調達の段取りをつけて戻ってきた。名主としての豊かな経験と能力と人物がこの課題を果たさせたのだと著者は述べている。
ところで、弘化3(1846)年から名主役を離れた又左衛門は、内藤家主従一家皆殺しの決意をしたものの、ペリー来航後はさすがに国事に関心が移り、「内藤家の当主を自分の家来にでもするか」というレヴェルまで精神的圧迫度が緩和してきたとはいえ、思い出すのも、嫌悪感の湧き出る相手、この内藤家が以前の通り、名主役を務めてくれと頼み込んできたものの、又左衛門は言を左右にして、いっこうに引受けようとはしなかった。

又左衛門は元来熱烈な水戸藩支持者であり、水戸学を信奉していた。ところが安政5年来の条約勅許問題以後の動きが水戸藩存亡の危機を招いたので、会沢正志斎に自説の強硬論を申し入れたが、応答がなく、別ルートから会沢の対幕府方針を聞き出した。その結果朝廷よりも宗家を重んじ、たとえ亡ぶとも徳川宗家次第との考えがわかり、会沢の人となりは藩士でありながら副将軍を自称し、人を使って手柄を立てるだけと見極めた。単に幕府を維持するがための尊王攘夷論であること、水戸学もただ幕府存続のための政治論だったことに失望して、安政6年9月28日、同郷人の師岡節斎の紹介で平田国学の塾、気吹舎(いぶきのや)に入門する。

平田国学はサムライも百姓も学び入門するが、百姓が学んだ場合には特にその歴史の論じ方が心にくい込んでゆく。神武天皇以来の日本歴史の中では、武士階級が全く存在しなかった上古の時代が長らく続き、しかもこの時代は安定し繁栄したものであり、社会的には朝廷を下から支える60余州の国々があり、それぞれの国の主体は「御国の御民(みくにのみたみ)」、つまり生産者である百姓だったという主張である。又左衛門も百姓だ、武家の時代は永遠ではなく終りもあるはずと理解した。君臣の大義とは封建領主と家臣との主従関係ではなく、仁政を施す天子と全国60余州の生産者としての「御国の御民」との関係なのだ、という見通しがついた。
幕府倒壊後の明治3(1870)年の又左衛門の歌がある。
  もののふと いかめしき身も いにしえに かえりてみれば すめらみたから
  みたからと いやしめられて のきし身も 今かえりては  たのしみもあり

こうして又左衛門は多数の剣術門弟の中で見どころのある青年たちを積極的に気吹舎に入門させる紹介者の役割を果たすようになった。彼がのちに泉州堺に移住してからは、彼が入門させた若者たちが周辺の青年を気吹舎に入るように努めた。
幕末期の平田国学の地域的拠点は、なんといっても東濃・南信の『夜明け前』の世界だが、それに次いで、この下総相馬郡が活発な平田国学者を生み出していった。
又左衛門の紹介した若者の一人に高木英一郎(維新後は宇佐美比古雄)がいるが、この男はのちに足尾銅山鉱毒事件で名をあげる田中正造が慶応元(1865)年に気吹舎に入門する際の紹介者となる。

文久2(1862)年12月、将軍家茂が奉勅攘夷を誓約して上洛することになったので、京都に充満する浪士たちを統御する重圧が幕府にのしかかってきた。このとき、平田篤胤生前からの気吹舎門弟の旗本松平主税之助が浪士組を編成するための浪士取扱いの命を受ける。浪士組は新選組の前身になった市中見廻り役の集団である。京都に集まっている有力浪士を束ね得る優れた力量の人材を徴募・採用の対象としていた。松平は早速、同門のよしみで又左衛門を片腕と頼んで浪士取り立てに協力を依頼してきた。しかし、松平が幕府を支えつつ朝廷との結合を強める立場であったがために又左衛門は婉曲に断っている。
同じ気吹舎にあっても門弟たちの幅はひろく、考え方には相当のヴァリエーションがあり、そして各々が自分の信じるところが先師篤胤の思想だと確信していて、当主平田銕胤はそれを裁定する意図はなかった。
同じ文久2年には息子勇太郎が上京して国事運動を行いたいとのたっての願いを聞き入れて、その上京活動資金捻出に、本格的に宮和田家の土地田畑等の財産処分をおこなった。勇太郎出立にあたって与えた又左衛門の訓戒は平田国学解釈の見事な又左衛門ヴァージョンとして著者は紹介する。
大君につかえまつらんに忠なるは論なし、命を全くし、己れ死しても我が子に又忠を尽くさせんこそ心掛けなるべし、右を全うせんには、第一子孫をふやすも忠の一なるべし、大君には御国に敵はあらじ、然れば忠孝を思う益良雄は生を全うし仕え奉らむ心得専一也、己れの武勇に誇り少しの義気に迫り命惜しまぬは忠孝にならざると知るべし、(中略)、己れ一身の義勇に迫る勿れ、時としては早く関東に下り、外々にも士気引起こし、父母親族をも養い、必其方迄男子不絶の我が家を子孫絶やさぬ様、皇大御神に祈り奉れ、(中略)今世の人は三百年の少恩は知れど、三千年の大恩をしらず、えみしらに皇国を汚さるをも心とせぬえせつかさのみ多ける中に、賤が男ながら神の御末に生まれいで、えみしらに皇国をあなづられるをむなしく見て、産みの親にのみまめまめしく仕えるをとて、心ある親のなどかうれしと思わん
家の存続と家の繁栄を中核とする百姓の論理が貫かれ、三百年の主従関係にかわり三千年の天子と御民の関係が国家論の骨子となっている。外圧に屈しつづける幕府と諸大名は「えせつかさ」であって新たなものに換えられなければならないと規定される。

等持院足利三代木像梟首事件は文久3(1863)年2月22日に起きた木造の首が三条河原にさらされた事件だ。犯人たちの主流は平田門下の人たちであった。その中に京に向かった勇太郎が入っていたのだった。京都所司代松平容保は事件を倒幕思想の表れと見て、それまでの緩やかな方針を転じて厳罰でのぞんだ。勇太郎は伊勢の菰野藩に預かりの身となってしまった。世の動きは激しく、いつ処刑されぬともわからず、子煩悩の又左衛門は不安の中に置かれてしまった。遂に夫婦で少しでも近くにいてやろうと移住を決意した。

文久4(1864)年1月のこと、行き先は泉州堺、旧知の渡り用人の川崎長左衛門がこの年から1300石の旗本今井家用人となっていたのを頼った。肩書は旗本今井彦次郎家来となった。ここでも北辰二刀流の道場を開いて手広く門弟を取り立てたという。さまざまな形での尊攘志士たちの働きかけには決して乗らなかった。国事活動にはいっさいかかわらず慎重に日を過ごしていた。いっとき疑われて新選組に連行されたこともあったが、この慎重さのために難を免れた。平田門人としての活動はしっかりおこない東西の気吹舎間の情報取次にあたっていた。
勇太郎は幽閉されたまま当面死罪にならなかったが、先行きはどうなるか。万一を慮った又左衛門は養子を迎えることにして、門弟の中から真面目で腕のある三河国長篠出身の金子真平を選び、宮和田進と名乗らせた。慶応3(1867)年、江戸に出向いた際、進は気吹舎に入門した。

慶応4(1868)年1月3日戊辰戦争が始まって幕府軍は大敗し、将軍慶喜は大阪から船で江戸に逃げ帰った。1月7日の朝又左衛門夫婦と進が堺の自宅に居るとき、故郷宮和田村の領主内藤鉢之丞ら主従5人が落ち武者となって現れ、食物を求めた。主従を斬り殺し自分は切腹して果てようと心に決めて剣術を習い、今まで怨恨が心中深くつかえたまんまの又左衛門の眼前に現れたのだ。しかし、夫婦はこの5名に飯・肴・餅を与えて事情を聞いた。
「1月6日の夜中、急登城を触れられ登城するに、上様は先立って紀州に御出立、それ故紀州路に早々出立致すべしと荒々しく申し渡され、その身そのままにて逃げ来たりし故、今に食事も取れず空腹」との事、又左衛門にとっての御一新とは正にこの瞬間になった。53歳にして彼の胸のつかえを歴史の激動が見事に氷解し去ったのである。怨恨はここに一洗され、疲労の極にあった鉢之丞には駕籠をやとい紀州に落ちのびさせてやった。

6日後の1月13日、又左衛門は大納言中山忠能の御召により今井屋敷から乗馬で出立、槍一筋を持たせ、門弟3、40名を従えて大阪に向かい上京する。一方、勇太郎は無事釈放されて堺に来たが父は出立のあと、京に上って6年ぶりに父子対面がかなった。
又左衛門の心の悦びの様子を伝える手紙が遺されている。慶応4年2月、故郷宮和田村親族に宛てている。「誠に心よき時節に相成申候、一同只今死に候ても、是外にのぞみ無之事と申居候、此段御一笑可被下候、余りうれしくて何も何も出来不申」

さて、それでは養子の宮和田進はどうなったか。残念なことに死亡した。大村益次郎暗殺に加担し、乱闘のさなかに闘死している。大村は長州に諸隊と呼ばれる組織をつくりあげて民衆のエネルギーを解き放つことによって幕府軍を敗退させた功労者である。新政府では新しい軍制を建てる構想を進めていたが反対者も多く、暗殺には遺恨説もある。宮和田進が何故加わっていたかについて、著者は伝えていないが、又左衛門夫婦が東京に戻ったあとも中山家に仕えていたとある。進には夫婦約束を交わした女性がいた。お光という。明治2年10月「ご両親様、御兄上様」に宛てた見事な筆跡の書状をしたためている。
進義、先達て申上候通り、九月四日夜打死被致候故、両人の約束の義、今更申上候て誠に誠にすまぬ事と存候得共、何卒何卒前以御相談申まいらせ候、後また此地にて両人の心にて夫婦と相成候義、幾えにも御免被成度、私義は進存命中に両人とも申合せ、何程のかんなんもいとい不申、たとえ米のかゆすすれ不申とても、麦かゆより食事出来不申とてもかまい不申と、両人申合、夫婦約束いたしたる故、此末はいか成苦労致し候事一切くるしからず候
著者は、この書状の返事がどのようであったか不明だとしながらも、又左衛門はこの娘のいたわしい気持ちに打たれ、二人の間柄を許したものと思われると記す。

著者による又左衛門の物語はこれで終わっている。その後の人生については知らない。Wikipediaには維新後は刑法官、のち富岡八幡宮神職となっている。
平田国学にとっての明治維新はよい結末にならなかったようであるが、又左衛門の心を捉えた天皇を60余国の御民が支える国の形という部分は、現在でも多くの日本人の心に遺されているものであろうと思う。(2019/3)


2019年2月15日金曜日

「のらくろ」--小林秀雄と田河水泡

 小林秀雄と田河水泡

田河水泡と聞いて「のらくろ」を思い出すのはもうこの世に残り少なくなった年代だろう。 「のらくろ」の登場は私より2年早いが、昭和16年に禁止になったそうだから、そんなに長く親しんだわけでもない。それでもキャラクターはよく覚えている。
「のらくろ」の命名は「野良犬の黒」からだとは知っていても、そこに作者の人生が反映されているとは、おとなになっても知る由はなかった。安岡章太郎の随筆で田河は小林の義弟だと知った。そのことの出典が小林秀雄の『考えるヒント』であったので読んでみた。「漫画」という見出しに、人気が続いている「のらくろ」が当局によって禁止された事情が明かされている。満州国の建国理念である「五族協和」にそぐわないというのがその理由だった。 時勢に推されて「のらくろ」も満州に渡ったが、仲間以外のつきあいもしなければならず、
ロシア人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀となった。或る日、作者は情報局に呼び出されて、大眼玉を食った。[…]最友好国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。[…]何故、私が、こんな事を知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。(後略)
このあと小林は漫画の主人公と作者の自己との関係を論じている。この論評も短いけれども説得力がある。小林秀雄と言えば批評する対象も、説明する文章も小難しくて嫌な評論家と思っていたが、こんなにわかりやすく論じてくれると、やはり本物であると感じ入った。 ほんものといえば、その小林は田河の「のらくろ」はほんものだと言っていたそうだ。こちらは漫画の主人公についての論評であり、小林はそのことで作者を指しているのである。
……或る日、彼は私に、真面目な顔をして、こう述懐した。 「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ。」 私は一種の感動を受けて、目が覚める想いがした。彼は、自分の生い立ちについて、私に、くわしくは語った事もなし、こちらから聞いた事もなかったが、家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期を過ごした事は知っていた。言ってみれば、小犬のように捨てられて育った男だ。 「のらくろ」というのん気な漫画に、一種の哀愁が流れている事は、前から感じていたが、彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかった。まさに、そういう事であったであろう。そして、又、恐らく「のらくろ」に動かされ、「のらくろ」に親愛の情を抱いた子供達は、みなその事を直覚していただろう。恐らく、迂闊だったのは私だけである。 そこで、言えるが、例えば「フクちゃん」は横山隆一自身であり、「カッパ」は清水崑その人に違いない。まことに、はっきりした話だ。これは、芸術の上での、極めて高級な意味での自己の語り方であって、そういう観点から、「のらくろ」や「フクちゃん」や「河童」を眺めると、気持ちのいい程、徹底した芸術家の仕事ぶりが見えて来る。……漫画家は、自己をなし崩しに語るわけにはいかないのである。
戦後しばらく漫画家にとって空白の時代が続いた頃、小林は田河に「大丈夫だよ、ほんものはつぶれないよ、「のらくろ」はほんものだよ」と言ったことがあり、田河に大きな励ましになったという。

昭和9年に長谷川町子が田河に弟子入りするとき、クリスチャンの母親から日曜日には教会に行かせてくださいと懇請されたので、毎週潤子夫人が付き添って教会に通ううち、夫人は熱心なクリスチャンになった。昭和27年、田河も牧師との会話を重ねるうちクリスマスに入信した。夫人によれば、多くの人に助けられて書き続けられていることに、大きな力を感じていたようだとある。先の小林の言葉と合わせて考えれば、田河の心の持ち方が、作品に反映して読者を動かして大きな力になるという一種の循環作用が感じられる。かつての漫画の力にあらためて感心する。全国各地で「のらくろ会」が毎年催されていたという。


田河水泡=高見澤仲太郎(1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日) 
高見澤潤子(1904年(明治37年)6月3日 - 2004年(平成16年)5月12日) 
小林秀雄(1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日) 
長谷川町子(1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日) 

読んだ本:小林秀雄『考えるヒント 1』文藝春秋 電子書籍(2015)より[漫画」(昭和34年)。
     田河水泡・高見澤潤子『のらくろ一代記』講談社(1991)

2019年2月13日水曜日

ラクダでやって来た若冲さん!?

作家安岡章太郎はある日、伊藤若冲描くところの群鶏図を見に行く。『仙人掌群鶏図』のことらしい。「博物館と新開地と」のタイトルで随筆集8に収められている。初出誌は1972年『芸術新潮』10月号である。
(東京ウオーカー より拝借)
目的の絵は豊中市の西福寺にある。阪急の服部という駅で降りてタクシーを拾えばすぐ、と聞いて出かけるが、タクシーが拾えないどころか「そんなとこ、いつまでウロウロしとったかて、車に乗れんでえ」と通りがかりの運ちゃんからどなられる。駅前のタバコ屋で西福寺というお寺がありますかと聞くと、店番の婆さんは、「ありまっせ」と言ったきり横を向いてしまう。 なんと不親切な、と怒る主人公は腹たち紛れに歩きだす。
目指す小曽根町の・・・という言葉が出てきたときに、私はあれっと思った。それなら知ってる町の名だ。
独身時代最後のわが家は小曽根町にあった。ほんの2年足らず住んだだけだから、それほど土地に詳しいわけではない、それにしても西福寺は知らなかった。地図で探すとすぐ見つかった。駅から直線距離では1キロほどの地点にある。昔のわが家からなら、5、6百メートルほどか。しかし、昔はそのへんまで足を伸ばしたことがないし、若冲の名も知らなかった。
豊中市の記事によれば、昭和27年(1952年)に国の重要文化財指定を受けたそうだ。私がいたのは昭和30年~32年、その頃はろくに新聞も見なかったのかもしれない。何しろサラリーマンになりたての若造だ、文化財がどうのって歳でもなかったのか。安岡さんは残暑の候、夏の終わりに20分以上歩いて汗まみれでたどり着いたという。
地図を見て知ったが、今は阪急宝塚線に服部駅はない。2013年に服部天神駅に駅名が変わったそうだ。そんなこと言われても、こっちは天神さんは知らぬ、そんなんあったんか、調べると駅よりずっと南だ。これで漸くわかった。私の場合は、当時の服部駅から東に歩いて国道を横切り川を越えて、まだあたり一面田んぼの中の一劃にできた住宅地にあるわが家と駅の間の往復しか知らなかった。
あれから60年余り、このあたりから吹田にかけて田や畑がほとんど住宅に変わってしまったのだ。安岡さんが訪ねていったころ、1970年の大阪万博のため新幹線と名神高速道路と大阪空港に出入りする一般道路の拡張と、一斉に開通した。西福寺の東側は地下鉄が新大阪駅まで伸びてきた。 陸の孤島と呼ばれた千里ニュータウンからつづいた住宅地開発と交通路、当然住民が流れ込む。
西福寺の住職との会話で安岡さんは60年代から70年の大阪万博に至る間の経済成長の裏側を語っている。


「この辺も家がすっかり建て込んでしまいましてなァ。昔はまわり中、寺の田ンぼやったんですが・・・・・・」和尚さんは、情けない声でいった。「へぇ、じゃ、農地開放でお寺は田んぼを取り上げられたんですか」「ええ、すっかり……」「ほう、それじゃ、お百姓はもうけたんでしょうな、解放になった貰った土地をこんどは宅地に売って……」「そう、そやからこのへんの百姓は、みんな海外旅行にばっかりでかけよりますヮ」「なるほどね」しかし私には、お百姓を謗る資格はなさそうだった。振りかえると私自身だって、何か農地解放にひとしいような恩恵をうけ、身分不相応なぜいたくを許されているような気がしないでもないからだ。

話を聞いた作家は、タクシーもタバコ屋の婆さんの不親切もみな新開地のせいだろうと思いついて、憮然とした思いで寺の塀越しに見える新建材の屋根を眺めるところで文章を終わっている。 運悪く安岡さんは開発に浮かれた地区のすそまわに取り残された、さびれ気味の駅前に降り立ったのだった。
しかしこのエッセイのもう一つの中心は若冲の絵にあることは言うまでもない。
若冲の群鶏図の金襖は、正面の仏壇の両側に三枚ずつはまっていた。

「こうして見ると、またよそで見るのとはだいぶ感じが違いまっしゃろ」

この和尚さんのセリフを安岡さんは二度使っている。最初は汗だくで本堂に駆け込むようにして入って絵を見たとき。二度目は寺の建具の一部として静まり返ったかのような絵の印象に打たれたあと。
国立博物館で見たときとは、まるで別物のようだ。[…]博物館に陳列されていたときは、それは絵として眺められたが、ここでは何よりも建具の一部なのだ。博物館で見たとき、私はこの絵の強烈な色彩感覚に驚かされた。それは近頃流行のサイケデリックというのか、まったく二百年も前にどうしてこんなモダンなものが描けたのかと怪しまざるを得なかった。しかし、いまこの古い寺の本堂のなかで見ると、それはむしろ美しいにしろ、べつにサイケ調でもなければ、モダンなものでもなかった。寺の内部と調和して、あくまでも静かに、ひかえ目に、宗教的な雰囲気の中に溶けこんでいるのである。
大正14年に発見されたときの印象記を書いた「中央美術」記載の石崎光瑤の感動、昭和32年『美術手帖』の前衛画家杉全直の文章、両者を検討しながら自らの印象を反芻する安岡氏。「博物館と新開地と」というエッセイのテーマはは美術が置かれる環境論でもあるが、どうもそれだけではない。襖絵は襖絵でしかないのではなく、襖絵は襖の中でこそ生きることに感銘するのが鑑賞の本道に思える。

それはそうと、西福寺に若冲の絵があるのは、檀家の大阪の薬種商、吉野五運が若冲をラクダに乗せて連れてきたからとの言い伝えがあるそうだ。そうならば吉野五運という人物を調べてみたい。資料はないのだろうか。

筆者の私は万博公園に開館した美術館で東山魁夷画伯の唐招提寺障壁画展に感銘を受けた記憶がある。それは画面の大きさと、その大きなサイズに負けない雄大な構想に驚いたものであるが、いま襖絵のことを読むと、やはり唐招提寺まで行って鑑賞するべき作品だろうと思う。ちょっともう行けそうにないのが残念である。

ついでに余談になるけれども、博物館というからには、万博公園に開館した国立民族学博物館を忘れてはいけない。梅棹忠雄氏の構想と渋沢敬三氏の遺志によって実現したものであるが、世界各地の民族に関わる展示館であると同時に博物館をもった学術研究所であることに注目したい。最近の政府及び官僚ではその実現はなかったであろう。
読んだ本:『安岡章太郎随筆集 8』岩波書店 1991年 (2019/2)

2019年2月4日月曜日

讀書ノート 岩倉使節団の条約改正ーー宮地正人『幕末維新変革史』より

著者は通史を書こうと思った。史料をもとに幕末維新期の政治過程を筋を通して叙述してみたい、と考えたそうだ。あとからの解釈をできるだけ挿入せず、当時の日本人男女がどのように彼らの現代史をとらえ、理解し行動したのかを、当時の史料から再構成することを本書の目的とした、とあとがきにある。「すべての歴史は現代史である」という格言があるそうだ。いつの時代もその時代の人々にとっては現代史だ。百姓名主が領主の非行横暴に怒り、報復に一家皆殺しを決意して剣術を学んだ結果思いがけない生涯を送る話があったり、文字に縁のない漂流民による海外風説がどのようにして蒐集されたかとか、興味深い事実が紹介される。
筆者は岩倉使節団が目指した条約改正問題について、どのように書いてあるかに興味を持った。結論を言えば、この著者の記述によるだけでは納得のゆかない箇所がある。確実な史料が得られない結果だと筆者は理解しているが、通史であるからには細部にこだわる必要はないとも思う。全体は上下巻で千頁を超える大部の記述で圧倒される。それでもこの時期についての記述は終わっていないのだそうだ。いずれ別の形の作品が現れるのであろう。

廃藩置県断行によって中央統一政府の形をととのえた王政復古功績旧四藩連合政権は、できるだけ早く、自らの手で万国対峙の実を挙げ、政府の権威を国内に確立しなければならなかった。「廃藩置県への即時的反抗・反乱が勃発しないことを確認した政府は、岩倉右大臣(明治4(1871)年10月8日就任)を総責任者とし日本政府そのものを代表する形態の一大使節団を米欧に派遣し、国内での条約改正を回避、直接相手国首脳と条約改正予備交渉を行なって日本側の主張の正当性を認めさせ、他方で国内体制を整えることにより、可能な限り早期に条約改正を実現しようとした。その結果、政府首脳部の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らも随行するという中央政府中枢総出の対外使節団となり、太政大臣三条実美・参議西郷隆盛らを中心とする留守政府の面々は、条約改正を可能とさせる国内改革遂行に従事することとなる」。(下巻331-332頁)

このあとに続けて著者は、使節派遣に関する諮問の文書を引用しながら上記の方針に若干の解説をつけている。文書の出典は注記に、歴史学研究会編『日本史史料4 近代』岩波書店、1997年、64-66頁、とある。この書物の編者は宮地氏自身である。残念ながら手近に現物がない。幸い国会図書館のデジタルコレクションで該当の諮問文書が「岩倉公実記 下巻1」にあったのを参照できた。現物は漢語とカタカナの文章で、漢字を睨んでいれば、おぼろげに内容がわかる、といったものだが、宮地氏は本書では現代の漢字とひらがなの文語で部分的に引用している。

要約すれば、旧政権が締結した条約は使いものにならないという現状が述べられ、我が国が東洋の国の一種とみなされて、我が国の法制・権利・規則・税法など一切が通用しない。甚だしくは公使の喜怒によって談判ができないなど、対等であるべきはずのことが何もない不自由さである。こういう事情が王政復古の後も未だに改善されていないが、ようやく万国対峙・独立不羈の国家を創出するため条約改正を実現できる統一政府が成立した。
しかし、現行条約は来年の西暦1872年7月4日より条約改正協議ができることになっているが、それに対する準備ができていない。諸外国が要求して改正を迫って来れば対応できかねるから当方より申し出る形にしたい。万国公法に従って条約を改正するには、我が国の「國律民律貿易律刑法律税法」等のうち公法と相反するものの改正案をつくり、実際に施行していなければならない。それには三年の期間は見ておかなくてはならない。したがって、一方で全権使節を各国に派遣して和親の意を伝え、併せて条約改正の暫時延期を打診すると同時に条約改正の具体的内容を当方より持ちかけて商議するならば、必ず我論説を至当な事とし同意が得られるであろう。それとともに、列国公法に依って国内改革を行うために「欧亜諸州開化最盛の国体諸法律諸規則等」を実見し調査する(「 」内は原文中の用語ーー筆者)。

明治4年10月8日、使節団が任命され、同日付で岩倉は外務卿を罷め右大臣となる。同月14日、日本政府は岩倉大使が帰国するまで条約改正交渉を延期すると在日各国公使に通告、遣米欧使節団は11月12日、サンフランシスコに向け横浜を出港した。

「米国政府と交渉に入った岩倉は、日本の望む条約改正の骨子は次の通りだと説明する。
❶司法制度の確立に伴い領事裁判を廃止すること
❷外国通貨の日本国内流通を停止すること
❸局外中立規定を確立すること
❹関税決定権を日本側に回復すること
❺犯罪人を相互に引き渡す制度を確立すること
❻両国間の紛争を国際仲介制度により解決すること
❼平和時においては外国軍隊を日本国内に駐留させないこと

正に堂々たる全面的な条約改正要求である。米国政府は逆提案する。条約改正交渉を米日間でおこなうならば、改正交渉に関する日本政府からの全権委任状を提示せよ、と。予備交渉を本交渉に切りかえられるとあって、ただちに大久保と伊藤が委任状受領のため帰国、米国に戻る直前の1872年5月6日(明治5年3月29日)、伊藤は駐日英国代理行使アダムス(パークス公使は本国での日本使節との交渉のため帰国中)を訪問、『十分な権限を有していなかったので、委任状を取りに帰国した』と帰国理由を説明する。」(下巻335頁)

この部分の記述は、まるで答弁書を棒読みする政治家のようである。著者は細部を知っているはずだが書けなかったのだろうと推測する。このあと、アダムスとの問答で、委任状がいる理由は、何らかの成果がほしいからと答え、なぜ成果が今必要かと問えば、国務省と話した結果だと答える。
そこで、「アダムスは本國外務省宛公電で、こう結論づける。当地ではなく海外の地においてすべての条約を締結するため、使節に全権が賦与されるべきだというのが彼らの考えだ、と」。(注記:F/O 46/153.NO.82,7/5/1872、英国外務省宛公信)
「英国代理公使アダムスもドイツ公使フォン・アダムスもブラントも日本の思い上がりに激怒する。日本側の不遜な行為を中断させなければならない。両名は米国経由で帰国、6月26日(明治5年5月21日)にワシントンに到着、この日ブラントは岩倉に面会、こう忠告する。現行の普日条約に規定されている最恵国条款に従い、日米改正条約により米国が獲得するだろうすべてのものはドイツも獲得できる、と同時に、日本がかち得ることになる米国からの譲歩に関しては、その中のいかなる譲歩も日本に与えることに、おそらくドイツ政府は同意しないだろう、と。
 ブラントの話を本国外務省に伝えるアダムスは、自分の驚きをこう表現している。
 これが信じられるだろうか?使節たちは最恵国条款など聞いたことがないと言明し、岩倉は英日条約中にそれが存在していることを否定した、ということを。しかしそれは事実だ。(注記:F/O 46/154.Adams to Hammond 11/7/1872, confidential.)(ハモンドは外務次官ーー筆者)
 英独両使の公然たる介入により、岩倉使節団は米国との条約改正交渉を中止した。1872年9月17日(明治5年8月15日)付の公信で、帰国するアダムスの後を引き継いだ英国臨時駐日公使ワトソンは、日本国内の状況を本国外務大臣にこう伝えた。

 日本政府と一般の輿論は、使節団の米国長期滞留とそこで費やされた約40万ドルに見合った成果がないことに関し、彼らが感じている失望をなんら隠そうとしていない。」(下巻第43章 P336-337、注記:F/O 46/155, No.112. 17/9/1872)

 「アダムスが米国経由で帰国する出発直前の1872年5月16日、三条太政大臣が送別会に彼を呼び、昨日政府は、新条約を交渉するため条約締結諸国をヨーロッパの地に招集することが決定された、と告げた。」そのような決定がなされた理由は、使節団出発の頃には廃藩置県という大処置がどのような結果を生むのか定かでなく、国民の同意が得られるまで時間がかかると予想されたが、いまや平和裡に受け入れられている。条約改正を延期する必要はなくなったから、早いほうがいいとなったからだという。(注記:F/O 410/14, 20/5/1872, Adams to  Granville. 英本国グランヴィル外相宛の公信)(下巻348頁)

この記録は、「華族・士族層の反発」という小見出しで廃藩置県に対する世情を記述する節に挟み込まれているが、ワシントン滞在中の岩倉たちをさしおいて留守政府が決めた情報を知らせている。アダムスは早速本国に知らせ、自分もこの情報を知った上で岩倉たちと会談することになる。

ワシントンでの使節団の行動を記述した文章はここまでに紹介した以外にはない。
注記として書き出したF/Oに始まる記号番号は、英国国立図書館の外務省関係文書であることを示す。現在のところデジタル処理がまだできていないため、内容を読むためには閲覧室まで出向かなくてはならない。著者はそれを読んでいるのであろう。
ブラントはプロイセン王国の初代駐日領事として来日し、後、ドイツ帝国成立でドイツ公使となる。日普修好通商条約は1861年に締結され、1871年ドイツ帝国成立時にそのまま引き継がれた。

米国との交渉を中止したあとの状況を著者は次のように記述する。
「日米条約改正交渉を挫折させられた以後の岩倉使節団にとっては、彼らの欧州回覧は、逆にキリスト教弾圧を避難され、日本側の要望を納得させるどころではない形勢逆転の失意の旅行となった。彼らの回遊全体をよく見ていたのは、生誕期の日本ジャーナリズムよりも、在日欧米社会の方であった。1874年1月17日付の "The Japan weekly Mail" は次のように総括するのである」(下巻337頁)。
引用が長いので、適宜要点を拾って記すことにする。

「使節団の指導的メンバーたちは、彼らの最も切望していた課題」即ち「外国人に対する司法権問題」が、「そこに自分たちが現れることだけで瞬時に解決される」かのような「希望に満ちあふれて旅立った」。「自国の進歩が条約締結諸国(Treaty Powers)に対し公正な司法行政への保証を与えるとの考えにそそのかされたのだ。この、公正な司法行政の存在なしに、外国人と外国人の諸権利を外国の司法権から日本国の司法権に移すという提案は一瞬たりとも外国人によって聴き入れられないものである。彼らは相当浅薄なお雇い外国人たちに惑わされたのだ。」「また彼らは某国外務大臣に騙されたのだ。この人物は、彼と同じ官職にある人々が当該問題に関しとっている立場を愚かにも放棄してしまったのだ(その処置はあとになって彼の政府により完璧に否認されたのだが)。」「日本人のプライドを傷つけ、その虚栄心をさいなんできた文明諸国(the more civilized nations)に対する劣等性の刻印(the mark of inferiority)が除去されて、何の不思議があっただろうか。」しかし「訪問した各国の外務大臣たちは彼らを暖かく歓迎したとはいいながら、問題をただちに在日外交代表に委ねてしまった。これは使節団にとっては苦い下剤を飲まされたものとなった。」「各国在日外交代表団がどのような見解を[…]いだいているかを、あまりにもよく知っていたからである。」日本人は外国の膨大な法典を翻訳・解釈・自国への適合を研究する外国人・専門家を雇って十分な準備をした。しかし在日外交代表団の立場は確乎たるものだ。「日本人は、彼らと外国人との間において、一時的にせよ司法制度に対するヨーロッパ人の要求を満足させ、また中立公平な司法行政への微小なりとも保証を与えうる裁判所も法律も訴訟手続も、何一つ有していないのである。」(注記:FO 46/176,18/1/1872,Parkes' private letter Encl.)

第44章に著者は、条約改正が予想を遥かに超える至難の大事業であることが判明したと、岩倉公が帰国直後、明治6(1873)年9月13日に明治天皇に告白した記録を採り入れている( 下巻357頁)。内容はお詫びの弁明で具体的な事柄は書かれていない。ここでは省略して出典を記しておく。「東京大学史料編纂所所蔵「修史局雑綴」第28冊」。

次いで著者は使節団が条約改正交渉に失敗した要因を明かしてくれる史料を紹介する。
「欧米キリスト教諸国が日本に押しつけている治外法権と低率協定関税は、日本に対してだけのものでは全くなく、不平等条約体制という国際的法秩序そのものだ、という苦い真実を使節団は米欧回覧の中ではじめて理解した。
パリの公使館に顧問として勤めていた英人マーシャルは英国外相の求めに応じ、74年5月6日付で次のような覚書を提出している。
使節団がヨーロッパに来るまで、いかなる日本人も、日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった。使節団がヨーロッパに着いてのち、特にパリに滞在する間に、はじめて彼らはこの問題を徹底的に学ぶことができた。彼らはようやく理解できた、日本の諸条約は、ヨーロッパがトルコとのカピチュレーション以来、東方諸国家との取りきめに際し適用しつづけてきた諸規定・諸規範の単なる応用に過ぎないのだということを。彼らは発見した、日本は他のアジア諸国と同様、明瞭な劣等性の原則の上にのみ取り扱われていること、諸条約は国家的自由の最も重要な表象たる独立と法権という国家主権を部分的にであれ剥奪しているのだということを(注記:F/O 410/14,6/5/1874,Marshall to Derby)」。(下巻 358頁)
著者は「岩倉をはじめとする使節団のメンバーはこれ以降、現行条約以上の譲歩を締結諸国に絶対に認めないこと、条約改正実現には日本国家の国際的実力を強化する以外に途がないことを心に誓い、行動に具体化していく。」と述べてこの件を終わっている。

ところで、カピチュレーション(capitulation)という用語が登場するが、これについては上巻第4章に不平等条約世界体制の起源として説明されている。治外法権・領事裁判制度の起源となったオスマン帝国の制度。キリスト教徒を二等国民として帝国臣民のイスラム教徒と差別した支配体制。オスマン帝国側からの特恵的条約であって、いつでも帝国側から停止、廃止可能であった。帝国内で交易するキリスト教徒との紛争に備える裁判制度として機能していた。マーシャルの覚書での言及は条約上の治外法権に関することであるが、「日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった」という表現こそ使節団が最恵国条款の存在を知らなかったことを指している。このことも著者が第4章の東アジア外交をリードする英国の政策の中で説明している。
「イギリスが、この不平等条約世界体制を実現するために最も重視したのが条約締結諸国(ただしロシアは除外されている)との共同要求・共同行動という行動パターンであった。英語ではTreaty Powersという名称で頻繁に登場する。他の欧米列強を共同の要求と行動に巻き込み、欧米列強の外交力・軍事力を総結集することにより、自由貿易体制を貫徹深化させ、最恵国条款により、勝ちとる権利を均霑させ、しかもその中で自国が自動的に最大の受益者となるという論理がそこに貫かれていた」(上巻62頁)。
(「均霑(きんてん)」の字義は「等しくうるおう」であり、語義は「平等に利益を得る、または与える」ことをいうーー筆者)

読者として知りたいと思った疑問に、史料によってのみ記述する著者が答えてくれたのはこれで全部だと思う。しかし、まだもやもやした気分が残っている。岩倉への使節派遣諮問にみられるように、新政権は万国対峙・独立不羈を標榜して世界の中に位置する国家という日本を自覚している。したがって条約改正には世界を相手にしなくてはならず、そのためには「万国公法」に従わなくてはならない。だから「万国公法」を研究したうえで新政府の政策万般を策定しているつもりでいる。それなのに条約改正交渉は列国に相手にされない。鍵は「不平等条約体制」というシステムにあった。「万国公法」はアメリカ人ヘンリー・ホィートン(Henry Wheaton)が著した「The element of the international law」が清国でウイリアム・マーティン(漢字名「丁韙良」)によって漢訳された『万国公法』と、オランダのライデン大学のフィッセリング(Simon Vissering)の講義を留学生西周と津田真道が筆録したものを翻訳した『万国公法』の二種があり、日本では同時期に出回ってベストセラーだったらしい。それにもかかわらず、岩倉たちは自国の締結した条約に最恵国条款があることを知らなかった。ある書物に、ホィートンのころは 文明の國(civilized nations) とキリスト教国(Christian nations)は同じ意味に扱われていて、国際法はキリスト教国にしか妥当しなかったのが事実であった、と書かれてあった(丸山真男氏の発言、『翻訳と日本の近代』岩波新書、加藤周一氏共著、1998年)。このことと当時の日本人に最恵国条款についての知識がないこととがあるいは関係しているのかもしれない、などと考えている。いずれにしろ、宮地正人氏は史実にしたがって歴史を記述されたことには違いない。

ふと思いついて、萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』を読んでみた。新聞連載中から気になっていたこの著作、全14巻にもなってしまってからいよいよ手が出ず、今に至る。ようやくこの一冊を手にしてみると、読まずば死ねまいという気になった。この岩倉使節団の巻はいい勉強になった。
英国外交団内部で交換された情報記録のほかに木戸孝允日記ほか日本の外交文書など広い範囲の史料が駆使されていて、宮地氏の叙述とは別種の刺激を与えられる。

岩倉たちがワシントンで会談した米国側はフィッシュ国務長官であった。岩倉使節団が発遣されたことをうけてロンドンに帰国していたパークスは英国駐米公使サー・エドワード・ソーントンとの交信によってワシントンの情勢をつかむ。以下は「ソーントンよりグランヴィル外相への報告、1872年3月15日付、ワシントン発」にしたがって萩原氏が記している内容に沿って述べる。
ソーントンは3月14日、フィッシュに会って使節団の目的など尋ねた。既に二度日本側と会談していた。日本側は諸外国との条約を改正したい一般的な意向を持っており、その新条約の基礎とすべく、アメリカ政府と何らかの協定に到達したい意向を表明した。他の条約締結国も類似の基礎案に同意することを希望しているとも。日本側が提出した信任状には、交渉をおこなって調印する権限をあたえられていないこと、日本に帰る以前に交渉を開始する意向が記されていないことが確かなように思えたので、調印する権限を確認したところ、権限は持っていないが、議定書を作成し、そこに双方の見解を書き留めておくことはできるのではないかとのこと。これに対してフィッシュが、その議定書をやがて締結される条約の基礎ないし草案にするのなら、その文書に調印することが必要であるとのべると、必要な権限を取り付けるために、一行のうち2名が近く日本に帰るとこたえた。
つづいて日本側は条約改正に関して日本政府が希望する大筋のところを説明した。(筆者注:前述❶~❼参照)以下はフィッシュの返答である。
第一の領事裁判廃止については、しっかりした司法制度がじっさいに導入され、かつ十分に機能していることが判明した場合にはアメリカは廃止に異議を唱えないであろう。第二の外国貨幣の流通については、財務当局に打診することになろう。第三の中立問題は非常に難しく国際法の専門家の意見を徴することが必要。日本側の見解を文書にして提出されたい。第四項以下についてソーントンはフィッシュとの応答を記していない。
治外法権の撤廃と、関税自主権の獲得とを中心とする日本側の要求が、明確に提示され、日本大使の発言は、全体として、独立諸国家間における日本の地位を高め、上昇させたいという強い願望に貫かれていたという。フィッシュは、日本側が口頭で表明した見解を文書にまとめて提供するよう希望した。
つづいてフィッシュは、アメリカ政府の希望として、次の諸点を表明した。
すなわち、第一に、より多くの日本の港、できればすべての港が外国貿易のために開放されるべきこと。第二に、旅券を所持する条約締結国の国民は、商業上の目的で、日本全土を旅行することが許可されるべきこと。なお、同氏は、この旅券の発行に際して、それら諸国の公使は判断力と鑑識力を必要とするであろうと付け加えた。第三に、言論、出版、良心の自由の原則が承認され、この原則が日本において永久に確立されるべきこと。第四に、キリスト教の物的な象徴は尊重されるべきであり、キリスト教徒は日本政府によって迫害されないばかりでなく、私人による迫害をまぬがれるため、日本政府によって保護されるべきこと。第五に、日本が他の諸国にあたえる一切の利益と特権を、アメリカも同等に享受することを期待するものであること。
萩原氏は、この最後の項目は、いわゆる最恵国待遇の要求である、と付記している。(163-166頁)
ついでながら、日本側が画策していたヨーロッパの一国での合同会議案はフィッシュは拒否し、日本の改正要望の実現可能性についても否定的であった。
ブラントがワシントンに到着して岩倉に忠告する。日本が今般米国と即刻条約を結ぶようなことになれば、ドイツが最恵国条項を適用し、日本が米国に対して行う一切の譲歩を要求するが、同時にドイツは日本が米国から獲得するかもしれないいかなる譲歩も日本に与えないと説明した。宮地氏の叙述のとおりである。岩倉がそのような条項を知らぬと言ったに対してブラントは、日本とオーストリア・ハンガリーとの修好通商条約(明治2年9月14日(1869年10月18日)調印)の、第20条の写しを翌日届けたそうである。次にその条文を示す。
 「日本天皇陛下、他国の政府及人民に与え、或は爾後与えんとする総て別段の免許及び便宜は、墺地利及洪牙利政府並に其民族にも、此条約施行の日より免許あるべきを今爰(ここ)に確定せり。」(『条約改正関係・日本外交文書』第一巻)

萩原氏は木戸日記を参照している(170頁)。
「2月18日(陽暦3月26日)雨、終日内居、条約一条を集議せり。此度俄に大久保、伊藤帰朝して条約改正の勅許を乞わんとす。今此挙動反顧いたし候に、余等伊藤或は森(有礼)弁務使等の粗(ほぼ)外国事情に通ぜしに託し、怱卒其言に随い、天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪也。」(『木戸孝允日記』二、日本史籍協会版)
「木戸が後悔しているのは、年少の伊藤と森にひきずられて、不覚にも使節団の目的変更に同意したことであり、その結果すぐ明らかになったのは、日米双方の立場の相違の大きさであり、交渉を継続した場合『彼の欲するものは尽(ことごと)く与え、我欲するものは未(いまだ)一も得る能わず』という事態を招く恐れである。ここにおいて嘆息すべきものは、開国を思い、人民を顧みるよりも、また『功名の馳せるの弊なきにしもあらず』ともいっているが、ここにいう功名の弊は、伊藤と森についてばかりでなく、使節団と同船で帰国したアメリカの駐日公使デ・ロングと、使節団をワシントンで迎えた国務長官フィッシュについても、同じく言えたことかもしれない。フィッシュとデ・ロングの場合、「功名」を競う相手とは、当然イギリスであり、パークスであろう。」
ちなみに意見の齟齬をきたした彼らの年齢を記す。岩倉47歳、木戸39歳、大久保42歳、伊藤31歳、森26歳。

この萩原氏の著書によって、宮地氏の記述では腑に落ちなかった大久保と伊藤が取りに戻った委任状の役割が、議定書の草案に調印するためのものであったこと、そしてアメリカの逆提案の内容も読者は理解できた。予備交渉のはずが本交渉まがいになったかのような事態は、伊藤と森の英語遣いの二人が大使・副使たちをさしおいて会談を進めたようにもとれるが、ソーントンの報告に徴しても確かな事実は不明である。宮地氏が事の次第を記さなかったのは記録がないからであろう。
木戸は5月25日(陰暦)の記述に「森(有礼)大に旧条約の趣旨を誤り」と記しているが、森が最恵国条項についてブラントやアダムスが指摘するような危険を認めなかったという意味であろうと萩原氏は指摘している。

「7月22日、大使岩倉以下、副使の木戸、大久保、伊藤、山口は、三条太政大臣、参議、外務卿輔にあてて、滞米交渉中止にいたる事情について連名の最終報告を作成したが、そこでくりかえし強調されているのは、最恵国条項の問題である。」「アメリカやイギリスの反対により、その合同会議を海外でひらく見込みがない以上、『我使節一行帰朝の上、我国にて会同条約の挙を起(おこし)候方上策に可有之候』というのが、その結論であった。」「そして片務的最恵国条項の重みをかみしめる如く、つぎのように記している。」として、『条約改正関係・日本外交文書第一巻』よりアメリカからの最終報告書を引用している。
続く引用文は煩雑を避けて省略する。日英修好通商条約を例に取り、その23条(最恵国条項)を説明してある。日英修好通商条約第23条について、米国との条約を改正して新条約がなった場合、英国は旧条約のままで利点だけ獲得することになるとその効果を説明している。日英修好通商条約をふくめて、「安政の諸条約」が片務的であるゆえんは、この点にある。
萩原氏は次のように記してこのくだりを結ぶ。
条約改正交渉の前途に最恵国条項という難題が待ち構えているという認識こそ、使節団が痛切に思い知らされた教訓であった。
二日後の7月24日(陰暦6月19日)、別れの挨拶に来訪した岩倉にたいして、フィッシュもこの点に言及するのを忘れなかった。
「フィッシュ 今般条約改正の義は、素より帰国の御所望に付、此方にても之を引受、談判に取掛候処、其後貴政府の御議論も有之趣にて、遂に半途にして立消いたし候に至る上は、合衆国政府は依然旧条約を固持するの権理は有之義に候。」
「フィッシュ 若し欧州において新条約御取結の上は、合衆国は矢張旧条約を固持し、新条約にて他国へ御差許の箇条は之を占むるの権里有之候。」(216頁)

岩倉使節団がアメリカ側に申し入れた基本的な要求のうち、治外法権の撤廃が明治22年(1889)、関税自主権の獲得が明治44年(1911)と、それぞれ明治の大半をついやして漸く実現の日を迎える。

今回筆者が参照した書物にはあまり書かれていないが、米国代理公使であった森有礼が条約改正問題だけでなく、それ以前からの米国における個人的な行動・思想が大いに関係している。森がキリスト教信者であり、キリスト教解禁要求には立場が難しかったこと、『日本の教育』(英文)、「英語国語論」などの著者・論者であること、秩禄奉還を私有財産を侵す人権問題ととらえて公然と政府方針に反対していたこと、これらすべてを通じて米国政府内に森に好意をいだく者が多かったこと等々が遠因・近因としてあったと思う。ただこういう問題が明示の記録に出ていないので、研究論文の範囲まででしか公にならないのであろうと考える。森有礼は不幸にも暴漢のために横死する結果になったが、暴漢でなくとも彼の周囲には日本人という壁があったと思うし、その壁は今日でも日本人の間にあるのではないか。岩倉使節団の当時も現在も日本人の風景というのは変わっていないように思える。

読んだ本:宮地正人 『幕末維新変革史(上)(下)』岩波現代文庫 2018年
     萩原延壽 『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』朝日新                               聞社 2000年