2019年2月13日水曜日

ラクダでやって来た若冲さん!?

作家安岡章太郎はある日、伊藤若冲描くところの群鶏図を見に行く。『仙人掌群鶏図』のことらしい。「博物館と新開地と」のタイトルで随筆集8に収められている。初出誌は1972年『芸術新潮』10月号である。
(東京ウオーカー より拝借)
目的の絵は豊中市の西福寺にある。阪急の服部という駅で降りてタクシーを拾えばすぐ、と聞いて出かけるが、タクシーが拾えないどころか「そんなとこ、いつまでウロウロしとったかて、車に乗れんでえ」と通りがかりの運ちゃんからどなられる。駅前のタバコ屋で西福寺というお寺がありますかと聞くと、店番の婆さんは、「ありまっせ」と言ったきり横を向いてしまう。 なんと不親切な、と怒る主人公は腹たち紛れに歩きだす。
目指す小曽根町の・・・という言葉が出てきたときに、私はあれっと思った。それなら知ってる町の名だ。
独身時代最後のわが家は小曽根町にあった。ほんの2年足らず住んだだけだから、それほど土地に詳しいわけではない、それにしても西福寺は知らなかった。地図で探すとすぐ見つかった。駅から直線距離では1キロほどの地点にある。昔のわが家からなら、5、6百メートルほどか。しかし、昔はそのへんまで足を伸ばしたことがないし、若冲の名も知らなかった。
豊中市の記事によれば、昭和27年(1952年)に国の重要文化財指定を受けたそうだ。私がいたのは昭和30年~32年、その頃はろくに新聞も見なかったのかもしれない。何しろサラリーマンになりたての若造だ、文化財がどうのって歳でもなかったのか。安岡さんは残暑の候、夏の終わりに20分以上歩いて汗まみれでたどり着いたという。
地図を見て知ったが、今は阪急宝塚線に服部駅はない。2013年に服部天神駅に駅名が変わったそうだ。そんなこと言われても、こっちは天神さんは知らぬ、そんなんあったんか、調べると駅よりずっと南だ。これで漸くわかった。私の場合は、当時の服部駅から東に歩いて国道を横切り川を越えて、まだあたり一面田んぼの中の一劃にできた住宅地にあるわが家と駅の間の往復しか知らなかった。
あれから60年余り、このあたりから吹田にかけて田や畑がほとんど住宅に変わってしまったのだ。安岡さんが訪ねていったころ、1970年の大阪万博のため新幹線と名神高速道路と大阪空港に出入りする一般道路の拡張と、一斉に開通した。西福寺の東側は地下鉄が新大阪駅まで伸びてきた。 陸の孤島と呼ばれた千里ニュータウンからつづいた住宅地開発と交通路、当然住民が流れ込む。
西福寺の住職との会話で安岡さんは60年代から70年の大阪万博に至る間の経済成長の裏側を語っている。


「この辺も家がすっかり建て込んでしまいましてなァ。昔はまわり中、寺の田ンぼやったんですが・・・・・・」和尚さんは、情けない声でいった。「へぇ、じゃ、農地開放でお寺は田んぼを取り上げられたんですか」「ええ、すっかり……」「ほう、それじゃ、お百姓はもうけたんでしょうな、解放になった貰った土地をこんどは宅地に売って……」「そう、そやからこのへんの百姓は、みんな海外旅行にばっかりでかけよりますヮ」「なるほどね」しかし私には、お百姓を謗る資格はなさそうだった。振りかえると私自身だって、何か農地解放にひとしいような恩恵をうけ、身分不相応なぜいたくを許されているような気がしないでもないからだ。

話を聞いた作家は、タクシーもタバコ屋の婆さんの不親切もみな新開地のせいだろうと思いついて、憮然とした思いで寺の塀越しに見える新建材の屋根を眺めるところで文章を終わっている。 運悪く安岡さんは開発に浮かれた地区のすそまわに取り残された、さびれ気味の駅前に降り立ったのだった。
しかしこのエッセイのもう一つの中心は若冲の絵にあることは言うまでもない。
若冲の群鶏図の金襖は、正面の仏壇の両側に三枚ずつはまっていた。

「こうして見ると、またよそで見るのとはだいぶ感じが違いまっしゃろ」

この和尚さんのセリフを安岡さんは二度使っている。最初は汗だくで本堂に駆け込むようにして入って絵を見たとき。二度目は寺の建具の一部として静まり返ったかのような絵の印象に打たれたあと。
国立博物館で見たときとは、まるで別物のようだ。[…]博物館に陳列されていたときは、それは絵として眺められたが、ここでは何よりも建具の一部なのだ。博物館で見たとき、私はこの絵の強烈な色彩感覚に驚かされた。それは近頃流行のサイケデリックというのか、まったく二百年も前にどうしてこんなモダンなものが描けたのかと怪しまざるを得なかった。しかし、いまこの古い寺の本堂のなかで見ると、それはむしろ美しいにしろ、べつにサイケ調でもなければ、モダンなものでもなかった。寺の内部と調和して、あくまでも静かに、ひかえ目に、宗教的な雰囲気の中に溶けこんでいるのである。
大正14年に発見されたときの印象記を書いた「中央美術」記載の石崎光瑤の感動、昭和32年『美術手帖』の前衛画家杉全直の文章、両者を検討しながら自らの印象を反芻する安岡氏。「博物館と新開地と」というエッセイのテーマはは美術が置かれる環境論でもあるが、どうもそれだけではない。襖絵は襖絵でしかないのではなく、襖絵は襖の中でこそ生きることに感銘するのが鑑賞の本道に思える。

それはそうと、西福寺に若冲の絵があるのは、檀家の大阪の薬種商、吉野五運が若冲をラクダに乗せて連れてきたからとの言い伝えがあるそうだ。そうならば吉野五運という人物を調べてみたい。資料はないのだろうか。

筆者の私は万博公園に開館した美術館で東山魁夷画伯の唐招提寺障壁画展に感銘を受けた記憶がある。それは画面の大きさと、その大きなサイズに負けない雄大な構想に驚いたものであるが、いま襖絵のことを読むと、やはり唐招提寺まで行って鑑賞するべき作品だろうと思う。ちょっともう行けそうにないのが残念である。

ついでに余談になるけれども、博物館というからには、万博公園に開館した国立民族学博物館を忘れてはいけない。梅棹忠雄氏の構想と渋沢敬三氏の遺志によって実現したものであるが、世界各地の民族に関わる展示館であると同時に博物館をもった学術研究所であることに注目したい。最近の政府及び官僚ではその実現はなかったであろう。
読んだ本:『安岡章太郎随筆集 8』岩波書店 1991年 (2019/2)