2019年2月15日金曜日

「のらくろ」--小林秀雄と田河水泡

 小林秀雄と田河水泡

田河水泡と聞いて「のらくろ」を思い出すのはもうこの世に残り少なくなった年代だろう。 「のらくろ」の登場は私より2年早いが、昭和16年に禁止になったそうだから、そんなに長く親しんだわけでもない。それでもキャラクターはよく覚えている。
「のらくろ」の命名は「野良犬の黒」からだとは知っていても、そこに作者の人生が反映されているとは、おとなになっても知る由はなかった。安岡章太郎の随筆で田河は小林の義弟だと知った。そのことの出典が小林秀雄の『考えるヒント』であったので読んでみた。「漫画」という見出しに、人気が続いている「のらくろ」が当局によって禁止された事情が明かされている。満州国の建国理念である「五族協和」にそぐわないというのがその理由だった。 時勢に推されて「のらくろ」も満州に渡ったが、仲間以外のつきあいもしなければならず、
ロシア人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀となった。或る日、作者は情報局に呼び出されて、大眼玉を食った。[…]最友好国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。[…]何故、私が、こんな事を知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。(後略)
このあと小林は漫画の主人公と作者の自己との関係を論じている。この論評も短いけれども説得力がある。小林秀雄と言えば批評する対象も、説明する文章も小難しくて嫌な評論家と思っていたが、こんなにわかりやすく論じてくれると、やはり本物であると感じ入った。 ほんものといえば、その小林は田河の「のらくろ」はほんものだと言っていたそうだ。こちらは漫画の主人公についての論評であり、小林はそのことで作者を指しているのである。
……或る日、彼は私に、真面目な顔をして、こう述懐した。 「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ。」 私は一種の感動を受けて、目が覚める想いがした。彼は、自分の生い立ちについて、私に、くわしくは語った事もなし、こちらから聞いた事もなかったが、家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期を過ごした事は知っていた。言ってみれば、小犬のように捨てられて育った男だ。 「のらくろ」というのん気な漫画に、一種の哀愁が流れている事は、前から感じていたが、彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかった。まさに、そういう事であったであろう。そして、又、恐らく「のらくろ」に動かされ、「のらくろ」に親愛の情を抱いた子供達は、みなその事を直覚していただろう。恐らく、迂闊だったのは私だけである。 そこで、言えるが、例えば「フクちゃん」は横山隆一自身であり、「カッパ」は清水崑その人に違いない。まことに、はっきりした話だ。これは、芸術の上での、極めて高級な意味での自己の語り方であって、そういう観点から、「のらくろ」や「フクちゃん」や「河童」を眺めると、気持ちのいい程、徹底した芸術家の仕事ぶりが見えて来る。……漫画家は、自己をなし崩しに語るわけにはいかないのである。
戦後しばらく漫画家にとって空白の時代が続いた頃、小林は田河に「大丈夫だよ、ほんものはつぶれないよ、「のらくろ」はほんものだよ」と言ったことがあり、田河に大きな励ましになったという。

昭和9年に長谷川町子が田河に弟子入りするとき、クリスチャンの母親から日曜日には教会に行かせてくださいと懇請されたので、毎週潤子夫人が付き添って教会に通ううち、夫人は熱心なクリスチャンになった。昭和27年、田河も牧師との会話を重ねるうちクリスマスに入信した。夫人によれば、多くの人に助けられて書き続けられていることに、大きな力を感じていたようだとある。先の小林の言葉と合わせて考えれば、田河の心の持ち方が、作品に反映して読者を動かして大きな力になるという一種の循環作用が感じられる。かつての漫画の力にあらためて感心する。全国各地で「のらくろ会」が毎年催されていたという。


田河水泡=高見澤仲太郎(1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日) 
高見澤潤子(1904年(明治37年)6月3日 - 2004年(平成16年)5月12日) 
小林秀雄(1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日) 
長谷川町子(1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日) 

読んだ本:小林秀雄『考えるヒント 1』文藝春秋 電子書籍(2015)より[漫画」(昭和34年)。
     田河水泡・高見澤潤子『のらくろ一代記』講談社(1991)